竹林
小倉百人一首文芸苑の北側はJR山陰線(嵯峨野線)に面し、踏切がありますが、
渡らずに野宮神社まで戻り、神社の南側の竹林を進みます。
「竹林の道」と呼ばれ、野宮神社から大河内山荘(おおこうちさんそう)まで
約200mの小道で、毎年12月には、京都・嵐山花灯路が開催されています。
大河内山荘-門
突き当たりに大河内山荘がありますが、開門迄まだ時間があり、拝観は断念しました。
大河内山荘-写真
案内板の写真
大河内山荘は、熱心な仏教徒であった映画俳優の大河内傳次郎が、
昭和9年(1931)に参禅堂で仏間のある持仏堂を建立したのが始まりです。
自ら庭園の設計を行い、東の嵐山、遠くは比叡山、西の保津峡を借景とした
回遊式庭園を庭師の広瀬利兵衛と共に造営しました。
34歳から戦争を挟みましたが64歳で亡くなるまでの凡そ30年間をかけ、
出演料の大半を注いで造り上げたとされています。
中門、数寄屋師の笛吹嘉一郎が施工した大乗閣、
その他に持仏堂、茶室・滴水庵が登録有形文化財となっています。
小倉池
大河内山荘から南へ進むと亀山公園で、反対側の北へ進むと小倉池があります。
御髪神社-鳥居
小倉池の畔には御髪神社があります。
日本で唯一の髪の神社で、昭和36年(1961)に創建されました。
御髪神社-本殿
祭神は藤原采女亮政之(ふじわら の うねめのすけ まさゆき)公で、
鎌倉時代に実在し、理美容業者の祖とされています。
第90代・亀山天皇の御代(1260~1274)、藤原鎌足の末孫で、
皇居の宝物守護にあたる武士であった父・基晴が、文永年間(1264~1275)に
紛失した宝刀『九王丸』の探索を行うために下関に居を構えました。
同行した政之は生活の糧を得るため、庄屋の婦女の髪を結って父を助け、
これが「髪結い職」の我国の起源とされています。
床の間があった髪結所を開いたことから「床屋」と呼ばれるようになったと伝わり、
下関には「床屋発祥の地」の記念碑が建てられているそうです。
父の死後、弘安4年(1281)に政之が鎌倉に戻ると、髪結いの技術が評価され、
幕府でも重宝されました。
建武2年(1335)10月17日に政之が亡くなった際には、その功績により
従五位に叙せられ、全国の理美容業者は、
昭和の初め頃まで命日の17日を定休日と定めていました。
御髪神社では新暦の11月17日に秋の大祭が執り行われています。

境内には髪塚があり、神官によって祓い清めるられた毛髪が奉納されています。
願い事をしながら切った髪の毛を納めるとご利益があるとされ、
また、大祭日には髪供養が行われます。
御髪神社-毘沙門天
社殿の左側には毘沙門像が祀られていますが、神社との関係は不明です。
嵐山駅
小倉池の南側に嵯峨野観光鉄道の「トロッコ嵐山」駅がありますが、
新型コロナの影響で運休中でした。
平成元年(1989)3月に複線化のため新線に切り替えられ、廃止された山陰本線の
嵯峨駅から馬堀駅間の旧線を、観光専用鉄道として利用するため
平成2年(1990)11月に設立されました。
JR西日本の完全子会社で、平成3年(1991)4月にトロッコ嵯峨駅~トロッコ亀岡駅間で
開業され、沿線には桜や楓が植栽されて桜・紅葉の名所となっています。
JR西日本からDE10形ディーゼル機関車1両とトキ25000形貨車4両が譲渡され、
運行に使用されました。
DE10-1104は昭和46年(1971)に製造され、嵯峨野観光鉄道に移籍後は
平安の王朝色である緋色、山吹色、黒の塗装に変更されました。
予備機としてDE10-1156が同様に塗装されていますが、所属はJR西日本です。
トキ25000は窓のない開放構造の中間車SK100-1、2と客室に窓を設けた
中間車SK100-11及び馬堀駅方先頭に連結され、機関車を遠隔制御する運転席をもち、
客室に窓を設けたSK200-1に改造されました。
平成10年(1998)にはトキ25000形貨車を改造し、側面に格子状の柵を設けるなど、
より開放的な構造を採用したSK300-1(愛称=ザ・リッチ)が追加されました。
更に平成12年(2000)にはSK100形、SK200形全車に対し、窓付きだった2両は
開口部を拡大し、他の2両とともに上側に固定窓、下側を下降窓とする改造を施し、
全車ほぼ同様の外観となりました。
嵯峨野観光鉄道にはトロッコ嵐山駅とトロッコ保津峡の中間駅がありますが、
トロッコ列車は全車指定席で、乗車区間にかかわらず片道630円の均一料金です。

清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ向かいます。
続く

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