カテゴリ:京都市 > 京都市右京区北部(仁和寺~高雄以北)

白雲橋
国道162号線を北上すると清滝川に架かる白雲橋があります。
茶山栂尾の碑
その橋の手前右側(東側)に「茶山 栂尾(とがのお)」の碑が建っています。
表参道
橋を渡って少し進んだ先に高山寺の表参道があります。
新型コロナによる緊急事態宣言で、裏参道の先にある無料駐車場は
閉鎖されていますので、参道脇の路肩にバイクを駐車し、
表参道まで戻り、石段を登りました。
表参道-寺号碑
富岡鉄斎筆の「栂尾山 高山寺」の石碑が建っています。
「尾」には 山裾の、なだらかに延びた部分の意味があり、高雄は高尾とも記され、
槙尾(まきのお)と栂尾で三尾(さんび)と称され、北に位置するのが栂尾です。
表参道-仏足石の碑
「仏足石参道」の石碑も建っています。
世界遺産の碑
世界文化遺産の碑
高山寺境内は国の史跡に指定され、平成6年(1994)には
古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。
表参道-入山受付
入山受付がありますが、紅葉の季節以外は境内は無料です。
かってこの付近に大門があったと伝わります。
表参道の石灯籠
参道の両脇には石灯籠が建ち、
その先には正方形の石が17枚連なって敷かれています。
表参道からの東屋
谷を越えて東側に東屋が見えます。
表参道-石水院への別れ
その先で参道は石水院へと分岐しますが、直進して金堂へと向かいます。
金堂への石段
金堂は楞伽山(りょうがせん)の中腹に築かれているため、石段が待ち受けています。
楞伽山はスリランカにある山の名とされていますが、詳細は不明です。
羅婆那夜叉(らばなやしゃ)と称する王が華宮殿に住んでいたとされています。
釈迦が説法をするため、この山を訪れた際、王は釈迦の一行を出迎えた
との故事に因み、明恵は境内の裏山を「楞伽山」、庵室を「華宮殿」とも
「羅婆坊」などとも呼びならわしました。
金堂
現在の金堂は寛永年間(1624~1644)に仁和寺・真光院の古御堂が移築され、
堂内には室町時代作の釈迦如来坐像が安置されています。
かって、この地では山岳修業が行われ、奈良時代の宝亀5年(774)に
第49代・光仁天皇の勅願で「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される
華厳宗の寺院が建立されたと伝わります。
平安時代には神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と
称されていました。

鎌倉時代の建永元年(1206)に明恵は、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、
「日出先照高山之寺(日、出でて、まず高き山を照らす)」の額を下賜され、
この句に因み寺号を「高山寺」としました。
明恵は、治承4年(1180)、9歳の時に両親を亡くし、神護寺の
文覚上人(もんがくしょうにん)の弟子であった叔父の上覚に師事しました。
文治4年(1188)に出家、東大寺で具足戒を受け、「高弁」と名乗り
東大寺の他、仁和寺でも学びました。
23歳の時に紀伊国有田郡白上に遁世(とんせい)し、
3年にわたって山岳修業を行いました。
建久2年(1191)に仏眼仏母尊(ぶつげんぶつもそん)を本尊として仏眼の法を修め、
明恵が見た夢を記録した日記「高弁夢記」を記しています。
高山寺には23歳の建久7年(1196)から51歳の貞応2年(1223)までの
高弁夢記が残され、国の重要文化財に指定されています。
また、仏眼仏母尊は特に密教で崇められている仏の一尊で、
真理を見つめる眼を神格化したものです。
人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となります。
これを「真理を見つめる眼が仏を産む」更に「人に真理を見せて仏として
生まれ変わらせる宇宙の神性」という様に擬人化して考え、
仏母即ち「仏の母」としての仏眼信仰に発展しました。
明恵が念持仏とした絵画の絹本著色仏眼仏母像は
鎌倉時代初期の作で国宝に指定されています。

建久8年(1197)、24歳の明恵は、故郷の紀州湯浅山上の庵で世俗を斥け、
欲を断ち仏道に精進しました。
「形をやつして人間を辞し、志を堅して如来のあとを踏まむ」とまで思いつめ、
自ら五根(目・耳・鼻・舌・身)を削ごうと考え、
日常生活に支障がないとして、耳を切り落としました。
明恵はその後一時高雄に戻りましたが、再び白上へ移り、元久元年(1205)に
仏跡を巡礼しようと天竺(インド)へ渡る計画を立てましたが、
春日明神の神託を受け、断念しました。
その後もインドへの渡航を企てましたが叶いませんでした。
建永元年(1206)に栂尾の地を与えられ、神護寺十無尽院を再興しました。
また、神護寺十無尽院は著しく荒廃していたため、実質的には明恵が
高山寺を開山したとされています。
明恵は華厳宗の復興に尽力し、法相宗の貞慶や三論宗の明遍とならび、
しばしば超人的な学僧と評されます。
一方で仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、
生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践しました。
閼伽井
金堂の裏側に閼伽井があります。
承久元年(1219)に明恵は、現在の金堂の地に本堂を建立しました。
本堂には運慶作の丈六(約4.85m、坐像の場合はその半分)の
盧舎那仏(るしゃなぶつ)などが安置されていました。
本堂の東西には阿弥陀堂・羅漢堂・経蔵・塔・鐘楼などが建立されましたが、
室町時代に殆どの建物が焼失しました。
宝塔
金堂の左側に建つ宝塔は昭和56年(1981)に建立され、
塔内には写経が納められています。
春日明神
金堂の右側には鎮守社があり、春日明神が祀られています。
向山
春日明神社の前からはきれいに植林された北山杉の美林を望むことができます。
高山寺の先の中川の集落は、田畑に適する土地が僅かしか無く、
「山稼ぎ」(林業)が生業になっていました。
水が豊かで冷涼な北山の里で、特に杉の木を育てるには適地ですが、
木材を流して運べる広い川がなく、大きな木を運び出すのは困難な場所でした。
ある日、僧侶から「磨き丸太」の技術を教えられ、室町時代に千利休により
「茶の湯」文化が完成されると、北山杉は茶室などの
数寄屋建築に用いられるようになりました。
「磨き丸太」は菩提の滝で採取した砂が使われていましたが、
現在では水圧やたわし状のもので磨くことが主流となっています。
石水院跡
春日明神社の東北方向に、石水院跡がありますが、
石段の先は立ち入りが禁止されていますので詳細は不明です。
建保4年(1216)に建立された明恵の住坊でしたが、
安貞2年(1228)の洪水で流失しました。
仏足石-覆屋
参道は南西方向へと緩やかに下り、現在の主要な建物が並ぶ参道と合流します。
西側の金堂からの参道より一段低い所に、広い空き地があり、
小さな覆屋がポツンと建っています。
仏足石
覆屋の内部には仏足石が祀られています。
明恵の遺蹟の一つで聖跡とされていましたが、
摩耗したため文政年間(1818~1830)に復元されました。
千輻輪宝(せんぷくりんぽう)、金剛杵(こんごうしょ)、
双魚紋(そうぎょもん)などの紋様が刻まれています。
明恵上人廟
参道まで戻ると、その先には明恵上人の御廟があります。
寛喜4年(1232)、58歳の明恵は禅堂院で厳密(ごんみつ)を具現化し、
その中で息を引き取ったとされています。
厳密とは、華厳と真言密教を融合した、明恵が打ち立てた独自の宗教観です。
画像はありませんが、御廟の境内に宝篋印塔と如法経塔が建ち、
共に鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
明恵上人廟-笠塔婆
御廟の前に二基の鎌倉時代の笠石塔婆が建ち、一方には「山のはに
われも入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに まだ友とせむ」と刻まれ、
明恵が詠んだとされています。
もう一方には「阿留辺幾夜宇和(あるべききょうわ)」と刻まれ、
明恵の遺訓碑とされています。
開山堂
御廟から下った所に開山堂があり、明恵上人坐像が安置されています。
開山堂は、明恵が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に建立されましたが、
室町時代に焼失し、享保年間(1716~1736)に再建されました。
1月8日に明恵上人生誕会、1月19日に明恵上人命日忌法要、
11月8日に献茶式が行われています。
明恵上人坐像は鎌倉時代の作で等身大の像高83cm、
国の重要文化財に指定されています。
嘉禎2年(1236)に明恵上人の遺徳を敬い、禅堂院の東南に十三重塔が建立され、
上人年来の本尊であった弥勒菩薩像が安置されました。
禅堂院と塔を結ぶ渡廊に上人坐像が安置されたとの記録があり、
本像と推定されています。
開山堂-土蔵
開山堂の奥には土蔵がありますが、詳細は不明です。
聖観音像
開山堂の境内には、赤堀信平(1899~1992)作の聖観世音菩薩像が祀られています。
梵字碑
また、梵字の石碑が祀られています。
参道両側の石垣
開山堂からの参道の両側には、かっての諸堂や塔頭跡の石垣が積まれています。
経蔵
経蔵(法鼓台文庫)は昭和34年(1959)に建立された鉄筋コンクリート造り、
3階建ての建物で、博物館寄託の仏像・絵画等の美術品を除く、聖教(しょうぎょう)・
典籍・古文書類のほぼ全てが収められていますが、非公開です。
法鼓台道場
経蔵から下った所に昭和44年(1969)に建立された法鼓台道場があります。
法鼓台道場-門
しかし、道場への門が閉じられ詳細は不明です。
遺香庵-入口
更に下ると茶室・遺香庵がありますが、通常非公開です。
明恵上人の700年遠忌を祈念して昭和6年(1931)に、近代の茶道の普及に
努めた高橋箒庵(そうあん)の指導のもとに建立されました。
庭園は小川治兵衛によって作庭され、京都市の名勝に指定されています。
遺香庵-鐘楼
参道から見えるのは茶室の待合で、梵鐘が吊り下げられ、
鐘楼を兼ねているのかもしれません。
梵鐘には遺香庵の建築に携わった人々の名前が刻まれているそうです。
茶園
遺香庵の向かい側(西側)に茶園があり、「日本最古之茶園」の碑が建っています。
建久2年(1191)宋から帰国した栄西は、宋で入手した茶の種を明恵に贈りました。
明恵がそれを清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)に蒔いたのが
茶園の始まりとされています。
その後、高山寺の中心的僧房・十無尽院(じゅうむじんいん)の
跡地と推定される現在地に茶園が移されました。
明恵は茶の普及のため山城宇治の地を選び、茶の木を移植しました。
それが宇治茶の始まりで、宇治の里人に茶の栽培を教えた様子が詠まれた
明恵の歌が万福寺の山門前に残されています。
南北朝時代(1337~1392)、茶は全国に広まりましたが、
高山寺で生産された茶が「本茶」、それ以外は「非茶」と呼ばれました。
しかし、第3代将軍・足利義満が宇治茶を庇護したため、
宇治茶は著しい発展を遂げました。
石水院-門
参道の東側に石水院がありますがありますが、参拝は有料です。
石水院-拝観受付
受付で800円を納めます。
石水院-池
書院と石水院との間には池があり、渡廊で結ばれています。
廂の間
石水院は、鎌倉時代初期に建立され、後鳥羽上皇が学問所として
使われていた建物を、明恵上人が賜ったと伝わり、国宝に指定されています。
当初は金堂の東にあり、経蔵として使われ、「東経蔵」と呼ばれていました。
安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向かいにあった石水院が流失したため、
東経蔵に春日・住吉明神が祀られ、石水院の名を継ぎ、中心的堂宇となりました。
寛永14年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ
顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となりました。
明治22年(1889)に現在地に移築され、住宅様式に改変されました。
西側は広縁で向拝が付され、「廂(ひさし)の間」と称されています。
かっては春日・住吉明神の拝殿があり、その名残として正面には
神殿構の板扉が残されています。
広縁には富岡鉄斎筆「石水院」の扁額が掲げられています。
鉄斎は当時の住職・土宜法龍(どき ほうりゅう:1854~1923)と交流があり、
最晩年に高台寺に滞在したそうです。
善財童子像
中央には善財童子像が安置されています。
善財童子は『華厳経入法界品』に「インドの長者の子」と記されています。
「ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を
訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開いた」と、
菩薩行の理想者として描かれています。
明恵上人は善財童子を敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、
善財童子の木像を安置していたと伝わります。
石水院-庭園
北側庭園

画像はありませんが、南側の縁からは清滝川を越えた向山が望めます。
日出先照高山之寺
東側の間には後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺
(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」が掲げられています。
縦105.8cm、横58.8cm、厚さ2cmの大きさで、明恵上人が建永元年(1206)11月に、
後鳥羽上皇の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜った際に
下賜されたと伝わります。
背面に陰刻で「建永元年」「藤原長房」(後鳥羽院の近臣、後の慈心房覚真)とあり、
長房が院と明恵との仲立ちをつとめたと推定されています。
明恵上人樹上座禅図
床の間には国宝「明恵上人樹上座禅像(複製品)」の掛け軸が下げられています。
高山寺の後山・楞伽山(りょうがせん)の華宮殿(けきゅうでん)の西に
二股に分かれた一株の松がありました。
明恵上人はその松を縄床樹(じょうしょうじゅ)と名付け、
常々そこで坐禅入観したと伝わります。
明恵上人の遺訓
床の間の右側には、明恵上人の遺訓「阿留辺幾夜宇和(あるべききょうわ)」が
掲げられています。
また、酉の刻から申の刻に至る勤行次第が記されています。
子犬の像
その前の子犬の像は湛慶作と伝わり、像高25.5cmで
「木彫りの狗児(くじ)」と呼ばれています。
明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬を模したと伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
白光観音尊
床の間がある左側の間には「白光観音尊」像が安置されています。
仏眼仏母像
絹本著色仏眼仏母像を縮小した複製品も展示されています。
明恵が念持仏とした鎌倉時代初期の作で国宝に指定されています。
十無盡院
西面には、長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の
額が掲げられています。
鳥獣戯画-甲
東側の間のガラスケースには、国宝の「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」
甲巻の複製が展示されています。
鳥獣人物戯画は甲・乙・丙・丁の4巻からなり、甲・乙巻は平安時代後期、
丙・丁巻は鎌倉時代に制作されたと考えらています。
甲巻は縦30.4cm、全長1,148.4cmで、擬人化された動物が描かれていますが、
平成21年(2009)から4年かけて行われた大規模な修復作業で、
中盤と後半の絵が入れ替わっていることが判明しました。
室町時代の火災の際に持ち出され、その後つなぎ直した際に順序が
入れ替わった可能性が指摘されています。
草むらから蛇が現れ、動物たちが遁走して遊戯が終わるという構成になっているようです。
鳥獣戯画-乙
乙巻は縦30.6cm、全長1,189.0cmで、実在・空想上の動物が写生的に描かれた
動物図鑑としての性質が強く、絵師たちが絵を描く際に手本とする粉本であった
可能性も指摘されています。
鳥獣戯画-丙
丙巻は縦30.9cm、全長933.3cmで、前半10枚は人々による遊戯、
後半10枚は動物による遊戯が描かれています。
京都国立博物館による修復過程で元は表に人物画、裏に動物画を描いた
1枚だった和紙を薄く2枚にはがし繋ぎ合わせて絵巻物に仕立て直したことが判明しました。
元々は10枚の人物画の裏に動物画が描かれ、江戸時代に鑑賞しやすいように
2枚に分けられたと推定されています。
鳥獣戯画-丁
丁巻は縦31.2cm、全長1,130.3cmで、人々による遊戯の他、
法要や宮中行事も描かれています。
東屋
石水院を出て、裏参道を下って行くと東屋がありますが、
現在は立ち入りが禁止されていました。

国道を高雄の方へ戻って、西明寺へ向かいます。
続く

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指月橋
高山寺から国道162号線を南下し、「高雄神護寺前」から西側へ下って行った先に
西明寺への朱塗りの指月橋が架かっています。
聖天堂の碑
橋の手前には「槙尾山聖天堂」の石標が建っています。
参道の石灯籠
橋を渡った参道には石灯籠が建っています。
参道の石段-宝篋印塔
左側には苔むした宝篋印塔も建っています。
表門
表門は元禄13年(1700)に再建された薬医門で、市の文化財に指定されています。
西明寺は山号を槇尾山(まきのおさん)と号する真言宗大覚寺派の寺院です。
本堂
表門から入った正面に本堂があります。
画像はありませんが、本堂の扁額「霊山鷲心(りょうせんじゅしん)」は
空海の筆によるものです。
インドのビハール州にある山で、釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山
「霊鷲山(りょうじゅせん)」に因んでいます。
西明寺は平安時代の天長年間(824~834)に空海の高弟・智泉大徳により、
戒律道場として開かれました。
智泉大徳(789?~825?)の母は空海の姉と伝わり、
空海の十大弟子の一人に数えられています。
大同4年(809)に唐から帰国した空海が、第52代・嵯峨天皇の勅命により
高雄山寺(神護寺)に入った際は、智泉大徳も随行したと伝わり、
弘仁3年(812)には空海から高雄山寺の三綱の1人に選ばれました。
三綱(さんごう)とは、寺院を管理・運営し、僧尼を統括する上座(じょうざ)・
寺主(じしゅ)・都維那(ついな・維那とも)の3つ僧職の総称で、
杲隣(ごうりん)と実恵(じちえ)と共に選ばれました。

しかし、西明寺は平安時代末期には荒廃しました。
鎌倉時代の建治年間(1275~1278)に施福寺の我宝自性上人
(がほうじせいしょうにん)により中興され、本堂、経蔵、宝塔、
鎮守などが建立されました。
正応3年(1290)には後宇多法皇から「平等心王院」の院号を賜り、
神護寺から独立しましたが、室町時代の永禄年間(1558~1570)に兵火を受けて焼失し、
その後に神護寺と合併して別院となりました。

慶長7年(1602)に明忍律師(みょうにんりっし)により再興されました。
明忍律師(1567~1610)は代々朝廷に仕えてきた中原氏の出で、7歳の時に
高雄山寺の晋海僧正(しんかいそうじょう)の弟子となり、内外の諸典を学びました。
16歳にして正七位上相当の官職である太政官所属の少外記及び右少史
両職を拝命していましたが、21歳の時に出家し、西大寺で学びました。
しかし、戦国時代を経た当時の日本には、正しく戒律を受持する
僧侶が存在していませんでした。
そこで律師は真の仏教僧たるべく戒律復興を志し、日蓮宗の慧雲(えうん)、
西大寺の僧・友尊と寥海(りょうかい)らと共に高山寺で自誓(じせい)受戒
(仏前で自ら誓って大乗戒を受けること)しました。
荒廃していた平等心王院に庵を結び、律宗を中興しました。
律師は明に渡るため、対馬に滞在していましたが、
慶長15年(1610)の35歳の時に病に倒れ、他界しました。
律師は律と真言宗の思想を統合した立場をとり、
その思想的流れが真言律宗となりました。
また、律師の「自誓得戒の教え」に桂昌院が帰依され、
元禄13年(1700)に現在の本堂を寄進されました。
本堂は市の文化財に指定されています。

堂内正面の須弥壇には、本尊の鎌倉時代作の清凉寺式釈迦如来像
脇陣には平安時代作の千手観世音菩薩像・鎌倉時代後期作の愛染明王像の他、
多数の仏像が安置されています。
清凉寺式釈迦如来像と千手観世音菩薩像は、国の重要文化財に指定されています。
聖天堂
本堂前の右側に元禄時代(1688~1704)に建立された聖天堂があります。
堂内には歓喜天像が安置されていますが、秘仏となっています。
『大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)』では、除病除厄、
富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。
西明寺では「倍返りお守り」が授与されています。
出るお金に感謝すると、倍になって帰ってくるとされています。
渡り廊下
本堂と聖天堂とは渡廊で結ばれ、奥には苔庭があります。
苔庭-宝篋印塔
苔むした自然石の上に宝篋印塔が建っています。
土蔵
苔庭の左側には白壁の土蔵が見えます。
高野槙
本堂前の左側に樹齢700年とされる高野槙の木が聳えています。
鎌倉医時代に我宝自性上人により、手植えされたと伝わります。
歌碑
木の根には「白露の おのが姿を そのままに 紅葉におけば 紅の玉」と詠まれた
上人の歌碑が建っています。
鐘楼
鐘楼は元禄時代(1688~1704)に建立されました。
梵鐘には黄檗宗の僧・月潭道澄(げったん どうちょう:1636~1713)の
銘文が刻まれています。
庫裏
本堂の左側に庫裏があります。
客殿
庫裏の左側に本堂より古く、江戸時代前期に移築された客殿があります。
かっては食堂と称され、僧侶の生活や戒律の道場として使用されていました。
池
客殿前には池があります。
馬の塔
また、4頭の馬が立つ石柱が建っています。
仏教の重要な聖地のひとつであるサールナートにあるアショーカの尖塔(せんとう)を
模したものかもしれませんが、アショーカ王の尖塔は馬ではなく、
インドライオンが背中合わせに並んでいます。
橋
境内を西側へ進むと急傾斜の下り坂となり、境内を出て坂を下った所には
清滝川が流れています。
清滝川
橋から上流の方を見ましたが、ここからは西明寺に入る際に渡った
指月橋は見えませんでした。
川からは河鹿カエルの涼しげな鳴き声が聞こえてきます。

橋を渡り、清滝川沿いに下流の方へ進み、神護寺へ向かいます。
続く

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高雄橋
西明寺から下り、清滝川に沿って下流側へ進むと高雄橋が架かっています。
参道の石段
橋を渡ると右側に神護寺への石段の参道があります。
もみじ餅
参道の石段は続き、ちょっと一休みしたくなるように、
「もみじ餅」の甘い言葉がささやきます。
みたらし団子
更に「みたらし団子」は?と投げかけられますが、
新型コロナの影響で全て閉店中でした。
硯石-1
茶店・硯石亭前の参道の脇に硯石があり、対岸には額立石が残されています。
硯石-2
第52代・嵯峨天皇は、「金剛定寺」の勅額を空海に依頼しました。
前日の五月雨で清滝川が増水し、橋が流され勅使は神護寺側へ
渡ることができませんでした。
そこで空海はこの石を硯とし、対岸に額を立てさせ、墨を含んだ筆を
額をめがけて投げました。
墨は霧となって額に「金剛定寺」と記されたと伝わります。
残念ながら金剛定寺は現存しません。
硯石からの石段
硯石を超えても尚、石段は続きます。
清滝川から楼門までの石段は350段です。
楼門
楼門は修復工事中でした。
元和9年(1629)の建立と伝わり、持国天・増長天の二天像が安置されていましたが、
工事期間中二天像は引っ越されているようです。
神護寺は山号を高雄山と号する高野山真言宗の寺院で、
正式な寺号は「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称します。
また、仏塔古寺十八尊霊場の第7番、西国薬師四十九霊場の第44番、
及び神仏霊場の第90番札所です。
本坊-門
楼門の右側に本坊があります。
書院
本坊は一般公開されていないようなので、門から除きました。
書院でしょうか?
勅使門
入山料600円を納め、楼門をくぐると右側に書院への
勅使門と思われる門がありますが、閉じられています。
宝蔵
門の西側には白壁の宝蔵があります。
和気清麻呂霊廟-1
宝蔵の西側に和気清麻呂霊廟があります。
和気清麻呂霊廟-2
和気清麻呂(わけ の きよまろ:733~799)は、奈良時代末期から
平安時代初期にかけての貴族で、第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)の御代
(749~758)に道鏡を巡る事件で天皇の意にそぐわず、大隅国へ配流されました。
神護景雲4年(770)に称徳天皇が崩御され、道鏡も失脚すると
清麻呂は大隅国から呼び戻されました。
天応元年(781)に第50代・桓武天皇が即位すると、清麻呂は実務官僚として
重用され、高官へと昇進しました。
この頃、清麻呂は国家安泰を祈願し河内に神願寺を創建しました。
また、ほぼ同じ頃に私寺として高雄山寺を建立しました。
亀岡にある愛宕神社の分霊が鷹ヶ峰へ勧請され、
その後、天応元年(781)に慶俊僧都が和気清麻呂と協力して鷹ヶ峰で
祀られていた愛宕権現を愛宕山上へと遷座しました。
そして、唐の五台山に倣って、5箇所の峰に寺を開いたとされ、
その一ヶ寺が高雄山の高雄山寺で、他には大鷲峰の月輪寺が現存しています。

清麻呂は、延暦3年(784)の長岡京遷都の際、神崎川と淀川を直結させる工事を行い、
大阪湾から長岡京方面への物流路を確保しました。
一方、遷都後10年を経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付け、
平安京への遷都を進言しました。
延暦18年(799)に67歳で薨去され、高雄山寺の境内に葬られました。
嘉永4年(1851)に第121代・孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて
神階正一位と護王大明神の神号を贈りました。
明治7年(1874)には境内にあった和気清麻呂霊廟は護王神社と改称され、
別格官幣社に列せられました。
明治19年(1886)、第122代・明治天皇の勅命により護王神社は、
神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座されました。
現在の霊廟は昭和9年(1934)に、実業家・山口玄洞
(やまぐち げんどう:1863~1937)の寄進により、跡地に復興されたものです。
和気公墓道の碑
霊廟の西側に鐘楼への石段があり、
その下に「和気公墓道」の石標が建っています。
明王堂
石段を登らないとその先に、明王堂があり、
かって、空海作の不動明王像が安置されていました。
天慶2年(940)、平将門の乱の際、遍照寺の寛朝大僧正は、
この不動明王像を奉じて関東へ下向し祈祷をしました。
将門は戦死し、寛朝が帰京しようとしても不動明王像が動こうとしなかったため、
寛朝を開山として不動明王を本尊とする成田山新勝寺が創建されました。
現在、明王堂には鎌倉時代の作とされる、制吒迦(せいたか)と
矜羯羅(こんがら)の二童子像を従えた不動明王像が安置されています。
明王堂では毎月第2日曜日と1/2及び8/16に護摩供が修せられています。
五大堂
明王堂の先で参道は南に折れ、
その先に元和9年(1623)に再建された五大堂があります。
当初は平安時代に第53代・淳和天皇の御願により建立されたと伝わります。
堂内には不動明王を中心に、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、
金剛夜叉明王の五大明王像が安置されています。
毘沙門堂
五大堂の南側に元和9年(1623)に建立された毘沙門堂があります。
現在の金堂が建立される以前は、この堂が金堂でした。
堂内に安置されている毘沙門天立像は、平安時代後期の作で像高112.4cm、
国の重要文化財に指定されています。
大師堂
毘沙門堂の斜め西側に安土・桃山時代~江戸時代初期(1573~1614)に
建立された大師堂があり、国の重要文化財に指定されています。
かって、この地には空海の住坊「納涼坊」がありました。
性仁法親王が仁和寺から神護寺に入った際に、
自坊の翫玉院(がんぎょくいん)を造営しました。
法親王は正安4年(1302)に仏師・法眼定喜(じょうき)に土佐国の金剛頂寺
大師像を模刻させ、全高136.7㎝の板彫弘法大師像を造らせ安置ていたと伝わります。
現在はその像は国の重要文化財に指定され、大師堂に安置されています。
秘仏とされていますが、11月1日~15日のみ開帳されます。
金堂への石段
大師堂と毘沙門堂及び五大堂との間の参道正面の石段上に金堂が見えますが、
石段は登らず、その手前を左に曲がり、西へ進みます。
かわらかけ投げ場への橋
橋を渡り参道を進みます。
地蔵院
突き当たりに明治33年(1900)に再興された塔頭の地蔵院があります。
地蔵堂
地蔵堂には「世継地蔵」と称される地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵堂の横
地蔵堂の右横
かわらかけ投げ場前の庭
地蔵院から左に折れ、緩い坂を少し下った所には苔庭があります。
歌碑等も建っていますが、詳細は不明です。
かわらかけ投げ場
その先の西正面は展望が開け、「かわらけ」投げ場があります。
神護寺は「かわらけ」投げの発祥の地とされています。
林道
下に林道が見え、その先をグーグルマップで調べてみると
愛宕山登山口の案内看板があることが判明しました。
神護寺から下山後に林道をバイクで走ってみたいと思います。
閼伽井
地蔵院から戻り、橋の手前を左折した先に閼伽井があります。
空海が灌頂を行った際に自ら掘ったと伝わります。
金堂-斜め
閼伽井の右上方に金堂が見えます。
現在の金堂は昭和9年(1934)に実業家・山口玄洞の寄進により再建されました。
和気清麻呂の死後、子の広世(ひろよ)・真綱(まつな)の兄弟は、
比叡山中に籠って修行を続けていた最澄に、高雄山寺での法華経の講演を依頼し、
最澄はそれを受けて法華会を行いました。
最澄らと共に唐へ渡った空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ
大同元年(806)に帰国したため、入京が許可されませんでした。
大同4年(809)に第52代・嵯峨天皇が即位すると、
最澄の尽力や支援によりそれが解かれ、高雄山寺へ入りました。
空海と最澄はその後10年ほどは交流関係を持っていました。
空海は弘仁3年(812)に高雄山寺で金剛界結縁灌頂を開壇し、
入壇者は最澄やその弟子・円澄、光定、泰範(たいはん)のほか190名にのぼりました。
その後、泰範が空海の弟子となったことで、空海と最澄が
訣別する要因の一つとなりました。
弘仁7年(816)に空海に高野山が下賜され、開創に着手しました。
天長元年(824)に清麻呂の子・真綱(まつな)と仲世(なかよ)の要請により、
神願寺と高雄山寺が合併され、寺号が「神護国祚真言寺
(じんごこくそしんごんじ)」と改められました。
一切は空海に託され、弟子の実慧(じちえ)や真済(しんぜい)が別当(住職)となって
護持されましたが、正暦5年(994)に焼失してからは衰微しました。
更に、久安5年(1149)の落雷による火災で寺は壊滅的な打撃を受け、
本尊の薬師如来像が風雨にさらされて残されるのみとなっていました。
金堂
長寛2年(1164)又は仁安3年(1168)に神護寺は、
文覚(もんがく:1139~1203)により再興されました。
文覚は北面武士として鳥羽天皇の皇女・統子内親王(とうし/むねこないしんのう)に
仕えていましたが、19歳で出家しました。
文覚は空海の旧跡を慕い神護寺に参詣しましたが、その惨状を見、
生涯の悲願として神護寺再興を決意しました。
山内に草庵を結び、再興の請願を発し、復興へと着手しましたが、後白河法皇に
荘園の寄進を強訴したため、承安3年(1173)に伊豆へ配流されました。
伊豆で同じく配流されていた源頼朝の知遇を得、頼朝が権力を掌握していく過程で、
頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺の再興に尽力しました。
しかし、建久10年(1199)に頼朝が没すると、将軍家や天皇家の相続争いなどの
さまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して
源通親(みなもと の みちちか)により佐渡国へ配流されました。
通親の死後許されて京に戻りましたが、元久2年(1205)に後鳥羽上皇に
謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中に亡くなりました。
遺骨は文覚の弟子・上覚(1147~1226)によって持ち帰られ、神護寺に葬られました。
上覚は文覚の遺志を継ぎ、神護寺の再興を完遂させました。

神護寺は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
文明年間(1469~1487)には仁和寺の末寺となりました。
その後も兵火を受けて二度焼失し、豊臣秀吉や徳川家康の
寄進を受けて再建されました。
元和元年(1615)に讃岐・屋島寺の龍巌が神護寺に入ると、龍巌に帰依した
京都所司代・板倉勝重が奉行となって金堂(現在の毘沙門堂)、五大堂、明王堂、
楼門などが順次再建されました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で9の塔頭と15の坊は廃され、
寺領の一部も没収されました。

本尊は平安時代初期作、像高170.6cmの薬師如来立像で国宝に指定されています。
奈良時代に盛んであった銅造、塑造、乾漆造ではなく、
貞観時代(859~877)から主流となった木像彫刻で、カヤ材の一本造りです。
唇に朱を、眉、瞳などに墨を塗る他は彩色などを施さない素木仕上げの像で、
貞観彫刻の特徴が表されています。
近年、神願寺の本尊であったことが確定しました。

脇侍の日光・月光両菩薩像も平安時代初期の作で、国の重要文化財に指定されています。
左脇侍の日光菩薩像は像高151㎝で、腰から上は後補となっています。
右脇侍の月光菩薩像は像高150cmで、当初の造仏部分は膝から下のみで
大部分を後補で占められています。
その両側に室町時代作の十二神将立像と、更にその外両側に四天王像が安置されています。
脇檀には如意輪観音像、地蔵菩薩像、大黒天像、弁財天像などが安置されています。
竜王堂
金堂から左奥に進んだ所に竜王堂がありますが、詳細は不明です。
多宝塔-門
竜王堂から石段を登った所の塀で囲われた中に多宝塔があり、
門は閉じられています。
承和3年(836)、第54代・仁明天皇(在位:833~850)は宝塔院の建立を発願され、
同7年(840)に着工され、同12年(845)に完成しました。
承和元年(834)に別当に就いた実慧(じちえ)と同7年(840)から
真済(しんぜい)が引き継ぎ、造営に携わりました。
現在の多宝塔は昭和9年(1934)に山口玄洞の寄進により、
宝塔院の跡地に再建されました
多宝塔
宝塔院には、いずれも像高90cm余りの五大虚空蔵菩薩像が安置されていました。
ほぼ同形の坐像で手の形や持物だけが異なる中尊の法界虚空蔵、
東方尊・金剛虚空蔵、南方尊・宝光虚空蔵、西方尊・蓮華虚空蔵、
北方尊・業用虚空蔵の五尊で、国宝に指定されています。
多宝塔-裏側
背後の山を少し登れば、塔の全体を見ることができます。
五大虚空蔵菩薩は、虚空蔵菩薩の五つの智恵を5体の菩薩像で表したものとも、
金剛界の五智如来の変化身(へんげしん)とも言われ、
富貴成就、天変消除をこの菩薩に祈って秘法が修せられます。
現在の多宝塔内には五大虚空蔵菩薩像が一直線に祀られています。
不動明王像
境内図によれば、多宝塔から右側に登って行けば文覚上人と性仁法親王の
墓があるようですが、右側に下ると金堂の右側に出て、
不動明王の石像が祀られています。
清麻呂の墓への参道
不動明王の石像の右側に少し下るような山道があります。
清麻呂の墓
谷を迂回するように進むと和気清麻呂の墓があります。
和気清麻呂は、宇佐八幡宮神託事件で大隅国へ配流されました。
宇佐八幡宮神託事件とは、奈良時代の神護景雲3年(769)に宇佐八幡宮より
第48代・称徳天皇に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、
道鏡が天皇位を得ようとした事件で、和気清麻呂が勅使として
その真偽を確認するために宇佐八幡宮へ派遣されました。
宇佐八幡宮で大神から「道鏡は宜しく早く掃い除くべし」との神託を受け、
天皇に報告したところ、道鏡を寵愛していた天皇は、
逆に清麻呂を大隅国への流罪としました。
神護景雲4年(770)に称徳天皇が崩御されると道鏡も失脚し、
清麻呂は大隅国から呼び戻されました。
天応元年(781)に第50代・桓武天皇が即位すると、
実務官僚として重用されて高官へと昇進しました。
同年、宇佐八幡大神から受けた神託「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を
読誦して一伽藍を建て、万代安寧を祈願せよ」により河内(又は男山とも、諸説あり)に
寺を創建し、その神託から寺号を神願寺としました。
また、ほぼ同じ頃に私寺として高雄山寺を建立しました。
延暦2年(783)に摂津大夫に任ぜられ、翌年に桓武天皇が長岡京へ遷都すると、
神崎川と淀川を直結させる工事を行い、大阪湾から
長岡京方面への物流路を確保しました。
その傍ら、菅野真道と共に民政の刷新を行い、『民部省例』20巻を編纂しました。
遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付け、
天皇に平安京への遷都を進言し、延暦12年(793)には造宮大夫に任ぜられ、
自身も建都事業に尽力しました。
今の京都があるのは、和気清麻呂のお陰かもしれません。
延暦18年(799)に67歳で薨去され、嘉永4年(1851)には第121代・孝明天皇から
清麻呂の功績を讃えて神階正一位と護王大明神の神号が贈られました。
高直な人柄で、一身の利益を顧みずに忠節を尽くし、皇統の断絶という
日本最大の危機を救った人物と評されています。
鐘楼
来た道を不動明王の石像付近まで戻ると、東側へ入る参道があり、
その先に元和9年(1623)に再建された鐘楼が建っています。
梵鐘は貞観17年(875)に鋳造されたもので、銘文が刻まれ、国宝に指定されています。
序詞(じょことば)は橘広相(たちばな の ひろみ)、
銘文は菅原是善(菅原道真の父)、揮毫は藤原敏行の筆によります。

下山して愛宕神社へ向かいます。
続く

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波切不動尊-橋
西教寺の裏側から出た所にある橋まで戻り、清滝川支流の谷川沿いの
林道を登って行くと、谷川に橋が架かっています。
波切不動尊
橋を渡ると波切不動尊が祀られていますが、山主の方が建立されたようです。

林道は簡易舗装され、バイクでは快調に走れますが、乗用車だと離合が困難で、
退避スペースもほとんど無いので、注意が必要です。
また、谷沿いから山中へと入る所にゲートがあり、当日は開いていましたが、
常時開いているかは不明です。
登山口の看板
標高約700mの地点に十台以上は駐車できるスペースがあり、
その先に愛宕山参拝口の看板が立っています。
展望-登山口
看板の脇にバイクを置き、歩いて愛宕神社へ向かいます。
歩き始めた直ぐの所は展望が開け、700mの高度が実感できます。
残念ながら曇り空になり、実際には遠くまで視界はあったのですが、
画像では霞んでしまいました。
中央に蛇行して流れる桂川が確認できます。
首なし地蔵
しばらく歩くと首なし地蔵尊が祀られています。
何か曰くのある地蔵尊かと想像していましたが、見た目にはそれほど
古い石仏には見えず、多分災害で首が折れたのではと推察されます。
地蔵の下の標石には「左あたご」と記されているように見え、
古くから愛宕神社への参道として開かれていたようにも思えます。
山道-ロープ
山道は、横にロープが張られた一ヵ所を除き、緩い坂道で体力的には楽な参詣道です。
地蔵
次に出会った地蔵尊は、上が欠けているようですが、首は無事でした。
道標には首なし地蔵尊まで40分と記されています。
愛宕神社は手前方向で、下って行くように見える方向は
竜ヶ岳・地蔵山方面だったと思います。
乗用車でも走れそうですが、神社関係者以外は通行できないように思われます。
白髭社鳥居-月輪寺側
そのようななだらかな道を進むと白髭大明神の鳥居が建っています。
木の根の祠
鳥居をくぐり、登って行くと朽ちた木の根に祠が祀られていました。
詳細は解らず、左手の方に鳥居が見えるので進んでみました。
白髭社
愛宕神社末社の白髭社です。
滋賀の白髭神社が勧請されたと考えると、猿田彦命が祀られているはずです。
愛宕修験では天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗を
「太郎坊大権現」と称して奥之院(現在の若宮社)に祀られていました。
太郎坊大権現は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の化身とされていますが、
東京港区の愛宕神社では猿田彦命の化身とされていることから、
白髭社も太郎坊大権現の化身として祀られているのかもしれません。
白髭社鳥居-参道側
白髭社から西方向に進むと神門の下に出、そこにも白髭社の鳥居が建っています。
ここまで、バイクで林道を約45分、参拝口から徒歩で1時間近く要しました。
鳥居
門をくぐらず、鳥居まで下りました。
愛宕神社の旧称は「阿多古神社」、旧社格は府社で現在は神社本庁の別表神社です。
全国に約900社ある愛宕神社の総本社です。
愛宕神社は標高924mの愛宕山上にあり、愛宕山は市内で最初に
朝日を受けることから「朝日峰(あさひがみね)」とも称されました。
大宝年間(701~704)、修験道の祖・役行者と白山の開祖・泰澄が愛宕山に登り、
愛宕太郎坊天狗の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、
霊山・愛宕山の開基と伝わります。

一方で古代、愛宕山は丹波国に属し、神代から亀岡市の牛松山(標高636m)が
神籬(ひもろぎ)として祀られていました。
牛松山の背後には愛宕山が聳え、いくつもの山襞(やまひだ)が重なった
「愛宕山塊」が神奈備と考えられていたのかもしれません。
継体天皇元年(507)には社殿が創建され「阿多古神社」と称されていました。
祭神として、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、火産霊神(ほむすびのかみ)、
大国主命が祀られています。
その後、付近に丹波国分寺が創建され、神社に僧侶が奉仕するようになり、
神仏習合によって仏像が祀られ「愛宕権現」と称されました。
第40代・天武天皇の御代(673~686)に分霊が京都鷹ヶ峰に祀られました。
天応元年(781)に慶俊僧都が和気清麻呂と協力して
鷹ヶ峰で祀られていた愛宕権現を愛宕山上へと遷座しました。
そして、唐の五台山に倣って、5箇所の峰に寺を開いたとされています。
朝日峰に愛宕権現白雲寺・大鷲峰に月輪寺・高雄山に神護寺・竜上山に日輪寺・
賀魔蔵山に伝法寺が創建されて「愛宕五坊」と称され、
阿多古神社は白雲寺の鎮守社となりました。
愛宕山は比叡山・比良山・伊吹山・神峰山(かぶせん)・金峰山(きんぶせん)・
葛城山(かつらぎやま)と共に修験道七高山の一つに数えられ、
修験道場として栄えました。
白雲寺には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵が本尊として祀られ、
火防せの神として信仰を集め、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と
称されるようになりました。
応仁・文明の乱(1467~1477)での焼失後に、細川勝元により再建され、
その後には6を数える宿坊が再建或いは建立されました。
戦国時代には勝軍地蔵は軍神として、武士から崇高され、
天正10(1582)には明智光秀が愛宕山へ登っています。
名目は羽柴秀吉による毛利征伐の支援での戦勝祈願で、白雲寺で一泊して
翌日には連歌会を催しました。
光秀が白雲寺で戦勝祈願した5日後に本能寺の変を起こしています。
しかし、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で愛宕権現は廃され、
白雲寺も廃寺に追い込まれ、愛宕大権現は愛宕大神へと改称されて
愛宕神社へと強制的に改組されました。
6坊は全て破却され、勝軍地蔵は金蔵寺へと遷されました。
下り亀石-1
鳥居をくぐった先に石の玉垣があります。
下り亀石
玉垣内には、土に埋もれ、その一部が露出している岩が祀られています。
一の鳥居がある茶屋・平野屋前の「上り亀石」と対を成す「下り亀石」と思われます。
稲荷社-1
石段を登った左側に稲荷社があります。
稲荷社-2
祭神として宇迦之御魂神が祀られています。
神門
神門
寛政12年(1800)の火災で白雲寺は全焼し、
現在の建物は全て寛政12年以降に建立されました。
授与所
門をくぐると石段があり、その上左側に授与所、右側に休息所があります。
飲食店などを中心に愛宕講が結成され、毎月当番となった人が山に登り、
「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた火伏札を受け取り、
下山して各戸に配られています。
また、7月31日夜 ~ 8月1日早朝の千日通夜祭は、通称「千日詣り」と称され、
この時に参拝すると、千日分の火伏・防火の御利益があるとされています。
「愛宕の三つ参り」は、3歳までに参拝すると、一生火事に遭わないと伝えられています。
愛宕神社では本社「愛宕大神」、奥宮社「愛宕権現太郎坊天狗」、
「光秀公(桔梗紋)」の3種類の御朱印が授与されますが、本社は500円、
他は300円で、全てだと千円に割引されます。
また、新年三ヶ日と千日祭、月次祭(毎月23日)には限定の
金亥御朱印が500円で授与されます。
本殿
現在の本殿には、伊弉冉尊(いざなみのみこと)・埴山姫神(はにやまひめのみこと)・
天熊人命(あめのくまひとのみこと)・稚産霊神(わくむすびのかみ)・
豊受姫命(とようけびめのみこと)が祀られています。
『古事記』では埴山姫神と稚産霊神は共に伊弉冉尊から生まれた神で、
埴山姫神は土の神、稚産霊神は食物の神で、稚産霊神の体から
蚕と桑及び五穀が生じたとされています。
一方、『日本書紀』では火産霊神(ほむすびのかみ)が埴山姫神を娶り、
稚産霊神が生まれたとされています。
火産霊神は『古事記』では火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と記され、
火の神であったため、伊弉冉尊が火之迦具土神を出産した後に死んだとされています。
豊受姫命は稚産霊神の娘で、食物(うけ)の神で、伊勢神宮・外宮の祭神でもあります。
天熊人命は、天照大御神により、月夜見尊に斬られた保食神(うけもちのかみ)のもとへ
遣わされた神で、保食神の屍体から生まれた
牛馬・粟・蚕・稗・稲・麦・大豆・小豆を持ち帰りました。
天照大御神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを
田畑の種としたとされています。
神明社・熊野社
本殿前の左側には末社の神明社と熊野社があります。
本殿-左側
本殿左側の奥に若宮、その奥に奥宮社があります。
若宮社
若宮には雷神(いかづちのかみ)・火之迦具土神・
破无神(はむしのかみ)が祀られています。
破无神は雷から守り、火を鎮圧する神と思われます。
奥宮社
奥宮社には厳島社・水分社・護王社・太郎子社・大国主社・司箭社(しせんしゃ)・
日吉社・春日社・蛭子社の各祭神が祀られています。
司箭社は、広島県高田市にある宍戸司箭神社(ししどしせんじんじゃ)が
勧請されたと思われます。
宍戸司箭神社では司箭院興仙(しせんいん こうせん)が
祀られていますが、司箭社の祭神は三柱とされています。
司箭院興仙は戦国時代の武将で、本名を宍戸家俊と称し、
修験道に凝っていた細川政元に仕えたとされ、実在したようです。
永正4年(1507)の永正の錯乱で細川政元が暗殺された後に出家し、
元亀元年(1570)には愛宕山に住したとされています。
司箭院興仙は修験道を極め、あらゆる兵法・武術を身につけ、飛行術も習得し、
「天狗の法」を行ったと伝わります。
絵馬
この絵馬は、元は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、愛宕神社に戦勝を祈願した
片倉小十郎重綱により、その返礼として奉納されたものです。
片倉小十郎重綱(後に重長と改名)は伊達政宗の家老で、片倉家は代々篤く
愛宕大権現を信仰し、本拠の宮城県・白石市の他東北地方に
多数の愛宕神社を建立しました。
大坂の陣では政宗に従って参陣し、敵将の後藤基次を討ち取るなどの功績を立てました。
その際、夢の中に太郎坊が現れ、陣所を変更したしたことが功を奏したと伝わり、
夢に現れた太郎坊を、海北友雪に描かせたとされています。
猪に乗った太郎坊が描かれ、愛宕神社では猪は神使いとされています。
愛宕神社が都の戌亥(いぬいい=北西)に方角に当たること、愛宕権現を愛宕山上へと
遷した和気清麻呂が猪に助けられたとの故事に由来するものと思われます。
第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)から大隈国への流罪に処せられた
(詳細は神護寺をご覧ください)和気清麻呂は、追って来た道鏡の刺客に斬られ、
足に負傷して歩けなくなりました。
突如現れた三百頭の猪に助けられ、清麻呂が宇佐八幡宮に参拝すると
足の傷も治癒して歩けるようになったと伝わります。
その絵馬は寛文5年(1665)の火災で焼失し、重長の養子・景長により復元されました。
現在の絵馬は、京都愛宕研究会が中心となって、東日本大震災から被災地の方々の
復興を祈願して復元性され、原作絵馬の奉納から400年目に当たる
平成27年(2015)に掲げられました。
社務所
本殿から石段を下ると、参道の西側に社務所があります。
慶俊社・好庵社
社務所の北側に慶俊僧都を祀る慶俊社と中川好庵を祀る好庵社があります。
慶俊僧都は渡来系氏族・葛井(藤井)氏の出身で、
現在の藤井寺市付近に生れまれました。
出家後は大安寺で三輪・法相・華厳などを学びました。
天応元年(781)に和気清麻呂と協力し、鷹峯から愛宕権現を愛宕山上へと遷し、
愛宕権現白雲寺を創建しました。

中川好庵は文政13年7月2日(1830年8月19日)に発生した亀岡市付近を震央、
M6.5と推定される京都大地震で被災した白雲寺を再興した人物とされています。
石段下
石段下まで戻り、右側に進みます。
月輪寺への別れ
月輪寺への別れがあります。
月輪寺までの所要時間は徒歩約40分なので、参拝は断念しました。

参拝口の看板まで戻り、平岡八幡宮へ向かいます。
続く

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鳥居
国道162号線を高雄から市内方面へと走った左側(東側)に平岡八幡宮があります。
明治の神仏分離令で神護寺から独立しました。
旧社格は村社で、梅ヶ畑一帯の産土神として祀られ、
「梅ヶ畑八幡宮」とも呼ばれています。
拝殿-1
拝殿
文政9年(1826)に第120代・仁孝天皇の命により現在の社殿が再建されました。
僧形八幡大菩薩
大同4年(809)に空海が神護寺の鎮守社として、宇佐八幡宮から勧請され、
自ら描いた僧形八幡神像をご神体として祀ったのが始まりとされています。
本殿-1
本殿-その1
山城国最古の八幡宮とされていましたが、平安時代末期には神護寺が荒廃したのに伴い、
八幡宮も荒廃し、一時廃絶しました。
建久元年(1190)に神護寺を再興した文覚(もんがく:1139~1203)により、
八幡宮も復興されました。
本殿-2
本殿-その2
貞応元年(1220)には文覚の高弟・上覚により、北から現在地へと遷座されました。
応永14年(1407)に社殿が焼失した際は、第3代将軍・足利義満により再建されました。
義満の夫人が高雄へ紅葉狩りに訪れた際に荒れ果てた八幡宮の姿に
心を痛めたことが、社殿を再建したきっかけとなったという伝承が残されています。
本殿-3
本殿-その3
現在の本殿は、市内に現存する数少ない切妻造本殿の一つであり、
平成12年(2000)に市の有形文化財に指定されました。
花の天井
本殿内陣の天井には極彩色で44枚の花絵が、内陣長押しには紅白の熨斗(のし)に
包まれた梅や椿が描かれ、春と秋には有料(800円)で特別公開が行われているようです。
足利義満の御所・室町第が「花の御所」と呼ばれ、自らも花を愛した事から、
これらの天井画は、義満の再建時に描かれていたと推定され、
文政9年(1826)の再建時にもそれに倣い描かれました。

現在は祭神として誉田別命(ほむたわけのみこと)が祀られています。
例祭は毎年、10月上旬の日曜日に行われ、当日催される「三役相撲」は
市の無形民俗文化財に指定されています。
「三役相撲」は地元の子供と大人が取り組み、神の加護を受けた
子供が勝つという古くから伝わる神事です。
安産・子宝の樹
本殿の玉垣脇に植栽されている木は「安産・子宝の樹」と称され、
「樹をなでて御祈願ください」と記されています。
山の神石
山の神石は江戸時代の『都名所図会』に描かれていた神殿傍らの大石で、
里人は山神として怖れたと伝わります。
現在の山の神石はさざれ石で、獅子の姿に似ていると言われていますが、
けして大石ではありません。
やぶ椿
やぶ椿は、ツバキ科ツバキ属に属する日本固有の常緑樹で、
日本最古の観賞用花木あるいは代表的な茶花とされています。
室町時代(1336~1573)には既にこの場所にあったとされ、
樹齢は300年とも500年とも伝わり、境内の椿では最も古い木とされています。
日本武尊(やまとたける)の父である第12代・景行天皇(在位:71~130)は、
即位12年(82)に現在の南九州に居住していたとされる熊襲(くまそ)征伐のために
九州に巡幸し、まず、豊後国の碩田(おおきた=大分県大分市)で、
天皇に背く土蜘蛛を退治しました。
退治の際、特に勇猛な兵士を選んで与えられたのが椿の木槌で、椿は邪気を払うとされ、
平安時代から椿は長寿・招福・吉兆の木として愛されるようになりました。
白玉椿伝説
平岡八幡宮の故事に、「願い事をすると白玉椿(形の良い白椿)が一夜で開花し、
願い事が成就した」との記録があり、「白玉椿伝説」と呼ばれています。
本殿の内陣長押しには白玉椿が描かれています。
為朝の試し石
為朝の試し石は、大男(身長2m10cm)で弓を引くために生まれたような体つきを
していたと伝わる源為朝(みなもと の ためとも:1139~1170?)が
射貫いたとされる石です。
源為朝は、頼朝・義経兄弟の叔父にあたり、気性が荒く、
父に持て余され九州へ追放されました。
九州では手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗りました。
保元元年(1156)の保元の乱(ほうげんのらん)では、父と共に崇徳上皇方に
参戦したため、敗れて伊豆大島に流されました。
しかしそこでも国司に従わず、追討を受け自害しました。

試し石には、後に「京鹿子」を創刊した鈴鹿野風呂(すずか のぶろ:1887~1971)の
句が刻まれました。
「眞開らきの 龍胆(りんどう)玉の 如き晴れ」
その左側には佐々木一水の句碑「啄木鳥(きつつき)の 天鼓の響き 山桜」が
建っています。
武内社
竹内社には武内宿禰(たけのうち の すくね)が祀られています。
武内宿禰は第12代・景行天皇から第16代・仁徳天皇まで5代の天皇に仕えた忠臣とされ、
神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の後に、麛坂皇子(かごさかのおうじ)・
忍熊皇子(おしくまのおうじ)が起こした反乱から応神天皇を護り、
神功皇后に協力して乱を平定したとされています。
貴布禰社
貴布禰社には貴船神社の祭神・高龗神(たかおかみのかみ)では無く、
罔象女神(みづはのめのかみ)が祀られています。
地域の貴重な水源を護る神として、平岡八幡宮の創建期より鎮座されていました。
若宮社
若宮の祭神も誉田別命(ほむたわけのみこと)で、巫女を通じて怨霊の祟りを
封じるために勧請され、鎌倉時代(1185~1333)には若宮社の前に
専用の参道と鳥居がありました。
神庫
神庫
地主社
地主社(じぬししゃ)には大地主大神(おおどこぬしのみこと)が祀られ、
古くは地蔵谷に鎮座していました。
土地を護る神として信仰を集め、現在でも最初に詣でる習わしがあります。
ツブラジイ-1
ツブラジイ-2
御神木のツブラジイは、樹齢600年と伝わり、高さ約15m、幹回り約4.8mで、
幹回りでは市内最大とされています。

三寶寺(さんぽうじ)へ向かいます。
続く

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