一の鳥居
松尾大社から桂大橋を渡り、四条通りを東へ進み、「梅宮大社前」の信号を
左折した先に梅宮大社があります。

四条通りから左折して北へ進んだ参道には一の鳥居が建っています。
梅宮大社の旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社です。
二の鳥居
更に参道を進むと二の鳥居が建ち、右側の手前に駐車場があります。
楼門
楼門(随身門)は文政13年(1830)の再建とされ、京都府登録文化財に登録されています。
梅宮日本第一の碑
楼門前には「梅宮日本第一酒造之祖神 安産守護神」と刻まれた石標が建っています。
梅宮大社の祭神は酒解神(さかとけのかみ)、大若子神(おおわくこのかみ)、
小若子神(こわくこのかみ)、酒解子神(さかとけこのかみ)で、
酒解神の御子・酒解子神が、大若子神との一夜の契りで小若子神が生まれたことから
歓喜し、狭名田(せなだ)の稲をとって天甜酒(あめのうまざけ)を造って飲んだという
神話から、古くから安産と酒造の神として信仰されてきました。
随身像-左
随身像-右
随身門には随身像が安置されています。
竜吐水
門の内側には「竜吐水(りゅうどすい)」と呼ばれる消火道具が置かれています。
竜が水を吐く様に見えたことから名付けられ、江戸時代から明治時代にかけて
用いられましたが、実際の消火活動ではあまり役に立たなかったようです。
猿田彦命
門をくぐった右側に天宇受賣命(あめのうづめのみこと)と猿田彦命が祀られていますが、
社殿は無く石で祀られ、「磐座」と称されています。
かっては門外で祀られていましたが、昭和59年(1984)に
道路整備のため現在地に遷されました。
ゴヨウマツ
磐座の斜め前の「ゴヨウマツ」は区民の誇りの木に指定されています。
神庫
磐座の左側に神庫があります。
拝殿
拝殿
境内の主要社殿は、元禄11年(1698)の火災で焼失したため、江戸幕府5代将軍・綱吉の
命により亀岡城主が奉行となり、元禄13年(1700)に再建されました。
その後、台風で大破したため、拝殿は文政11年(1828)に再建され、
京都府登録文化財に登録されています。
本殿と拝所
本殿(背後の屋根)と拝所
現在の本殿は文政5年(1822)に再建され、京都府登録文化財に登録されています。
梅宮大社は、社伝によると奈良時代に、県犬養三千代(あがたの いぬかい の みちよ=
橘美千代:665?~733)により、山城国相楽郡井手庄(現・京都府綴喜郡井手町付近)に
創建されたと伝わります。
天平宝字年間(757~765)に三千代の子・光明皇后と牟漏女王(むろ の おおきみ)
により奈良に遷されました。

光明皇后は第45代・聖武天皇の皇后で、仏教に篤く帰依し、
東大寺、国分寺の設立を天皇に進言したとされています。
また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である
「施薬院」を設置して慈善を行いました。
天皇の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、
その宝物を収めるために正倉院が創設されました。

牟漏女王は光明皇后の異父姉で、藤原不比等の次男・房前(ふささき)に嫁ぎましたが、
天平9年(737)に房前が亡くなり、その後は兄の橘諸兄(たちばな の もろえ)が
朝廷の頂点にあったことから宮廷に出仕したと推定されています。
興福寺のかつての本尊であった不空羂索観音像は、天平17年(745)に
房前の追善のために子の真楯(またて)らと造立したものです。

梅宮大社はその後、木津川上流の桛山(かせやま)を経て、平安時代始めに
檀林皇后(橘嘉智子=たちばな の かちこ:786~850)によって
現在地に遷されたとされています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では山城国葛野郡に「梅宮坐神四社
並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で
幣帛に預かった旨が記載されています。
また、二十二社の一社に列せられ、治承4年(1180)には正一位の神階が授けられました。
平安時代には4月と11月の酉日に年2回の梅宮祭が勅祭として行われ、
平安時代末期には橘氏の衰退に伴い社勢も衰えましたが、
中世も藤原氏により祭祀は続けられました。
しかし、文明6年(1474)には戦乱に巻き込まれて社殿を焼失しました。
その後の変遷は不明ですが、元禄13年(1700)に現在の本殿が再建されました。

明治4年(1871)に「梅宮神社」として近代社格制度において官幣中社に列し、
戦後の昭和26年(1951)に「梅宮大社」と改称されました。

本殿には、酒解神(さかとけのかみ)・大若子神(おおわくこのかみ)・
小若子神(こわくこのかみ)・酒解子神(さかとけこのかみ)の
四柱が祭神として祀られています。
天王山に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)がありますが、
梅宮大社や橘氏との関係は明らかではありません。
梅宮大社は、酒解神を大山祇神(おおやまつみのかみ)、
酒解子神を木花咲耶姫(このはなのさくやびめ)、
大若子神を瓊々杵尊(ににぎのみこと)、
小若子神を彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)に比定しています。

葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定し、孫の瓊々杵尊を葦原中国の
主にしようと考えた天照大御神は、瓊々杵尊を地上に降ろしました。(天孫降臨
日向国の高千穗峯に天降った瓊々杵尊は、大山祇神の娘・木花咲耶姫と
出逢い一夜を共にしました。
木花咲耶姫は懐妊し、火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、
彦火々出見尊を出産したとされています。

また、相殿には第52代・嵯峨天皇、檀林皇后、檀林皇后の父・
橘清友(たちばな の きよとも)公、嵯峨天皇の皇子で第54代・仁明天皇が祀られています。
護王社
本殿の左側に護王社があります。
社殿は元禄13年(1700)の建立で、京都府登録文化財です。
護王社には橘氏公(たちばな の うじきみ)公と
橘逸勢(たちばな の はやなり)公が祀られています。
橘氏公(783~848)は檀林皇后の弟で、その威光により要職を歴任しました。
橘逸勢(782?~842)は最澄と空海らと共に唐に渡りましたが、
中国語が苦手なため語学の負担の少ない琴と書を学びました。
大同元年(806)に帰国するとそれらの第一人者となり、特に書に秀で
空海・嵯峨天皇と共に三筆と称されました。
しかし、承和9年(842)に嵯峨上皇が崩御され、その2日後に
皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)の東国への移送を画策し、謀反を企てている
との疑いで捕縛されました。(承和の変
逸勢は伊豆国への流罪が下され、護送の途中に病死しました。
死語、赦免されますが、無実の罪で死亡したことにより怨霊になったとして
御霊会で祀られるようになりました。
影向石
護王社の左側の「三石(みついし)」は、紀州・熊野から飛んできた三羽の烏が
石になったと伝わり、「影向石(ようごうせき)」とも呼ばれ、
熊野三山が祀られています。
末社社殿
更に西側には境外末社8社を合祀した末社社殿が、平成19年(2007)に建立されました。
手前から天満宮・春日社・厳島社・住吉社・薬師社・愛宕社・天皇社・幸神社
またげ石
本殿の右側(東側)には「またげ石」と称される2個の丸石が祀られています。
檀林皇后がこの石をまたいだところ、懐妊したと伝わり、
以来血脈相続の石として信仰されています。
夫婦で子授けの祈祷を受けると案内されるそうです。
若宮社
更に東側には元禄13年(1700)に建立された若宮社があり、社殿は京都府登録文化財です。
若宮社には橘諸兄(たちばな の もろえ)公が祀られています。
橘諸兄(684~757)は、第30代・敏達天皇の後裔で葛城王と称していましたが、
臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となりました。
和銅3年(710)に無位から従五位下に直叙され、神亀元年(724)に
第45代・聖武天皇が即位すると従四位下に昇進しました。
天平3年(731)に参議に任ぜられ公卿に列し、天平8年(736)に母・橘三千代の
氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗りました。
天平9年(737)に天然痘が流行して藤原四兄弟などが次々と死去し、
橘諸兄は次期大臣の資格を有する大納言に任命されました。
翌天平10年(738)には正三位・右大臣に任ぜられ、太政官の中心的存在となりました。
天平12年(740)の藤原広嗣の乱の後、橘諸兄の本拠地に近い恭仁宮に遷都され、
天平感宝元年(749)には日本史上でも6人しか叙されてたことの無い正一位に昇り詰めました。
諸兄は天平勝宝9年(757)に74歳で亡くなり、同年、
子息の奈良麻呂も橘奈良麻呂の乱を起こし獄死しました。
神饌所
境内の東側に明治38年(1905)に建立された神饌所があります。
稲荷社-1
稲荷社-2
神饌所の北側の稲荷社は昭和58年(1983)に境外から遷されました。
見切石
神饌所前にあるお百度参りの見切石
神苑への門
神饌所の南側に神苑への門があります。
神苑
神苑の拝観は有料(600円)で、東神苑・西神苑・北神苑から成り、
東神苑の咲耶池(さくやいけ)の島の中には茶室「池中亭」があります。
この茶室は「芦のまろ屋」とも呼ばれ、平安時代の梅津の里の風景を歌った
『ゆうされば かどたのいなば おとずれて あしのまろやに 秋風ぞふく 
大納言・源 経信』に由来しています。
神苑の作庭時期は不明ですが、江戸時代には現在の姿であったとされ、
池中亭は嘉永4年(1851)に建立されています。
東神苑の咲耶池の周りには、かきつばた、花菖蒲、霧島つつじが相ついで咲き、
西神苑は梅林で、ラッパ水仙が道路に沿って咲きます。
梅は約35種類で、神苑内には約550本が植えられています。
江戸時代の中頃に本居宣長(もとおりのりなが)が梅宮に献木の梅に添えて
『よそ目にも その神垣とみゆるまで うえばや梅を千本八千本』と詠みました。 
北神苑の勾玉池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸つつじが咲き、日陰にはあじさいが咲きます。
また、神苑全体に亘って約50種類の椿が植えられています。
但し、拝観料がちょっと高額に感じられたので拝観は行っていません。
西梅津神明社-門
随身門を出ると、西側に西梅津神明社の門があります。
西梅津神明社-2
西梅津神明社は、旧西梅津村の神明社を平成24年(2012)に現在地に遷されました。
西梅津神明社-3
西梅津神明社には天照大御神(内宮)と豊受大神(外宮)が祀られています。

再び桂大橋を渡って府道29号線まで戻り、府道を北上して、蔵泉庵へ向かいます。
続く

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