カテゴリ: 石川県

サンダーバード1号
昨年の12月にGo Toトラベルを利用し、日帰りで金沢へ行きました。
和歌山の瀞峡へのバスツアーを予約していたのですが、台風や大雨の影響で
ウォータージェット船の航路が損傷したため、ツアーが中止となり、
金沢に変更しました。
ツアーはサンダーバードの往復乗車券と北鉄バスの一日フリー乗車券、
更に2,000円の地域共通クーポンが付きます。
前回、別の旅行社での富山行では、サンダーバードと北陸新幹線の出発や
帰りの時間から乗車席まで自ら選択することができましたが、
今回は全て指定されています。
指定されていたのは7:29発のサンダーバード3号で、予定より早く京都駅に
到着したため、前回利用した6:59発のサンダーバード1号を見送ります。
EF210-15
EF210形が牽引する貨物列車が通過していきます。
EF210-15は、平成10年(1998)7月~同年11月にJR貨物が製造した18両の1両で、
EF65、EF66形の後継機、及び東海道・山陽線系統の 1,300t コンテナ貨物列車の
運転拡大に充当する目的で開発されました。
その後、改良機の100番台(101~173号機)や300番台(301号機~)が製造されています。
103系-1
奈良行の103系が発車していきます。
103系
昭和38年(1963)~昭和59年(1984)まで3,400両余り製造された
国鉄時代の通勤型電車で、2編成が残されるのみとなっています。
金沢駅
サンダーバード3号は1号と異なり、武生と小松にも停車し、
9:38に金沢に到着しました。
座席は往復通路側だったため、自由席に移って窓側に座りました。
自由席でも空席が目立ちます。
金沢駅に到着して、バスターミナルでクーポンを北鉄バスの一日フリー乗車券に
交換し、早速「香林坊」まで乗車しました。
鼠多門
東へ歩いて突き当たり、右に曲がって進むと
「鼠多門(ねずみたもん)」があります。
江戸時代に玉泉院丸(現在の玉泉院丸庭園)と金谷出丸(現在の尾山神社)を
結ぶ出入り口として使われていました。
黒い海鼠漆喰(なまこじっくい)が特徴だそうです。
宝暦9年(1759)の大火でも焼失を免れましたが、明治17年(1884)に焼失し、
周囲の水堀も埋められ、当時の面影が失われていました。
「鼠多門橋」は城内最大規模の木橋だったそうで、明治10年(1877)に
老朽化のため撤去されました。
本年、令和2年(2020)7月18日に鼠多門と橋が復元されたばかりです。
いもり堀の石垣
その先を城に沿って南西方向に進むと、元和~寛永年間(1615~1644)頃に
創建された「いもり堀の石垣」があります。
鉢巻き石垣
いもり堀の堀底から、初期の粗い加工石が積み上げられていますが、
この両側には、土手の上部に石垣を巡らす「鉢巻き石垣」が続き、
概ね創建時の姿が残されています。

かって、この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である
天正15年(1546)に建立された「尾山御坊(おやまごぼう)」がありました。
寺でしたが、石垣を廻らした城ともよべる要塞で、石山本願寺へ年貢を納める
本願寺教団の重要な財政基盤となっていました。
天正8年(1580)に朝廷を介して本願寺と和議を結んだ織田信長は、
柴田勝家に一向一揆の解体を命じると、同年に尾山御坊は陥落し、
天正10年(1582)には一向衆勢力が一掃されました。
跡地に金沢城が築かれ、柴田勝家配下の佐久間盛政が初代城主となりました。
同年、本能寺の変で織田信長が自刃して果てると羽柴秀吉と対立するようになり、
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、秀吉軍に敗れて盛政は処刑されました。
賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍に参戦していた前田利家は、
合戦の最中に突然撤退し、秀吉軍の勝利を決定づけたため勝家は自害しました。
その功により利家は、秀吉から佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を加増され、
本拠地を能登の小丸山城から金沢城へ移し、「尾山城」と改称しました。
利家の晩年か没後に「金沢城」に戻されました。

天正12年(1584)羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いで、
富山城主の佐々成政は家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻しました。
前田利家は末森城で成政を撃破し、翌天正13年(1585)に利家の先導で、
秀吉自ら率いる10万の大軍で富山城を包囲すると成政は降伏しました。
前田利家はその恩賞として越中三郡を得ました。
同年に越前国・若狭国・加賀国2郡の大大名であった丹羽長秀が没し、長男・長重
後を継ぎましたが、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、
若狭1国15万石に減封されました。
それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上りました。

慶長3年(1598)に前田利家は家督と加賀の所領は長男・利長に譲りましたが、
隠居することは許されず、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉から
大老の一人に命じられました。
同年8月豊臣秀吉が没し、利家は豊臣秀頼の後見人として大坂城に、徳川家康は
伏見城に入りましたが、間もなく家康が秀吉の法度を破ったことにより
利家と家康が対立するようになりますが、
翌慶長4年(1599)に利家は62歳で病死し、利長が五大老を継ぎましたが、
「3年は上方を離れるな」との利家の遺言に反し、加賀へ帰国しました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、利長は家康の謀略に屈服し、
家康軍に従軍して参戦しました。
弟・利政は、西軍に妻子を人質を取られ、軍務を放棄したことに利長は怒り、
家康に利政が西軍に加担したと訴え出ました。
関ヶ原の戦い後、利政の領地は利長に加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国にまたがる

日本最大の藩・加賀藩が成立しました。
以降、加賀藩主は明治維新まで13代にわたり前田家により引き継がれました。
金沢城址は、平成8年(1996)に国から石川県に譲渡され、
県が金沢城址公園として整備を開始しました。
総面積は28.5ヘクタールで、平成20年(2008)に国の史跡に指定されました。
玉泉丸庭園-1
その先の「玉泉丸口」から城へ入り、坂を登ると「玉泉丸庭園」があります。
天正11年(1583)に前田利家が金沢城に入城してからは、この辺り一帯は
「西の丸」と呼ばれ、重臣の屋敷が置かれました。
慶長19年(1614)に二代目藩主・利長正室の玉泉院の屋敷が造営され、
元和9年(1623)に玉泉院が逝去後に屋敷は撤去されました。
寛永11年(1634)に三代藩主・利常により作庭され、五代・綱紀
十三代・斉泰(なりやす)などの歴代の藩主により手を加えられながら、
廃藩時まで存在していました。
明治以降は陸軍省の財産となりますが、明治14年(1881)に金沢営所から出火し、
二ノ丸などが全焼しました。
明治17年(1884)には鼠多門も焼失しました。
明治31年(1898)に 陸軍第9師団司令部が置かれ、
第二次世界大戦が終わるまで存続しました。
大正15年(1926)頃に庭園の池は埋め立てられ、昭和30年(1955)には玉泉丸跡は
県スポーツセンターとなりました。
その後県による発掘調査が開始され、平成27年(2015)に玉泉丸庭園が復元され、
休憩所の「玉泉庵」が建てられました。
玉泉庵には無料のボランティアガイドが常駐され、
玉泉丸庭園内のガイドが行われています。
玉泉丸庭園-舟小屋
右奥に滝組、その奥に色紙短冊積石垣、半島の左側に舟小屋が見えます。
玉泉丸庭園-三十間長屋
正面上に見えるのが三十間長屋で、国の重要文化財に指定されています。
安政5年(1858)の再建で、元は干飯(ほしいい)が貯えられていたそうですが、
後には「鉄砲蔵」とも呼ばれ、武器庫となったようです。
紅葉橋
江戸時代には池が掘状に北側まで続き、この地点に「紅葉橋(もみじばし)」と
称された木橋が架けられていました。
玉泉丸庭園-紅葉橋上
紅葉橋から登って見る玉泉丸庭園。
色紙短冊積石垣
色紙短冊積石垣は、色紙(方形)や短冊(縦長方形)や上部にV字形の石樋が
組み込まれた城内で最も意匠的な石垣です。
かっては、石樋から落差9mに及ぶ滝がありましたが、現在は石垣の下部約2mが
埋め戻されているため、その滝壺を見ることが出来ません。
二の丸広場
登った所は二の丸広場で、寛永8年(1631)の大火後に二の丸には
御殿が建立され、橋爪門が創建されました。
宝暦9年(1759)の大火では金沢城の大半が焼失し、その後再建されましたが、
文化5年(1808)に二の丸から出火し、
二の丸御殿、橋爪門、同続櫓、五十間長屋、菱櫓等が焼失しました。
翌文化6年(1809)に橋爪門、文化7年(1810)には
二の丸御殿、菱櫓、五十間長屋が再建されました。
しかし、明治14年(1881)の失火により、再建された全てが焼失しました。

正面には五十間長屋が復元されています。
五十間長屋は、一般的には「多聞櫓」と呼ばれ、武器や什器等の倉庫です。
永禄3年(1580)に松永久秀が多聞山城を築いたことがその名の由来となる、
石垣や土塁の上に建てられる長屋造の櫓のことです。
金沢城にはこのような「長屋」と呼ばれる建物が、他に14棟あったと伝わります。

復元された五十間長屋は二層二階の建物で、
左に三層の菱櫓、右に橋爪門があります。
これらは平成13年(2001)に木像で復元され、
明治以降の木造城郭建築物としては最大規模だそうです。
橋爪門
二の丸広場から「雁木坂(がんぎざか)」と呼ばれる坂を下り、
橋爪門をくぐります。
雁木坂は、かっては石段でした。

橋爪門は寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門で、
城内で最も格式が高く、通行に際しては厳しい制限がかけられていました。
右側の高麗門形式の「一の門」と石垣と二重塀で囲われた「桝形」、
櫓門形式から成る「桝形門」で、桝形は城内最大規模を誇ります。
文化5年(1808)の二の丸の大火で焼失した後、
文化6年(1809)に再建された姿が復元されています。
平成24年(2012)6月に着工し、同27年(2015)3月に完成しました。
堀と橋爪橋
「一の門」をくぐると内堀があり、掘に架かる「橋爪橋を」渡り、
三の丸広場へ出ます。
屋根瓦が白っぽく見えるのは鉛瓦だからです。
木で作られた屋根の上に、強さや硬さを増し、耐酸性を高めるために
少量の銅を加えた厚さ1.8mmの鉛板が張られています。
鉛瓦は江戸城にも使われ、名城の姿を壮美にするためとされ、
全ての建物に鉛瓦が使われているようです。
三の丸広場からの五十間長屋
三の丸広場から見た五十間長屋です。
河北門-櫓門
三の丸広場の北側に河北門があります。
「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する
「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。
河北門-一の門
横の階段を登ると一の門とその右側に「にらみ櫓台」が望めます。
慶長10年(1605)~元和元年(1631)頃に河北門は桝形門となりました。
宝暦9年(1759)の大火で焼失後、安永元年(1772)に再建されましたが、
明治15年(1882)頃に撤去されました。
現在の河北門は、平成19年(2007)11月に着工し、
平成22年(2010)4月まで約2年半の歳月をかけて完成しました。
石川門-太鼓塀
石川門の左右の太鼓塀は、天明8年(1788)の再建で、
国の重要文化財に指定されています。
石川門-櫓門
石川門です。
三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから「石川門」と称されています。
かっては「搦手門(からめてもん)」と呼ばれる裏門で、
櫓門形式と表門から成る「桝形門」です。
桝形門としては、国内で最も完成した形とされ、
桝形内の続櫓も重要文化財に指定されています。
宝暦9年(1759)の大火で焼失後、天明8年(1788)に再建されました。
明治14年(1881)の火災では、三十間長屋と鶴丸倉庫と共に焼失を免れ、
国の重要文化財に指定されています。
石川門-表門
表門と左右の太鼓塀及び石川門櫓も重要文化財に指定されています。
平成25年(2013)に改修工事が行われました。

兼六園へ向かいます。
続く

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霞ヶ池-徽軫灯籠
金沢城址公園と兼六園は隣接していますが、間に車道があり、
それをまたぐように橋が架けられています。
兼六園の拝観は有料(320円)ですが、65歳以上は無料です。
橋を渡った先にあるのが桂坂口で、園内に入り坂を登った所に霞ヶ池があります。
池の北岸にあるのが兼六園を代表する徽軫灯籠(ことじとうろう)で、
琴糸を支える琴柱(ことじ)に似ていることから名付けられました。
高さは2.67mで、灯篭の二股となった脚の長さが異なっています。
霞ヶ池-徽軫灯籠と虹橋
手前の曲水に架かる「虹橋」と背後の楓の古木とが一体となった
美しさが見所だそうです。

文久3年(1863)の『兼六園絵巻』には、現在とは別の場所に両脚が同じ長さで
立っているのが描かれ、明治維新後に理由は不明ですが片脚が短い形で
現在地に移されたと考えられています。
兼六園は明治7年(1874)から無料で一般公開され、24時間開放されるように
なりましたが、園内の石が持ち去られるなど、被害が多発しました。
この灯籠も数度池に倒され、破損したため昭和53年(1978)に新調された2代目で、
初代は公園事務所で保管されています。
兼六園は大正11年(1922)に国の名勝に指定され、昭和51年(1976)から
園の維持・管理費用の捻出のため有料拝観で、時間を限っての公開となりました。
昭和60年(1985)に国の特別名勝に指定され、
岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられています。
唐崎松-1
冬の兼六園の風物詩となっているのが雪吊で、雪の重みから枝が折れないように、
縄で枝が支えられています。
兼六園では11月~3月まで見ることが出来ます。
雪吊により見事な枝ぶりが守られているクロマツは「唐崎松」と呼ばれ、
12代藩主・斉泰(なりやす:1811~1884))が近江八景の一つ、
琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てました。
唐崎松-2
斉泰は天保8年(1837)に霞ヶ池を広げたり、姿の良い木を植えるなどして、
庭を拡張・整備し、万延元年(1860)には、蓮池庭との間にあった門と塀を
取りこわして、一大庭園につくりあげました。
更に文久3年(1863)には、母・真龍院の隠居所として
巽御殿(たつみごてん=現在の成巽閣)が造営され、
ほぼ現在の庭の形になりました。
霞ヶ池-蓬莱島
霞ヶ池は、古代中国の蓬莱神仙思想に基き作庭された庭園で、
池には東方にあって不老不死の仙人が住むとされる蓬莱島があります。
雁行橋
霞ヶ池の左側には曲水が流れ、雁行橋(がんこうばし)が架けられています。
11枚の赤戸室石で造られ、雁が列をなして飛んでいる姿が表されています。
また、石の一枚一枚が亀の甲に形をしていることから
「亀甲橋(きっこうばし)」との別名もあります。
かっては、この橋を渡ると長寿になると伝えられ、大勢の人が渡ったために
石がすり減り、現在は渡ることが禁止されました。
霞ヶ池-内橋亭
霞ヶ池の西南岸には内橋亭があります。
安永5年(1776)に10代藩主・治脩(はるなが:1745~1810)が蓮池馬場の馬見所に
建てたとされています。

内橋亭背後の栄螺山(さざえやま)は、斉泰が霞ヶ池を堀広げた時の土で
築かれた高さ9mの築山で、頂上へはうずを巻いて登り道があり、
栄螺の殻を思わせることからこの名が付きました。
山頂に「避雨亭(ひうてい)」と呼ばれる御亭(おちん)があります。
冬桜
冬桜でしょうか?
寒さの中で可憐に花を咲かせています。
霞ヶ池から連なる広い平坦な地は「千歳台」と呼ばれ、寛政4年(1742)に
治脩により藩校である明倫堂と経武館(けいぶかん)が創建されました。

11代藩主・斉広(なりなが:1782~1824)は、文政2年(1822)に37歳で隠居を表明し、
自らの隠居所を建設するため、藩校を現在の
いしかわ四高記念公園」の場所へ移しました。
文政5年(1822)にその跡地に建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所
「竹沢御殿(たけざわごてん)」を建立しました。
この年に、老中・松平定信(1759~1829)は『洛陽名園記』を引用し、
宏大・幽邃・人力・蒼古(そうこ)・水泉・眺望の
6つの景観を兼ね備えているとして「兼六園」と命名しました。
斉広の死後に竹沢御殿は斉泰により取り壊され、
兼六園は現在のような姿になりました。
ラジオ塔
ラジオ塔は日本放送協会(NHK)が公共放送普及のため
昭和8年(1933)に設置され、名古屋局のラジオ放送が流されていました。
昭和5年(1930)から全国に約460基が設置され、
戦後にラジオが普及したことから役割を終えました。
時雨亭
千歳台から少し下ると、長谷池があり、その奥に時雨亭が復元されています。
5代藩主・綱紀(つなのり:1643~1724)が蓮池庭を作庭した頃からあった建物で、
廃藩後に撤去されていました。
平成12年(2000)に竣工した「長谷池周辺整備事業」で再現されました。
瓢池
更に下ると瓢池(ひさごいけ)があり、この辺りは
かって「蓮池庭(れんちてい)」と呼ばれていました。
兼六園は、延宝4年(1676)に5代藩主・綱紀が、金沢城に面する傾斜地にあった
藩の建築や営繕を担当する役所・ 作事所を
城内へ戻し、別荘を建ててその周囲に庭園を築いたのが始まりとされています。
当初は「蓮池の上御露地(はすいけのうえおろじ)」と呼ばれ、
来藩した客人や重臣たちの接待、あるいは観楓(かんぷう)などの宴を
楽しむ清遊の場として活用され、一般的には「蓮池庭」と
呼ばれるようになりました。

宝暦9年(1759)の大火で一部が焼失し、安永3年(1774)に
10代藩主・治脩(はるなが:1745~1810)により再興され、
翠滝と夕顔亭が造営されました。
画像はありませんが、翠滝はそのまま残され、夕顔亭が復元されています。
また、安永5年(1776)に蓮池馬場の馬見所に内橋亭が建てられましたが、
現在は霞ヶ池の西南岸に復元されています。
辰巳櫓跡
真弓坂口から出てお堀通りを「兼六園下・金沢城」のバス停の方へ向かいます。
金沢城の辰巳櫓跡です。
橋
この橋を渡って金沢城址公園から兼六園へ向かいました。
前田利家像
11:18発、野町駅経由野々市車庫行で野町駅へ向かいます。
少し時間があったので城側に横断すると、
初代城主・前田利家の像が造立されていました。
バスに乗車すると、最初に下車した「香林坊」のバス停を通過しました。
バス路線を熟知していなかったために少々時間を無駄に使いました。
次回、機会があれば金沢駅から「兼六園下・金沢城」までバスで移動し、
兼六園の蓮池門口から入って歴史を追って霞ヶ池へと向かい、
金沢城の鼠多門橋を渡って「香林坊」のバス停に至るルートを辿りたいと思います。

野町駅から北陸鉄道石川線で、終点の鶴来まで乗車して
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)へ向かいます。
続く

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野町駅-1
野町駅に到着すると既に11:36発・鶴来行の出発時間でしたが、
平日限定のシルバー1日フリーエコきっぷを購入して乗車することが出来ました。
平日限定のシルバー1日フリーエコきっぷは500円で、野町~鶴来間500円の
片道料金で往復することが出来ます。

北陸鉄道は昭和18年(1943)に、陸運統制令に基づき石川県下の鉄道及び
バス会社をすべて統合して発足しましたた。
鉄道ではこの石川線の他に浅野川線(北鉄金沢駅~内灘駅6.8km)を営業しています。
石川線は金沢市の野町駅から白山市の鶴来駅間13.8kmを結ぶ路線で、
かっては鶴来駅で分岐していた能美線や加賀一の宮駅以南の金名線と
直通運転を行い、3線をまとめて「石川総線」と呼ばれていました。
野町駅-2
帰りに撮影した野間駅のホームです。
大正4年(1915)に石川鉄道が新野々市駅(現在の新西金沢駅)~鶴来駅間で
営業を開始したのが始まりで、翌大正5年(1916)に金野軌道(後に金野鉄道と改称)が
野町駅~新野々市駅間で開業し、同年に野町駅から西金沢駅(後の白菊町駅)まで
延伸されました。
大正9年(1920)に金野鉄道は金沢電気軌道に買収され、大正12年(1923)には
石川鉄道も金沢電気軌道に買収されました。
大正15年(1926)に金名鉄道(きんめいてつどう)が白山下~加賀広瀬(後の広瀬)間
で開業し、昭和2年(1927)に加賀広瀬から鶴来駅まで延伸し、金沢電気軌道と
接続しましたが、神社前駅(後の加賀一の宮駅)~鶴来駅間を
金沢電気軌道に譲渡しました。

また、金沢電気軌道は昭和14年(1939)に、鶴来駅~新寺井駅間16.7kmで営業していた
能美電気鉄道(のみでんきてつどう)を買収しました。
新寺井駅は、当時の国鉄・北陸本線の寺井駅
(現在の能美根上駅=のみねあがりえき)と接続していました。
昭和16年(1941)に北陸合同電気(現在の北陸電力)設立され、金沢電気軌道が
合併されましたが、昭和17年(1942)には分離され、旧北陸鉄道が設立されました。
昭和18年(1943)に旧北陸鉄道や金名鉄道などが合併され、
現在の北陸鉄道が設立されて石川線となりました。
しかし、昭和47年(1972)に白菊町駅、昭和55年(1980)に能美線、
昭和62年(1987)に金名線、更には平成21年(2009)に
鶴来駅~加賀一の宮駅間2.1kmも廃止され、現在の路線となりました。
鶴来駅
12:06に鶴来駅に到着しました。
7700系
鶴来駅には7700系が留め置かれています。
昭和42年に製造された京王電鉄3000系で、平成18年(2006)に譲渡されました。
しかし、京王電鉄の架線電圧が直流1,500Vであったのに対し、
石川線は600Vであったため電装品のほとんどが換装されました。
車庫
鶴来駅には車庫が併設されています。
7100系は、平成2年(1990)の石川線近代化工事にあわせて導入された
東急電鉄7000系で、昭和41年(1966)に製造されました。
また、右側の7200系も昭和39年(1964)に製造された東急電鉄7000系で、
7100系と共に電装品は大幅に変更され、特に床下機器に関しては原形を
全く留めていないほど換装されました。
石川線には7100系と7200系がそれぞれ2編成、合計で4編成が在籍しています。
ED20形
除雪用機関車として使用されているED20形電気機関車は、金沢電気軌道時代の
昭和13年(1938)に木南車輛製造株式会社(きなみしゃりょうせいぞう)で製造され、
現存する唯一の車両です。

鶴来駅から白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)へは、歩くと30分余りを
要しますので、駅から正面にある白山市役所の鶴来支所で
レンタサイクルを利用します。
変速機付ママチャリは500円、電動は800円で、ママチャリを利用しましたが、
電動にした方が良かったと、少々後悔しました。
白山比咩神社へ向かいます。
続く

波切不動明王-1
白山市役所の鶴来支所で変速機付の自転車を500円で借りて、支所前の県道を
南へ進むと波切不動明王の石像を祀る不動堂があります。
波切不動明王-2
堂内の縁起書によれば、霊亀2年(716)に泰澄(たいちょう:682~767)が、
当地・舟岡山の岸壁に刻んだものと伝わります。
泰澄が白山に登る前、舟岡山の石窟で修行を重ね、不動明王を刻んで山上の安穏と
国土の静謐を祈念したとされています。
翌養老元年(717)に泰澄は白山に登り、白山妙理権現を感得したと伝わり、
不動明王は白山妙理権現の眷属・五王子権現の一・太郎王子の
本地仏とされています。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈と用水路の建設に伴い、
岸壁の爆破が行われましたが、仏像への損傷が無かったので、
この地に一宇が建立され、安置されるようになりました。
加賀一の宮駅跡
更に南へ進むと加賀一の宮駅跡があります。
昭和2年(1927)に金名鉄道(きんめいてつどう)が、加賀広瀬から鶴来まで
延伸した際に開設されました。
戦時統合で現在の北陸鉄道石川線となりましたが、平成21年(2009)に
鶴来~加賀一の宮間2.1kmは廃線となりました。
遺跡
駅跡の西側には平成8年(1996)の発掘調査現場が保存されています。
遺跡-発掘品
この調査では「かわらけ」と呼ばれる素焼きの土器1,700枚余りが発見されました。
儀式や祭事に使われた小皿と推定されています。
水戸明神-1
その奥には水戸明神を祀る祠があります。
水戸明神-2
水戸明神は水の取り入れ口(水門)の守護神として、富樫用水が築かれた頃に
現在の水戸町付近に祀られていましたが、洪水で流出したため、
昭和29年(1954)に現在地に遷座されました。
安久涛の渕
この地は「安久涛の渕(あくどのふち)」と呼ばれ、
白山市の名勝に指定されています。
急流・手取川の中でも最も緩やかな淵の一つであり、『久しきにわたり波(涛)
立たぬ瀞淵』の名勝として名付けられました。

霊亀2年(716)~文明12年(1480)まで、現在は水戸明神が祀られている
安久涛の渕の上の台地に白山寺白山本宮が鎮座していました。
波切不動明王縁起には、安久涛の渕は結界の聖地で、不動明王と
釈迦・文殊・金剛菩薩の三尊を彫刻・勧請して、浄域を結界するのが
泰澄の宿願と記されています。
この地で白山寺白山本宮が創建されたのには、
泰澄が関係していたのかもしれません。
しかし、一方で泰澄は手取川ではなく、九頭竜川に沿って白山に登り、瞑想すると
翠ヶ池(みどりがいけ)から九頭龍王が出現し、自らを「白山妙理権現」と
名乗ったとする説もあり、真偽は定かではありません。
表参道-一の鳥居
駅跡の南側に駐車場があり、その先に白山比咩神社の一の鳥居が建っています。
白山比咩神社の創建は崇神天皇7年(BC91)で、 舟岡山に「まつりのにわ」が
祀られたのが始まりとされています。
雪が深く、遅くまで残雪をいただく白山(しらやま)は手取川の水源となり、
水田農耕社会となると白山は水神・農耕神の白き神々の座して
崇められるようになりました。
また、漁など海での生活を基盤とする人々にとっては白山は、
航海で位置を確認する目印にもなりました。

応神天皇28年(297)に手取川の河畔「十八講河原」へ遷座されましたが、
氾濫して社殿が度々流出したため、霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に
再度遷座されました。

翌養老元年(717)に泰澄が白山の主峰・御前峰(ごぜんがみね:標高2,702m)に登ると
九頭竜の姿をした十一面観世音菩薩が顕れ、自らを伊弉冉尊の化身で、
白山明神・妙理大菩薩名乗ったとされています。
次いで泰澄が別山(標高2,399)に向かうと宰官(さいかん=役人)が顕れ、
聖観音菩薩のの垂迹である大行事権現であると告げました。
更に大汝峰(標高2,684m)に登拝すると、老翁に会い、本地は阿弥陀如来で、
垂迹は大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)と名乗りました。
大己貴命は大汝権現とも称され、大行事権現と共に白山妙理権現の
神務の補佐を行うとされています。

以降、白山には加賀・越前・美濃3国それぞれから山頂に至る登山道(禅定道)が
開かれ、修験者の山岳修業の地となりました。
また、延暦元年(782)に日吉八王子山の麓に白山権現が顕われたと伝わり、
天安2年((858)に相応が日吉大社に勧請し、「客人(まろうど)」と呼ばれる
客人神として祀られ、「日吉三聖」に次ぐ格式を持つようになりました。
更に久安3年(1147)には神宮寺の白山寺が延暦寺山門別院となり、
多くの宗徒を擁するようになりました。

しかし、室町時代中期以降は急速に衰亡しました。
康正元年(1455)に本願寺一向一揆門徒が越前国から加賀にも入り、
勢力を拡大していったため、神給田からの年貢を得られなくなりました。
更に、文明12年の大火で延焼し、40余りの堂塔伽藍は悉く焼失しました。
三宮があった現在地に御神体・御本尊が遷されましたが、復興はなされず
以降100年間余り荒廃したままとなりました。
天正11年(1583)に金沢城主となった前田利家は、第106代・正親町天皇から
白山宮復興の綸旨を受け、現在地で再建に着工し、文禄5年(1596)に竣工しました。
その後は加賀藩の庇護を受け、経営基盤は盤石のものとなりました。
表参道
表参道を進むと、中間辺りに琵琶滝があります。
琵琶滝
延命長寿の霊水として名高い白山水系の伏流水が流れ落ち、
手取川へと注がれています。
表参道-手水舎
その先には二の鳥居が建ち、手水舎があります。
表参道-二の鳥居
二の鳥居から石段となり、それを登った所には三の鳥居が建っています。
ケヤキ
三の鳥居の脇に胸高周り約5m、樹高25m、推定樹齢は1000年と伝わる
大ケヤキの木があり、白山市の天然記念物に指定されています。
荒御前神社-1
正面には荒御前神社(あらみさきじんじゃ)があります。
荒御前神社-2
荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神の4柱が祀られています。
荒御前大神は、神功皇后が三韓征伐の際、自らを守護した神とされています。
神門
東側にある神門をくぐります。
神馬舎
くぐった右側に神馬舎があります。
本殿
社殿は外拝殿・直会殿(なおらいでん)・幣拝殿・本殿と続きます。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、神宮寺の白山寺は廃され、
白山本宮は『延喜式神名帳』に記載があった加賀一ノ宮の
「白山比咩神社」と改められ、白山比咩大神(菊理媛尊)・伊邪那岐尊・伊弉冉尊が
祀られるようになりました。
菊理媛尊(くくりひめのみこと)は、伊弉冉尊と伊弉諾尊を仲直りさせた神として
縁結びと和合の神として信仰を集めています。
伊弉冉尊が火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を出産した際に火傷を負って
亡くなり、伊弉諾尊は妻を追って死の国である「黄泉の国(よみのくに)」へ
迎えに行きました。
しかし、腐敗して醜い姿に変わり果てた妻を見て驚き、地上へ逃げ出しました。
伊弉冉尊は伊弉諾尊の後を追い、地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)で
追い付き、口論となりました。
そこに菊理媛尊が現れ、二人の仲を取りなすと伊弉冉尊は
黄泉の国へ帰って行ったとされています。

白山比咩神社は、明治4年(1871)に国弊小社に列せられ、全国の白山神社の
総本社とされ、越前・美濃は分霊された白山神社とされました。
大正3年(1914)に国幣中社に昇格し、第二次大戦後は神社本庁の
別表神社に列せられています。
国から白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を
本社境内として無償渡与を受けました。
授与所
社殿の左側に授与所があり、その前右側の三本杉は御神木とされています。
三本杉
昭和58年(1983)の5月21日に石川県で開催された「第30回全国植樹祭」の際、
昭和天皇が境内の杉の種を手蒔きされ、
その時の苗木を御神木として植樹されました。
奥宮揺拝所-1
神門の南側に白山の主峰・御前峰の山頂にある奥宮の揺拝所があります。
奥宮揺拝所-2
大汝峰、御前峰、別山の「白山三山」の形をした大岩が祀られています。
盤持石
揺拝所の右奥にある盤持石(ばんもついし)は、古来の祭礼の神賑(かみにぎわい)
として盤持大会が行われ、力自慢比べで使用された石です。
右から、あか石127.5kg、おまもり石150kg、あお石172.5kgだそうで、
重すぎて試してみる気にもなりませんでした。
錨
古い錨も奉納されています。
遊神殿
東側に遊神殿があります。
平成20年(2008)に御鎮座二千百年を迎えたことを記念して、
平成19年に新築され、参拝者の受付、控室、休憩所として利用されています。
参集殿
遊神殿の右側に参集殿があります。
参集殿の右側
参集殿の右奥に禊場があります。
禊場
滝から流れ落ちた白山水系の伏流水が湛えられ、無色の水で穢れも
流れ落ちそうですが、今の季節、水は少し冷たく感じます。
なんじゃもんじゃの木
脇には春に白く可憐な花を咲かせるいう「なんじゃもんじゃ」の木が植栽され、
その上部には住吉社が見えます。
南参道-手水舎
参集殿から南参道を進むと手水舎があります。
南参道-手水鉢
手水鉢は「亀岩」と称されていますが、形が亀に似ているのか?、
それとも岩石の種類なのか定かではありません。
南参道-鳥居
手水舎の先には木製の鳥居が建っています。
住吉社
鳥居と県道との間に禊場から見上げた住吉社があります。

授与所の方へ戻ります。
社務所
授与所の裏側に社務所があります。
芭蕉句碑
社務所の先に手水舎があり、その手前に松を芭蕉の句碑があります。
「風かをる 越の白嶺(しらね)を 國の華」
芭蕉が「奥の細道」の途次、元禄2年(1689)7月に白山の姿を讃えて
詠んだものです。
白山霊水
手水舎の奥に白山霊水の汲み場があります。
延命長寿の霊水として、遠方からも汲みに来られています。
觸穢の所
駐車場からの鳥居の脇に觸穢(しょくえ)の所があり、葬儀参列やお産などは穢れに
触れるとして、自らお祓いを行い、身を清める所で、
祠の中にはそれに使用する祓い串などが納められています。
宝物館
駐車場の右側に宝物館がありましたが、12/1~3/31までは閉館中でした。
展示されている宝物は、当社のHPで閲覧することが出来ます。
駐車場の鳥居
県道に面した駐車所の入口にも鳥居が建っています。
獅子吼高原
東側には獅子吼高原のゴンドラが見えますが、ゴンドラは11/23から来春まで
営業を休止しています。
かってはスキー場があったようですが、雪不足で閉鎖され、
現在はパラグライダー場として整備されているようです。
正式には後高山(しりたかやま)周辺が「獅子吼高原」と呼ばれ、
泰澄が白山開山に向かう途中、後高山周辺の4カ所で宿泊したことから
当初は「四宿(ししゅく)」と呼ばれていました。
それが、仏教の経典にある「獅子吼」の文字を当てて
「ししく」と呼ぶようになりました。
ゴンドラに乗った標高650mの地点に白山比咩神社の分社・ 獅子吼白山比咩神社が
あります。

鶴来別院へ向かいます。
続く

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山門
白山比咩神社の表参道の駐車場から県道179号線を北上し、
その先で右折して進んだ先に鶴来別院があります。
鶴来別院は浄土真宗大谷派の寺院で、本願寺第8代法主・蓮如上人
七男・蓮悟(れんご:1468~1543)が創建した清沢坊が始まりとされています。
蓮悟は、長享元年(1487)に本泉寺を河北郡若松荘(現在の石川県金沢市)に
移転すると、翌長享2年(1488)に長享の一揆が起こり、
加賀守護・富樫政親(とがし まさちか:1455~1488)が一向一揆勢力により
倒されました。
家督は大叔父・泰高に継がれましたが、実質的には蓮悟と
兄の蓮綱(れんこう:1450~1531)主導の「両御山」体制により
加賀の支配が行われました。

清沢坊には永正5年(1508)に実悟(1492~1584)が入りました。
実悟は蓮悟の異母弟で、幼少時代に蓮悟の養子となり、
文亀2年(1502)に得度しました。
永正2年(1505)に河内門徒が実悟の同母兄・実賢を法主に擁立しようとする陰謀が
発覚し、更に永正5年(1508)に蓮悟に実子が誕生したことから
蓮悟からも疎まれ、清沢坊へ移されました。
清沢坊はその後、本願寺から願得寺の寺号を許され、
石川郡の「御山」として郡内一円の門徒の結集の中核になりました。
実悟は教養人であり、多くの著書を残し、
日記に「百姓の持ちたる国のように成り行き候」と加賀一向一揆を記しました。

本願寺10代法主・証如の後見人蓮淳(れんじゅん:1464~1550)は、
法主による一門統制を強める政策を採りました。
その横暴ぶりに対して一族や地方の門徒が激しく反発するようになり、
享禄4年(1531)に大小一揆が勃発しました。
この騒乱により清沢願得寺は焼き討ちされ、実悟は蓮悟と共に破門され、
能登へと逃れました。
しかし、加賀は一向一揆の勢力により天正8年(1580)まで支配が続けられました。
本堂
本堂
その後、清沢願得寺は廃絶し、天文年間(1532~1555)に
大御坊惣道場が建立されました。
惣道場とは、村落全体の門徒の 総意により共同で維持運営される念仏聞法の道場で、
明治13年(1880)に「金沢別院鶴来支院」と公称するようになりました。
明治36年(1903)に金沢別院から独立して鶴来別院となりました。
明治32年(1899)に現在の本堂が8年の工期を経て再建され、
白山市指定建造物となっています。
鐘楼
鐘楼

金剱宮(きんけんぐう)へ向かいます。
続く

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