総持寺は県道509号線に面して南向きに大門(仁王門)が建ち、
その横に駐車場があります。
現在の大門は寛永12年(1635)に再建された切妻、こけら葺、三間一戸の八脚門で、
滋賀県の文化財に指定されています。
仁王像は京仏師・高野左京作と伝わります。
参道を進むと中門があります。
総持寺は医王山・楞厳院(りょうごんいん)と号する真言宗・豊山派(ぶざんは)の寺院で、
西国四十九薬師霊場の第31番札所となっています。
中門をくぐった左側に大日堂があります。
堂内には左から地蔵菩薩、地蔵菩薩の背後に不動明王、千手観音、大日如来、
薬師如来、弘法大師の石像が安置されています。
大日堂の向かいには鐘楼があります。
門の正面に客殿があります。
画像はありませんが、客殿の北側には小堀遠州が作庭したと伝わる池泉回遊式庭園があり、
滋賀県の名称に指定されいますが、拝観には予約が必要です。
また、総持寺の西隣に小堀遠州の生誕地があります。
客殿の左側に庫裡があり、納経所にもなっています。
客殿の前に修行大師像が祀られています。
修行大師像の右側に松梅木(しょうばいぎ)が植栽されています。
梅を宿として、松が生え、「商売気」として商売繁盛に結びつくのかもしれません。
松梅木の右側に本堂があります。
総持寺は天平13年(741)に第45代・聖武天皇が仏教による国家鎮護のため各地に
国分寺を創建しましたが、その際試し寺として勅命により
行基が開基したのが始まりとされています。
その後、衰退しましたが永享2年(1430)に実済によって中興されました。
第102代・後花園天皇の勅願寺となって惣持院の寺号を賜わり、
室町幕府6代将軍・足利義教から寺領600石を安堵され、七堂伽藍を建立しました。
以後、地元の京極家や浅井家の加護を受け、寺は大いに栄えました。
しかし、元亀元年(1570)の姉川の戦いで織田信長の兵火を受け、堂宇は悉く焼失しました。
その後、長浜城主となった羽柴秀吉から寺領120石の寄進によって復興され、
江戸時代になると彦根藩主の伊井家から庇護を受けるようになりました。
彦根藩の第4代藩主および第7代藩主の井伊直興(いい なおおき)は、須弥壇と厨子を寄進し、
菅山寺から薬師如来像を勧請し本尊としました。
この薬師如来は、天正11年(1583)に賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで負傷した
永沢四朗衛門が仏の加護に感謝して菅山寺に奉納したもので、頭の部分は平安時代に、
体の部分は江戸時代に修復されています。
また、堂内に安置されている平安時代後期で像高100.1cmの聖観音立像は、
国の重要文化財に指定されています。
本堂の参拝は予約と500円を納める必要があります。
本堂の向かい側には護摩堂があります。
長浜八幡宮に続く
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