白河院から二条通を西へ進み、次の路地を北へ入るとクランク状に進み、
曲がった所に、付近の景観とは似合わない工場のようなレンガ造りの建物があります。
現在の山門は、江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
山門には山号の扁額「示現山」が掲げられています。
門を入った左側に文子(あやこ)天満宮があり、拝殿及び本殿は
京都市の文化財に指定されていますが、拝殿は倒壊しています。
菅原道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、延喜3年(903)に
道真が左遷された大宰府で亡くなった後に、「われを右近の馬場に祀れ」との
道真の託宣を受けました。
しかし、貧しくて社殿を建立することができなかった文子は、右京七条二坊の自宅に
小さな祠を建てて道真を祀り、これが北野天満宮の始まりであり、
天神信仰の発祥とされています。
文子の住居跡であった京都市下京区に道真と文子を祀る文子天満宮神社が創建され、
現在も残されています。
明治6年(1873)に文子天満宮は、右近の馬場があった
現在の北野天満宮の地に遷されました。
また、文子天満宮は北野天満宮に遷される以前の天慶3年(940)に西ノ京に遷され、
北野朝日寺の僧・最珍を開基とし、道真の自作と伝わる天満自在天像を
安置する真言宗の寺院が満願寺の始まりとされています。
道真の託宣が多治比文子によって成就され、
道真の霊が示現したことから山号を「示現山」と称したと伝わります。
京都市上京区には文子天満宮舊址(きゅうせき)が残されています。
詳細は不明ですが、祠の前にとぐろを巻く蛇の石像、
覆屋にも蛇の彫刻が施されています。
本堂は、江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて造営され、
京都市の文化財に指定されています。
満願寺は、元禄10年(1697)に住持の宗遍(そうへん)僧正が、
妙伝寺の遠沾院日享(おんでんいんにっこう)上人に帰依して日蓮宗に改宗し、
元禄14年(元禄15年とも...)に現在の地に移りました。
元禄13年(1700)には第113代・東山天皇の勅願寺となっています。
本堂には、本尊である釈迦如来像及び多宝如来像が安置されています。
また、妙見菩薩像は当初、法勝寺塔頭の本光寺に安置されていたのですが、
安永3年(1774)に本光寺が焼失したために、満願寺に遷されました。
庫裡の手前には「俊寛僧都故居碑」が建立されています。
法勝寺執行の地位にありました。
安元3年(1177)、平家の横暴に抗し、自らの鹿ケ谷の山荘で
しかし、密告により陰謀は露見し薩摩国の鬼界島に流され、
その後、俊寛は死を決意して、食を断ち自害したと伝わります。
祖師堂前の参道脇に映画監督「溝口健二之碑」が建立されています。
当時の大映社長の永田雅一氏が満願寺を菩提寺としていた縁から、
境内に建てられたそうです。
溝口健二は、昭和9年(1934)、永田雅一が設立した第一映画社に参加し、
その後の変遷を経て、昭和30年(1955)に当時、永田雅一が社長だった
大映の取締役に就任、重役監督となりました。
同年11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章しましたが、
翌年、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し亡くなりました。
平安神宮へ向かいます。
続く
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