カテゴリ:京都市 > 京都市左京区南部(下賀茂神社・銀閣寺~南禅寺周辺)

京大
京阪電車の出町柳駅から東へ進むと今出川通りと合流し、直ぐその先で東大路通りと
交差します。
交差点には「百万遍」と記され、その名は百万遍知恩寺に由来します。
交差点の南東側は京都大学です。
総門
交差点から東へ直ぐの所に百万遍知恩寺の総門があります。
出町柳駅から百万遍知恩寺まで歩いても10分足らずです。
寛文2年(1662)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
現在地に移転する前の寺町にあった時からの総門で、
類焼を免れ、現在地に移築されました。
百万遍知恩寺は山号を「長徳山」、院号を「功徳院」と号する浄土宗の本山で、
法然上人二十五霊跡の第22番札所です。
境内は広く、毎月450店以上が出店する手づくり市や10月末~11月3日には
古書まつりが行われ、古書法要が営まれています。
百万遍念仏
山門脇に「百万遍念仏根本道場」の碑が建っています。
元弘元年/元徳3年(1331)に京都で疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により
第8世・善阿空円(ぜんなくうえん)が御所にこもり七日七夜の念仏を修しました。
すると疫病が鎮まり、その念仏が百万遍に及んだことから、
「百万遍」の号と弘法大師筆の「大利剣名号」の軸及び五百四十顆(つぶ)の
大きな念珠が下賜されました。
以来、諸祈願の際には「大利剣名号」を掲げ、輪になって念仏を称えながら
大念珠を繰る「百万遍大念珠繰り」が修せられ、それが全国に広まりました。
御影堂
門をくぐると正面に御影堂があります。
宝暦6年(1756)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
堂内の須弥壇上宮殿に本尊の法然上人坐像が安置されています。
大永3年(1523)の作で、像内部には知恩寺2世・源智により「法然上人御骨」と
記された包紙に法然上人の遺骨と遺髪が納められています。
また、西脇檀の厨子内に安置されている像高98.9cmの阿弥陀如来立像は
快慶作との可能性が指摘されています。
釈迦堂
御影堂の手前、右側に釈迦堂があり、百万遍知恩寺の本堂となります。
現在の釈迦堂は寛文4年(1664)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
百万遍知恩寺は、平安時代前期に慈覚大師円仁皇円阿闍梨の住房である
延暦寺東塔・功徳院の里坊として創建しました。
賀茂社(賀茂御祖神社=下鴨神社)との関わりが深く、神宮寺として、
現在の相国寺付近にありました。
慈覚大師円仁作と伝わる丈六(約4.85m、坐像は約2.43m)の釈迦如来坐像が
安置され、「賀茂の河原屋」とも「賀茂の釈迦堂」とも呼ばれました。

法然上人は天養2年(1145)に比叡山に登り、久安3年(1147)に皇円の下で得度し、
第48世天台座主・行玄を戒師として受戒しました。
比叡山で修行を行っていた法然上人は、承安5年(1175)に浄土宗を開こうと考え、
比叡山を下って岡崎に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を開きました。
また、賀茂の神職に招かれ、度々賀茂の河原屋を訪れ、
一時そこに住したとも伝わります。
建暦2年(1212)1月25日に法然上人が入滅されると、
弟子の勢観房源智(せいかんぼうげんち:1183~1239)は賀茂の河原屋をついで
「功徳院知恩寺」と改め、法然上人の御影を安置して
法然上人を勧請開山第一世としました。
源智は師の恩に報いるためには「恩」を「知」らなければならないと、
「知恩寺」と名付けたと伝えられています。

建治2年(1276)に紫野門徒が鎮西義に吸収される形で合流し、
紫野門徒の拠点であった知恩寺が加わったことにより、知恩院を拠点とした鎮西義は
勢力を拡大しました。
弘和2年/永徳2年(1382)に相国寺が建立されるに当たり、
一条小川(現在の上京区油小路通一条上る元百万遍町)に移転しました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、文明11年(1479)に本堂が再建されますが、
永正5年(1508)の大内義興(おおうち よしおき:1477~1529))と
三好之長(みよし ゆきなが:1458~1520)の合戦で再び焼失しました。
永正16年(1519)に室町幕府により再建され、翌永正17年(1520)に幕府の管領・
細川高国(1484~1531)に捕らえられた三好之長が当寺で自刃させられました。

天文5年(1536)に天文法華の乱で焼失し、文禄元年(1592)には
豊臣秀吉の寺地替えにより現在の梨木神社付近に移転させられました。
寛文元年(1661)に焼失後、翌寛文2年(1662)に第39世・光誉萬霊上人によって
現在地に移転して再興されました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で賀茂御祖神社の神宮寺の立場を離れました。
令和元年(2019)に知恩院や三時知恩寺との混同を避けるため、
「百萬遍知恩寺」を法人名としました。

現在の本尊は寛文4年(1664)に光誉上人によって再興され、
一部に平安時代のものが残されています。
釈迦堂-扁額
釈迦堂に掲げられている扁額「知恩寺」は第104代・後柏原天皇の宸筆です。
圓光大師記念塔
釈迦堂の左斜め前に建つ塔は「圓光大師(法然上人)七百年記念塔」と
刻まれています。
猫間塚
釈迦堂の前、阿弥陀経石の奥側に猫間中納言藤原清隆の墓である猫間塚があります。
藤原清隆(ふじわら の きよたか1091~1162)は第74代・鳥羽天皇の乳母父と
なったことから晩年に破格の昇進を遂げました。
また、有力諸家に娘を嫁がせて縁戚関係を構築したのですが、
なぜ「猫間中納言」と呼ばれるのかについては不明です。
阿弥陀経石-表側
その前に阿弥陀経石があります。
宗像大社(福岡県)にある阿弥陀経石(重要文化財)を、
正徳4年(1714)に模刻したもので、原碑とほとんど同じ形状・大きさです。
宗像大社にある原碑は、平重盛(たいら の しげもり=清盛の嫡男)が
宋へ砂金を送り、その返礼として重盛没後の建久9年(1198)に日本へ送られ
宗像大社へ届きました。
しかし平氏は滅亡していたため京都へは送られず、宗像大社近くに安置され、
寛文2年(1662)に神社へ移されました。
この阿弥陀経石には、中国・襄陽(じょうよう)の龍興寺(りゅうこうじ)にある
石刻阿弥陀経に基づく本文が刻まれ、日本に伝わっていた阿弥陀経と比べ
21字多く、珍重されました。
しかし、その21字は『阿弥陀経』には見当たらず、前人が註釈した文を
後年そのまま誤って本文の中に加筆されたものと推定されています。
阿弥陀経石-裏側
裏側は阿弥陀如来像が彫られています。
仏足石
仏足石
地蔵菩薩の碑
その南側に建つ碑には六地蔵が線で描かれ、その横に
 『現在未来天人衆(げんじみらいてんにんしゅう) 吾今慇懃付属汝
(ごこんおんごんふぞくにょ) 以大神通方便力(いだいじんつうほうべんりき)、
勿令堕在諸悪趣(もつりょうだざいしょあくしゅ)』と刻字されています。
『地蔵菩薩本願功徳経』の一説で
「現在と未来の天人達に、我、今、教えを伝えるよう汝に託す。偉大な力によって、
すぐれた教化をし、もろもろの悪業の報いによって迷いの世界へ落ちたものを
救われるであろう。」との意味になります。
勢至堂
釈迦堂の北側に勢至堂があります。
寛文14年(1731)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
堂内には勢至菩薩(せいしぼさつ)像が安置されています。
勢至菩薩は、火途・血途・刀途の三途、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って
救い、その亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされています。
法然上人は幼名を「勢至丸」と称し、「智慧第一の法然坊」と讃えられて
弟子の親鸞上人は勢至菩薩は法然上人の本地仏であると述べています。
納骨堂
北側には納骨堂があります。

納骨堂-扁額
「倶會一處(くえいっしょ)」の扁額が掲げられ、『阿弥陀経』から引かれた言葉で、
「倶(とも)に一つの処(ところ)で会する」と訳され、阿弥陀如来の極楽浄土で
浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味になります。

納骨堂から北へ進むと墓地があり、第111代・後西天皇皇女の香久宮、
満宮(みつのみや)、涼月院の墓があります。

更にその北側に圓光大師(法然上人)御廟があります。
享保16年(1731)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
開山・法然上人と2世・源智上人登石が覆われています。

御廟を中心とした歴代墓地の入口には「念」の字をかたどった念字門があります。
鳥居のような結界の意味があるそうです。
本坊玄関
御影堂の北側に本坊の玄関があります。
大方丈の東側に枯山水の庭園があり、大方丈の北側に茶室・眺叡軒があります。
庫裡
西側に庫裡があります。
経蔵
御影堂の西側にあるのは経蔵でしょうか?
弁財天社
その南側に弁財天社があり、百萬弁財天が祀られています。
鎮守堂
弁財天社の南側に寛文2年(1662)に再建された加茂明神鎮守堂があります。
賀茂社の神宮寺であったこと名残で、賀茂明神の本地仏である、虚空蔵菩薩、
如意輪観音、荼枳尼天が祀られています。
鐘楼
その南側に元禄16年(1703)に再建された鐘楼があります。
梵鐘
梵鐘も同年に鋳造された朝鮮様式の珍しいもので、鐘を吊るす部分である
龍頭の横に筒状の音が抜けるめの工夫があり、音色を良くしています。
また、他の和鐘では見られない瑞雲や仏の模様が刻まれています。

画像はありませんが鐘楼から西側へ進んだ所に西門があります。
正徳元年(1711)に建立され、かってはこちらが百万遍知恩寺の正門で、
南向きに建っていたそうです。
阿弥陀堂
総門を入った左側に阿弥陀堂があります。
天保3年(1832)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
堂内には阿弥陀如来坐像が安置され、来迎壁の裏には宮中御用絵師・
土佐光孚(とさ みつざね/とさ みつた:1780~1852)による
騎獅の文殊菩薩が描かれています。
地蔵菩薩立像
阿弥陀堂の南側に地蔵菩薩の石像が祀られています。
吉祥前
その南側には鳥居が建ち、社殿のようなものがありますが、
詳細は不明で、その前の石灯籠には「吉祥前」と刻まれています。

八神社へ向かいます。
続く
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後二条天皇陵-1
百萬遍知恩寺から今出川通りを東へ進むと北側に
第94代・後二条天皇(1285~1308)の北白川陵があります。
後二条天皇陵-2
後二条天皇は、第91代・後宇多天皇の第一皇子で、伏見天皇・後伏見天皇と
持明院統の天皇が2代連続したため、祖父・亀山法皇による幕府への強い働きかけ
があって、大覚寺統の後二条天皇の即位が実現しました。
正安3年(1301)3月24日に即位したのですが、徳治3年(1308)8月25日に病を患い、
在位後7年にして崩御されました。
後二条皇子墓
西側には後二条天皇の第一皇子・邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう:
1300~1326)の墓があります。
親王が9歳の時に後二条天皇が崩御されました。
第95代天皇として持明院統の花園天皇が即位し、本来ならば邦良親王が立太子される
はずでしたが、幼いことを理由に第96代天皇には大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、
その皇太子となりました。
大覚寺統の天皇が2代連続することになりますが、大覚寺統・持明院統間の
皇位移譲約束である10年より短い7年で後二条天皇が崩御されたための
配慮がありました。
しかし、親王には持病があったとされ、譲位されることなく
正中3年3月20日(1326年4月23日)に薨去されました。
北白川地蔵
更に今出川通りを東へ進むと、左へ斜め方向に分岐する道路があり、その角に
地蔵尊が祀られています。
古くから開かれていた山中越を経て近江への志賀越道に面し、
白川村の入口でもありました。
子安観音
隣接して像高2mの大きな石仏が祀られています。
「子安観音」と称され、鎌倉時代中期の作とされていますが、
顔は普通の人間の顔のようです。
天正15年(1587)、豊臣秀吉は平安京内裏の跡地に政庁兼邸宅として聚楽第を
建立しました。
秀吉はこの石仏を気に入り、聚楽第の庭に運び入れました。
しかし、夜になると白川に戻りたいと勝手に動き、
それを阻止するために首が切り落とされたと伝わり、現在地に戻されました。
その真偽は定かではありませんが、顔は近年に彫り直されたそうです。
また、白川女(しらかわめ)はこの石仏に花を供えて商いに出るのが習わしでした。
白川女は、平安時代に切り立ての草花を頭上に載せて内裏に献上したことが
起源とされ、この辺りに住んでいた女性が、四季の草花を頭上に載せて
京都市内を売り歩いていました。
大文字山
今出川通りを東へ進むと正面には大文字山が迫り、
その先で白川通りと交差して銀閣寺道へと入ります。
哲学の道
横には琵琶湖疎水の分流が流れ、この疎水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれています。
冷泉通若王子橋を南端とする約1.5kmの散歩道で、元は明治23年(1890)に完成した
琵琶湖疏水の管理用道路でした。
その頃、この地には文人が多く住むようになり「文人の道」と称され、
大正2年(1913)に京都帝国大学の教授となった日本を代表する哲学者・
西田幾多郎(にしだ きたろう:1870~1945)らが好んで散策するようになり、
「哲学の小径」・「散策の道」・「思索の道」・「疏水の小径」などと
呼ばれるようになりました。
昭和47年(1972)に地元住民が保存運動を進めるに際し、「哲学の道」と定められ、
現在は「日本の道100選」に選定されています。
白沙村荘
東へ進むと南側に白沙村荘(はくさそんそう)があります。
日本画家の橋本関雪(1883~1945)が大正3年(1914)頃から造営を始め、、
自身の理想郷とする建物や庭園を自ら設計して半生をかけて完成させたものです。
かなり以前に訪れた時、庭園の竹藪に「藪の羅漢」と呼ばれる数体の羅漢像が
安置されており、その表情が印象に残っています。
拝観料は1,300円とちょっと割高で、開館は10時からとまだ時間がありすぎなので、
今回は前を通り過ぎます。
銀閣寺総門
その先で哲学の道は南の方へ曲がってしまいますが、
直進すると銀閣寺の総門があります。
開門は3/1~11/30は8:30~5:00で12/1~2/末は9:00~4:30です。
まだ8:00なので門は閉まっています。
八神社-一の鳥居
左へ曲がり、進んだ先に八神社の鳥居が建っています。
かって、現在の銀閣寺の地には「浄土寺」と号する天台宗の寺院がありました。
浄土寺が創建された年代は不詳ですが、寛和2年(986)に第60代・醍醐天皇の
皇子である有明親王(ありあきらしんのう)の妃・藤原暁子(ふじわらの ぎょうし)
が出家し、有明親王の子・明救(みょうぐ:946~1020)が
寺に入ったとの記録が残されています。 
八神社の創建は大同年間(806~810)または延喜年間(901~923)とされ、
浄土寺の鎮守社であったと伝わります。
八神社は「八所大明神」とも称され、古くは「十禅師大明神」とも称されていました。
社務所
鳥居をくぐると左側に社務所があります。
八神社-二の鳥居
その先は石段です。
雨社
石段を登らず右奥へ進むと雨社があります。
高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。
貴船神社の祭神であり、龍の古語である龗(おかみ)から
水や雨を司る神とされています。
樹下稲荷社
石段へ戻り、登った中段に樹下稲荷社があります。
祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。
八神社-本殿と拝殿
更に石段を登ると右側に本殿、左側に拝殿があります。
八神社-拝殿
拝殿
拝殿の奥に見えるのは旧社務所でしょうか?
八神社-拝所
本殿拝所
八神社がある浄土寺村は、嘉永6年(1858)に一帯が全焼し、古文書類も焼失したため、
詳しい歴史が明らかではありません。
社頭の由緒書には「延喜5年(905)に、神祇官八神殿で祀られていた神々がこの地でも
祀られ、文明16年(1484)に八神殿が吉田神楽岡(現在の吉田神社大元宮)へ
遷座された後も、平安時代から八神殿を祭祀していた場所として引き続き
八神殿が祀られていると思われる」と記されています。
八神社-本殿
本殿
宮中八神殿で祀られていた神々が祀られています。
神産日神(かみむすびのかみ)、高御産日神(たかみむすびのかみ)、
玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)
足産日神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)
御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)

また、相殿に豊雲野神(とよくもののかみ)が祀られ、
神社ではこれを十禅師大明神としています。
十禅師大明神は平安時代~鎌倉時代に日吉大社が勢力を伸ばしたことから
祀られるようになったと由緒書には記されています。
日吉大社では、十禅師社は樹下社の旧称で、日吉大社東本宮の祭神・
大山咋神(おおやまくいのかみ)の妃・鴨玉依姫命(かもたまよりひめのみこと)が
祀られています。
日吉大社の山王祭は、大山咋神と鴨玉依姫神の結婚を再現しているとも伝わります。
行者の森
八神社から下り、大文字山の登山道の方へ向かいます。
登山口には「行者の森 大文字山参道」と刻まれた石碑が建っています。
如意ヶ嶽(にょいがたけ:標高472m)の支峰が大文字山(標高465.5m)であり、
如意ヶ嶽の山中にはかって、園城寺(三井寺)の別院であった
「如意寺」(にょいじ)がありました。
山は山岳修業の場となっていたのかもしれません。
神変大菩薩他
石碑の後方に左から「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ=役行者)」、「不動明王」、
「大日如来」の石仏が祀られています。

8体の石仏
その左側には8体の石仏が祀られています。

大文字山へは登らず、下って浄土院へ向かいます。
続く
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山門
銀閣寺の北隣に浄土院があります。
浄土院は山号を「清泰山」と号する浄土宗の寺院で、京都文殊霊場の第3番札所です。
五山送り火のひとつ「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称されています。

かって、この地には創建年代については不詳ですが、「浄土寺」と号する
天台宗の寺院がありました。
広大な寺地を有し、現在の銀閣寺や白沙村荘も浄土寺の境内であったと伝わります。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、文明14年(1482)には足利義政が
東山殿(後の銀閣寺)を造営するのに伴い、浄土寺は相国寺の西へ移され、
後に廃絶しました。
僅かに残された草堂に浄土宗の泰誉浄久(たいよ じょうきゅう)が入って
復興され、「浄土院」と改められました。
江戸時代の享保17年(1732)には随誉(ずいよ)によって堂宇が再建されています。
寺号標
寺号標には「大文字本尊安置所」と刻まれています。
毎年8月16日の五山送り火で最初に点火される大文字は、
平安時代に弘法大師が始めたとする説があります。
浄土寺が大火に見舞われた際に、本尊の阿弥陀如来が山上に飛翔して
光明を放ち、その光景を真似て実施した火を用いる儀式を、
弘法大師が大の字に改めたと伝わります。
以来、本尊はその後の火災からも被災を免れていると伝わります。
現在も浄土院が大文字山を管理し、「大文字寺」とも呼ばれています。
庫裡
門をくぐると左側に庫裡があります。
本堂
庫裡から短い石段を登った上に本堂があります。
本尊の阿弥陀如来坐像は等身大のもので、浄土寺にあった遺仏とされています。
また、脇檀に安置されている像高80cmの文殊菩薩像は獅子に乗る渡海文殊で、
二人の童子を従えています。
仏足石
本堂前には仏足石が祀られています。
観音像
本堂の向かいには観音菩薩像が祀られ、その背後に多数の観音像が奉納されています。
如意水
右側には如意水が汲み上げられています。
丹後局像-1
その右側には丹後局(高階栄子)の像が祀られています。
丹後局像-2
高階栄子(たかしな の えいし/よしこ:1151?~1216)は、「日本の楊貴妃
(ようきひ)」と例えられるほどの美貌の持ち主であったと伝わります。
後白河法皇の側近であった平業房(たいら の なりふさ:?~1180)の妻
となりますが、治承3年(1179)の治承三年の政変で伊豆に流される途中に逃亡し、
その後捕えられて平清盛により殺害されました。

後白河法皇は鳥羽殿に幽閉され、丹後局が近侍して
法皇の寵愛を受けるようになりました。
養和元年(1181)10月には法皇の皇女・覲子内親王(きんしないしんのう)を
出産しました。
同年、平清盛が没すると後白河法皇は院政を再開し、
丹後局は政治にも介入するようになりました。
平家滅亡後の文治2年(1186)からは鎌倉幕府との折衝を担い、
建久2年(1191)に覲子内親王に「宣陽門院」の院号宣下があると、
丹後局は従二位に叙されました。

建久3年(1192)に法皇が崩御され、丹後局は出家しました。
平業房の所領があった浄土寺に移り住み、「浄土寺二位」と称されました。
浄土寺には丹後局の山荘と持仏堂があったと伝わります。
童像
また、足元には童像が祀られています。

8:30になり銀閣寺が開門しました。
続く
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寺号標
銀閣寺は山号を「東山(とうざん)」、寺号を「慈照寺(じしょうじ)」と号する
相国寺の境外塔頭で、通称の「銀閣寺」で知られています。
古都京都の文化財」の構成資産としてユネスコの世界遺産に登録され、
庭園は国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
また、神仏霊場の第109番札所でもあります。
総門
現在の総門は寛政12年(1800)に建立されました。
総門手前の碑
総門の手前、右側に「銀閣寺開祖 将軍義正公近習頭(中尾城矢倉殿采配)
世継左衛門丞宗竹入道(殉死)拝領所」と刻まれた碑が建っています。

室町幕府第8代将軍・足利義政は、文明5年(1473)に子の足利義尚(よしひさ)に
将軍職を譲り、文明14年(1482)から応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した
浄土寺の跡地に山荘(東山殿)の造営を開始しました。
義政は寛正6年(1465)に現在地から南約1kmの所で山荘の造営を計画していた
とされています。
その地には戦国時代に廃寺となった南禅寺塔頭の恵雲院がありました。
しかし、応仁・文明の乱で広大な境内地の浄土寺が焼失したため、
場所を変更し、造営を始めました。
しかし、8年後の延徳2年(1490)1月に完成を待たずして
義政は他界しました。
翌2月に義政の菩提を弔うため山荘を禅寺に改め、義政の法号である慈照院に因み、
「慈照院」としましたが、翌年「慈照寺」と改められました。
開山には義政が尊敬していた故人の夢窓疎石(1275~1351)が勧請され、
相国寺の末寺となりました。

天文19年(1550)に第13代将軍・足利義輝と父で第12代将軍であった足利義晴は、
慈照寺裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始しました。
天文18年(1549)の江口の戦いで三好長慶と三好政長が戦い、政長は戦死しました。
細川晴元は政長を支援していたため、長慶の追撃を恐れ、足利義晴・義輝父子を伴い、
近江坂本に逃れました。
足利義晴・義輝父子は京都を奪回するため中尾城を築城していたのですが、
天文19年(1550)5月に義晴は病死し、義輝は同年11月に三好軍と交戦しました。
三好軍は鹿ヶ谷から北白川の一帯に火を放ち、義輝は近江堅田へ逃れました。
この兵火で慈照寺は観音殿(銀閣)と東求堂を除いて焼失し、
義政遺愛の名宝なども失われ、庭園も荒廃しました。
総門前の碑からこの頃、銀閣寺は宗竹入道が住職となっていたと思われます。

その後、天正15年(1587)に近衛前久は、住職無しの状況であった慈照寺東求堂を
別荘として隠棲しました。
近衛前久(このえ さきひさ:1536~1612)は織田信長と親交を深め、天正8年(1580)には
信長と本願寺の調停に乗り出し、顕如は石山本願寺を退去しました。
織田信長は庭園の名石を持ち去ったと伝わり、この頃かもしれません。
信長からは高い評価を得ましたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が自刃して
果てると前久は剃髪して「龍山」と号しました。
銀閣寺垣
総門をくぐると参道は直ぐ右に折れ、南へ進みます。
竹垣は「銀閣寺垣」と称され、参道の左右には生垣に優れるとして、
椿が植栽されています。
中門
更に参道は突き当たり、左に折れた先に中門があります。
寛永年間(1624~1644)に建立された杮葺き(こけらぶき)の薬医門で、
平成16年(2004)に改築されています。
門をくぐった左側に参拝受付があります。
拝観料は500円で、右側に御朱印の授与も行われていますが、
新型コロナの影響で、書置きでの対応となります。
庫裡
中門を入った左側に庫裡があります。
現在の庫裡は天保8年(1837)に再建されました。
慶長17年(1612)に近衛前久が没すると
相国寺末寺へ戻され、慶長20年(1615)には宮城丹波守豊盛による
大改修がなされました。
宮城豊盛(1555~1620)は豊臣秀吉に仕え、慶長元年(1596)に丹波守に任ぜられました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは西軍として大坂城の警護を行っていましたが、
東軍に内通していたとされ、慶長14年(1609)からは
徳川家康に仕えるようになりました。
慶長20年(1615)に宮城豊盛が普請奉行を務めて建物と庭園の大改修が行われ、
ほぼ現在の寺観に整えられました。
また、孫の豊嗣は寛永16年(1639)の父・頼久の33回忌に客殿、玄関、庫裡などの新造や
修復を行っています。
宝処関
先には寛永年間(1624~1644)に建立された「宝処関(ほうしょかん)」と
称される唐門がありますが、貴賓客用なので閉じられ、右側の通用門を使用します。
向月台
門を入ると「向月台」と称される白砂の砂盛があります。
義政の時代には無く、宮城豊盛の大改修、或いはそれ以降に造られるようになり、
それ以前は東求堂がこの辺りにあったと推定されています。
向月台と銀閣
向月台は当初、お椀を伏せたような形で、現在のように高くはなかったと伝わります。
その後、富士山のような形に仕上げられるようになり、
次第に高くなって現在では180cmだそうです。
「この上に座って月が昇るのを待っていた」というのは俗説で、
造られた正確な目的は明らかではありません。
銀閣-北前
その南西側に銀閣があります。
観音殿であり、室町期の楼閣庭園建築として現存する唯一の建造物であることから
国宝に指定されています。
長享3年(1489)3月に上棟されたのですが、その年の10月に義政は病に倒れ、
翌年1月7日の完成を見ることなく義政は他界しました。
鹿苑寺の舎利殿に金箔が張られ、「金閣」と称されたのに対し、観音殿には
銀箔は張られておらず、張られた痕跡もありません。
当初、上層は内外とも黒漆塗であったことから、月光が反射して銀色に輝いて
見えたことから「銀閣」と呼ばれたなど諸説あります。
慈照寺が「銀閣寺」と称されるようになったのは江戸時代以降とされ、
拝観料を徴収する観光寺院になったことと関係しているように思われます。

観音殿は上下二層から成り、初層は「心空殿」と称され、
書院風の造りとなっています。
東側のみに縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)と広く取られています。
手前、北側は6畳の畳敷きで、障子窓があり、その奥の白壁の部分は3畳大の板敷の
小室が南北に並び、手前に上層への階段と勝手口があります。
南側の小室には押入れがあります。

上層は「潮音閣」と称される禅宗様の仏堂風の造りで、内部は仕切りの無い
板敷きの1室です。
板壁に花頭窓(かとうまど)をしつらえ、南面と北面には
桟唐戸(からさんと)が設けられています。
創建当初は黒漆塗りで軒下には帯状模様、花柄の極彩色などが施されていました。

潮音閣の須弥壇に金色に輝く観音菩薩坐像が安置されています。
光背の背後に後補で木像洞窟(岩屋)が付けられ、
「洞中観音(どうちゅうかんのん)」とも称されています。
銀閣-南
初層の南東側に4畳大の吹き放しの広縁があり、西側は8畳大の仏間で
須弥壇の厨子内に室町時代初期作の「千種地蔵菩薩像」が安置され、
その上下左右を千体地蔵菩薩像が囲んでいます。
銀閣-鳳凰
観音殿の屋根は宝形造、杮葺で屋頂に東を向いた銅製鳳凰が置かれていますが、
古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠でした。
八幡社-鳥居
観音殿の北側奥には鳥居が建っています。
八幡社
鳥居をくぐると鎮守社の八幡社がありますが、
明治の神仏分離令以前は八神社が銀閣寺の鎮守社となっていたようです。
仙草壇
参道へ戻ると「仙草壇」があります。
仙草は中国原産の一年草で、亜熱帯の、日当たり、水はけの良い、低い海抜地で、
気温20~25℃以上の場所が栽培の適地です。
中国では暑気あたり防止、解熱の民間薬、飲料として利用され、糖尿病、高血圧、
風邪、関節炎、筋肉痛に対する治療効果があるとされています。
また、「仙草ゼリー」などとして食されているようで、織姫が地上に降りてきた時に
持参して、近くの鳳凰山に植えた草だとする伝説が残されています。
仙草壇には現在、福島県にある国指定名勝の須賀川牡丹園で育てた牡丹の苗木が
植栽されています。
「弄清亭(ろうせいてい)」の襖絵の一つに日本画家の
奥田元宋(おくだ げんそう:1912~2003)が、須賀川牡丹園の牡丹を題材に
描いた作品「薫園清韻(くんえんせいいん)」が縁だそうです。
方丈
方丈(本堂)は寛永元年(1624)に建立され、京都市の文化財に指定されています。
像高60cmで南北朝時代作とされる本尊の宝冠釈迦如来坐像が安置されています。
脇に安置されている像高55.8cmで江戸時代作の達磨大師坐像の
口には歯が見えています。
その下前に彩色の開山・夢窓疎石像が安置されています。
襖絵は与謝蕪村池大雅により描かれましたが、現在は複製が使用されています。
板戸絵
板戸の絵
方丈-扁額
正面には「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」と記された
扁額が掲げられています。
銀沙灘
方丈前の砂盛は「銀沙灘(ぎんしゃだん)」と称され、「向月台」と同じく
江戸時代以降に造られたと推定されています。
高さが35~40cmあり、砂紋は『白蛇伝』の伝説が残る中国・西湖の波紋を
表しているとされています。
方丈は月待山を見る絶好の位置にあり、銀沙灘が造られた目的は、
月待山から昇る月の光に反射にする銀沙灘の鑑賞や、
反射した光を方丈へ取り入れるためなど諸説あります。
左側に見える白壁の建物が宝処関です。
坪庭
方丈と東の東求堂(とうぐどう)とを繋ぐ廊下の前に壺庭があり、
銀閣寺形手水鉢が置かれています。
銀閣寺形手水鉢
銀閣寺形手水鉢は、側面の線状の模様から、袈裟型の手水鉢の変形と言われています。
全体は四角型ですが底部は丸い座がつけられており、
焼物の高台のようになっています。
格子市松模様で、菱形と四角模様とが交替で側面にデザインされ、
4面がそれぞれ異なります。
東求堂
東求堂は文明18年(1486)に建立され、国宝に指定されています。
「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」から名付けられました。
足利義政が持仏堂として建立し、手前(南側)のほぼ中央に仏間を設け、
須弥壇の厨子内に室町時代作で像高65cmの阿弥陀如来立像が安置されています。
また、仏間の西に室町時代作で等身大とされる
像高118㎝の義政坐像が安置されています。
文明17年(1485)頃の出家した法衣姿で、没後間もなく造立されたと推定されています。

足利義政は、第6代将軍・足利義教(あしかが よしのり:1394~1441)の五男で、
後継者の地位からは外されていました。
嘉吉元年(1441)6月24日に起こった嘉吉の乱で、父・義教が
赤松満祐(あかまつ みつすけ:1381~1441)に殺害されました。
兄の義勝(1434~1443)が9歳で第7代将軍となりましたが、在任7か月後の
嘉吉3年(1443)7月21日に病死(諸説あり)しました。
そのため次期将軍候補として選ばれたのが8歳の義政で、文安6年(1449)4月16日に
第8代将軍として就任しました。

康正元年(1455)に16歳の日野富子(1440~1496)を正室としましたが、男子が生まれず、
義政は寛正5年(1464)に浄土寺に住して浄土寺殿と呼ばれていた弟の義尋(ぎじん)を
還俗させ、義視(よしみ:1439~1491)と名乗らせ、細川勝元(1430~1473)を後見に
将軍の後継者としました。
しかし、翌寛正6年(1465)に富子は義尚(よしひさ:1465~1489)を出産し、
義尚を後継者とするようにと目論みました。
義尚の後見である山名宗全(1404~1473)や実家である日野家が義視と対立し、
これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏(しばし)、
畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発しました。

応仁の乱は文明9年(1477)までの約11年間にわたって継続し、戦場は畿内から西は
中国と四国及び九州の一部、東は東海・北陸地方にまで広がり、
京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失しました。
最終的に山名氏などの西軍は解体され、西軍に組していた義視は、
美濃の土岐成頼(とき しげより:1442~1497)のもとへ逃亡しました。
義政は文明5年(1474)に9歳の義尚に将軍職を譲りましたが、実権を握り続けたため、
義尚と富子と対立するようになりました。
義政は富子から逃れるように東山山荘の建築を本格化させますが、応仁の乱で疲弊した
庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して行われたものでした。

また、仏間には狩野正信により十僧図が描かれていましたが、
現在は失われ、白紙が張られています。

東求堂の北東の4畳半は「同仁斎」と呼ばれる書斎で、「聖人は一視して同仁」から
その名が取られています。
解体修理時に同仁斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかり、当初は室内に
炉が切られ、茶を点てていたとみられ、四畳半茶室の始まりとされています。
華道や能、連歌など多様な文化が花開いた東山文化の中心となりました。

東求堂から北に「弄清亭(ろうせいてい)」が渡り廊下で繋がれています。
弄清亭は明治28年(1895)に香席として再建されました。
かって、「泉殿」と呼ばれ、義政が聞香(もんこう)の間として使用していました。
白鶴島
東求堂の前から観音殿の前にかけて錦鏡池(きんきょうち)が広がり、
西芳寺の庭園を参考にして作庭されたと伝わります。
東求堂の前にある島は「白鶴島(はっかくとう)」と名付けられ、
島の両側に渡された石橋で、羽を広げた鶴が表されています。
大内石
大内石は大内政弘(1446~1495)の寄進によるものです。
応仁・文明の乱(1467~1477)では大内政弘は、西軍の足利義視から
左京大夫に任ぜられていました。
文明5年(1473)に山名宗全・細川勝元が相次いで病死してからも足利義視を
京都の自邸に迎え入れて戦いを継続していました。
文明8年(1476)9月に足利義政による東西和睦の要請を受諾しました。
文明9年(1477)10月に新将軍となった足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の
4か国の守護職を安堵され、後年山口県が西の京都と呼ばれる基礎を築きました。
仙人州
観音殿前の島は「仙人州」と呼ばれています。
北斗石
仙人州へは「迎仙橋」と称される石橋が架けられ、
その手前には名石「北斗石」が配されています。
流水路
池の南側から池の水が流出し、その水路には「濯錦橋(たっきんきょう)」と
称される石橋が架けられています。
洗月泉-0
池の南東方向に洗月泉があり、そこから流れ落ちた清水が錦鏡池へ引かれています。
洗月泉-2
洗月泉-その2
洗月泉-1
洗月泉の左横に展望所への参道があります。
弄清亭
参道からは木立の中に弄清亭が望めます。
弁天社
その先に弁財天が祀られています。
展望所への参道
弁財天社から向きを変え、苔に覆われた斜面を登って行きます。
漱蘚亭跡
漱蘚亭跡(そうせんていあと)があります。
江戸時代末期に山崩れにより埋没し、昭和6年(1931)に発掘されました。
相阿弥により作庭された自然の露石を利用した枯山水庭園で、西芳寺の竜淵石組を
模範に造られたとされ、室町時代の面影を残しています。
銀閣寺庭園はこの上段の庭と錦鏡池を中心とする下段の庭から成り、
国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。
お茶の井
その左側に「お茶の井」があり、義政が茶の湯で使用したとされ、
現在でも茶会に使用されています。
泉辺の石組みは当時の遺構そのままであり、茶庭の蹲踞(つくばい)の源流と
されています。
展望所
展望所からの眺望です。
かって、この付近に西芳寺の縮遠亭に倣い、超然亭が建てられていました。
手前に吉田山、その遥か奥に愛宕山が望めます。
売店
出口には土産物の売店があります。

法然院へ向かいます。
続く

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石垣
銀閣寺の総門を出た直ぐ前を南へ5分余り歩くと法然院の石垣に突き当たります。
寺号標
石垣沿いに西から南へと進んだ先に法然院への参道があります。
金毛院
参道を登ると塔頭・金毛院の門がありますが、非公開です。
金毛院は法然院を再興した忍澂和尚(にんちょう)の住坊で、「金毛老人」と
呼ばれた忍澂和尚から名付けられたと思われます。
つながる-1
山門前に平成31年(2019)にガラス造形作家・西中千人(にしなか ゆきと:1964~)に
よって作庭されたガラスアートによる枯山水の庭があり、
「つながる」と称されています。
つながる-2
「循環する命とつながっていく宇宙」が題材とされています。
つながる-3
使用済みのガラス瓶がリサイクルされ、大小20ほどが
オブジェとして配置されています。
山門
山門は市内で唯一の茅葺・数寄屋造りで、昭和(1928~1989)の初期に倒壊し、
その後復元されました。

法然院は正式には「善気山・法然院・萬無教寺」と号し、
建永元年(1206)に法然上人が弟子たちと共に六時礼讃行を修した
草庵に由来するとされています。
法然上人は天養2年(1145)に比叡山に登り、久安3年(1147)に皇円の下で得度し、
第48世天台座主・行玄を戒師として受戒しました。
比叡山で修行を行っていた法然上人は、承安5年(1175)に浄土宗を開こうと考え、
比叡山を下って岡崎に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を開きました。
建永元年(1206)に六時礼讃行を修した際、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に
院の女房たちが参加したため、後鳥羽上皇の怒りを買い、
上皇は念仏停止の断を下しました。
弟子の遵西(じゅんさい=安楽)と住蓮は女房を感化し、
出奔同然で出家させたことにより処刑されました。
法然上人は還俗して「藤井元彦」と名乗らさせられ、土佐国に流される
予定でしたが、配流途中に九条兼実の庇護により配流先は讃岐国へと変更されました。

その後、草庵は荒廃し、江戸時代になった寛永年間(1624~1643)に京極・浄教寺
住持・導念(道念)が、この地で草庵を結び、「法然院」と名付けました。
延宝8年(1680)に知恩院第38世・萬無和尚(ばんぷ/まんむ:1607~1681)により、
法然上人ゆかりのこの地に念佛道場を建立することが発願され、
弟子の忍澂和尚(にんちょう:1645~1711)によって、
現在の伽藍の基礎が築かれました。
浄土宗内の独立した一本山でしたが、昭和48年(1953)に浄土宗から独立し、
単立宗教法人となりました。
白砂壇
山門をくぐると参道の両側に白砂壇(びゃくさだん)が設けられています。
水が表され、その間を通ることにより心身を清めて浄域に入ることを意味しています。
蛇行する砂紋の中に花びらの模様が見えますが、季節によってこの模様は変化します。
鐘楼への石段
右側に鐘楼への石段がありますが、登るのは禁じられています。
鐘楼
門の外から見上げた鐘楼です。
講堂
石段の右側に講堂があります。
元は元禄7年(1694)に建立された浴室でしたが、昭和52年(1977)に内部が改装され、
現在は講堂として、講演会・個展・コンサートなどに利用されています。
放生池
参道の先に放生池があり、橋を渡ると丁字路となります。
橋を渡って山門の方を振り返りました。
丁字路
丁字路の角
十万霊塔
丁字路を右(東側)へ進むと十万霊塔が建っています。
本堂-1
塔から左に折れた左側に本堂があります。
本堂-2
延宝9年(1681)5月に客殿として建立され、
貞亨5年(1688)に佛殿と拝殿が別設されました。
本尊は阿弥陀如来坐像で、観世音菩薩と勢至菩薩を両脇侍としています。
本尊前の須弥壇上には、二十五菩薩を象徴する二十五の生花が散華されています。
地蔵菩薩像-1
本堂正面の石段上に地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵菩薩像-2
元禄3年(1690)、忍澂和尚(にんちょう)が46歳の時に、自身と等身大の
地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されました。
方丈への門
本堂の北側に方丈がありますが、門は閉じられ、カメムシが描かれています。
強烈な臭いを発するカメムシが、なぜ描かれているのかは不明です。
方丈は、元は延宝3年(1675)に建立された第111代・後西天皇皇女・
誠子内親王 (ともこないしんのう:1654~1686)の御殿でした。
内親王が薨去後の貞亨4年(1687)に移築されました。
上の間の襖絵「桐ニ竹図」は国の重要文化財に指定され、法然院の公式HPでは
狩野光信(1565~1608)の筆とされていますが、異説もあり狩野永徳の次男・孝信
(1571~1618)や光信と同じ「右京」と号した狩野時信(1642~1678)との説があります。
また、堂本印象(1891~1975)が昭和46年(1971)に描いた「新襖絵」があり、
抽象画による障壁画の数少ない例とされています。

方丈前には貞享4年(1687)頃に作庭されたと推定されている浄土庭園があり、
中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石が配置されています。
心字池があり、池中の「善気水」と呼ばれる湧水が水源になっています。
善気水は忍澂和尚が錫杖(しゃくじょう)で突いたことにより湧き出たと伝わり、
茶の湯にも用いられ、名水の一つに数えられています。
玄関
丁字路まで戻り、左(西側)へ進むと玄関があります。
法然院は毎年4/1~4/7と11/1~11/7に特別公開が行われています。
参拝したのは3/23で、方丈庭園などの画像を収めることが出来ませんでした。
庫裡
左側には庫裡があります。
経蔵
庫裡から南へ進むと経蔵があります。
元文2年(1737)に建立され、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像が
安置され、多数の経典の版木が所蔵されています。
多重石塔
経蔵の南西側に多重石塔が建っています。
十三重石塔と二重石塔が組み合わされ、大正10年(1921)に建立されました
墓地への石段
山門を出て南へ進み墓地へ向かいます。
墓地の入口には江戸時代に建立された阿育王(アショーカオウ)の塔があります。
滋賀県東近江市にある石塔寺(いしどうじ)に伝わる阿育王塔を、
江戸時代に模造したものとされています。
阿育王塔
石塔寺の伝承では、「インドのアショーカ王が仏教隆盛を願って三千世界に建立した
8万4千基の仏舎利塔のうち2基が日本に飛来し、1基は琵琶湖の湖中に沈み、
1基は近江国渡来山(わたらいやま)の山中に埋もれ、それを掘り出したもの」と
されています。
実際には奈良時代(710~794)前期頃に朝鮮半島系の渡来人によって建立されたと
みられています。
石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大で高さは7.6mあり、
国の重要文化財に指定されています。
河上肇の墓
阿育王塔の北側に河上肇夫妻の墓があります。
河上肇(1879~1946)は京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行い、
後に共産党員となって獄中生活を送りました。
有名な『貧乏物語』の他に多数の著作があり、学生時代に副読本として使用した
記憶もあります。
経塚
背後には経塚があります。
金毛塔
墓地を南へ進むと「金毛塔」と称される忍澂和尚(にんちょう)の墓があります。
忍澂は正保2年(1645)に武蔵国で生まれ、早くに両親を亡くし、9歳で出家を志して
増上寺の直伝(じきでん)のもとで修学しました。
後に萬無を師とし、師命により増上寺の林冏(りんげい)のもとで修学しました。
江ノ島の弁才天、近江浄信寺の地蔵尊、竹生島の弁才天等に参籠するなどして
修行を重ね、延宝8年(1680)に萬無の命を受けて法然院の再建を始めました。
宝永3年(1706)に建仁寺蔵『高麗版大蔵経』と『黄檗版大蔵経』との対校を
始めましたが、病を発症し正徳元年(1711)11月10日に入寂されました。
福田平八郎の墓
その手前に福田家の墓があり、左側に福田平八郎夫妻の墓があります。
福田平八郎(1892~1974)は日本画家で、大正7年(1918)に京都市立絵画専門学校
(現:京都市立芸術大学)を卒業し、後に同校の教授となりました。
谷崎潤一郎の墓‐空
その手前に谷崎潤一郎の墓があり、潤一郎の筆による
「空」と「寂」が刻まれています。
谷崎潤一郎の墓‐寂
「寂」の方にだけ塔婆が立てられていますので、こちらが潤一郎の墓かもしれません。
青春時代に好きな作家の一人でした。
今、改めて読み直すと新たな発見があるのかもしれません。

法然院には哲学者・九鬼周造(1888~1941)や昭和56年(1981)にアジアで初めて
ノーベル化学賞を受賞した福井謙一(1918~1998)などの著名人の墓があります。
総門
墓地から下ると総門があります。
圓光大師
圓光大師(法然上人)御舊(旧)跡の碑
安楽寺-山門
法然院の総門を出て南へ数分の東側に安楽寺があります。
山号を「住蓮山」と号する浄土宗の単立寺院で鎌倉時代に現在地より
東へ約1kmの山中に創建されました。
法然上人の弟子・住蓮と安楽が当地辺りを散策していた際に白鹿が現れ、
鹿に導かれて山に分け入り、
その鹿が消えた所に霊告を感じて草庵を結んだとされています。
安楽寺-浄土礼讃根元地の碑
門前には「浄土礼讃根元地」の碑が建っています。
住蓮と安楽は唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山
礼讃声明(らうさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました。
二人は音楽的才能に恵まれ、指導する浄土礼讃は大衆の多くの支持を得ました。

建永元年(1206)、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に上皇の女官・松虫と鈴虫が
夜中秘かに小御所を抜け出し、住蓮と安楽のもとで剃髪・出家しました。
この事は上皇の逆鱗に触れ、住蓮と安楽は斬首刑、法然上人は流罪となり、
以後草庵は荒廃しました。(承元の法難
承元元年(1207)に法然上人は赦免され、箕面の勝尾寺に滞在した後、
建暦元年(1211)に京都へ戻り、二人の菩提を弔うため草庵の復興を命じられ、
「住蓮山安楽寺」と名付けられました。
法然上人はその翌年の1月25日に78歳で入寂されました。
その後、天文年間(1532~1555)に現在地で本堂が再建され、復興されました。
安楽寺-拝観謝絶
山門には「拝観謝絶」と記されています。
春は4月上旬の土日(さくら)、5月上旬の土日・祝日(つつじ)、
5月下旬~6月上旬の土日(さつき)と開花に合わせて公開されています。
秋は11月全土日・祝日及び12月上旬の土日に紅葉に合わせて公開されています。
また、7月25日に「鹿ケ谷カボチャ供養」が修せられ、この日も公開されます。
江戸時代の末期、当時の住職・真空益隋(しんくう やくずい)が、
人々を病苦から救済するため、本堂で100日間の修行を行いました。
すると本尊の阿弥陀如来から「夏の土用のころに、鹿ケ谷カボチャを食べれば中風に
ならない」との霊告を受け、カボチャをふるまったのが
「鹿ケ谷カボチャ供養」始まりとされています。
江戸時代に粟田村の百姓が津軽への旅の途中で種を譲り受け、
栽培が始められて昭和30年(1955)までは盛んに収穫されていました。
その後、新品種の登場で栽培農家が減少しましたが、栄養価の高さから
見直されているようです。

本尊は像高85cmの阿弥陀如来坐像で、脇侍として左に勢至菩薩立像、
右に観音菩薩立像が安置されています。
右端に地蔵菩薩立像、左端には龍樹菩薩立像が安置されています。
龍樹(りゅうじゅ)は2世紀頃にインドに実在した僧で、サンスクリットの
「ナーガールジュナ」の漢訳名です。
大乗仏教を体系化した人物で、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』を
著し、その巻第五「易行品第九」で浄土往生の思想が強調されて
浄土教の祖ともされています。

本堂西側に安置されている「法然上人張り子像」は、上人の74歳の姿と伝わり、
上人の書簡、名号などの反古紙(ほごし)が張り合わせられています。
その左側の「親鸞聖人旅姿像」は、承元の法難で越後国国府(現、新潟県上越市)
への流罪となり、その旅での35歳の姿とされています。
住蓮坐像は合掌し、安楽坐像は右手に剃刀、左手に宝珠を載せ、
その下に松虫坐像と鈴虫坐像が安置されています。

地蔵堂に安置されている「くさの地蔵」は、平成3年(1991)の解体修理で墨蹟が
発見され、正嘉2年(1258)に慶派仏師により造立されたことが判明しました。
皮膚病の瘡(くさ=湿疹)の平癒に御利益があるとされています。

また、境内の南東側に松虫・鈴虫の、南側に住蓮と安楽の供養塔があります。

霊鑑寺へ向かいます。
続く
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