表門
龍源院(りょうげんいん)は、黄梅院の北隣にあります。
現在大徳寺山内には24の塔頭がありますが、殆どは非公開で、通年公開されているのは
龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみです。

現在の表門は創建当初のもので、切妻造・桧皮葺の四脚門で、
国の重要文化財に指定されています。
表門の正面
表門をくぐった正面
龍源院は、東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登の畠山義元
豊後の大友義長、周防の大内義興らにより創建されました。
創建年度は文亀2年(1502)、永正元年(1504)など諸説あり、寺号は大徳寺の山号・
龍宝山(りゅうほうざん)の「龍」と中国・臨済禅を今日まで唯一存続している
松源一脈の「源」の2文字から採られました。
大徳寺山内で最も古い寺であり、大徳寺を運営する四派の南派の本庵でもあります。

明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、住吉大社内にあった慈恩寺と
岐阜・高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院が合併されました。
庫裡
門をくぐった斜め右に庫裡があり、拝観受付が行われています。
拝観料は350円でした。
火縄銃
庫裡から続く書院には、日本最古の火縄銃(下段)が展示されています。
銃床尾に天正11年(1583)の年紀があり、火縄銃の中では在銘最古のものです。
墨書銘の「喜蔵」は、金森長近の養子となり、信長・秀吉に仕えた
長屋可重(ながや ありしげ / よししげ)の幼名と考えられています。

火縄銃は天文12年(1543)に種子島に伝来し、近江の国友と日野、紀州の根来、
和泉の堺などが鉄砲の主要生産地として栄えました。
日本独自の改良が加えられ、ヨーロッパ製のものより高性能な銃が量産され、
戦国時代末期には、国内に50万丁以上が所持されていたとも伝わり、
当時世界最大の銃保有国でした。
しかし、江戸時代になると第5代将軍・徳川綱吉は、貞享4年(1687)に
「諸国鉄砲改め」を出し、百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、
銃器の製造や移動制限を行いました。

根来寺の僧が、種子島から伝来したばかりの火縄銃一丁を持ち帰り、
量産して僧衆による鉄砲隊が結成されましたが、天正13年(1585)の
豊臣秀吉による雑賀攻め(紀州征伐)で滅ぼされました。

国友には天文13年(1544)に第12代将軍・足利義晴の命を受けた
管領・細川晴元から見本の銃が示されました。
それを基に2丁の銃を作り、将軍に献上したのが始まりで、天文18年(1549)には
織田信長から500丁の注文を受けています。
元亀元年(1570)の姉川の戦いで勝利した信長は村を所領し、羽柴秀吉に命じて
この地の鉄砲業の発展をなし遂げました。
堺と共に二大産地となり、日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われ、
隆盛を極めました。
しかし、江戸時代になって鉄砲の生産が制限されるようになると、
その技術は花火や彦根仏壇などに引き継がれるようになりました。
碁盤
四季草木蒔絵碁盤は、徳川家康が豊臣秀吉と伏見城内で対局した時の碁盤と
伝えられ、初代・本因坊の奥書があり、金森長近が秀吉から拝領しました。
二個の碁笥(ごけ/ごす)には、それぞれ桐と葵の紋が入っています。
達磨図
達磨図の掛軸
こ沱底
書院軒先の石庭は「滹沱底(こだてい)」と称されています。
宗祖・臨済禅師が住した中国・河北省鎮州城の南を流れる
滹沱河からから採られました。
東西二つの石は、秀吉が建てた聚楽第の遺構とされ、
「阿吽の石」と名付けられたことから、「阿吽の庭」とも呼ばれています。
手前が「吽」、奥の平べったいのが「阿」の基礎石です。
東滴壺
方丈と庫裡との間の狭小な空間につくられた、日本最小とされる壺石庭は
東滴壺(とうてきこ)と称されています。
庭の右側に平たい一枚の板石が置かれ、円い波紋は一滴の水が滴り落ちる
姿を表しています。
一滴の水が小川となり、大河となり、やがて大海へとつながっていくことが
表現されています。
昭和35年(1960)に鍋島岳生(なべしまがくしょう)によって作庭されました。
龍吟庭
方丈北側の龍吟庭(りょうぎんてい)は、室町時代に造られた須弥山式の枯山水で、
大徳寺では最も古い庭園です。
三尊石組からなり、中央に突出している石が須弥山、一面の苔が大海を表しています。
下間
方丈北側の下間(げかん)は、公式の賓客と対応相見する所で、
「書院の間」とも呼ばれ、一般の人々は使用できませんでした。
室名は「狐窟」で、その扁額が掲げられています。
白蔵主
室内の屏風は「白蔵主(はくぞうす)」と称され、伝承が残されています。
昔、堺の南宗寺塔頭・松林寺に一人の雲水が居り、修行に励む一方で
こっそりと町に出て、貧しい人を助けました。
またある時は和尚に姿を変え、迷い悩んでる人を救い導くなど、
常に人助けを行っていましたが、その正体は古狐でした。
松林寺山内の耕雲庵に住んでいましたが、亡くなり付近の人々によって
耕雲庵の裏山に祠が建てられ、「白蔵主」と称して祀られるようになりました。
この屏風は「白蔵主」を題材に、明治時代に鈴木松年画伯により描かれ、
大坂西成区の杉浦氏が所有していました。
杉浦家の家業不振や相次ぐ家庭の不幸はその屏風が原因として、
明治35年(1902)に龍源院へ寄進されました。
眠蔵-寝室
眠蔵(みんぞう/めんぞう)は寝室です。
昭和39年(1964)の方丈解体修理の際に創建当初の姿に復元されました。
眠蔵-納戸
その横は、寛永年間(1624~1645)に仏間として造営されましたが、
解体修理の際に創建当初の眠蔵(納戸)に復元されました。
上間
西側の上間(じょうかん)は、袈裟と鉄鉢(食器)を収める所で
「衣鉢間(えはつのま)」と呼ばれ、日常生活の居間に当たります。
また、印可証明伝授の部屋で、印可(いんか)とは、
師から弟子の僧侶が、悟りを開いたと認められることです。
室名は「狸窟」です。
開祖堂
方丈西側の開祖堂は、開祖・東渓禅師の塔所で、一重入母屋造り・檜皮葺きの建物で、
南北朝・鎌倉・室町初期時代の禅宗様の粋を取り入れ、
昭和期(1926~1989)に建立されました。
開祖・東渓宗牧(とうけいそうぼく:1455~1517)は、永正2年(1505)に
大徳寺第72世住持となり、当初は向かいの徳禅寺の南、現在の養徳院の地に
退居庵を設け「霊山一枝軒(りょうぜんいっしけん)」と称しました。
その後、現在地に移り「龍源庵」と称し、東渓宗牧の後を継いだ
2世・悦渓宗忢(えっけい そうご)の代に「龍源院」に改められました。
東渓宗牧は永正9年(1512)に第105代・後柏原天皇より
「仏恵大円禅師」の号を賜りました。
方丈
方丈は創建当初のもので、室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全に
留めている唯一の建物として、国の重要文化財に指定されています。
方丈の南側には、西から檀那の間・室中・札の間があります。
檀那の間
檀那の間は、経済面で寺や和尚らを外護し、世話をする檀越や、
檀家と和尚がお茶を飲みながら歓談する部屋です。
室中-本尊
室中は、方丈の中心の間で和尚が禅の教えを説き、時には儀式法要を行う場所です。
室中に安置されている本尊の釈迦如来坐像は、龍源院の創建より古い
鎌倉時代の作で、「建長2年(1250)、行心作」の銘があり、
国の重要文化財に指定されています。
室中の奥に「真前(しんぜん)」があり、祖師、開祖が祀られています。
室中-龍図
室中の襖には「龍の図」が描かれていますが、作者や制作年代は不明で、
桃山~江戸時代の作と伝わります。
礼の間
礼の間(れいのま)は、和尚と修行僧が一衆和合、公式の茶礼等を行う場所です。
昔は大名、公家のお供が控えた場所でもあります。
方丈-玄関
方丈玄関及びその奥にある唐門も方丈と同じ時期に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
一枝坦
方丈南側の前庭は、東渓禅師が師・実伝和尚から賜った室号
「霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)」に因み、
「一枝坦(いっしだん)」と名付けられています。
白砂は大海原を、楕円形の大きな島は「亀島」、右側の尖った石は「鶴島」、
奥の高い立石は蓬莱山を表しています。

方丈の南庭はかって、石灯籠と苔庭で構成され、樹齢700余年を経た中国種の
山茶花「楊貴妃」の老木が生い茂っていました。
11月中旬から翌年の4月頃まで真紅の花を咲かせ、その美しさは有名でした。
しかし、昭和55年(1980)の春に枯死し、その年、現在の石庭に造り替えられました。
担雪井
方丈玄関の東側で、奥に唐門の屋根が見えます。
井戸は「担雪井」と称されています。
徳禅寺
龍源院の向かい、参道の東側に徳禅寺がありますが、非公開です。
徳禅寺は、大徳寺2世・徹翁義享(てっとう ぎきょう)によって創建されました。
徹翁義享は19歳で出家し、建仁寺鏡堂覚円(きょうどう かくえん)や
南禅寺約翁徳倹(やくおう とくけん)に参じましたが、五山の禅風にあきたらず、
東山の雲居寺(うんごじ)に隠棲していた宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)の
門下に入り、その法を嗣ぎました。
正中元年(1324)に宗峰妙超が大徳寺を創建すると、延元2年/建武4年(1337)に
徹翁義享は宗峰の後席を継いで大徳寺に入りました。
翌年、自らの居所として船岡山の東麓に開創したのが徳禅寺で、
大徳寺とは独立した禅寺でした。

船岡山の東麓には、第53代・淳和天皇の離宮・雲林院があったと推定され、
元弘元年/元徳3年(1331)、その地に梶井門跡が移転しました。
梶井門跡は延暦年間(782~806)に延暦寺を開いた最澄が、
東塔南谷に「円融房」を創建したのが起源とされています。
貞観2年(860)には「円融院」と改称され、山麓の東坂本に里坊が建立されました。
梶井の地名と、加持に用いる井戸(加持井)があったことから、
「梶井宮」と称され、元永元年(1118)に第73代・堀川天皇の皇子・最雲法親王が
皇室子弟として初めて寺に入り、第14世梶井門跡となりました。
最雲法親王は、保元元年(1156)に天台座主となり、
大原に梶井門跡の政所を置きました。
坂本の梶井門跡は貞永元年(1232)の火災をきっかけに、京都市内を転々とし、
元弘元年/元徳3年(1331)に船岡山の東麓の地に落ち着きました。
梶井門跡を継いだ第93代・後伏見天皇の第4皇子・尊胤法親王
(そんいんほうしんのう)は、梶井門跡の本坊を大原の政所に移し、
三千院となりました。
梶井門跡の跡地を徹翁義享が賜り、徳禅寺を創建したと伝わります。

徳禅寺はその後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
文明年間(1469~1487)に徹翁義享を尊敬していた一休宗純により、
現在地で再建され、大徳寺の塔頭寺院となりました。

明治の初めには無住となり、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、
臨時の隔離病棟にもなりました。

大徳寺の中心伽藍へ向かいます。
続く

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