八幡山
八幡山
日牟禮八幡宮は長命寺から南東方向にバイクで約15分走った所にあります。
正暦2年(991)に標高271.9mの八幡山の山上に創建され、
寛弘2年(1005)には遥拝の社として麓に建てられたのが現在の日牟禮八幡宮です。
豊臣秀次像
八幡公園に建立されている豊臣秀次像
天正13年(1585)、豊臣秀次が山上に八幡城を築城すると、
天正18年(1590)に山上の社は、麓の日牟禮八幡宮に合祀されることになりました。
八幡宮のすぐ近くには八幡山ロープウェーの乗り場がありますが、
八幡城は築城されてから秀次の死に伴い10年後に廃城となり、
現在は石垣を残すのみとなりました。

豊臣秀次は、天正18年(1590)に尾張国清洲城へ移封された後、
文禄4年(1595)に謀反の疑いで切腹を命じられ、28歳で生涯を閉じました。
本丸跡には秀次の母で豊臣秀吉の姉である日秀尼(にっしゅうに)が
開基した瑞龍寺(ずいりゅうじ)が、昭和36年(1961)に京都、今出川堀川から移転しています。
八幡掘
八幡城が築城された際に、八幡堀も開削されました。
琵琶湖から5kmに及ぶ掘割の全体は「八幡浦」と称され、大津・堅田と並んで
琵琶湖の三大港の一つとして数えられました。
この水運を利用した交易は大いに栄え、堀沿いには白壁の土蔵などが建ち並び、
八幡城が廃城となってからも商家町として賑わいました。
「八幡商人」と呼ばれ、近江商人を代表するような存在となりました。
八幡宮鳥居
堀には橋が架かり、橋のたもとには日牟禮八幡宮の鳥居が建っています。
白雲館
また、鳥居から車道を挟んだ向かい側には明治10年(1877)に
建築された「白雲館」があります。
当初は学校として使用され、その後は役場や信用金庫の建物となり、
平成6年(1994)に建設当初の姿に復元されました。
現在は観光案内所などとして使用されています。
八幡掘+船
鳥居をくぐり、橋を渡っていると水郷巡りの船が通り過ぎて行きました。
エイリアンのような木-1
橋を渡った左側のイチョウの木はエイリアンを思わせます。
落雷で裂けたのでしょうか?
黒く焦げたイチョウの大樹の中に、何本もの細い木が寄生しているように見えます。
神門
神門には随身像が安置されていますが、ガラスと金網に阻まれ画像に収めるのが困難です。
神門+鳩
門には神使いとされている鳩が羽を休めていました。
狛犬-右
狛犬-左
門の裏側には狛犬が安置されています。
手水舎
門を入った左側に手水舎があり、背後に絵馬殿があります。
子供左義長
子供左義長のダシでしょうか?
毎年3月14、15日に近い土・日に行われる左義長祭は、豊臣秀次が八幡城を築城し、
麓を城下町として整備したことにより、日牟禮八幡宮の祭礼となったと伝わります。
左義長は、本来は正月の行事で、織田信長が安土城下で
盛大に行っていたことが記録に残されています。
豊臣秀次が城下を開くと、安土の人々も移住してきましたが、毎年4月14日前の
日曜日に行われる八幡祭の荘厳さに対抗するように3月に左義長祭が
行われるようになったと伝わります。
左義長祭と八幡祭は平成4年(1992)に国の無形民俗文化財に選定されました。
能舞台
門を入った右側には能舞台があります。
明治32年(1899)の能舞台改築の際、日牟禮八幡宮の能楽「日觸詣(ひむれもうで)」が
完成し、この舞台で初演されました。
神馬
境内には神馬が奉納されています。
拝殿
門の正面には拝殿があります。
社伝によれば、第13代・成務天皇(せいむてんのう/在位:131~190年)が、
志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや=現在の滋賀県大津市穴太)で即位した際に、
武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じ、現在地に地主神である
大嶋大神を祀られたのが、始まりとされています。
応神天皇6年(275)、第15代・応神天皇(在位:270~312年)が近江に行幸した際、
奥津島神社を参詣し、その神社の付近に御座所を設けたと伝わります。
奥津島神社と大嶋神社は、延文6年(1361)以前に現在の近江八幡市北津田町に遷座され、
「大嶋神社」と「奥津嶋神社」の二社が並び建っています。
その行幸の帰途、天皇は宇治の木幡村で日触使主(ひふれのおみ)の
娘・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)と出会い、后としました。
二人の間に生まれたのが菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)で、百済から来朝した
阿直岐(あちき)と王仁(わに)を師に典籍を学び、父・応神天皇から寵愛されました。
菟道雅郎子は異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=仁徳天皇)に
皇位を譲るべく自殺したとされています。

御座所跡には、その後、日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて
「日群之社八幡宮」と称し、持統天皇5年(691)に藤原不比等が参拝し、
詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められたと伝わります。
しかし、八幡宮の総本社である宇佐八幡宮が創建されたのは神亀2年(725)で、
それ以前に八幡宮と称されたかは疑問が残ります。
宇佐八幡宮が創建された後、日触使主を祖とする王仁氏(和珥氏)や
櫟井氏(いちいうじ)がこの地に定住したことで、所縁のある応神天皇を
八幡神として祀ったとのではないかと想像されます。
鳩の像
拝殿の片隅には向かい合う二羽の鳩の像が金色に輝いています。
本殿
拝殿横の石段を上った所に本殿があります。
正暦2年(991)、第66代・一條天皇の勅願により、法華峰(八幡山)に社を建て、
宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮が創建されました。
寛弘2年(1005)には遥拝の社を「下の社」として麓に建立され、
これが現在の日牟禮八幡宮と推定されています。
天正13年(1585)、四国を平定したことで豊臣秀次は、近江国の蒲生・甲賀・野洲・
坂田・浅井の5郡を領地とし、八幡山城を築いて居城としました。
日牟禮八幡宮の上の社は下の社へ合祀され、
山頂の尾根には三層の天守閣が築かれました。
上の社は日杉山に建設される予定でしたが、豊臣秀次が切腹となって
八幡城も廃城となり、上の社の計画は立ち消えとなりました。

日牟禮八幡宮の祭神・八幡大神とは、誉田別命(ほんだわけのみこと) 、
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、
比咩大神(ひめおおかみ)の三柱を総称したものです。
誉田別命は第15代・応神天皇で、息長帯姫命(神功皇后)は応神天皇の母親です。
比咩大神は、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、
多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神を指し、
神功皇后は三韓征伐の際、宗像三女神に航海の安全を祈願したと伝わります。
天満宮-鳥居
本殿の左側には、「天満宮」の扁額が掲げられた鳥居が建ち、中央に天満宮、
右に宮比社、左に常磐社が祀られています。
天満宮
天満宮は菅原道真を祭神とし、元は宮内町で祀られていたものが遷座されました。
社前には白と黒の臥牛像が奉納されています。
宮比社
宮比社には天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られ、
古くから百太夫社(ももだゆうしゃ)が合祀されています。
天宇受売命は、天照大御神の岩戸隠れ際、胸をあらわにして
妖艶な舞いを踊ったとされています。
百太夫社は西宮神社にも祀られ、人形遣い(傀儡師=くぐつし)達に信仰されていました。
その人形遣い達は後に淡路島へ移り、人形浄瑠璃を生み出しました。
宮比社は芸能の神かと思われますが、百太夫社には疱瘡(天然痘)に霊験のある神とされ、
庶民信仰では子供の病気予防のため、御神体の顔に塗られたおしろいを
子供の額に付けて、健康に育つようにとする習わしがありました。
常磐社
常磐社は、天照大御神、豊受大神、熱田大神、津嶋大神が祀られています。
天保13年(1842)八幡が尾張藩領になったのを機に、嘉永元年(1848)に
尾張地方に関係のある諸神を祀り城山に創建されました。
明治2年(1872)に繁元稲荷と共に現在地に遷座されました。
三社殿
北側には愛宕神社、子安神社、秋葉神社が合祀された社殿があります。
祈祷所-1
祈祷所-2
本殿の右側に祈祷所があり、本殿と渡り廊下で結ばれています。
大島神社
祈祷所の右側に大島神社があり、大国主命と
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=仁徳天皇)が祀られています。
「八幡宮遷座以前の地主神と伝え、徳川時代までは大嶋大明神または
両神と称した」と記されていますが、平安時代の延喜式神名帳に
記載されている大嶋神社は、近江八幡市北津田町の大嶋奥津嶋神社が比定されています。
神輿庫
大島神社の右側に神輿庫があります。
繁元稲荷神社
神輿庫の右側に繁元稲荷神社があり、宇加之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。
江戸時代の享保2年(1717)に稲荷山に勧請され、天保13年(1842)に当地が
尾張藩領になったとき山祇神(やまづみのかみ=山の神)が合祀されました。
以来、代官所の鎮守として祀られていましたが、明治22年(1889)に現在地に
遷座され、大正2年(1913)に幾つかの稲荷社が合祀されました。
八坂神社
繁元稲荷神社の右側に八坂神社があり、建速須佐雄命(たけはやすさのおのみこと)と
少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。
明治の神仏分離令以前は「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」とも称されていましたが、
以後は同体とされる建速須佐雄命へ祭神が変更されました。
大正5年(1916)に粟島神社が合祀されています。
恵比須神社
八坂神社の右側に恵比須神社があり、事代主命(ことしろぬしのみこと)と
金山彦命(かなやまひこのみこと)が祀られています。
西宮神社から分霊し、もと新町に鎮座してましたが、現在地に遷座されました。
大正3年(1914)に針の社を合祀されました。
岩戸神社
恵比須神社の右側に岩戸神社があり、 憧賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかき・ いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)が祀られています。
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命は伊勢国の五十鈴宮に坐す神とあり、
「往年、近江の人は毎年伊勢神宮に参詣していたが、
それができない年の代参の社」として祀られていたようです。

次回は百済寺から桑実寺(くわのみでら)を巡ります。

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