来迎院-入口
三千院からの呂川(りょせん)沿いの参道を登った所に来迎院の参道口があります。
浄蓮華院-山門
その手前の左側に浄蓮華院があります。
天仁2年(1109)に来迎院を再興した聖応大師良忍が、
自らの住坊として創建したもので、融通念仏の本堂となりました。
後には境内子院の浄蓮華院、蓮成院、善逝院(ぜんぜいいん)、
遮那院(しゃないん)の総称として来迎院と称されました。
浄蓮華院
近代にそれぞれの子院は独立し、浄蓮華院は宿坊となっているようです。
山門
来迎院へ向かいます。
仁寿年間(851~854)、第3代天台座主・慈覚大師円仁
この地に天台声明の道場を開きました。
承和5年(838)に最後の遣唐使の短期留学生として唐へ渡った円仁は、
在唐新羅人社会の助けを得て翌年に五台山を巡礼しました。
その地で盛んに行われていた五台山念佛(声明)を日本へ持ち帰り、
大原を声明の根本道場としたのが来迎院の始まりとされています。

天仁2年(1109)に聖応大師良忍が再興し、来迎院を本堂としました。
これにより、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、
この両院から成る付近一帯は「魚山大原寺」と総称されるようになりました。
「魚山」は中国山東省にある山の名で、その地で梵唄(ぼんばい=声明)が
始められたとする、中国の古代声明の聖地です。
以来、大原で伝承されてきた天台声明は、
「魚山声明」とも呼ばれるようになりました。
本堂への石段
門をくぐった正面の拝観受付から右側にある石段を登ります。
鐘楼
鐘楼があります。
梵鐘は室町時代の永享7年(1435)に鋳造されたもので、
市の文化財に指定されています。
本堂
現在の本堂は天文2年(1533)に再建されました。
本尊
本尊は薬師如来坐像で、右脇侍(向かって左)に阿弥陀如来坐像、
左脇侍に釈迦如来坐像が安置されています。
共に平安時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
三尊像の左側に平安時代作の不動明王立像、
右側に平安時代作の毘沙門天立像が安置されています。
天女図
内陣の天井には天女図、周囲には雲と琵琶や鼓などの楽器が描かれています。
外陣脇檀
外陣の左脇檀には、いずれも鎌倉時代作と推定される慈覚大師円仁像、
元三大師図、聖応大師良忍像が安置されています。
右脇檀には、江戸幕府の御朱印寺として寺領を授かっていたことから
徳川歴代将軍の尊霊が祀られています。
鎮守社への石段
本堂の東側に石段があり、その上に鎮守社があります。
五輪塔
鎮守社右側の五輪塔は高さが約1mで、鎌倉時代の作とされています。
石仏群
左側には多数の石仏が祀られています。
廟への橋
北へ進み、律川に架かる石橋を渡ります。
音無の滝はこの上流にありますが、滝へ行くには山門を出て、
再び境内の上側を登らなければなりません。
聖応大師廟
石段を登って進んだ先に聖応大師良忍の墓があり、三重石塔は鎌倉時代の作で
国の重要文化財に指定されています。

良忍(1072/1073~1132)は尾張国生まれで、13歳の時に比叡山に登り
実兄の良賀に師事して出家しました。
22~3の頃に大原に隠棲し、浄蓮華院を創建して来迎院を再興しました。
分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させました。
永久5年(1117)に阿弥陀仏の示現を受け、融通念仏を創始しました。
当時は疫病が流行し、治安が悪化して末法思想が流行する中で、多くの民衆が
救済を求めて浄土教を信仰しました。

空也上人(903~907)が都で踊念仏をひろめ、それまで天皇や貴族のための仏教から
民衆救済のための仏教と成っていきました。
良忍は、阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法として
「1人の念仏が万人の念仏に通じる」と説いて融通念仏宗を開宗しました。
念仏を唱える者は自分だけでは無く、万人のためにも唱え、万人が一人のために
唱えることで念仏の功徳が高まるとする集団が結成されていきました。
大治2年(1127)に鳥羽上皇の勅願により坂上広野の私邸内に
修楽寺(現在の大念仏寺)を開き、融通念仏の道場としました。
坂上広野(さかのうえ の ひろの:787~828)は、大納言・坂上田村麻呂の次男で、
摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の開発領主で「平野殿」とも
呼ばれていました。
広野の没後に修楽寺が建立され、
現在の大念仏寺は融通念仏宗の総本山となっています。
如来蔵
聖応大師廟から下って本堂の裏側へ出ると、如来蔵があります。
聖応大師良忍が経堂として建立したと伝わります。
収蔵庫
収蔵庫は昭和60年(1985)に建立されました。
音無の滝-道標
門を出て音無の滝へ向かいます。
来迎院から約15分の登りです。
音無の滝
聖応大師良忍がこの滝に向かい声明の修行をしていると、滝の音と声明の声が
和して、ついには滝の音が聞こえなくなったことから名付けられたとされています。
西行は「小野山の 上より落つる 滝の名は 音無しにのみ 濡るる袖かな」と
詠んだように、大原の東側にある山の連なりは「小野山」と呼ばれ、
この滝の上流には二の滝、三の滝があるそうです。
未明橋
滝から下り、勝林院へ向かいます。
再び三千院の御殿門前を通り、滝から下ってきた律川に架かる未明橋を渡ります。
鉈捨藪跡
その手前に「鉈捨藪跡(なたすてやぶあと)」があります。
文治2年(1186)、大原寺・勝林院での法然上人の大原問答の折に、
上人の弟子であった熊谷直実は「もし、師の法然上人が論議に敗れたならば、
その法敵を討たん」との思いで袖に鉈を隠し持っていました。
しかし、上人に諭されてその鉈をこの藪に投げ捨てたと伝えられています。
熊谷直実は、寿永3年(1184)、一ノ谷合戦で、海上に馬を乗り入れ
沖へ逃がれようとする平敦盛を呼び返して、須磨の浜辺に組み討ち
その首をはねました。
平敦盛は17歳であり、我が子・直家ぐらいの齢でした。
これ以後、直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
いっそう強くなり、法然上人の弟子となりました。
大原陵-1
橋を渡った右側に第82代・後鳥羽天皇と第84代・順徳天皇の大原陵があります。
大原陵-手水鉢
手水鉢
後鳥羽天皇(1180~1239)は元暦元年(1184)に即位しましたが、
平家が第81代・安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へと逃れたため
神器なき即位となりました。
安徳天皇は母の建礼門院に抱かれ、壇ノ浦の急流に身を投じました。
建礼門院は助けられ、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏の手にわたりましたが、
宝剣は天皇と共に海中に沈んだとされています。
後鳥羽天皇は文武両道で、『新古今和歌集』の編纂を行うなどの一方で、
承久3年(1221)に鎌倉幕府討伐の兵を挙げました。(承久の乱
しかし、この戦いに敗れ、隠岐島への流罪が下され、出家して法皇となりました。
延応元年(1239)に配流先で崩御され、隠岐島には火葬塚の隠岐海士町陵があります。
大原陵
順徳天皇(1197~1242)は後鳥羽天皇の第三皇子で、承元4年(1211)に14歳で即位し、
後鳥羽天皇の討幕計画に参画するため、承久3年(1221)に
第四皇子の懐成親王(かねなりしんのう=第85代・仲恭天皇)に譲位しました。
承久の乱で敗れ、佐渡島に配流されて仁治3年(1242)に崩御されました。
佐渡島には火葬塚の真野御陵があります。

陵内の十三重石塔は寛文2年(1662)の寛文近江・若狭地震で倒壊し、
元禄9年(1696)に修復されました。
かってはこの塔背後の高台に法華堂がありました。
法華堂
法華堂は後鳥羽法皇の冥福を祈り、後鳥羽法皇の皇子・尊快入道親王の母親である
藤原重子(ふじわら の じゅうし / しげこ:1182~1264=修明門院)が
仁治元年(1240)に水無瀬離宮の建物を移築し、納骨されました。
寛元元年(1243)には順徳天皇の遺骨も納骨されましたが、
江戸時代の享保21年(1736)に法華堂は焼失しました。
安永年間(1764~1780)に現在の法華堂が再建され、明治の神仏分離令により
法華堂は陵内から現在地に移築されました。
堂内には普賢菩薩像が本尊として安置されています。
法然上人腰掛石
法華堂向かいにある実光院の外塀の北東角に法然上人腰掛石があります。
文治2年(1186)の大原問答の際に、法然上人が腰を掛けた石とされています。

勝林院へ向かいます。
続く

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