インクライン
地下鉄・蹴上駅からインクラインの下をくぐる「ねじりまんぽ」を抜けると、
インクラインへの登り口があります。
第3代京都府知事となった北垣国道(きたがき くにみち:1836~1916)は、
東京遷都で沈みきった京都に活力を呼び戻すため、明治18年(1885)に
田邉朔郎(たなべ さくろう:1861~1944)を工事担当者として
琵琶湖疎水の工事に着工しました。
上水道や水運などが主な目的で、後に水力発電の計画も取り入れられ、
明治23年(1890)に完成しました。
インクラインは落差が大きくて船の運航が困難な蹴上船溜りと南禅寺船溜り間
約640mを結ぶ傾斜鉄道で、当時は傾斜鉄道としては世界最長でした。
明治24年(1891)からまで昭和23年(1948)まで使用され、昭和26年(1951)9月に
砂を積んだ30石船が最後に下り、疎水舟運60年の任務を終えました。

旧東海道で三条大橋から大津へ至るには、日ノ岡峠と逢坂山の峠越えがあり、
交通の難所でした。
明治13年(1880)に京都駅~馬場駅(その後大津駅と改称、現在の膳所駅)で開通した
東海道線もこれらの峠を越えることが出来ず、
伏見稲荷から山科へと大きく迂回していました。
当時の運賃や本数から考えても、琵琶湖疎水を利用する人が多く、
明治44年(1911)には渡航客数約13万人の記録が残されています。
因みに、開業時の大津~蹴上間の運賃は下りが4銭で所要時間は約1時間20分、
上りは5銭で所要時間は約2時間20分でした。
それに対し、京都駅~馬場駅の運賃は上等50銭(往復75銭)、
中等30銭(往復45銭)、下等15銭でした。

大正元年(1912)に京津電気軌道(けいしんでんききどう=現・京阪電車京津線)により
逢坂山隧道が貫通して三条大橋駅~札ノ辻駅(現在の浜大津駅の手前にあった)間が
開通すると渡航客数は3万人台に激減しました。
一方、貨物の輸送量は大正14年(1925)に史上最高の33万3千トンを記録し、
舟運を支えていましたが、昭和26年(1951)9月に任務を終えました。
その後、レールも撤去されましたが、昭和52年(1977)に産業遺産として保存するために
復元され、平成8年(1996)に国の史跡に指定されました。
蹴上浄水場
軌道上から蹴上浄水場が見えます。
ツツジの名所で、例年公開が行われていますが、
新型コロナの影響で中止されています。
蹴上浄水場は明治45年(1912)に完成した第2疏水の開通に伴い建設された
日本初の急速濾過式浄水場です。
昭和37年(1962)11月に水需要の増加に対応するため、創設期の第1系統が改良され、
新たに第2系統が新設されました。
平成9年(1997)9月、老朽化により第1系統は撤去され、平成15年(2003)10月には
第2系統は新しい施設に切り替えられました。
蹴上発電所
インクラインを下って行くと蹴上発電所が見えます。
毎週金曜日の午前10時及び午後1時から約1時間、場内の見学会が行われていますが、
現在は新型コロナの影響で休止されています。
田邉朔郎は琵琶湖疎水の建設工事中の明治21年(1888)に渡米し、
世界初の水力発電を実現したアスペン鉱山を視察しました。
帰国後、当初予定の水車動力を水力発電に変更し、明治24年(1891)に完成したのが
日本初の水力発電所となる蹴上発電所です。
この電力の供給を受け、京都電気鉄道(後の京都市電)が設立され、
明治28年(1895)2月1日に日本初の営業用電車が走りました。
インクライン-30石船
船台と酒樽を積んだ三十石船が復元されています。
無鄰菴-1
南禅寺の交差点を西へ進み、その先の路地を北へ入ると無鄰菴(むりんあん)が
ありますが、新型コロナの影響で拝観は休止されていました。
明治29年(1896)に完成した山縣有朋の別邸で、
庭園と母屋、洋館、茶室から構成されています。
庭園は七代目・小川治兵衛により作庭され、里山の風景を表す自然主義的な
新しい庭園観により造営され、国の名勝に指定されています。
東山を借景とし、明るい芝生に琵琶湖疏水から引かれた小川が池に注ぐ
池泉廻遊式庭園で、広さは約3,135㎡に及びます。
無鄰菴-2
路地から見える煉瓦造2階建の洋館は明治31年(1898)に竣工し、
日露戦争開戦前の明治36年(1903)4月21日にはこの建物の2階で「無鄰菴会議」が
行われ、当日の様子が展示されています。
無鄰菴は昭和16年(1941)に京都市へ寄贈され、現在は市の管理となり、
南禅寺界隈別荘群の中で唯一通年公開されています。
南禅寺は明治の上知令で境内の4/5が国有地となりました。
第3代京都府知事・北垣国道は琵琶湖疏水計画を立案し、水車動力による
一大工業地帯の造成を計画していましたが、水力発電所へ変更されたため、
風致地区として景観が保存され、多くの別荘が建てられることとなりました。
疎水
無鄰菴から北へ進むと疎水に突き当たります。
疎水の北側は、やはり現在休園中の京都市動物園です。
明治15年(1882)に開園した上野動物園の次に、大正天皇の結婚を記念して、
明治36年(1903)4月に開園した日本で2番目に古い動物園です。
平成27年(2015)にはリニューアルオープンし、それまでの展示方法から
「もうじゅうワールド」や「おとぎの国」などへと刷新されました。
旧ドラム室
噴水の奥に見える、ツタが絡まった建物は旧ドラム(巻上機)室で、
インクラインの台車を動かす動力室でした。
動力にはモーターが使用され、蹴上発電所から電力が供給されました。
琵琶湖疎水記念館
東側の対岸には琵琶湖疎水記念館があります。
琵琶湖疎水に関する資料が展示され、入館は無料です。
巨大な輝き
インクラインの南禅寺船溜り付近には「巨大な輝き」の像が建っています。
琵琶湖疎水には3~4の隧道(=トンネル)があり、それらを掘った人々のパワーと
琵琶湖からの永遠の恵みを感謝して建立されました。
琵琶湖疎水記念館-入口
南禅寺への橋を渡り、直ぐに左折すると琵琶湖疎水記念館への入口がありますが、
こちらも休館中でした。
不明門
北へ進むと、かっての南禅寺の境内地であり、明治42年(1909)に
藤田小太郎(1863~1913)が建てた私邸があります。
七代目・小川治兵衛により庭園が築かれ「洛翠庭園(らくすいていえん)」と
称されました。
その後、昭和33年(1958)に旧郵政省共済組合の所有となり、
職員の保養施設として利用されるようになりました。
平成19年(2007)の郵政民営化後は日本郵政共済組合の所有となりましたが、
平成21年(2009)に売却され、現在は非公開となっています。
通から見える不明門(あかずのもん)は、伏見城の遺構とされています。
貴賓の来客以外に開けられることが無かったのでその名が付いたと伝わります。
白河院-1
その先の橋を渡って二条通りを西へ進むと白河院並びに法勝寺跡があります。
かってこの地には藤原良房(804~872)の別荘・白河別業(べつごう)があり、
藤原北家によって代々受け継がれていました。
藤原師実(ふじわら の もろざね:1042~1101)は、第72代・白河天皇に
白河別業を献上し、天皇は承保2年(1075)からこの地で寺院の造営を始めました。
敷地は現在の京都市動物園と同じ面積を北側に加えた広さで、二条大路の延伸上、
当地から鴨川の手前に天皇の正式な入場門である西大門がありました。
承暦元年(1077)に金堂、講堂、阿弥陀堂、法華堂などが建立されました。
金堂は現在の東大寺大仏殿にも匹敵する規模で、堂内には本尊で
像高三丈二尺(約10m)の毘盧遮那仏の他胎蔵界五仏が安置されていました。
金堂の南に広大な池と中島があり、永保3年(1083)、
その中島に高さ二七丈(約81m)の八角九重塔が建立されました。
寺は「法勝寺」と称され、白河には他にも康和4年(1102)に尊勝寺、
元永元年(1118)に最勝寺、大治3年(1128)に円勝寺、保延5年(1139)に成勝寺、
久安5年(1149)に延勝寺と次々に建立されました。
これは総称して「六勝寺」と呼ばれ、法勝寺が最初にして最大のものでした。
白河院-2
法勝寺はその後、文治元年(1185)に発生した文治地震により阿弥陀堂が倒壊し、
三面の築垣がことごとく倒壊した他、八角九重塔も破損しました。
承元2年(1208)には八角九重塔が落雷で焼失し、
5年後に臨済宗の開祖・栄西(1141~1215)により再建されました。
暦応5年/興国3年(1342)の火災で寺の南半分が失われ、
7年後の貞和5年/正平4年(1349)の再度の火災で残りの北半分も失われました。
法勝寺は荒廃し、天正18年(1590)に勅命により坂本の西教寺に併合されました。

大正8年(1919)、京都市下京区で呉服商を営む下村忠兵衛(1892~没年不明)が
この地を購入し、7代目・小川治兵衛の作庭による池泉廻遊式庭園と、
建築家・武田五一の設計による洋館と和館が建てられました。
昭和33年(1958)には日本私立学校振興・共済事業団の所有となり、
京都宿泊所「白河院」として営業されています。
京都市指定名勝となった庭園や建物の一部が一般公開されています。

満願寺へ向かいます。
続く
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