カテゴリ:京都市 > 京都市山科区

極楽橋
毘沙門堂はJR及び京阪、地下鉄山科駅から北へ徒歩約15分の距離にあります。
毘沙門堂は正式には安国院出雲寺と称し、天台宗・京都五箇室門跡
一つに数えられています。
当初、毘沙門堂は飛鳥時代の大宝3年(703)、第42代・文武天皇の勅願により、
僧・行基が上御霊神社付近の出雲路に創建したと伝わります。
創建当初は出雲寺と称しました。
平安京遷都の翌年の延暦14年(795)、第50代・桓武天皇の行幸があり、
最澄は延暦寺・根本中堂本尊の薬師如来を刻んだ余材で像高6.7cmの
毘沙門天像を刻み天皇に奉献しました。

平治元年(1159)の平治の乱で出雲寺は焼失し、その後荒廃しました。
鎌倉時代初期の建久6年(1195)、平親範が廃絶していた平家ゆかりの3つの寺院を
合併する形で再興しました。
その一つ平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である
葛原親王(かずらわらしんのう)により、現在の右京区太秦に創建されました。
最澄が刻んだ毘沙門天像は、桓武天皇の念持仏として冠の中に納められていましたが、
葛原親王に託され、親王の念持仏となりました。

尊重寺は桓武平氏の流れを継ぐ平親信により、現在の上京区五辻に創建されましたが、
平等寺と尊重寺はその後廃絶しました。
護法寺は平親信の父・平範家により伏見に創建されましたが、
応保元年(1161)に左京区岩倉に移転しました。
しかし、長寛元年(1163)に焼失し、大原来迎院付近に仮の堂宇を建てて移りました。
三寺院は建久6年(1195)に出雲寺の地で平範家により再興され、出雲寺の寺籍を継いで
「護法山出雲寺」と称し、新たに丈六(4.85m)の毘沙門天像が造立され、
最澄自刻の毘沙門天が胎内に納められました。
延暦寺・根本中堂に倣い、西に平等寺、東に尊重寺、中心に護法寺を据える配置となり、
「毘沙門堂」と呼ばれました。

桜の名所として栄えていたのですが、応仁元年(1467)の応仁の乱で焼失し、
文明元年(1469)に再建されるも、元亀2年(1571)に
織田信長の元亀の乱により再び焼失しました。

江戸時代の慶長16年(1611)、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった
天海によって復興が開始されました。
江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、
天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665)に完成しました。
その後、後西天皇皇子の公弁法親王(こうべんほっしんのう)が受戒し、晩年には隠棲しました。
以後、代々の住持に法親王がなり、門跡寺院として
「毘沙門堂門跡」と称されるようになりました。

境内に入る手前にある極楽橋は、第111代・後西天皇が行幸された際に、
「橋より上はさながら極楽浄土のようである」と感嘆されたことから、
以後「極楽橋」と呼ばれるようになりました。

極楽橋を渡った所に建つ門跡碑「毘沙門堂門跡」は後西天皇が行幸された時に賜った勅号です。
猫
参道の猫
何を見ているのでしょう...?そこには誰もいないのに...
地蔵堂
参道の石段の途中、右側に地蔵堂があります。
地蔵堂-堂内
堂内には地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵菩薩像
地蔵堂の右側には地蔵菩薩の石像が祀られています。
参道の石段
地蔵堂の先は石段が急峻となります。
仁王門
石段を登った所に江戸時代の寛文5年(1665)に建立された仁王門があります。
仁王像-右
吽形像
仁王像-左
阿形像
本堂-1
正面の唐門は本堂の中門として寛文5年(1665)に建立されました。
唐門をくぐった右側に納経所があります。
毘沙門堂は神仏霊場・第127番札所となっています。
本堂
本堂は寛文5年(1665)に四代将軍・徳川家綱の寄進により建立されました。
材木は尾張、紀伊徳川家より取り寄せられました。
本堂から諸堂の拝観ができますが、建物内の撮影は禁止されています。
本尊は毘沙門天像で秘仏とされ、12年毎の寅年に開帳されます。
本尊前には江戸時代初期作の毘沙門天像が御前立として安置され、
左に不動明王、右に東照神君坐像(徳川家康)が安置されています。
本堂裏からの弁天堂
本殿裏からの弁天堂。
霊殿
霊殿は永禄6年(1563)の第三世・公弁法親王が住持の時、父・後西天皇から
御所の御霊屋として建立された建物が下賜され、移築されました。
堂内には阿弥陀如来が中央に安置され、周囲に歴代の影像や位牌が祀られています。
天井には狩野主信(かのう もりのぶ)による「八方睨みの龍の図」が描かれています。
「夜中に龍が水を欲して絵から抜け出した」との伝承があり、龍の周囲は水を示す
青い丸で囲われています。
四隅には雲が描かれ、全て濃淡が異なっています。
閼伽井
霊殿から宸殿への渡り廊下の北側に閼伽井があります。
宸殿
宸殿は貞享3年(1686)に公弁法親王が、御所にあった後西天皇の旧殿を拝領し、
元禄6年(1693)に移築を完了して毘沙門堂の書院となりました。
宸殿内部には六室あり、狩野益信(かのう ますのぶ)により
障壁画・116面が描かれています。
どの角度から見ても描かれている人物がこちらを向いているように見え、
「動く襖絵」と称されています。
枝垂桜
宸殿前の枝垂れ桜は樹齢約150年とされ、「区民誇りの木」に指定されています。
樹高7.8m、幹回り2.3m、枝張は30mにも及び、現在の桜の木は約350年前に
中興されてから5代目として引き継がれています。
晩翠園
宸殿の北側には池泉回遊式庭園が築かれています。
山裾に迫る木立の枝間は暗く、さながら夜目に翠(みどり)を思わせることから
「晩翠園(ばんすいえん)」と名付けられました。
晩翠園-観音堂
池の奥には観音堂が建立されています。
晩翠園-手水鉢
鞍馬自然石の手水鉢は、公弁法親王が気に入り、
牛に牽かせて持ち帰ったとされています。
玄関-1
玄関-2
玄関
玄関の右横には使者の間があります。
庫裡
玄関の西側に庫裡がありますが、順路には含まれていません。
経蔵
本堂を出ると、本堂の手前右側に天和2年(1682)に建立された一切経堂があります。
経蔵-堂内
堂内には千手観音像などが安置されています。
稲荷社
一切経堂の左奥に稲荷社があります。
弁財天社-鳥居
稲荷社前の参道には鳥居が建っています。
弁財天社-石橋
鳥居をくぐり、参道を進むと池があり、石橋が架けられています。
弁財天社-池-1
池の左側
弁財天社-池-2
池の右側
弁財天社
弁天堂には豊臣秀吉の生母・大政所の念持仏であった高台弁才天が祀られています。
大坂城で祀られていましたが、落城後に北政所(ねね)が高台寺に移ったのに伴い、
高台寺で祀られるようになりました。
公弁法親王が巡錫(じゅんしゃく)された際に、
庶民福楽の為に所望せられて当地に勧請されました。
滝行場
弁天堂の右奥に滝行場があります。
水天
滝行場の右側には水天などが祀られています。
鐘楼
弁財天社から戻り本堂の左側へ向かった所に
寛文6年(1666)に建立された鐘楼があります。
山王社
鐘楼から左へ進んだ所に山王社があります。
勅使門
勅使門は元禄6年(1693)に後西天皇から寄進されたもので、
門主の晋山式(しんさんしき)以外に開門されることはありません。

毘沙門堂の塔頭である護法山双林院(山科聖天)へ向かいます。

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

鳥居
毘沙門堂の庫裡から西へ進み、石段を下って行った先に護法山双林院があります。
毘沙門堂が現在地で再建された寛文5年(1665)に双林院が創建されました。
当初は湖東三山の西明寺から阿弥陀如来が勧請され本尊としていました。
後に公遵法親王(こうじゅんほっしんのう)の念持仏であった大聖歓喜天を賜り、
本尊としたことから通称で「山科聖天」と呼ばれるようになりました。
公遵法親王は第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう)の第二皇子で、
享保16年(1732)に毘沙門堂で得度しました。
元文3年(1738)に輪王寺門跡となり、延享2年(1745)には天台座主に就任しました。
地蔵像
参道の石段脇には地蔵菩薩の石像が祀られています。
聖天堂
山門をくぐった右側の石段上に明治元年(1868)に建立された聖天堂があります。
本尊は大聖歓喜天で、武田信玄が奉納したと伝わる歓喜天など
約70躯の歓喜天像が合祀されています。

歓喜天はヒンドゥー教のガネーシャ(=群集の長)に起源を持ち、ヒンズー教最高神の
一柱・シヴァ神を父とし、シヴァの軍勢の総帥を務めたとされています。
古代インドでは、もともとは障害を司る神でしたが、やがて障害を除いて
財福をもたらす神として信仰されました。
仏教に帰依し、護法善神となったとして仏教に取り入れられるようになりました。

本尊の大聖歓喜天の像容は頭が象で、首から下は人の姿とされ、男女二躯が
向かい合って抱擁されている陰陽和合の「男女合体神」で、秘仏とされています。
ガネーシャが象の頭を持つ理由には、「シヴァが帰還した際、ガネーシャが
シヴァだと知らずに入室を拒んだのでシヴァが激怒して
ガネーシャの首を切り落とし、投げ捨てました。
シヴァはガネーシャが自分の子と知り、首を探しに出かけたのですが見つからず、
象の首を切り落としてガネーシャの頭として取り付け
復活させた」という説の他複数あります。
仏教では「象は瞋恚強力(しんにごうりき)ありと雖(いえど)も、
能(よ)く養育者及び調御者に随(したが)ふ。」され、
歓喜天は帰依した人を裏切らないと信仰されています。

また、最澄は六天講式で、「歓喜天を信仰して貧乏を転じて福を与える術を行うべきだ」
との祈願文を定めています。
大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)では、除病除厄、
富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。
不動堂
参道の正面には不動堂があります。
明治16年(1883)に建立され、堂内で大護摩が焚けるように
屋根の最上部が煙突になっています。

本尊の不動明王は元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ちで損傷した
仏像の部材300以上を集めて造立されたと伝わります。
比叡山千日回峰行者で双林院の第24代住職が無動寺より勧請し安置されました。
不動の滝
不動堂の右奥に不動の滝があります。
不動の滝の右側に不動明王の石仏が祀られていますが、
手前からは不動明王像は見えません。
阿弥陀堂
不動堂の左側に阿弥陀堂があり、藤原時代(平安時代中期及び後期)作の
阿弥陀如来坐像が安置されています。
「光坊の弥陀」と呼ばれ、湖東三山の西明寺から遷されました。
寺務所
阿弥陀堂の左側に寺務所があり、御朱印がいただけます。
稲荷大明神
参道脇に祀られている稲荷大明神
正一位・八ッ房龍神
正一位・八ッ房龍神
正一位・太郎須大明神
正一位・太郎須大明神

天智天皇陵へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

参道
立札
毘沙門堂から三条通へ戻り、三条通を西へ進んで府道143号線に合流し、
JRのガードをくぐった右側に天智天皇陵への参道があります。
門
参道を進むと門があり、門からも参道が続いています。
天智天皇陵-1
天智天皇は第34代・舒明天皇の第二皇子で、諱(いみな=実名)は
葛城(かずらき)ですが、通称で「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と呼ばれていました。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと計略を立て、
皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変(いっしのへん)を起こしました。
翌日には皇極天皇の同母弟である孝徳天皇を即位させ、
中大兄皇子は皇太子となりました。
中大兄皇子は「大化の改新」を行い、豪族中心となっていた政治を天皇中心と戻し、
「天皇」という称号の使用を始め、「日本」という国号が定められました。
また、斉明天皇6年(660)に漏刻(ろうこく=水時計)を作り、大津京において
時報を開始したことから6月10日が時の記念日となりました。

斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)に斉明天皇が崩御されましたが、
中大兄皇子は皇位に即かず皇太子のまま称制(しょうせい)しました。
天智天皇陵-2
天智天皇6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮へ遷都し、
天智天皇7年1月3日(668年2月20日)に第38代天皇として即位し、
同母弟の大海人皇子(後の天武天皇)を皇太弟としました。
しかし、天智天皇9年11月16日(671年1月2日)に第1皇子・大友皇子を
史上初の太政大臣に任命したため、大海人皇子は皇太弟を辞退し、
代わって大友皇子が皇太子となりました。

天智天皇10年9月(671年10月)、天皇は病に倒れ、弟の大海人皇子に
後事を託そうとしましたが、大海人皇子は固持して受けず、剃髪して吉野へ去りました。
天智天皇10年12月3日(672年1月7日)、天智天皇は近江大津宮で
崩御されましたが、異説もあります。
『扶桑略記(ふそうりゃくき)』には「天皇は山科へ馬で遠乗りに出かけ、
そのまま帰って来なかった。
山に深く分け入ってどこで死んだかも判らず、沓が落ちていた所を陵とした」と記されています。
また、行方不明では無く、暗殺されたとの説もあり、
それが「壬申の乱」の始まりとする見方もあるようです。

元慶寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

山門
天智天皇陵から府道143号線を南へ進み、横断歩道橋がある信号を右折し、
その先の渋谷街道で右折して渋谷街道を西進します。
「フレスコ北花山店」を通り過ぎ、「ドラッグ・ユタカ」前の細い路地を右折、
北上した正面に元慶寺があります。
渋谷街道沿いに立て看板があり、それが目印となります。
路地を入った右側に数台の駐車場があります。

元慶寺は山号を華頂山と号する天台宗の寺院で、平安時代の貞観10年(868)に、
第56代・清和天皇の女御であった藤原高子(ふじわら の こうし)が
貞明親王(後の第57代・陽成天皇)の誕生に際して発願し、
僧・遍昭を開基として創建されました。
当初は定願寺と称されていましたが、元慶元年(877)に清和天皇の勅願寺となり、
年号から寺号を元慶寺と改称されました。
元慶寺が立地する北花山は、山科七郷の一つで、
飛鳥時代の第38代・天智天皇の時代は「華頂」を郷名としていました。
その郷名が山号になったと思われます。

寛和2年(986)、藤原兼家、道兼父子の策略により第65代・花山天皇
出家させられるという寛和の変が起こりました。
花山天皇は元慶寺で出家し、花山法皇となりました。
花山法皇は、徳道上人が創始した後、廃れつつあった
西国三十三所観音霊場の巡礼を復興した縁で、元慶寺は番外札所となっています。

室町時代の応仁・文明の乱で被災してからは荒廃し、寺域は縮小され
小堂があるだけの寺院となりました。
江戸時代の安永8年(1779)になって、ようやく再建が始まり、天明3年(1783)に落慶し、
入仏供養が行われたとの記録が残されています。

山門は唐風の龍宮造の鐘楼門で、寛政4年(1792)に再建されました。
帝釈天
帝釈天
梵天
梵天
山門に安置されていた梵天と帝釈天は、現在は京都国立博物館に寄託されています。
梵鐘は、菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた三代目です。
山門前の碑
山門前には「禁葷酒(きんくんしゅ=酒の匂いをさせて
山門を潜るべからず)」と刻まれた石碑が建っています。
本堂
山門を入った左側に寛政元年(1789)に再建された本堂があります。
本尊は遍昭作の薬師瑠璃光如来で、花山法皇の宸影などが安置されています。
手水鉢
本堂前の手水鉢
歌碑
境内には遍昭僧正とその右側に遍昭の子である素性法師の歌碑が建立されています。
遍昭僧正 「天津風 雲の通い路 吹きとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ」
遍昭僧正は六歌仙及び三十六歌仙の一人とされ、多くの歌を残しました。

素性法師 「今こむと言ひし許(ばかり)長月のありあけの月を待ちいでつる哉」
遍昭僧正と素性法師は宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍しました。
仁明天皇の皇子・常康親王が出家して雲林院を御所とした際、
遍照・素性親子は出入りを許可されていました。
親王薨去後は、遍照僧正が雲林院の管理を任され、僧正入寂後も素性法師は
雲林院に住まい、雲林院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られました。
六所神社-御神水井跡
渋谷街道を更に西へ進み、交番がある四つ角を右折して北へ進むと
JR東海道線の跨線橋(こせんきょう)が架かり、
その手前を山側へ登った所に六所神社があります。
社号標石の建つ脇に「古跡 御神水井跡」がありますが、詳細は不明です。
六所神社-トンネル
跨線橋側から見れば、トンネル上に六所神社があります。
東海道線
余談ですが、トンネルを出た東海道線は大きく蛇行して山科駅へと続いています。
六所神社-鳥居
鳥居は平成2年(1990)に建立されました。
六所神社は、仁和3年(887)に遍昭が伊勢から天照皇大神、
尾張から熱田大神、山城から賀茂大神と八幡大神、大和から春日大神、
近江から日吉大神を勧請し、元慶寺の鎮守社として創建されました。
六所神社-社務所
鳥居をくぐると斜めに登る石段があり、角に社務所があります。
六所神社-拝殿
拝殿
六所神社-本殿-1
現在の本殿は昭和47年(1972)に再建されました。
六所神社-本殿-2
六所神社は明治の神仏分離令で元慶寺から切り離され、
明治6年(1873)に村社に列せられました。
それからか、それ以前からか、時期は定かではありませんが、
北花山の産土神として信仰されています。
遍昭僧正の墓-1
交番が四つ角から南へ進んだ住宅の裏側に遍昭僧正の墓があり、
宮内庁により管理されています。
遍昭は第50代・桓武天皇の孫で、第54代・仁明天皇に仕えましたが、
天皇が崩御されたのを期に出家しました。
比叡山で慈覚大師・円仁、智証大師・円珍に師事し、
貞観10年(868)に元慶寺を創建しました。
仁和元年(885)に僧正となって「花山僧正」と呼ばれるようになり、
この年の12月には第58代・光孝天皇が主催して宮中・仁寿殿で
遍昭僧正の70歳の賀が行われました。
遍昭僧正は寛平2年1月19日(890年2月12日)に入寂されました。

岩屋寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

地蔵堂
元慶寺から渋谷街道を西へ進み「北花山」の信号を左折し
、国道1号線を横断して道なりに南進します。
新十条通で右折して次の細い通りで左折し、南進した先で右折、
山科神社の鳥居手前を右折した所に岩屋寺の駐車場があります。
駐車場前には地蔵尊が祀られています。
稲荷社
本堂への石段脇には大石稲荷大神が祀られた社殿があります。
石段
山門
石段を登った所に山門があります。
本堂
山門をくぐった正面に本堂があります。
平安時代の寛平9年(897)に宇多天皇の勅願により山科神社が創建され、
隣接する北側に神宮寺として岩屋寺が創建されました。
当初は天台宗の寺院で、比叡山三千坊の一つでしたが、
現在は曹洞宗永源寺派・天寧寺の末寺で、山号は神遊山(しんゆうざん)と号します。

創建されてから後、岩屋寺は荒廃し、元亀2年(1571)には
織田信長の焼き討ちにより焼失しました。
江戸時代初期の明暦2年(1656)に再興されましたが再び衰微し、
元禄14年(1701)に大石良雄が境内地に邸宅を新築して移り住みました。
大石良雄は秘かに仇討の策をめぐらし、翌年には同志が集まって
9月頃に江戸へ出発しました。
元禄16年(1703)、討ち入りを成し遂げた大石良雄は
邸宅や田畑などを岩屋寺へ寄進しました。

しかし、岩屋寺の荒廃は止まらず嘉永年間(1848~1864)になって、
堅譲尼(けんじょうに)が京都町奉行で、赤穂藩浅野家の支族である
浅野長祚(ながよし)らの寄進を受けて再興しました。
現在の本堂は文久年間(1861~1864)に再建され、大石良雄の念持仏であった
大聖(だいしょう)不動明王を本尊としています。
大聖不動明王は三井寺を中興した智証大師作と伝わり、
近畿三十六不動尊の第24番札所本尊でもあります。
毘沙門堂
山門をくぐった左側に明治34年(1901)に建立された毘沙門堂があり、
四十七士の木像が安置されています。
毘沙門堂奥の宝物殿には赤穂浪士の遺品などが展示されています。
弁財天
山門をくぐった左側に大石弁財天が祀られています。
石灯籠
庫裡前の石灯籠は桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん)により寄進されました。
桃中軒雲右衛門は明治から大正時代にかけての代表的浪曲師で、
赤穂義士伝を得意としました。
茶室
弁財天の奥には茶室・可笑庵があります。
大石邸の古材を使用して建てられ、茶室前の梅の木は大石良雄が手植えしたものです。
参道
石段を下って落ち葉に敷き詰められた参道を北へと進みます。
忠誠堂
参道の左側に忠誠堂(納骨堂)があります。
遺髪塚
参道の正面に安永4年(1775)に建立された大石良雄の遺髪塚があります。
江戸城本丸の通称「松の廊下」で高家(こうけ=儀式や典礼を司る役職)・
吉良義央(きらよしひさ)に対し、刃傷事件を起こした赤穂藩の第3代藩主・
浅野長矩(あさの ながのり)は、即日切腹を命じられ、
浅野家5万石の取り潰しが下されました。
筆頭家老であった大石良雄は赤穂城を幕府に明け渡し、大石家の親族・
進藤源四郎が保証人となって岩屋寺の境内地に移り住みました。
それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっていましたが、
元禄15年(1702)2月15日から数日間、山科会議が行われました。
その後も場所を変えて会議が行われ、7月28日の円山会議で討ち入りが決定され、
大石良雄は10月7日に京を発ち、11月5日に江戸に到着しました。

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、討ち入りが決行され、吉良義央の首は
泉岳寺へと持ち帰られ、浅野長矩の墓前に捧げられました。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府の命により赤穂浪士達は切腹し、
寺坂吉右衛門が大石良雄の遺髪や浪士の遺品を進藤源四郎に届けたとされています。
寺坂吉右衛門は討ち入り隊に加わっていましたが、討ち入り後に赤穂浪士一行が
泉岳寺へ引き上げる際に、大石良雄から密命を受けたとの説があります。
大石邸跡
忠誠堂の前方に大石良雄の邸宅跡があり、第3代京都府知事・北垣国道筆の
「隠棲旧址」の碑と十三重石塔が建立されています。
池跡
邸宅跡前には池の跡も残され、庭が築かれていたように思われます。

忠誠堂の奥から大石神社への通路がありますので大石神社へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ