社号標
天龍寺総門から府道29号線を北へ進み、次の丁字路を左折して道なりに進んだ
竹林の中に野宮神社があります。
野宮とは天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に
身を清める場所で、主に嵯峨野の地が選ばれ造営されましたが、
天皇一代ごとに場所を変え、造り替えられました。
第52代・嵯峨天皇の即位に伴い、大同4年(809)に仁子内親王(じんしないしんのう)
が斎宮に卜定(ぼくじょう=占いにより定めること)されてからは、
現在地に野宮が造営されるようになりました。
しかし、第96代・後醍醐天皇の御代から南北朝の動乱が発生し、
祥子内親王(しょうし/さちこないしんのう)を最後に廃絶し、
天照大御神を祀る神社として残されました。
野宮神社には黒木鳥居が建ち、周囲は小柴垣で囲われています。
『源氏物語』第10帖「賢木(さかき)」に記されている情景が再現されています。
黒木鳥居は原始的な日本最古の形式で、クヌギが使われ、
樹皮がそのまま残されています。
本殿
中央の本殿には天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)が祀られています。
野宮神社は、度重なる戦乱で衰微しますが、第105代・後奈良天皇、
更に第114代・中御門天皇らの綸旨により再興され、
現在でも皇室からの厚い崇敬を受けています。

本殿の左側に白峰弁財天社があります。
近年まで松尾大神が祀られていましたが、安永9年(1772)の都名所図会を
もとに弁財天が祭祀されるようになりました。
財運・芸能の神とされています。

右側には愛宕大神が祀られ、火伏・勝運の神として信仰を集めています。
白福稲荷-鳥居
本殿前の右側に鳥居が建っています。
竹の神輿
鳥居をくぐった左側にあるのは竹製の神輿でしょうか?
白福稲荷-1
奥へ進むと白福稲荷社があります。
白福稲荷
子宝・安産及び商売繁盛の御利益があるそうです。
大山弁財天
大山弁財天社は財運開運や交通・旅行の安全が祈願されています。
不明な祠
大山弁財天社の右側に二社並んでいますが、詳細は不明です。
左の祠の傘は、単に雨漏りを防ぐものか?...
他に何か深い意味があるのか?...
少し気になります。
じゅうたん苔
参道右側の「じゅうたん苔」には斎宮旧跡の石碑が建っています。
斎宮とは天皇が新たに即位された度に、天照大御神の御杖代(みつえしろ)
として伊勢神宮に遣わされた未婚の内親王・女王で、
起源は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)とされています。
第10代・崇神天皇6年条(BC92年)によれば、国内情勢が不安になったのは、
宮中に天照大御神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)が
祀られていたのが原因とされました。
天照大御神は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託され、
倭の笠縫邑(かさぬいのむら)で祀られるようになりましたが、
豊鍬入姫命を斎王の始まりとし、伊勢神宮の斎王は
特に「斎宮(さいぐう)」と呼ばれています。
その後、第40代・天武天皇は673年に即位すると斎王制度を確立させ、
初代斎王として大来皇女(おおくのひめみこ)が伊勢に遣わされました。
卜定された斎宮は、宮中の初斎院で1年間、野宮に入って1年間
潔斎(けっさい)された後に斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)に向かい、
伊勢神宮での神事に臨みました。
その時の行列は「斎王群行」と呼ばれ、それを再現した「斎宮行列」が
平成10年(1998)から毎年10月に行われ、有料で参加することもできます。
大黒天
境内へ戻り、白峰弁財天社の前方へと進むと、大黒天が祀られています。
開運・縁結び・学業向上の神として信仰され、多くの絵馬が奉納されています。
左側の「亀石」は「祈りを込めて撫でると、願い事が叶う」神石とされています。
左に置かれている桶には水が張られ、願い事を書いた紙を水に浮かべ、
文字が消え沈むと祈願が成就するとされ、「御禊清浄御祈願」と称されています。
井戸
井戸は、この井戸に鎮まったとされる龍神が祀られ、
健康・長寿にご利益があるとされています。
奉納木
恋愛成就の奉納木
文芸苑
野宮神社の向かい(東側)に小倉百人一首文芸苑があります。
小倉百人一首は、公家・藤原定家が選んだ秀歌撰で、親交があった
宇都宮頼綱が出家して小倉山荘に隠棲した際、
襖の装飾に依頼されて作成した色紙が原型とされています。
藤原定家は『古今和歌集』から『続後撰和歌集(しょくごせんわかしゅう)』に至る
十種の歌集から撰歌され、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、
100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためました。
文芸苑には『続後撰和歌集』から撰ばれた七首の歌が紹介されています。
天智天皇歌碑
天智天皇
「秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま=茅葺)をあらみ 衣手は
露にぬれつつ」
(刈り取られた稲の見張り小屋で、夜を明かしたのですが、
茅葺の編み目が粗く着物が夜露で濡れてしまった。)
蝉丸
蝉丸
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」
(これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、
皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関だ)
陽成院
陽成院
「つくばねの 峰より落つる みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる」
(筑波山の峰から流れ落ちる男女川(おなのがわ)は、流れ行くとともに
水量が増して淵(深み)となるように、私の恋心も時とともに思いは深まり、
今は淵のように深い恋になってしまった)
元良親王
元良親王(もとよし しんのう)
「わびぬれば 今はた同じ 難波(なにわ)なる みをつくしても あはむとぞ思ふ」
(噂が立ち、逢うこともままならない今は、もはや身を捨てたのも同じこと。
それならばいっそ難波潟の「みをつくし(船用の標識/身を尽くすとの掛詞)」
ではありませんが、この身を捨ててでもあなたに逢いたい)
三条右大臣
三条右大臣
「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」
(逢坂山のさねかずら(モクレン科のつる草)が逢って寝るという意味を
持っているのであれば、さねかずらがつるをたぐれば来るように、
誰にも知られずにあなたをたぐり寄せる方法がほしい)
文屋朝康
文屋朝康(ぶんや の あさやす)
「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」
(葉の上で光っている白露に、風がしきりに吹きつける秋の野原は、
紐を通して繋がっていた玉の紐が切れて、弾け飛んでいくように見える)
参議等歌碑
参議等(さんぎ ひとし)
「浅茅生(あさじふ)の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しさ」
(まばらに茅(ちがや)が生える、篠竹の茂る野原の「しの」ではないけれども、
人に隠して忍んでいても、想いがあふれてこぼれそうになる。
どうしてあの人のことが恋しいのだろう)

御髪神社へ向かいます。
続く

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