カテゴリ:京都市 > 京都市中京区

鳥居
京阪「神宮丸太町駅」を下車して西へ進み、寺町通を南下した東側に
下御霊神社があります。
下御霊神社は第54代・任明天皇(にんみょうてんのう/在位:833~850)により、
愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の鎮守社として創建されたと伝わりますが、
その詳細は不明です。
御霊神社(上御霊神社)の南に位置したことから「下御霊神社」と呼ばれました。
表門の菊花紋
表門は京都御所の旧建礼門を移築したもので、門には菊花紋があります。
拝殿
拝殿は寛政10年(1798)に建立され、京都市の有形文化財に指定されています。
貞観5年(863)5月20日、平安京の神泉苑御霊会が催され、
平安京に災害や疫病などをもたらす怨霊を鎮めようとしました。
その怨霊とは崇道天皇、伊予親王、藤原大夫人、藤大夫、橘大夫、文大夫の霊で、
いずれも冤罪を着せられ、非業の死を遂げました。
本殿
本殿、
下御霊神社は鎌倉時代の正中元年(1324)に正一位の神階が授けられ、
室町時代の正長元年(1428)には第4代将軍・足利義持(在職:1395~1423)から
新町出水西に社殿が寄進され、遷座されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した後、天正18年(1590)に豊臣秀吉による
都市計画のため、現在地へ遷座されました。
江戸時代の享保13年(1728)、霊元法皇が参詣して願文を納め、
京都御所の産土神とされました。
享保17年(1732)に霊元法皇が崩御され、「崩御の後は下御霊神社に併祭せよ」との
遺言により、相殿に「天中柱皇神」として奉祀されました。
天明8年(1788)の大火で焼失した後、寛政2年(1791)に第119代・光格天皇より
仮皇居の内侍所(ないしどころ)旧殿が下賜され、現在の本殿とされました。
寛政5年(1793)には、本殿前に幣殿と唐破風造りの拝所が増築され、
現在は京都市の有形文化財に指定されています。
随身像-左
拝所には随身像が安置されています。
阿形
本殿中央には八所御霊、相殿に天中柱皇神として霊元天皇が祀られています。
八所御霊とは、上記の怨霊六座と吉備聖霊と火雷天神の二座を加えたものです。
吉備聖霊は吉備真備とされることもありますが、吉備真備は憤死した人ではないので、
神社側は六座の神霊の和魂と解釈しています。
火雷天神は菅原道真とされることもありますが、神社の創建は道真が天神として
神格化されるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈しています。
随身像-右
吽形
怨霊六座の詳細です。

早良親王は長岡京造営の責任者だった藤原種継の暗殺に関与したとされ、
淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で
憤死し、延暦19年(800)に崇道天皇と追称されました。
貞観年間(859~877)には天皇の霊を鎮めるため、唯一天皇のみを祭神とする
崇道神社が創建されました。

伊予親王は大同2年(807)に謀反の嫌疑をかけられ、母親の藤原吉子と共に川原寺
幽閉され、同年11月12日に母子は服毒自殺しました。
藤原吉子は上御霊神社や下御霊神社などに祀られる際に、藤原大夫人と尊称されました。

藤大夫とは藤原広嗣のことで、反藤原氏勢力により大宰府へ左遷され、天平12年(740)に
反乱を起こしたのですが、捕えられ処刑されました(藤原広嗣の乱)。

橘大夫とは橘逸勢(たちばな の はやなり)のことで、延暦23年(804)に
最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡ったのですが、
中国語が苦手で、語学の負担の少ない琴と書を学びました。
承和9年(842)に嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王の東国への
移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、捕われ、伊豆国への流罪が決まり、
護送途中に遠江国板築(浜松市三ヶ日本坂)で病没しました。

文大夫とは文室宮田麻呂(ふんや の みやたまろ)のことで、国際交易にまで
活動範囲を広げていた宮田麻呂を脅威に感じていた者達により、
謀反の嫌疑をかけられ伊豆国へ配流されました。
但し、この謀反に問われた事情は必ずしも明らかではありません。
垂加社
少し戻って、門を入った北側に猿田彦社と垂加社(すいがしゃ)の相殿があります。
垂加社には山崎闇齋(やまざきあんさい)が祀られています。
山崎闇齋は元和4年(1619)に京都で生まれ、幼くして比叡山に登り、
次いで妙心寺に移って僧となりました。
寛永19年(1642)に25歳で畜髪・還俗して儒学者となり、寛文5年(1665)には江戸に出て、

吉川神道の創始者である吉川惟足(よしかわ これたり)に学んで、
神道研究にも本格的に取り組むようになりました。
従来の神道と儒教を統合して(神儒融合)垂加神道を開き、
幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えました。
門弟は6,000人に及び、当時の下御霊神社の神主・出雲路信直も
高弟の一人だったことにより祭祀されることになりました。
稲荷社
垂加社の東側に隣接して稲荷社があります。
三社
本殿に向かって左側(北側)に右から八幡社、神明社、春日社が祀られ
「三社(さんじゃ)」と称されています。
江戸時代の文化4年(1807)に建立されたもので、中世から近世にかけて三社を併せて
信仰することが流行したそうです。
八幡は清浄、伊勢は正直、春日は慈悲の心を諭すものとされています。
神物宝庫-1
本殿の右側には神物宝庫があります。
宝永5(1708)年3月8日の大火後に建立されたとみられ、天明8年(1788)の大火で
唯一焼失を免れましたが、大火後現在地に移築されたと考えられています。
平成30年(2018)9月4日に近畿地方を横断した台風21号による被害を受けたようです。
神物宝庫-2
庫内には宝永の大火後の宝永6年(1709)に第113代・東山天皇から下賜された
大宮神輿などが保管されています。
神輿は天保年間(1831~1845)に修理され、5月の神幸還幸祭で巡行されます。
四社殿
境内の南側に右から大将軍社高知穂社愛宕社日吉社の四社殿があります。

四社殿の西側に隣接して大国主命・事代主命社があります。
事代主命は大国主命の御子神であり、初代・神武天皇の皇后となる
媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の父親とされています。
天満宮
大国主命・事代主命社の西側に下御霊天満宮があります。

京都御所へ向かいます。
続く
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山門
下御霊神社から更に南下すると行願寺があります。
山号を「霊麀山(れいゆうざん)」と号する天台宗の尼寺で、
神仏霊場・第114番の札所となっています。
寛弘元年(1004)、行円により一条小川の一条北辺堂跡に創建されました。
京都御苑の西方には、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残されています。 
行円は仏門に入る前は猟師で、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から
子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったと伝わります。
行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、「皮聖」、「皮聖人」などと呼ばれ、
寺の名も「革堂(こうどう)」と呼ばれました。
行願寺はその後、度々の火災で焼失、再建を繰り返し、天正18年(1590)に豊臣秀吉による都市計画のため、寺町荒神口へ移転しました。
宝永5年(1708)の大火の後に現在地で再建されましたが、
天明8年(1788)の大火でも焼失しました。
山門は元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で焼失し、
その後再建されました。
行願寺は戦後荒廃していましたが、昭和44年(1969年)から中島湛海尼が住職となって
寺を再興し、名誉住職となりました。
湛海尼は昭和63年(1988)に尼僧で初めて天台宗最高位の大僧正になりましたが、
平成18年(2006)10月28日に91歳で亡くなりました。
手水舎
山門を入った左側に手水舎があります。
本堂-1
門を入った正面に本堂があります。
現在の本堂は文化12年(1815)に再建されたもので、
京都市の有形文化財に指定されています。
本堂-2
本尊は像高2.5mの千手観世音菩薩像で、行円が上賀茂神社のご神木を得て
3年をかけて自ら刻んだと伝わります。
本尊は秘仏とされ、毎年1月の17と18日のみ開帳されます。
加茂明神塔
境内の西北隅にある五輪塔は「加茂明神石塔」と称され、行円が上賀茂神社のご神木を
得た報恩として、加茂明神を勧請したと伝わります。
かっては、石塔前に鳥居が建っていたそうです。
百体地蔵堂
その東側に百体地蔵堂があり、多くの地蔵尊や石仏、石塔が祀られています。
鐘楼
更にその東側には文化元年(1804)に再建された鐘楼があり、
京都市の有形文化財に指定されています。
梵鐘
鐘は許可なく撞くことはできませんので、勝手に撞かないよう、
時々猫が見張りをしています。
鎮宅霊符神堂
鐘楼の東側に鎮宅霊符神堂があります。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
『風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸されました。
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで尋ねたところ、
「その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にありました。
ある時、いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、
十年にして大富豪となり、二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて
来るであろうと預言し、忽然と消えた」と答えました。
孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた』と伝わります。
但し、単に霊符を書いて壁に貼っておくだけでは駄目で、
この霊符を用いるには修法を実践する必要があるそうです。
日本に伝わってからは、鎮宅霊符そのものを神として祀られているようです。
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、この神の家内安全、
商売繁盛のお祭りです。
庫裡
鎮宅霊符神堂前の東側に庫裏があります。
七福神
庫裏の向かいの参道を挟んだ西側に七福神の像が祀られています。
寿老神堂
その南側に安土・桃山時代に建立された寿老神堂があります。
本尊の寿老人は「都七福神めぐり」の札所本尊でもあります。
愛染堂
更にその南側には愛染堂があります。
大日如来
本堂の南側に天道大日如来と延命地蔵菩薩を祀った社があり、
画像はありませんがその東側に宝物館があります。
宝物館には行円が身につけていたとされる鹿皮の衣が保存され、
毎年1月に2日間だけ公開されます。
また、お盆の期間のみ公開される「幽霊絵馬」には以下のような伝説が残されています。
『江戸時代の文化8年(1811)、行願寺の近くにあった質屋で子守として奉公していた
「おふみ」という少女が、よく境内で子守をしていました。
革堂から聞こえてくる御詠歌を子守歌代わりに、唄い聞かせていたのですが、
質屋の主人は熱心な法華信者でした。
ある時、おふみが唄う御詠歌が主人の耳に入り、
それに怒った主人に虐待され殺されてしまいました。
主人はおふみの遺体を親に返さず、蔵に隠しました。
行願寺での通夜に訪れていた両親の前におふみが幽霊となって現れ、
両親に真相を告げたました。
両親はおふみを葬った後に幽霊を絵馬に描き、
手鏡をはめて寺に奉納した』と伝わります。

寺町通を北上して京都御苑へ向かいますが、丸太町通を境に北は上京区、
南は中京区に分かれ、京都御苑は上京区となります。
続く
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高山彦九郎像
京阪「三条」駅から地上に出ると京都御所を向いて揺拝する
高山彦九郎の像が建っています。
高山彦九郎(1747~1793)は、上野国新田郡細谷村(現・群馬県太田市)の
郷士(武士階級の下層)の出身で、13歳の時に『太平記』を読んだことをきっかけに
勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、
各地を遊歴して勤皇論を説きました。
幕末の志士に大きな影響を与えた人物で、幕府からも警戒されていましたが、
寛政5年(1793)に筑後国久留米の友人宅で自刃して果てました。
銅像は昭和天皇の御大典を祝して有志からの寄付により
昭和3年(1928)に造立され、東郷平八郎(1848~1934)により
台座の揮毫が行われましたが、戦時中の金属類回収令で供出され、
昭和36年(1961)に現在の像が再建されました。
花の回廊
三条大橋の東詰め南側に「花の回廊」の碑が建っています。
平安京遷都1200年に「京の川づくり」として、鴨川沿いの三条~七条間約2.3kmに
四季折々の花や木が植えられ、京都府と市が協力して散策路として整備されました。
この碑はその記念碑で、平成11年(1999)に建立されました。
駅伝発祥の地
東詰めの北側には「駅伝発祥の地」の碑が建っています。
大正6年(1917)4月27~29日に三条大橋をスタート、東京上野の不忍池の博覧会正面玄関を
ゴールとする奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が行われ、
これが我が国初の駅伝とされています。
その距離は約508kmで、23区に分け関東組・関西組に分かれて競い合いました。
三条大橋
三条大橋が最初に架けられたのは室町時代とされています。
天正18年(1590)に豊臣秀吉(1537~1598)は五条大橋と共に石柱の橋に改修しました。
当時は長さ64間4尺(126m)、幅3間5尺5寸(7.5m)で63本の橋柱が建てられていました。
江戸時代には東海道五十三次の西の起点となり、
幕府直轄の公儀橋に位置付けられました。
その後、元禄時代(1688~1704)、明治時代(1868~1912)、大正時代(1912~1926)に
架け替えられ、昭和25年(1950)に現在の橋が完成しました。
現在の橋は鋼単純H型橋で、長さ73m、幅16.7mで橋脚はコンクリート造りですが、
一部に石材が使われています。
昭和49年(1974)に木製欄干が更新され、擬宝珠も昭和に更新されていますが、
一部に秀吉の時代のものが残されています。
三条河原
かって、大橋の東詰めは処刑場であり、晒し場でした。
大盗賊・石川五右衛門(1558?~1594)は、
この河原で釜茹での刑に処せられたと伝わります。
その日が12月12日だったとされ、京都では「12月12日」と書いた紙を逆に張った
「逆さ札」という風習がありました。
これは、天井裏から忍び入った泥棒が読めるようにした泥棒除けの意味があり、
泥棒は五右衛門のように極刑に処せられることを示したものです。

秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに:1534~1625)の長男である豊臣秀次(1568~1595)は、
天正19年(1591)に秀吉から関白の職を譲られ、家督を相続したのですが、
文禄4年(1593)に突然、謀反の疑いがかけられ、強制的に出家させられて
高野山青巌寺へ蟄居となり、切腹を命じられました。
三条河原に首が運ばれ、晒されたその前で妻子侍女など39名が処刑され、
秀次の首と共に1か所に埋められ見せしめの塚が作られました。
この塚は慶長16年(1611)に角倉了以(すみのくら りょうい:1554~1614)による
高瀬川開削時に塚と石柱が見つかり、現在はこれから向かう
瑞泉寺の境内で保存されています。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで敗れた西軍の首脳・石田三成(1560~1600)、
小西行長(1558~1600)、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい:1539?~1600)は
六条河原で斬首され、三条河原で首が晒されました。

長宗我部盛親(1575~1615)は、関ケ原の戦いでは西軍に属していましたが、
敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表しました。
帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことを咎められ、
領国を没収され浪人となりました。
後に豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城へ入城しましたが、
慶長20年(1615)に勃発した大坂夏の陣で敗北し、逃走の後捕えられ、
六条河原で斬首され、三条河原で首が晒されました。

新撰組局長だった近藤勇(こんどう いさみ:1834~1868)は、
鳥羽・伏見の戦いで敗れて幕府軍艦で江戸に戻り、「大久保剛」と名を変え
新選組は甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と改名しました。
幕府や会津藩から資金を与えられ、甲州勝沼の戦いで板垣退助(1837~1919)が率いる
迅衝隊(じんしょうたい)と争い、敗退しました。
近藤勇は更に名を「大久保大和」と改め、旧幕府歩兵らを募集して227名の隊士を集め、
日光街道を進軍して新政府軍の背後を襲う計画を企てましたが発覚し、
捕えられて連日取り調べが行われました。
「大久保」の偽名を貫いていましたが、元新選組の隊士で御陵衛士だった
加納鷲雄(かのう わしお:1839~1902)に正体を見破られて斬首となり、
首は江戸から運ばれて三条河原で晒されました。
擬宝珠-刀傷
三条大橋を渡ると、西側から二つ目の南北の擬宝珠に、
池田屋騒動の時と推察されている刀傷が残されています。
擬宝珠
また、擬宝珠には豊臣秀吉が架け替えた天正十八年の銘が刻まれています。
橋の石柱
橋を渡った西詰の北側に、豊臣秀吉が架け替えた当時の石柱が残されています。
柱には「天正十七年 津国御影 七月吉日」と刻まれていることから、
現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩であることが判明しています。
高札場
江戸時代、この地には高札場(こうさつば)がありました。
幕府が定めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板に書き、
人目を引くように高く掲げられていました。
しかし、慶応元年(1865)の第二次長州征伐の失敗以降、江戸幕府の権威は失墜し、
翌、慶応2年(1866)には幕府が立てた制札が3度に渡って引き抜かれ、
鴨川に捨てられました。
新選組に制札警備の命が下り、警戒に当たっていた最中、
土佐藩士の一団が引き抜こうとして乱闘となり、土佐側の一名が斬殺、
一名が捕縛されました。
明治7年(1874)に高札の廃止が決定され、2年後には完全に撤去されました。
弥次喜多像
橋の南側には『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』のモデルとなった
お江戸・神田八丁堀の住人、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、
居候の喜多八(きたはち)の像が造立されています。
十返舎一九(じっぺんしゃ いっく:1765~1831)が享和2年(1802)に出した滑稽本で、
つまらぬ身の上に飽き果てた二人が、厄落としにお伊勢参りの旅に出て
更に京都から大坂への道中記となっています。

池田屋跡から瑞泉寺などを巡ります。
続く
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山門
三条大橋の西詰から西へ進み、木屋町通で左折して少し南へ進んだ所に
瑞泉寺があります。
山号を「慈舟山(じせんざん)」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院です。
慶長16年(1611)に豪商・角倉了以(すみのくら りょうい:1554~1614)が
高瀬川の開削工事を行っていた際に、
「秀次悪逆塚」刻字された石櫃(せきひつ)が発見されました。
この石櫃は高野山で自刃して果てた豊臣秀次(1568~1595)の首が納めらていたもので、
秀次の妻子侍女など39名が処刑され、
亡骸が埋められた上に置かれて塚とされていました。
角倉了以と浄土宗西山派の僧・立空桂叔(生没年不詳)は、秀次の菩提を弔うために
かって塚があったとされる場所に堂宇が建立され、
立空桂叔を開山として、誓願寺の教山上人(生没年不詳)が秀次に新たに贈った戒名
「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号が採られました。
天和3年(1683)に角倉家の寄進を受け、新たな本堂が建立されましたが、
天明8年(1788)の大火で焼失し、文化2年(1805)に現在の本堂が再建されました。
岩瀬忠震
山門前に「目付 海防掛 岩瀬忠震 宿所跡」、
その横に「福井藩士 橋本佐内訪問之地」と刻字された碑が建っています。
岩瀬忠震(いわせ ただなり:1818~1861)は、欧米の列強諸国との折衝に尽力し、
水野忠徳(みずの ただのり:1810~1868)、小栗忠順(おぐり ただまさ:1827~1868)
と共に「幕末三俊」と顕彰されました。
「海防掛」とは江戸幕府が外交問題に対処するために設けた役職名で、
弘化2年(1845)以降に定置化され、大小目付・勘定奉行・勘定吟味役から選抜して任じ、
外交実務を担当させました。
忠震は嘉永7年(1854)に目付に任じられ、講武所・蕃書調所(ばんしょしらべしょ=
江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、
品川の砲台の築造に尽力しました。

その後、外国奉行にまで出世し、安政2年(1855)に来航したロシアのプチャーチン
(1803~1883)と全権として交渉し日露和親条約締結に臨み、
安政5年(1858)にはアメリカの総領事・タウンゼント・ハリス(1804~1878)と
交渉した結果、通商条約の草案が確定しました。
老中・堀田正睦(ほった まさよし:1810~1864)と岩瀬忠震は、調印に先立ち
第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)をはじめとする朝廷の勅許を得るために上洛し、
その時の岩瀬の宿が瑞泉寺でした。
天皇自身も強硬な攘夷論者であり、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが
廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)を
起こしたため、勅許は得られませんでした。

正睦は事態打開のため松平春嶽(1828~1890)の大老就任を画策しましたが、
就任したのは井伊直弼(いい なおすけ:1815~1860)で、
勅許を優先させることを主張しました。
しかし、直弼はイギリスやフランスなどから侵略戦争を仕掛けられる最悪の事態に
至るよりは、勅許をまたずに調印することも可としたことから、
井上清直(1809~1868)と共に忠震は神奈川沖・小柴(八景島周辺)のUSS ポーハタン号へ
赴き、日米修好通商条約に署名しました。

また、第13代将軍・徳川家定(在任:1853~1858)は、
病弱で男子を儲ける見込みがなかったので将軍継嗣問題が起こりました。
忠震は徳川慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ:1837~1913)を支持し、
やはり慶喜を支持する越前国福井藩の第16代藩主・松平春嶽は、
家臣の橋本佐内(1834~1859)を上洛させ、慶喜擁立運動を展開し、
幕政の改革を訴えました。
忠震が神奈川沖へ出立する前日に橋本佐内は瑞泉寺へ訪れ、両者が会談しました。
しかし、直弼は将軍継嗣を徳川家茂(とくがわ いえもち:1846~1866)に決定し、
日米修好通商条約などとの諸策に反対する者たちを弾圧しました。(安政の大獄
これにより、忠震は作事奉行に左遷され、翌、安政6年(1859)には蟄居を命じられ、
文久元年(1861)に44歳で失意のうちに病死しました。
橋本佐内は安政6年10月7日(1859年11月1日)は伝馬町牢屋敷で斬首となり、
25歳で生涯を終えました。
本堂
本堂は元々の塚が築かれていた場所に建てられています。
当時は三条河原の中州であったこの場所で、豊臣秀次(1568~1595)とその妻子侍女など
39名を埋めた塚が築かれましたが、その後は洪水などで荒廃していました。
慶長13年(1608)から豊臣秀頼(1593~1615)による方広寺大仏殿の再建が始まり、
慶長15年(1610)には角倉了以(すみのくら りょうい:1554~1614)・素庵(1571~1632)
父子により鴨川を利用した資材運搬が行われましたが、
その過程でこの塚が発見されました。
当時の鴨川は川の流れが幾筋かあり、河原は現在の河原町まで広がっていました。
その後、慶長19年(1614)からは、父子により京都~伏見間の恒久的な運河として
高瀬川の開削工事が行われました。

角倉了以の実弟・吉田宗恂(よしだ そうじゅん:1558~1610)は家業であった
医業を継ぎ、豊臣秀次に仕えていました。
第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の病気に献薬して奏効したことなどから
連座を免れ、徳川家康(1543~1616)から召されていましたが、
慶長15年(1610)に亡くなりました。
その一周忌にも当たる慶長16年(1611)に瑞泉寺は了以により創建されました。
堂内には本尊の阿弥陀如来像、角倉了以・素庵父子像、平清盛(1118~1181)発願と伝わる
厄よけ地蔵尊が安置されています。
地蔵堂
本堂の向かいに地蔵堂があり、地蔵菩薩立像が安置されています。
一族の処刑に祭し引導を授けたとされ、「引導地蔵」と呼ばれています。
地蔵堂-堂内
昭和16年(1941)に現・パナソニックの創業者・松下幸之助(1894~1989)らの
「豊公会」により、秀次の墓や地蔵堂が整備され、
地蔵堂には秀次を含む50人の小さな像が造られ、祀られています。
秀次の墓
右奥に秀次と一族の墓があります。
この墓域は慶長16年(1611)の創建時に築かれました。
石櫃
正面三基の墓石は当時のもので、中央の墓石には秀次の首が納められていた
石櫃(せきひつ)が納められています。
石櫃の正面右下には「七月十五日」の文字が読めます。
豊臣秀次(1568~1595)は、秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに:1534~1625)の長男で、
天正19年(1591)に秀吉から関白の職を譲られ、家督を相続しました。
文禄4年(1593)6月に突然、謀反の疑いがかけられ、強制的に出家させられて
高野山青巌寺へ蟄居となり、7月15日に切腹を命じられました。
理由としては豊臣秀吉(1537~1598)と側室・淀殿(1569?~1615)との間に
秀頼(1593~1615)が生まれたことにあったと推定されています。
一族の墓-右
秀次が蟄居となった後、妻子侍女など39名は捕えられ、丹波亀山城に移送されました。
秀次の家老・白江成定(?~1595)とその妻子、及び熊谷直之(?~1595)は自害し、
木村重茲(きむら しげこれ:?~1595)は斬首されて財産は没収され、
妻子は三条河原で磔(はりつけ)の刑に処せられました。
その他の家臣も切腹や遠島への流罪が下されました。
一族の墓-左
秀次と付き添っていた家臣4名が切腹した翌日の7月16日、秀次の首は三条河原で晒され、
8月1日に亀山城から戻された妻子侍女など39名が処刑され、一つの穴に投じられました。
この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を納めた石櫃が置かれ、
「秀次悪逆」と刻まれた石碑が建てられました。
宝篋印塔
墓域の前に建つ宝篋印塔は天文5年(1740)に建立され、
秀次一族の供養のために建てられたと推定されています。

坂本龍馬寓居跡などを巡ります。
続く
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酢屋
瑞泉寺の南側の通りは「龍馬通」と呼ばれ、高瀬川を渡って西へ進んだ北側に
材木商を営む酢屋(すや)があります。
享保6年(1721)に開業し、6代目の酢屋嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家から
高瀬川の木材独占輸送の権利を得て、運送業も兼業していました。
酢屋は店を構えたこの場所は、当時は大坂まで結ばれていた
旧東海道の要衝でもあり、付近には各藩の藩邸が建ち並んでいました。
慶応3年(1867)6月に坂本龍馬(1836~1867)は「才谷」と名乗り、
現在は「ギャラリー龍馬」として使われている二階の表西側の部屋を住まいとし、
海援隊京都本部が置かれました。
「ギャラリー龍馬」には姉・乙女(1832~1879)へ宛てた手紙の複製が展示されています。
「6/9夕顔の中で船中八策、6/15大坂から京へ、6/22船中八策をもって酢屋に入る、
6/23薩土盟約に同席、6/24早朝から手紙を2通書き、薩摩屋敷へ、
6/25岩倉・三条に会う」そして、11月に近江屋へ転居しました。
お龍寓居跡
木屋町通へ戻り、高瀬川沿いに南へ進むと東側に都会館があり、
その前に「此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代寓居跡」の碑が建っています。
楢崎龍(ならさき りょう:1841~1906)は天保12年(1841)に青蓮院宮の侍医であった
医師・楢崎将作(1813~1862)の長女として富小路六角付近で生まれました。
裕福な家庭でしたが、勤王家であった将作が安政の大獄で捕らえられ、
赦免後の文久2年(1862)に病死すると、残された家族は困窮し、
この付近、もしくは「四条、うら通り」の借家」へ移住しました。
後にお龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、母・貞は方広寺大仏殿近くの天誅組
残党を含めた土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家で、
住み込みで賄いをするようになりました。
その縁で龍馬とお龍は出会って結ばれ、その直前までお龍が住んでいました。
土佐藩邸跡
更に南へ進んだ蛸薬師通に架かる橋の畔に「土佐藩邸跡」の碑が建っています。
高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の旧・立誠小学校の辺りには
江戸時代から土佐藩邸が設けられ、高瀬川には土佐橋が架かっていました。
お龍の独身時代寓居跡唐は直ぐそこの距離ですが、文久2年(1862)に
坂本龍馬は土佐藩を脱藩して上洛しました。
同年4月23日に薩摩藩の事実上の指導者・島津久光(1817~1887)が尊皇派を排除した
寺田屋騒動が起こり、龍馬は江戸へ向かいました。
角倉了以の顕彰碑
その南側の旧・立誠小学校前には角倉了以の顕彰碑が建立されています。
角倉了以(すみのくら りょうい:1554~1614)は、室町幕府第12代将軍・足利義晴
(在職:1521~1546)の侍医を勤める吉田宗桂(よしだ そうけい:1512~1572)の
長男として、嵯峨天竜寺前通で誕生しました。
吉田のもう一つの家業であった「角倉」を家号とする土倉業を継ぎ、
次男が医業を継ぎました。
慶長9年(1604)の朱印船貿易の開始とともに
安南国(フランス統治時代のベトナム北部から中部)との貿易で富を得ました。
慶長11年(1606)には、幕府から保津川の河川改修工事の許可と
通航料徴収などの権利を得て工事に着手しました。
総工費は現在では75億円相当ともされ、5か月で完成させました。
また、慶長15年(1610)の豊臣秀頼による方広寺大仏殿再建の際は、
子・素庵(そあん)と共に、鴨川を開削し、資材運搬を行いました。
父子は慶長19年(1614)に、伏見まで「高瀬川」と呼ばれる運河を開削し、
高瀬舟を運行しました。
水深の浅い高瀬川では、底が平らで喫水が低い高瀬舟が必要不可欠として
新造されました。
また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行い、
慶長19年7月12日(1614年8月17日)に亡くなり、二尊院へ埋葬されました。
日本映画発祥の地
旧・立誠小学校の左前には「日本映画発祥の地」の駒札も立っています。
明治30年(1897)に京都出身で稲畑染料店の創始者であり、
後に大阪商工会議所会頭も務めた稲畑勝太郎(1862~1949)は、
明治10年(1877)の15歳の時に京都府派遣留学生8名の一人に選ばれ、
フランスのリヨンに派遣されました。
工業学校で染色技術の基礎を学び、染工場での3年に及ぶ実習で技術を習得した後、
リヨン大学で化学課程を修めました。
明治18年(1885)に帰国し、明治23年(1890)に稲畑染料店を創業、明治29年(1896)に
万国博覧会の視察と商用でパリを訪れ、留学時の級友リュミエール兄弟の発明した
シネマトグラフ(映写機兼カメラ)と、その興行権、フィルムを購入し、
リュミエール社の映写技師兼カメラマンのコンスタン・ジレルを伴い、
明治30年(1897)1月に帰国しました。
同年、後に立誠小学校となる京都電燈株式会社の庭で試写実験に成功し、
2月には大阪で有料の上映会も行われました。
岬神社-鳥居
蛸薬師通まで戻り西へ進むと北側に岬神社があります。
社伝では、室町時代初期に鴨川の中州の岬に祠を建てたのが始まりとされています。
その後、鴨川の西岸などへ祠が数度遷座され、江戸時代初期にこの付近に建てられた
土佐藩の京屋敷内に遷座され、「土佐稲荷」と呼ばれるようになりました。
近隣の町衆からも信仰されるようになり、
藩邸内には一般の人々でも自由に参拝できるようにと通路が確保されました。
明治維新後に土佐藩邸は売却されて神社も移転し、幾多の変遷を経て現在地に鎮座し、
大正2年(1913)に近隣の氏子により現在の社殿が建立されました。
岬神社-社殿
祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と石栄神(せきえいのかみ)ですが、
石栄神の詳細は不明です。
岬神社-龍馬像
境内には、坂本龍馬像が造立されています。
文久2年(1862)3月24日に龍馬は脱藩して上洛しましたが、
4月23日に寺田屋騒動が起こり、江戸へ向かって幕府政事総裁職にあった
前福井藩主・松平春嶽(1828~1890)に拝謁しました。
12月9日に春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟(1823~1899)への紹介状を受け、
海舟の屋敷へ訪れました。
龍馬と千葉重太郎(1824~1885)は開国論者の海舟を斬るために訪れたのですが、
逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服して
その場で弟子となり、海舟の取りなしにより、文久3年(1863)2月25日に
龍馬の脱藩の罪は赦免されました。
同年4月23日には幕府から「神戸海軍操練所」設立の許可を得、
10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられました。
しかし、山内容堂(1827~1872)が土佐勤王党の粛清に乗り出し、
元治元年(1864)に龍馬は帰藩を命じられましたがこれを無視し、再び脱藩しました。
2月9日に海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のため、
長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行し、
その後5月に龍馬は楢崎龍と出逢いました。

5月14日に海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足し、
6月17には龍馬は下田で海舟と会合しています。
7月19日に禁門の変が起こり、それに神戸海軍塾の塾生が長州軍に参加していたことから
10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免され、
神戸海軍操練所は廃止されました。
8月の中旬頃、龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛(1828~1877)と面会していた
ことから、薩摩藩は龍馬ら塾生の庇護を引き受け、慶応元年(1865)5月には
龍馬らに出資して「亀山社中」が結成されました。

禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、
国外からの武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止されていました。
龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、
その代わりに長州から薩摩へ、不足していた米を回送する案を画策し、
これを亀山社中が実行しました。
慶応2年(1866)1月22日に薩長同盟が結ばれることになり、翌23日に寺田屋で
祝杯を挙げていた深夜に伏見奉行が襲撃し、龍馬は両手指を斬られて深手を負いました。
龍馬は薩摩藩に救出され、治療のためにお龍を伴い薩摩の霧島温泉で療養するため
京都を出立しました。
二人は温泉療養のかたわら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉(しおひたしおんせん)、
鹿児島などを巡って83日間逗留し、これが日本最初の新婚旅行とされています。

慶応2年(1866)6月7日に幕府は10万を超える兵力を投入して
第二次長州征伐を開始しました。
龍馬は長州藩の求めに応じて参戦し、龍馬が調達した西洋の新式兵器を装備していた
長州藩は連戦連勝し、幕府軍総司令官であった
第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち/在職:1859~1866)が7月20日に死去して
9月19日に幕府軍は撤兵しました。
この戦いで船は長州藩へ引き渡され、亀山社中には船が無くなりました。
10月に薩摩藩から代船が供与されると軍備強化を急いでいた土佐藩は龍馬に接近し、
慶応3年(1867)1月13日に龍馬は再び赦免され、
亀山社中は土佐藩の外郭団体的な組織となりました。

慶応3年(1867)6月22日に土佐藩士・後藤象二郎(1838~1897)と龍馬が上洛し、
大政奉還論を意図した薩土盟約を薩摩藩とで結びました。
これに対し、土佐藩士・乾退助(=板垣退助:1837~1919)は、西郷隆盛らと
武力討幕を議し、薩土討幕の密約を結びました。
慶応3年6月9日(1867年7月10日)にに藩船「夕顔丸」に龍馬と後藤象二郎が乗船し、
長崎を発って兵庫へ向かう船中で、維新政府の綱領の実質的な原本となったとされる
船中八策」を起草したとされています。
一時は薩土討幕の密約を承認した第15代薩摩藩主・山内容堂(1827~1872)でしたが、
龍馬と後藤の働きにより、大政奉還論が支持され、
幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することが提案されました。
これに反対する意見を言上した乾退助は、全役職を解任されて失脚しました。
第15代将軍・徳川慶喜(在職:1867~1868)は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に
大政奉還を諮問し、翌14日に明治天皇に上奏、15日に勅許が下されました。

慶応3年(1867)10月24日に龍馬は後藤から依頼され、山内容堂の書状を持って
越前福井藩へ出向き、松平春嶽の上京を促して11月5日に帰京しました。
その10日後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に
龍馬は近江屋にて「十津川郷士」と名乗る男たち数人に斬殺され、
33年の生涯を終えました。
旧暦ですが、誕生日と命日が同じ日になりました。
近江屋跡
岬神社から更に西へ進み、河原町通を横断して西側歩道を少し南へ進んだ所に
近江屋跡があります。
坂本龍馬は慶応3年(1867)11月に酢屋から、醤油商を営み土佐藩邸へ出入りしていた
近江屋へ転居しました。
11月15日の夕刻、中岡慎太郎(1835~1867)が近江屋へ、龍馬を訪ねました。
二人が推進してきた大政奉還が同年10月14日に成立し、今後の政局について
論じていたところ、「十津川郷士」と称する男たちの襲撃を受けました。
龍馬はその場で絶命し、中岡は重傷を負いながらも
谷干城(たに たてき / たに かんじょう:1837~1911)などに
暗殺犯の襲撃の様子について詳細に語り、
王政復古の夢を託してその二日後に亡くなりました。
二人は京都霊山護国神社の霊山墓所に並んで葬られました。

古高俊太郎邸跡から池田屋跡へ向かいます。
続く
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