昨年の12月にGo Toトラベルを利用し、日帰りで金沢へ行きました。
和歌山の瀞峡へのバスツアーを予約していたのですが、台風や大雨の影響で
ウォータージェット船の航路が損傷したため、ツアーが中止となり、
金沢に変更しました。
ツアーはサンダーバードの往復乗車券と北鉄バスの一日フリー乗車券、
更に2,000円の地域共通クーポンが付きます。
前回、別の旅行社での富山行では、サンダーバードと北陸新幹線の出発や
帰りの時間から乗車席まで自ら選択することができましたが、
今回は全て指定されています。
指定されていたのは7:29発のサンダーバード3号で、予定より早く京都駅に
到着したため、前回利用した6:59発のサンダーバード1号を見送ります。
EF210形が牽引する貨物列車が通過していきます。
EF210-15は、平成10年(1998)7月~同年11月にJR貨物が製造した18両の1両で、
EF65、EF66形の後継機、及び東海道・山陽線系統の 1,300t コンテナ貨物列車の
運転拡大に充当する目的で開発されました。
その後、改良機の100番台(101~173号機)や300番台(301号機~)が製造されています。
奈良行の103系が発車していきます。
昭和38年(1963)~昭和59年(1984)まで3,400両余り製造された
国鉄時代の通勤型電車で、2編成が残されるのみとなっています。
サンダーバード3号は1号と異なり、武生と小松にも停車し、
9:38に金沢に到着しました。
座席は往復通路側だったため、自由席に移って窓側に座りました。
自由席でも空席が目立ちます。
金沢駅に到着して、バスターミナルでクーポンを北鉄バスの一日フリー乗車券に
交換し、早速「香林坊」まで乗車しました。
東へ歩いて突き当たり、右に曲がって進むと
「鼠多門(ねずみたもん)」があります。
江戸時代に玉泉院丸(現在の玉泉院丸庭園)と金谷出丸(現在の尾山神社)を
結ぶ出入り口として使われていました。
黒い海鼠漆喰(なまこじっくい)が特徴だそうです。
宝暦9年(1759)の大火でも焼失を免れましたが、明治17年(1884)に焼失し、
周囲の水堀も埋められ、当時の面影が失われていました。
「鼠多門橋」は城内最大規模の木橋だったそうで、明治10年(1877)に
老朽化のため撤去されました。
本年、令和2年(2020)7月18日に鼠多門と橋が復元されたばかりです。
その先を城に沿って南西方向に進むと、元和~寛永年間(1615~1644)頃に
創建された「いもり堀の石垣」があります。
いもり堀の堀底から、初期の粗い加工石が積み上げられていますが、
この両側には、土手の上部に石垣を巡らす「鉢巻き石垣」が続き、
概ね創建時の姿が残されています。
かって、この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である
天正15年(1546)に建立された「尾山御坊(おやまごぼう)」がありました。
寺でしたが、石垣を廻らした城ともよべる要塞で、石山本願寺へ年貢を納める
本願寺教団の重要な財政基盤となっていました。
天正8年(1580)に朝廷を介して本願寺と和議を結んだ織田信長は、
柴田勝家に一向一揆の解体を命じると、同年に尾山御坊は陥落し、
天正10年(1582)には一向衆勢力が一掃されました。
跡地に金沢城が築かれ、柴田勝家配下の佐久間盛政が初代城主となりました。
同年、本能寺の変で織田信長が自刃して果てると羽柴秀吉と対立するようになり、
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、秀吉軍に敗れて盛政は処刑されました。
賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍に参戦していた前田利家は、
合戦の最中に突然撤退し、秀吉軍の勝利を決定づけたため勝家は自害しました。
その功により利家は、秀吉から佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を加増され、
本拠地を能登の小丸山城から金沢城へ移し、「尾山城」と改称しました。
利家の晩年か没後に「金沢城」に戻されました。
天正12年(1584)羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いで、
富山城主の佐々成政は家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻しました。
前田利家は末森城で成政を撃破し、翌天正13年(1585)に利家の先導で、
秀吉自ら率いる10万の大軍で富山城を包囲すると成政は降伏しました。
前田利家はその恩賞として越中三郡を得ました。
同年に越前国・若狭国・加賀国2郡の大大名であった丹羽長秀が没し、長男・長重が
後を継ぎましたが、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、
若狭1国15万石に減封されました。
それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上りました。
慶長3年(1598)に前田利家は家督と加賀の所領は長男・利長に譲りましたが、
隠居することは許されず、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉から
大老の一人に命じられました。
同年8月豊臣秀吉が没し、利家は豊臣秀頼の後見人として大坂城に、徳川家康は
伏見城に入りましたが、間もなく家康が秀吉の法度を破ったことにより
利家と家康が対立するようになりますが、
翌慶長4年(1599)に利家は62歳で病死し、利長が五大老を継ぎましたが、
「3年は上方を離れるな」との利家の遺言に反し、加賀へ帰国しました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、利長は家康の謀略に屈服し、
家康軍に従軍して参戦しました。
弟・利政は、西軍に妻子を人質を取られ、軍務を放棄したことに利長は怒り、
家康に利政が西軍に加担したと訴え出ました。
関ヶ原の戦い後、利政の領地は利長に加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国にまたがる
日本最大の藩・加賀藩が成立しました。
以降、加賀藩主は明治維新まで13代にわたり前田家により引き継がれました。
金沢城址は、平成8年(1996)に国から石川県に譲渡され、
県が金沢城址公園として整備を開始しました。
総面積は28.5ヘクタールで、平成20年(2008)に国の史跡に指定されました。
その先の「玉泉丸口」から城へ入り、坂を登ると「玉泉丸庭園」があります。
天正11年(1583)に前田利家が金沢城に入城してからは、この辺り一帯は
「西の丸」と呼ばれ、重臣の屋敷が置かれました。
慶長19年(1614)に二代目藩主・利長正室の玉泉院の屋敷が造営され、
元和9年(1623)に玉泉院が逝去後に屋敷は撤去されました。
寛永11年(1634)に三代藩主・利常により作庭され、五代・綱紀や
十三代・斉泰(なりやす)などの歴代の藩主により手を加えられながら、
廃藩時まで存在していました。
明治以降は陸軍省の財産となりますが、明治14年(1881)に金沢営所から出火し、
二ノ丸などが全焼しました。
明治17年(1884)には鼠多門も焼失しました。
明治31年(1898)に 陸軍第9師団司令部が置かれ、
第二次世界大戦が終わるまで存続しました。
大正15年(1926)頃に庭園の池は埋め立てられ、昭和30年(1955)には玉泉丸跡は
県スポーツセンターとなりました。
その後県による発掘調査が開始され、平成27年(2015)に玉泉丸庭園が復元され、
休憩所の「玉泉庵」が建てられました。
玉泉庵には無料のボランティアガイドが常駐され、
玉泉丸庭園内のガイドが行われています。
右奥に滝組、その奥に色紙短冊積石垣、半島の左側に舟小屋が見えます。
正面上に見えるのが三十間長屋で、国の重要文化財に指定されています。
安政5年(1858)の再建で、元は干飯(ほしいい)が貯えられていたそうですが、
後には「鉄砲蔵」とも呼ばれ、武器庫となったようです。
江戸時代には池が掘状に北側まで続き、この地点に「紅葉橋(もみじばし)」と
称された木橋が架けられていました。
紅葉橋から登って見る玉泉丸庭園。
色紙短冊積石垣は、色紙(方形)や短冊(縦長方形)や上部にV字形の石樋が
組み込まれた城内で最も意匠的な石垣です。
かっては、石樋から落差9mに及ぶ滝がありましたが、現在は石垣の下部約2mが
埋め戻されているため、その滝壺を見ることが出来ません。
登った所は二の丸広場で、寛永8年(1631)の大火後に二の丸には
御殿が建立され、橋爪門が創建されました。
宝暦9年(1759)の大火では金沢城の大半が焼失し、その後再建されましたが、
文化5年(1808)に二の丸から出火し、
二の丸御殿、橋爪門、同続櫓、五十間長屋、菱櫓等が焼失しました。
翌文化6年(1809)に橋爪門、文化7年(1810)には
二の丸御殿、菱櫓、五十間長屋が再建されました。
しかし、明治14年(1881)の失火により、再建された全てが焼失しました。
正面には五十間長屋が復元されています。
五十間長屋は、一般的には「多聞櫓」と呼ばれ、武器や什器等の倉庫です。
永禄3年(1580)に松永久秀が多聞山城を築いたことがその名の由来となる、
石垣や土塁の上に建てられる長屋造の櫓のことです。
金沢城にはこのような「長屋」と呼ばれる建物が、他に14棟あったと伝わります。
復元された五十間長屋は二層二階の建物で、
左に三層の菱櫓、右に橋爪門があります。
これらは平成13年(2001)に木像で復元され、
明治以降の木造城郭建築物としては最大規模だそうです。
二の丸広場から「雁木坂(がんぎざか)」と呼ばれる坂を下り、
橋爪門をくぐります。
雁木坂は、かっては石段でした。
橋爪門は寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門で、
城内で最も格式が高く、通行に際しては厳しい制限がかけられていました。
右側の高麗門形式の「一の門」と石垣と二重塀で囲われた「桝形」、
櫓門形式から成る「桝形門」で、桝形は城内最大規模を誇ります。
文化5年(1808)の二の丸の大火で焼失した後、
文化6年(1809)に再建された姿が復元されています。
平成24年(2012)6月に着工し、同27年(2015)3月に完成しました。
「一の門」をくぐると内堀があり、掘に架かる「橋爪橋を」渡り、
三の丸広場へ出ます。
屋根瓦が白っぽく見えるのは鉛瓦だからです。
木で作られた屋根の上に、強さや硬さを増し、耐酸性を高めるために
少量の銅を加えた厚さ1.8mmの鉛板が張られています。
鉛瓦は江戸城にも使われ、名城の姿を壮美にするためとされ、
全ての建物に鉛瓦が使われているようです。
三の丸広場から見た五十間長屋です。
三の丸広場の北側に河北門があります。
「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する
「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。
横の階段を登ると一の門とその右側に「にらみ櫓台」が望めます。
慶長10年(1605)~元和元年(1631)頃に河北門は桝形門となりました。
宝暦9年(1759)の大火で焼失後、安永元年(1772)に再建されましたが、
明治15年(1882)頃に撤去されました。
現在の河北門は、平成19年(2007)11月に着工し、
平成22年(2010)4月まで約2年半の歳月をかけて完成しました。
石川門の左右の太鼓塀は、天明8年(1788)の再建で、
国の重要文化財に指定されています。
石川門です。
三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから「石川門」と称されています。
かっては「搦手門(からめてもん)」と呼ばれる裏門で、
櫓門形式と表門から成る「桝形門」です。
桝形門としては、国内で最も完成した形とされ、
桝形内の続櫓も重要文化財に指定されています。
宝暦9年(1759)の大火で焼失後、天明8年(1788)に再建されました。
明治14年(1881)の火災では、三十間長屋と鶴丸倉庫と共に焼失を免れ、
国の重要文化財に指定されています。
表門と左右の太鼓塀及び石川門櫓も重要文化財に指定されています。
平成25年(2013)に改修工事が行われました。
兼六園へ向かいます。
続く
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