カテゴリ:京都市 > 京都市上京区-西部

山門
千本通りを南下し、「千本寺之内」の信号の先、左側に石像寺があります。
石像寺は山号を「家隆山(かりゅうざん)」、正式には「光明遍照院石像寺」と
号する浄土宗の寺院で、洛中四十八願寺及び地蔵尊の洛陽四十八願所霊場の札所です。
大師堂
山門をくぐった左側に大師堂があり、弘法大師と観音菩薩が祀られています。
石像寺は弘仁10年(819)に空海によって創建された真言宗の寺院でした。
最澄らと共に唐に渡った空海は、大同元年(806)に帰国しましたが、
唐から石を持ち帰り、その石に地蔵菩薩を刻んで安置したのが
石像寺の始まりとされています。
この地蔵菩薩には苦しみを抜くという霊験があり、「苦抜地蔵(くぬきじぞう)」と
呼ばれるようになりました。
寺は栄えて8町四方(873㎡)の境内地を有したと伝わります。
その後、鎌倉時代に俊乗房・重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)によって
再興され、浄土宗に改宗されました。
重源は南宋へ3度渡り、建築技術などを習得したとされ、治承4年(1180)に
平重衡の南都焼討で焼失した東大寺の復興を果たしました。
文治2年(1186)に大原・勝林院で行われた「大原問答」に加わり、
法然上人に師事するようになりました。

また、『新古今和歌集』の撰者の一人である藤原家隆が、嘉禎2年(1237)に
石像寺で出家したことから山号が「家隆山」となったとの説があります。
境内の墓地には藤原家隆と共に寂連藤原定家のものと伝わる
三基の供養塔があります。
家隆はその後、四天王寺に入り、その西側の地に「夕陽庵(せきようあん)」を
設けて浄土教の教えである「日想観」を修し、この地より見える
「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、
その彼方にある極楽浄土へ来迎される事を望みました。
後にこの地は夕陽庵に因んで「夕陽丘」と呼ばれるようになり、
現在の大阪市天王寺区夕陽丘町5に家隆の墓と伝わる「家隆塚」があります。
釘抜のモニュメント
山門をくぐった正面に本堂があり、その前には大きなブロンズ製の釘抜の
モニュメントがあります。
昭和39年(1964)に堂本印象が、母の病気平癒を祈願して奉納されました。
本尊の地蔵菩薩が「苦抜地蔵」から「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったのには
以下のような伝説が残されています。
『室町時代の終わり頃、紀ノ国屋道林という商人がいた。
彼は両手に激しい痛みを感じていたが、どんな治療を施しても効き目がなかった。
そこで霊験あらたかな石像寺の地蔵菩薩に7日間の願かけをしたところ、
満願の日の夢に地蔵菩薩が現れた。
地蔵菩薩は「お前の苦しみの原因は、前世において人をうらみ、呪いの人形
(ひとがた)を作ってその手に八寸釘を打ち込んだことにある」と告げ、
呪いの人形から抜き取った八寸釘を道林に示して見せた。
道林が夢から覚めると、両手の痛みはすっかり消えていた。
そして、石像寺に参詣すると、本尊の地蔵菩薩の前には血に染まった2本の八寸釘が
置かれていたという。
道林は地蔵菩薩に感謝して、100日間のお礼参りを行ったと伝わります。』
現在では、本堂の周囲を百度または、年齢の数だけ回って祈願される
多くの方々が見られます。
絵馬
本堂の外壁には、実物の八寸釘と釘抜きを貼り付けた約千枚もの絵馬が
貼り付けられています。
玉姫社・おさすり地蔵
本堂の右側に「おさすり地蔵」と「玉姫大明神」が祀られています。
おさすり地蔵は、自身の体の悪い部分と同じところを擦って祈願すれば
治癒すると信仰を集めているそうです。
境内の右側
境内の右側
水掛地蔵・不動
水掛地蔵菩薩や不動明王も祀られています。
阿弥陀三尊像
本堂の裏側に、国の重要文化財に指定されている石像の阿弥陀三尊と弥勒菩薩立像
が安置されています。
中央の阿弥陀如来像は像高91.5cmで、光背の裏面に元仁2年(1225)開眼の銘があり、
台座から光背まで切り出した石像としては日本最古例とされています。
脇侍として右に観音菩薩、左に勢至菩薩像が安置され、共に像高は約103cmです。
三尊像の右側に弥勒菩薩立像が安置されています。
地蔵堂
本堂の右側に地蔵堂がありますが、「釘抜地蔵尊」と呼ばれるのは
本堂に安置されている地蔵尊です。

画像はありませんが、境内には空海が自ら掘ったと伝わる井戸が残され、
今も水が湧き出ているそうです。

千本通りを北上して引接寺(千本ゑんま堂)へ向かいます。
続く

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本堂
千本通りを北上して、「千本寺之内」の信号の次にある信号の左側に、
引接寺(いんじょうじ)があります。
引接寺は、山号を「光明山」、正式な寺号を「歓喜院引接寺」と号する
高野山真言宗の寺院です。
かって、引接寺の北、船岡山の北西から紙屋川にかけての地区は
「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれ、化野(あだしの)、
鳥辺野(とりべの)と共に京都の三大風葬地の一つでした。
現在の千本通りは、蓮台野へ死者を運ぶ道であり、
通りに沿って千本の卒塔婆が立てられていたことに由来します。
「引接」とは、仏が衆生を浄土に往生させるとの意味があり、
引接寺で引導を渡され、蓮台野へ運ばれたと思われます。

引接寺は寺伝では、小野 篁(おの の たかむら:802~853)が、閻魔大王から
現世浄化のため、亡くなった先祖を再びこの世へ迎えて供養する「精霊迎え」の
法儀を授かり、自ら閻魔大王の像を刻んで祠に安置したのが始まりとされています。
寛仁元年(1017)に恵心僧都・源信の門弟・定覚上人が、
「光明山歓喜院引接寺」として開山し、「諸人化導引接仏道」の道場としました。
毎年、春のゴールデンウィーク中に公演される「大念仏狂言」は、定覚上人が
布教のために始めた「大念仏法会」が起源とされています。
応永13年(1406)に第100代(北朝第6代)・後小松天皇が、北山山荘への行幸の際に
立ち寄られ、普賢象桜を分け与えたと伝わり、
引接寺は花見で賑わうようになりました。
3代将軍・足利義満は桜の開花に合わせて狂言を行うようにと
米50石を寄進しています。
大念仏狂言は昭和39年(1964)に後継者不足から中断し、昭和49年(1974)には
不審火により狂言堂が全焼しましたが、狂言面は庫裡で保管され、被害を免れました。
翌年、千本ゑんま堂大念仏狂言保存会が結成されて稽古を再開し、
その翌年には大念仏狂言の公演が再開されて今日に至っています。

本尊の閻魔大王は、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
長享2年(1488)に仏師・定勢によって造像されました。
像高・横幅ともに2.4mで、脇侍として右に判決文を記録する司録(しろく)と
左に罪状を読み上げる司命(しみょう)像が安置されています。
昭和52年(1977)の火災で一部が損傷し、平成18年(2006)に仏師・今村宗圓が
境内のイチョウの木で修復しています。

閻魔大王の湯呑茶碗「萬倍碗(まんばいわん)」に賽銭を投げ入れると、
1万日参拝したのと同じ功徳があるとされています。

堂内の壁画は「閻魔王庁の図」は狩野元信の筆によるもので、現存する地獄壁画の
板絵では日本最大ですが、剥落が激しく残念に思えます。
地蔵池
本堂の右側を進むと地蔵池があります。
多数の石仏が祀られ、今の千本通りから発掘された
数十体の地蔵像も安置されています。
精霊迎えでは、この池で「お塔婆流し」が行われ、「お迎え鐘」を撞いて
先祖の霊を我が家に迎えます。
紫式部供養塔
高さ6mの紫式部供養塔は、元中3年/至徳3年(1386)に円阿上人の勧進により
建立されたとの刻銘があり、国の重要文化財に指定されています。
紫式部は『源氏物語』に狂言綺語(きょうげんきぎょ)を記して好色を説いた罪で
地獄に落とされたと伝わり、成仏を願って建立されました。
紫式部供養塔-基礎石
一重目の円形基礎石に14体の地蔵小像が刻まれ、その上の軸部東面には薬師如来、
南面に弥勒菩薩、西面に阿弥陀如来、北面に釈迦如来像の四仏坐像が表されています。
紫式部供養塔-二重目
その上には四隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部が置かれています。
更に9枚の笠石を重ね、十重の塔としていますが、二重の宝塔と十三重石塔の残欠を
組み合わせたものです。
紫式部像
塔の手前には紫式部と大黒天、布袋尊の像が祀られています。
普賢象桜
また、普賢象桜が植栽されています。
鎌倉の材木座にあった普賢堂の横に咲いていたことから名付けられた、
八重桜の日本最古の品種で、遅咲きの桜です。
茶釜塚
茶釜塚
小杉大明神
小杉大明神
童観音
童観音は平成17年(2005)に造立された、高さ2mのブロンズ坐像で、
「わらべちゃん」と呼ばれています。
鐘楼
童観音から東へ進むと精霊迎え、送りの鐘撞き堂があります。
梵鐘
梵鐘には天授5年/康暦元年(1379)の銘があり、市の文化財に指定されています。
観音堂
観音堂には本尊の本地仏である地蔵菩薩像、右に開基・小野篁像、
左に灑水観音(しゃすいかんのん)が安置されています。
灑水とは香水を注いで清めることで、 悪病が流行した時に、
観音様を祀り、楊枝と灑水を供えると病が鎮まったと伝わります。
茶室
本堂の左側には茶室がありますが、非公開です。

千本通りを北上して上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)へ向かいます。

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北門
平野神社の東鳥居を出て東へ進んだ所に北野天満宮の北門があります。
顕彰碑
北門の前には織物の名工で明治25年(1892)に亡くなった
伊達弥助氏の顕彰碑が建立されています。
伊達家(だてけ)は代々西陣で織屋を営み、弥助は西陣機業の近代化に貢献しました。
松永伍作顕彰碑
西側には松永伍作氏の顕彰碑が建っています。
松永伍作(1853~1908)は、明治32年(1899)に京都蚕業講習所の初代所長となり、
蚕業界に寄与した功績を顕彰してこの碑が建立されました。
文子天満宮-1
北門を入った東側に「文子天満宮(あやこてんまんぐう)」 があります。
文子天満宮-2
菅原道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、延喜3年(903)に
道真が左遷された大宰府で亡くなった後に、「われを右近の馬場に祀れ」との
道真の託宣を受けました。
しかし、貧しくて社殿を建立することができなかった文子は、右京七条二坊の自宅に
小さな祠を建てて道真を祀り、これが北野天満宮の始まりであり、
天神信仰の発祥とされています。
文子の住居跡であった京都市下京区に道真と文子を祀る文子天満宮神社が創建され、
文子天満宮神社は現在も残されています。
明治6年(1873)に文子天満宮は、右近の馬場があった現在地に遷されました。
また、文子天満宮は北野天満宮に遷される以前に西ノ京に遷され、
京都市上京区には文子天満宮舊址(きゅうせき)が残されています。
東門
東門は切妻造り、銅葺きの四脚門で国の重要文化財に指定されています。
画像はありませんが、現在は駐車場となっている東門の前から今出川通りへは
「右近の馬場」と呼ばれていました。
大同2年(807)に開かれ、寛平9年(897)に権大納言兼右近衛大将に任ぜられた
菅原道真が好んだ場所であったことが、その名の由来となりました。
当時は桜の名所で、桜狩りが行われていました。
そのような桜を道真は愛していたと伝わります。
明月舎-
東門を入った北側に茶室「明月舎」への門があります。
明月舎-2
明月舎では北野大茶湯を祈念して、毎月1日と15日に献茶会が催されています。
竈社-1
門の西側に「竈社」があり、鳥居は明智光秀により寄進されました。
竈社-2
庭津彦神、庭津姫神火産霊神(ほむすびのかみ)が祀られています。
かっては、天満宮の御供所のかまどに祀られ、当時使われていた大釜が
社殿の床下に納められています。
手水舎
東門の先にある手水舎には「撫で牛」が祀られています。
長五郎餅
東門を入った南側に長五郎餅を売る茶店があります。
天正年間(1573~1593)に河内長五郎が、餡(あん)を羽二重餅でくるんだ菓子を、
北野天満宮の境内で参拝者に振る舞ったのが始まりで、餡入り餅の祖とされています。
天正15年(1587)に豊臣秀吉が北野で催した北野大茶湯で、この餅が茶菓子として
使われ、秀吉から高く評価されて「長五郎餅」の名を賜りました。
その後は、明治維新まで皇室の御用達となり、小松宮家山階宮家といった
各宮家からも重宝されました。
明治維新の際、京都詰めとなった諸国の大名により全国にひろめられました。
和魂漢才碑
茶店前の参道を西へ進んだ北側に「和魂漢才碑」が建っています。
「和魂漢才(わこんかんさい)」とは、日本固有の精神「大和魂(やまとだましひ)」
と中国伝来の学問「漢才(からざえ)」という対なる概念のことであり、
また、その両者を合わせることの意味でもあります。
『菅家遺誡(かんけ いかい)』に記された和魂漢才に関する二章が
碑文とされています。
室町時代に成立した『菅家遺誡』には、公家で守るべきことを
菅原道真に仮託して33条にまとめられ、神事・田猟・武備・刑罰・冠婚葬祭などに
分類されています。
本殿
横から見る本殿
右側が本殿で「石の間」を挟み、左側が拝殿です。
本殿‐楽の間と石の間
手前が「楽の間」で奥が「石の間」です。
現在の社殿は慶長12年(1607)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として建立されたもので、
国宝に指定されています。
拝殿と本殿の間は「石の間」と呼ばれる石畳の廊下で接続され、本殿の西には脇殿を、
拝殿の左右には「楽の間」が連結された
日本最古の八棟造(権現造)の建物となっています。
車祓い所
手前には南北の参道があります。
その参道の北側には車祓所があり、その左奥に地主神社が見えます。
三光門からの参道-南側
南側には楼門があります。
本殿は楼門の正面ではなく西にずれて建立されています。
北野桜
参道を南へ進むと社務所があり、社務所前には、
御神木の「北野桜」が植栽されています。
平成28年(2016)に日本唯一の新品種と判明した、四月中旬に開花する遅咲きの桜で、
樹齢120年の古木です。
神楽殿
社務所の南側に神楽殿があり、毎月25日に神楽舞が奉納されます。
宝物殿
神楽殿の南側に宝物殿があります。
宝物殿-催し物
宝物殿には国宝「北野天神縁起絵巻」など、
皇室をはじめ、公家や武家より奉納された宝物が展示されています。
毎月25日とその他期間限定の開館となり、令和2年(2020)10月25日~12月6日までは
大刀剣展改め「刀剣探訪」と称され、源氏の宝刀「鬼切丸」他名刀約40振が
展示されています。
校倉
宝物殿の南側に校倉があります。
花手水-手水舎
校倉の手前に手水舎があり、「梅香水」と称されています。
花手水
また、「北野の花手水」として生け花が添えられています。
日月光の灯籠
手水舎の南側にある石灯籠には「日月光」と刻まれています。
絵馬堂
手水舎から西へ曲がった先に絵馬所があります。
元禄12年(1699)に建立されたもので、規模と歴史は現存する絵馬所のなかでも
随一とされ、京都市の文化財に指定されています。
絵馬堂-額
絵馬所には三十六歌仙の額が掲げられています。
白太夫社
絵馬所の手前から北への参道があり、正面に三光門が見えます。
三光門へと至る参道の右側に白太夫社があり、
渡会春彦(わたらい の はるひこ)が祀られています。
道真の父・菅原是善が安産祈願を託した豊受大神宮(外宮)の神官で、
道真誕生後は道真の守役として仕え、大宰府までお供しました。
渡会春彦は若いころから白髪でお腹が太かったことから
「白太夫」と呼ばれ、子授けの神として信仰を集めています。
福部社
左側に福部社があり、十川能福(そごう の のうふく)が祀られています。
十川能福は道真に仕えた舎人で牛車を引く牛の世話係でした。
名前から転じて、いつの頃からか「福の神」として信仰されるようになりました。
老松社-1
その先の左側に老松社があり、島田忠興(しまだ の ただおき)が
祀られています。
島田忠興は菅原道真の家臣(牛飼)とも、夫人の父であったとも伝わります。
大宰府に左遷された道真が、自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し、
天を拝した伝わる天拝山に、道真の笏(しゃく)を持ってお供したとされています。
後に道真は忠興に松の種を持たせ、当地に蒔くように託されました。
道真の神霊がその地に降臨された際、多数の松が一夜にして生じたと伝わります。
このことから、老松社は植林や林業の神とされています。
火之御子社
老松社の右側に火之御子社があり、火雷神が祀られています。
北野天満宮の創建以前の元慶4年(880)頃に藤原基経が、
この地に「北野雷公」と称して祀ったとされています。
藤原基経は元慶3年(879)から数年をかけて、約50年ぶりに班田収授を実施しました。
班田収授とは戸籍・計帳に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や
人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公されるというもので、
飛鳥時代の大宝元年(701)に大宝律令の制定により定められました。
雷神に雨を祈り五穀豊穣を祈願する一方で
落雷による災難除けの神として祀られました。
基経は元慶3年(879)には道真の父・菅原是善らと、文徳天皇の代である
嘉祥3年(850)から天安2年(858)までの8年間の歴史書
『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』の編纂を行い、
全10巻を完成させました。
また、元慶4年(880)に太政大臣に任ぜられています。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、朝廷は火雷神が
祀られていた北野の地に北野天満宮を創建したとされています。
撫で牛-カラー
その先には参道の左右に臥牛が祀られています。
境内には多数の臥牛の像が奉納されています。
菅原道真は承和12年(845)の乙丑(きのとうし)年の生まれで、
延喜3年(903)に大宰府で亡くなられた際には遺骸は「人にひかせず
牛の行くところにとどめよ」と遺言されました。
遺骸が載せられた牛車を引いていた牛は安楽寺の付近で動かなくなり、
道真は安楽寺に葬られました。
後に安楽寺の廟は朝廷により安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。
これらの故事から牛は天満宮の「神使い」とされています。
右側の臥牛はカラフルです。
撫で牛-黒
左側は多くの人に撫でられ、黒光りしています。
三光門
三光門(中門)は、慶長12年(1607)に豊臣秀頼により現在の社殿が建立された際に
現在の三光門が建立され、国の重要文化財に指定されています。
三光門-扁額
扁額「天満宮」は第111代・後西天皇の筆によるものです。
三光門-日輪
日輪の彫刻
梁間に三光となる日輪・月輪・三日月が彫刻されていますが、
星は彫刻されていません。
三光門-月輪
月輪の彫刻
平安京では御所は現在の二条城付近に造営され、帝が天満宮に向かって
祈りを捧げられる際、三光門の真上に北極星が輝いていたことから
星の彫刻は省かれ、「星欠けの三光門」とも呼ばれています。
三光門-三日月
三日月の彫刻
お祓い所
三光門からの回廊も慶長12年(1607)に建立され、国の重要文化財に指定されています。

回廊前の左右には神事でお祓いが行われる場所がありますが、
左の方は門の前から西側にずれています。
織部灯篭
織部灯篭
茶人・古田織部が考案した石灯篭で、その原型は古田織部の墓
(京都市上京区の興聖寺)にあったと伝わります。
マリア像が彫られ、「マリア灯篭」とも「切支丹灯篭」とも呼ばれています。
世継の梅
その右側の梅の木は照憲皇太后の御献進の紅梅で、「世継の梅」と呼ばれています。
明治4年(1871)に第122代・明治天皇の皇后に冊立された
一条美子(いちじょう はるこ)が、北野天満宮に参詣され、
実家にあった梅の木を献進されました。
しかし、その梅の木は枯れてしまい、現在は京都御所から拝授したものが、
「世継の梅」として受け継がれています。
大黒灯籠-1
織部灯篭の向かい側辺りに「大黒組」と記され、
大黒天が刻まれた石灯籠があります。
安政2年(1855)に河原町正面にあった質屋「大黒屋」を中心とした質屋商組合から
寄進されました。
大黒灯籠-2
浮き彫りにされた大黒天の口か頬に小石を載せ、その石が落ちなければ
財布に入れて祈るとお金に困らないと言い伝えられています。
拝殿
三光門をくぐった正面に拝殿があり、その両側に楽の間、背後に中殿、石の間
そして、本殿の外陣、内陣と続きます。
拝殿には唐破風や黄金色に輝く装飾、数々の精緻な彫刻が施されています。
拝殿-立牛
蟇股に施されている牛の彫刻は、境内で唯一の立つ牛の神像です。

延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
都では落雷などの災害が相次いで起こりました。
これは道真の祟りだとする噂が広まり、朝廷は道真の没後20年後に左遷を撤回して
官位を復し、正二位を贈りました。

天慶5年(942)に多治比文子が道真の託宣を受けると、その5年後に近江国の
比良宮の神主・神良種(みわのよしたね)の子・太郎丸も同様の託宣を受けました。
天暦元年6月9日(947)、当時この地にあった朝日寺(現在の東向観音寺)の僧・最鎮らは
朝廷の命を受け、道真を祀る社殿を造営し、朝日寺は神宮寺となりました。
その後、天徳3年(959)頃、藤原師輔(ふじわら の もろすけ)は自分の屋敷の建物を
寄贈して、壮大な社殿に作り替えましたが、その翌年、師輔は52歳で病死しました。


永延元年(987)に第66代・一條天皇は勅使を遣わして国家の平安を祈願し、
「北野天満宮天神」の勅号を贈りました。
正暦4年(993)に正一位・右大臣・太政大臣が追贈され、寛弘元年(1004)には
一條天皇の行幸があり、代々皇室の崇敬を受けるようになりました。

鎌倉時代から隆盛していた酒屋は麹造りにまで取り組み、
麹屋は北野社の神人(じにん)身分を得て「麹座」を結成しました。
北野麹座は応永26年(1419)には、京都全域における
麹の製造販売の権利一切を幕府から獲得しました。
酒屋の座の中には延暦寺を本所とするものがあり、延暦寺はこれに反発し、
延暦寺の訴えにより幕府は北野麹座の独占権の廃止を認めました。
北野麹座に属する神人らが北野社に立てこもった為、管領・畠山持国は
文安元年4月13日(1444年5月14日)に兵を北野社に差し向け、
北野社を含む一帯が炎上し、幕府側によって鎮圧されました。(文安の麹騒動

この麹騒動以降、北野社は一時衰退しましたが、豊臣秀吉は天正15年(1587)10月1日に
北野大茶湯を催し、天正19年(1591)には境内の西側に「御土居」を築いて
社領602石を安堵しました。
慶長12年(1607)、豊臣秀頼は片桐且元(かたぎり かつもと)を造営奉行として
現在の社殿を造営しました。

江戸時代では徳川家により社領が安堵され、また学問の神としての信仰も集め、
寺子屋などで天満宮の分霊が祀られるようになりました。
明治4年(1871)に官幣中社に列せられましたが、「宮」を名乗ることができなくなり、
「北野神社」と改称されました。
戦後は神社本庁の別表神社に列せられ、「北野天満宮」に戻されました。
神仏霊場の第95番札所となっています。

本殿には主祭神として菅原道真が祀られています。
大宰府に左遷された道真が、福岡県筑紫野市にある天拝山(てんぱいざん)に登り、
無実を訴える祭文(さいもん=祭りの際に神にささげる願文)を読上げると、
「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたとの伝承が残されています。
延喜3年(903)2月25日に道真が亡くなると、京都には異変が相次ぎます。
延喜5年(905)頃に道真の霊を鎮めるために、醍醐天皇は藤原仲平に命じ、
廟を建立して安楽寺としました。

延喜9年(909)に道真と対立し、事実を曲げた告げ口で道真を左遷へと追いやった
藤原時平が39歳で病死すると、延喜13年(913)には道真失脚の首謀者の一人とされる
右大臣・源光(みなもと の ひかる)が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。
延喜23年(923)に醍醐天皇の第二皇子で皇太子の保明親王(やすあきらしんのう)が
21歳で薨去(こうきょ)され、保明親王の第一王子・慶頼王(やすよりおう)が
皇太子に立てられましたが、2年後に僅か5歳で薨去されました。
醍醐天皇は自らが下して左遷に追いやった道真の祟りであるとして、
道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄しました。

しかし、それでも台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、延長8年(930)6月には
内裏の清涼殿に落雷が発生し、公卿を含む複数の死者が出ました。
これを見た醍醐天皇は病に臥し、3ヶ月後に醍醐天皇の第11皇子・寛明
(ゆたあきら)親王(第61代・朱雀天皇)に譲位し、その7日後に崩御されました。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、朝廷は火雷神が祀られていた
北野の地に北野天満宮を建立し、道真を祀るようになりました。
また、安楽寺の廟は安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。

相殿には中将殿と吉祥女が祀られています。
中将殿は道真の長男・高視(たかみ)を指し、昌泰の変(しょうたいのへん)では
父に連座して延喜元年(901)に土佐へ左遷されました。
5年後に帰京が許されましたが、延喜13年7月21日(913年8月25日)に
38歳で病死しました。

吉祥女は道真の正室・島田宣来子(しまだ の のぶきこ / せきこ)を
神格化した神で、吉祥天と習合したとされています。
道真が大宰府への左遷後も京都に留まったとされていますが、
その後の動向や死亡時期については定かではありません。
一説では娘たちと共に岩手県一関市へ落ち延びたとされ、墓が残されています。
宣来子は延喜6年(906)に道真の訃報を聞くと悲しみに暮れて病に伏し、
同年に亡くなりました。
松
拝殿の前に向かって右に松が植えられています。
松もまた、北野天満宮と関わりが深く、「私の魂を祀るべき地には一夜にして
千本の松を生じさせる」という道真のお告げがありました。
表参道には「北野の松原」と呼ばれるほど松が植えられ、
現在でも境内の松の木は120本を数えられます。
飛梅
左には梅が植えられています。
梅の木は樹齢400年以上とみられ、「飛梅伝説」の原木とされています。
菅原道真は屋敷内の庭木の内、日頃から梅の木・桜の木・松の木を
とりわけ愛でていました。
藤原時平との政争に敗れて大宰府へ左遷されることとなった道真は、
これらの木と別れを惜しみ、梅の木に「東風(こち)吹かば にほひをこせよ
梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな」と語りかけるように詠みました。
道真が去った後、桜は悲しみの余り枯れてしましたが、
梅と松は道真の後を追い空を飛びました。
松は途中で力尽き、摂津国八部郡板宿(現・兵庫県神戸市須磨区板宿町)近くに
降り立ち、この地に根を下ろしました。
「飛松伝説」と呼ばれ、降り立った岡は「飛松岡」と呼ばれています。
梅は大宰府まで飛んで行き、大宰府天満宮の御神木「飛梅」として祀られています。
渡辺綱寄進の石灯籠
松の前方にある石灯籠は、渡辺綱(わたなべ の つな)が
寄進したものとされています。
『平家物語』剣巻では、源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が、夜中に一条戻橋
東詰を通りかかると、美しい女性から、「夜も更けて恐ろしいので
家まで送ってほしい」と頼まれました。
綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、
それを引き受け馬に乗せました。
すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へと
飛び立ちました。
綱は鬼の腕を太刀で切り落とすと、北野社の回廊に落ち、屋根は破れましたが
命は救われました。
後日、渡辺綱は北野社の加護に感謝をこめて石灯籠を寄進したとされています。
また、切り落とした鬼の腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に
置かれていたのですが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされています。
また、渡辺綱が持っていた刀は「髭切(ひげきり)」と命名されていましたが、
鬼の腕を切り落としたことにより「鬼斬(おにきり)」と改名されました。
裏の社
本殿の裏側には「裏の社」があり、「御后三柱(ごこうのみはしら)」として
天穂日命(あめのほひのみこと)、菅原清公(すがわら の きよきみ/きよとも)、
菅原是善(すがわら の これよし)が祀られています。
菅原氏の遠祖は、古代豪族の土師氏(はじし)で、天穂日命の末裔と伝わる
野見宿禰(のみのすくね)が殉死者の代用品である埴輪を発明しました。
野見宿禰は、第11代・垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を与えられ、
曾孫の身臣(みのおみ)は第16代・仁徳天皇より土師連姓を賜りました。
土師氏は、現在の道明寺天満宮周辺を本拠としていましたが、
天応元年(781)に桓武天皇が第50代天皇として即位すると、菅原古人や一族15名は、
居住地である大和国添下郡菅原邑に因んで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、
これが認められました。
菅原古人の四男が菅原清公で、道真の祖父に当り、
清公の四男が菅原是善で道真の父親となります。

本殿の後方から西側にある摂・末社を参拝します。
続く

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地主神社
本殿の後方東側に地主神社があり、天神地祇(てんじんちぎ)と相殿に
敦実親王・斎世親王(ときよ しんのう)・
源英明朝臣(みなもと の ふさあきら/つねよし あそん)が祀られています。
『続(しょく)日本後紀』に「承和3年(836)2月1日に遣唐使のために天神地祇を祀る」
と記され、北野天満宮の創建以前からこの地に祀られており、
社殿は新しく見えますが境内最古の社となります。
その後、北野天満宮が創建されたため、北野天満宮の本殿は地主神社に配慮して、
楼門からの参道の西側へ外して建立されました。

相殿祭神の敦実親王(893~967)は、第59代・宇多天皇の第八皇子で、
第60代・醍醐天皇の同母弟です。
和歌・管弦・蹴鞠など諸芸に通じた才人であり、特に音曲に優れ
源家音曲の祖とされています。
天暦4年(950)に出家して法名を「覚真」と称し、仁和寺に住して
康保4年(967)に75歳で薨去されました。

斎世親王(886~927)は、第59代・宇多天皇の第三皇子です。
菅原道真が醍醐天皇から斎世親王に譲位させようとしたという嫌疑で
太宰府に左遷されました。
斎世親王は連座して出家し、仁和寺に入って「真寂」と称し、修行の道を歩みました。

源英明朝臣(?~940)は斎世親王の子で、幼年時代は上記の理由から不遇でした。
醍醐天皇の信任を受け、延喜23年(923)に右近衛中将、延長5年(927)に
蔵人頭と要職を歴任しました。
延長8年(930)に醍醐天皇から第61代・朱雀天皇への譲位に伴って蔵人頭を辞し、
承平元年(931)に宇多上皇が崩御されてからは再び不遇となりました。
老松社
地主神社の西側に老松社があり、天満大自在天神の眷属第一の神である
老松大明神が祀られています。
老松大明神は菅原道真の家臣(牛飼)だった島田忠興(しまだ の ただおき)を
神格化した神で、生前に、天拝山に登る道真の笏(しゃく)を持ち
お供したとされています。
雲龍梅
老松社の左前に植栽されている梅の木は「雲龍梅」と称され、
平成14年(2002)1月22日の菅原道真没後1100年を記念した「菅公千百年大祭」で、
全国天満宮梅風会により記念植樹されました。
枝がねじれ、龍が天に舞昇るように見えることからこの名が付き、
盆梅や庭木などで親しまれています。
十二社-1
老松社の西側に末社十二社を祀る社殿があります。
手前から寛算社(祭神:寛算入寺)、大門社(祭神:大門内供奉)、
橘逸勢社(祭神:橘逸勢)、藤太夫社(祭神:藤太夫吉子)、
文太夫社(祭神:文屋宮田麿)、淳仁天皇社(祭神:淳仁天皇)、
太宰少貳社(祭神:藤原広嗣)、老松社(祭神:島田忠臣翁)、
白太夫社(祭神:度会春彦翁)、
櫻葉社(祭神:伊予親王)、吉備大臣社(祭神:吉備真備公)、
崇道天皇社(祭神:崇道天皇)と並んでいます。

寛算入寺(かんざんにゅうじ)は筑紫安楽寺の住僧で道真を慕っていた僧だそうで、
歯痛平癒の神として祀られています。

大門内供奉(だいもんないぐぶ)は、天拝山の麓にある武蔵寺の住僧で、
身に覚えのないことを詰問され、非業の死を遂げました。
怨霊となりましたが、菅原道真が天拝山に登られた時に味方となったとされています。
災難除け、難問解決の神として祀られています。

橘逸勢(たちばな の はやなり)は、延暦23年(804)に最澄・空海らと共に
遣唐使として唐に渡り、琴と書を学んで大同元年(806)に帰国し、
それらの第一人者となりました。
しかし、承和9年(842)に起こった承和の変で伊豆への流罪が下され、
護送中に病死しました。
死後、赦免はされましたが、無実の罪で亡くなった逸勢は
怨霊になったとされています。
また、死因が病死であったことから病気平癒の神として祀られています。

藤太夫吉子(とうだゆう きっし)は、櫻葉社の祭神・伊予親王の母で、
親王と共に川原寺の一室に幽閉され、服毒自殺されましたが、
大願成就の神とされています。

文太夫社の祭神・文屋宮田麿(ぶんや の みやたまろ)は、承和7年(840)に
筑前守に任ぜられましたが、翌年までには官職を解かれています。
この間、新羅から朝廷への献上品が届けられましたが、
朝廷からは返却するように命じられました。
しかし、文屋宮田麿がこれを没収したことが朝廷に発覚し、大宰府官人により改めて
新羅に返却されました。
このような経緯が解任の原因になったと思われますが、承和10年(843)には
謀反を図っているとの告発があり、左衛門府に禁獄された後、
伊豆国へ配流されました。
その後の詳細は不明ですが、後に文屋宮田麿は無実であったとされています。
延命長寿の神として祀られています。

第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう:在位758~764年)は、
幼名を「大炊王(おおいおう)」と称し、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の
強い推挙により立太子しました。
天平宝字2年(758)に孝謙天皇から譲位を受け践祚(せんそ)し、
孝謙天皇は太上天皇となりました。
その後、天皇は孝謙上皇と対立するようになり、
政治の実権は上皇が握るようになりました。
天平宝字8年(764)に藤原仲麻呂は政権を取り戻すために挙兵しましたが密告され、
上皇の軍による追撃を受けて戦死しました。(藤原仲麻呂の乱
淳仁天皇は廃位されて淡路国への流罪となり、代わって孝謙上皇が称徳天皇として
重祚(ちょうそ)しました。
やがて、淳仁天皇は33歳で崩御され、その後に干ばつや大風が起こり、
世間は騒然となりました。
淳仁天皇社は心願成就の神とされています。
十二社殿
太宰少貳社(だざいのしょうにしゃ)の祭神・藤原広嗣(ぶじわらのひろつぐ)は、
朝廷内で反藤原氏勢力が台頭し、天平10年(738)に太宰少貳に左遷されました。
天平12年(740)に広嗣は、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である
右衛士督・吉備真備(きび の まきび)と僧正・玄昉(げんぼう)に起因するとして
反乱を起こしましたが捕えられ、処刑されました。
唐津に広嗣の怨霊を鎮めるために鏡神社に二ノ宮が創建され、大同6年(806)には
奈良の新薬師寺の鎮守社として鏡神社が勧請されて南都鏡神社が創建されました。

老松社と白太夫社は北野天満宮-その1に既述の通りです。

櫻葉社は、右近の馬場の千本桜の女神とされる桜葉大明神が祀られています。
また、伊予親王と同体とされ、親王は異母兄の第51代・平城天皇への
謀反の疑いをかけられ、川原寺の一室に幽閉されて飲食を止められましたが
その後、母と主に毒を仰いで自害しました。(伊予親王の変
親王の薨去後に凶事が相次ぎ、親王は無実とされ、弘仁14年(823)に母と共に
復号・復位され、承和6年(839)には一品が追贈されました。
親王は管絃に長じていたことから音楽・声楽・謡曲上達の守護神とされ、
喉の病気平癒にも御利益があるとされています。

吉備大臣社(きびのおおかみしゃ)の祭神・吉備真備が家内安全の神として
敵対した藤原広嗣と同じように祀られています。
吉備真備は、霊亀2年(716)に第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に
阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐し、18年間唐にて経書と史書のほか、天文学・音楽・
兵学などの諸学問を幅広く学びました。
遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと
言われるほどの知識人でした。
帰国後はその実績が高く評価されて昇進し、天平10年(738)に
橘諸兄(たちばな の もろえ)が右大臣に任ぜられて政権を握ると、
真備と同時に帰国した玄昉と共に重用されました。
しかし、これが藤原広嗣の乱を引き起こすことになりました。
天平勝宝元年(749)に第46代・孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂が権勢を強め、
真備は翌年に格下の地方官である筑前守、次いで肥前守に左遷されました。
天平勝宝4年(752)に再び遣唐使に任命されて渡海し、翌年に鑑真を乗船させて
帰国の途に就き、屋久島に漂着するも、無事に帰朝することができました。
帰朝後も中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754)に
大宰大弐(だざいのだいに)に任ぜられました。
この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、
近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために真備を大宰府に
赴任させたと見られています。
真備は大宰府の実質的な責任者として天平勝宝8年(756)に筑前国に
怡土城(いとじょう / いとのき)を築き、新羅からの攻撃に備えました。
更に天平宝字3年(759)には新羅征討計画が立案されましたが、孝謙上皇と仲麻呂との
不和により実行されずに終わりました。
天平宝字8年(764)に造東大寺長官に任ぜられ帰京しましたが、同年に起こった
藤原仲麻呂の乱で優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げました。
その功により昇進しましたが、宝亀6年(775)に81歳で薨去されました。

崇道天皇(すどうてんのう)社には、五穀豊穣の神として崇道天皇が祀られています。
早良親王(さわらしんのう)は桓武天皇の実弟で、皇太子でしたが、
長岡京遷都の翌延暦4年(785)、建都の長官・藤原種継が暗殺され、
それに関与したとみなされました。
暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺に監禁されたのですが、
流罪処分となり淡路島に護送途中、現・大阪府守口市の高瀬神社付近で
亡くなりました。
その後、桓武天皇の第一皇子・安殿親王(あてのみこ=後の第51代・平城天皇
(へいぜいてんのう))が皇太子に立てられましたが発病し、
更に桓武天皇の后も病死しました。
その後も桓武天皇と早良親王の生母・高野新笠(たかの の にいがさ)の病死など
疫病が流行し、洪水の発生などの災難が続きました。
これは早良親王の祟りだとして桓武天皇は、延暦13年(794)に平安京へ都を遷し、
延暦19年(800)には親王に崇道天皇の追称を贈り霊を鎮めようとしました。
牛舎-鳥居
十二社から西へ進むと「牛舎」があります。
牛舎-牛像
撫でると一つだけ願いが叶うという「一願成就のお牛さん」が祀られています。
絵馬
牛舎の奥に絵馬掛所があります。
天狗山の鳥居
更にその奥、境内の北西角に昔、天狗が住んでいたとの伝承がある天狗山があり、
その前には鳥居が建っています。
絵馬掛け所の石
鳥居前には石が祀られていますが、詳細は不明です。
八社
牛社の南側に末社八社を祀る社殿があります。
右から福部社(祭神:十川能福)、高千穂社(祭神:瓊瓊杵命・天児屋根命)、
安麻神社(祭神:菅原道真公のご息女)、御霊社(祭神:菅公の眷属神の御霊)、
早取社(祭神:日本武尊)、今雄社(祭神:小槻宿祢今雄)、
貴布禰社(祭神:高龗神)、荒神社(祭神:火産神・興津彦神・興津媛神)と
並んでいます。

福部社は北野天満宮-その1に記述の通りです。

高千穂社の祭神・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、天照大御神の
神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、
高天原から日向の高千穂峰へ天降りました。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)は瓊瓊杵尊に随伴し、
中臣連の祖となったとされています。

早取社の祭神・日本武尊(やまとたけるのみこと)は、
大津市にある建部大社の祭神です。

今雄社の祭神・小槻宿祢今雄(おつきのすくね の いまお)は、当初「小槻山君」と
名乗っていましたが、後に阿保姓を賜り「阿保今雄」と改名しました。
小槻宿祢を名乗るようになったのは、今雄の子以降とされています。
小槻山氏は近江国栗太郡(現滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とする豪族で、
仁寿元年(851)に今雄は雄琴・苗鹿(のうか)の地を拝領し、所領としました。
雄琴の地名は、今雄の邸宅から琴の音がよく聞こえたためと伝わります。
算道を習得し、太政官の史の官職を得て、平安京左京四条三坊へ移住しました。
雄琴神社では祭神として祀られています。

荒神社の祭神・火産神(ほむすびのかみ)は火を司る神で、興津彦神と興津媛神は
竈(かまど)の神です。
井戸
八社の南側に井戸があります。
「御神用水」と称され、現在でも神事にはここで汲み上げられた
水が用いられるそうです。
手向山の楓樹
井戸の付近に「手向山の楓樹」が植栽されています。
昌泰元年(898)に菅原道真が宇多法皇の巡幸に供奉(ぐぶ)された際に、
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)へ参拝され、その史実により
正徳6年(1716)に手向山八幡宮から楓の苗木が奉納されました。
四社-2
井戸の南側の末社四社には、夷社(祭神:事代主命)、松童社(祭神:神太郎丸)、
八幡社(祭神:誉田別尊)、若松社(祭神:若松章基)が祀られています。

松童社の祭神・神太郎丸(みわ の たろうまる)は、近江国の比良宮の
神主・神良種(みわのよしたね)の子で、天慶5年(942)に多治比文子が
「われを右近の馬場に祀れ」との菅原道真の託宣を受けると、その5年後に
太郎丸も同様の託宣を受けました。

若松社の祭神は若松章基(わかまつ の あきもと)とされていますが、詳細は不明で、
老松社の祭神と同様に天満大自在天神の眷属の一人かもしれません。
七社殿
末社四社の南側に七社を祀る社殿があります。
手前から 那伊鎌社(祭神:建御名方命)、一拳社(祭神:一言主神)、
周枳社(祭神:天稲倉宇気持命・豊宇気能媛)、宰相殿社(祭神:菅原輔正卿)、
和泉殿社(祭神:菅原定義卿)、三位殿社(祭神:菅原在良卿)、
大判事社(祭神:秋篠安人卿)が祀られています。

那伊鎌社(ないかましゃ)の祭神・建御名方命(たけみなかたのみこと)は、
大国主神の御子神で、諏訪大社の祭神です。
天照大御神から派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神
(ふつぬしのかみ)は大国主神に国譲りを迫った際、大国主神は事代主神と
建御名方命の二人の御子神が答えると告げました。
事代主神は承諾しましたが、建御名方命は武甕槌神に力競べを申し出ました。
武甕槌神の力に恐れをなした建御名方命は逃亡しましたが、諏訪で追い詰められ
国譲りと諏訪の地から離れない事を約束して命を助けられました。

一拳社(ひとこぶししゃ)の祭神・一言主神は、奈良県御所市にある葛城一言主神社
祭神で、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされています。

周枳社(すきしゃ)の祭神は、天稲倉宇気持命(あめのいなくらうけもちのみこと)と
豊宇気能媛(とようけのひめのみこと)ですが、天稲倉宇気持命は穀物の神と
思われますが詳細は不明です。
京丹後市大宮町周枳に大宮売神社(おおみやめじんじゃ)があり、古くは「周枳社」
とも「周枳宮」とも呼ばれていました。
しかし、大宮売神社の祭神は大宮賣神(おおみやめのかみ)と若宮賣神です。
豊宇気能媛は、『丹後國風土記』によれば、現在の峰山町の比治山
(ひじさん=磯砂山:いさなごさん)の山頂にある池に舞い降りた八人の天女の
一人とされています。
八人の天女は池で水浴をしていたのですが、その内の一人の羽衣が老夫婦に隠され、
天へ帰れなくなってしまい、老夫婦の娘にされて一緒に暮らすようになりました。
天女は一杯飲めば万病に効く酒を造り、また機織りも教え、
老夫婦はたちまち裕福になりました。
10年後、なぜか老夫婦は天女を追い出しました。
天女は比治の里を彷徨った末、船木(現在の京丹後市弥栄町船木)の里に至り、
そこに鎮まりました。
以来、この地は「奈具」と呼ばれ、村人たちによって天女は
豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として奈具神社に祀られたと伝わります。
また、宮津市江尻にある籠神社(このじんじゃ)奥宮の真名井神社
彦火明命(ひこほあかりのみこと)が創祀し、その御子神である天香具山命
(あめのかぐやまのみこと)が磐境(いわさか)を起こし、
「匏宮(よさのみや)」を創建し、磐座の豊受大神を主祭神として
神祀りを行っていたとされています。
その後、第21代・雄略天皇21年(477)に豊受大神は伊勢へと遷されました。

宰相殿社の祭神・菅原輔正(すがわら の すけまさ:925~1010)は、
道真の五男・菅原淳茂(すがわら の あつしげ:878~926)の孫で、
菅原氏としては道真以来約100年ぶりに議政官の座に就きました。
寛弘6年(1010)に85歳で薨去され、寿永3年(1184)には正二位を追贈されました。

和泉殿社の祭神・菅原定義(1002~1065)の父は道真の曾孫にあたる
菅原資忠(すがわら の すけただ:936~989)の子・
菅原孝標(すがわら の たかすえ:972~?)で、道真から6代目に当たります。
『更級日記』の作者・菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ:1008~1059)は
同母姉妹ですが、本名は伝わってはいません。
定義は、式部少輔、民部少輔、弾正少弼(しょうすけ)、少内記、大内記、
大学頭、文章博士(もんじょうはかせ)を歴任し、
康平7年(1065)に64歳で亡くなりました。
死後、寿永3年(1184)に従三位、乾元元年(1302)に正二位、元徳2年(1330)に
従一位を贈られています。

三位殿社の祭神・菅原在良(1041~1121)は菅原定義の子で、式部少輔・大内記を
兼任した後、文章博士、式部大輔を歴任し、天永2年(1111)に侍読に任ぜられ
第74代・鳥羽天皇に仕えました。
死後、元徳2年(1330)に従三位を贈られました。

大判事社の祭神・秋篠安人(あきしの の やすひと:752~821)は、菅原道真の
祖祖父である菅原古人(すがわら の ふるひと:?~785?)の兄弟で、
古人が本拠地(大和国添下郡菅原)の地名から菅原姓へ、安人の一族はその居住地
(大和国添下郡秋篠)から「秋篠」姓を賜りました。
安人は延暦24年(805)に道真に続いて参議に任ぜられ公卿に列し、右大弁・近衛少将を
兼ね、翌年には左大弁・左衛士督に昇進しましたが、大同2年(807)に起こった
伊予親王の変に関与したとして失脚しました。
大同5年(810)に発生した薬子の変後に復権、参議に還任されて、
左大弁・左兵衛督を兼任し、弘仁12年(821)に70歳で亡くなりました。
源平咲き分け梅
七社殿前の源平咲き分け梅は、平成20年(2008)の全国天満宮梅風会第50回記念植樹で
植えられました。
一本の木に白と薄紅色の二色の花が咲き、源氏の旗が白、平氏の旗が赤だったことから
「源平咲き分け梅」と呼ばれています。
神明社と文子社
参道を南へ進むと、左側に廻廊の西門があり、
西門前の参道の正面には神明社と文子社が北向きに建っています。
左側の文子社は、北野天満宮-その1「文子天満宮」で既述した通りで、
右側の神明社には伊勢神宮・内宮の祭神・天照大御神と
外宮の祭神・豊受大神が祀られています。
かっては御池通寺之内下る神明町で祀られていましたが、文化11年(1814)に
現在地に遷されました。
御土居碑
文子社から西へ進むと「史跡 御土居の紅葉」の碑が建っています。
その先に御土居への入口の門がありますが、施錠されています。
神庫
碑から南側に神庫と紅梅殿に挟まれたやや細い参道があります。
豊国神社
その参道を南へ進むと豊国神社(とよくにじんじゃ)・一夜松神社・
野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)の相殿社があります。

豊国神社の祭神は豊臣秀吉で、秀吉は北野天満宮を厚く崇敬し、
境内地で北野大茶湯を催され、一時衰退していた天満宮を復興しました。
そして、天満宮本殿の造営を遺命とされ、その遺志を継いだ秀頼により
現在の社殿が建立されました。

一夜松神社には一夜千松の霊が祀られています。
一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、「私の魂を祀るべき地には
一夜にして千本の松を生じさせる」という道真のお告げにより、
この一帯に生えた松に宿る神霊とされています。

野見宿祢神社はかっては一之保神社(いちのほ じんじゃ)で祀られていましたが、
明治元年(1868)に遷座されました。
野見宿祢は菅原氏の遠祖であり、第11代・垂仁天皇に仕えていました。
天皇の命により当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(相撲)をとり、
これに勝利して蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を
与えられました。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時、
それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、
土師臣(はじのおみ)の姓を与えられました。
以後、土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなりました。
石材を加工する際に使われる道具の「ノミ」と野見は関連があると
考えられています。
第50代・桓武天皇は道真の祖父である菅原古人の一族15名に、
居住地である大和国添下郡菅原邑に因んで菅原姓(菅原宿祢)への
改姓を認めました。
桓武天皇の母方の祖母は土師氏の出身で、その娘で天皇の生母である
高野新笠(たかの の にいがさ)は土師氏の里で幼少期の桓武天皇を
養育したと見られています。
一之保神社-1
南側の一之保神社(いちのほ じんじゃ)と奇御魂神社(くしみたま じんじゃ)には
菅原道真と道真の奇御魂が祀られています。
一之保神社-2
大宰府に残された道真手作りの木造を西ノ京神人(じにん)が持ち帰り、
西の京(京都市中京区南西部天満宮の氏子区域)北町に建てた
小さな社に納め、これを「安楽寺(あんらくじ)天満宮」と称して
祀られていましたが、 明治6年(1873)7月21日に現在地に遷されました。
尚、西ノ京神人とは俗体をもって北野に奉仕する団体です。

「奇御魂」とは、駒札には「さまざまな不思議や奇跡をよびおこす
特別な力を持った神霊のことで、鎌倉時代の中頃、菅公のご神霊が、
東福寺の開祖・圓爾国師(えんにこくし)の前に現れ『私はこのたび宋に飛び、
一日にして禅の奥義(おうぎ)を修得した』と告げられました。
その時 菅公は唐衣(からころも)をまとい手に一輪の梅の花を
持たれていたため、以来このお姿を『渡唐(ととう)(宋)天神』と
称え祭るようになった。」と記されています。
稲荷社
南側の稲荷神社には、伏見稲荷大社の主祭神と同様に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
・佐田彦大神・大宮能売神(おおみやのめのかみ)が祀られていますが、
佐田彦大神は猿田彦神の別名とされ、こちらでは猿田彦神で表記されています。
かって、この付近での大火の際、この神社の手前で火の手が止まったと伝わり、
以来「火除け稲荷」と呼ばれ、信仰を集めています。
猿田彦社
稲荷神社に併設されるように猿田彦社があり、猿田彦神と大宮能売神が
祀られています。
大宮能売神は、天宇受賣命(あめのうづめのみこと)の別名で、
邇邇芸命(ににぎのみこと)に随伴して天降りしました。
邇邇芸命の一行が天降りする際に、天の八衢(やちまた=道がいくつもに
分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいて、
天宇受賣命はその神の名を聞きました。
その神の先導により邇邇芸命達は無事に葦原中国に着き、邇邇芸命は
天宇受賣命にその神の故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ
送り届けるように命じました。
その神の名は猿田彦神で、天宇受賣命は猿田彦神に仕え、
「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれるようになりました。
連歌所の井戸-1
猿田彦社からUターンして北へ戻った東側に連歌所の井戸があり、明治6年(1873)まで
井戸の西側に連歌所が建っていました。
連歌所の井戸-2
北野天満宮では、室町時代から江戸時代にかけては盛んに連歌会が行われ、
毎月18日には月次会が行われました。
連歌を献じて神の御意を慰めることを法楽といい、北野天満宮では
「聖廟法楽」と称され毎月25日に催されていました。
「聖廟法楽」の連歌の席には天神像がかけられ、
朝廷をはじめ広く庶民にも親しまれていました。
連歌所は明治時代に廃されましたが、
現在は「京都連歌の会」として復興されています。
紅梅殿-2
井戸の北側に紅梅殿があります。
道真の邸宅・紅梅殿に因み、大正6年(1917)に調理所として本殿の西側に
建立されましたが、平成26年(2014)夏に現在地に移築されました。
紅梅殿-庭園-1
紅梅殿の庭
紅梅殿-庭園
庭の南側の広場では、2月25日の梅花祭で上七軒の芸舞妓による野点が行われます。
菅原道真の誕生日が6月25にで、命日が2月25日であることから
毎月25日は縁日とされています。
縁日には境内に多くの市が立って賑わいます。
御手洗川-1
広場の東側に御手洗川があり、祭事の際には水が流されるようです。
御手洗川-2
御手洗川に沿って南の下流側へ進みます。
宗像社
南の絵馬所前から西へ進んだ左側に宗像社があり、宗像三女神が祀られています。
かって、この社殿の西に池があり、その水底に祀られていた御神体が
現在地に遷座されました。
大杉社
宗像社の南側に大杉社があり、樹齢千年を超えると伝わる
杉の切り株が祀られています。
室町時代に作成された『社頭古絵図』には、二又の杉の巨木が描かれ、
聖歓喜天が宿る諸願成就の御神木として信仰されていました。

紅葉苑と梅花苑から一の鳥居へ向かいます。
続く

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白壁の土蔵
春の梅が開花する季節と秋の紅葉の季節には、南側にある梅花苑と西側にある
御土居が有料で公開されます。
令和2年(2020)の秋は11月1日~12月6日まで公開され、11月14日~12月6日の
日没~午後8時まではライトアップが行われます。
入苑の初穂料は千円でお菓子とお茶のサービス付きです。
絵馬所の先に白壁の土蔵があり、直進すると御土居で、
左折した南側に梅花苑があります。
御土居図
御土居は豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、
外敵の来襲に備える防塁として、天正19年(1591)に築きました。
東は鴨川、北西部は紙屋川沿いで、氾濫から市街を守る堤防としても築かれ、
川は堀を兼ねていました。
土塁の内側は「洛中」、外側は「洛外」で、御土居が諸国との街道を横切る場所は
「口」と呼ばれ、「京の七口」として知られていますが、御土居の築造当時には
10箇所だったそうです。
北野天満宮境内の御土居は延長250mが残された最長遺跡で、昭和40年(1965)に
国の史跡に指定されました。
しかし、他に残された御土居は昭和5年(1930)に史跡に指定され、
また一部は指定されずに残されている箇所もあります。
梅紅軒
少し北へ進むと茶室・梅紅軒があり、その西側には舞台が建立されています。
もう少しすれば、舞台から素晴らしい紅葉が鑑賞できるようで、
「御土居の紅葉」として称賛されています。
道真の歌碑
菅原道真の歌碑
「このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉(もみじ)の錦 神のまにまに」
昌泰元年(898)に菅原道真が宇多法皇の巡幸に供奉(ぐぶ)された際に、
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)へ参拝され、詠まれた歌で、
「突然の参拝に供物の用意ができず、美しく織りなされた錦のような境内の紅葉を
神前に捧げましょう」との意味になります。
本殿の屋根
御土居の一部から本殿の屋根などが見渡せます。
本殿の屋根-2
手前に張り出しているのが西側の楽の間で、その右側に廻廊の西門があり、
開門されています。
西門の背後に三光門の屋根が見えます。
欅
樹齢600年とされる欅(けやき)の大樹が御土居上に聳えています。
背後に天狗山があり、その高台が御土居として利用されているようです。
「天狗山」の名の由来は、昔は天狗が住んでいたという伝説から、
室町時代の『北野天満宮社頭絵図』に烏天狗が描かれていたことによるもので、
天狗山へ登ることは禁じられています。
ここから紙屋川の方へ下ります。
紙屋川沿いの苑路
紙屋川沿いの苑路
紅葉するのはまだ先です。
悪水抜き
「悪水抜き」と呼ばれる排水口の遺構が残されています。
悪水抜き-説明
御土居を貫通する全長19.3mの切石組暗渠(あんきょ)で、雨水などが神域を
浸さないような配慮がなされています。
紙屋川と鶯橋
紙屋川には鶯橋が架かり、苑路は対岸へと渡ります。
橋の名は、この辺りで鶯(うぐいす)のさえずりが聞かれることに由来しています。
鶯橋
昭和8年(1933)4月に現在地より少し上流に架けられていましたが、昭和10年(1935)の
豪雨で流失し、親柱のみが現在の場所辺りに流れ着いていました。
現在の橋は、平成19年(2007)11月に史跡・御土居の紅葉苑開苑に際し、
木製太鼓橋として再建されました。
枝垂れ梅
懸崖造りの茶室・梅紅軒の舞台が見えます。
手前に植栽されているのは枝垂れ梅のように思えます。
三又の楓
三又の楓は樹齢400年以上で、御土居の築造以前から自生していた
紅葉苑最大の樹木です。
度々の紙屋川の氾濫にも耐え、楓科としては極めて珍しい大木です。
紅葉
僅かに色づき始めた木も見られます。
竹林
御土居が築造された当時は竹が植えられ、江戸時代になって街道を分断していた部分や
一部が寺社や公家に払い下げられて御土居が取り壊されましたが、多くは残され、
幕府により竹林として管理されていました。
梅園-1
梅花苑の方へ戻ります。
梅園-2
梅花苑は現在は工事中で、苑路の散策はできませんでした。

約1500本の梅が植えられ、2月初旬から3月末にかけて、白梅、紅梅、一重、八重と
様々な梅が開花します。
梅園-茶店
秋でも茶屋が開かれ、団子などの販売が行われています。
梅園内の文堂会館
東側の文堂会館では各種イベント、コンサートなどに使用されるようです。
楼門
梅花苑を出て楼門の方へ向かいます。
楼門が建立された年代は不明ですが、本殿と同じ頃と思われます。
随身-右

随身-左

楼門では随身が門番をしています。
楼門-扁額
門には「文道大祖 風月本主(ぶんどうの たいそ ふうげつの ほんしゅ)」と
記された扁額が掲げられています。
大江匡衡(おおえの まさひら)の筆で、菅原道真を称えたものです。
文堂会館-玄関
楼門を出た西側に文堂会館の玄関があります。
太閤井戸
玄関前を東に進み、その先で南へ曲がった所に太閤井戸があります。
天正15年10月1日(1587年11月1日)、この年の7月に九州平定を終えた豊臣秀吉は、
聚楽第の造営を行うと共に、北野大茶会(きたのだいさのえ)を催しました。
その際使われた井戸です。
北野大茶湯の碑
その東側には「北野大茶湯之址」の碑が建っています。
北野天満宮の拝殿を3つに区切り、その中央に黄金の茶室を持ち込み、
茶頭として千利休・津田宗及・今井宗久が招かれました。
当日は京都だけではなく大坂・堺・奈良からも身分の差無く大勢の参加者が駆けつけ、
総勢1,000人にも達したと伝わります。
しかし、当初10日間開催される予定が、初日のみで中止されました。
秀吉が大勢の人に茶をたてるのに疲れてしまったためとも、当日の夕方に
肥後国人一揆が発生したという知らせが入ったため中止されたなど諸説あります。
筆塚
西側の参道へ戻り、南へ進むと西側に筆塚があります。
菅原道真は、文才に長けていたことから、手習い(習字)の神として信仰され、
各地の天満宮に使い古した筆を埋めて供養する筆塚が建てられています。
北野天満宮の筆塚は天保5年(1834)に商人の小野英棟により建立されました。
三の鳥居
参道を南へ進むと三の鳥居が建っています。
伴氏社-鳥居
三の鳥居の南側に伴氏社(ともうじ しゃ)があります。
神社前の石鳥居は鎌倉時代のもので、国の重要美術品に指定されています。
伴氏社
伴氏社には菅原道真の母が祀られています。
大伴氏は天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、「大伴」は、
宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていたことに因んでいます。
平安時代の弘仁14年(823)に大伴親王が第53代・淳和天皇として即位すると、
その諱(いみな)を避けて、一族は「伴(とも)」と氏を改めました。
道真の母は伴真成(とものまさしげ)の娘とされ、
貞観14年(872)正月14日に亡くなりました。
伴氏社にはかって、石造りの五輪塔がありましたが、
明治の神仏分離令後に東向観音寺に遷されました。
親子牛の像
伴氏社の南側の牛の像には子牛が寄り添っています。
境内には多数の臥牛の像が奉納されています。
菅原道真は承和12年(845)の乙丑(きのとうし)年の生まれで、
延喜3年(903)に大宰府で亡くなられた際には遺骸は
「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と遺言されました。
遺骸が載せられた牛車を引いていた牛は安楽寺の付近で動かなくなり、
道真は安楽寺に葬られました。
後に安楽寺の廟は朝廷により安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。
これらの故事から牛は天満宮の「神使い」とされています。
二の鳥居
更に参道を南へ進むと、二の鳥居が建っています。
二の鳥居から南側の参道は、左へと緩やかに曲がり、
西側に東向観音寺がありますが、後で参拝します。
萩狛犬
鳥居前の狛犬は長州藩の寄進によるもので「萩狛犬」と称されています。
松向軒
東向観音寺の先に茶室・松向軒(しょうこうけん)がありますが、
通常非公開で門は閉ざされています。
天正15年(1587)に豊臣秀吉が開催した北野大茶会の際に建立されましたが、
その後、大徳寺の塔頭・高桐院(こうとういん)に移築されたため、
復元されて、毎月15日にお茶会が催されるようになりました。
松向軒は、利休の茶を忠実に継承したといわれる細川忠興(三斎)により、
「影向の松」に向かい合うように建立され、「松向軒」と名付けられました。
敷地内には当時の井戸が残され、「三斎井戸」と称されています。
影向の松
影向の松(ようごうのまつ)には、三冬(初冬~節分)間の初雪の時に、
祭神・菅原道真が降臨して雪見の歌を詠んだとの伝承が残されています。
露の五郎兵衛顕彰碑
影向の松の北側に露の五郎兵衛(ごろべえ)顕彰碑があります。
初代・露の五郎兵衛(1643~1703)は、京都出身で、元は日蓮宗の談義僧でしたが、
還俗して辻咄(つじばなし)を創始し、京都の北野、四条河原、真葛が原や
その他開帳場などで笑い咄、歌舞伎の物真似、判物を演じました。
上方落語の祖とされていますが、晩年に再び剃髪し、露休を号しました。
この碑は二代目・露の五郎が、落語生活50年を記念して、
平成11年(1999)3月に建立しました。
一の鳥居
一の鳥居の前の狛犬は高さが約5mあり、府内最大の大きさです。
新門辰五郎の石灯籠
一の鳥居の西に「新門辰五郎(しんもん たつごろう)の石灯籠」があります。
新門辰五郎(1800?~1875)は、江戸時代後期の町火消の頭で、寛永寺の座主だった
舜仁法親王(しゅんにんほっしんのう)が、浅草新門あたりに隠棲した際、
幕府より周辺の警護を命じられ、以降「新門」を名乗るようになりました。
元治元年(1864)に禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任じられた
徳川慶喜が上洛した際に呼び寄せられ、子分250名と息子の松五郎と共に
慶喜の元で、二条城の警備などを行いました。
この石灯籠は辰五郎の寄進によるもので、「江戸 消防方」と刻まれ、
新門辰五郎の名が見えます。

洛陽三十三所観音霊場・第31番札所である東向観音寺へ向かいます。
 続く

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