カテゴリ:京都市 > 京都市上京区-西部

山門
東向観音寺は山号を朝日山と号する真言宗泉涌寺派の準別格本山で、
洛陽三十三所観音霊場の第31番札所です。
寺伝では平安時代初期の延暦25年(806)に桓武天皇の勅願により、
大納言・藤原小黒麻呂(ふじわら の おぐろまろ)と
法相宗の僧・賢憬(けんけい)が朝日寺として創建しました。
天暦元年6月9日(947)、朝日寺の僧・最鎮らは朝廷の命を受け、
菅原道真を祀る社殿(北野天満宮)を造営し、朝日寺は神宮寺となりました。
応和元年(961)に筑紫の観世音寺より菅原道真自作の十一面観音を招来し、
新たに本尊として安置されました。
応長元年(1311)には無人如導宗師によって中興され、寺名は観世音寺
または観音寺と改められました。
本堂の観音堂は東向きと、一夜松の観世音菩薩を祀る西向観音堂も建立されていましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、以後西向観音堂は再建されませんでした。
東向観音堂のみが再建され、「東向観音寺」と称されるようになりました。
慶長12年(1607) 、豊臣秀頼により北野天満宮の再建がなされた際に、
東向観音寺の本堂も再建されました。
江戸時代に入ると一条家の祈願所となり、一条家出身で明治天皇の皇后となった
昭憲皇太后は結婚する以前に当寺で勉学に励まれたと伝わります。
また、江戸時代の後期頃より寺名は、「観音寺」となりました。
本堂
現在の本堂は、豊臣秀頼により再建された後、元禄7年(1694)に本堂の前に
礼堂と本堂と礼堂をつなぐ造合が増築され、権現造りのようになっています。
平成13年(2001)4月1日に京都市の有形文化財に指定されています。
本尊は道真自作の十一面観音像ですが、秘仏とされ25年に一度しか開帳されません。
次回の予定は2027年になります。
本堂には他に大聖歓喜天、束帯天神、無人如導宗師像などが安置されています。
また、礼堂には不動明王、弘法大師、地蔵菩薩、愛染明王、毘沙門天、
吉祥天、妙見菩薩、韋駄天、伽藍神像などが安置されています。
賓頭盧尊者像
賓頭盧尊者像
岩雲弁財天
岩雲弁財天は豊臣秀頼が本堂を再建された時に、鎮守社として寄進されました。
行者堂
行者堂の前には神変大菩薩の石標が建ち、役行者が祀られています。
役小角(えん の おづの:634?~701?)は、元興寺孔雀明王の呪法を学び、
葛城山で山岳修行を行ったとされています。
その後、熊野大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を
感得し、修験道の基礎を築いたことから「役行者」と呼ばれるようになり、
寛政11年(1799)には第119代・光格天皇から神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の
諡(おくりな)を賜りました。
土蜘蛛塚
土蜘蛛塚には、手前の覆屋の中に土蜘蛛灯篭が祀られています。
この灯篭は、元は七本松通一条あって、土蜘蛛が住んでいた所と伝わります。
明治になってこの塚の発掘調査が行われ、この灯篭が発見されました。
この灯篭はある人が貰い受け、庭に飾っていましたが、家運が傾き、
土蜘蛛の祟りだとして東向観音寺に奉納されました。
土蜘蛛とは、上古の日本で朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを指し、
背が低く、山野に石窟(いわむろ)・土窟・堡塁を築いて住んでいたことから、
妖怪のようにみなされ、「土蜘蛛」と呼ばれていました。
また、土蜘蛛には伝説が残されています。
大江山の酒呑童子を討ち取った源頼光は病にかかり高熱に苦しんでいました。
枕元に蜘蛛のように地を這い、口から糸を吐き出す妖怪が現れ、頼光を襲いました。
頼光は「膝丸(ひさまる)」と呼ばれる名刀で立ち向かうと妖怪は逃げ出し、
以後、その名刀は「蛛斬(くもきり)」と称されるようになりました。
妖怪が残した血痕をたどると北野の塚穴に辿り着き、
穴から大蜘蛛が這い出してきました。
頼光は大蜘蛛を鉄串で串刺しにして退治しました。

土蜘蛛塚の背後にある五輪塔は金売吉次(かねうりきちじ)の墓とされています。
北野天満宮の東、馬喰町にあった高林寺が明治5年(1872)に廃寺となり、
高林寺にあった五輪塔が遷されました。
金売吉次は奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、
源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされています。
伴氏廟
伴氏廟(ともうじびょう)は菅原道真の母の墓とされています。
明治の神仏分離令により北野天満宮の境内から遷され、
天満宮にはその跡地に伴氏社が建立されました。
また、高さ4.5mの五輪塔は「忌明塔(きあけのとう)」とも呼ばれ、
古来から忌明の日にこの塔に参拝する習わしがありました。
百衣観音堂
百衣観音堂は元禄7年(1694)に建立され、堂内には明暦元年(1655)に
明国(中国)の陳元贇禅師(ちんけんびんぜんし)から寄進された
高王白衣観世音菩薩像が安置されています。
中国・漢の高王がこの観音像に祈願して子を授かったとされています。
また、堂内には一條家大政所殿が元禄年間(1688~1704)に寄進された
西国三十三所観音像三十三体を祀られています。
御厨子は徳川3代将軍・家光の長女の千代姫により寄進されました。

新西国三十三所観音霊場の第16番及び京都十三仏・第8番霊場の
千本釈迦堂(大報恩寺)へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

上七軒歌舞練場
北野天満宮の東側にある御前通を北上した所に「上七軒歌舞練場」があります。
上七軒(かみひちけん)は、室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って
7軒の茶店を建てたことが始まりで、「上七軒」の由来にもなっています。
天正15年10月1日(1587年11月1日)に豊臣秀吉が北野大茶会(きたのだいさのえ)を
催した際に、茶店側は団子を献上したとされています。
また、西陣の隆盛と共に花街としての上七軒も繁栄しました。
しかし、第二次大戦後はお茶屋の大半が転廃業し、西陣織産業の衰退もあり、
お茶屋や芸妓、舞妓が減少しました。
上七軒歌舞練場は明治30年代に建築、その後増築され昭和26年(1951)に
現在の形となりました。
毎年3月25日から4月7日にかけて「北野をどり」が上演され、
夏季にはビアガーデンの営業もあり、本物の芸妓・舞妓が
浴衣姿でもてなしているそうです。
桜井屋
上七軒歌舞練場の北側に湯豆腐・湯葉料理の「桜井屋」があります。
江戸時代の後期より天満宮参道で営業していましたが、
明治時代に現在地に移転しました。
北野経王堂願成就寺
北野天満宮の東門前の五辻通を東へ進んだ所に北野経王堂願成就寺があります。
南北朝時代の元中8年/明徳2年(1391)に山名氏清、山名満幸ら
山名氏が室町幕府に対して反乱を起こしました。(明徳の乱
その前年には山名氏の内紛の際に、第3代将軍・足利義満の命を受け、
氏清と満幸は山名時熙(やまな ときひろ)と山名氏之(やまな うじゆき)を
討伐しました。
その結果、氏清と満幸の勢力が強まり、それを恐れた義満の挑発に乗って
氏清と満幸は挙兵することになりました。
氏清と満幸は討ち取られ、幕府軍の勝利となりましたが、義満は氏清と満幸や
その一族のかっての功労や武勲を重んじて、その供養のために大施餓鬼を修しました。
これには近畿、中国、四国、中部の僧や庶民が宋版一切経を手本として写経し、
その後に「万部経会」「北野経会」の起源となりました。
応永8年(1401)には北野社の境内に東山三十三間堂の倍半の大堂を建立し、
「北野経王堂願成就寺」と名付けました。
毎年10月には10日間に亘って万部経会や仏典書写などの仏事を行い、供養しました。
この行事は「北野経会」と呼ばれ、京洛最大の行事となり、
代々の幕府に引き継がれていました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失したかは不明ですが、
慶長12年(1607) 、豊臣秀頼により北野天満宮の再建がなされた際に
北野経王堂願成就寺も再建されています。
正面57.57m、奥行き48.48mの大規模なものでしたが、その後衰退し、
寛文11年(1671)に解体縮小されて小堂となり、仏像及び一切経五千余巻などが
本寺である大報恩寺(千本釈迦堂)へ運ばれました。
明治の神仏分離令により、北野天満宮の仏教建築の破壊が行われ、
北野経王堂願成就寺は明治3年(1870)に大報恩寺境内に移築されました。
昭和27年(1952)に大報恩寺の本堂が解体修理され、寛文11年(1671)に解体縮小された
北野経王堂願成就寺の古材が本堂の部材として一部使われていたことが判明しました。
現在の北野経王堂願成就寺は昭和31年(1956)に
その部材を使用して再建されたものです。
山名氏供養碑
堂前には山名氏清の武勲を讃え、山名矩豊(やまな のりとよ)により
「山名陸奥太守氏清之碑」が建立されています。
不動明王堂
不動明王堂には山名氏清山名宗全の念持仏であった不動明王像が安置されています。
稲荷社-1
稲荷社は鎌倉時代の建長2年(1250)に大報恩寺二世・如輪上人により、
賀茂春日石清水日吉今宮の五社と共に勧請されました。
稲荷社-2
荼枳尼天(だきにてん)、天上多田稲荷大明神が祀られています。

大報恩寺の本堂へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

石標
大報恩寺は山号を瑞応山(ずいおうざん)と号する真言宗智山派の寺院で、
通称の千本釈迦堂として知られています。
特に毎年12月7~8日に催される「大根炊き」は、京都の師走の風物詩として有名です。
また、新西国霊場の第16番及び京都十三仏霊場・第8番の札所にもなっています。
山門
大報恩寺は鎌倉時代初期の承久3年(1221)に義空上人によって開創されました。
義空上人は出羽の人で藤原秀衡の孫に当り、
比叡山で澄憲(ちょうけん)から天台宗を学びました。
当初は藤原光隆の従者であった岸高なる人物から寄進された領地に、
草堂を建てた簡素なものでした。
安貞元年(1227)に摂津国尼崎の材木商の寄進を受け、
現存する本堂の上棟が行われました。
義空上人は正式な寺院として第87代・四条天皇へ寺格の申請を行い、
嘉禎元年(1235)に俱舎(くしゃ)・天台・真言と三つの宗派の認可を受け、
その道場となりました。

文永年間(1264~1274)には二世・如輪により伽藍の整備が行われました。
また、『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)
如輪上人これを始められけり」と記されています。
旧暦2月15日亥の刻(午後9時)~丑の刻(午前3時)まで念仏が唱え続けられました。
現在では3月22日の14時から催され、この日は自由に参加することができます。
三世・慈禅上人(じぜんしょうにん)は、釈迦が悟りを開いた12月8日を祝う
成道会(じょうどうえ)を創始しました。
法要の後に4本の大根を縦半分に切って8本とし、切り口に釈迦の種子(梵字)を書いて
供え、参詣者への「悪魔除け」とされました。
その後「悪魔除けの大根」は、他の大根と一緒に炊き上げて、
参詣者に振る舞われたのが「大根炊き」のはじめと言われています。
現在では毎年12月7~8日の両日に法要が行われ、「大根炊き」は信徒の尽力により
継承されています。

室町時代、応仁・文明の乱(1467~1477)では西軍の中心地となり、
伽藍は焼失しましたが、本堂は奇跡的に焼失を免れました。

西軍を率いた山名宗全の計らいがあったとも伝わります。
しかし、応仁・文明の乱で寺領を失い、衰微しましたが天正19年(1591)に
豊臣秀吉から寺領の替地100石を与えられました。
江戸時代の初期から智積院能化の隠居所として護持され、
真言宗智山派に改宗されました。
享保15年(1730)に発生した「西陣焼け」とも呼ばれる大火では、
本堂だけは類焼を免れました。
明治3年(1870)に北野経王堂願成就寺が北野天満宮の境内から、
当初は観音堂として移築されました。
本堂
本堂は創建当初のもので、京都市内最古の木造建築物として国宝に指定されています。
応仁・文明の乱でも焼失は免れましたが、堂内の柱には刀や槍などによる
傷痕が残されています。
寛文9年~10年(1669~1670)の大修理では、末寺であった北野経王堂の
部材と瓦が使われ、屋根が瓦葺に改められました。
昭和26年~29年(1951~1954)に行われた解体修理工事で、旧北野経王堂願成就寺の
古材が一部、本堂の部材として使われていたことが判明しました。
昭和31年(1956)に本堂に使われた部材などで北野経王堂願成就寺が再興されました。

本堂の須弥壇内にある高御座式(たかみくらしき)の厨子内には像高89cmの
釈迦如来坐像が安置されています。
快慶の弟子・行快による鎌倉時代の作とされ、国の重要文化財に指定されていますが、
秘仏とされています。
須弥壇にある奥の壁、表裏2面には鎌倉時代に図が描かれ、国宝に指定されています。
残念なことに両面とも損傷が多く、相当な部分が剥がれ落ちているため、
図の全容を知ることは出来無い状態です。

画像はありませんが霊宝殿には十大弟子立像 10躯、六観音像 6躯、銅造釈迦誕生仏、
千手観音像などが安置され、いずれも国の重要文化財に指定されています。
おかめ塚
境内の東側に「おかめ塚」があり、宝篋印塔が建立されています。
本堂造営の棟梁であった長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)は、
重要な柱の寸法を間違えて短く切り過ぎました。
柱の予備は無く、苦悩していた時に妻の阿亀(おかめ)が「枡組(ますぐみ)で
補えばどうか」と助言して、夫の窮地を救いました。
しかし、阿亀は専門家でもない女の提案で棟梁が大仕事を成し得たことが
知れては夫の恥と考え、上棟式を待たずに自害しました。
高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた
扇御幣を飾りました。
その後、大工の信仰を得るようになり、上棟式にはお多福の面を着けた
御幣を飾る起源になったとされています。
お亀の像
塚には「おかめの像」も建立されています。
おかめの像の前では、毎年2月の節分の日に「おかめ福節分会」が営まれています。
法要を終えると茂山狂言社中によるユニークなおかめ福節分の狂言があり、
そのあと厄除け鬼追いの儀として、豆まきが行われます。
また、法要の前には番匠保存会による木遣音頭・上七軒の舞妓により、
おどりの奉納もあります。
阿亀桜
本堂前の枝垂れ桜には「阿亀桜」と名付けられています。
ぼけ封じ観音
境内には「ぼけ封じ観音菩薩像」が祀られ、
大報恩寺は「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第2番札所でもあります。

大報恩寺から南へ進み、七本松通りに面した東側の清和院へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

山門
今出川通りの「上七軒」の信号から七本松通りを南下した東側に清和院があります。
清和院は、山号を川崎山と号する真言宗智山派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場の第33番札所(結願寺)です。

清和院は仁寿年間(851~854)に、現在の京都迎賓館の地に、
第55代・文徳天皇が后の染殿(藤原明子=ふじわら の あきらけいこ)のために、
仏心院を建立し、地蔵菩薩像を安置したことに始まります。
平安時代の初期、その地には藤原良房の邸宅があり、良房の一人娘・明子が入内すると
良房邸の南に地蔵菩薩像を本尊とする内祈祷所が建てられ、仏心院と称しました。
嘉祥3年(850)3月19日、仁明天皇から譲位されて文徳天皇が即位し、
直後の3月25日に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が誕生しました。

惟仁親王には既に3人の異母兄がおり、天皇は第一皇子の
惟喬親王(これたかしんのう)に皇位の継承を願ったのですが、
良房の圧力に屈し、惟仁親王は同年11月に生後8か月で立太子しました。
天安2年(858)に文徳天皇が崩御されると、惟仁親王はわずか9歳で第56代・清和天皇
として即位しましたが、政治の実権は良房に握られることになりました。
貞観6年(864)に天皇は元服しましたが、貞観8年(866)に起こった応天門の変で、
事件を解決した良房を摂政に任命しました。

貞観18年(876)に第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、
仏心院は後院(御在所)となり、「清和院」と改称されました。
清和院には代々皇子や親王が住し、また在原業平らの歌会の場ともなりました。
鎌倉時代の徳治3年(1308)、勅令により浄土宗の僧・照空が、清和院を
上京区室町通上長者町通下る清和院町で再興し、今に伝わる清和天皇を模して
造られたとされる「玉体地蔵」を奉安しました。
洛陽石標
室町時代は清和天皇が清和源氏の祖であったことから、将軍家の足利氏から深く
帰依され、その保護を受け栄えました。
享禄4年(1531)、鴨川西岸の一条河原崎にあった河崎観音堂が焼失し、
本尊であった「河崎観音」が清和院へ遷されました。
「河崎観音」は弘法大師作と伝わり、霊仏として崇敬され、
洛陽三十三所観音霊場・結願所の札所本尊となりましたが、
現在は九州国立博物館の所有となっています。
寛文元年(1661)の御所炎上の際に類焼し、その後、後水尾上皇と東福門院により
現在地で再興されました。
また、東向観音寺の土蜘蛛塚に祀られている石灯籠の火袋は、
この門前から掘り出されました。
本堂
山門を入った左側(北側)にコンクリート造りの本堂があります。
本尊
堂内中央の厨子内には本尊の像高165cmで鎌倉時代作の地蔵菩薩像が
安置されています。
「玉体地蔵」や「清和地蔵」とも呼ばれ、清和天皇の身の丈に等しく、
眼には仏舎利、胎内に宸筆の法華経が納められています。
重要文化財に指定されていますが秘仏とされ、
厨子の前に御前立の像が安置されています。
「河崎観音」は写真のみが祀られています。
阿弥陀如来像他
堂内の右側には十一面観音像や阿弥陀如来立像などが安置されています。
大黒天他
左側には大黒天、八臂辨財天、不動三尊像が安置されています。
爪形天満宮
本堂の左側に白梅殿古跡 爪形天満宮があります。
爪形天満宮-石標
白梅殿は菅原道真の旧邸のことで、下京区仏光寺にある
菅大臣神社がその所在地とされていますが、詳細は不明です。

五番町から福勝寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

清和院前の七本松通を南下し、西行一方通行でバイクでは進入できない仁和寺街道を
東へ進み、千本通の一筋手前を南下した所に成人映画を上映する映画館があります。
この辺りが「五番町」で、昭和33年(1958)に売春防止法が施行されるまで
遊郭がありました。
現在は住宅街に変貌し、その面影は残されていませんが、学生時代には僅かに
それらしき建物があり、友人が下宿していました。
付近に居酒屋があり、そこの御主人の機嫌が良い時はカラオケの無い時代なので、
「カスバの女」などをアカペラで歌われることがありました。
心に染み入り、その歌を目当てに通われる常連さんもいたほどです。

かって、この地は野原で、豊臣秀吉が聚楽第を築城する際に武家地として
開発・整備し、一番町から七番町辺りまで名付けられました。
しかし、秀吉が居城を伏見へ移すと及び荒廃し、江戸時代初期に再開発されて
ここに移住してきた住民が北野天満宮愛宕山への参拝客を相手に
茶屋を営んだのが花街として発展していくことになりました。
作家・水上勉は、この遊郭を舞台に学生僧の金閣寺放火事件を題材として
五番町夕霧楼』を著しました。
通用門
映画館の西の六軒通を南下した東側の七番町に福勝寺があります。
福勝寺は山号を竹林山と号する真言宗善通寺派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場・第29番及び京都十二薬師霊場の第六番札所です。
山門
通に面した山門は、かっては九条家の屋敷の門と伝わります。
毎年2月3日の節分会の日に開門されます。
節分会には瓢箪のお守りが授与されます。
正式には「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」と称され、
弘法大師が唐で学んだ「如意宝珠の修法」に由来します。
「如意宝珠」とは「意のままに願いを叶えてくれる」という宝珠で、
瓢箪が宝珠をふたつ重ねた姿に似ているとして、鎌倉時代ごろから
お守りとして用いられるようになったと伝わります。
この瓢箪のお守りから「ひょうたん寺」と呼ばれるようになりました。
細い通路
通路を右側に進んだ左側に本堂があります。
福勝寺は弘法大師により河内国古市郡中村(現在の大阪府羽曳野市)
に創建されたと伝わります。
しかし、その後衰微し、正嘉年間(1257~59)に醍醐寺覚済(かくぜい)に
よって、京都油小路五条坊門に再建されました。

その後も2回移転し、安土・桃山時代には豊臣秀吉の京都改造により
福勝寺を寺町通丸太町下ルに移転させたと推定されています。
秀吉は武運長久を祈願して奉納した瓢箪で「千成瓢箪」の旗印を作ったと
伝わります。
天下統一後に自作の木像を福勝寺に納め、寺領を寄進しました。
第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の勅願寺となりましたが、
宝永の大火(1708)で焼失しました。
その後、現在地で再建され、第111代・後西天皇(在位:1654~63)の
勅願寺となりました。
本堂
本堂
本尊は薬師如来で「峰の薬師」と呼ばれ、京都十二薬師霊場・第六番の
札所本尊ですが、60年に1度開帳される秘仏とされています。
かって、京都市西京区御陵峰ケ堂の法華山寺の峯堂に安置されていましたが、
南北朝の争乱の際に遷されたと伝わります。
法華山寺は鎌倉時代に延朗(えんろう)上人により西山の峰ヶ堂に
創建されましたが、正慶元年(1332)に兵火で焼失し、その後廃寺となりました。
寺の跡地には、峰ヶ堂城が築かれました。

本堂の脇壇に安置されている聖観世音菩薩像は聖徳太子の作と伝わり、
後西天皇が祈願し、それが成就されたことから「観世音菩薩」の名号と
紫宸殿の左近の桜の分木を下賜され、「桜寺」と呼ばれるようになりました。
聖観世音菩薩は洛陽三十三所観音霊場・第29番の札所本尊でもあります。

聖歓喜天像は唐に渡った空海が、長安の青龍寺の恵果(けいか)和尚より
伝授されたものと伝わります。
恵果和尚は延暦24年(805)に60歳で入寂され、臨終間際に空海に伝授され、
翌年空海は日本に帰国しました。

不動明王像は空海の作と伝わり、「牛皮不動」とも呼ばれ、
名不動の一つに数えられています。
十三重石塔
本堂前に建つ十三重石塔の横に下賜されたと思われる桜の木があります。

福勝寺南の出水通を西へ進み、地福寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ