大イチョウ
融神社から県道47号線を北上すると国道477号線に合流し、更に国道を北上すると
和邇川(わにがわ)に架かる橋があります。
その橋を渡った所に還来神社があります。
神社前の大イチョウは幹回り約4.7mあり、鳥居が小さく見えます。
鳥居
鳥居は両部鳥居で、密教の金剛・胎蔵の両部を表し、神仏習合の名残を示しています。
梛の木
鳥居をくぐると「梛の木(なぎのき)」が御神木として祀られています。
と言っても、祀られているのは切り株です。
還来神社は藤原旅子(ふじわら の たびこ:759~788)が祀られています。
当時この辺り一帯は藤原氏の荘園で、それを治めていた
旅子の父・藤原百川(ふじわら の ももかわ:732~779)の邸宅があり
旅子はそこで生まれました。
藤原百川は第50代・桓武天皇擁立の功労者であり、
延暦4年(785)に旅子は「宮人(きゅうじん/くにん)」として宮中に入りました。
翌延暦5年(788)に夫人に叙され、大伴親王(後の第53代・淳和天皇)を
出産しましたが、2年後の延暦7年(788)に30歳で薨去されました。
病が重くなられた時に「出生の地・比良の南麓に梛の大木があり、
その下に葬ってほしい」と遺言されたので、神として祀られるようになりました。
拝殿
拝殿
雪対策でしょうか?
本殿への石段
本殿への石段
大杉の切り株
石段の脇に大杉の切り株が残されています。
樹齢850年とされ、高さ35.3m、幹回り5.4mの大木でしたが、
強風ごとに枝が落下するなど、危険と判断されて平成30年(2018)に伐採されました。
本殿
本殿
平治元年(1160)に第77代・後白河天皇から抜擢された藤原信頼は、同じく天皇の
近臣であった信西と対立し、源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首しました。
朝廷の最大の実力者となりましたが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北し、
信頼は斬首されました。
源義朝は一族を率いて東国へと逃れましたが、追討軍との戦闘で勢力が削がれ、
ついには年来の家人の裏切りにより殺害されました。
義朝の三男・源頼朝(1147~1199)は一行からはぐれ、還来神社にたどり着いて
源氏の再興を祈願したとされています。
その後、近江国で捕えられ、清盛の継母である池禅尼の嘆願などにより
助命され、伊豆国への流罪となりました。
治承・寿永の乱(1180~1185)で源頼朝は挙兵し、平家は滅亡しました。

祭神の藤原旅子が故郷へ還り来たとの由緒から、明治時代になると
日清や日露の戦地に赴く際に、無事の帰還が祈願されるようになりました。
太平洋線戦争に至ると江若鉄道(現在のJR湖西線)和邇駅から神社までの
約6kmを歩いて参拝する人々が絶えなかったと伝わります。
現在では旅の安全や健康回復の祈願が行われているようです。
地蔵尊
地蔵尊
平成30年(2018)に杉の大木が伐採されたのに伴い、境内の危険と見做される場所の
伐採も行われました。
その作業で地蔵尊が地中より発見され、祀られるようになりました。

葛川息障明王院(かつらがわそくしょうみょうおういん)へ向かいます。
続く

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