カテゴリ: 日本の私鉄

マスコット
近江鉄道ミュージアムが平成30年(2018)12月8日で閉館されるため、残されている主に
機関車を撮っておこうと思い向かいました。
10時から開場されますが、既に長蛇の列ができており、当然先着300名に配られる
「来場記念ポストカード」は入手できませんでした。
販売品
当日は12:00から部品も販売されるため、開場後は販売会場である資料館に
長蛇の列が移りました。
パンタグラフ
パンタグラフは売り物ではないようです。
会場-東側
近江鉄道は明治29年(1896)6月16日に設立された、滋賀県で最も古い私営の鉄道会社です。
同年9月から建設工事が始まり、明治31年(1989)に彦根~愛知川間が開通し、開業されました。
明治33年(1900)には貴生川まで延伸され、大正3年(1914)3月8日には多賀線が開業されました。
昭和6年(1931)3月15日に米原~彦根間が開業し本線が全通しました。
昭和19年(1944)に八日市鉄道株式会社を合併しました。
大正2年(1913)に新八幡駅(現在の近江八幡駅)と八日市口駅(現在の新八日市駅)間で
開業された湖南鉄道は、昭和2年(1927)に琵琶湖鉄道汽船と合併しましたが、
昭和4年(1929)に琵琶湖鉄道汽船は京阪電気鉄道に合併されました。
その際、旧湖南鉄道部分は分離され、八日市鉄道として発足することになりました。
会場-西側
かって、神崎郡八日市町沖野ヶ原(現在の東近江市沖野)に陸軍の飛行場があり、
昭和5年(1930)には新八日市駅から飛行場駅(後に御園駅に改称)まで開通し、
飛行場への物資や兵員の輸送に使われました。
この路線は永源寺がある山上(現東近江市山上町)まで線路敷設の免許を
受けていたのですが、計画の遅れなどから昭和10年(935)6月に敷設免許が失効しました。
戦後、飛行場が閉鎖されると物資や人の輸送量が激減し、昭和23年(1948)8月1日に
新八日市駅~御園駅間の運行が休止され、昭和39年(1964)9月24日に廃止が認可されました。
ED313
ED31 3
ED314
ED31 4
「ED31 3」及び「ED31 4」は、伊那電気鉄道(現在のJR東海・飯田線の一部)が
大正12年(1923)に新製した直流用電気機関車で、当初は「デキ1形」と称され、
6両が製造されました。
その後、伊那電気鉄道は戦時買収による国有化に伴い、「デキ1形」は
国鉄(当時の鉄道省)籍へ編入され、戦後「ED31形」と改番されました。
天竜峡以北の飯田線で使用されていたのですが、昭和30年(1955)~昭和31年(1956)に
全車が除籍され、「ED31 3」~「ED31 5」の3両が近江鉄道に譲渡されました。
その後、西武鉄道に譲渡された「ED31 1」~「ED31 2」の2両も近江鉄道に移されましたが、
平成2年(1990)に「ED31 5」、平成16年(2004)に「ED31 1」と「ED31 2」が廃車されました。
現存する「ED31 3」と「ED31 4」ですが、「ED31 4」は機械の故障で休車となり、
「ED31 3」は車籍を保持していますが、ATSの装備が困難などの理由から、
事実上本線走行は不可能な状態にあります。
1101
「ロコ1100」は昭和5年(1930)6月16に阪和天王寺~阪和東和歌山で開業した
阪和電気鉄道が、昭和5年(1930)に天王寺駅構内での国鉄との貨車授受作業に
当たるために製造された機関車でこの1両のみが製造されました。
しかし、阪和電気鉄道は昭和15年(1940)12月1日に南海鉄道に吸収合併され、
更に昭和19年(1944)5月1日には戦時買収により国有化され、国有鉄道阪和線となりました。
戦後天王寺駅での貨車の授受が不要となったことから、近江鉄道に譲渡されましたが、
現在は車籍は無く本線走行はできません。
ED141
ED141-2
ED14 1
ED142
ED14 2
ED144
ED14 4
「ED14」電気機関車はアメリカGE社製で、大正15年(1926)に鉄道省により4両が輸入されました。
当初は東海道線の貨物輸送などに使われていましたが、昭和5年(1930)に大型機の登場で
甲府機関区に移り、戦後は一時豊橋機関区に移り、飯田線で運用されていました。
昭和25年(1950)に作並機関区に移された後、昭和35年(1960)に4両とも休車となり、
2・3号機が近江鉄道へ譲渡されました。
1・4号機は再び仙山線で使用されましたが、昭和41年(1966)に除籍され、
近江鉄道へ譲渡されました。
近江鉄道に譲渡された機関車は主に石灰石の輸送に使われていましたが、
昭和63年(1988)までに貨物輸送が廃止され、構内の入れ替えなどに時折使われるにとどまりました。
ATSの装備が困難な点などから、本線上を走ることは不可能な状態です。
4号機は国鉄時代の茶色の塗装に復元されています。
残念ながら2号機は平成31年(2019)1月28日の夜から未明にかけて、
解体のため運び出されたそうです。
有蓋車
貨車のワ34形(ワ34・ワ35)は大正12年(1923)に製造された12t積みの有蓋車で、
最盛期にはワ34~ワ39の6両が在籍していました。
当初は木製でしたが昭和35年(1960)に鋼体化されました。
有蓋車-屋根
しかし、ワ34の屋根にはガーランド式のベンチレータが残され、
木製車時代の貫通式扉が引き継がれています。
現在は救援者代用として残され、車内には搭載機材一覧が記載されています。
チ10
チ10形6.35t積みレール運搬車は、平成20年(2008)に廃車となった
500系電車の505編成を改造して2両製造されました。
走行装置や連結器は台枠ごと流用され、レール昇降用のチェーンブロックも装備されています。
ホキ
ホキ10形は昭和60年(1985)に彦根工場で新造された
30t積みのバラスト運搬用のホッパ車で、3両在籍しています。
チ1
2軸貨車のチ1形は大正12年(1923)に製造された12t積みの長物車で、
末期はチ10形が製造されるまでレールの運搬などにも使用されました。
ほほえみパーク号
ほほえみパーク号-1
近江鉄道ミュージアムの入口付近には「ほほえみパーク号」が停車しています。
500系電車を改造し、彦根駅東口前にある保育園(ほほえみ園)の開園1周年を
記念して保育施設に改装したものです。
500系電車は昭和44年(1969)から昭和58年(1983)にかけて自社工場で6編成12両が
製造されましたが、車体のみが新造され、台車や主電動機をはじめとした
機器類は廃車発生品を転用したため名義上は改造車両とされています。
非冷房車であったため、平成12年(2000)から800系への入れ替えが行われ、
平成23年(2011)頃には全て廃車となりました。
ワイン列車
ワイン電車2018に使われた車両は800系電車で、西武鉄道の413Fを譲り受け、
彦根工場で改造されて平成14年(2002)から運用されています。
近江鉄道は昭和18年(1943)に西武グループの傘下に入り、
平成28年(2016)2月29日には西武鉄道の完全子会社となりました。
主力の車両は西武鉄道の中古車両を改造して使用されています。
開業120年
近江鉄道は平成30年(2018)6月11日に彦根~愛知川間、
7月24日に愛知川~八日市間の開業120年を迎えました。
記念のヘッドマークを付けた車両は西武鉄道の415Fを譲り受け、
改造の後、平成11年(1999)から運用されています。
226
220系電車は両運転台の電車で、平成3年(1991)から平成8年(1996)までの
6年間にわたって、彦根工場で6両製造されました。
本線・八日市駅~貴生川駅間は運行経費削減のため、
1往復を除きレールバスLE10形で運用されていました。
しかし、LE10形は二軸車で収容能力も小さかった(定員70名)ことから、
ラッシュ時には2両連結での運用となり、経費削減の効果が削がれることとなりました。
そこで、定員102名の220系が造られることになり、様々な部品を流用して新造されました。

226は平成8年(1996)3月31日にモハ100形103の車籍・機器と西武モハ741の
部品を利用して竣工し、平成27年(2015)3月限りで定期運用から外されました。
大型のスノープラウが装備されており、冬季は雪かき車として、また、
工事列車を牽引する牽引車として、ホキ等の貨車と連結して使われています。
223と820
手前の西武ライオンズの「レオ」が描かれた223は、モハ100形101の車籍・機器と
西武クハ1741の部品を利用して、平成5年(1993)6月18日に竣工しました。
後方の820系電車は西武鉄道の429Fが改造され、平成9年(1997)8月から運用されていました。
水色一番
「水色いちばん-びわ湖」とラッピングされた220系電車。
モハ100形102の車籍・機器と西武クハ1740の部品を利用して、
平成6年(1994)5月24日に竣工されました。
車籍上では大正3年(1914)と、最も古い車両になります。
あかね号
車庫横に停車していた700系の「あかね号」は、近江鉄道開業100周年と
八日市駅の新駅舎完成を記念して、平成10年(1998)5月12日に竣工しました。
西武401系電車をベースに1年がかりの改造工事を経て、
八日市駅の改築竣工記念式に合わせた同年6月13日に運行が開始されました。
しかし、老朽化のため2019年5月6日で引退することが発表されています。
高宮駅
高宮駅
近江鉄道に乗車して多賀大社へ向かいます。
本線の高宮まで乗車して、多賀線に乗換えるのですが、
多賀線の延長距離は2.5kmで途中にスクリーン駅があるのみです。
一部を除いて高宮駅と多賀大社前駅でピストン運転されています。
多賀線は大正3年(1914)3月8日に開業し、大正14年(1925)3月12日に電化されました。
かって、住友セメント多賀工場やキリンビール滋賀工場への引き込み線があり、
高宮駅にはこの中継のための貨物ヤードがありました。
西武3000系
現在は平成26年(2014)12月で、全車が廃車となった
西武鉄道の3000系電車が留め置かれています。
多賀大社駅-構内
多賀大社前駅
当日運行されていた900系は、西武鉄道より譲り受けた101系電車を改造し、

平成25年(2013)6月14日に運用が開始されました。
当初は青を基調とした車体色から「淡海号(おうみごう)」と称されていましたが、
平成30年(2018)7月16日より、特別車両「虹たび号」としての運行が開始されました。
滋賀県観光キャンペーン「虹色の旅へ。滋賀・びわ湖」をPRするため、
キャンペーンナビゲーター(虹たびナビゲーター)であり
「滋賀ふるさと観光大使」を務める西川貴教氏の写真がラッピングされています。
多賀大社駅
多賀大社前駅
鳥居
駅前からの多賀大社への参道には鳥居が建立されています。

追記
近江鉄道ミュージアムは、令和元年(2019)11月2日、
八日市駅2階に入場無料でオープンしました。
往年の車両の展示は無く、近江鉄道の軌跡を表したヒストリーパネルや
歴史的資料の展示、近江鉄道沿線の観光スポットやイベントなど
地域の魅力や情報を発信する場となるようです。
また、運転席BOXが設置されたり、プラレールを利用して近江鉄道の車両を
リモコン操作することができます。
「あかね号」は解体され、座席の展示はあるようです。

近江鉄道の近年の利用者は年間500万人を割り込み、25年連続で赤字となっています。
鉄道の存続には、自治体が線路などの設備を保有し、近江鉄道が運営を担う
「上下分離方式」などが想定されますが、今後各自治体の負担の割合などが課題となりそうです。
滋賀県は今後沿線の住民などにアンケートをとり、来年3月までに方針を決める予定です。

追記
解体予定だったED31形4号機は、回避され保存されることになりました。
びわこ学院大の学生らがクラウドファンディングで、
目標の500万円を上回る580万円の資金を集めました。
機関車は近く、滋賀県東近江市八日市の近江酒造に移設され、
令和元年(2019)12月21日午後3時すぎから記念式典があり、自由に参加できるそうです。

多賀大社へ続く

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サンダーバード
Go Toトラベルを利用すると、「サンダーバード」と北陸新幹線「つるぎ」を
利用した往復の運賃と一泊の宿泊代をセットにして、33,000円が21,450円に
割引され、更に地域共通クーポン5.000円が付きました。
サンダーバード1号で9:13に金沢に到着しました。
北陸新幹線の敦賀までの延伸工事が一部で遅れながらも進められ、4~5年後には
サンダーバードも敦賀止まりになると思われます。
エンブレム
683系4000番台リニューアル車
エンブレムステッカー
鼓門
金沢駅で途中下車しました。
平成17年(2005)に兼六園口(東口)側に、「もてなしドーム」と
「鼓門(つづみもん)」が完成し、平成27年(2015)の北陸新幹線の
金沢延伸に向けて駅舎の改造も進められ、現在の姿となりました。
鼓門は、高さが13.7mあり、金沢の伝統芸能である能楽で使われる鼓を
イメージして造られ、日没から0:00までライトアップが行われています。
もてなしドーム
もてなしドームは、雨や雪が多い金沢で、「駅を降りた人に傘を差し出す
おもてなしの心」をコンセプトとしています。
つるぎ
「つるぎ」に乗換え、富山駅へ向かいます。
W7系/E7系は、北陸新幹線・長野駅~金沢駅間延伸開業に際し、JR西日本とJR東日本が
共同開発・導入した車両で、JR西日本の所有車がW7系、JR東日本がE7系で、
設計最高速度は275km/h、最高運転速度260km/hで運行されています。
富山駅
10:12に富山駅に着きました。

向かって駅の右側に富山地方鉄道の電鉄富山駅があり、2日フリーきっぷを
4,600円で購入しました。
JR富山駅から富山地方鉄道の市内電車で丸の内まで乗車し、
富山城公園へ向かいました。
市内電車の運賃は均一制で210円ですが、フリーきっぷが使用できます。
模擬天守
富山城は、天文12年(1543)頃に神保長職(じんぼう ながもと)が、家臣の水越勝重
(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされていましたが、最近の発掘調査により
室町時代前期の遺構が発見され、更に歴史はさかのぼると考えられています。

永禄3年(1560)、上杉謙信の攻撃を受け、神保長職は富山城に火を放って逃走し、
天正6年(1578)に謙信が急死したのを機に、城を取り戻しました。
しかし、天正10年(1582)には失脚し、佐々成政が城主となりました。
佐々成政は大規模な改修を行いましたが、本能寺の変後に豊臣秀吉と敵対し、
天正13年(1585)には秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し、
城は破却されました。
その功により恩賞で越中三郡を得た前田利家は、金沢城を本拠地とし、
その後、家督と加賀の所領は長男・利長に引き継がれました。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、利長は徳川家康に帰順して出陣し、
その功により日本最大の藩・加賀藩主となりました。
利長は富山城を再建し、大改修を行って金沢城から移り住み隠居城としましたが、
慶長14年(1609)に建物の主要部がことごとく焼失しました。

加賀藩第2代藩主・前田利常は、次男の利次に10万石を与えて分家させ、
富山藩が成立しました。
万治4年(1661)、利次は富山城を本格的に修復して居城としました。
城下町を整え、明治維新まで前田家が富山藩を治めましたが、明治4年(1871)に
廃城となり、堀も埋め立てられました。

現在の富山城公園の模擬天守は、昭和29年(1954)に鉄筋コンクリート造りで建立され、
富山市郷土博物館として運営されています。
前田正甫像
公園内には、高さ約10mの富山藩第2代藩主・前田正甫(まえだ まさとし)の像が
造立されています。
前田正甫(1649~1706)は、新田開発や治水工事を行って生産力の向上を計る一方で、
但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始するなど、産業の育成を行い藩財政を
豊かにしようと尽力しました。
元禄3年(1690)に参勤交代で江戸城に登城した際、とある大名が腹痛を訴えました。
正甫が常備していた「反魂丹(はんごんたん)」を分け与えると、腹痛が治癒し、
諸大名がその効能に驚き、自国の領内での販売を求めるようになりました。
正甫は製薬業を奨励して、諸国に行商するようになったのが、
富山売薬の始まりとされています。
本丸亭-1
本丸亭は、茶室・碌々亭(ろくろくてい)と増築棟の総称です。
碌々亭は当初、明治時代(1868~1912)中期に飛騨高山の永田家に建てられました。
昭和23年(1948)に実業家で茶人でもあった佐藤助九郎氏が譲り受け、
富山へ移築されました。
本丸亭-2
その後、平成17年(2005)に佐藤家から富山市へ寄贈され、同26年~27年(2014~5)に
かけて移築工事が行われて現在の姿となりました。
茶室には明治19年(1886)の武者小路千家11代・一指斎(いっしさい:1848~1898)
による扁額「臥雲居(がうんきょ)」が掲げられていましたが、一指斎没後に
実兄の表千家11代・碌々斎が茶室全体を完成させたとも伝わり、
富山に移築後は「碌々亭」と呼ばれるようになりました。
佐藤記念美術館
佐藤記念美術館は、佐藤助九郎氏が収集した、東洋古美術のコレクションを
展示するため、佐藤家などにより昭和36年(1961)に「佐藤美術館」として
開館したのが始まりです。
昭和38年(1963)に「富山美術館」と改称し、平成3年~同5年(1991~1993)にかけて
開館30周年を祈念して新館の増築が行われ展示室面積が約2倍となりました。
平成10年(1998)に「富山佐藤美術館」と改称されましたが、同13年(2001)に
解散し、建物や収蔵品も含め美術館ごと富山市に寄贈されました。
富山市は「佐藤記念美術館」と改称して、平成14年(2002)に開館しました。
庭園-1
美術館前には池泉回遊式庭園が作庭されています。
庭園-2
その2
佐藤記念美術館-横
美術館の横
公園の北側
公園の北側
市内電車7000形
市内電車7000形
昭和32年~40年(1957~65)にかけて製造されました。
CENTRAM
市内電車9000形、愛称はCENTRAM(セントラム)。
平成21年(2009)に導入されました。
富山売薬の像
立山行の発車時間が近づいてきましたので駅まで歩いて戻りました。

駅の南側に富山の薬売りの像があります。
子供の頃の記憶では、置き薬を点検に来られ、使用した分代金を払って補充されます。
その際、紙風船などのお土産を置いて帰られました。
一方で薬売りにより全国の情報が集められ、蓄積された資本力で近代産業の創設など
郷土の発展に大きく貢献しました。
電鉄富山駅-立山と上市行
電鉄富山駅のホームには既に14760形の立山行と上市行が入線していました。
14760形は昭和54年~56年(1979~81)にかけて新造されました。
電鉄富山駅-10030形
上市行が発車してから10030形が入線し、立山行はその後の発車となりました。
10030形は、元京阪特急の3000系で、8編成16両が導入されています。
立山行各駅停車は電鉄富山駅から寺田駅まで本線、寺田駅で本線から分かれて
立山駅に至る34kmを1時間余りかけて走り、運賃は1,230円です。
既に2日フリーきっぷを購入済ですが、鉄道軌道全線1日フリーきっぷや
エリア限定の1日フリーきっぷなども販売されています。

富山地方鉄道(株)は、昭和5年(1930)に設立された富山電気鉄道を母体とし、
昭和18年(1943)に発令された「陸上交通事業調整法」に基づき、
富山県内のすべての私営・公営の鉄軌道・バス会社を合併して発足しました。
現在の立山線の前身は、立山鉄道(五百石~岩峅寺=いわくらじ)と
富山県営鉄道立山線(岩峅寺~立山)です。
車窓からの景色
車窓からは剣岳から立山連峰の雄大なパノラマが楽しめます。
立山駅
12:27に立山駅に到着しました。
ケーブル
立山・黒部アルペンルートへ向かうには、ケーブルに乗り換えです。
12:40発の称名滝行のバスに乗車します。
このバスは後何日かで、春まで運休となります。
悪城の壁
車窓から悪城の壁(あくしろのかべ)が望めますが、往きの時は座席が
反対だったので、帰りに撮影しました。
往きは快晴だったのに、2時間余り滞在した帰りには、車窓に雨粒が付きました。
悪城の壁は、高さ500m、総延長2kmの大規模な岩壁で、溶結凝灰岩で形成され、
一枚岩としては日本一の高さとされています。
現在の室堂平は火口の密集地帯で、ミクリガ池やミドリガ池も立山火山の火口湖で、
今も地獄谷では火山ガスが発生し、水蒸気爆発の危険性があります。
富士ノ折立(2,999)、大汝山(3,015)、雄山(3,003)の立山三山は
火山ではありませんが、室堂平から、天狗平、弥陀ヶ原、美女平と続く
なだらかな斜面と立山カルデラ、そして鷲岳(わしだけ:2,617)・
鳶山(とんびやま:2,616)を含んだ五色ヶ原が立山火山で、
22万年前から火山活動を始めました。
溶岩による台地が、称名川によって削られ、かってはこの辺りに称名滝があり、
その滝で削られた岩盤が悪城の壁と推定されています。
称名滝から上流は、川幅数m、両側の岸壁の高さ約200mの険しい峡谷で、
平成28年(2016)まで、遡行した記録もありませんでした。
ハンノキ滝-1
15分ほどで称名滝の駐車場に到着し、運賃は500円でした。
幾筋かの滝が見えますが、称名滝ではありません。

称名川とは別の流れによるハンノキ滝で、その右側はソーメン滝と称されています。
ハンノキ滝は落差約500mで、称名滝よりも大きいのですが、水量が減少すれば
ソーメン滝と共に消滅してしまうため、日本一の落差の滝として
認められないようです。
ハンノキ滝-2
駐車場から徒歩で称名滝へ向かい、10分程歩いた所でようやくハンノキ滝の全貌が
見えてきました。
快晴だった空は薄雲に覆われてきました。
称名滝-橋
称名滝に近付くにつれ、滝のしぶきが霧雨のようになって降り注ぎます。
滝の下流にある橋を渡ると称名滝が見えてきますが、上部はやや岩陰で不鮮明です。
称名滝-滝見台
橋を渡って対岸を少し登ると上部が見えてきますが、下部は手前に張り出した
岩に隠されます。
称名滝は4段の滝により構成され、落差は350m余りで日本一とされています。
落差30mの爆流から落差45m、滝壺の直径20mの第1段の滝、第2段の滝は落差58m、
滝壺の直径は40m、そして、落差4mの爆流を経て落差96m、滝壺の直径30mの
第3の滝へと至り、落差126m、滝壺の直径60mの第4の滝となって流れ落ちています。
国の名勝及び天然記念物に指定され、日本の滝百選に選定されています。
また、法然上人が滝の轟音を「南無阿弥陀仏」という称名念仏の声と聞いたことが
滝の名の由来で、その音は日本の音風景100選に選定されています。
紅葉
思っていたより寒くはなく、金沢駅で購入した弁当で昼食を済ませ、14:40発の
バスに間に合うように駐車場へと戻ることにしました。

振り返れば、紅葉が美しいことにも気付きました。
大日岳登山口
途中、大日岳(2,501)への登山口があります。
大日岳まで5時間40分だそうです。
悪城の壁-登山道
下山路からの悪城の壁。
ALPS EXPRESS
立山駅まで戻ると、16010形の電鉄富山行特急列車が入線していました。

「ALPS EXPRESS」と記されています。
16010形は「レッドアロー」の愛称で親しまれた、元西武鉄道5000形で、
平成7年~8年(1995~6)にかけて2編成が導入されました。
特急で寺田まで乗車し、寺田で上市行に乗り換えますが、運賃の1,130円の他に
特急料金110円(電鉄富山までは210円)が必要で、フリーきっぷには
特急料金も含まれています。
サロンカー
特急列車は3両編成で、中間にサロンカーが連結されています。
稚児塚古墳
立山駅を15:05に発車し、15:40に寺田駅に到着しましたが、上市行の待ち合わせに
約1時間あります。
近くにある稚児塚古墳まで往復することにしました。

10分余り歩いた踏切の向こうに稚児塚古墳が見えてきます。
稚児塚古墳-石段
踏切を渡ると正面は石段で、整備されています。
稚児塚古墳は、5世紀頃のかなり有力な一族の墓と推定されています。
高さ7.2m、底部の直径が46.8mの円墳で、富山県の史跡に指定されています。
墳丘は県内で唯一、葺石で覆われ、周囲には濠が巡らされて、濠は現在、水田として
使われています。
稚児塚古墳-切り株
石段を登ると、巨大な杉の切り株が覆屋の中にあります。
樹齢300年とされる杉の古木でしたが、昭和48年(1973)に枯死しました。
稚児塚古墳-蛭子神
また、墳頂には蛭子神を祀る祠があります。
被葬者については諸説あり、なぜ「稚児塚」と呼ばれるのか?
疑問は残りますが、寺田駅へ戻ります。
稚児塚古墳-17480形
下ってくると17480形の岩峅寺行が通過します。
元東急8590系で、令和元年(2019)に導入されました。
民家
このような屋根の民家を見たのは初めてです。
寺田駅-駅舎
寺田駅です。
手前に立山線の列車が停車していました。
寺田駅-ホーム
こちらが本線のホームで、駅舎側に立山線のホームがあります。
寺田駅-14720形
昭和36年~39年(1961~64)にかけて製造された
14720形の宇奈月温泉行が入線してきました。
寺田駅を発車する頃にポツポツ落ち出した雨は、上市駅に着く頃には本格的な
降りとなりました。
上市駅は終着駅のようです。
宇奈月温泉行は、スイッチバックのように前後が逆となって発車して行きます。
大した降りでも無いので、徒歩で温泉宿へ向かいました。
明日は宇奈月温泉まで乗車し、黒部峡谷鉄道の黒部トロッコ電車で欅台まで
往復する予定です。
続く

剣岳
宿の部屋の窓からは正面に剣岳が望め、雲に覆われていますが明るい兆しも見えます。
今日の天気
しかし、当日の天気予報は雨の確立、午前が80%、午後でも60%で絶望的です。
上市駅
小雨の中、ホテルの車で上市駅まで送ってもらい、
駅に着いた時には晴れ間が見えました。
10030形
8:32発の宇奈月温泉行に乗車の予定でしたが、信号トラブルで遅延しています。
因みに上市~宇奈月温泉間の運賃は1,520円です。
10030形の電鉄富山行が間もなく発車します。
17480形の入線
17480形のこの駅止まりが入線し、入れ替わり電鉄富山行が発車しました。
除雪車
もう少しすれば活躍するであろう除雪車も既に準備ができています。
宇奈月温泉からの入線
宇奈月温泉方面からの列車が入線してきました。
宇奈月温泉行
約30分遅れで宇奈月温泉行各駅停車が入線してきましたが、
すっかり曇り空になってしまいました。
車窓からの曇り空
車窓からもだんだん雲が雲が厚くなっていくのが見て取れます。
新魚津駅
新魚津駅。
あいの風とやま鉄道の魚津駅と隣接し、魚津駅には521系が停車していました。
かっての北陸本線が北陸新幹線の長野駅~金沢駅間の延伸開業に伴い、
石川県側はIRいしかわ鉄道、富山県側はあいの風とやま鉄道、
新潟県側はえちごトキめき鉄道に経営分離されました。
今となっては、特急日本海や急行きたぐにが懐かしく思えます。
宇奈月駅
宇奈月温泉駅に10:24に到着し、少しでも遅れを取り戻すために黒部峡谷鉄道の
宇奈月駅へ向かいます。
雨は上がり、晴れ間も見えてきました。
変わりやすい天気です。
黒部トロッコ電車は令和2年(2020)6月2日~6月30日及び11月4日~11月26日の
火・水・木曜日はシニア感謝デー(60歳以上)で宇奈月~欅平間の運賃3,960円が
半額の1,980円になります。
富山へ到着した15:00からしか使えなかった地域共通クーポン5,000円の内
1,000円を使い、残りを現金で支払いました。
EDR形の電気機関車
EDR形の電気機関車が2両連結して14両(?)の客車を牽引し、平均時速約20kmで
運行されています。
無蓋車
今は見ることも少なくなった無蓋車(むがいしゃ)が停車しています。
黒部川と支流の合流
10:44に宇奈月駅を発車しました。
黒部川の本流に正面から支流が合流しています。
トロッコ電車では、富山県出身の室井滋さんが録音された
沿線案内放送が流されています。
うなづき湖
うなづき湖と湖面橋
高さ97m、幅190mの宇奈月ダムで堰き止められたダム湖です。
新柳河原発電所
新柳河原発電所は湖上に浮かぶ、ヨーロッパの城をイメージして築造されました。
新柳河原発電所前の駅
単線のため、発電所前の駅で行き違いの列車が待機しています。
この先のいくつかの駅でも、行き違いの列車と離合します。
うなづき湖上流の温泉
うなづき湖の先に温泉宿があり、宿へ行くために湖面橋が必要となります。
猿のつ吊橋
猿の吊橋です。
運が良ければ、群れで渡る猿の姿が見られるそうですが、当日は猿も昼休みを
していたのかもしれません。
仏石
仏石
仏の姿に似ているとされていますが...
吊り橋
こちらは人が渡る吊橋のように見えます。
黒薙駅のトンネル
黒薙(くろなぎ)駅です。
駅から黒薙第2発電所への線路がトンネルへと分岐しています。
先にある後曳橋は高さ60mで、沿線で最も深く険しい谷に架かる橋です。
後曳橋からのアーチ橋
鉄橋からの渓谷で、上流側にはコンクリート造りの歩道用のアーチ橋があります。
トロッコの鉄橋よりアーチ橋の方が上に見えますので、
アーチ橋からの渓谷は、結構スリリングな高さに思われます。
出平ダム
出平ダムは、高さ77m、幅136mで、日本で初めて土砂を流すためのゲートが
備えられました。
出平
また、「出平(だしだいら)」は、黒部が本流に険しい岸壁ではなく
平地が突き出していることから名付けられました。
冬季歩道
冬季歩道は、冬季運休中の保線などのために、積雪を避け、殆どがトンネルと
なっています。
このコンクリート壁の中がトンネルで、宇奈月から欅平まで歩くと、
所要時間は約6時間だそうです。
それよりも、矢羽根式のポイント信号の方が注目です。
オシ形貨車
黒部峡谷鉄道の在籍するオシ形貨車はこの2両で、大正15年(1926)に製造された
貨車の中では最も古い車両です。
ネズミ返しの岩壁
高さ200mの大岩壁は「ネズミ返しの岩壁」と呼ばれています。
黒部川第二発電所
黒部川第二発電所は昭和11年(1936)に完成し、富山県の建築百選に選ばれています。
手前の赤い鉄橋は「目黒橋」と名付けられた、はしごを横に倒したような形式の
珍しい橋で、戦前に架けられました。
猫又駅
猫又駅の待機列車です。
こちらは窓付きのリラックス客車で、横一列3人掛けの座席は
進行方向に転換できます。
但し、片道の追加料金530円が必要で、時間帯によっては
予約をしないと満席になるそうです。
猫又駅は、猫に追われたネズミがどうしても先ほどの岸壁を登れずに引き返し、
追って来た猫もまた、引き返したことがこの付近の地名の由来で、駅名になっています。
サンナビキ山
サンナビキ山は標高1,949mで、周りの山に先駆けて雪が降ることから
「さきがけ山」とも呼ばれています。
雪、紅葉、そして裾野の緑が重なりあい、その美しい色彩から
「黒部の五段染め」と言われています。
錦繍関
錦繍関(きんしゅうかん)です。
トンネルとトンネルの間の鉄橋から、僅かの時間望まれます。
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう:1873~1929)が、昭和3年(1928)に
紅葉の美しい景観から「錦繍関」と名付けました。
万年雪
鐘釣駅の対岸の沢には毎年、万年雪が残るそうですが、今年は暖冬だったため、
雪が消えてしまいました。
百貫山
左の山が標高1,969mの百貫山で、この山からの雪崩が堆積して万年雪に
成るのだそうです。
ウド谷
ウド谷です。
大きな雪崩が発生する場所なので、冬の間、線路を取り外し、
トンネルも大きな扉で塞がれます。
欅平駅
12:03に欅平駅に到着しました。
欅平駅では小雨が降っていました。
トロッコ列車は、通常料金ではこのような状態なので、
本降りの雨なら雨具が必要となります。
黒部川第三発電所
駅のすぐ下には黒部川第三発電所があります。
ED形の機関車

ED形の機関車は、現在2両が活躍し、主に欅平で入換用として運行しています。
また、平成27年(2015)から黒部峡谷パノラマ展望ツアーでも活躍しています。
このED形からの更新形がEDM形で、ギヤ比、抵抗値等が改良されています。
更に更新タイブのEDR形への改造が進み、EDM形の在籍は5両のみとなりました。
欅平駅-2
欅平駅に隣接して欅平ビジターセンターがあり、
黒部峡谷の自然や開発の歴史が紹介されています。

欅平駅から黒部川の下流側に飛猿峡がありますが、そこへ至る遊歩道は
通行止めになっていました。
猿飛峡は黒部川本流で最も川幅が狭く、昔猿が飛び越えたことから命名され、
国の特別名勝と特別天然記念物に指定されています。
この重複指定を受けているのは、飛猿峡と上高地のみです。
奥鐘橋
欅平駅の屋上展望台から見ると、多くの人が黒部川に架かる奥鐘橋を渡り、
祖母谷渓谷へと向かっています。
河原展望台
駅前広場から河原の方へ下ると、河原展望台と足湯がありますが、祖母谷渓谷の方へ
向かいます。
奥鐘橋からの下流
奥鐘橋は高さ34m、橋上からの下流側の景観です。
この先に飛猿峡があります。
奥鐘橋からの祖母谷
橋からの祖母谷渓谷。
橋のすぐ先に見えるのが、人喰岩です。
奥鐘山
人喰岩の上に聳えるのが奥鐘山(1,543m)で、
飛猿峡と奥鐘山とで特別名勝と特別天然記念物に指定されています。
奥鐘山の西壁はクライマーから「黒部の怪人」と呼ばれている難度の高い岸壁で、
昭和35年(1960)に初登攀されて以降、多くのクライマーが集まる
クライミングの名所となりました。
奥鐘橋からの黒三発電所
橋からの黒部川の上流側。
黒部川第三発電所の建物が見えます。
人喰岩
人喰岩です。
コンクリートが吹き付けられて、防災対策が施され、安全な人喰岩となりました。
名剣橋
名剣橋です。
名剣山
「橋から眺める名剣山(めいけんやま:1,906m)は迫力があります。」と
記されていましたので撮影しましたが、名剣山かどうかの確証はありません。
名剣橋先の山
名剣橋の先の山頂もうっすらと雪化粧していました。
名剣橋先のトンネル
その先はトンネルです。
トンネル-1を出た所
トンネルを抜けた先。
名剣温泉
名剣温泉の建物です。
宿泊や昼食、日帰り入浴も可能です。
岩の露天風呂が自慢だそうですが、先を急ぎます。
ミニ人喰い岩
ミニ人喰岩が見えてきました。
安全対策の準備中のようです。
トンネル-2
再びトンネルです。
雪化粧した山
トンネルを抜けた先の山は低い所まで雪化粧しています。
トンネル-3
またトンネルがありましたが、今までのトンネルよりも長いです。
祖母谷温泉
トンネルを抜けた先で、右からの祖父谷川と左側からの祖母谷川が合流しています。
それぞれの川に架かる橋を渡った先に祖母谷温泉の建物があり、
温泉から奥へ進むと祖母谷地獄があります。
祖父谷川の橋の手前から唐松岳(2,696.9m)への、
温泉から左に白馬岳(2,932m)への登山道があります。
祖母谷地獄まで行く予定でしたが、既に13:00の少し前です。
断念してここから引き返すことにしました。
黒い鉄橋
黒い鉄橋を渡ります。
黒い鉄橋-滝
来る時には気付きませんでしたが、鉄橋の下から滝となって流れ落ちています。
名剣温泉の屋根
名剣温泉の建物が見えてくる頃には雨も上がっていました。

欅平駅には13:53発に間に合うように戻って来れたのですが、
既に長蛇の列ができていました。
諦めて予備としていた14:37に乗車することにし、
ラーメンを食べて疲れをいやしました。
宇奈月温泉駅
15:54に宇奈月駅に到着し、富山地方鉄道の宇奈月温泉駅へ急ぎました。
16010形が入線していましたが、こちらは「ALPS EXPRESS」の表記が消された
各駅停車の電鉄富山行で、サロンカーは連結されない2両編成でした。
16:09に宇奈月温泉駅を発車し、電鉄富山駅に17:52に到着し、運賃は1,880円です。
富山地方鉄道の2日フリーきっぷは4,600円でしたが、
それぞれの運賃を支払ったとすると合計は6,080円でした。

富山駅発18:20北陸新幹線の「つるぎ」に乗車し、金沢駅に18:43に到着。
金沢駅発19:08の「サンダーバード46号」で21:19に京都に到着しました。

次回からはバイクで比叡山から大原、貴船、鞍馬などを巡ります。

立山駅
立山黒部アルペンルートが開通する4月15日の1ヶ月前に宿と
サンダーバードの乗車券を予約しました。
当初は天候の悪化に備え、糸魚川のフォッサマグナミュージアム
予定していたのですが、アルペンルートのWEB割に引かれて予約してしまいました。
室堂までの設定はありませんでしたが、大観峰までの往復運賃が室堂までの
往復運賃より安い5,500円でした。(通常室堂までの往復運賃6,320円)
当日は雨の予想で、解っていたにもかかわらず、予約したのは失敗で、
更に時間を間違えて予約してしまいました。
現在の室堂
立山駅で約2時間待ちとなり、500円で予約の変更も可能でしたが、
駅に設置してあるモニターで現在の室堂の映像を見て、
変更する気も無くなりました。
一面霧で何も映ってなく、昼食とまだ小雨程度の駅周辺を散策することにしました。
現在の大観峰
しかし、大観峰はまだ期待が持てそうです。
現在の黒部湖
こちらは行く予定の無い黒部ダム。
他にも自宅から公式H.P.でライブ映像を確認できます。
ブラタモリ
ブラタモリのサイン。
熊王の水
駅の外へ出ると熊王の水が湧き出ています。
かって、立山の主峰・雄山(3,003m)の山頂にある雄山神社の峰本社へ参拝する人々が
喉を潤した水で、旧登拝道を約2km登った所にありました。
この清水を飲むと立山権現の加護が受けられると伝えられていました。
桜-1
京都ではすっかり散ってしまった桜もここでは満開です。
桜-2
その2
立山駅-ホーム
立山駅のホーム
室堂-1
ようやく予約の時間となってケーブルに乗り、バスに乗り換えて室堂に到着しました。
屋上展望台からの景色はモニター通りでした。
室堂-2
雪の壁
トロリーバス
大観峰へのトロリーバス。
積み残しが無いように数台が待機しています。
大観峰展望台
大観峰の展望台
大観峰からの景色-現在
展望台からの景色
大観峰からの景色-晴天時-1
晴れていたらこのような景色になります。
大観峰からの景色-晴天時-2
その2
大観峰からの景色-晴天時-3
その3
早々にトロリーバスで室堂へ戻り、下山します。
雪の大谷
車窓からの雪の大谷です。
今年は最高で18mになったそうです。
立山杉
立山杉の巨木。
代表的な巨木には愛称が付けられ、この杉は「不老樹」と思われます。
美女杉
美女平の立山杉。
立山を開いた佐伯有頼(さえき の ありより:676?~759?)の美しい婚約者は、
有頼を追って立山まで登ってきましたが、「山を拓くまでは帰れない」と
有頼は婚約者を追い返しました。
娘が山を下るとき、この杉に祈願したところ、願いが成就して二人が結ばれたことから、
「美女杉」と呼ばれ、付近一帯が「美女平」と呼ばれるようになりました。
ケーブルカー-1
立山ケーブルは、昭和31年(1956)に着工された黒部川第四発電所の
建設資材を運ぶための複数のルート開設と、富山と長野を結ぶ一大循環ルートの構築を
目的として昭和29年(1954)に立山開発鉄道株式会社により開業されました。
ケーブルカー-2
立山駅から標高977mの美女平駅間、1.3kmを7分で結び、当時の建設資材を運んだ
貨車が今も連結されています。
立山駅に入る電車
立山駅に電車が到着します。
これに乗車、途中で乗換え宿泊地の魚津へ向かいましたが、降りる駅を間違え
電鉄魚津で下車しました。
雨の中をホテルまで30分ほど歩いたので、
夜、滑川まで行き、浜辺に打ち上げられるホタルイカを見たかったのですが、
気持ちが萎え、ホタルイカが見られる確証性も無かったので
ビールを飲んで寝てしまいました。
思っていたよりも体力を消耗していたことに気付き、来年再チャレンジする場合は、
初日の体力を温存して夜のホタルイカ鑑賞に備える計画に変更しようと考えています。
そして、ホタルイカが浜に打ち上げられる時の予想を、
もう少し詳しく調べたいと思います。

明日は倶利伽羅峠へ向かいます。
続く
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一の鳥居
埴生護国八幡宮(はにゅう ごこく はちまんぐう)は、富山県小矢部市埴生にあり、
公式サイトでは養老年間(717~724)に
宇佐八幡宮の分霊を勧請して創建されたと記されています。
木曾義仲像
参道を進むと木曾義仲(1154~1184)の像が祀られています。
寿永2年(1183)5月11日の倶利伽羅峠の戦いで、義仲は当地に本陣を敷き、
戦勝を祈願したとされています。
義仲は河内源氏の一門である源義賢(みなもと の よしかた:?~1155)の
次男として現在の埼玉県比企郡嵐山町で誕生したと伝わります。
2歳の時に父・義賢がその兄・源義朝(みなもと の よしとも:1123~1160)と対立し、
大蔵合戦で義朝の長男・義平(1141~1160)に討たれました。
義仲は、殺害を免れ、中原兼遠(なかはら の かねとお:?~1181)に抱かれて
信濃国木曽谷へ逃れ、兼遠の庇護の下に育ちました。

治承4年(1180)に以仁王(もちひとおう:1151~1180)が、源頼政(1104~1180)と結んで
全国に平氏打倒を命じる令旨を発しましたが、計画が平氏側に露見し、
準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、
平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れました。(以仁王の挙兵
頼政は平等院で自害し、以仁王は脱出したのですが、
山城国相楽郡光明山鳥居の前で討ち取られました。

義仲は、同年9月に挙兵し、北陸へ侵攻しました。
寿永元年(1182)に北陸へ逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮(ほくろくのみや:
1165~1230)を擁護し、宮から挙兵の正統性を担保する「錦の御旗」に奉じられました。
一方で寿永2年(1183)に源頼朝(1147~1199)と敵対し敗れた志田義広(しだ よしひろ:
?~1184)と頼朝から追い払われた源行家(1141/1143~1186)を匿ったことから
頼朝との関係が悪化しました。
同年4月には北陸道の回復を図って出陣してきた平維盛(たいら の これもり:
1159~1184?)を総大将とする10万騎の平家軍と戦い、
5月11日の倶利伽羅峠の戦いで大勝して破竹の勢いで京都を目指して進軍しました。

しかし、京都では養和元年(1181)に発生した養和の飢饉(ようわのききん)で
食糧事情が極端に悪化していた上に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座り、
遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行しました。
後白河法皇(1127~1192)は、義仲に平氏追討を命じ、一方で頼朝の上洛を促しました。
西国で苦戦を続けていた義仲にその情報が耳に入ると急ぎ帰京し、寿永2年(1183)11月に
後白河法皇が院政の政庁として造営した法住寺殿を襲撃しました。
寿永3年(1184)1月に源範頼(1150?~1193?)と義経(1159~1189)が率いる
鎌倉軍が京都へ迫り、宇治川の戦いで義仲軍は惨敗して討ち死にました。
鳩清水
二の鳥居手前の手水は「鳩清水」と呼ばれ、義仲が当社へ祈願した際に
白鳩の飛来があり、その案内で源氏勢が発見した滝を水源とし、
「とやまの名水五十五選」の一つに選ばれました。
二の鳥居
二の鳥居からの石段は現在は103段ですが、
かっては108の煩悩を踏み消すとして108段ありました。
石段
永正・大永年間(1504~1527)に現在の小矢部市蓮沼にあった
蓮沼城(はすぬまじょう)主・遊佐慶親(ゆさ よしちか)が寄進したと伝わり、
桑山石が使用されています。
桑名石
桑山石は、南砺市福光にある標高292mの桑山から産出された石材です。
拝殿
埴生護国八幡宮は慶長年間(1596~1615)に続いた凶作で、前田利家(1539~1599)
が豊作を祈願し、その霊験が顕れたとして社名に「護国」の名を奉ったとされています。
社殿
石段を登った正面にある拝殿とそれに続く幣殿は、天和8年(1622)に
前田利常(1594~1658)の正室・珠姫(たまひめ:1599~1622)が出産後に体調を崩し、
平癒を祈願して寄進され、正保3年(1646)に完成しました。
社殿図面
現在の釣殿は慶長16年(1611)に高岡城に居城していた前田利長(1562~1614)が、
病気平癒を祈願して寄進されました。
利長は、利家の長男で初代加賀藩主となりましたが、
利長には男子がなかったので、異母弟の利常を養嗣子として迎え、
慶長10年(1605)に利長は利常に家督を譲って富山城で隠居しました。
しかし、慶長14年(1609)に建物の主要部がことごとく焼失したため、
新たに関野に築城しました。
同年9月13日に利長は「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡城に入城しました。
本殿
本殿は利長が慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで出陣する前に戦勝を祈願し、
大聖寺城(石川県加賀市)を攻略して越前国まで平定して帰陣後に寄進されました。
現在の本殿、釣殿、幣拝殿は国の重要文化財に指定されています。

主祭神は八幡大神で、神明宮、住吉社、出雲社、埴安姫社、天満宮、諏訪社、
東照宮などが合祀されています。

次回は祇園四条駅から建仁寺などを巡ります。
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