カテゴリ:京都市 > 京都市上京区-東部

南門
西園寺から南へ進み、その先の四つ角を西へ進んだ所に上御霊神社の南門があります。
伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられています。
上御霊神社は、正式には「御靈神社」で、神仏霊場の第100番札所です。
平安京に遷都された延暦13年(794)の5月に、早良親王(崇道天皇)の御霊を
この地に祀ったのが上御霊神社の始まりとされています。
また、この地にあった出雲氏の氏寺・上出雲寺(かみいずもでら)の鎮守社を
第50代・桓武天皇の御願により王城守護の鎮守社としたのが、
始まりとする説もあります。

桓武天皇が建設途中だった長岡京から遷都するには訳がありました。
延暦4年(785)、長岡京造営の責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、
その事件に天皇の弟の早良(さわら)親王が関与したとされ、
乙訓寺に監禁されましたが、無実を訴えて絶食しました。
後に流罪処分となり、淡路国へ配流される途中に
河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死しました。
その後、疫病が流行して母の高野新笠(にいがさ)と妃の藤原旅子
藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)が病死する一方で、洪水が発生するなど、
災難が相次ぎました。
桓武天皇はそれらは早良親王の祟りであるとして、幾度か鎮魂の儀式が執り行い、
更に平安京へと遷都し、崇道天皇の神霊を祀ったのが
上御霊神社の始りとされています。は延暦19年(800)に「崇道天皇」と追号され、
延暦24年(805)には親王の遺骸が淡路島から
奈良市八島町の崇道天皇陵へ移葬されました。
その後、第54代・任明天皇(にんみょうてんのう/在位:833~850)、
第56代・清和天皇(在位:858~876)により不運の死を遂げた
5人の神霊が祭神として追祀されました。
貞観5年(863)には宮中・神泉苑において、以上の六座の神座を設け悪疫退散の
御霊会を勅修されました。
御霊会は民衆の参加が許され、歌舞音曲や踊りなどが行われ、
後に各地の寺社で同様の行事が開催されるようになりました。
京都の夏祭りの多くは御霊会ですが、上御霊神社の祭礼がその発祥とされています。

その後、第54代・任明天皇により下御霊神社が創建され、下御霊神社を
「下出雲寺御霊堂」、上御霊神社は「上出雲寺御霊堂」と称されました。
御車舎
門を入ると左側(西側)に平成27年(2015)に修復された御車舎があります。
収蔵されている御所車(御牛車)は、慶長年間(1596~1645)に
第107代・後陽成天皇から寄進されたものです。
毎年5月1日の神幸祭(社頭之儀)、5月18日の還幸祭(渡御之儀)で、
御所車は三基の神輿を先導します。
御霊合戦旧跡
その右側には「応仁の乱発端 御霊合戦旧跡」の碑が建っています。
文字は細川勝元の末裔で細川護熙(ほそかわ もりひろ)元総理の
揮毫によるものです。

室町時代の文正2年1月18日(1467年2月22日)、家督相続により明け渡しを
求められた畠山政長は自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社に陣を敷きました。
当時、御霊の森は現在の2倍の面積があり、竹林に囲まれ、西には細川が流れ、
南には相国寺の堀がありました。
一方、千本地蔵院に陣取っていた畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、
大軍を率いて出兵して政長を攻撃(御霊合戦)、戦いは夕刻まで続き、
夜半に政長は社に火をかけ、自害を装って逃走しました。
畠山家の家督争いに端を発して、足利義視(あしかが よしみ)・
細川勝元の勢力(東軍)と、足利義尚山名宗全(西軍)の勢力の争いへと
発展しました。
この騒乱は文明9年(1477)までの約11年間に渡り全国的に拡大・継続し、
主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。
絵馬舎
参道を進むと左側に絵馬舎があります。
江戸時代中期の宝暦年中(1751~1764)に内裏・賢所権殿が下賜され、改築されました。
皆川淇園(みながわきえん)・小林雪山等著名絵師の作品が掲げられています。
拝殿
正面には拝殿があります。
御霊神は至徳元年/元中元年(1384)に正一位の神階を授けられました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後は足利氏によって再建され、
天正年間(1573~1592)の社殿修造に際しては内侍所仮殿が下賜されました。
本殿
現在の本殿は昭和45年970)に再建されましたが、享保18年(1733)に寄進された
内裏・賢所御殿の遺構を復原したものです。
本殿-2
祭神は当初の早良親王(崇道天皇)に、伊予親王・藤原夫人(藤原吉子)・
橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文室宮田麻呂)・観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)が
併祭され、「六所御霊」と呼ばれました。
後に伊予親王・観察使に代わって井上大皇后(井上内親王)・他戸親王が祀られ、
新たに火雷神と吉備聖霊(吉備大臣)が併祭され、
「八所御霊」と呼ばれるようになりました。
現在の祭神
●崇道天皇:上述

●藤原吉子(ふじわら の よしこ:?~807):第50代・桓武天皇の夫人で
伊予親王(783?~807)を生みました。
伊予親王は、大同2年(807)に異母兄の第51代・平城天皇(へいぜいてんのう/
在位:806~809)に対する謀反の疑いをかけられ、母の藤原吉子と共に
川原寺の一室に幽閉され、飲食を止められました。
同年、伊予親王と藤原吉子は服毒自殺しましたが、後に親王は無実とされました。
弘仁14年(823)、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされ、
「藤原大夫人」と尊称されました。

橘逸勢(たちばな の はやなり:782?~842):書に秀で空海・嵯峨天皇と共に
「三筆」と称され、延暦23年(804)には最澄・空海らと共に
遣唐使として唐へ渡りました。
大同元年(806)に帰国後は、琴と書の第一人者となり、承和7年(840)に但馬権守に
任ぜらましたが、老いと病により出仕せず、静かに暮らしていました。
しかし、承和9年(842)、嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に
皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)の東国への移送を画策し謀反を
企てているとの疑いで、伴健岑(とも の こわみね)とともに捕縛されました。
逸勢は流罪となり、伊豆への護送途中で病死しましたが、
死後に無実であったことが判明し、無罪となりました。

文室 宮田麻呂(ふんや の みやたまろ:生没年不詳):承和10年(843)には
散位従五位上の官位でしたが、従者から謀反を図っているとの告発があり、
伊豆へ流罪となり、配所で没したとされています。
死後に無罪であったことが判明しました。

井上大皇后(いのえのおおひきさき:717~775)と
他戸親王(おさべしんのう:761~775):井上大皇后は第45代・聖武天皇の
第1皇女で、後に第49代・光仁天皇の皇后となりました。
天平宝字5年(761)、45歳で他戸親王を出産したとの記述がありますが、
当時としては極めてまれな高齢出産となるため、異説もあります。
光仁天皇が宝亀元年(770)に即位すると、宝亀2年(771)に他戸親王は
皇太子となりましたが、宝亀3年(772)に皇后が天皇を呪詛(じゅそ=呪う)したとして
皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。
更には宝亀4年(773)に薨去した光仁天皇の同母姉・難波内親王も皇后と皇太子の
呪詛による殺害とされ、二人は庶人に落とされて幽閉されました。
宝亀6年(775)4月27日、幽閉先で二人は同日に没し、その後は天変地異が相次ぎました。

●火雷神:延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
都では落雷などの災害が相次いで起こったことから、道真を火雷神とする説も
ありますが、上御霊神社では火雷神は六所御霊の荒魂とされています。

●吉備聖霊:上御霊神社では吉備真備(きび の まきび:695~775)とされています。
吉備真備は、養老元年(717)に阿倍仲麻呂玄昉(げんぼう)らと共に
遣唐留学生として唐へ渡りました。
18年間唐で学び、天平7年(735)に帰国後は第45代・聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、
橘諸兄(たちばな の もろえ:684~757)政権の担い手として出世しました。
しかし、天平12年(740)に藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと、
乱を起こしました。(藤原広嗣の乱
この乱は失敗に終わりましたが、第46代・孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750)に
藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷されました。
天平勝宝3年(751)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752)に再度入唐し、
翌年の天平勝宝5年(753)に、鑑真と共に帰国しました。
帰国後も真備は中央政界での活躍は許されませんでしたが、天平宝字8年(764)に
造東大寺長官に任ぜられ帰京しました。
更に同年9月に孝謙太上天皇と太上天皇が寵愛する僧・道鏡と藤原仲麻呂が対立し、
軍事力で政権を奪取しようと兵を集めました。(藤原仲麻呂の乱
しかし、密告され、藤原仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出しました。
吉備真備は仲麻呂の誅伐を命じられ、これを果たしました。
第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう/在位:733~765)は、廃位されて
淡路国への流罪となり、代わって孝謙太上天皇が第48代・称徳天皇(在位:764~770)
として重祚(ちょうそ)しました。
吉備真備は優れた軍略により乱鎮圧の功を挙げたことにより、
従二位・右大臣へと昇進しました。

真備は、共に唐へ渡った阿倍仲麻呂が、船の難破により唐へ戻され、
日本へ帰れなかったことから、真備が唐から持ち帰った陰陽道の聖典
金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』を仲麻呂の子孫に伝えたとされています。
阿倍仲麻呂一族の子孫とされる安倍晴明は、『金烏玉兎集』を
陰陽道の秘伝書として用いたと伝わります。
また、玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとして、
真備は日本の陰陽道の祖とされています。
清明心の像
本殿の右側に「清明心の像」が建立されています。
中国・宋代の学者・司馬 光(しば こう)が幼少の頃、数人の子供達と満水の
大甕の周辺で遊んでいたところ、一人が甕に登り、
誤って水中に落ちてしまいました。
司馬 光は傍らにあった大石で甕を割って子供を助けたという故事を
像にしたもので、国際児童年(1979)にあたり、生命の尊重と子供達の健やかな
成長を祈って建立されました。
稲荷社-1
境内の南東側に福寿稲荷神社があります。
稲荷社-2
稲荷神が祀られています。
神輿庫
その北側に神輿庫があり、三基の神輿が収納されています
文禄4年(1595)に第107代・後陽成天皇及び元和5年(1619)に第108代・後水尾天皇から
寄進され、もう一基は明治10年(1877)に元貴船社から奉納されました。
天皇から寄進された神輿は、後陽成天皇前の第106代・正親町天皇と後水尾天皇前の
第107代・後陽成天皇が使用されていた鳳輦(ほうれん)を神輿に造り替えたもので、
元貴船社から奉納された神輿は江戸時代の中期に造られました。
神明神社-1
本殿の裏に当たる所に神明神社があります。
神明神社-2
天照大御神が祀られています。
厳島神社
境内の北東側に厳島神社があり、宗像三女神が祀られています。
石灯籠
その東側に建つ石灯籠。
長宮三十社
厳島神社の西側に長宮三十社があります。
春原社、荒神社、稲葉神社、今宮神社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀神社、
厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、
吉田神社、日吉神社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、
大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、上賀茂神社、下鴨神社の
相殿となります。
末社の相殿
その西側に末社の相殿があります。
花御所八幡宮
西側には花御所八幡宮があります。
花の御所は、室町幕府・三代将軍・足利義満が造営したとされ、
その敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、
北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町の場所で、
「室町第」とも呼ばれていました。
庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を
配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれました。
その鎮守として源氏の氏神である八幡神が勧請されたのが花御所八幡宮で、
応仁・文明の乱(1467~1477)の戦火で文明8年(1476)に焼失したため、
当地へ遷座されたと思われます。
新村出歌碑
拝殿からの参道の北側に広辞苑編者で有名な新村出(しんむら いずる:
1876~1967)の歌碑があります。
「上御霊のみやしろに詣でてよめる 千早振(ちはやぶる)神のみめぐみ深くして
 八十(やそ)ぢに満つる 幸を得にけり」
新村出は上御霊神社氏子・小山中溝町に住み、八十歳の誕生日に上御霊神社へ
参拝して献詠しました。
芭蕉句碑
参道を西へ進むと松尾芭蕉の句碑があります。
「半日は神を友にや年忘」
元禄3年(1690)に松尾芭蕉は向井去来(むかい きょらい)や門人と参詣し、
「年忘歌仙」を奉納しました。
西門
更に参道を西へ進むと西門があります。
寛政年間(1789~1801)に再建された楼門です。
随身-阿形
門には随身の装束をした2神像が安置されています。
阿形像
随身-吽形
吽形像
鳥居
鳥居
花御所八幡宮の碑
鳥居脇の左側に「花御所八幡宮」の碑が建っています。
応仁の乱勃発地
右側には「応仁の乱勃発地」の碑が建っています。
緒方光琳宅跡
鳥居前を北へ進んだ左側(西側)に「緒方光琳宅跡」の碑が建っています。
緒方光琳(1658~1716)は江戸時代の画家、工芸家で、京都の呉服商「雁金屋」の
次男として生まれました。
少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しみ、
呉服商に生まれたことから、当時の先端のデザインなどにも触れ、
明快で装飾的な作品を残しました。
その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、
工芸、意匠などに大きな影響を与えました。
雁金屋は徳川家など当代一流の人物を顧客としていましたが、延宝6年(1678)に
第108代・後水尾天皇の皇后である東福門院(徳川和子=とくがわ まさこ)が
崩御されてからは経営が悪化しました。
光琳が30歳の貞享4年(1687)の時に父・宗謙が他界し、相続した莫大な財産は
遊興三昧の日々を送って湯水のように使い果たしました。
この頃に「光琳」と改名し、画業に傾注して収入源としたとされています。

北へ進んだ先の鞍馬口通を西へ進み、緒方光琳の墓がある妙顕寺(みょうけんじ)へ
向かいます。
続く
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山門
上御霊神社の北の鞍馬口通を西へ進み、新町通を南下した先に東西の寺之内通があり、
これを西へ進めば妙顕寺ですが、予定を変更して新町通を更に南下し、
光照院門跡へ向かいます。
新町通を寺之内通から100m足らず南下した西側に光照院門跡があります。
山号を「佛日山」と号する浄土宗の単立寺院で「常盤御所」とも呼ばれています。
仙洞御所の碑
山門前に「持明院仙洞御所跡」の碑が建っています。
かって、この地には平安時代末期に創建された持明院(じみょういん)がありました。
藤原基頼(ふじわら の もとより:1040~1122)は、自らの邸宅内に持仏堂を建立し、
「持明院」と名付けました。
その子・通基(みちもと:1090~1148)は持明院を拡充して、寺号を
「安楽光院(安楽行院)」と改め、持明院を家の号としました。
鎌倉時代、持明院基家の娘・陳子(ちんし/のぶこ:1173~1238)は、
第80代・高倉天皇(在位:1168~1180)の第二皇子・守貞親王(1179~1223)の妃となり、
茂仁親王(とよひとしんのう=後の第86代・後堀河天皇)を出産しました。
承久3年(1221)に起こった承久の乱の後、後堀河天皇(在位:1221~1232)が即位すると、
守貞親王に「太上天皇」の尊号が贈られ、院政が行われました。
「持明院宮」と呼ばれ、後堀河上皇から光明上皇が仙洞御所として使用し、
この系統は「大覚寺統」に対して「持明院統」と称されるようになり、
その対立が後に南北朝の争いの起因の一つとなりました。

文和2年/正平8年(1353)に安楽光院は焼失して荒廃し、
その跡地に光照院が移転しました。
光照院は、南北朝時代の延文元年/正平11年(1356)に、持明院統の第93代・後伏見天皇
(在位:1298~1301)の皇女・進子内親王(生没年不詳)が22歳の時、泉涌寺の
無人如導(むにん にょどう:生没年不詳)により落飾し、「自本覚公」と称して
室町通一条北で光照院を創建しました。
33歳の時に律を基本とし天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場となりました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、第103代・後土御門天皇(在位:1464~1500)
により現在地を賜って移転し、「安楽光院」と呼ばれるようになりました。
その後、光照院へ戻され、第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の
第9皇女・尊清女王(そんせいじょおう:1613~1669)が入寺して以来、
比丘尼(びくに)御所となりました。
享保15年(1730)、「西陣焼け」と呼ばれる大火で焼失し、宝暦2年(1752)に
第115代・桜町天皇(在位:1735~1747)の寄進により復興されました。
天明8年(1788)の天明の大火での焼失後は、寛政元年(1789)に
第119代・光格天皇(在位:1780~1817)の寄進により復興され、
この時、「常盤御所」の称号を贈られたと伝わります。
明治6年(1873)に浄土宗へと改宗され、大正8年(1919)に旧桂宮御殿の一部が
移築されて宸殿などが再建されました。
常盤会館
現在の境内は駐車場へと化しています。
庫裡らしき建物も、常盤会館となっています。
古文化保存協会
北側は門は閉ざされ、公益財団・京都古文化保存協会の管理となり、普段は非公開です。
鳥居
山門を出ると北側には鳥居が建っています。

新町通を北上して寺之内通まで戻り、
西へ進んで妙顕寺(みょうけんじ)へ向かいます。
続く
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泉妙院
寺之内通を西へ進むと妙顕寺塔頭・泉妙院(せんみょういん)があります。
かって、この地には尾形家の菩提寺・興善院があり、寺の住職は代々、
尾形家より出されていました。
宝永5年(1708)に尾形光琳は嫡子を小西家へ養嗣子(ようしし)としたため、
享保元年(1716)に光琳没後には後継が途絶え、興善院は無住となりました。
その後は本行院の管理下となりましたが、天明8年(1788)の大火で焼失しました。
それに加え小西家も困窮し、文化2年(1805)に尾形家の墓は
妙顕寺の総墓所へ移されました。
尾形光琳没後100年の文化12年(1815)に酒井抱一が光琳の墓石を探しましたが
見出せず、本行院の跡にこの碑を建てました。
文政3年(1820)に本行院は泉妙院と合併し、興善院跡に再建されました。
小西家は縁談として尾形家を守り、明治41年(1908)6月に三越呉服本店は
小西得太郎と共に施主となり、昭和22年(1947)頃に小西家が絶えた後も
毎年6月2日に光琳忌法要が営まれています。
泉妙院-尾形家菩提所

また、碑には「乾山」の名が追加されています。
酒井抱一が文政6年(1823)に乾山の墓を発見したことにより、
追加して記されたと思われます。
尾形乾山(おがた けんざん:1663~1743)は光琳の6歳下の弟で、父の遺言により、
室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、
光琳と折半で譲り受けました。
遊び人で派手好きで遺産を湯水のように使い果たした光琳とは対照的に
質素な生活を送りました。
元禄2年(1689)に、仁和寺の南に茶室・如庵(じょあん)を模した習静堂を構え、
参禅や学問に励むとともに、付近に住む野々村仁清から陶芸を学びました。
37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平から
鳴滝泉谷の山荘を与えられ、ここで窯を開きました。
その場所が京の北西(乾)方角にあったことから「乾山」と号し、
多くの作品を手がけました。
作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、
乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多く残されています。
正徳2年(1712)の50歳の時に、二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、
享保16年(1731)の69歳で江戸・入谷へ移り住み、
寛保3年6月2日(1743年7月22日)に江戸で亡くなりました。
大門
更に寺之内通を西へ進むと、北側に妙顕寺(みょうけんじ)の総門があります。
山号を「具足山」、院号を「龍華院」と号する日蓮宗の大本山で、
日蓮宗京都十六本山の札所です。

日蓮聖人の遺命を受け、京都で布教していた日像上人が、元亨元年(1321)に
第96代・後醍醐天皇より寺領を賜り、現在の上京区大宮通上長者町で
創建しました。
建武元年(1334)に後醍醐天皇より綸旨を賜り、勅願寺となって、
暦応4年/興国2年(1341)には北朝の光厳上皇の院宣により、
四条櫛笥(くしげ=現・京都市下京区と中京区の境)に移転しました。
嘉慶元年(1378)には比叡山衆徒による焼き討ちにより、若狭小浜へ避難し、
明徳4年(1393)に室町幕府第3代将軍・足利義満(在職:1369~1395)の斡旋により、
三条坊門堀川(現中京区堀川御池)で再建され、寺号を「妙本寺」に改められました。
応永18年(1411)に第4代将軍・足利義持(在職:1395~1423)の祈願寺となりましたが、
応永20年(1413)には再び比叡山衆徒により寺が破却されました。
永正18年(1521)に第10代将軍・足利義稙(あしかが よしたね/在職:1490~1495/
1508~1522)の命により、二条西洞院(現・中京区)で再建され、
永正~大永年間(1504~1528)の頃に寺号を「妙顕寺」へ戻しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で伽藍を焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
天文17年(1548)に二条西洞院で再建されました。
天正12年(1584)には豊臣秀吉の命により、現在地へ移転させられ、
跡地には二条第妙顕寺城が築かれました。
小門
総門の西側に小門があり、その脇に「尾形光琳墓在此寺」の碑が建っています。
四海唱導之霊
総門へ戻り参道を進むと、左側(西側)に「勅賜宗号四海唱導之霊蹟」の
碑が建っています。
延文3年/正平13年(1358)に北朝第4代・後光厳天皇の詔により、
二世・大覚妙実(1297~1364)が祈雨修法を行い、その霊験があったとして
天皇から賜った綸旨から「四海唱導」が引用され、妙顕寺の称号となりました。
「四海」とは「世の中」の意味があり、法華経の教えに導き、
その功徳により人々を救うとの意味が込められています。
鐘楼
奥に鐘楼があります。
かって、この地には五重塔がありましたが、昭和40年(1965)に総門の東にあった
鐘楼が移されました。
梵鐘
梵鐘は正徳3年(1713)に鋳造されたもので、市の文化財に指定されています。
妙見宮
北側に妙見堂があります。
観音像
その北側には観音菩薩の石像が祀られています。
釈迦堂
西側の車道を北へ進むと西側に墓地があり、その奥に釈迦堂があります。
釈迦堂-堂内
堂内には釈迦如来坐像と千体仏が安置されています。
三菩薩堂
総門付近の参道まで戻ると、右側(東側)に三菩薩堂があります。
堂内には日蓮聖人、日朗上人、日像上人像が安置されています。
大覚妙実は、祈雨の功により、後光厳天皇から大僧正に任じられ、
日蓮聖人に大菩薩、大覚大僧正の師である日朗上人と
日像上人に菩薩の号を賜わりました。
御真骨堂
三菩薩堂の裏側に御真骨堂があり、三菩薩の舎利が納められています。
納骨堂
更にその裏側に納骨堂があります。
慶中大菩薩-1
左側(北側)に慶中大菩薩が祀られています。
慶中大菩薩-2
かって、京都御所で祀られ、御所鎮護の守護神であったとされています。
宮中に仕える女官たちから「願い事が必ず叶う」と崇敬されていました。
鬼子母神堂
三菩薩堂の北側に鬼子母神堂があり、鬼子母神が祀られています。
庫裡で拝観受付を済ますと、渡り廊下を経て、
鬼子母神堂と本堂の堂内参拝が出来ます。
鬼子母神は500人の子(一説では千人、1万人とも)の母であり、
これらの子を育てる栄養をとるため、人間の子を捕えて食べていたとされています。
それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子を
乞食(こつじき)に用いる鉢に隠しました。
鬼子母神は半狂乱となって子を探し、7日間世界中を駆け巡ったのですが見つからず、
釈迦に助けを求めました。
釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。
それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭しました。
鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、
そうすればすぐに子に会えるだろう」と答えました。
釈迦は三宝に帰依して五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教え、
子を戻された鬼子母神は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。
本堂
参道の正面には本堂があります。
妙顕寺は天明8年(1788)の大火で焼失し、その後に現在の諸堂が再建されました。
現在の本堂は天保元年(1830)に上棟され、天保10年(1839)頃に完成しました。
本堂-扁額
京都でも屈指の大きさを誇る十五間四面(27m四方)の大堂で、
「四海唱導」の扁額が掲げられています。
中央の須弥壇には「一塔両尊四士」と称される日蓮宗の基本的な祀り方による
諸仏が安置されています。
中央にお題目を大書した宝塔を建て、その左に釈迦牟尼仏、右に多宝如来を奉安し、
下段左に普賢菩薩、右に騎獅文殊菩薩像が安置されています。
宝塔下に宗祖・日蓮大菩薩、左に日像菩薩、右に日朗菩薩、日蓮大菩薩の下段に
大覚大僧正の像が安置されています。
本堂-格天井
天井には元々、狩野派による2体の龍図「二大龍王図」が描かれていましたが、
昭和50年(1975)に老朽化により天井が崩れました。
その後、修復されて格天井(ごうてんじょう)となり、
寄進された方々の家紋が描かれています。
本堂-でかまる
おりんは日蓮宗では「金丸」と呼ばれ、妙顕寺のは特別大きくて「でかまる」と
呼ばれています。
それを鳴らすための「ばい」と呼ばれる棒も大きくて重く、小さいのを用いて
脚立に登らずそっと鳴らしてみました。
梵鐘とは違う柔らかな余韻を感じることが出来ます。
イブキ
本堂前に立つ「イブキ」は区民の誇りの木に指定されています。
渡り廊下
鬼子母神堂の前から本堂への渡り廊下の下をくぐると、龍神池があります。
龍神池
延文3年/正平13年(1358)の京都大旱魃の時、大覚上人が祈雨の祈祷を行った際、
顕れた、八本の角と尾を持っていたとされる八房大龍神が祀られています。
石塔
北へ進むと寿福院塔があります。
寿福院(1570~1631)は、金沢城主となった前田利家の側室で、
加賀藩第3代藩主となる前田利常を出産しました。
寿福院は熱心な日蓮宗徒で、慶長6年(1601)に金沢にて経王寺を創建し、
同8年(1903)には妙成寺を菩提寺と定め、伽藍を建立しました。
身延山久遠寺の五重塔などを寄進し、この十一重石塔も寿福院により建立されました。
勅使門
西側に勅使門があります。
建武元年(1334)に第96代・後醍醐天皇により、宗門最初の勅願寺となった際に
建立され、天明8年(1788)の大火後に再建されました。
現在では皇室の方々の参拝時以外は開門されません。
庫裡
更に西へ進むと北側に方丈があります。
拝観や朱印の受付が行われています。
拝観料は500円で、朱印の授与も500円です。
大玄関
方丈の手前、東側に大玄関がありますが、普段は使用されていません。
客殿
拝観受付の東側に客殿があります。
客殿の南西側の間には三十六歌仙の額が掲げられています。
南側、中央の間の奥に仏殿があります。
南東側の間は写経場で、正面には持国天の図が掲げられています。
四海唱導の庭-1
客殿の南庭は「四海唱導の庭」と称されています。
四海唱導の庭-2
勅使門に面し、朝廷や皇室などの貴人を迎えるための庭となっています。
左奥の三つの石組みは滝を表し、滝から流れ落ちた水が、
白砂で表した大海へと広がっている様子が表されています。
孟宗竹の坪庭
客殿から廊下を北へ進むと、四方を廊下で囲まれた中に
「孟宗竹の坪庭」が作庭されています。
妙顕寺所蔵の尾形光琳作「寿老松竹梅図」に因んで作庭されたと伝わり、
毎年、新しい竹が生えるので形が変化します。
以前、ネスカフェのCMで背景に使われました。
書院
坪庭の北にある建物が書院です。
書院の東側の庭は「光琳曲水の庭」と称されています。
光琳曲水の庭-蹲踞
妙顕寺にはかって、尾形光琳が設計した庭があったと文献には記されていますが、
天明8年(1788)の大火で焼失しました。
光琳曲水の庭
現在の庭は尾形光琳作「寿老松竹梅図」を元に作庭されました。
白砂で川の流れる様子が「曲水」として表されています。
手前の黒松は樹齢約200年、奥の赤松は約400年とされています。
光琳曲水の庭-赤松
左の赤松と右の黒松。
奥に見える建物は宿坊です。
光琳曲水の庭-丸窓
庭園の南側の廊下にある丸窓からの光景です。
宝物殿
書院の北から東へ進むと宝物殿がありますが、春と秋のみの公開となります。
抱一曲水の庭
書院の西側の庭は「抱一曲水(ほういっきょくすい)の庭」と称されています。
妙顕寺所蔵の酒井抱一作「観世音図」に因んで作庭されました。
僧侶が寒中修行する井戸と修行石が設置されています。
抱一曲水の庭-井戸
井戸を源流とする川の流れで構成され、その流れの中に水琴窟が設けられています。
紫陽花やアヤメなどの草花から楓や赤松などが植栽され、春から秋まで花が咲き、
晩秋には紅葉が楽しめます。

妙顕寺の塔頭で洛陽十二支妙見の札所である善行院(ぜんぎょういん)へ向かいます。
続く
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尾形光琳の顕彰碑-門
妙顕寺の寿福院塔の東を北へ進んだ東側に尾形光琳の顕彰碑の門があります。
尾形光琳の顕彰碑
以前に尾形光琳の墓碑があった場所で、平成27年(2015)の琳派400年と
尾形光琳300回忌の際に、この顕彰碑が建立されました。
山門と本堂
その北側に善行院(ぜんぎょういん)があります。
室町時代の文正元年(1466)、恵眼院日冨上人によって創建されたと伝わります。
天明8年(1788)の大火で妙顕寺本山と共に善行院も類焼し、焼失以前から
ほぼ現在の位置にあったと推定されています。
現在の本堂や庫裡などは平成15年(2003)の宗祖立教開宗七五〇年記念事業として
現代風な建物に建て替えられました。
日蓮聖人像
本堂前には日蓮聖人像が祀られています。
妙見堂-鳥居
北側の二階に、平成15年(2003)に建て替えられた妙見宮があり、
洛陽十二支妙見・子(北)の札所で、「西陣の妙見宮」と呼ばれています。
妙見堂
妙見宮に安置されている妙見菩薩像は、第111代・後西天皇(在位:1655~1663)から
厚く信仰され、皇居・清涼殿にて祀られていました。
ある時、天皇が「法華経によってこの妙見大菩薩を祭祀せよ」との夢告を受け、
妙見菩薩像が妙顕寺へと遷されました。
「天拝の妙見菩薩」と呼ばれ、近隣の人々の信仰を集めました。
天保年間(1831~1845)に善行院二十七世・日謙上人により妙見堂が建立され、
安置されるようになりました。
文久年間(1861~1864)には洛陽二十八宿妙見の12番札所として栄えました。
「二十八宿」とは、太陽の通り道に当たる黄道が通る星座のことで、
古代中国では28の星座がそれに充てられていました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で衰退し、昭和61年(1986)になって京都市内の
日蓮宗寺院を中心とした「洛陽十二支妙見会」により復活されました。
善行院は1番「子(北)」の札所となりました。

妙覚寺へ向かいます。
続く
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山門
善行院から北上した丁字路を西へ進んだ北側に妙覚寺があります。
山号は妙顕寺と同じ「具足山」で、妙顕寺を始まりとする立本寺(りゅうほんじ)と
共に妙顕寺の院号から「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれています。
「北龍華」の別称があり、日蓮宗京都十六本山の札所でもあります。
山門-梁上
大門は、元は天正18年(1590)に豊臣秀吉が建立した聚楽第の裏門で、
寛文3年(1663)に移築されたと伝わり、京都府の文化財に指定されています。
城門特有とされる両潜(りょうくぐり)扉があり、梁上には伏兵を潜ませるための
空間が設けられています。
「開山南無日像菩薩」の碑
参道の右側(東側)に「開山南無日像菩薩」の碑が建っています。
妙覚寺は日像上人を開山とし、日実上人を4世としていますが、
実際には天授4年/永和4年(1378)に日実上人によって創建されました。
日実上人は、元は妙顕寺の僧でしたが、教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立のため
妙顕寺から離脱し、信徒の豪商・小野妙覚の援助を受け、
四条大宮にあった妙覚の邸宅を寺に改めました。
妙顕寺3世の没後、4世の選任の際に日実上人が妙顕寺から離れたことから、
妙覚寺では日実上人を4世としています。
鎮守社
その横にある社殿の詳細は不明ですが、鎮守社と思われます。
石仏
北側には石仏が祀られ、手前にはユリの花が咲いています。
殉教碑
更に、北側には殉教碑があります。
天文5年(1536)の天文法華の乱で犠牲となった6万人の菩提を弔うために建立されました。
祖師堂
参道正面の祖師堂は天明8年(1788)の大火後に再建されたもので、
府指定の有形文化財となっています。
妙覚寺は、天授4年/永和4年(1378)に日実上人により、四条大宮で創建され、
応永20年(1413)に2世・日成上人により9カ条の門流方式「法華宗異体同心法度」が
定められました。
不受不施(ふじゅふせ=法華経信者以外から施しを受けたり、法施などをしない)の
中心寺院となりました。
寛正7年(1466)には近隣の本覚寺と合併し、寺域を広げましたが、文明15年(1483)に
室町幕府第9代将軍・足利義尚(あしかが よしひさ:在職1474~1489)の命により
二条衣棚(現・中京区妙覚寺町)へ移転しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で伽藍を焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
天文17年(1548)に二条衣棚で再建されました。
この頃、美濃国の戦国大名・斎藤道三(1494~1556)の四男・
日饒上人(にちじょうしょうにん)が妙覚寺19世住職となりました。
若き日に道三も妙覚寺で修行したと伝わり、天文23年(1554)に
美濃国の妙覚寺の末寺であった常在寺で出家し、「道三」と号しました。
また、斎藤道三の父・松波庄五郎(まつなみ しょうごろう:生没年不詳)は、
妙覚寺の僧でしたが、還俗して油商人となって成功し、その後武士となりました。
織田信長は、日饒上人が義理の兄にあたることから、妙覚寺を宿所としていました。
信長は、京に二十数回に及び滞在しましたが、妙覚寺を宿所としたのは18回で、
本能寺は3回でした。
天正10年(1582)に本能寺で宿泊していた早朝に、明智光秀の謀反により、
信長は自害して果てました。
当日、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に宿泊していましたが、信長自害の知らせを受け、
誠仁親王(さねひとしんのう:1552~1586)の居宅であった二条新御所へ移動しました。
誠仁親王を脱出させ、二条新御所で篭城しましたが、明智勢に攻め込まれ、
自害して果てました。(本能寺の変
妙覚寺はその後、天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在地へ移転しました。
文禄4年(1595)、秀吉は方広寺大仏の千僧供養を行いましたが、
妙覚寺21世の日奥上人(にちおうしょうにん:1565~1630)は、
不受不施の立場から出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状(いさめじょう)」を提出して
妙覚寺を去り、丹波国小泉に隠棲しました。
日奥上人は慶長4年(1599)の徳川家康による供養会にも出席せず、
大阪対論により対馬に流罪となりました。
23年後の元和9年(1623)に赦免となり、不受不施派の弘通が許されました。

堂内には日蓮聖人坐像、日朗上人坐像、日像上人坐像が安置されています。
延文3年/正平13年(1358)に北朝第4代・後光厳天皇の詔により、
二世・大覚妙実(1297~1364)が祈雨修法を行いました。
その功により、後光厳天皇から大覚妙実は大僧正に任じられ、
日蓮聖人に大菩薩、大覚大僧正の師である日朗上人と
日像上人に菩薩の号を賜わりました。
唐門
祖師堂の西側に唐門があり、奥に本堂があります。
狩野元信之墓の碑
門前には「狩野元信之墓」の碑が建っています。
狩野元信(かのう もとのぶ:1476~1559)は、室町時代の絵師で、
狩野派の祖・狩野正信の長男または次男とされ、狩野派の2代目です。
狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた人物で。
天文14年(1545)頃に僧の位の一つである「法眼」を与えられました。
渡り廊下
北側には渡り廊下が祖師堂へとつながっています。
大玄関
唐門の南側に大玄関があります。
庫裡
庫裡
妙覚寺は春と秋に特別公開が行われているようですが、
当日は拝観休止となっていました。
本堂や庭園、華芳塔堂などの拝観ができます。
華芳塔堂は山内で最も古い安土桃山時代の建物で、日蓮聖人が比叡山華芳谷・定光院で
修行中に写経した法華経が、堂内安置の石造りの塔に納められていました。
この石塔は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)の織田信長による比叡山焼き討ち後に
発見されて妙覚寺へ納められました。
後に石塔を納めるための木像多宝塔が造られ、江戸時代の書家・
亀田窮楽(かめだきゅうらく:1690~1758)による扁額が掲げられています。
境内図
庫裡の前の境内図です。
妙覚寺道場
南へ進むと妙覚寺道場があり、剣道の道場のようです。

後花園天皇火葬塚から水火天満宮(すいかてんまんぐう)、大応寺へ向かいます。
続く
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