祇王寺入口
滝口寺から下ってきた所に祇王寺への拝観入口があります。
祇王寺は山号を高松山、院号を往生院と号する真言宗大覚寺派の寺院です。
平安時代の末期、平清盛が盤石な地盤を築き上げた頃、都で白拍子の名手として
「祇王」と「祇女」と称する姉妹が評判を博していました。
姉の祇王は清盛に寵愛されていましたが、加賀国から16歳の「仏」と称する白拍子が
清盛のもとを訪れ、舞を披露しました。
その舞の見事さに清盛は心変わりし、祇王は追い出されてしまいました。
祇王と祇女の姉妹と母親の刀自(とじ)は出家し、「往生院」と号する寺院の一角に
庵を結び暮らしました。
後に剃髪した仏が庵を訪れ、共に暮らすようになったと伝わります。
往生院は、平安時代末期に融通念仏宗の
六世・良鎮(りょうちん)によって創建されました。
子院の三宝寺は融通念仏の道場として栄え、山上山下の広大な寺域に
数多くの坊が建ち並んでいたと伝わります。
しかし、その後荒廃し、三宝寺と祇王寺を残すのみとなりました。
江戸時代には祇王寺として復興されますが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で廃寺となりました。
跡地は大覚寺が管理していましたが、明治28年(1895)に元京都府知事・北垣国道氏から
別荘(茶室)の寄進を受け、大覚寺の塔頭寺院として再興されました。
昭和11年(1936)には高岡智照(たかおかちしょう)が無住となって寂れていた
祇王寺の庵主となり、復興させました。
高岡智照は明治29年(1896)に奈良県で生まれ、2歳の時に母を亡くしました。
父親は大酒飲みで、12歳の時に大阪の花街に売られました。
15歳の時、金持ちの小間物商と恋仲になりましたが、仲違いし、
小指の先をカミソリで切り落としました。
大阪に居づらくなったため上京し、新橋で芸者となりました。
美貌の持ち主で、指をつめた芸者として話題となり、またたく間に売れっ子となりました。
大正8年(1919)、北浜の相場師で映画会社も経営していた小田末造と結婚しますが、
夫婦仲がうまくいかなくなり、2度の自殺未遂を起こし、大正14年(1925)に離婚しました。
昭和10年(1935)、39歳の時に久米寺で出家・得度し、「智照」と名乗りました。
祇王寺の庵主となると、傷ついた女性たちの心の拠り所となるよう尽力され、
平成6年(1994)に98歳で入寂されました。
『祗王寺日記』や『照葉懺悔』などの著書を残され、
瀬戸内寂聴は智照をモデルにした小説『女徳』を著しています。
順路
受付から入ると苔庭を周遊するように順路が設定されています。
山門
境内の東南方向に山門がありますが、拝観の出入り口としては使われていません。
灯籠
庭園には複数の苔が植栽され、閑静な寺ですが、
砂利を踏む音さえ苔に吸収されるように思えます。
草庵
草庵の仏間には本尊の大日如来と祇王、祇女、刀自、仏御前、
平清盛像が安置されています。
祇王及び祇女像は鎌倉時代の作で、眼には水晶の玉眼が施されています。
控えの間には円い「吉野窓」があり、影が虹色に見えることから
「虹の窓」とも称されています。
水路の下
庭園の北側には細い水路がありますが、水は流れていませんでした。
順路の外側は竹林が広がります。
水路の上
水路の上側
祇王寺のHPではつくばいが描かれ、水が流されていたようです。
祇王の墓
草庵の南側に平清盛の供養塚である五輪塔と祇王、祇女、刀自の墓とされる
三重石塔が建っています。
いずれも鎌倉時代の作で、五輪塔の水輪には金剛界四仏の梵字、
石塔の塔身には四方仏が刻まれています。

檀林寺へ向かいます。
続く

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