西側鳥居
高樹院から南下すると、左京区岩倉から左京区上高野となり、
三宅八幡宮は、左京区上高野三宅町に立地しています。
こちらは西側の入口ですが、少し下って南側参道から参拝することにしました。
狛鳩
神域の守護は狛犬では無く、狛鳩なので心もとなく思えます。
八幡神である誉田別命( ほんだわけのみこと)が国内を平定する時に、
水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いとされています。
中山周三歌碑
鳥居手前の池の畔には、歌人・中山周三(1916~1999)の歌碑が建っています。
「輪をかきて 飛びいる鳩の 先頭の 一羽は群れの 何を保障す」
三宅八幡宮にも多数の鳩が群れていますが、
周三は北海道の人なので、この境内の光景かは不明です。
狛鳩の鳥居
鳥居の脇に駒札が立っています。
それによると、第33代・推古天皇の時代(593~628)、推古天皇15年(607)に
小野妹子(おの の いもこ:生没年不詳)が遣隋使として派遣され、
隋へ渡るために九州へと向かったのですが、筑紫付近で病を患いました。
宇佐八幡宮へ祈願して病は平癒し、帰朝後に宇佐八幡宮を勧請したのが
三宅八幡宮の始まりとされています。

小野妹子は小野氏の出身で、小野氏は滋賀県湖西地方の小野村(現在の大津市)を
本拠とし、三宅八幡宮辺りから大原及び市原へかけての一帯は、
小野氏に支配され、「小野郷」と呼ばれていました。
また、三宅八幡宮付近に一族の住居があったと伝わり、小野妹子の子・小野毛人
(おの の えみし:生誕不明~677)の墓も八幡宮付近にあります。

但し、これが事実だとすると、三宅八幡宮の創建は石清水八幡宮よりも
総本社である宇佐八幡宮よりも古くなってしまいます。
石清水八幡宮は、貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されて
現在の離宮八幡宮の地で創建され、後に現在地へ遷座されました。
また、宇佐八幡宮は八幡大神が示顕されたのは第29代・欽明天皇34年(571)ですが、
社殿が造営されて創建されたのは神亀2年(725)です。
手水舎
そのような矛盾はさておき、鳥居をくぐると左側に手水舎があります。
市川團十郎寄進の井桁
手水舎の北側の井桁は北白川産の白川石で、
九代目・市川團十郎の寄進によるものです。
九代目・市川團十郎(1838~1903)は、明治時代(1868~1912)に活躍した
歌舞伎役者で、屋号を「成田屋」と称しました。
歌舞伎を町人の娯楽から、日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに
尽力し、その功績から「劇聖(げきせい)」と謳われました。
拝殿
現在の拝殿は明治2年(1887)に再建されました。
創建当初、三宅八幡宮は現在地から南にあった伊太多神社の境内に、
同社の末社として造営されました。
元弘3年/正慶2年(1333)、第96代・後醍醐天皇は隠岐を脱出し、挙兵すると
これに呼応した足利尊氏らにより鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇の京都への帰還の先発隊の一員となったのが
児島高徳(こじま たかのり:生没年不詳)です。
児島高徳は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で、
備前国児島郡(現在の岡山県倉敷市)の出身とされ、
後鳥羽上皇や宇多天皇の後裔とする説もあります。
高徳は、一時岩倉に居を構え八幡大神を崇拝していたとされています。
児島高徳の別名が「備後三郎三宅高徳」であったことから
「三宅八幡宮」と呼ばれるようになったとの説があります。

その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
十数年を経て里人により復興されました。
明治時代(1868~1912)に入り、伊太多神社が崇道神社(すどうじんじゃ)へ
合祀されたのに伴い、三宅八幡宮が現在地へ遷されたとされています。
本殿-1
現在の本殿は明治20年(1887)に再建されました。
江戸時代の末期、祐宮(さちのみや=後の第122代・明治天皇)が重い病を患い、
当社に祈願して病気が平癒したことから、特に子供の守り神として
信仰されるようになりました。
また、「害虫駆除」のご利益があるとされ、「虫八幡」とも呼ばれれています。
本殿-2
祭神は八幡大神です。
宇佐八幡宮などでは「八幡大神は誉田別命(ほんだわけのみこと) 、
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、
比咩大神(ひめおおかみ)の三柱を総称したもの」とされていますが、
三宅八幡宮では、誉田別命の一柱のみです。
誉田別命とは、第15代・応神天皇のことで、後に男系断絶した第16代・仁徳天皇皇統と
現在まで続く第26代・継体天皇皇統の共通の男系祖先である皇祖神でもあります。

応神天皇は秦氏の祖先である弓月君(ゆみづきのきみ)を、新羅の妨害から守り、
帰化させました。
弓月君は百二十県の民を率いて日本に渡ると養蚕や織絹などの技術を伝え、
朝廷の設立や山城国等の開発などに大きく貢献しました。
本殿-裏側
本殿の裏側
旧灯籠
旧灯籠
絵馬展示資料館
拝殿の東側に社務所があり、その南側に絵馬展示資料館が
平成20年(2008)に開館しました。
入館は有料(300円)ですが、館内には奉納された子育て祈願絵馬が展示され、
所蔵されている絵馬133点は、京都市有形民族文化財に指定されています。
放生池
鳥居を下った東側に放生池があります。
三宅八幡宮では毎年9月に秋の大祭(放生会)が行われ、14日夜に宵宮祭、
15日に神事が営まれています。
養老4年(720)に隼人の乱が勃発した際、八幡大神が自ら征討に赴いたとの伝承があり、
戦死者となった隼人の慰霊が八幡宮での放生会の起源とされています。
水車小屋
池の畔には水車小屋がありますが、水車は朽ちてしまい、現在は残されていません。
延宝年間(1673~1681)の頃、当時の代官・五味藤九郎(?~1680)の尽力によって
上高野に水路が開かれ、多数の水車が設置されました。
水車は「唐臼(からす)」と呼ばれ、主に精米用として共同で使われていました。
当地、稲荷町にあったものが修復されて移されまし。
三明院-多宝塔-1
池から通路を南へ進むと、懸崖造りの多宝塔が見えてきます。
三明院-山門
通路が東へと曲がった先に三明院の山門があります。
三明院は、山号を「延壽(寿)山」と号する真言宗醍醐派の寺院です。
三明院-羅漢像
参道の石段の両側には羅漢像が祀られています。
三明院-香取大明神
石段を登った所には鳥居が建ち、香取大明神が祀られています。
香取大明神とは、千葉県香取市にある香取神宮の祭神であり、
経津主神(ふつぬしのかみ)の別名です。
『日本書紀』では武甕槌神(たけみかづちのかみ)を伴い、
葦原中国を平定した神とされています。
三明院-第三世像
右側に第三世・佐竹周海僧正の像が祀られています。
三明院は、明治39年(1906)に、当地出身の佐竹信光和尚が開山し、
佐竹周海僧正により中興されました。
三明院-本堂
現在の本堂は昭和13年(1938)に再建され、弘法大師を本尊とし、
両脇侍に不動明王と歓喜天が祀られています。
三明院-多宝塔からの並び
境内の西側に地蔵堂、鐘楼、多宝塔と並んでいます。
三明院-多宝塔-3
多宝塔は昭和36年(1961)に建立され、十一面観世音菩薩像が安置されており、
毎月1日に開帳されています。
境内には楓が植えられ、隠れた紅葉の名所ともなっています。
大楠公像
三宅八幡宮の参道へと戻ります。
参道を南へ進むと西側に大楠公の像が建立されています。
楠木正成(くすのき まさしげ:?~1336)は、鎌倉時代末期から
南北朝時代にかけての武将で、忠臣として明治13年(1880)に正一位を追贈されました。
また、「大楠公(だいなんこう)」と尊称され、明治5年(1872)には神戸市に
楠木正成を祀る湊川神社(みなとがわじんじゃ)が創建されました。
連続した鳥居
参道には鳥居が並んでいます。
一の鳥居
更に南へ進むと高野川沿いの道路に突き当たり、一の鳥居が建っています。

高野川沿いに上流方向へ進み、蓮華寺へ向かいます。
続く

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