カテゴリ:京都市 > 京都市左京区北部(一乗寺・修学院以北)

山門
国道367号線を途中越えから下り、新伊香立橋の手前で右折して旧街道を進んだ
右側に古知谷阿弥陀寺の駐車場があります。
山門は下層を白漆喰塗り込めとした中国風の楼門で、
門前の石柱には「弾誓仏一流本山」と刻まれています。
阿弥陀寺は山号を「光明山」と号する浄土宗の寺院で、
通称で「古知谷阿弥陀寺」と称されています。
参道
山門から本堂までは標高差約320mを15分程かけて登らなければなりません。
滝
谷川沿いに登り、上部には小さな滝があります。
カエデ-1
参道沿いに聳えるカエデは樹齢800年以上とされ、
京都市の天然記念物に指定されています。
日本では、本州以南の平地から標高1000m程度にかけての低山で多く見られる
イロハモミジで、「高雄楓」とも称され、紅葉の名所とされる阿弥陀寺周辺の
古知谷で、数あるカエデの中でも最大のものとなります。
カエデ-2
幹には多数の支根が絡みつく特異な形状となっています。
不明な建物
正面に懸崖造りの建物がありますが、詳細は不明です。
書院
正面の書院には宝物館があり、皇族との関係が深く、皇室から寄進された貴重品や
弾誓上人ゆかりの仏具などが展示されています。
廊下左の庭
書院からの渡り廊下の左側です。
石廟
渡り廊下の先に巌窟があり、巌窟内の石廟には弾誓上人
(たんぜいしょうにん:1552~1613)の即身仏が安置されています。
弾誓上人は尾張国で生まれ、9歳で出家して木食僧(もくじきそう)として
諸国を行脚し、修行を重ねました。
天正18年(1590)に39歳になった弾誓上人は佐渡島へ渡り、浄土宗の常念寺で
得度しました。
その後6年間、檀特山(だんとくさん:標高807m)で修行し、篭っていた洞窟に
阿弥陀如来が顕れ、 「十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏」の
尊号と他力念仏の深義を授かったと伝わります。

佐渡から離れて京都に来た時、五条大橋で北の空に紫雲たなびき、
光明を発するの見てこの地へ訪れ、念仏三昧の修行を行いました。
その4年後の慶長18年(1613)に弾誓上人は、松の実と皮のみを食し、
体質を樹脂化して石棺に入り、即身仏となったと伝わります。
全国の即身仏では最南端に位置します。
中庭
渡り廊下と本堂との間の庭園
本堂
現在の本堂は享和元年(1801)に再建されました。
阿弥陀寺は慶長14年(1609)に弾誓上人により開創された念仏道場です。
享保年間(1716~1736)には弾誓上人を慕い、近江国の念仏行者・澄禅が参禅した
「禅公窟」が本堂から約300mの山上に残されていますが、非公開です。
澄禅は、享保6年(1721)に即身入定を果たしているとされていますが、
その即身仏は現在では残されていません。

本尊は像高74.2cmの弾誓上人像で、本堂内陣の中央にある宮殿内に安置されています。
「植髪(うえがみ)の木像」と呼ばれ、弾誓上人が自ら刻み、
自身の頭髪を植え込んだとされています。
一般的には阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院で、阿弥陀如来と共に
弾誓上人像を本尊として安置することから「弾誓仏一流本山」と称されています。

向かって右側に安置されている像高70.6cmの木造阿弥陀如来坐像は、
鎌倉時代の作とされ、国の重要文化財に指定されています。

向かって左側には平安~室町時代の作とされる像高72.3cmの
阿弥陀如来立像が安置されています。
本堂前の庭園
本堂前には白砂が敷かれた枯山水の庭園が築かれています。
茶室
庭園の奥には茶室・瑞雲閣があります。
茶室-2
瑞雲閣も懸崖造りです。
地蔵像
本堂の右側は墓地で、地蔵菩薩が祀られています。
弾誓上人には70人余りの弟子が師事していたと伝わり、その墓と思われます。
鐘楼
鐘楼
六体地蔵
六体地蔵の奥は一般の墓地のようです。

旧街道を南下し、国道367号線に合流して三千院へ向かいます。
続く

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寺号標
平安時代、第3代天台座主・慈覚大師円仁はこの地に天台声明の道場を開きました。
その後、勝林院が建立され、付近一帯は
「魚山大原寺」と総称されるようになりました。
以来、この地には多くの念仏修行者が住みつくようになり、
貴人が都の喧騒を離れて隠棲する所ともなりました。
大原の三千院は、大原寺の管理と念仏行者を取り締まりを行う、
梶井門跡の政所(まんどころ)が起源です。

そもそも、三千院の始まりは延暦年間(782~806)で、延暦寺を開いた伝教大師最澄
が、東塔南谷の梨の大木の下に創建した「円融房」とされています。
貞観2年(860)に承雲和尚はその地に最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、
「円融院」と称し、東坂本の梶井に里坊を建立しました。
元永元年(1118)に第73代・堀河天皇の皇子である最雲法親王が、
円融院に皇室子弟として初めて入り、梶井門跡となりました。
保元元年(1156)、最雲法親王は第49代天台座主に就任し、
大原の地に現在の三千院となる政所を建立しました。

貞永元年(1232)に坂本の梶井門跡が焼失し、京都市内に移転されました。
その後も市内で移転を繰り返し、元弘元年/元徳3年(1331)に
船岡山の東麓で定着しました。
かって、その地には第53代・淳和天皇の離宮があり、第54代・仁明天皇の
第七皇子・常康親王(つねやすしんのう)に引き継がれ、
承和11年(844)には「雲林院」と称されていました。
貞観11年(869)に親王は遍昭に雲林院を譲渡し、遍昭は雲林院の別当を兼ね、
雲林院を天台宗の修行場としましたが、鎌倉時代になると次第に衰微しました。
その跡地に梶井門跡が移転しました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、梶井門跡を継いだ
第93代・後伏見天皇の第4皇子・尊胤法親王(そんいんほうしんのう)は、
梶井門跡の本坊を大原の政所に移しました。

江戸時代になり、第3代将軍・徳川綱吉は、時の梶井門跡であった
慈胤法親王(じいんほっしんのう)が三度にわたり天台座主を務めたこと称え、
元禄11年(1698)に現在の京都府立医大がある辺りの公家町に寺地を与えました。
明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗して梨本宮家を起こし、
公家町の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に遷されました。
明治4年(1871)に大原の政所が本坊と定められ、梶井門跡の持仏堂の名称
「一念三千院」から「三千院」と改称されました。
「一念三千」とは、一念の心に三千の諸法を具えることを観(かん)ずることで、
中国天台宗の開祖である天台大師・智顗(ちぎ)が創案したとされ、
天台宗の観法であり、また根本教理となっています。

石垣
参道沿いの石垣は、築城で名高い坂本の穴太衆(あのうしゅう)によるものです。
御殿門
御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である
政所の入口にふさわしい城郭を思わせる重厚な門構えになっています。
勅使玄関
門をくぐった正面には客殿の勅使玄関がありますが、現在は生垣で隠されています。
生垣沿いに左へ進むと参拝入口があり、その前から玄関を見ることが出来ます。
庫裡
庫裡に拝観受付があり700円を納め、参拝入口から入ると、
順路は廊下を玄関の方へ向かいます。
坪庭
廊下の脇に坪庭があります。
聚碧園-傾斜地-1
客殿は平安時代には龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所でした。
安土・桃山時代の天正年間(1573~1592)に、豊臣秀吉による宮中修復の際、
紫宸殿の余材が利用されて修復され、その後大正元年(1912)にも
補修が施されています。
明治39年(1906)の客殿各室には、当時の京都画壇を代表する画家たちの
襖絵が奉納されていました。
当時若い世代であった竹内栖鳳菊池芳文や重鎮であった望月玉泉今尾景年
鈴木松年によって描かれましたが、現在は宝物館である円融蔵に所蔵されています。
聚碧園-傾斜地
客殿の庭園は「聚碧園(しゅうへきえん)」と称される池泉観賞式庭園で、
江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ・1584~1656)による修築と伝わり、
京都市の名勝に指定されています。
東部は自然の傾斜地を利用して作庭されています。
聚碧園-池
西部は円形とひょうたん形の池泉が結ばれ石橋が架けられています。
背後の渡り廊下は円融房へと結ばれています。
宸殿
客殿から東の廊下の階段を登ると、門跡寺院にしか見られない宸殿があります。
宸殿は三千院の最も重要な法要である御懴法講(おせんぼうこう)を
執り行うために、御所の紫宸殿を模して、大正15年(1926)に建立されました。
御懴法講は平安時代の保元2年(1157)、後白河法皇が宮中の仁寿殿に於いて
始められた宮中伝統の法要で、江戸末期までは宮中で行われていたため、
「宮中御懴法講」と呼ばれていました。
懺法とは知らず知らずのうちにつくった悪い行いを懺悔して、心の中にある
「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒をとり除き、心を静め清らかにするもので、
天台宗のなかでも最も大切な法要儀式とされています。
明治新政府が宮中での仏事を禁じたため、この行事は一旦絶え、その後
明治31年(1898)に明治天皇の母・英照皇太后の一周忌に際し復興されました。
昭和54年(1979)に明治天皇70回忌法要が営まれてからは、
毎年5月30日に行われています。
宸殿の東の間には玉座があり、下村観山の大きな虹が描かれた
襖絵があることから「虹の間」とも呼ばれています。
宸殿の本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来ですが秘仏とされています。
持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額「三千院」は
宸殿に掲げられていますが、撮影は禁止されています。
有清園
宸殿から往生極楽院を望む庭園は「有清園(ゆうせいえん)」と呼ばれ、
京都市の名勝に指定されています。
江戸時代に作庭されとされ、中国の六朝時代を代表する
詩人・謝霊運(しゃれいうん・385~433)の
「山水清音有(山水に清音有り」より命名されました。
瑠璃光庭園-地蔵像
庭園内には地蔵菩薩の石像が祀られています。
往生極楽院
往生極楽院は、平安時代末期から大原の地にあった阿弥陀堂であり、
通称で「極楽院」と呼ばれていました。
寺伝では恵心僧都源信が父母の菩提を弔うため、姉の安養尼と共に建立したと
伝えられていましたが、吉田経房の日記「吉記」の記述から、久安4年(1148)に
建立されたことが明らかとなりました。
吉記には、高松中納言・藤原実衡(さねひら)の妻である
真如房尼(しんにょぼうに)が、
亡き夫の菩提を弔うために建立したと記されています。
江戸時代の元和2年(1616)と寛文8年(1668)に大幅な修理が施されるとともに
向拝が付けられ、現在の姿となりました。
明治4年(1871)、三千院が大原の地に移転されてから境内に取り入れられ、
明治18年(1885)に「往生極楽院」と改称されました。
現在の建物は、国の重要文化財に指定されています。

堂内には平安時代作で国宝に指定されている阿弥陀三尊像が安置されています。
中尊の阿弥陀如来坐像は像高2.3mあり、
堂内の天井を舟底形にくりぬかれて安置されています。
天井には現在は肉眼では判り難いですが、
極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれています。
再現したものが円融蔵で展示されています。

向かって右側に像高131.8cmの観世音菩薩、左側に像高130.9cmの勢至菩薩坐像が
安置され、共に「大和座り」と呼ばれる前かがみの座り方をしています。
寺伝では恵心僧都源信の作とされていましたが、勢至菩薩の胎内から
墨書銘が発見され、久安4年(1148)に造立されたことが判明しました。
足のつま先を立て、衆生救済のためにいつでもすぐに立ち上がる
姿勢を表しています。
わらべ地蔵
庭園に祀られている「わらべ地蔵」は、石彫刻家の杉村孝氏の作によるものです。
弁天池
往生極楽院の東側に弁天池があります。
弁天池-滝
「細波(さざなみ)の滝」と呼ばれる三段式の滝からの流れが注いでいます。
弁天池-島
池には鶴島、亀島があります。
延命水
この水は「延命水」と呼ばれています。
朱雀門-内側
往生極楽院の正面には「朱雀門」があります。
常時閉じられていますが、本来は正門です。
江戸時代に再建された鎌倉様式の四脚門で、
東福寺の月華門を模したとされています。
弁天像-鳥居への石段
有清園から石段を登ります。
弁天像-鳥居
鳥居を挟んで右の石段を登れば金色不動堂、左は紫陽花苑へ至ります。
弁天像
妙音福寿大弁財天像と宇賀神が祀られています。

左の紫陽花苑へと進みますが、手入れ中だったため画像はありません。
数千株の紫陽花が植えられ、6月中旬~下旬が見頃となります。
売炭翁石仏への橋
紫陽花苑に沿って北へ進むと朱塗りの橋があります。
律川
この川は「律川(りつせん)」と呼ばれ、三千院の境内は境内南を流れる
「呂川(りょせん)」との2つの川に挟まれ、
呂川・律川の名は声明の音律の「呂」と「律」に由来しています。
売炭翁石仏
橋を渡った所に鎌倉時代作で像高2.25mの阿弥陀如来石仏が祀られています。
売炭翁石仏-2
また、この場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた
「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、
「売炭翁石仏」とも呼ばれています。
おさな六地蔵-1猫
川の上流沿いに「おさな六地蔵」が祀られています。
六地蔵の全ての画像はありませんが、表情が豊かと感じたものを掲載します。
猫を抱いていることから「猫地蔵」とも呼ばれています。
おさな六地蔵-2
おさな六地蔵-2
おさな六地蔵-3鳥
おさな六地蔵-3
鳥を頭に乗せた「鳥地蔵」と勝手に命名しますが、鳥が乗っていることさえ
感じずに精神統一された境地に入っている姿が表されているのかもしれません。
おさな六地蔵-4
おさな六地蔵-4
おさな六地蔵-二躯
おさな六地蔵ではありませんが、その並びに祀られていた二体の地蔵尊。
金色不動堂
橋から戻り石段を登ると金色不動堂の裏側に出ます。
護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年(1989)4月に建立されました。
本尊は智証大師・円珍作と伝わる像高97cmの金色不動明王立像で、
重要文化財に指定されていますが秘仏です。
毎年4月に行われる不動大祭期間中の約1ヶ月間に開扉されます。
金色不動堂-納経所
また、近畿三十六不動尊霊場・第16番札所の本尊でもあり、納経所もあります。
その横には無料休憩所があり、お茶の接待を受けられます。
起き上がり小法師
納経所では起き上がり小法師が多数奉納されています。
宝篋印塔-写経塚
金色不動堂から観音堂への石段の脇に宝篋印塔があり、
「写経塔」と刻まれています。
草木供養塔
その右側には草木供養塔があります。
観音堂への石段
観音堂への石段
観音堂
観音堂は平成10年(1998)に建立されました。
観音堂-堂内
堂内には像高3mの金色に輝く観音像が安置されています。
小観音堂
右側に小観音堂があります。
小観音像
小観音堂には小さな観音像が多数奉納されています。
茶室
境内には茶室もあります。
慈眼の庭-1
北側には平成10年(1998)に作庭された二十五菩薩慈眼の庭があります。
慈眼の庭-2
補陀洛浄土を模して二十五の石が菩薩に見立てて配されています。
観音菩薩
補陀落は観音菩薩が降臨する霊場とされています。
帰り口の門
弁天像の鳥居へ下り、朱雀門の前を通り、西側の門を出ます。
円融房
門を出て下ると円融房の横に出ます。
現在の円融房は、最澄の創建時のものと異なり、コンクリート造りの建物です。
現在では修行道場や写経場として使われているようです。
円融蔵
円融房の向かいに宝物館の円融蔵があります。
往生極楽院の舟底形天井が原寸大に復元され、、
天井画が創建当時の顔料で極彩色で描かれています。
鎌倉時代の寛元4年(1246)作の救世観音半跏像は、四天王寺の当初の
本尊像を模したものとされ、かって、三千院門主が四天王寺の別当を
兼ねていたことから、三千院に伝えられていると考えられています。
鎌倉時代作の不動明王立像も安置されており、救世観音半跏像と共に
国の重要文化財に指定されています。
納経所
円融蔵に併設して納経所があります。
三千院は、神仏霊場巡礼の道・第106番、
西国薬師四十九霊場・第45番、近畿三十六不動尊霊場・第16番、
京の七福神めぐり(弁財天)の各札所となっています。
呂川
御殿門を出て、三千院の南側を流れる呂川(りょせん)に沿って登ります。
円融房前の門
円融房前の門があります。
朱雀門
その先には「朱雀門」があります。
勝手神社-鳥居
更に登ると左側に勝手神社への参道があります。
勝手神社-橋
参道を進むと律川(りつせん)に架かる勝手大橋があります。
勝手神社
橋を渡った先に勝手神社があり、勝手明神が祀られています。
勝手神社は、来迎院、三千院、勝林院などで行われる声明の鎮守社として
吉野の勝手神社を勧請して創建されました。

呂川沿いの参道まで戻り、更に登って来迎院へ向かいます。
続く

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来迎院-入口
三千院からの呂川(りょせん)沿いの参道を登った所に来迎院の参道口があります。
浄蓮華院-山門
その手前の左側に浄蓮華院があります。
天仁2年(1109)に来迎院を再興した聖応大師良忍が、
自らの住坊として創建したもので、融通念仏の本堂となりました。
後には境内子院の浄蓮華院、蓮成院、善逝院(ぜんぜいいん)、
遮那院(しゃないん)の総称として来迎院と称されました。
浄蓮華院
近代にそれぞれの子院は独立し、浄蓮華院は宿坊となっているようです。
山門
来迎院へ向かいます。
仁寿年間(851~854)、第3代天台座主・慈覚大師円仁
この地に天台声明の道場を開きました。
承和5年(838)に最後の遣唐使の短期留学生として唐へ渡った円仁は、
在唐新羅人社会の助けを得て翌年に五台山を巡礼しました。
その地で盛んに行われていた五台山念佛(声明)を日本へ持ち帰り、
大原を声明の根本道場としたのが来迎院の始まりとされています。

天仁2年(1109)に聖応大師良忍が再興し、来迎院を本堂としました。
これにより、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、
この両院から成る付近一帯は「魚山大原寺」と総称されるようになりました。
「魚山」は中国山東省にある山の名で、その地で梵唄(ぼんばい=声明)が
始められたとする、中国の古代声明の聖地です。
以来、大原で伝承されてきた天台声明は、
「魚山声明」とも呼ばれるようになりました。
本堂への石段
門をくぐった正面の拝観受付から右側にある石段を登ります。
鐘楼
鐘楼があります。
梵鐘は室町時代の永享7年(1435)に鋳造されたもので、
市の文化財に指定されています。
本堂
現在の本堂は天文2年(1533)に再建されました。
本尊
本尊は薬師如来坐像で、右脇侍(向かって左)に阿弥陀如来坐像、
左脇侍に釈迦如来坐像が安置されています。
共に平安時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
三尊像の左側に平安時代作の不動明王立像、
右側に平安時代作の毘沙門天立像が安置されています。
天女図
内陣の天井には天女図、周囲には雲と琵琶や鼓などの楽器が描かれています。
外陣脇檀
外陣の左脇檀には、いずれも鎌倉時代作と推定される慈覚大師円仁像、
元三大師図、聖応大師良忍像が安置されています。
右脇檀には、江戸幕府の御朱印寺として寺領を授かっていたことから
徳川歴代将軍の尊霊が祀られています。
鎮守社への石段
本堂の東側に石段があり、その上に鎮守社があります。
五輪塔
鎮守社右側の五輪塔は高さが約1mで、鎌倉時代の作とされています。
石仏群
左側には多数の石仏が祀られています。
廟への橋
北へ進み、律川に架かる石橋を渡ります。
音無の滝はこの上流にありますが、滝へ行くには山門を出て、
再び境内の上側を登らなければなりません。
聖応大師廟
石段を登って進んだ先に聖応大師良忍の墓があり、三重石塔は鎌倉時代の作で
国の重要文化財に指定されています。

良忍(1072/1073~1132)は尾張国生まれで、13歳の時に比叡山に登り
実兄の良賀に師事して出家しました。
22~3の頃に大原に隠棲し、浄蓮華院を創建して来迎院を再興しました。
分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させました。
永久5年(1117)に阿弥陀仏の示現を受け、融通念仏を創始しました。
当時は疫病が流行し、治安が悪化して末法思想が流行する中で、多くの民衆が
救済を求めて浄土教を信仰しました。

空也上人(903~907)が都で踊念仏をひろめ、それまで天皇や貴族のための仏教から
民衆救済のための仏教と成っていきました。
良忍は、阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法として
「1人の念仏が万人の念仏に通じる」と説いて融通念仏宗を開宗しました。
念仏を唱える者は自分だけでは無く、万人のためにも唱え、万人が一人のために
唱えることで念仏の功徳が高まるとする集団が結成されていきました。
大治2年(1127)に鳥羽上皇の勅願により坂上広野の私邸内に
修楽寺(現在の大念仏寺)を開き、融通念仏の道場としました。
坂上広野(さかのうえ の ひろの:787~828)は、大納言・坂上田村麻呂の次男で、
摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の開発領主で「平野殿」とも
呼ばれていました。
広野の没後に修楽寺が建立され、
現在の大念仏寺は融通念仏宗の総本山となっています。
如来蔵
聖応大師廟から下って本堂の裏側へ出ると、如来蔵があります。
聖応大師良忍が経堂として建立したと伝わります。
収蔵庫
収蔵庫は昭和60年(1985)に建立されました。
音無の滝-道標
門を出て音無の滝へ向かいます。
来迎院から約15分の登りです。
音無の滝
聖応大師良忍がこの滝に向かい声明の修行をしていると、滝の音と声明の声が
和して、ついには滝の音が聞こえなくなったことから名付けられたとされています。
西行は「小野山の 上より落つる 滝の名は 音無しにのみ 濡るる袖かな」と
詠んだように、大原の東側にある山の連なりは「小野山」と呼ばれ、
この滝の上流には二の滝、三の滝があるそうです。
未明橋
滝から下り、勝林院へ向かいます。
再び三千院の御殿門前を通り、滝から下ってきた律川に架かる未明橋を渡ります。
鉈捨藪跡
その手前に「鉈捨藪跡(なたすてやぶあと)」があります。
文治2年(1186)、大原寺・勝林院での法然上人の大原問答の折に、
上人の弟子であった熊谷直実は「もし、師の法然上人が論議に敗れたならば、
その法敵を討たん」との思いで袖に鉈を隠し持っていました。
しかし、上人に諭されてその鉈をこの藪に投げ捨てたと伝えられています。
熊谷直実は、寿永3年(1184)、一ノ谷合戦で、海上に馬を乗り入れ
沖へ逃がれようとする平敦盛を呼び返して、須磨の浜辺に組み討ち
その首をはねました。
平敦盛は17歳であり、我が子・直家ぐらいの齢でした。
これ以後、直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
いっそう強くなり、法然上人の弟子となりました。
大原陵-1
橋を渡った右側に第82代・後鳥羽天皇と第84代・順徳天皇の大原陵があります。
大原陵-手水鉢
手水鉢
後鳥羽天皇(1180~1239)は元暦元年(1184)に即位しましたが、
平家が第81代・安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へと逃れたため
神器なき即位となりました。
安徳天皇は母の建礼門院に抱かれ、壇ノ浦の急流に身を投じました。
建礼門院は助けられ、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏の手にわたりましたが、
宝剣は天皇と共に海中に沈んだとされています。
後鳥羽天皇は文武両道で、『新古今和歌集』の編纂を行うなどの一方で、
承久3年(1221)に鎌倉幕府討伐の兵を挙げました。(承久の乱
しかし、この戦いに敗れ、隠岐島への流罪が下され、出家して法皇となりました。
延応元年(1239)に配流先で崩御され、隠岐島には火葬塚の隠岐海士町陵があります。
大原陵
順徳天皇(1197~1242)は後鳥羽天皇の第三皇子で、承元4年(1211)に14歳で即位し、
後鳥羽天皇の討幕計画に参画するため、承久3年(1221)に
第四皇子の懐成親王(かねなりしんのう=第85代・仲恭天皇)に譲位しました。
承久の乱で敗れ、佐渡島に配流されて仁治3年(1242)に崩御されました。
佐渡島には火葬塚の真野御陵があります。

陵内の十三重石塔は寛文2年(1662)の寛文近江・若狭地震で倒壊し、
元禄9年(1696)に修復されました。
かってはこの塔背後の高台に法華堂がありました。
法華堂
法華堂は後鳥羽法皇の冥福を祈り、後鳥羽法皇の皇子・尊快入道親王の母親である
藤原重子(ふじわら の じゅうし / しげこ:1182~1264=修明門院)が
仁治元年(1240)に水無瀬離宮の建物を移築し、納骨されました。
寛元元年(1243)には順徳天皇の遺骨も納骨されましたが、
江戸時代の享保21年(1736)に法華堂は焼失しました。
安永年間(1764~1780)に現在の法華堂が再建され、明治の神仏分離令により
法華堂は陵内から現在地に移築されました。
堂内には普賢菩薩像が本尊として安置されています。
法然上人腰掛石
法華堂向かいにある実光院の外塀の北東角に法然上人腰掛石があります。
文治2年(1186)の大原問答の際に、法然上人が腰を掛けた石とされています。

勝林院へ向かいます。
続く

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来迎橋
勝林院への手前の川は「三途の川」とされ、この川に架かる来迎橋を渡って
本堂の阿弥陀仏の極楽浄土に至るとされています。
本堂-1
勝林院は正式には「魚山大原寺勝林院(ぎょざんだいげんじしょうりんいん)」と
号する天台宗の寺院で、法然上人二十五霊跡の第21番札所です。
仁寿年間(851~854)、第3代天台座主・慈覚大師円仁は
この地に天台声明の道場を開きましたが、その後荒廃しました。
長和2年(1013)に寂源により復興され、勝林院が建立されました。
寂源は左大臣・源雅信の八男で俗名を源時叙(みなもと の ときのぶ)と
称しました。
時叙は、寛和元年(985)には昇殿を許され、その後、右近衛少将に任じられましたが、
天延元年(987)頃、動機は不明ですが、同年に出家した
兄の源時通の後を追うかのように出家しました。
延暦寺園城寺(三井寺)の対立を避けて長和2年(1013)にこの地に移り住みました。
寂源は大原で声明を復興し、浄土信仰・法華信仰の研鑽に励んで様々な苦行を行い、
その度に毘沙門天が現れて寂源を守護したと伝えられています。

天仁2年(1109)に聖応大師良忍が来迎院を再興すると、勝林院を本堂とする下院と
来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院から成る付近一帯は
「魚山大原寺」と総称されるようになりました。
江戸時代初期に春日局の願により崇源院の菩提を弔うため本堂が再建されましたが、
享保21年(1736)に焼失し、現在の本堂は安永7年(1788)に再建されました。
本堂-2
本尊は丈六の阿弥陀如来坐像で、創建当初の本尊は仏師の康尚の作と伝わります。
寛仁4年(1020)に寂源が勝林院の本堂で法華八講を開いた際、本尊が自らの意を
表したとされ、以来、「証拠阿弥陀」と呼ばれるようになりました。
また、文治2年(1186)に一昼夜にわたって行われた「大原問答」では、
法然上人の主張が正しいことを本尊が光を放って支持したと伝わります。
これにより本堂も「証拠堂」と呼ばれるようになりました。
この問答に重源も招請されていました。
重源は源平の争乱で焼失した東大寺を再建し、前年の文治元年(1185)には
大仏の開眼供養が行われました。
問答を終えた翌日に重源は、自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事しました。
また、問答の聴衆たちは念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知り、
三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けました。
しかし、本尊は享保21年(1736)に焼失し、翌天文2年(1737)に開眼供養されたのが
現在の本尊です。
脇侍には不動明王立像と毘沙門天立像が安置されています。
弁天堂
本堂裏側に弁天堂があります。
最胤親王の墓
その右側に石段があり、それを登った所に
最胤親王(さいいんしんのう:1565~1639)の墓があります。
最胤親王は伏見宮邦輔親王の第八王子で、正親町(おおぎまち)天皇の猶子となって
天正3年(1575)に三千院で出家しました。
慶長17年(1612)に第169代天台座主に就き、28年間その任にあって
寛永16年(1639)に薨去されました。
池と石段
本堂の右前に池があり、その先に石段があります。
東屋
石段を登ると東屋があり、作庭されています。
カエルに似た石
池の中の石はカエルに似ているようにも見えます。
山王社
更に上部には鎮守社の山王社があります。
観音堂
右側には観音堂があります。
その右側の宝篋印塔は鎌倉時代末期の作で、国の重要文化財に指定されています。
鐘楼
宝篋印塔から下ると寛永年間(1624~1645)に春日局によって再建された
鐘楼があります。
梵鐘は平安時代中期に鋳造されたもので、国の重要文化財に指定されています。
経蔵
本堂の左前には経蔵があります。

西側に隣接する塔頭の宝泉院へ向かいます。
続く

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橋
勝林院から西へ下り、「三途の川」に架かる橋を渡った先に宝泉院があります。
山門
先へ進むと山門があります。
宝泉院は嘉禎年間(1235~1238)に大原寺(勝林院)住職の住坊として創建されました。
当初は「了性坊」と称し、その後「宝泉坊」から正徳6年(1716)に
「宝泉院」へ改められました。
石仏
門をくぐると石仏が祀られています。
衣掛けの石
その先に法然上人の衣掛けの石があります。
かっては「鯖街道」の路傍にあったものが移されました。
入口
建物の入口
輿
廊下には輿が吊るされています。
鶴亀の庭
廊下の南側に鶴亀の庭があります。
池は鶴が羽根を広げたように象られています。
鶴亀の庭-蓬莱山
築山は亀を表し、山茶花(さざんか)の古木が蓬莱山を表しています。
鶴亀の庭-沙羅双樹
沙羅双樹の木は樹齢300年とされています。
囲炉裏の間
廊下の北側に囲炉裏の間があります。
鹿野苑
囲炉裏の間の庭園は「鹿野苑」と称されています。
血天井
現在の書院は文亀2年(1502)の再建とされています。
縁側の天井は「血天井」と称され、慶長5年(1600)の伏見城の戦いで
自刃して果てた徳川軍の血で染まったとされる床板が天井に張られています。
盤桓園
書院南側の庭園は「盤桓園(ばんかんえん)」と称されています。
盤桓園には「立ち去りがたい」という意味があり、書院の柱や鴨居を額に見立てて
鑑賞することから、「額縁庭園」とも呼ばれています。
五葉の松-1
樹齢約700年とされる「五葉の松」は近江富士を象ったとされ、
樹高11m、枝張り南北11.5m、東西14mで、樹冠は、ほぼ扇形とされていました。
五葉の松-切断
しかし、中央の一番大きな幹とその左側が松喰い虫の被害で痛々しい姿となり、
数本の枝が伐採されていました。
水琴窟
書院の西側には手水鉢に水琴窟が作られ、「理智不二」と称されています。
「サヌカイト」と称される美しい音が出る石が使用された二連式の珍しい構造で、
密教の教理を音色で伝えるものとされています。

宝泉院の拝観料800円は茶菓付で、書院にて盤桓園を愛でながら
一服の抹茶を楽しむことが出来ます。
書院を後にして宝楽園へ向かいます。
宝楽園-途切れた橋
宝楽園は、仏神岩組雲海流水回遊花庭で、
平成17年(2005)に庭園作家の園治(えんや)により造園されました。
地球太古の創世に遡り、その原初の海を想像して作庭されています。

白川砂は海流水が、奥に見える石は蓬莱山が表されています。
手前の石橋は、仙人が住む世界の橋なので途切れています?。
宝楽園-龍門瀑
奥に見えるのが「龍門瀑(りゅうもんばく)」で、石橋の下に見えるのが
「水分石(みくまりいし)」です。
宝楽園-石橋
凡人が渡れる石橋も用意されています。
宝楽園-宝船石
宝船石
宝楽園-参道
参道は奥へ続きます。
宝楽園には台付花桃、各種桜や梅、など花を咲かせる木や楓などの
紅葉が美しい木などが植栽されていますが、今はまだ緑のみです。
宝楽園-三尊石
三尊石が配された島があります。
阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊石は念珠石(海石)が用いられ、
来迎の姿が表されています。
盛り砂
島の両側には盛砂されて、神聖な島であることが表されています。
宝楽園-手水鉢
手水鉢
宝楽園-手水鉢からの三尊石
手水で身を清めて三尊を拝するためのものと思われます。
宝楽園-鎮守社
鎮守社も祀られています。

実行院へ向かいます。
続く

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