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総門
龍安寺から「きぬかけの路」を北上した所に金閣寺があります。
現在、金閣寺では令和2年(2020)12月までの予定で、舎利殿(金閣)の
屋根の葺き替え工事が行われています。
また、平成28年(2016)に金閣寺が行った通路の設置工事の場所に、
七重の塔の土台部分があったと指摘され、
府と市による合同の発掘調査が行われています。
この調査の期間は不明です。
この記事は、これらの工事や調査が行われる以前の平成30年(2018)のものです。

金閣寺は山号を「北山(ほくざん)」寺号は正式には
「鹿苑寺」と号する相国寺の境外塔頭です。
室町幕府第三代将軍・足利義満の北山山荘を、義満の死後に寺としたもので、
義満の法号・鹿苑院殿にちなんで「鹿苑寺」と称されました。
義満の法号は釈迦が初めて説法をした所・「鹿野苑」に因みます。
平成6年(1994)にはユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の
構成資産に登録されています。
神仏霊場の第93番札所でもあります。

背後に見える総門は皇居から下賜されました。
開門時間は午前9時ですが、既に数台の観光バスが駐車し、
門前には長い行列ができていました。
現在の駐車場にはかって、「北山大塔」と呼ばれる七重塔が建築されていました。
それに先立つ応永6年(1399)に義満は、相国寺に
高さ109.1mの七重塔を建立しました。
しかし、塔は応永10年(1403)に落雷により焼失し、
承応2年(1653)に後水尾上皇が大塔を再建されました。
その塔も天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、
その跡地には後水尾上皇の歯髪塚が残されるに至りました。
義満は相国寺七重塔の再建を目指し、応永11年(1404)に
この地で七重塔の建立に着工したのですが、
応永23年(1416)に完成間近の塔に落雷があり、焼失しました。
平成27年(2015)の発掘調査で相輪の破片が見つかり、推定される直径から、
現存する東寺の五重塔(全高55m/相輪直径1.6m)の相輪の
1.5~2倍の高さがあったと推定されています。
但し、東寺の五重塔の相輪の高さは不明です。
庫裡-北側
門をくぐって参道を進んだ北側に、明応・文亀年間(1492~1504)に
建立されたと推定されている庫裏があります。
昭和62年(1987)までは宿坊として使われていました。
唐門
庫裡の先に方丈への唐門があります。
鐘楼
庫裏の南側に鐘楼があり、梵鐘は鎌倉時代前期に鋳造されました。
西園寺家の家紋(巴紋)が入り、
その音色は「黄鐘調(おうじきちょう)」とされています。
兼好法師の『徒然草』第220段には以下のように記されています。
「西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、
叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。」

鎌倉時代の元仁元年(1224)、この地には藤原公経(西園寺公経)が営む
広大な山荘「北山第(きたやまだい)」が造営されました。
境内に氏寺である西園寺が建立され、その寺名から
「西園寺」と称するようになりました。
南北朝時代の建武2年(1335)、七代目・公宗(きんむね)は、
後醍醐天皇を北山第に招き、暗殺を企てましたが発覚し、処刑されました。

その後、北山第は衰微し、足利義満に譲られました。
足利義満は応永4年(1397)に荒廃していた北山第を、
改築や新築するなどして一新し、「北山殿」と称しました。
その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約され、
応永元年(1394)に子の義持に将軍職を譲った後も北山殿で政務を執っていました。
義満のための北御所、夫人・日野康子のための南御所、後円融天皇の母である
崇賢門院のための御所、金閣と二層の廊下で繋がっていた会所の天鏡閣、
泉殿など数多くの建物が建ち並んでいました。
崇賢門院の姉妹の紀良子は義満の生母になります。
義満は応永11年(1404)から明との間で勘合貿易を開始し、莫大な利益を得ました。
明の使者は度々北山殿に訪れています。
応永15年(1408)に義満が亡くなり、相国寺塔頭の鹿苑院に葬られましたが、
明治の廃仏毀釈で鹿苑院は廃寺となり、
現在では義満の墓所は定かではありません。

第4代将軍・足利義持は父・義満とは不仲で、
北山殿に住んでいた異母弟の義嗣を追放し、北山殿に入りました。
義嗣は義満から偏愛され、義満の後継者になると見られていましたが、
義満の急死により、後継者を遺言されることも無く、
将軍職は義持に引き継がれることになりました。
義嗣は応永23年(1416)に関東で起こった「上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱」に乗じて
神護寺へ出奔しましたが、乱への関与を疑われ、
応永25年(1418)に義持により殺害されました。
義持は応永16年(1409)には北山殿の一部を破却し、
祖父の2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)の住んでいた
三条坊門邸(京都市中京区)へ移り、北山殿は日野康子の居所となりました。

応永26年(1419)に日野康子が亡くなると、北山殿には舎利殿(金閣)、
護摩堂、法水院が残され、天鏡閣は南禅寺へ、寝殿は南禅院、
懺悔胴は等持寺、公卿の間は建仁寺へ移築されました。
応永27年(1420)に北山殿は義満の遺言により禅寺とされ、
夢窓疎石を開山とし、義満の法号「鹿苑院殿」から「鹿苑寺」と称されました。
方丈
拝観受付で入山料400円を納め、先へ進みます。
庫裡の東側に本堂に相当する方丈があります。
方丈は安土・桃山時代の慶長7年(1602)に建立され、
江戸時代の延宝6年(1678)に後水尾天皇の寄進により建て替えられました。
平成17年(2005)から平成19年(2007)まで解体修理が行われました。
仏間には本尊の聖観音菩薩坐像が安置されています。
方丈庭園
方丈の南側に縁があり、その前に庭園が築かれています。
陸舟の松-2
方丈の北西側の「陸舟(りくしゅう)の松」は、義満が盆栽として
育てていた松を移植し、帆掛け船の形に仕上げたと伝えられています。
金閣-南-1
金閣は応永5年(1398)に舎利殿として建立されました。
創建当初は池の中にあり、北にあった天鏡閣と空中の廊下で繋がっていました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)では西軍の陣が敷かれ、
焼失は免れましたが、二層の観音像や、三層に安置されていた
阿弥陀如来と二十五菩薩像などが失われました。
また、庭園の樹木の大半が伐採され、池の水量も減っていました。
江戸時代の慶安2年(1649)に金閣の修復が行われ、
以後「金閣寺」と呼ばれるようになりました。
昭和25年(1950)7月2日未明、学僧の放火により金閣は全焼しました。
学僧は寺の裏山で自殺を図りましたが一命を取り留め、
事情聴取のために京都に呼ばれた母親は、その帰りに保津峡で投身自殺しました。
現在の金閣は、明治37年~39年(1904~6)の解体修理の際に作成された、
旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、
昭和27年(1952)3月22日から3年を掛けて復元再建されました。
焼失前と再建された金閣には細部に若干の違いがあり、
現在は第二層にも金箔が張られていますが、焼失前には見られず、
創建時に張られていたかも不明です。
焼失前に第二層の東面と西面の中央に窓がありましたが、
再建後は東面と西面は全て壁となりました。
昭和61年(1986)2月から1年8ヶ月かけて行われた「昭和大修復」では、
総工費約7億4千万円を投じて漆の塗り替えや金箔の貼り替え、
天井画の復元等が施されました。
金箔は通常の厚さの5倍ある「五倍箔」が約20万枚使用され、
その総量は約20kgにもなったそうです。
金閣-斜め
屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂には銅製鳳凰が置かれています。
鳳凰及び「究竟頂(くっきょうちょう)」の扁額は、火災以前に
取り外されていたため焼失を免れ、鳳凰は京都市の文化財に指定されています。
現在の鳳凰は2代目で、焼失を免れた鳳凰は別に保存されています。
金閣-初層
初層は「法水院(ほっすいいん」と呼ばれ、
寝殿造りで遊芸や舟遊びができる釣殿でもありました。
金箔は張られず、素木仕上げで白壁造りとなっています。
正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、江戸時代に須弥壇が設けられ、
壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左側に義満坐像が安置されています。
義満は応永元年(1394)に将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居し、
翌年には出家して道義と号しましたが、政治上の実権は握り続けていました。
この坐像は法服をまとっています。
金閣-斜め-2
第二層は仏堂で「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれ、武家造りの仏間風で、
初層と通し柱が使われ、平面は同じ大きさになり、構造的にも一体化しています。
四方には縁と高欄が巡らされ、外面と高欄には全面に金箔が張られ、
内壁と床は黒漆塗が施されています。
西側に仏間があり、須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)、
須弥壇周囲には四天王像が安置されています。
金閣-北
第三層は後小松天皇の宸筆による「究竟頂(くっきょうちょう)」の
扁額が掲げられ、究極の極楽浄土を表しています。
初層、第二層よりも一回り小さく、禅宗様仏堂風の方3間・1室で、
天井や壁を含め内外ともに金箔が張られ、床は黒漆塗で、
内部には仏舎利が安置されています。
漱清
西側には池に張り出して「漱清(そうせい)」が設置されています。
創建時、足利義満はここで手水を使い、金閣へ上がったと伝わります。
鏡湖池-葦原島
鏡湖池(きょうこち)は、その名の通り、金閣を池に映し、
金閣を一段と際立たせています。
池にある最大の葦原島には北側と南側及び島の中に三尊石が組まれています。
鏡湖池-北側からの景色
その他にも入亀島、出亀島、鶴島などの島々や、畠山石、赤松石、細川石など、
諸大名から寄進された奇岩名石が数多く配されています。
鏡湖池-西側
2,000坪の鏡湖池を中心とした庭園全体28,000坪は、
昭和31年(1956)7月19日に国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
かっては、現在の1.5倍の広さがあったのですが、
明治の上地令により縮小されました。
鏡湖池-南側
また、寺領の多くも失われ、経済的基盤が脆弱となったことから
明治27年(1894)から庭園及び金閣を一般公開し、
拝観料を徴収して寺の収入源としました。
銀河泉
金閣の北側から参道を進んだ所に「銀河泉」と呼ばれる清水が湧き出ています。
茶を好んでいた義満はこの湧水を茶の湯に使ったとされています。
巌下水
「銀河泉」の先にある「巌下水(がんかすい)」は
義満が手水に使ったとされています。
虎渓橋
「巌下水」の先にある石段は橋ではありませんが中国の故事
「虎渓三笑」に因んで「虎渓橋」と呼ばれています。
中国・江西省北部の廬山にある東林寺に住した慧遠 (えおん) は、
客を見送る際も寺の前を流れる虎渓に架かる橋を渡りませんでした。
ある日、二人の客が訪れ、見送る時にも話に夢中になって、
気が付いた時には橋を渡っていました。
三人が大笑いしたことから「虎渓三笑」と呼ばれ、三人はそれぞれ、
仏教・儒教・道教を意味し、三教の一致を説いた逸話ともされています。
石段の左右の竹垣は「金閣寺垣」と呼ばれ、左右で組み方が異なっています。
龍門滝
「虎渓橋」の先に西園寺家の遺構である高さ2.3mの龍門滝があります。
滝の下に直立するように配された石は「鯉魚石(りぎょくせき)」と呼ばれ、
滝を登る鯉の姿を表しています。
「鯉は滝を登ると龍になる」という中国の伝説になぞらえて、中国の故事から
「登龍門」のことわざが生まれ、鯉のぼりの風習にもなりました。
「成功へといたる難しい関門を突破した」ことを意味しています。
石仏
龍門滝の先に石仏が祀られていますが、かってこの辺りに天鏡閣がありました。
天鏡閣は二層の会所で、金閣と二層の空中廊下で繋がっていたと伝わります。
また、天鏡閣の北側に泉殿が建てられていました。
安民澤
石仏から東へ坂を登った所に西園寺家の遺構である
「安民澤(あんみんたく)」と呼ばれる池があります。
池中の島には西園寺家の鎮守とされている
「白蛇の塚」と呼ばれる石塔が建っています。
白蛇は弁財天の使いとされ、水の神でもあります。
日照りが続いても池の水は枯れることが無く、雨乞いの場ともされていました。
沢-1
かっては安民澤から水が引かれていたと思われる澤の跡が残されています。
沢-2
西園寺家の時代には高さ45尺(13.6m)の滝が築かれていたと伝わります。
金閣
安民澤の南側から金閣が望めます。
夕佳亭-門
安民澤から南へ進んだ所に茶室「夕佳亭(せっかてい)」があります。
夕佳亭
江戸時代に金閣寺を復興した鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が
後水尾上皇のために、茶道・宗和流の祖である金森宗和に造らせました。
数奇屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊(こと)に佳(よ)いという
ことからこの名が付けられました。
明治元年(1868)に焼失し、現在の建物は明治7年(1874)に再建されたものです。
夕佳亭-内部
夕佳亭には「即休」の扁額が掲げられ、南天の床柱が使用されています。
夕佳亭-土間
これは何か?...不明です。
富士形手水鉢
夕佳亭の前には、室町幕府第八代将軍・ 足利義政遺愛の富士形手水鉢があります。
腰掛石
「貴人榻(きじんとう)」は昔、高貴な人が座られた腰掛石で、
室町幕府から寄進されました。
不動堂
夕佳亭から下って行った所に不動堂があります。
鎌倉時代の嘉永元年(1225)に西園寺公経(さいおんじ きんつね)によって
西園寺護摩堂として創建されたと伝わり、堂内に石不動(いわふどう)尊を
まつる石室があり、建物はその礼堂として建立されました。
その後、足利義満の北山殿の時代からは不動堂と呼ばれるようになりましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
天正年間(1573~1592)に宇喜多秀家により再建されました。
鹿苑寺に残る最古の建物でもあります。
本尊は弘法大師作と伝わる等身大の不動明王立像の石仏で、
秘仏とされ毎年2月の節分と8月16日に開扉法要(かいひほうよう)が営まれます。
荼枳尼天
不動堂の裏側には荼枳尼天を祀る祠があります。

金閣寺を出て西大路通から北大路通を東へ進み、
「千本北大路」の信号を左折して鷹峯へ向かいます。
続く

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火葬塚の札
千本北大路の交差点の北東角に第70代・後冷泉天皇の火葬塚があります。
後冷泉天皇は第69代・後朱雀天皇の第一皇子で、
諱(いみな)を親仁(ちかひと)と称しました。
万寿2年(1025)に誕生し、その2日後に
生母の東宮妃・嬉子(きし/よしこ)が薨去しました。
藤原嬉子は摂政・藤原道長の六女で、寛仁5年(1021)に兄・頼通の養女となって
皇太弟・敦良親王(あつながしんのう=後朱雀天皇)に入内しました。
万寿2年(1025)に親仁親王を出産し、その2日後に19歳で薨去されました。
火葬塚
寛徳2年(1045)に病を患い父・後朱雀天皇から譲位され、
後冷泉天皇天皇として即位しました。
頼通の一人娘・皇后としましたが、子には恵まれず、治暦4年(1068)に
在位のまま崩御され、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない
後三条天皇が即位しました。
陵は、龍安寺の裏山・朱山七陵の圓教寺陵です。
御土居の碑
千本北大路から北へ進み、直進して鷹峯街道を進むと、
左側に御土居跡があります。
御土居
御土居は豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、
外敵の来襲に備える防塁として、天正19年(1591)に築きました。
東は鴨川、北西部は紙屋川沿いで、氾濫から市街を守る堤防としても築かれ、
川は堀を兼ねていました。
土塁の内側は「洛中」、外側は「洛外」で、御土居が諸国との街道を横切る場所は
「口」と呼ばれ、「京の七口」として知られていますが、御土居の築造当時には
10箇所だったそうです。
御土居の北限は、現在地から賀茂川に架かる上賀茂神社への御園橋付近で、
当地には七口の一つ、長坂口がありました。
長坂を経て杉坂に至る丹波街道への登り口であり、古くからこの地に
しばしば関所が設けられ、重要視されてきました。
瑞芳寺-山門
更に鷹峯街道を北進すると、右側に瑞芳寺があります。
瑞芳寺は宝永3年(1706)に日達(にちだつ)により創建され、現在は鴨川の東、
仁王門通りに面して建つ日蓮宗の本山・頂妙寺の管理下にあり、
瑞芳寺は非公開です。
瑞芳寺-日達上人の墓
境内には「了義院日達上人」の墓があります。
日達上人(1647~1747)は、華厳宗の鳳潭(ほうたん)、
天台宗の霊空と共に教界の三傑と称されました。
瑞芳寺-知足庵の碑
山門の左に題目が刻まれた標石が建っていますが、
その横に「常法華経堂 知足庵」と刻字されています。
瑞芳寺-本堂
本堂
元和元年(1615)に徳川家康から鷹峯の地を拝領した本阿弥光悦は、一族や町衆、
職人などの法華宗徒仲間を率いて移住しました。
本阿弥光悦とその養子・光嵯がこの地に建立した四ヶ寺の一寺が知足庵で、
光嵯の屋敷と隣接していたと伝わります。
知足庵は、徳川政権安泰の祈祷所でもあり、明暦年間(1655~1658)に
光悦の孫・光伝が知足庵に法華堂唱道場の「知足庵真浄堂」を建立しました。
明治12年(1879)に知足庵は瑞芳寺に併合されました。
源光庵-表門
瑞芳寺の先で鷹峯街道は丁字路となり、その北側に源光庵があります。
源光庵は正式には、鷹峰山寶樹林源光庵、山号を鷹峰山(ようほうざん)と号する
曹洞宗の寺院で、「復古禅林(ふっこぜんりん)」の別称があります。
源光庵は令和元年(2019)6月から令和3年(2021)秋までの予定で、
庫裡の改修工事が行われ、現在は拝観が停止されています。
そのため、画像は表からのものしかありません。

源光庵は貞和2年(1346)に臨済宗の本山・大徳寺の第2世・徹翁義享
(てっとう ぎきょう)によって創建されました。
徹翁義享は19歳で出家し、京都建仁寺鏡堂覚円(きょうどう かくえん)や
南禅寺約翁徳倹(やくおう とくけん)に参じましたが、五山の禅風にあきたらず、
東山の雲居寺(うんごじ)に隠棲していた宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)の
門下に入り、その法を嗣ぎました。
正中元年(1324)に宗峰妙超が大徳寺を創建すると、延元2年/建武4年(1337)に
徹翁義享は宗峰の後席を継いで大徳寺に入りました。
翌年、徹翁義享は自らの居所として大徳寺の境内に徳禅寺を開創し、
源光庵は隠居所であったとされ、当初は「復古堂」と呼ばれました。
応安2年/正平24年(1369)に徹翁義享が入寂後は源光庵は荒廃し、
元禄7年(1694)に、加賀・大乗寺27代・卍山道白(まんざんどうはく)
により再興され、曹洞宗に改宗されました。
その後、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で廃された寺が合併され、
今日に至ります。
源光庵-楼門-1
表門から西へ進むと源光庵の駐車場があり、駐車場から東へ入った北側に
山門があります。
源光庵-楼門
山門には「復古禅林」の扁額が掲げられています。
日本の曹洞宗は、宋に渡った道元が中国の曹洞宗を学び、嘉禄2年(1226)に
帰国して、自らの教えを「正伝の仏法」であるとして広めました。
臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに
対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まりました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)以降は衰退していき、
僧侶の俗化が進みました。
師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、
法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつありました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、
寺院の組織化と統制が加えられ、月舟宗胡(げっしゅう そうこ)、
卍山道白(まんざんどうはく)、面山瑞方(めんざん ずいほう)らの優れた人材が出て、
嗣法(しほう)の乱れの立て直しに取り組みました。
特に卍山道白は、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)
ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する
「宗統復古運動」を展開したことから「復古禅林」と称されるようになりました。
源光庵-鐘楼
山門の手前には鐘楼があります。
源光庵-本堂
現在の本堂は、卍山禅師に帰依した金沢の富商・中田静家の寄進によって
建立されました。
本尊は釈迦牟尼佛で、脇侍として阿難尊者・迦葉尊者像が安置されています。
一説では慶応4年(1868)に廃寺となった、北白川にあった心性寺の
本尊であったとも伝わります。
また、天和元年(1681)の春、卍山禅師が宇治田原の山中で感得した
霊芝(れいし)自然の観音像とされる霊芝観世音が祀られています。
第111代・御西天皇の崇敬が厚く、宮中で供養されたことから
「開運霊芝観世音」とも称されました。
源光庵-血天井
天井には慶長5年(1600)に落城した伏見城の床板が張られ、
「血天井」と称されています。
慶長5年(1600)6月1日に徳川家康が会津征伐のために伏見から出立し、
家康の家臣・鳥居元忠らが城を守っていました。
大坂城では、7月17日に前田玄以増田長盛長束正家の三奉行が、大坂城西の丸
にいた家康の留守居役を追放し、家康に対する13か条の弾劾状を発布しました。
追放された500人は伏見城に入り、城の防衛に当たりましたが、小早川秀秋
島津義弘連合軍4万人の兵による攻撃を受け、8月1日に落城しました。
伏見城では2,300人の徳川軍が守備していましたが、
800人が討ち死にしたとされています。
また、宇治の興聖寺他、複数の寺に「血天井」が残されています。

本堂の丸窓と角窓は、「悟りの窓」と「迷いの窓」と呼ばれています。
迷いの窓の四角い形は、人間が誕生し、一生を終えるまで逃れることのできない
釈迦が説く「生」「老」「病」「死」の四苦への迷いを表しています。
悟りの窓の丸い形は、「禅と円通」の心が表されています。
ありのままの自然の姿、清らか、偏見のない姿、つまり悟りの境地を開くことが
でき、丸い形(円)は大宇宙を表現しています。

本堂裏の庭園は枯山水で、北山を借景としています。

本堂の北側に享保4年(1719)に建立された開山堂があり、
「復古堂」とも呼ばれています。
堂内には卍山禅師像が安置され、像の下には舎利が収められています。

境内の西の谷にある稚児井には伝説が残されています。
660年前に水飢饉が発生し、多くの村人が苦しんでいた際に、池に住む龍が
童子に化身して徹翁義享(てっとう ぎきょう)の夢枕に現れ、
西の谷から水が湧き出ることを告げました。
水が湧き出たことにより、多くの村人が救われたと伝わります。
遣迎院-標石
源光庵の通りを挟んだ南側に遣迎院(けんごういん)があり、
「不断念仏 根本道場 遣迎院」の碑が建っています。 
遣迎院には山号は無く、浄土真宗遣迎院派の本山で、
京都七福神・福禄寿の札所でもあります。
遣迎院-本堂
本堂
五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の一つ、九条家の祖であり、
かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある
九条兼実(くじょう かねざね)は、建久5年(1194)に自らの別邸である月輪殿
(つきのわどの)に快慶作の阿弥陀如来立像と釈迦如来立像を安置しました。
正治元年(1199)に兼実の孫・道家は証空を開山に招き、法性寺内にこの二尊を
本尊として遣迎院を創建したと伝わります。
後に天台・真言・律・浄土など四宗兼学の道場として栄えました。
宝治元年(1247)に証空は遣迎院で入寂され、三鈷寺で荼毘に付されました。
天正13年(1583)、豊臣秀吉が大仏殿を建立するに当たり、遣迎院の境内をその敷地と定

めたため、遣迎院は移転を余儀なくされました。
しかし、大仏殿の計画は中断され、結果的に遣迎院は二寺に
分断されることになりました。
一寺は当地にそのまま残され、「慈眼院」と改められましたがその後、遣迎院に
復し、浄土宗西山禅林寺派の寺として現存しています。
もう一方の寺は、廬山寺の南隣に移され天台宗の寺院となりましたが、
昭和30年(1955)に敷地を立命館大学に売却して現在地に移転し、
浄土真宗遣迎院派の本山となりました。
遣迎院-長屋門
この地はある資産家の山荘で、備中高松城の遺構である長屋門は、
山荘時代に移築されました。

本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来立像と釈迦如来立像は鎌倉時代の
仏師・快慶の作で、国の重要文化財に指定されています。
阿弥陀如来像の胎内には、七二紙からなる結縁交名(けちえんきょうみょう)などが
納められ、その記事から建久5年(1194)頃に本像造像のために畿内を中心とした地域で

結縁勧進が行われたことが判明しました。
保元の乱から治承の乱に関係した物故者の名が多く見え、この造像の背景に
源平の争乱が深く関係していると推定されます。

本尊に阿弥陀如来と釈迦如来を安置するのは、二尊院に見られるように、
唐の時代に中国浄土教の僧・善導大師が広めた
「二河白道喩(にがびゃくどうゆ)」によるものとされています。
二河白道とは無人の原野に忽然として出くわした、北に水と南に火の河で、
その中間に一筋の白道がありますが、幅は狭く常に水と火が押し寄せている光景です。
人がその場所にさしかかると、後方や南北より群賊悪獣が殺そうと迫ってきます。
河は深くて渡れず、思い切って白道を進もうとした時、東の岸より
「この道をたづねて行け」と勧める声(発遣=はっけん)が、
また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がしました。
東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘います。
しかし、一心に疑いなく進むと西岸に到達します。
白道は浄土往生を願う清浄の信心を意味し、東岸の声は娑婆世界における
釈尊の発遣(=浄土に往生せよと勧めること)の教法、西岸の声は浄土の
阿弥陀仏の本願の招喚(=浄土へ来たれと招き喚(よ)ぶこと)に喩えられています。
また、火の河は衆生の瞋憎(しんぞう=怒りと憎しみ)、
水の河は貪愛(とんない=むさぼり愛着する心)、
無人の原野は真の善知識に遇わないことの喩えです。
群賊は別解・別行(べつげべつぎょう=別の見解と別の行法をする者)、
異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根・五蘊(ごうん)・
四大(しだい)に喩えられています。
この「発遣」と「招喚=迎える」が「遣迎院」の由来となりました。

東へ進み常照寺へ向かいます。
続く

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題目標石
「鷹峯」の信号から東へ進んだ北側に常照寺があります。
常照寺は山号を寂光山と号する日蓮宗の寺院で、本阿弥光悦の養子・光嵯が
この地に建立した四ヶ寺の一寺です。
元和2年(1616)に光嵯が、身延山久遠寺の21世・日乾上人(にっけんしょうにん)を
招き、「法華の鎮所」として開創したのが始まりです。
日乾上人は「寂光山・常照寺」と名付け、
寛永4年(1627)には学寮である鷹峯檀林を開きました。
鷹峯檀林は明治5年(1872)に、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である
学制が発布されるまで続きました。
吉野門
参道を進んだ先にある朱塗りの山門は、日乾上人に帰依した二代目・吉野太夫が
寛永5年(1628)に寄進したもので、「吉野門」と呼ばれています。
現在の門は大正6年(1917)に再建されたもので、当初は二層の楼門でした。
帯塚
門を入った右側に帯塚があります。
昭和44年(1969)に「じゅらく」の創業者・伊豆蔵福治郎氏が発願主となって
建立されました。
塚石は帯の形状をした重さ6トンの四国吉野川産の自然石で、
「昭和の小堀遠州」と称えられた中根金作氏により作庭されました。
春には帯着物の供養が行われています。
吉川観方像
左側の小直衣(このうし)姿の像は、大正時代から昭和時代にかけての京都の
日本画家、版画家・吉川観方(よしかわ かんぽう)のものです。
小直衣とは、貴族の平服であった直衣(のうし/ちょくい)のやや小ぶりのもので、
狩衣(かりぎぬ)の裾に「襴(らん)」と呼ばれる、
足さばきが良いように横ぎれが付けられたものです。
吉川観方は、幼い頃から書や日本画を学び、京都市立絵画専門学校
(現・京都市立芸術大学)に入学してからは京都で初めて木版役者絵を制作しました。
大正9年(1920)に同研究科を修了し、大正11年(1922)に関西で初めて雲母摺り
大錦判の役者絵を作り、関西での新版画作家として知られるようになりました。
役者絵のほか、風景画や美人画も制作する一方で、故実研究会を創立し
浮世絵、時代風俗研究や資料収集に取り組みました。
編著書の中に、いづくら商事発刊の『帯の変遷史』などがあります。
この像は昭和54年(1979)に吉川観方氏の功績を永久に祈念するために、
仏師・江里宗平(えり そうへい)の監修で、
彫刻家の江里敏明により制作されました。
経蔵
経蔵だと思われますが定かではありません。
経蔵だとすれば、元禄9年(1696)に建立されました。
経蔵前の碑
経蔵前の碑には、日蓮聖人の言葉が記されています。
「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」
本堂
その先に受付があり、拝観志納金400円を納め、本堂へ向かいます。
現在の本堂は、創建時の講堂を改築したものとされています。
本堂-扁額
本堂に掲げられた日潮筆の扁額「旃檀林(せんだんりん)」が
講堂の名残を留めています。
中国唐代の禅僧の永嘉玄覚(ようか げんかく)の作とされる『証道歌』の
「旃檀林に雑樹無し、鬱密深沈(うつみつしんちん)として獅子のみ住す」
から取られています。
本尊は仏・法・僧の三宝を祀る三宝尊だと思われます。
一般的には中央に題目宝塔が安置されていますが、常照寺では日蓮聖人と
思われる像が安置されています。
両脇に釈迦如来・多宝如来、更にその両側に二躯の仏像が安置されています。
向かって右側は不動明王で、左側は五大明王の一躯だと思われます。
本堂で常照寺のビデオを鑑賞した後、渡り廊下で東の離れに向かいます。
廊下前の庭
廊下の北側は、枝垂桜と巨石を配して作庭されています。
離れ
こちらがその離れで、堂内には吉野太夫の掛け軸や阿弥陀如来像が
安置されていますが、撮影は禁止されています。
鬼子母神堂
本堂まで戻り、本堂から西の方へ進むと鬼子母神堂があり、三躯の鬼子母神像と
十羅刹女(じゅうらせつにょ)が祀られています。
堂内右側に行者守護の鬼形鬼子母神像、左側に子安の母形鬼子母神像、
中央には鬼面にして、足元に男女の子供を連れた、行者守護と子安の両面を意味する
双身鬼子母神像が祀られています。
十羅刹女は、元は人の精気を奪う鬼女でしたが、釈迦の説法に触れ、
鬼子母神と共に改心して法華経の諸天善神となった10柱の女性の鬼神です。
常富大菩薩
鬼子母神堂の手前、北側に常富大菩薩を祀る鎮守社があります。
亨保年間(1716~1736)に山内に度々不思議な出来事が起こり、当時学頭だった
日善上人が、ある夜学寮の智湧(ちゆう)という年老いた学僧の部屋を覗きました。
すると、一匹の白狐が一心に勉強しており、姿を見られた狐は檀林を去り、
能勢・妙見山に登って修行を重ね、常富大菩薩になったと伝わります。
檀林を去るに際して、首座(しゅざ=学長)あてに起請文(きしょうもん)と
道切請文(どうぎりしょうもん=退学届)とを書いて残され、
その末文には狐の爪の印が押されており、常照寺の霊宝として保存されています。
妙法龍神社
鎮守社の右側に妙法龍神社があります。
白馬池への門
東へ進むと、奥に門があり、下りの石段が続きます。
白馬池への碑
下った右側に白馬観音の石碑が建ち、更に右側に下ります。
白馬観音
下った所に白馬池があり、手に法華経を持ち、
白馬にまたがる観音像が祀られています。
昔、常照寺の北山で白馬に乗り、池を往来していたという伝説の仙人が
「白馬観音」として祀られています。
像は江里敏明氏によるブロンズ製で、背後の宝塔は、インド・マトューラ出土の
釈尊像後背を模して造られました。
白馬池碑
池は平成21年(2009)秋に復刻され、畔には顕彰碑が建立されています。
但し、この先は行き止まりなので、下ってきた石段を登って戻らなければなりません。
空地
門まで戻り、門の右横の短い石段を上ると空き地があります。
檀林時代、この地には30棟を超える学寮が建ち並び、数百人の学僧が13年以上も
入寮して、学業のみならず、勤行や日常の礼儀作法など厳しい「山門永則」に
定められた教育を受けていました。
現在でも5700坪の敷地が残されていますが、かっては数万坪に及んだと伝わります。
聚楽亭
聚楽亭
空き地を横切った先に茶室・聚楽亭、その東側に茶室・遺芳庵があります。
遺芳庵
遺芳庵は吉野太夫を偲んで建てられました。
遺芳庵-2
建物は東西に長く、東の端が開放されています。
遺芳庵-炉
茶窯や炉が残されています。
遺芳庵-円窓-内
壁いっぱいに切られた円窓は、吉野太夫が好んだことから
「吉野窓」と呼ばれています。
遺芳庵-円窓-外
外から見ると円窓の下部が切り取られています。
完全な円は、禅の神髄、悟りの境地、仏性の本質などを表し、
その境地には達していないことを客観的に見つめ直すように、
あえて完全な円にはされていません。
茶室への参道
参道を本堂の裏側へと戻ります。
飾瓦
飾瓦
比翼塚
本堂裏の東北側に比翼塚があります。
第14代・片岡仁左衛門が、吉野太夫と太夫を身請けして夫となった
灰屋紹益(はいやじょうえき)の二人を題材とした狂言「さくら時雨」を
演じたことから、二人の供養のため昭和46年(1971)にこの塚を建立しました。
比翼塚-紹益の歌碑
紹益の歌碑が建っています。
「都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして」
紹益の父は本阿弥光悦の甥・光益で、若くして紺灰座(こんばいや)を営む佐野家の
養子となり、家業を継ぎました。
佐野家は、紺染めに用いる灰を扱う、京の上層町衆を代表する豪商でした。
一方で、本阿弥光悦より茶の湯を学んだ他、和歌、挿花、書画、蹴鞠(難波系)、
俳諧など、当時その道の第一人者と目される門人となる知識人でもあり、
第108代・後水尾天皇や八条宮智忠親王等の皇族とも親交がありました。
寛永8年(1631)、紹益が22歳の時、後水尾天皇の実弟の関白・近衛信尋
(このえ のぶひろ)と当時26歳の吉野太夫の身請けを巡って争い、
これに勝利して太夫を妻としました。
しかし、寛永20年(1643)に太夫が亡くなり、荼毘に付されました。
紹益がその灰を飲み干し、詠んだのが上記の歌とされています。
元禄4年(1691)に紹益は82歳で亡くなり、佐野家の菩提寺である
立本寺(りゅうほんじ)に埋葬されました。
片岡仁左衛門は二人の名前を記し、この供養塔を建てました。
開山廟
塚から墓地に入ると、その中央に開山廟があり、
日乾上人の本墓である五輪塔が祀られています。
開山廟-扉
欅の扉には、珍しい「五七の花桐紋」が彫刻されており、
常照寺の寺紋にもなっています。
吉野太夫の墓
開山廟の背後に二代目・吉野太夫の墓があります。
太夫の本名は松田徳子で、慶長11年3月3日(1606年4月10日)に、
西国の武士・松田武左衛門の娘として方広寺付近で誕生しました。
7歳の時に父を亡くし、六条三筋町(後に島原に移転)の林家に、
禿(かむろ=遊女の世話をする少女)として預けられました。
14歳で太夫となり、和歌、連歌、俳諧に優れ、琴、琵琶、笙が巧みであり、
更に書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたと伝わります。
才色兼備を称えられ、国内のみならず、遠くは明国にまで名声を轟かせました。
寛永20年8月25日(1643年10月7日)に38歳で亡くなりました。
太夫を偲び、毎年4月第3日曜日に花供養が行われ、島原から太夫が参拝します。

井原西鶴の『好色一代男』には、世之介が吉野太夫との結婚を、
親族から猛反対される話が記されています。
世之介は太夫に頼まれ、「吉野に明日限りで暇を出すので、最後に花見の宴を催す」
との触れ状を出し、親戚一同を集めました。
当日、太夫は下女のみすぼらしい恰好をして親戚一同の接待を行いました。
「箏を弾き、笙をふき」「茶をしほらしく点て花を活け替え」「話題は風流事からはては
家計のやりくりの話まで」人をひきつけて離すということがない、
このような女性は親戚中探してもいないと、
離縁に対して親族から抗議の声が上がりました。
そこで、正式に祝言をあげることとなったと記されています。

光悦寺へ向かいます。
続く

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参道
常照寺から「鷹峯」の信号を超えて、更に西へ進んだ南側に光悦寺があります。
光悦寺は山号を大虚山と号する日蓮宗の寺院です。
元和元年(1615)に本阿弥光悦は、徳川家康からこの地を与えられました。
長坂道
この地には、「京の七口」の一つ、長坂口があり、長坂を経て杉坂に至る
丹波街道への登り口であり、古くからこの地にしばしば関所が設けられる
要所でもありました。
光悦寺から西へ進んだ先には、古道「長坂道」入口が残されています。
しかし、光悦一族が移り住む以前は、「辻斬り・追い剥ぎ」の出没する
物騒な土地であったの記録が残されています。
本阿弥光悦が、一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住してからは
「光悦村」と呼ばれ、東西約360m、南北約760mに及ぶ広さがありました。
光悦宅を中心に、通りには55件の屋敷が建ち並んでいたと伝わります。
光悦の没後、屋敷を寺に変えられたのが光悦寺です。
山門
参道を進むと山門があり、手前には題目標石が建っています。
鐘楼
更に参道を進んだ左側に、元禄5年(1692)に建立された茅葺の鐘楼があります。
鐘楼-梵鐘
梵鐘
庫裡
庫裡
庫裡に隣接して拝観受付があり、拝観志納金300円を納め、本堂へ向かいます。
本堂
本堂
本堂-渡廊
本堂への渡り廊下の下をくぐって順路が続きます。
広大な境内に7つの茶室が点在しています。
妙秀庵
左側に庫裡に接して茶室・妙秀庵があります。
本阿弥光悦は、近衛信尹(このえ のぶただ)、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」に
位置づけられる書家であり、陶芸、漆芸、茶の湯にも秀でていました。
茶の湯は古田織部に学び、書においても左へ斜めにずれる織部の特徴が、
光悦に影響を与えたとする説もあります。
しかし、古田織部は慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際に、
豊臣方に内通した罪で京都所司代・板倉勝重に捕えられ、切腹して果てました。
茶の湯に親しんだ光悦を偲んで、大正期(1912~1923)以降に
これらの茶室が建立されました。
巴の池
右側の「巴の池」は光悦作と伝わりますが、現在は木立の中に埋もれています。
三巴亭
池の先に大正10年(1921)に建立された三巴亭(さんぱてい)があります。
数奇屋造りで、八畳2室、水屋等からなり、北西の八畳は「光悦堂」と称され、
仏壇には光悦の木像が安置されています。
大虚庵-1
大虚庵は、光悦が鷹峯に建てた居室の名ですが、現在の建物は大正4年(1915)に、
道具商・土橋嘉兵衛の寄付により、茶道・速水流四代目・宗汲(そうきゅう)の
設計により建立されました。
大虚庵-2
大虚庵はその後、正面入口の貴人口(障子3枚立て)がにじり口に変更され、
間取りも当初の三畳台目から四畳+二台目に改造が加えられました。
大虚庵-光悦垣
大虚庵の露地を仕切る竹垣は、「光悦垣」とも
「臥牛垣(がぎゅうがき/ねうしがき)」とも呼ばれています。
矢来風に菱に組んだ組子の天端を割竹で巻いて玉縁とした光悦寺独特の垣で、
垣根の高さは親柱からなだらかなカーブを描き端部が低くなっています。
背後の山は鷲ヶ峰です。
了寂軒
了寂軒は、かっての常題目堂跡に建てられました。
田中王城の句碑
了寂軒の通りを挟んだ向かいに「山二つ かたみに時雨 光悦寺」と刻まれた
田中王城の句碑があります。
田中王城は、京都生まれの俳人で、初め正岡子規の句風を慕い、
後に高浜虚子に師事しました。
ホトトギス同人となり京都俳壇の第一人者となって、多くの門下を育てると共に
雑誌『鹿笛』を刊行しました。
昭和14年(1939)に55歳で亡くなりました。
フリーアの碑
句碑の東奥にチャールズ・ラング・フリーアの碑が建っています。
フリーア(1854~1919)は、アメリカ・デトロイト出身の実業家で、鉄道事業で
巨万の富を得、日本・中国・インドなどの美術品を収集し、
スミソニアン博物館に寄贈しました。
同博物館は、アジア専門のフリーア美術館を設立し、一般公開しています。
フリーアは、光悦に傾倒し、来日の度に光悦寺を訪れ、光悦の墓参を行ったとされ、
昭和5年(1930)にこの碑が建てられました。
本阿弥光悦の墓
碑から東へ進んだ奥に本阿弥光悦の墓があります。
光悦は、永禄元年(1558)に京都で刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする
本阿弥光二の長男として生まれました。
光悦は家業を継いだと思われますが、芸術分野でその名が残されています。
俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者となり、
後世の日本文化に大きな影響を与えました。
光悦作の白楽茶碗「不二山」や舟橋蒔絵硯箱は国宝に指定され、その他にも
楽茶碗・書籍・蒔絵硯箱など、多数の作品が国の重要文化財に指定されています。
寛永14年(1637)に80歳で当地で亡くなりました。
板倉父子供養塔
その横に京都所司代・板倉勝重と重宗父子の供養塔があります。
板倉勝重は天文14年(1545)に三河国額田郡小美村(愛知県)に生れ、
次男だったため幼少の頃に出家しました。
その後、父と長男が相次いで戦死したため、徳川家康の命で還俗して武士となり、
家督を相続しました。
慶長8年(1603)に家康が江戸幕府を開くと、従五位下・伊賀守に叙任され、
同14年(1609)には近江国・山城国に領地を加増され1万6600石余を知行、
大名に列せられました。
元和6年(1620)に長男・重宗に京都所司代の職を譲り、
寛永元年(1624)に79歳で亡くなりました。
優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら
納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と謳われました。
寛政5年(1973)に備中松山藩(岡山県高梁市)の第4代藩主・板倉勝政により
松山城下に勝重・重宗父子の霊を祀った
八重籬神社(やえがきじんじゃ)が建立されました。

重宗は30年以上にわたって所司代職を務め、承応3年(1654)に退任して江戸で幕政に
参与し、保科正之や井伊直孝ら大老と同格の発言力を持っていたとされています。
明暦2年(1656)に下総・関宿5万石を与えられて藩主となりましたが、
病に倒れ、71歳でこの世を去りました。
水原秋桜子句碑
参道へ戻り、南へ進むと「紅葉せり つらぬき立てる 松の幹」と刻まれた
水原秋桜子の句碑があります。
水原秋桜子は明治25年(1892)に東京で生まれ、医師となって昭和医学専門学校
(現・昭和大学)で初代産婦人科学教授に就任するとともに、
家業の産婦人科を継ぎ、宮内省侍医寮御用係として
多くの皇族の出産に立ち会いました。
一方で高浜虚子の影響を受けて俳句に興味を持ち、『ホトトギス』に
句を投稿するようになりました。
大正10年(1921)からは『ホトトギス』の例会に出席し、
虚子から直接の指導を受けるようになりました。
大正13年(1924)に『ホトトギス』の課題選者に就任し、後に『馬酔木(あせび)』を
主宰するようになりました。
やがて、『馬酔木』の内外で反虚子、反ホトトギスを旗印とした
新興俳句運動の流れが起こりました。
本阿弥一族の墓
南へ進んだ突き当りを西に入ると、本阿弥光嵯・光甫、
他一族の墓があります。
本阿弥光嵯は天正6年(1578)の生れで、元和9年(1623)に光悦の養子となり、
後を継いで加賀前田家に仕えました。
光瑳は、刀剣の研磨、水仕立て、拭い、磨きとすべての工程で名人と称えられ、
書においても光悦から学び、門人中随一の能筆で、
寛永14年(1637)に64歳で亡くなりました。

光甫は光嵯の子で、慶長6年(1601)に生れ、37歳の時に祖父光悦が没するまで、
茶の湯、香道、書画、陶芸、彫刻を学びました。
家業である刀剣の鑑定に優れ、工芸は光悦の遺風を継ぎました。
天和2年(1682)に82歳で亡くなりました。
前田家から光嵯に二百石、光甫に三百石が与えられています。
翹秀軒
西に進むと、かって大虚庵があった場所に翹秀軒(ぎょうしゅうけん)があります。
翹秀軒-長椅子
南側に長椅子が置かれ、座ると眼前に鷹ヶ峯と鷲ヶ峰が聳えています。
鷹ヶ峯と鷲ヶ峰
ここからは見えませんが鷲ヶ峰の北に天ケ峰があり、
これらを総称して「鷹峯三山」と称されています。
鷹ヶ峯
鷹ヶ峯
古来、この地一帯は「栗栖野(くるすの)」と呼ばれ、
その一角に高岑寺(たかがみねじ/たかみねじ)があったと伝わります。
平安時代には、代々の天皇が栗栖野に行幸し、遊猟、鷹狩に興じました。
また、鷹狩に使う鷹を捕捉できる場所としても知られ、
いつしかこの地は「高岑」から「鷹峯」へと表記されるようになりました。
本阿弥庵
翹秀軒から東へ進むと本阿弥庵があります。
本阿弥庵-待合
本阿弥庵には待合があり、茶会が催されることがあるのかもしれません。

本阿弥庵の前から下った所に騎牛庵があるようですが、閉ざされており
行くことができず、詳細は不明です。

光悦寺の通りを挟んだ北側にある圓成寺へ向かいます。
続く

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山門
光悦寺の北向かいに圓成寺があります。
圓成寺は山号を清雲山と号する日蓮宗の寺院で、
洛陽十二支妙見めぐり・亥(北北西)の札所です。

延暦13年(794)に平安京に遷都された第50代・桓武天皇は、都の四方に妙見大菩薩を、
四隅に法華経を納め、建都されたと伝わります。
天皇は正月元旦の四方拝で、妙見尊星に一年の安穏を祈られました。
北方を守護する妙見大菩薩として、かってこの地に北山霊巌寺(れいがんじ)が
あり、毎年3月3日と9月9日に御燈会が執り行われ、勅使の奉幣がありました。

霊巌寺は、入唐八家の一人・円行が承和6年(839)に帰国してから後、
勅命を受けて創建しました。
円行(799~852)は、元興寺で華厳宗の僧として得度・受戒しました。
弘仁14年(823)からは空海に師事するようになり、承和5年(838)に
入唐請益僧(にっとうしょうやくそう)となって唐に渡りました。
帰国後に四天王寺の初代別当に任ぜられています。

平安時代末期に成立したと見られる『今昔物語集』第31の第20話に
「霊巌寺の別当、巌(いわお)を砕く」の題で、
「この寺は妙見菩薩が顕現(けんげん)される所である」と記されています。
「寺の前に三町ばかり離れて巌角(いわかど)があって、
人がかがんでやっと通れるだけの穴になっていた。霊験あらたかなので、
人々はこぞって参詣し、僧房を重なるように建て並べ、繁盛このうえもなかった。」
しかし、別当は自分の利益のために巌角を壊してしまい、以後寺は荒廃したと
記されています。

日任(にっとう)上人は、霊夢を受けて寛永7年(1630)に改めて
この由緒ある妙見霊場を開き、圓成寺を開山しました。

山内の撮影が禁止されていますので、画像はありません。
諸堂配置図-図
諸堂配置図-文
諸堂配置図の円の中に妙見宮があり、
札所本尊でもある妙見大菩薩像が安置されています。
「岩戸妙見大菩薩」と呼ばれ、像高2mの石像で大きな亀の上に乗り、
右手に破邪の剣、左手に白蛇を握り、光背に北斗七星を戴く姿で、
古墳状の石室の中に鎮座されています。

妙見宮の向かって右側に白雲弁財天社、左側に七面社があります。
白雲弁財天は御所にある白雲神社から勧請されたと伝わり、
代々の住職の守護神とされています。

七面社には七面大明神(しちめんだいみょうじん)が祀られています。
山梨県の七面山山頂に住み、法華経を守護する女神とされています。

諸堂配置図の円の上、③の常富殿には常富大菩薩が祀られていると思われます。
圓成寺では当地一帯の山神であり、北山霊巌寺の地主神であったとされています。
一方、常照寺では学僧に化けた白狐が正体を見破られ、
能勢・妙見山に登って修行を重ね、常富大菩薩となったと伝わります。

諸堂配置図の常富殿の上、④の巌門の滝は「常富光出の滝」とも呼ばれています。
巌門の滝-1
圓成寺の北方に霊巌寺の巌角の一部とされる岩が残されています。
府道31号線開通のために岩が削られたと推定されます。
巌門の滝-2
府道の下にも岩が続き、岩と岩の間は現在は水が乏しですが滝があり、
その滝に常富大菩薩が出現したと伝わります。
圓成寺を開いた日任上人がその滝の水を導いたとされています。

鷹峯から下り、今宮神社へ向かいます。

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