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三鈷寺への参道
画像は平成31年(2019)3月27日、平成29年(2017)‎‎11‎月‎2‎日、
平成28年(2016‎)10‎月‎9‎日参拝時のものを使用しています。
善峯道を登って行くと善峯寺のバス停から
下った所に三鈷寺(さんこじ)への登り口があります。
阿智坂明神-1
三鈷寺への参道付近に阿智坂明神が祀られています。
源算上人が霊地を求めてこの地に入りましたが、山が険しく休憩していると
一人の翁神が現れました。
「我はこの地の地主にて名を阿智坂という。この霊地に伽藍を草創し給え。
この地を与えて永く仏法を守らん。」と上人に告げるといなくなりました。
阿智坂明神-2
阿智坂明神はその鎮守として祀られています。
橋
善峯川に架かる橋を渡って参道へと入ります。
車道の滝
橋の反対側には小さな滝があり、注連縄が張られています。
滝の前には石像が祀られ、滝には何か謂れがありそうですが、詳細は不明です。
坐禅石
橋を渡り、しばらく登った所に「坐禅石」があります。
源算上人が開山を思惟するため、苔むした岩石の上に40日近く坐り魔障を退除し、
良峯を開いたとされる石です。
 一見すると上部が平らなように見えますが、長い年月を経て谷の方に傾いています。
比叡山横川の恵心僧都に師事していた源算上人は、平安中期の長元2年(1029)、
47歳の時にこの地で千手観音を自作し、本尊として

小堂に安置し、法華院と号したのが善峯寺の始まりです。
開山に当たって、この地は岩が多いことから、地ならしが困難であることを思い悩みました。
ある日、一人の僧があらわれ、力を貸し与えることを告げます。
次の夜、野猪の大群が現れて、一夜にして牙で大岩をうがち、
平地になったとの伝承が残されています。
東門
「坐禅石」からしばらく坂道を登るとようやく東門が見えてきます。
仁王門
東門をくぐると、圧倒的な威容を誇る仁王門が正面に立ち塞がります。
善峯寺は山号を西山(せいざん)と号する、天台宗系単立の善峰観音宗の寺院で、
西国三十三所観音霊場・第20番、神仏霊場・第85番、京都洛西観音霊場・第1番の
札所となっています。
善峯寺は応仁の乱(1467~1477)で焼失し、その後荒廃しました。
現存する多数の堂塔は、江戸時代になって、桂昌院の寄進より再建されたものです。
仁王門も正徳6年(1716)に再建された三間一戸の楼門形式の山門です。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は鎌倉時代の運慶作と伝わります。
源頼朝が鎌倉・鶴岡八幡宮に大塔を建立し、供養の導師を当山の観性法橋が
勤めた報恩として寄進されました。
仁王門の楼上に安置されていた本尊の文殊菩薩と脇侍の二天像は、
修復され現在は文殊寺宝館に安置されています。
手水舎-1
仁王門で入山料500円を納め、正面の石段を登った左側に手水舎があります。
手水舎-2
手水舎は簡素で、取水口には竹が使われています。
本堂前からの仁王門
本堂前からの仁王門です。
本堂
石段を登った正面にある観音堂が本堂となっています。
長元7年(1034)に第68代・後一条天皇が鎮護国家の勅願所と定め、
「良峯寺」の寺号を下賜されました。
長久3年(1042)、第69代・後朱雀天皇が夢告を受け、勅命により
洛東・鷲尾寺(わしのおでら)の千手観音を遷座して本尊とされ、
千手堂が創建されて本尊が安置されました。
天喜元年(1053)、尊仁親王(たかひとしんのう=後の第71代・後三条天皇)の
后・藤原茂子(ふじわら の もし)は、難産のため

当山の本尊に祈願し、無事に貞仁親王(後の第72代・白河天皇)が誕生しました。
後三条天皇は、本堂他堂宇を寄進、建立しました。
寺は全盛となり、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守社と
52の僧坊を有する大寺院となりました。
治暦4年(1068)に大旱魃が発生した際、源算上人の祈りで、龍王が西山の峰より
雨を降らした奇瑞によって、第70代・後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。
建久3年(1192)、第82代・後鳥羽天皇は「良峯寺」を「善峯寺」に改め、
勅額宸筆を下賜されました。
南北朝時代の正平8年/文和2年(1353)に山名時氏は室町幕府に対して挙兵し、
京都へと進行しましたが丹波守護・高 師詮(こう の もろあきら)はこれを阻止すべく
合戦となり、戦火を被り善峯寺は焼失しました。
この合戦で敗れた師詮は切腹して果てました。
その後、第102代・花園天皇により伽藍が再興されましたが、
応仁の乱(1467~1477)で焼失し、寺は荒廃しました。
52あった僧坊は7にまで減じ、荘園も失われました。
江戸時代になって桂昌院の寄進により寺は復興され、現在の観音堂(本堂)は
元禄5年(1692)に再建されました。
明治時代には神仏分離令の流れを受けて一坊に総合されます。
現在は境内地3万坪に20近くの堂塔伽藍を有し、所有地36万坪が受け継がれています。

本尊は鷲尾寺から遷された像高178.8cmで、平安時代後期から鎌倉時代初期の作と
される十一面千手観世音菩薩で、西国三十三所観音霊場・第20番の札所本尊でもあります。
この観音像には以下のような伝承が残されています。
「賀茂社境内の畑に植えてあった苗が一夜にして欅になり、光明を放ったと伝わります。
革堂(こうどう=行願寺)の行円は、この霊木で本尊を刻み、
安居院(あぐい=比叡山東塔の竹林院の里坊)の仏師・仁弘はその余材で
十一面千手観世音菩薩を造り鷲尾寺に安置した」とされています。
現在、この観音像は秘仏で、毎月第2日曜および毎年正月三箇日に開帳されていますが、
2022年以降の開帳は開山から1,000年となる2028年まで行わない予定となっています。

また、開山・源算上人が刻んだとされる、像高174.5cmの十一面千手観世音菩薩は
脇本尊とされ、京都洛西観音霊場・第1番の札所本尊にもなっています。
秘仏本尊の左側には、聖観音菩薩像が安置されています。
文殊寺宝館
本堂の左側、駐車場の上に文殊寺宝館がありますが、春(4~6月)と
秋(10・11月)の土・日・祝日に無料開放されますが、館内の撮影は禁止されています。
井戸
本堂の右側にお香水の井戸があります。
閼伽水として仏前に供され、この水を服すると長寿の御利益があると伝わります。
修行大師像
井戸の右側に修行大師像が祀られています。
善峯寺は天台宗ですが、なぜか弘法大師が祀られています。
地蔵堂-1
修行大師像の右横に地蔵堂があります。
大師堂
大師堂-堂内
地蔵堂の右横に大師堂があり、弘法大師像が安置されています。
納札所
大師堂の右側に石段があり、石段を挟んで納札所があり、無料休憩所にもなっています。
賓頭盧尊者
納札所には賓頭盧尊者像が安置されています。
観音霊場本尊
また、西国観音霊場の各本尊が祀られています。
鐘楼
納札所と大師堂の間にある石段を登り、右に曲がった先に、
貞享3年(1686)に再建された鐘楼堂があります。
鐘楼-梵鐘
梵鐘には貞享4年(1687)の銘があり、徳川5代将軍・綱吉が42歳の厄年を迎えるにあたり、
桂昌院が厄除けのために寄進したことから「厄除けの鐘」と呼ばれています。
護摩堂
鐘楼堂の北側に元禄5年(1692)に建立された護摩堂があります。
護摩堂-堂内
堂内には本尊の不動明王像を中心に右隣に降三世(ごうざんぜ )明王、
その右隣に金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王。
不動明王像の左側に軍荼利(ぐんだり)明王、その左隣に
大威徳(だいいとく)明王の五大明王が安置されています。
松-北
護摩堂前の石段上には「遊龍の松」が北に向けて、枝を伸ばしています。
松-中央
「遊龍の松」は、五葉松で樹齢600年以上、幹周り約1.5m、高さ約2m、
北方向に約24m、西方向に約37m水平に枝を伸ばし、
国の天然記念物に指定されています。
桂昌院によって植えられたと伝わりますが、桂昌院が亡くなってからは
300年余りですので、当時で樹齢300年の松を植えられたのかもしれません。
松-西
遊龍の松-西方向
主幹が地を這うように伸びる巨大な松は、臥龍の遊ぶ様に見えることから、
安政4年(1857)、花山院前右大臣家厚公により「遊龍」と名付けられました。
平成6年(1994)に松くい虫の被害により、全長50mほどの松が
15m余り切断され、現在は全長37mとなっています。
松-碑
標石は明治26年(1893)、鳥尾中将の書です。
多宝塔
多宝塔は元和7年(1621)に第28代・賢弘法師により再建された善峯寺に現存する
最古の建物で、国の重要文化財に指定されています。
本尊は愛染明王で、ガラス越しに拝むことができます。
経堂
多宝塔の西側には六角六柱・二重屋根の経堂があります。
経堂-傅大士
宝永2年(1705)に桂昌院の寄進により建立され、傅大士(ふだいし)を奉安し、
鉄眼版一切経が納められ、 現在は祈願成就の絵馬奉納所でもあります。
経堂-彫刻
堂内には六角の壁面上部に、それぞれ二頭の獅子の像が施されています。
桜
経堂の西側に桂昌院が手植えされたと伝わる樹齢300年以上のしだれ桜が植栽されています。
この桜はカエデとの合体木で、二本の古木が絡み合った結び木となっています。
JR東海のCM「そうだ 京都に行こう」で有名になりました。
開山堂
後戻りして遊龍の松に沿って北へと進むと開山堂があります。
開山堂は、貞享2年(1685)に源算上人の廟所として建立されました。
開山堂前の景色
開山堂は比叡山を望むように建てられています。
幸福地蔵堂
開山堂から西へ進んだ所に「幸福地蔵」が急な斜面に
柱を組んで造られた祠に祀られています。
幸福地蔵
330年前に造られた地蔵像で「自分以外の幸せを願いましょう」と記されています。
幸福地蔵-下から
地蔵の先、左に下れば白山・桜あじさい苑へ、右側は鎮守社へと参道が分かれ、
桜あじさい苑の方へ下ります。
幸福地蔵を下から見上げました。
白山名水-湧水
更に下ると白山名水が湧き出ています。
源算上人が写経を行おうと自らの手で用紙を作りました。
寛徳2年(1042)2月1日の夜、白山明神がこの地に現れ、手本となる法華経経巻と
浄水を授け、翌日には五色の雪が降ったと伝えられています。
この由緒によってこの地は「白山」と呼ばれ、源算上人は毎年この日に法楽をされたと伝わります。
白山名水-井戸
その付近に井戸が残されています。
また、この地にはかって、塔頭の実光坊があったとされています。

鎮守社の方へ戻ります。
続く

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鎮守社
鎮守社は元禄5年(1692)に建立され、手前から護法尊・毘沙門天・弁財天・十三仏が
善峯寺を守護するために祀られています。
桂昌院廟への参道-1
桂昌院廟への参道-2
経堂の背後の石段
鎮守社の前で経堂の背後から登って来た石段と合流します。
桂昌院廟-門
その先には門があり、門に掛かる額には桂昌院の略歴が記されています。
桂昌院廟-宝篋印塔
門をくぐった左側に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っています。
鎌倉時代に慈鎮和尚により伝教大師筆の法華経が納められています。
桂昌院廟
石段を登った上部に桂昌院の遺髪を納めた廟所があります。
桂昌院が亡くなった宝永2年(1705)に建立されました。
桂昌院は寛永4年(1627)に京都・大徳寺付近で本庄宗正(ほんじょう むねまさ)の娘として
誕生したとされていますが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂がありました。
西陣織屋、畳屋、八百屋の娘と諸説あり、6歳の時に善峯寺成就坊の義兄・賢海の許で
母親と共に暮らしていたとされています。
寛永16年(1639)に部屋子として家光の側室・お万の方に仕えるようになり、
幼名「お吉」を「お玉」と改めました。
後に春日局から指導を受けるようになり、徳川第3代将軍・家光に見初められて側室となり、
正保3年(1646)1月に綱吉を出産しました。
慶安4年(1651)に家光の亡き後、落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入寺し、
「桂昌院」と号しました。
延宝8年(1680)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入りました。
元禄15年(1702)2月には女性最高位の従一位の官位を賜りましたが、
宝永2年(1705)6月に79歳で生涯を閉じられました。
「玉の輿」の語源となったもと伝わり、実家の本庄氏は桂昌院の威光により、
その一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの
小藩ながら大名として立身出世しました。
桂昌院は、善峯寺以外にも多くの社寺に寄進し、再建・再興に尽力されました。
釈迦堂
鎮守社から西へ進み、石段を登った所に明治18年(1885)に建立された釈迦堂があります。
釈迦堂-堂内
堂内には源算上人作の釈迦如来坐像が安置されていますが、
合掌姿をされた石仏で、国内では他に例が見られません。
かって南西2kmほど離れた釈迦岳(標高650m)の山上に安置され、
「釈迦岳」の由来にもなっています。
明治時代になり、当時の住職が夢告を受けて明治11年(1878)に、
現在地にあった薬師堂に釈迦如来坐像が遷され合祀されました。
その際、釈迦如来から玉の汗が流れ出たと伝わります。
住職は布で汗を拭い、その布を体の病んでいる所に当てると、病が癒えたとされ、
傷病治癒に霊験あらたかとして信仰が集まりました。
明治18年(1885)に信徒の寄進より釈迦堂が建立され、
同20年に釈迦如来坐像が安置されました。
釈迦堂では神経痛・腰痛守りの「お守り」が授与されていますが、
阪神大震災で高速道路落下を免れた運転手が釈迦堂のお守りを持っていたことから
「落ちないお守り」として、受験生がお守りを求めるようになりました。
現在では「息災安穏」のお守りが新たに授与され、受験生等の願いに応じています。
風呂
釈迦堂の北側に浴場があります。
釈迦如来の汗を霊液として薬湯と合わせ、神経痛・腰痛に薬効があるとして
5月~10月の第二日曜日に参拝者に供されています。
奥之院への石標
釈迦堂の左側を西へ進むと「奥之院 出世薬師如来」の石碑が建っていますが、
その手前を左側に下った所に阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂
阿弥陀堂は、寛文13年(1673)に建立され、常行三昧の道場でもあることから
「常行三昧堂」とも呼ばれています。
阿弥陀堂-堂内
本尊として宝冠阿弥陀如来坐像が安置され、徳川家累代や信者の位牌が祀られています。
書院
阿弥陀堂の南側に書院がありますが、通常は非公開のようです。
稲荷社
奥之院の参道へ戻った所に稲荷社があり、正一位稲荷大明神が祀られています。
けいしょう殿
参道の坂道を登って行くと薬師堂への石段がありますが、
石段の左側を進んだ所に「けいしょう殿」があります。
昭和62年(1987)に花山法皇西国札所中興一千年を記念して、
見晴らしの良いこの地に建立されました。
無料休憩所で、中央に桂昌院の像が祀られていますが、
景勝地の意味も含まれているようです。
薬師堂
薬師堂へ戻ります。
薬師堂は元禄14年(1701)に建立されましたが、昭和63年(1988)に現在地に移築されました。
薬師堂-堂内
堂内には本尊として薬師如来像と日光・月光の両菩薩像が安置されています。
桂昌院の父である本庄宗正が本尊の薬師如来に、
我が子が無事に誕生するように祈願したとされています。
生まれた子は成長して徳川第5代将軍・綱吉の生母となりました。
以来、開運出世のご利益を授ける「出世薬師如来」として信仰されるようになりました。
桂昌院歌碑
薬師堂の前には桂昌院の歌碑が建立されています。
「たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」
「たらちを」とは実父のことで、元禄11年(1698)に桂昌院が薬師如来に献じたとされています。
蓮華寿院の庭-1
蓮華寿院の庭園-背後の建物は薬師堂
薬師堂の奥へと進むと、かって蓮華寿院があり、その庭園が残されています。
源算上人は『妙法蓮華経』を一字三礼と6ヶ年無言の行によって写経され、
その地に蓮華寿院を建立されました。
応保元年(1161)、観性(かんしょう)は往生院(後の三鈷寺)に入り、
仏眼曼荼羅、釈迦・阿弥陀如来像を安置し同寺を再興しました。
また、善峯寺の常行堂や蓮華寿院の付近に法華堂を建立し、称名念仏、
法華経読誦を定め、中興の功績により二世と仰がれています。
文治5年(1189)には源頼朝の願いにより鶴岡八幡宮大塔供養の導師を勤め、
その報恩として頼朝から仁王像と二十八部衆の像が寄進されました。
蓮華寿院の庭-2
蓮華寿院の庭園-その2
歴史書『愚管抄』を記し、天台座主を4度就任した慈円は、観性法橋(かんしょうほっきょう)
から仏法を受けたことにより、観性法橋を訪ねて度々善峯寺へ訪れました。
慈円は、知恩院隣りの吉水粟田の青蓮院門跡に住したことで「吉水の僧正」とも呼ばれ、
諡号(しごう)を慈鎮和尚(じちん かしょう)と称します。
建久3年(1192)には後鳥羽天皇より「良峯寺」を改め「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。
慈円は、源算上人より始められた法華八講を、末代まで広めようと如法経堂を建立して、
伝教大師の写された法華経一部を納めました。
慈円は、善峯寺興隆の功績多く、当山三世と仰がれます。

法然上人の弟子であった証空は、建暦2年(1212)に法然上人が亡くなった後、
蓮華寿院に入りました。
やがて、蓮華寿院を後鳥羽天皇皇子・道覚法親王に譲り、慈円に譲られて
往生院(三鈷寺)に移りました。
証空は、西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖となり、
西山国師(せいざんこくし)とも呼ばれ、没後は鑑知国師の諡号(しごう)が贈られています。

道覚法親王は、承久3年(1221)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討伐の兵を挙げた
承久の乱(じょうきゅうのらん)の後に善峯寺に逃れてきました。
寛元元年(1243)に水無瀬離宮にあった上皇の御願寺・蓮華寿院の
本尊や堂宇を善峯寺へ遷しました。
その後、宝治元年(1247)に天台座主に就き、翌宝治2年(1248)には
青蓮院門跡を引き継ぎましたが、没後は善峯寺に葬られました。
道覚法親王以降、青蓮院門跡を継がれた亀山天皇の皇子・慈道法親王、
伏見天皇の皇子・尊圓法親王、後伏見天皇の皇子・尊道法親王が蓮華寿院に入り
「御所屋敷」と呼ばれました。
観音像
庭園から南へ進み、その先で山側に入って行くと観音菩薩像が祀られています。
青蓮院宮墓地-1
青蓮院宮墓地-2
その先に青蓮院宮墓地があり、手前から道覚法親王、覚快法親王、尊圓法親王、
慈道法親王、尊道法親王の墓があります。
覚快法親王(かくかいほっしんのう)は、鳥羽天皇の皇子で治承元年(1177)に
天台座主に就任後、治承4年(1180)に青蓮院に入りました。
五輪塔
青蓮院宮墓地の左側には、観性法橋、証空善恵上人、宇都宮蓮生房の墓があります。
宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は謀反の嫌疑をかけられ出家し、
実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号しました。
出家後は証空に師事し、嘉禄3年(1227)に発生した嘉禄の法難の際には、
延暦寺の僧兵から法然上人の遺骸を守るために、東山の法然廟所から二尊院までの
遺骸移送の護衛を行いました。
本庄一族の墓
青蓮院宮墓地から下った所に本庄氏一族の墓があります。
桂昌院の実弟・因幡守宗資(むねすけ)等、天正10年(1582)~宝暦2年(1752)間の
一族が葬られています。
ライオン
墓地を出るとライオンが守護をしていました。
青蓮の滝
墓地から下って行くと青蓮の滝があります。
かってはここで滝行が行われていたのかもしれません。
白山権現
滝から釈迦堂へと下り、釈迦堂から石段を下って北へ進むと白山権現が祀られています。
十三重石塔
その先に十三重石塔が建ち、三鈷寺へのゲートがあります。
ゲートにはインターホンが設置され、それで通話すれば善峯寺へ戻ることもできます。
三鈷寺へ向かいます。
続く

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山門
善峯寺のゲート出て、平坦な参道を3分足らず歩いた所に三鈷寺があります。
三鈷寺は釈迦岳の北東、鴨瀬山(かもせやま)中腹に位置しています。
三鈷寺は山号を「華台山(けたいさん)」、院号を「往生院」と号する西山宗の総本山で、
天台・真言・律・浄土四宗兼学の道場となっています。
また、京都洛西観音霊場の第5番札所でもあります。
(画像は全て平成28年(‎2016‎)‎10‎月‎9‎日参拝時のものを使用しています)
カリンの木
門をくぐった右側に石地蔵が祀られ、その背後にはカリンの木が実を付けていました。
庫裏
庫裏
華台廟
三鈷寺は、平安時代の承保元年(1074)に源算上人が草庵を結び、
自ら阿弥陀像を刻んで本尊とし、北尾往生院と号したのが始まりです。
応保2年(1162)、二祖・観性法橋(かんしょうほっきょう)は、自ら浄布を織り、
これに佛眼曼荼羅を画いて本尊とし、左右に釈迦如来像・阿弥陀像を安置しました。
鎌倉時代の建保元年(1213)、証空上人善慧(しょうくうしょうにんぜんえ)は、
ここを不断如法念仏道場とし、三鈷寺と改称しました。
背後にあるカモシカ嶽の三峰が「三鈷杵(さんこしょ)」に似ていることからと伝わります。
旧三鈷寺は、ここより更に登った山頂近くにあってその跡が残されているそうです。
山門を出て約200m西へ行くと当山が浄土宗西山派の根本山であるという
後嵯峨天皇宣旨になる碑が建っています。
さらに旧三鈷寺跡へ通ずる道の途中に樹齢八百年からなる
「証空上人逆さ杖の桂の木」の巨木がそびえているそうです。
残念ながら今回は時間の関係で訪れることができませんでした。

証空上人善慧は、法然上人に23年間常随して浄土教の深義に達し、
円頓菩薩戒を相伝した高弟です。
西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖となり
西山(せいざん)上人とも称されています。
建暦2年(1212)、法然上人が入滅後、三祖であった天台座主大僧正・慈円の
譲りをうけて北尾往生院に入りました。
宝治元年(1247)11月26日、白河遣迎院において71歳で入滅された際は、
門弟達が遺身を三鈷寺で荼毘に付しました。
証空上人善慧に深く帰依された実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)が
華台廟を造って祀りました。

宇都宮頼綱は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武将でしたが、
元久2年(1205)34歳の時、北条時政と牧氏の陰謀に加担したとして謀反を疑われたため、
出家して実信房蓮生と号しました。
出家後は、法然上人に弟子入りし、法然没後は証空上人に師事しました。
出家するも京に住み、京錦小路と嵯峨小倉山の邸宅で風雅な暮らしを送り、
藤原定家と交流し、娘を定家の息子為家に嫁がせています。
文歴2年(1235)頃定家に古今の歌人の色紙染筆を依頼し、
これが小倉百人一首のもととなったと云われています。
しかし、証空上人亡き後は、蓮生は一人三鈷寺にとどまり、供養を続けられました。

建長年中に蓮生が願主となり、華台に塔を造立し観念三昧院と名付け、
不断念仏を始めました。
正元元年(1259)証空上人十三回忌の準備の中、11月12日往生を遂げられ、
遺言により、嫡子の宇都宮泰綱により証空上人の傍らに墓を築き、供養されました。

南北朝時代に、勅願により、天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学となりました。
北朝の貞治元年(1362)に後光厳天皇の論旨により、三鈷寺は西山流根本地されました。
平安時代から鎌倉時代にかけて寺運は栄えましたが、室町時代になって、
応仁の乱(1467~1477)の兵火により本堂と華台廟を残し焼失しました。
その後、三鈷寺は荒廃し、新たに寺領を賜るも再興がならず、安土桃山時代になって
羽柴秀吉によって寺領は没収されました。
江戸時代、善峯寺が復興されたことに伴い、寺域は縮小されてしまい、
天保年間(1830~1844)に三鈷寺は、現在地に移されたそうです。
昭和の時代になってようやく第52祖・台龍上人の徳望により、
四宗兼学の西山総本山として独立しました。
平成14年(2002)に完了した平成の大修理を経て現在に至っています。
本堂
500円を納めて本堂へ上がることができます。
生憎、当日はご住職が不在で説明を伺うことができませんでした。
手前の華台廟は、江戸時代中期頃に西山国師500回忌時に建て直され、
彩色された西山上人像が祀られています。
三鈷寺が、最も栄えた功労者です。
次の間には金色で来迎印を組まれた、平安時代後期の作とされる
阿弥陀如来坐像が安置されています。
ふっくらと、穏やかな姿をされていて、前に座っていると心から癒されます。
そして、一番奥に本堂があります。
本尊の佛眼曼荼羅は、かつての三鈷寺の壮大な本堂に祀られたものですが、
現在の本堂には納まりきれないため、奈良国立博物館に寄託されています。
現在の本尊は、平安時代・智証大師円珍作と伝わる「金身不動明王」で、
全身がやや古色交じりの金色を呈しています。
「十一面観世音菩薩立像」は古色を呈し、西山上人作とされ、
京都洛西観音霊場第5番札所の本尊です。
「抱止(だきとめ)阿弥陀如来立像」は古色を呈し、左手を胸に置き、
右手を下げた独特の姿をされ、慈覚大師円仁作と伝わります。
この像には伝承が残されています。
宇都宮頼綱は、正真の阿弥陀如来を拝せんと称名念仏していますと、
三尊二十五菩薩を具して現れ、空に帰らんとされる姿に名残り悲しみの余り、
抱止めてみればこの阿弥陀如来であったと云われています。
十一面観世音菩薩像と抱止阿弥陀如来像の間に円光大師(法然上人)の小像が安置されています。
客殿
客殿-室内
客殿
本堂から渡り廊下を経て庫裏に続く客殿へと案内され、お茶とお菓子をいただきました。
展望
客殿からの眺めは、江戸時代に書かれた「都名所図会」に「二大仏七城俯瞰の地」と
記されたほどみごとなものです。
比叡山を始めとする東山三十六峯、宇治、木津方面と京都盆地を一望できる天空の寺です。
「二大仏」とは、京都方広寺と奈良東大寺の大仏のことで、「七城」とは、二条城、伏見城、
淀城、高槻城、大坂城等の京都内外の城を意味しますが、
少々誇大広告であったような気がします。
大阪方面は、天王山の陰に隠れて望むことができません。
稲荷社
境内に出ます。
稲荷社の小さな祠があります。
参道からの正面
善峯寺バス停付近の山道から上がってきた正面です。
「西山善慧上人霊廟」と刻まれた石柱が建ち、山号「華台山」の扁額が掛かっています。
地蔵
かわいい地蔵尊像は、心地の良さに居眠りをしているようにも見えます。
地蔵からの下り
本堂前の急な石段を下ります。
イチョウの木
傍らのイチョウの木は、銀杏の実をたくさん落とし、石段にも散らばっていました。
小塩と灰谷の道標
石段を下って来ると、道は二手に分かれ、小塩の方へ向かいますが、
ここからは山道になります。
三鼓寺への道標
三鈷寺への入口は、善峯寺のバス停から少し下った所にあります。
看板には、徒歩10分と記されていますが、体力に自信があって休まずに
登った場合の時間だと思われます。

バイクを置いた駐車場まで戻り、安岡寺(あんこうじ)へ向かいます。
続く

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総門
萬福寺から東へバイクで10分余り走った所に醍醐寺があります。
醍醐寺は、旧奈良街道に面した下醍醐と山上の上醍醐からなり
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は西国三十三所霊場の第11番、
五大堂は近畿三十六不動尊霊場の第23番、下醍醐・金堂本尊の薬師如来は
西国四十九薬師霊場の第39番の他、神仏霊場・第126番などの札所となっています。

バス停が併設された駐車場を出て街道を北に進むと総門があります。
大玄関
総門から入った左側に三宝院があります。

大玄関は国の重要文化財に指定されています。

三宝院・霊宝館・伽藍の拝観料800円を納め三宝院から巡ります。
三宝院は、正式には醍醐寺三宝院と称する醍醐寺の塔頭の一つです。
平安時代の永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうかく)によって創建され、
後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改称されました。
創建当初は金堂の西側にあり灌頂院と呼ばれ、室町時代初めまで
醍醐寺の座主を交代で出した三宝院・金剛王院・理性院・無量寿院・報恩院の
醍醐の五門跡の一院でした。
鎌倉から南北朝時代にかけて、足利尊氏から厚く保護され、
応安7年/文中3年(1374)になって足利義満が三宝院座主を室町幕府の祈祷を行う
武家護持僧の管領役に任じられるようになりました。
室町時代の正長元年(1428)、25世・満済(まんさい/まんぜい)が准三后(じゅさんごう)となり、
以後歴代三宝院門跡が醍醐寺の座主を独占するようになりました。
満済は、室町幕府3代将軍・足利義満の猶子(ゆうし)となり、応永2年(1395)から
永享6年(1434)までは醍醐寺第74代座主も務め、醍醐寺中興の祖と伝わります。
しかし、応仁の乱で三宝院が焼失し、廃寺同然となりましたが、安土桃山時代に
醍醐寺金剛輪院の院主であった義演は豊臣秀吉の信頼が厚く、秀吉により再興されました。
慶長3年3月15日(1598年4月20日)に同院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれましたが、
その前に秀吉自らが醍醐寺に通い、建物の造営や修復、庭園の改修などを指揮しました。
義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称しました。
義演は徳川家康からも信任を受け、慶長11年(1606)に醍醐寺の座主に就任し、
荒廃していた寺を復興し、満済とともに醍醐寺中興の祖と称せられるようになりました。
大玄関-左側
大玄関の左の間
庫裡
庫裡は重要文化財に指定されている葵の間・秋草の間・勅使の間の北側にあり、
白書院とも呼ばれています。

三宝院の建物は葵の間、秋草の間、勅使の間及び表書院が拝観できますが
建物内の撮影は禁止されています。

葵の間の襖絵には、下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している
葵祭の様子が描かれています。

秋草の間の襖絵には、秋の七草が点在する広々とした風景が描かれています。

勅使の間の襖絵には、桃山時代の作品で、長谷川等伯一派の作といわれている
竹林花鳥図が描かれ、国の重要文化財に指定されています。
唐門-裏側
国宝・唐門の内側
泉殿
泉殿は書院の西南にあります。
三宝院-庭園
表書院は庭に面し、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れて建てられ
、国宝に指定されています。
表書院には下段・中段・上段の間があり、下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、
畳をあげると能舞台になります。
中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から
見下ろせるようになっています。
上段及び中段の間の襖絵は、長谷川等伯一派の作といわれ、
上段の間は四季の柳を主題とし、中段の間は山野の風景が描かれています。
下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれ、
表書院の襖絵は国の重要文化財に指定されています。
庭園-鶴島
木橋と鶴島
鶴島は五葉松が鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表しています。
三宝院の庭園は特別名勝・特別史跡に指定されています。
庭園-鶴島と亀島
左の亀島と右の鶴島
亀島には、樹齢六百年以上といわれる幹の太い立派な五葉松が島全体を覆い、
亀の甲羅のように見せています。
庭園-賀茂の三石
手前の賀茂の三石と亀島
亀島には手前からと、鶴島から石橋が架かり、奥の対岸へは土橋が架けられています。
池の手前、白砂の中に見える三石は、賀茂の三石と呼ばれ、奥の石は、
賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、
手前の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表しています。
庭園の背後に見える山頂が上醍醐になります。
庭園-亀島
亀島への石橋と奥の土橋
庭園-土橋
亀島の土橋
庭園-藤戸石
藤戸石と豊国大明神を祀る祠
藤戸石は高さ1.8m、幅1.1m、奥行き1mあり、正面からは長方形に見えますが、
側面は三角形を成しています。
「藤戸石」と称される由来については、倉敷の藤戸産とも、
石の表面に藤の花の模様があることからとも伝わります。
かっては、細川氏綱邸にあったものを織田信長が足利義昭の二条第に移し、
天正14年(1586)に豊臣秀吉が聚楽第へ移しました。
その後、慶長3年(1598)の三宝院の築庭に際し、三宝院へと運び込まれました。
両脇の石と共に阿弥陀三尊を表しているとされ、豊臣秀吉の位牌石とも言われています。
当初、庭は花見に間に合わせるように秀吉が設計し、僅か36日の突貫工事で完成させました。
秀吉の没後、三宝院32世・義演が20数年も作庭を続け、
現在の池泉回遊式庭園を完成させました。

豊国大明神は豊臣家の廃絶後、豊国稲荷大明神が勧請され、祀られています。
庭園-三段の滝
三段の滝
経蔵
本堂の特別参拝が行われていましたので、本堂へ向かいますが、
本堂の画像を撮り忘れました。 
本堂内の撮影は禁止されていますが、本堂には重要文化財に指定されている
像高112cmの弥勒菩薩坐像が安置されています。
膝裏に建久6年(1195)の墨書き名があり、仏師・快慶の作であることが判明しました。
快慶の初期作であり、美仏とも最秀作とも言われています。
脇仏として右に弘法大師像、左に理源大師・聖宝(しょうぼう)像が安置されています。

本堂への順路の左側に建つのは経蔵でしょうか?
五社明神-拝殿
五社明神の拝殿
五社明神
五社明神
本堂の左側に祀られています。
純浄観
本堂前からの純浄観
純浄観は書院の東にあり、豊臣秀吉が槍山で花見をした時の建物を移築したと伝わります。
襖絵の桜・紅葉は、平成に入って浜田泰介画伯が描いたものです。
茶室
茶室・松月亭は奥宸殿の東北側にあり、江戸末期に造られましたが、非公開です。
奥宸殿は江戸時代初期の建築とされ、重要文化財に指定されていますが、非公開です。
茶室-庭園
茶室前の池は、純浄観の下を通って書院前の池へと続いています。
霊宝館
霊宝館へ向かいます。
霊宝館は昭和10年(1935)に開館し、昭和54年(1979)に新収蔵庫3棟を新築、
更に平成13年(2001)には上醍醐薬師堂の本尊である国宝・薬師三尊像を
中央に安置する大展示室が増築されました。
国宝の薬師三尊像や重文の五大明王像などが安置されていますが
館内の撮影は禁止されています。
唐門
霊宝館から参道に戻り、少し進んだ左側に国宝・唐門を外から見る事ができます。
唐門は北政所の寄進により建立され、平成23年(2011)に解体修理が行われ、
黒漆塗が施されて建立当時の豪華さがよみがえっています。

仁王門へ向かいます。
続く

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仁王門
仁王門(西大門)は慶長10年(1605)に豊臣秀頼により再建されました。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は平安後期の長承3年(1134)に仏師・勢増、仁増によって造立され、
元は南大門に安置されていました。
体内の墨書、納札等に南大門から移された経緯などが書かれています。
仁王像は国の重要文化財に指定されています。
鐘楼
仁王門をくぐり、その先で右に曲がった先に鐘楼があります。
金堂
鐘楼の先で左に曲がり、その先の左側に国宝に指定されている金堂があります。
金堂は第60代・醍醐天皇の御願により延長4年(926)に建立され、
当初は釈迦堂と呼ばれていました。
その後、応仁・文明の乱など戦乱で金堂は焼失し、下醍醐は荒廃しましたが、
豊臣秀吉が慶長3年(1598)に催した「醍醐の花見」をきっかけに、
金堂の再建が行われました。
同年、紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された
後白河法皇の御願寺)本堂の移築工事が始まりました。
部材には平安時代のものが残り、鎌倉時代に改修を受けており、
移築時の桃山時代の手法も混在しています。
秀吉没後の慶長5年(1600)に落慶しました。

本尊は薬師如来坐像(像高128.8cm)で、鎌倉時代前期の作とされています。
脇時には像高190.9cmの日光菩薩像と像高185.1cmの月光菩薩像が安置されています。
薬師三尊像は満願寺から遷されたもので、国の重要文化財に指定されています。
堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色があります。
五重塔
金堂の向かいに五重塔があり、国宝に指定されています。
総高は38mで、うち相輪部が12.8mあり全体の3割以上を占めています。
承平元年(931)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために
第三皇子の代明親王(よしあきらしんのう)が発願し、
穏子(やすこ)皇太后の令旨で建立が計画されました。
しかし、承平7年(937)に代明親王が亡くなり、その影響を受け工事は停滞し、
20年後の天暦5年(951)にようやく完成しました。
天正13年(1585)の大地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受けたため、
豊臣秀吉の援助で慶長3年(1597)に修理が行われました。
昭和25年(1950)のジェーン台風でも被害を受け、同35年(1960)に修理が行われました。
五重塔は焼失を免れ、京都府最古とされ、現在に残された数少ない平安時代の建物です。
初重内部には、平安時代に描かれた両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画が残され、
塔とは別に国宝に指定されています。
清瀧宮-本殿
五重塔の西側に清瀧宮本殿があり、国の重要文化財に指定されています。
醍醐寺の総鎮守・清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社で、永長2年(1097)に、
最初に建立された上醍醐から分身を遷し、祀られました。
応仁・文明の乱で社殿が焼失し、現在の社殿は永正14年(1517)に再建されたものです。
清瀧宮-拝殿
清瀧宮拝殿は慶長4年(1599)、座主・義演(ぎえん)僧正により整備されました。
毎年4月1日から21日まで『清瀧権現桜会(さくらえ)』として様々な法要が行われています。
不動堂
五重塔から坂道を少し登った左側に不動堂があります。
不動堂-明王
不動堂の前には護摩道場があり、不動明王の石像が祀られています。
不動堂-堂内
不動堂は昭和5年に(1930)建立され、堂内には不動明王を中心に
降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、
大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王の五体の明王像が安置されています。
真如三昧耶堂
不動堂の右上方に真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)があります。
元は第61代・朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦3年(949)に創建されましたが、
文明2年(1470)に焼失し、その跡地に平成9年(1997)、真如三昧耶堂として建立されました。
真如三昧耶堂-涅槃像
堂内には釈迦涅槃像が安置されています。
役行者
真如三昧耶堂から参道へ戻る途中に神変大菩薩(役行者)が祀られています。
醍醐寺を開創した理源大師・聖宝(しょうぼう)は、役行者によって創始されたという
山岳修行に、霊異相承・実修実証の祈りの原点を求めたとされています。
聖宝は役行者が開いたとされる吉野の金峰山(きんぷせん)で山岳修行を行うとともに、
参詣道の整備や仏像造立などで金峰山の発展に尽力しました。
醍醐寺は「役行者霊蹟札所」になっています。
祖師堂-1
参道に戻り、少し登った所に祖師堂があります。
慶長10年(1605)に第46世座主・義演によって創建されました。
祖師堂-2
堂内には右側に弘法大師像、左側に弘法大師の孫弟子である
理源大師・聖宝像が安置されています。
伝法学院-入口
伝法学院-建物-入口
伝法学院-庭
祖師堂の先に旧・伝法学院があります。
伝法学院は、仏道修行を志す者の修練道場として、醍醐天皇一千年御忌を記念して、
昭和5年(1930)に建立されました。
伝法学院-建物
現在は五重塔の南側に移転されたそうで、残された建物にはブルーシートが掛けられ、
周囲の景観の中で悲哀さを感じさせます。
中門
参道に戻ると、先に東の中門があり、かっては上醍醐口門と呼ばれ、
上醍醐への入口となる門でした。
最初の中門は、金堂などが整備された承平元年(931)に建立されました。
現在は、参道の先にある女人堂が上醍醐への入口になっています。
大伝法院-鐘楼
門をくぐった左側にある鐘楼堂は昭和5年(1930)に建立されました。
観音堂
鐘楼堂の右側に観音堂があります。
観音堂を中心に広がる、林泉及び弁天堂、地蔵堂、鐘楼、伝法学院等を総称して
「大伝法院」と呼ばれています。
昭和5年(1930)、醍醐天皇一千年御忌を記念し、山口玄洞(やまぐちげんどう)氏の
寄進により造築されました。
平成20年(2008)、上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)が落雷により焼失したため、
西国三十三所など各種納経はここで行われています。
観音堂前の石段は角度が急なためか、裏側にスロープが設けられ、そこから出入りします。
放生池
観音堂前の東側に放生池があります。
寿庵
放生池の畔にはお休み処「寿庵」があります。
弁天堂-1
弁天堂
「寿庵」の先に弁天堂があります。
放生池-滝
弁天堂へと架かる橋からは二筋の滝が望めます。
無量寿苑
滝の上には中央に小川を配した「無量寿苑」と名付けられた庭園が築かれています。
無量寿苑-滝
小川の先には小さな滝があります。
上醍醐への橋
上醍醐へのゲート
庭園から東へ進み橋を渡った先にゲートがあります。

上醍醐へ向かいます。
 続く

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