玄関門
大覚寺は正式には「旧嵯峨御所大覚寺門跡」と称し、山号を嵯峨山と号する
真言宗大覚寺派の大本山で、近畿三十六不動尊霊場の第13番、
神仏霊場の第89番及び真言宗十八本山の第5番札所です。
駐車場からの正面に江戸時代初期に建立された玄関門があります。
不明歌碑
玄関門の手前には歌碑がありますが、詳細は不明です。
嵯峨天皇歌碑
こちらは第52代・嵯峨天皇の歌碑ですが、読めません。
大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛され、
檀林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立されました。
入唐求法の僧侶たちにも深く帰依され、唐の都・長安の北にある景勝地・嵯峨山の
話を聞き及び、「嵯峨院」と名付けたとされています。
華供養塔
華供養塔があります。
大覚寺は、華道「嵯峨御流(さがごりゅう)」の総司所(家元)で、
第52代・嵯峨天皇が大沢池の菊ヶ島に咲いていた野菊を手折りし、
殿上の花瓶に差したことに始まるとされています。
華道芸術学院
境内の西側にある華道芸術学院には本所研究科があり、
4年間修了すると「本所講師」が認定されます。
御殿川
大覚寺の周囲には有栖川が流れ、特に正面は「御殿川」と呼ばれています。
明智門
玄関門の西側に明智陣屋があり、その門は「明智門」と呼ばれています。
寺伝では、明智陣屋は明智光秀が居城としていた亀山城(亀岡城)の一部が
移築されましたが、江戸時代のものとされています。
亀山城は織田信長の命を受けた明智光秀が天正6年(1578)に築城し、
光秀が討死後は豊臣秀吉配下の小早川秀秋や、前田玄以などが入りました。
秀吉没後は徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609)に譜代大名である
岡部長盛(在任:1609~1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じました。
江戸幕府は「天下普請」として、西国大名に命じ近世城郭として亀山城を
大修築したとされ、この陣屋は修築後のものと思われます。
明治2年(1869)に亀山から亀岡に改称され、明治寺6年(1873)に廃城となり、
建物の一部が払い下げられました。
この頃に大覚寺に移築されたとみられています。
明智陣屋
陣屋は現在は庫裏として使われているようですが、普段は公開されていません。
式台玄関
玄関門を入ると式台玄関があります。
江戸時代に建立された第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院の女御御所、
長局(ながつぼね)の一部が移築されたと伝わります。
式台玄関-輿
展示されている輿は、第91代・後宇多天皇が使用されたものを
復元したものです。
背後には狩野永徳による「松に山鳥図」が描かれていますが、
展示されているのは複製です。
拝観入口
式台玄関西側の明智陣屋の一角に一般拝観の出入り口があります。
右近の橘
右近の橘
順路は宸殿へと続きます。
慶安4年(1651)に後水尾天皇の第九皇子・性真親王(しょうしんしんのう:
1639~1696)が第38世門主となり、後水尾天皇の中宮・東福門院が
女御御所として使用され、明正天皇(めいしょうてんのう)の仮御所になったとも
伝わる建物が移築されました。
元和5年(1619)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
第109代・明正天皇(めいしょうてんのう=在位:1629~1643)は、後水尾天皇の
第二皇女で、第48代・称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇ですが、
後水尾天皇が院政を敷かれ、天皇が実権を持つことはなかったとされています。
左近の梅
左近の梅
宸殿前には御所の名残として右近の橘、左近の梅が配されています。
牡丹の間-1
牡丹の間-2
牡丹の間
宸殿には南北4部屋があり、南側に「牡丹の間」と「柳松の間」があります。
牡丹の間の「牡丹図」及び北側の紅梅の間の「紅梅図」は狩野山楽筆ですが、
現在は収蔵庫で保管され、複製が展示されています。
柳松の間
柳松の間
蝉の飾り金具
広縁は鴬張りで、蔀戸(しとみど)には精巧な蝉の飾り金具が施されています。
紅梅の間-1
紅梅の間-2
紅梅の間
宸殿の北側には「紅梅の間」と「鶴の間」があります。
狩野山楽は豊臣秀吉の命を受けて、狩野永徳の養子となり武士の身分を捨てました。
安土城障壁画や正親町院御所障壁画(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わり、
東福寺法堂の「幡龍図天井画(明治時代に焼失)」製作中に永徳が病で倒れると、
山楽が引き継いで完成させました。
宸殿の障壁画を描いたのは慶長(1596~1615)の末期とされています。
豊臣家関係の諸作事に関わったため、大坂城落城後は
豊臣方の残党として追われることになりました。
石清水八幡宮の松花堂昭乗の元に身を隠した後、
九条家の尽力もあり恩赦を受け助命されました。
鶴の間
鶴の間
鶴の間-竹鶴図
鶴の間の「竹鶴図」は平成30年(2018)の台風21号の被害を受け、現在は修復中です。
正宸殿
宸殿の北側にある正宸殿は通常非公開です。
貞享3年(1686)に御所の紫宸殿が移築され、南北3列に12の部屋があります。
東列は、「剣璽(けんじ)の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」、
中央列は、「雪の間」「鷹の間」、西列は「山水の間」「聖人の間」を並べ、
その南と東に狭屋の間を配置されています。
上段の間は後宇多法皇が院政を執った部屋で、執務の際は御冠を
傍らに置いたことから、「御冠の間」と呼ばれ、後方には玉座があります。
宸殿、正宸殿、心経前殿を結ぶ回廊は「村雨の廊下」と呼ばれています。
建ての柱を「雨」、直角に折れ曲がっている回廊は「稲光」にたとえられています。
天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られ、床は鴬張りとなっています。
霊明殿
霊明殿は昭和33年(1958)に移築された建物で、嵯峨天皇・後宇多天皇・
歴代の嵯峨御流関係者の位牌が祀られ、非公開です。
心経前殿
心経前殿 (しんきょうぜんでん)は、大正14年(1925)に第123代・大正天皇即位の際に
建立された饗宴殿が下賜され、移築されました。
心経殿の前殿にあたるため「心経前殿」と呼ばれ、
内陣正面は心経殿を拝するため開けられています。
また、嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法皇、淳和天皇の第二皇子・恒寂入道親王の
尊像が祀られていることから「御影堂」とも呼ばれています。

大同5年(810)に薬子の変が起こると、鎮護国家のための大祈祷が行われました。
空海は五覚院を建立し、五大明王を刻んで安置したと伝わります。
弘仁9年(818)の大飢饉に際し、空海は嵯峨院持仏堂五覚院で
五大明王の秘法を修したとされています。
空海の勧めにより第52代・嵯峨天皇は、
一字三礼の誠を尽くして般若心経を浄書されました。
以降、各天皇もこれに倣い、般若心経を書写して奉納されることが慣例となり、
大覚寺は「般若心経写経の根本道場」となりました。

貞観18年(876)、嵯峨上皇の長女で、第53代・淳和天皇の皇后であった
正子内親王が、離宮・嵯峨院を寺に改めました。
淳和天皇の第2皇子・恒寂入道親王を開山として開創し、
第56代・清和天皇から「大覚寺」の寺号が贈られました。

延喜年間(901~923)、宇多法皇が度々行幸され、詞宴(しえん)を催した
との記録が残されていますが、その後一時荒廃しました。
天元年間(978~983)に定昭は興福寺内に一条院を創建し、
一条院主が約290年間にわたり大覚寺を兼帯しました。

文永5年(1268)に後嵯峨上皇が落飾して「素覚」と号して第21代門跡となり、
徳治2年(1307)には第91代・後宇多天皇が出家して法皇となり、
法名を「金剛性」と号して大覚寺に住し、第23代門跡となりました。
後宇多法皇は伽藍の造営に尽力し、大覚寺を中興して「大覚寺殿」と呼ばれました。

一方で後嵯峨上皇は皇子の後深草天皇に寛元元年(1234)に譲位しましたが、
後深草天皇は病のため正元元年(1259)に亀山天皇に譲位しました。
後嵯峨上皇は後深草天皇の第2皇子・熈仁親王(ひろひとしんのう=
後の第92代・伏見天皇)をさしおき、亀山天皇の第2皇子・世仁親王
(よひとしんのう=後の第91代・後宇多天皇)を皇太子に指名しました。
文永9年(1272)に後嵯峨上皇が崩御されると皇位継承をめぐる争いがあり、
鎌倉幕府の裁定により、亀山天皇が支持されました。
亀山天皇は文永11年(1274)に世仁親王に譲位し、
親王は後宇多天皇として即位しました。
後宇多天皇は弘安10年(1287)に熈仁親王に譲位し、
大覚寺に住んで院政を行ったことから「大覚寺統」と称しました。

一方、後深草上皇は京都市上京区上立売辺りにあった持明院を御所としたことから
「持明院統」と称され、後深草上皇の不満を受けた幕府は大覚寺統と
持明院統が交互に皇位を継承する(両統迭立=りょうとうてつりつ)と裁定しました。
しかし、伏見天皇は第一皇子・胤仁親王(たねひとしんのう=
後の第93代・後伏見天皇)を皇太子としたため大覚寺統との間の確執が強まりました。
永仁6年(1298)に胤仁親王が即位しましたが、大覚寺統や幕府の圧力を受け、
正安3年(1301)に後宇多上皇の第一皇子・後二条天皇に譲位しました。
しかし、天皇は徳治3年(1308)に崩御されました。
伏見天皇の第4皇子が第95代・花園天皇として即位した後、文保2年(1318)に
大覚寺統の第96代・後醍醐天皇天皇に譲位しました。

後醍醐天皇は元弘元年(1331)に京都を脱出し、三種の神器を持って挙兵し、
元弘の乱を起こしましたが捕えられ、翌年に隠岐島に配流されました。
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡すると直ちに廃位し、光厳天皇を即位させました。
その後、楠木正成や幕府から寝返った新田義貞や足利尊氏らにより鎌倉幕府は滅ぼされ、
後醍醐天皇が都へ戻ると光厳天皇の即位と「正慶」の元号は廃されました。
元弘3年/正慶2年(1333)、後醍醐天皇は南北を統一し、建武の新政が始まりますが、
建武2年(1335)に足利尊氏が離反したとみなされ、尊氏討伐の命が下されました。
九州へ下った尊氏は勢力を立て直し、翌建武3年(1336)に湊川の戦い
新田義貞・楠木正成軍を撃破すると京都に攻め入りました。
当時、大覚寺は後醍醐天皇の兄弟である性円法親王(しょうえんほっしんのう)が
第24代門跡で南朝を支持していたため、足利軍の焼き討ちを受け、
殆どの堂舎を失いました。

南朝は衰退し、弘和3年/永徳3年(1383)に和平派の
後亀山天皇(第99代/南朝第4代)が即位しました。
元中9年/明徳3年(1392)に天皇は明徳の和約を受諾し、
三種の神器を奉じて大覚寺に入りました。
三種の神器は、北朝・後小松天皇の土御門内裏に届けられ、南朝元号である
「元中」は廃絶し、皇統は北朝の一統に帰することとなりました。
しかし、応永17年(1410)に後小松上皇の皇子である躬仁親王(みひとしんのう=
後の第101代・称光天皇)が皇太子に立てられると、両統迭立が破られたとして、
後亀山上皇は吉野へ出奔しました。
南朝の再建を図る後南朝の活動は、応仁の乱まで続きました。

応仁・文明の乱(1467~1477)では、応仁2年(1468)に兵火を受けてほぼ全焼し、
以後荒廃しました。
天文3年(1534)から東山の安井門跡蓮華光院を兼帯しますが、
天文5年(1536)にも火を放たれ焼失しています。
その後、織田信長や豊臣秀吉から寺領の寄進があり、天正17年(1589)に
第107代・後陽成天皇の弟・空性法親王が第36代門跡となり、
衰退した大覚寺の再建にとりかかりました。
皇室の外護もあって再建が進み、寛永年間(1624~1644)には
ほぼ寺観が整えられましたが、明治の神仏分離令による
廃仏毀釈で荒廃し、一時無住となりました。
門跡の称号も廃されましたが、明治18年(1885)に復称が許可されました。
勅封心経殿
勅封心経殿は大正14年(1925)に法隆寺の夢殿を模して再建されました。
殿内には薬師如来像が安置され、嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、
正親町天皇、光格天皇の宸翰(しんかん)勅封般若心経が奉安されています。
60年に一度開封され、また、国家大事の際にも開封し、祈願されたと伝わります。
心経前殿から勅封心経殿とは御手綱で結ばれています。
勅使門
心経前殿の南側正面に唐門の勅使門があります。
嘉永年間(1848~1854)に再建され、天皇の行幸や勅使以外に
開門されることはありません。
しかし、数年に一度行われる嵯峨御流の献花式の際には開けられるようです。
有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)の第二皇子・慈性親王は、
天保8年(1825)に大覚寺門跡を継承しましたが、勤皇討幕の嫌疑で、
幕府から徳川家菩提寺・江戸の輪王寺の住職を兼務するよう命じられました。
大覚寺をこよなく愛した親王は、江戸へ出発の時に勅使門から出られ、
何度も振り返り未練を残されたことから「おなごりの門」と呼ばれるようになりました。
親王は大覚寺への帰山が許され、出発寸前の慶応3年(1867)に薨去され、
最後の門跡となりました。

勅使門の前には石舞台があります。
安井堂
安井堂(御霊殿)は東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂が、明治4年(1871)に
移築された建物で、中央に鳳輦(ほうれん)に坐す僧形の
後水尾天皇像が安置されています。
建物は江戸時代中期に建立されたもので、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で
蓮華光院は廃寺となり、現在跡地には安井金比羅宮が残されています。
内陣の格天井鏡板(ごうてんじょうかがみいた)に花鳥などが、
その奥の内々陣の折上(おりあげ)の鏡天井に雲龍図が描かれています。
五大堂
本堂である五大堂は天明年間(1781~1789)に、現在の石舞台の位置に再建されました。
大正14年(1925)に饗宴殿が心経前殿として現在地に移築されたのに伴い、
五大堂も現在地に移築されました。
鎌倉時代作の五大明王像が安置されていましたが、昭和35年(1960)に建立された
霊宝館に遷され、現在は昭和50年(1975)に仏師・松久朋琳(まつひさ ほうりん)と
宗琳の父子により造立された五大明王像が安置されています。
鐘楼
五大堂の南側に鐘楼があります。

大沢池エリアへ向かいます。
続く

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