カテゴリ:京都市 > 伏見区南部(醍醐寺~御香宮神社周辺・大手筋~淀城跡周辺)

総門
萬福寺から東へバイクで10分余り走った所に醍醐寺があります。
醍醐寺は、旧奈良街道に面した下醍醐と山上の上醍醐からなり
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は西国三十三所霊場の第11番、
五大堂は近畿三十六不動尊霊場の第23番、下醍醐・金堂本尊の薬師如来は
西国四十九薬師霊場の第39番の他、神仏霊場・第126番などの札所となっています。

バス停が併設された駐車場を出て街道を北に進むと総門があります。
大玄関
総門から入った左側に三宝院があります。

大玄関は国の重要文化財に指定されています。

三宝院・霊宝館・伽藍の拝観料800円を納め三宝院から巡ります。
三宝院は、正式には醍醐寺三宝院と称する醍醐寺の塔頭の一つです。
平安時代の永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうかく)によって創建され、
後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改称されました。
創建当初は金堂の西側にあり灌頂院と呼ばれ、室町時代初めまで
醍醐寺の座主を交代で出した三宝院・金剛王院・理性院・無量寿院・報恩院の
醍醐の五門跡の一院でした。
鎌倉から南北朝時代にかけて、足利尊氏から厚く保護され、
応安7年/文中3年(1374)になって足利義満が三宝院座主を室町幕府の祈祷を行う
武家護持僧の管領役に任じられるようになりました。
室町時代の正長元年(1428)、25世・満済(まんさい/まんぜい)が准三后(じゅさんごう)となり、
以後歴代三宝院門跡が醍醐寺の座主を独占するようになりました。
満済は、室町幕府3代将軍・足利義満の猶子(ゆうし)となり、応永2年(1395)から
永享6年(1434)までは醍醐寺第74代座主も務め、醍醐寺中興の祖と伝わります。
しかし、応仁の乱で三宝院が焼失し、廃寺同然となりましたが、安土桃山時代に
醍醐寺金剛輪院の院主であった義演は豊臣秀吉の信頼が厚く、秀吉により再興されました。
慶長3年3月15日(1598年4月20日)に同院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれましたが、
その前に秀吉自らが醍醐寺に通い、建物の造営や修復、庭園の改修などを指揮しました。
義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称しました。
義演は徳川家康からも信任を受け、慶長11年(1606)に醍醐寺の座主に就任し、
荒廃していた寺を復興し、満済とともに醍醐寺中興の祖と称せられるようになりました。
大玄関-左側
大玄関の左の間
庫裡
庫裡は重要文化財に指定されている葵の間・秋草の間・勅使の間の北側にあり、
白書院とも呼ばれています。

三宝院の建物は葵の間、秋草の間、勅使の間及び表書院が拝観できますが
建物内の撮影は禁止されています。

葵の間の襖絵には、下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している
葵祭の様子が描かれています。

秋草の間の襖絵には、秋の七草が点在する広々とした風景が描かれています。

勅使の間の襖絵には、桃山時代の作品で、長谷川等伯一派の作といわれている
竹林花鳥図が描かれ、国の重要文化財に指定されています。
唐門-裏側
国宝・唐門の内側
泉殿
泉殿は書院の西南にあります。
三宝院-庭園
表書院は庭に面し、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れて建てられ
、国宝に指定されています。
表書院には下段・中段・上段の間があり、下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、
畳をあげると能舞台になります。
中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から
見下ろせるようになっています。
上段及び中段の間の襖絵は、長谷川等伯一派の作といわれ、
上段の間は四季の柳を主題とし、中段の間は山野の風景が描かれています。
下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれ、
表書院の襖絵は国の重要文化財に指定されています。
庭園-鶴島
木橋と鶴島
鶴島は五葉松が鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表しています。
三宝院の庭園は特別名勝・特別史跡に指定されています。
庭園-鶴島と亀島
左の亀島と右の鶴島
亀島には、樹齢六百年以上といわれる幹の太い立派な五葉松が島全体を覆い、
亀の甲羅のように見せています。
庭園-賀茂の三石
手前の賀茂の三石と亀島
亀島には手前からと、鶴島から石橋が架かり、奥の対岸へは土橋が架けられています。
池の手前、白砂の中に見える三石は、賀茂の三石と呼ばれ、奥の石は、
賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、
手前の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表しています。
庭園の背後に見える山頂が上醍醐になります。
庭園-亀島
亀島への石橋と奥の土橋
庭園-土橋
亀島の土橋
庭園-藤戸石
藤戸石と豊国大明神を祀る祠
藤戸石は高さ1.8m、幅1.1m、奥行き1mあり、正面からは長方形に見えますが、
側面は三角形を成しています。
「藤戸石」と称される由来については、倉敷の藤戸産とも、
石の表面に藤の花の模様があることからとも伝わります。
かっては、細川氏綱邸にあったものを織田信長が足利義昭の二条第に移し、
天正14年(1586)に豊臣秀吉が聚楽第へ移しました。
その後、慶長3年(1598)の三宝院の築庭に際し、三宝院へと運び込まれました。
両脇の石と共に阿弥陀三尊を表しているとされ、豊臣秀吉の位牌石とも言われています。
当初、庭は花見に間に合わせるように秀吉が設計し、僅か36日の突貫工事で完成させました。
秀吉の没後、三宝院32世・義演が20数年も作庭を続け、
現在の池泉回遊式庭園を完成させました。

豊国大明神は豊臣家の廃絶後、豊国稲荷大明神が勧請され、祀られています。
庭園-三段の滝
三段の滝
経蔵
本堂の特別参拝が行われていましたので、本堂へ向かいますが、
本堂の画像を撮り忘れました。 
本堂内の撮影は禁止されていますが、本堂には重要文化財に指定されている
像高112cmの弥勒菩薩坐像が安置されています。
膝裏に建久6年(1195)の墨書き名があり、仏師・快慶の作であることが判明しました。
快慶の初期作であり、美仏とも最秀作とも言われています。
脇仏として右に弘法大師像、左に理源大師・聖宝(しょうぼう)像が安置されています。

本堂への順路の左側に建つのは経蔵でしょうか?
五社明神-拝殿
五社明神の拝殿
五社明神
五社明神
本堂の左側に祀られています。
純浄観
本堂前からの純浄観
純浄観は書院の東にあり、豊臣秀吉が槍山で花見をした時の建物を移築したと伝わります。
襖絵の桜・紅葉は、平成に入って浜田泰介画伯が描いたものです。
茶室
茶室・松月亭は奥宸殿の東北側にあり、江戸末期に造られましたが、非公開です。
奥宸殿は江戸時代初期の建築とされ、重要文化財に指定されていますが、非公開です。
茶室-庭園
茶室前の池は、純浄観の下を通って書院前の池へと続いています。
霊宝館
霊宝館へ向かいます。
霊宝館は昭和10年(1935)に開館し、昭和54年(1979)に新収蔵庫3棟を新築、
更に平成13年(2001)には上醍醐薬師堂の本尊である国宝・薬師三尊像を
中央に安置する大展示室が増築されました。
国宝の薬師三尊像や重文の五大明王像などが安置されていますが
館内の撮影は禁止されています。
唐門
霊宝館から参道に戻り、少し進んだ左側に国宝・唐門を外から見る事ができます。
唐門は北政所の寄進により建立され、平成23年(2011)に解体修理が行われ、
黒漆塗が施されて建立当時の豪華さがよみがえっています。

仁王門へ向かいます。
続く

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仁王門
仁王門(西大門)は慶長10年(1605)に豊臣秀頼により再建されました。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は平安後期の長承3年(1134)に仏師・勢増、仁増によって造立され、
元は南大門に安置されていました。
体内の墨書、納札等に南大門から移された経緯などが書かれています。
仁王像は国の重要文化財に指定されています。
鐘楼
仁王門をくぐり、その先で右に曲がった先に鐘楼があります。
金堂
鐘楼の先で左に曲がり、その先の左側に国宝に指定されている金堂があります。
金堂は第60代・醍醐天皇の御願により延長4年(926)に建立され、
当初は釈迦堂と呼ばれていました。
その後、応仁・文明の乱など戦乱で金堂は焼失し、下醍醐は荒廃しましたが、
豊臣秀吉が慶長3年(1598)に催した「醍醐の花見」をきっかけに、
金堂の再建が行われました。
同年、紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された
後白河法皇の御願寺)本堂の移築工事が始まりました。
部材には平安時代のものが残り、鎌倉時代に改修を受けており、
移築時の桃山時代の手法も混在しています。
秀吉没後の慶長5年(1600)に落慶しました。

本尊は薬師如来坐像(像高128.8cm)で、鎌倉時代前期の作とされています。
脇時には像高190.9cmの日光菩薩像と像高185.1cmの月光菩薩像が安置されています。
薬師三尊像は満願寺から遷されたもので、国の重要文化財に指定されています。
堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色があります。
五重塔
金堂の向かいに五重塔があり、国宝に指定されています。
総高は38mで、うち相輪部が12.8mあり全体の3割以上を占めています。
承平元年(931)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために
第三皇子の代明親王(よしあきらしんのう)が発願し、
穏子(やすこ)皇太后の令旨で建立が計画されました。
しかし、承平7年(937)に代明親王が亡くなり、その影響を受け工事は停滞し、
20年後の天暦5年(951)にようやく完成しました。
天正13年(1585)の大地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受けたため、
豊臣秀吉の援助で慶長3年(1597)に修理が行われました。
昭和25年(1950)のジェーン台風でも被害を受け、同35年(1960)に修理が行われました。
五重塔は焼失を免れ、京都府最古とされ、現在に残された数少ない平安時代の建物です。
初重内部には、平安時代に描かれた両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画が残され、
塔とは別に国宝に指定されています。
清瀧宮-本殿
五重塔の西側に清瀧宮本殿があり、国の重要文化財に指定されています。
醍醐寺の総鎮守・清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社で、永長2年(1097)に、
最初に建立された上醍醐から分身を遷し、祀られました。
応仁・文明の乱で社殿が焼失し、現在の社殿は永正14年(1517)に再建されたものです。
清瀧宮-拝殿
清瀧宮拝殿は慶長4年(1599)、座主・義演(ぎえん)僧正により整備されました。
毎年4月1日から21日まで『清瀧権現桜会(さくらえ)』として様々な法要が行われています。
不動堂
五重塔から坂道を少し登った左側に不動堂があります。
不動堂-明王
不動堂の前には護摩道場があり、不動明王の石像が祀られています。
不動堂-堂内
不動堂は昭和5年に(1930)建立され、堂内には不動明王を中心に
降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、
大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王の五体の明王像が安置されています。
真如三昧耶堂
不動堂の右上方に真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)があります。
元は第61代・朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦3年(949)に創建されましたが、
文明2年(1470)に焼失し、その跡地に平成9年(1997)、真如三昧耶堂として建立されました。
真如三昧耶堂-涅槃像
堂内には釈迦涅槃像が安置されています。
役行者
真如三昧耶堂から参道へ戻る途中に神変大菩薩(役行者)が祀られています。
醍醐寺を開創した理源大師・聖宝(しょうぼう)は、役行者によって創始されたという
山岳修行に、霊異相承・実修実証の祈りの原点を求めたとされています。
聖宝は役行者が開いたとされる吉野の金峰山(きんぷせん)で山岳修行を行うとともに、
参詣道の整備や仏像造立などで金峰山の発展に尽力しました。
醍醐寺は「役行者霊蹟札所」になっています。
祖師堂-1
参道に戻り、少し登った所に祖師堂があります。
慶長10年(1605)に第46世座主・義演によって創建されました。
祖師堂-2
堂内には右側に弘法大師像、左側に弘法大師の孫弟子である
理源大師・聖宝像が安置されています。
伝法学院-入口
伝法学院-建物-入口
伝法学院-庭
祖師堂の先に旧・伝法学院があります。
伝法学院は、仏道修行を志す者の修練道場として、醍醐天皇一千年御忌を記念して、
昭和5年(1930)に建立されました。
伝法学院-建物
現在は五重塔の南側に移転されたそうで、残された建物にはブルーシートが掛けられ、
周囲の景観の中で悲哀さを感じさせます。
中門
参道に戻ると、先に東の中門があり、かっては上醍醐口門と呼ばれ、
上醍醐への入口となる門でした。
最初の中門は、金堂などが整備された承平元年(931)に建立されました。
現在は、参道の先にある女人堂が上醍醐への入口になっています。
大伝法院-鐘楼
門をくぐった左側にある鐘楼堂は昭和5年(1930)に建立されました。
観音堂
鐘楼堂の右側に観音堂があります。
観音堂を中心に広がる、林泉及び弁天堂、地蔵堂、鐘楼、伝法学院等を総称して
「大伝法院」と呼ばれています。
昭和5年(1930)、醍醐天皇一千年御忌を記念し、山口玄洞(やまぐちげんどう)氏の
寄進により造築されました。
平成20年(2008)、上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)が落雷により焼失したため、
西国三十三所など各種納経はここで行われています。
観音堂前の石段は角度が急なためか、裏側にスロープが設けられ、そこから出入りします。
放生池
観音堂前の東側に放生池があります。
寿庵
放生池の畔にはお休み処「寿庵」があります。
弁天堂-1
弁天堂
「寿庵」の先に弁天堂があります。
放生池-滝
弁天堂へと架かる橋からは二筋の滝が望めます。
無量寿苑
滝の上には中央に小川を配した「無量寿苑」と名付けられた庭園が築かれています。
無量寿苑-滝
小川の先には小さな滝があります。
上醍醐への橋
上醍醐へのゲート
庭園から東へ進み橋を渡った先にゲートがあります。

上醍醐へ向かいます。
 続く

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上醍醐登り口
准胝堂(じゅんていどう)が焼失する前までは、西国霊場で最も難所と言われた
上醍醐まで登ります。
道標では約2.6km、60分と表示されています。
鳥居
ゲートを越えてすこし進んだ所に鳥居が建っています。
女人堂
鳥居の先に女人堂があります。
正式には「成身院(じょうしんいん)」で、かって女性はここから先に進む事が許されず、
ここより山上の諸仏を拝んだことから、「女人堂」と呼ばれるようになりました。
成身院は江戸時代初期に再建され、山上の准胝観音の分身が祀られています。
水掛露仏
本堂の前には江戸時代作の不動明王、理源大師、弥勒菩薩、役行者、地蔵菩薩の
水掛露仏が祀られています。
上醍醐へはここより入山料600円が必要で、三宝院・霊宝館・伽藍の
拝観券を見せると500円に割引されます。
登り口の最初
最初は谷川のせせらぎや小鳥のさえずりを聞きながら、
緩やかな坂道を登る快適なハイキングコースのようです。
花見御殿跡-1
約10分ほど登った所に、慶長3年(1598)に催した醍醐の花見で「花見御殿」が
建てられた跡が残されています。
女人堂からの参道にも、両側に桜の木が植えられ、
茶屋8棟が設けられたと説明されています。
花見御殿跡-2
現在は杉などの大樹が繁り、下界の桜などは望めない状況で、立ち入ることもできません。
参道と谷の分かれ
先に進むと参道は谷から離れ、急な石段の連続になり、
石段は山頂付近まで途絶えることなく続きます。
難所と言われる所以がだんだん判ってきます。
不動の滝
花見御殿跡から20分余り登った所に花見御殿跡から20分余り登った所に
不動の滝があります。
不動の滝からの石段
不動の滝からもやはり石段が続きます。
音羽大王-1
音羽大王-2
石段を登って行くと、音羽大王が祀られた社殿があります。
不明な石碑
更に登って行くと石碑がありましたが、文字が読めず詳細は不明です。
峠の石仏
女人堂から登り始めて40分余り、ようやく峠のような所にたどり着きました。
石仏が祀られています。
ここから緩やかに下っていきます。
上醍醐寺務所の門
少し下って行くと、上醍醐寺務所の門があります。
清瀧宮拝殿-1
門の横を通り過ぎ、懸造りとなっている清瀧宮拝殿を見上げるように進みます。
清瀧宮拝殿-2
突き当たりの左側の石段を上った所に、国宝の清瀧宮拝殿があります。
平安時代の寛治2年(1088)に建立されましたが、
現在の建物は室町時代の永享6年(1434)に再建されたものです。
清瀧宮本殿
拝殿の奥に本殿があるようですが、直接は見えないようです。
空海が唐・長安の青龍寺から持ち帰ったと伝わる
清瀧権現(せいりゅうごんげん)が祀られています。
清瀧権現は八大龍王の一尊の善女龍王で、真言の奥義を敬って出現したとされています。
当初、清瀧権現は高雄山麓に勧請されたため、山麓を流れる川は「清滝川」と改称されました。
その後、昌泰3年(900)頃に理源大師・聖宝が現在地に勧請し、
真言密教を守護する女神となりました。
承徳元年(1097)には勝覚が上醍醐から下醍醐に分祀しました。
閼伽井-1
拝殿から奥に進むと醍醐水の閼伽井(あかい)があります。
閼伽井-2
理源大師・聖宝は貞観16年(874)に上醍醐山上で地主・横尾明神の示現により、
醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を
安置したのが醍醐寺の始まりとされています。
石段
閼伽井横の石段を上ります。
准胝堂跡
今はただの空き地になっていますが、かってここに准胝堂がありました。
跡地の奥の方に五輪塔が見え、その奥には鎮守社らしき小さな祠も見えます。
燈籠
残された青銅製の燈籠がポツンと建っています。
准胝堂の創建は貞観18年(876)と伝えられていますが、幾度かの火災により焼失、
近代でも昭和14年(1939)に焼失しました。
昭和43年(1968)に再建されましたが、平成20年(2008)に落雷により焼失し、
再建の準備中とのことです。
宝篋印塔
跡地の左側には宝篋印塔が建っています。
子育地蔵尊
宝篋印塔前方の山肌に子育地蔵尊とその周囲に石仏が祀られています。
山頂への道標
山頂へ向かいます。
薬師堂
国宝の薬師堂があります。
延喜7年(907)、醍醐天皇の勅願により理源大師・聖宝によって創建されました。
現在の建物は保安2年(1121)に再建されたもので、堂内には薬師三尊像(国宝)、
閻魔天像、帝釈天像、千手観音像(以上重要文化財)などが安置されていましたが、
現在は全て霊宝館に遷されました。
如意輪堂
薬師堂から更に登っていくと崖造の如意輪堂が眼前に迫ってきます。
『醍醐寺縁起』によると貞観18年(876)に理源大師・聖宝が上醍醐を開いた際、
准胝堂と共に最初に建てた建物とされています。
慶長10年(1605)に焼失し、翌年豊臣秀頼により再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本尊は如意輪観音で、脇の間に毘沙門天、吉祥天が祀られています。
展望
如意輪堂の前は展望が開けています。
運が良ければ大阪湾まで望めるそうです。
五大堂
如意輪堂の奥にに五大堂があります。
五大堂は延喜13年(913)に醍醐天皇の御願堂として創建されました。
以後数度の災に遭い、近年では昭和7年(1932)に護摩の火が屋根に燃え移り
国宝だった建物は焼失しました。
現在の五大堂は昭和15年(1940)に再建されました。
五大堂-堂内
堂内には壁画が描かれ、本尊の五大明王は霊宝館に遷されました。
白山権現社
五大堂の左奥に白山権現社があります。
寛平9年(897)、理源大師・聖宝により、山上の守護として勧請されました。
現在の社殿は江戸時代に豊臣秀頼により再建されました。
開山堂-1
東側にある開山堂は御影堂(みえどう)とも祖師堂とも呼ばれ、
延喜11年(911)に理源大師・聖宝の高弟であり醍醐寺第一世の
観賢(かんげん)座主により創建され、自作の聖宝像が安置されていました。
開山堂-2
文応元年(1260)に焼失し、弘長元年(1261)に再建され、新たに聖宝像も造立されました。
現在の建物は慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
経蔵
開山堂の右側に経堂があります。
旧経堂が焼失したため新しくこの地に建立されたように思います。
上醍醐陵
開山堂の前から少し下った所に白河天皇の中宮・藤原 賢子
(ふじわら の けんし)の上醍醐陵があります。
承暦3年(1079)に善仁親王(後の堀河天皇)を出産しましたが、
応徳元年9月22日(1084年10月24日)に28歳で崩御されました。
経堂跡
開山堂からの下りは、薬師堂の南側のルートにしました。
経堂跡と思われる整地された場所があります。
昭和14年(1939)8月29日、山火事が飛び火して鎌倉時代の
建久6年(1195)に建立され国宝だった経堂は焼失しました。
堂内に保管されていた一切経などは持ち出されて焼失を免れました。
ここから下ると清瀧宮拝殿の下へと続いています。
南門
下山していくと醍醐寺の南門があります。
この門から入ると仁王門前へと続くのですが、
平成30年(2018)9月4日の台風により参道に被害を受け、門は閉じられていました。
黒門
南門から下って行くと黒門があります。
この門から入ると霊宝館のまえから三宝院へと続きます。
太田垣蓮月仮寓
黒門の向かいに(南側)に太田垣蓮月仮寓(かぐう=仮住まい)跡があり、
国の登録有形文化財に指定されています。
太田垣蓮月は京都に生まれ、俗名は誠(のぶ)といい、生後10日にして
京都知恩院門跡に勤仕する大田垣光古の養女となりました。
生母は誠を出産して後に、丹波亀山藩の藩士の妻となり、この生母の結婚が縁で、
寛政10年(1798)頃より丹波亀山城にて御殿奉公を勤め、10年ほど亀山で暮らしました。
養父の光古には5人の実子がいましたが、4人は誠が養女となる前に亡くなり、
唯一成人した末子も誠が亀山で奉公中に亡くなりました。
光古は新たに養子を迎え、文化4年(1807)頃に奉公を終えた誠と結婚し、
一男二女をもうけましたが、いずれも幼くして亡くなり、
さらに文化12年(1815)には養子に入った夫も亡くなりました。
光古は再び養子を迎え、文政2年(1819)に誠と再婚して一女をもうけましたが、
文政6年(1823)に夫は亡くなり、誠は剃髪して仏門に入り、蓮月と号しました。
養父の光古も出家し、共に知恩院内の庵で暮らしていたのですが、
2年後に子を亡くし、更にその2年後には養父も亡くなりました。
養父の死を期に、蓮月は岡崎村(現在の京都市左京区岡崎)に移り、
陶芸で生計をたてました。
自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は「蓮月焼」と呼ばれ、
京のお土産として人気を博すほど評判となりました。
安政2年(1855)には少年であった富岡鉄斎を預かって育て、
京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、
また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動を行いました。
また、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知られ、
この仮寓跡もその引っ越し先の一軒でした。
晩年は西賀茂村神光院の茶所で暮らし、明治8年(1875)12月10日に85歳で亡くなりました。

京都十三仏霊場5番、京の六地蔵1番札所の大善寺へ向かいます。
続く

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外環に面した入口
外環状線のJR奈良線の高架を南側へくぐった先に大善寺があります。
大善寺は山号を法雲山、院号を浄妙院と称する浄土宗の寺院で、
京都十三仏霊場5番、京都六地蔵1番の札所になっています。
鐘楼
外環状線に面した東側から入ると、左側に鐘楼があります。
鐘楼は江戸時代中期の寛文5年(1665)に東福門院により寄進されました。
東福門院は後水尾天皇の中宮で、明正天皇の生母となりますが、
その安産祈願として鐘楼が寄進されました。
本堂
参道の右側に本堂があり、堂内には本尊の阿弥陀如来像が安置されています。
本堂は江戸時代の宝永年間(1704~1711)に京都山科にある
勧修寺の寝殿が移築されました。
本堂前
本堂前
大善寺は、奈良時代の慶雲2年(705)に藤原鎌足の子・定慧(じょうえ)によって開山、
創建され法雲寺と称したと伝わります。
また、平安時代の仁寿2年(852)に小野篁(おののたかむら)が一本の桜樹から
6体の地蔵菩薩像を刻み「六地蔵」と称したのが起源ともいわれています。
平安時代には園城寺(三井寺)の智証大師・円珍により伽藍の修造が行われ、
天台宗に改宗しました。
鎌倉時代~室町時代には度々の兵火により焼失し、応仁・文明の乱後には衰退しました。
本堂-扁額
本堂に掛かる扁額
その後、戦国時代の永禄年間(1558~1570)に頓誉琳公(とんよりんこう)によって
中興され、浄土宗に改宗されました。
江戸時代の元禄16年(1703)にも焼失しましたが、翌宝永元年(1704)に勧修寺の
伽藍が移築され再建されました。
地蔵堂
参道に戻り、西側の正面に地蔵堂があります。
保元年間(1156~1159)に都で疫病が発生したため、後白河上皇の勅命により
平清盛が西光法師に命じて京都の街道の入り口、六ヶ所に六角堂を建て一体づつ、
地蔵菩薩像を安置しました。
地蔵堂-堂内
大善寺は伏見街道から奈良街道口に当たり、大善寺の地蔵尊が根本像となりました。
この地、六地蔵の地名のもとにもなっています。
観音堂
地蔵堂の右側に観音堂があり、千手観世音菩薩が祀られています。
山門
境内の南側に山門があります。

明治天皇陵へ向かいます。
続く

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石段
大善寺から外環状線を西方向に進み、京阪宇治線の桃山南口駅前からの通りとの
交差点を右折して北へ進むと左側に駐車場があります。
参道入口
駐車場から横断歩道を渡り、山側に登ると石段があり、それを登ると明治天皇陵へ
最短で向かえますが、車道を進み、JR桃山駅からの参道を進みたいと思います。
参道脇の石-1
かって、この地には豊臣秀吉が築いた伏見城がありました。
参道の脇には城の石垣に使用されていた石材が残されています。
当初伏見城はJR桃山駅の南西側に築かれましたが、文禄5年(1596)の
慶長伏見地震」で倒壊し、その2日後の7月15日に木幡山の現在地に城が着工され、
10月10日に本丸が完成したとの記録が残されています。
秀吉が城に入って4年後の慶長3年(1598)に秀吉は亡くなり、
伏見城には徳川家康が入りました。
家康も半年後には大坂城へ移り、慶長5年(1600)6月には
会津征伐のため東国へ向かいました。
この間隙をぬって反家康軍が挙兵して伏見城を攻撃し、落城しました。
宇治市にある興聖寺などには落城で自刃して果てた徳川軍の血で染まったとされる
床板が天井に張られています。

伏見城はその後、徳川家康により再建され、慶長8年(1603)に家康が伏見城で
征夷大将軍の宣下を受けると、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式が行われました。
しかし、慶長11年(1606)頃になると駿府城が改築され、
伏見城の作事は停止されて器材や屋敷も駿府城へと運ばれました。
そして、一国一城令の主旨から、伏見城と同時に再建された二条城は残され、
元和5年(1619)に伏見城の廃城が決定されました。
二条城の天守、御香宮神社の表門、西本願寺の唐門、都久夫須麻神社の本殿、
淀城の石垣などは伏見城の遺構です。
廃城後、城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて「桃山」と呼ばれるようになりました。
陵-1
明治天皇陵は伏見城の本丸跡地に造営されました。
陵-2
上円下方墳で、上段の円丘部の高さは約6.3mあり、表面はさざれ石で葺かれています。
下段の方形壇の一辺は約60mで、方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、
その中に棺を入れた木槨(もっかく)が納められています。
天智天皇陵をモデルとしたのですが、天智天皇陵は1970年代から
1980年代に行われた宮内庁の調査で、円丘部は八角形であることが判明しました。

明治天皇は孝明天皇の第二皇子で、権大納言・中山忠能(なかやま ただやす)の
娘・中山慶子(なかやま よしこ)を母親とし、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に
京都の中山邸で誕生しました。
称号は祐宮(さちのみや)で、安政3年9月1日(1856年9月29日)に中山邸から
宮中へと転居し、万延元年閏3月16日(1860年5月6日)に、深曽木の儀が行われました。

同年9月28日(11月10日)に親王宣下を受け睦仁(むつひと)の諱(いみな)を賜りました。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)に孝明天皇が崩御され、
元服前のため立太子を経ずに慶応3年1月9日(1867年2月13日)に満14歳で
践祚(せんそ)の儀を行い皇位を継承しました。
慶応4年1月15日(1868年2月8日)に元服し、同年8月21日(10月6日)から一連の儀式を経て、
8月27日(10月12日)即位の礼が執り行われました。
幕末の動乱の中で、討幕を免れるために徳川慶喜は、
慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を奏上し、
翌15日(11月10日)に明治天皇は奏上を勅許しました。
討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、
新政府樹立を宣言しました。
慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して
新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって
新しい政治制度を採用し、明治と改元して一世一元の制を定めました。

天皇は明治45年(1912)7月30日に宝算61歳(満59歳)で崩御され、
大正元年9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場
(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われました。
その後、約1ヶ月半の間、宮中では様々な儀式が執り行われ、明治天皇の柩は遺言に従い、
鉄道で京都へ運ばれて9月14日に現在地に埋葬されました。
眺望
明治天皇陵からは伏見区から宇治市、久御山町及び八幡市などの展望が開けています。
かって、眼下には巨大な池というよりは湖であった巨椋池(おぐらいけ)がありました。
豊臣秀吉は、宇治川に「太閤堤」と呼ばれる堤防を築き、
宇治川の流路を城下へと導きました。
それにより伏見は水運で栄えましたが、水路を断たれた巨椋池はマラリア等の
発生源となり、やがて埋め立てられることになりました。
昭憲皇太后陵-立札
明治天皇陵から東側へ下って行くと明治天皇の皇后・昭憲皇太后
(しょうけんこうたいごう)の伏見桃山東陵があります。
昭憲皇太后陵
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)4月17日に従一位左大臣・一条忠香
(いちじょう ただか)の三女として誕生し、勝子(まさこ)と名付けられました。
明治元年12月26日(1869年2月7日)に美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位され、
同月28日(1869年2月9日)、明治天皇に入内して皇后に立てられました。
皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、
明治19年(1886)以降は、着用の衣服を洋服に切り替えました。
華族女学校(現学習院女子高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校
(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与しました。
明治45年(1912)にはアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて
第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后が10万円
(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる)を下賜しました。
赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金 (Empress Shōken Fund) を
創設し、この基金は現在も運用されて皇后の命日に利子の配分が行われています。
また、和歌や古典文学にも造詣が深く、和歌の一首に旋律が付けられ、
日本最初の校歌となりました。
皇后は国政には直接関与せず、近代日本の皇后像を確立し、
大正3年(1914)4月9日午前1時50分に崩御され、
同年5月9日に追号を『昭憲皇太后』と治定されました。
道標
昭憲皇太后陵から下ると石段下へと続き、駐車場へ戻って御香宮神社へ向かいます。
続く

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