カテゴリ:京都市 > 京都市右京区北部(仁和寺~高雄以北)

白雲橋
国道162号線を北上すると清滝川に架かる白雲橋があります。
茶山栂尾の碑
その橋の手前右側(東側)に「茶山 栂尾(とがのお)」の碑が建っています。
表参道
橋を渡って少し進んだ先に高山寺の表参道があります。
新型コロナによる緊急事態宣言で、裏参道の先にある無料駐車場は
閉鎖されていますので、参道脇の路肩にバイクを駐車し、
表参道まで戻り、石段を登りました。
表参道-寺号碑
富岡鉄斎筆の「栂尾山 高山寺」の石碑が建っています。
「尾」には 山裾の、なだらかに延びた部分の意味があり、高雄は高尾とも記され、
槙尾(まきのお)と栂尾で三尾(さんび)と称され、北に位置するのが栂尾です。
表参道-仏足石の碑
「仏足石参道」の石碑も建っています。
世界遺産の碑
世界文化遺産の碑
高山寺境内は国の史跡に指定され、平成6年(1994)には
古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。
表参道-入山受付
入山受付がありますが、紅葉の季節以外は境内は無料です。
かってこの付近に大門があったと伝わります。
表参道の石灯籠
参道の両脇には石灯籠が建ち、
その先には正方形の石が17枚連なって敷かれています。
表参道からの東屋
谷を越えて東側に東屋が見えます。
表参道-石水院への別れ
その先で参道は石水院へと分岐しますが、直進して金堂へと向かいます。
金堂への石段
金堂は楞伽山(りょうがせん)の中腹に築かれているため、石段が待ち受けています。
楞伽山はスリランカにある山の名とされていますが、詳細は不明です。
羅婆那夜叉(らばなやしゃ)と称する王が華宮殿に住んでいたとされています。
釈迦が説法をするため、この山を訪れた際、王は釈迦の一行を出迎えた
との故事に因み、明恵は境内の裏山を「楞伽山」、庵室を「華宮殿」とも
「羅婆坊」などとも呼びならわしました。
金堂
現在の金堂は寛永年間(1624~1644)に仁和寺・真光院の古御堂が移築され、
堂内には室町時代作の釈迦如来坐像が安置されています。
かって、この地では山岳修業が行われ、奈良時代の宝亀5年(774)に
第49代・光仁天皇の勅願で「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される
華厳宗の寺院が建立されたと伝わります。
平安時代には神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と
称されていました。

鎌倉時代の建永元年(1206)に明恵は、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、
「日出先照高山之寺(日、出でて、まず高き山を照らす)」の額を下賜され、
この句に因み寺号を「高山寺」としました。
明恵は、治承4年(1180)、9歳の時に両親を亡くし、神護寺の
文覚上人(もんがくしょうにん)の弟子であった叔父の上覚に師事しました。
文治4年(1188)に出家、東大寺で具足戒を受け、「高弁」と名乗り
東大寺の他、仁和寺でも学びました。
23歳の時に紀伊国有田郡白上に遁世(とんせい)し、
3年にわたって山岳修業を行いました。
建久2年(1191)に仏眼仏母尊(ぶつげんぶつもそん)を本尊として仏眼の法を修め、
明恵が見た夢を記録した日記「高弁夢記」を記しています。
高山寺には23歳の建久7年(1196)から51歳の貞応2年(1223)までの
高弁夢記が残され、国の重要文化財に指定されています。
また、仏眼仏母尊は特に密教で崇められている仏の一尊で、
真理を見つめる眼を神格化したものです。
人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となります。
これを「真理を見つめる眼が仏を産む」更に「人に真理を見せて仏として
生まれ変わらせる宇宙の神性」という様に擬人化して考え、
仏母即ち「仏の母」としての仏眼信仰に発展しました。
明恵が念持仏とした絵画の絹本著色仏眼仏母像は
鎌倉時代初期の作で国宝に指定されています。

建久8年(1197)、24歳の明恵は、故郷の紀州湯浅山上の庵で世俗を斥け、
欲を断ち仏道に精進しました。
「形をやつして人間を辞し、志を堅して如来のあとを踏まむ」とまで思いつめ、
自ら五根(目・耳・鼻・舌・身)を削ごうと考え、
日常生活に支障がないとして、耳を切り落としました。
明恵はその後一時高雄に戻りましたが、再び白上へ移り、元久元年(1205)に
仏跡を巡礼しようと天竺(インド)へ渡る計画を立てましたが、
春日明神の神託を受け、断念しました。
その後もインドへの渡航を企てましたが叶いませんでした。
建永元年(1206)に栂尾の地を与えられ、神護寺十無尽院を再興しました。
また、神護寺十無尽院は著しく荒廃していたため、実質的には明恵が
高山寺を開山したとされています。
明恵は華厳宗の復興に尽力し、法相宗の貞慶や三論宗の明遍とならび、
しばしば超人的な学僧と評されます。
一方で仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、
生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践しました。
閼伽井
金堂の裏側に閼伽井があります。
承久元年(1219)に明恵は、現在の金堂の地に本堂を建立しました。
本堂には運慶作の丈六(約4.85m、坐像の場合はその半分)の
盧舎那仏(るしゃなぶつ)などが安置されていました。
本堂の東西には阿弥陀堂・羅漢堂・経蔵・塔・鐘楼などが建立されましたが、
室町時代に殆どの建物が焼失しました。
宝塔
金堂の左側に建つ宝塔は昭和56年(1981)に建立され、
塔内には写経が納められています。
春日明神
金堂の右側には鎮守社があり、春日明神が祀られています。
向山
春日明神社の前からはきれいに植林された北山杉の美林を望むことができます。
高山寺の先の中川の集落は、田畑に適する土地が僅かしか無く、
「山稼ぎ」(林業)が生業になっていました。
水が豊かで冷涼な北山の里で、特に杉の木を育てるには適地ですが、
木材を流して運べる広い川がなく、大きな木を運び出すのは困難な場所でした。
ある日、僧侶から「磨き丸太」の技術を教えられ、室町時代に千利休により
「茶の湯」文化が完成されると、北山杉は茶室などの
数寄屋建築に用いられるようになりました。
「磨き丸太」は菩提の滝で採取した砂が使われていましたが、
現在では水圧やたわし状のもので磨くことが主流となっています。
石水院跡
春日明神社の東北方向に、石水院跡がありますが、
石段の先は立ち入りが禁止されていますので詳細は不明です。
建保4年(1216)に建立された明恵の住坊でしたが、
安貞2年(1228)の洪水で流失しました。
仏足石-覆屋
参道は南西方向へと緩やかに下り、現在の主要な建物が並ぶ参道と合流します。
西側の金堂からの参道より一段低い所に、広い空き地があり、
小さな覆屋がポツンと建っています。
仏足石
覆屋の内部には仏足石が祀られています。
明恵の遺蹟の一つで聖跡とされていましたが、
摩耗したため文政年間(1818~1830)に復元されました。
千輻輪宝(せんぷくりんぽう)、金剛杵(こんごうしょ)、
双魚紋(そうぎょもん)などの紋様が刻まれています。
明恵上人廟
参道まで戻ると、その先には明恵上人の御廟があります。
寛喜4年(1232)、58歳の明恵は禅堂院で厳密(ごんみつ)を具現化し、
その中で息を引き取ったとされています。
厳密とは、華厳と真言密教を融合した、明恵が打ち立てた独自の宗教観です。
画像はありませんが、御廟の境内に宝篋印塔と如法経塔が建ち、
共に鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
明恵上人廟-笠塔婆
御廟の前に二基の鎌倉時代の笠石塔婆が建ち、一方には「山のはに
われも入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに まだ友とせむ」と刻まれ、
明恵が詠んだとされています。
もう一方には「阿留辺幾夜宇和(あるべききょうわ)」と刻まれ、
明恵の遺訓碑とされています。
開山堂
御廟から下った所に開山堂があり、明恵上人坐像が安置されています。
開山堂は、明恵が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に建立されましたが、
室町時代に焼失し、享保年間(1716~1736)に再建されました。
1月8日に明恵上人生誕会、1月19日に明恵上人命日忌法要、
11月8日に献茶式が行われています。
明恵上人坐像は鎌倉時代の作で等身大の像高83cm、
国の重要文化財に指定されています。
嘉禎2年(1236)に明恵上人の遺徳を敬い、禅堂院の東南に十三重塔が建立され、
上人年来の本尊であった弥勒菩薩像が安置されました。
禅堂院と塔を結ぶ渡廊に上人坐像が安置されたとの記録があり、
本像と推定されています。
開山堂-土蔵
開山堂の奥には土蔵がありますが、詳細は不明です。
聖観音像
開山堂の境内には、赤堀信平(1899~1992)作の聖観世音菩薩像が祀られています。
梵字碑
また、梵字の石碑が祀られています。
参道両側の石垣
開山堂からの参道の両側には、かっての諸堂や塔頭跡の石垣が積まれています。
経蔵
経蔵(法鼓台文庫)は昭和34年(1959)に建立された鉄筋コンクリート造り、
3階建ての建物で、博物館寄託の仏像・絵画等の美術品を除く、聖教(しょうぎょう)・
典籍・古文書類のほぼ全てが収められていますが、非公開です。
法鼓台道場
経蔵から下った所に昭和44年(1969)に建立された法鼓台道場があります。
法鼓台道場-門
しかし、道場への門が閉じられ詳細は不明です。
遺香庵-入口
更に下ると茶室・遺香庵がありますが、通常非公開です。
明恵上人の700年遠忌を祈念して昭和6年(1931)に、近代の茶道の普及に
努めた高橋箒庵(そうあん)の指導のもとに建立されました。
庭園は小川治兵衛によって作庭され、京都市の名勝に指定されています。
遺香庵-鐘楼
参道から見えるのは茶室の待合で、梵鐘が吊り下げられ、
鐘楼を兼ねているのかもしれません。
梵鐘には遺香庵の建築に携わった人々の名前が刻まれているそうです。
茶園
遺香庵の向かい側(西側)に茶園があり、「日本最古之茶園」の碑が建っています。
建久2年(1191)宋から帰国した栄西は、宋で入手した茶の種を明恵に贈りました。
明恵がそれを清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)に蒔いたのが
茶園の始まりとされています。
その後、高山寺の中心的僧房・十無尽院(じゅうむじんいん)の
跡地と推定される現在地に茶園が移されました。
明恵は茶の普及のため山城宇治の地を選び、茶の木を移植しました。
それが宇治茶の始まりで、宇治の里人に茶の栽培を教えた様子が詠まれた
明恵の歌が万福寺の山門前に残されています。
南北朝時代(1337~1392)、茶は全国に広まりましたが、
高山寺で生産された茶が「本茶」、それ以外は「非茶」と呼ばれました。
しかし、第3代将軍・足利義満が宇治茶を庇護したため、
宇治茶は著しい発展を遂げました。
石水院-門
参道の東側に石水院がありますがありますが、参拝は有料です。
石水院-拝観受付
受付で800円を納めます。
石水院-池
書院と石水院との間には池があり、渡廊で結ばれています。
廂の間
石水院は、鎌倉時代初期に建立され、後鳥羽上皇が学問所として
使われていた建物を、明恵上人が賜ったと伝わり、国宝に指定されています。
当初は金堂の東にあり、経蔵として使われ、「東経蔵」と呼ばれていました。
安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向かいにあった石水院が流失したため、
東経蔵に春日・住吉明神が祀られ、石水院の名を継ぎ、中心的堂宇となりました。
寛永14年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ
顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となりました。
明治22年(1889)に現在地に移築され、住宅様式に改変されました。
西側は広縁で向拝が付され、「廂(ひさし)の間」と称されています。
かっては春日・住吉明神の拝殿があり、その名残として正面には
神殿構の板扉が残されています。
広縁には富岡鉄斎筆「石水院」の扁額が掲げられています。
鉄斎は当時の住職・土宜法龍(どき ほうりゅう:1854~1923)と交流があり、
最晩年に高台寺に滞在したそうです。
善財童子像
中央には善財童子像が安置されています。
善財童子は『華厳経入法界品』に「インドの長者の子」と記されています。
「ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を
訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開いた」と、
菩薩行の理想者として描かれています。
明恵上人は善財童子を敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、
善財童子の木像を安置していたと伝わります。
石水院-庭園
北側庭園

画像はありませんが、南側の縁からは清滝川を越えた向山が望めます。
日出先照高山之寺
東側の間には後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺
(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」が掲げられています。
縦105.8cm、横58.8cm、厚さ2cmの大きさで、明恵上人が建永元年(1206)11月に、
後鳥羽上皇の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜った際に
下賜されたと伝わります。
背面に陰刻で「建永元年」「藤原長房」(後鳥羽院の近臣、後の慈心房覚真)とあり、
長房が院と明恵との仲立ちをつとめたと推定されています。
明恵上人樹上座禅図
床の間には国宝「明恵上人樹上座禅像(複製品)」の掛け軸が下げられています。
高山寺の後山・楞伽山(りょうがせん)の華宮殿(けきゅうでん)の西に
二股に分かれた一株の松がありました。
明恵上人はその松を縄床樹(じょうしょうじゅ)と名付け、
常々そこで坐禅入観したと伝わります。
明恵上人の遺訓
床の間の右側には、明恵上人の遺訓「阿留辺幾夜宇和(あるべききょうわ)」が
掲げられています。
また、酉の刻から申の刻に至る勤行次第が記されています。
子犬の像
その前の子犬の像は湛慶作と伝わり、像高25.5cmで
「木彫りの狗児(くじ)」と呼ばれています。
明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬を模したと伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
白光観音尊
床の間がある左側の間には「白光観音尊」像が安置されています。
仏眼仏母像
絹本著色仏眼仏母像を縮小した複製品も展示されています。
明恵が念持仏とした鎌倉時代初期の作で国宝に指定されています。
十無盡院
西面には、長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の
額が掲げられています。
鳥獣戯画-甲
東側の間のガラスケースには、国宝の「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」
甲巻の複製が展示されています。
鳥獣人物戯画は甲・乙・丙・丁の4巻からなり、甲・乙巻は平安時代後期、
丙・丁巻は鎌倉時代に制作されたと考えらています。
甲巻は縦30.4cm、全長1,148.4cmで、擬人化された動物が描かれていますが、
平成21年(2009)から4年かけて行われた大規模な修復作業で、
中盤と後半の絵が入れ替わっていることが判明しました。
室町時代の火災の際に持ち出され、その後つなぎ直した際に順序が
入れ替わった可能性が指摘されています。
草むらから蛇が現れ、動物たちが遁走して遊戯が終わるという構成になっているようです。
鳥獣戯画-乙
乙巻は縦30.6cm、全長1,189.0cmで、実在・空想上の動物が写生的に描かれた
動物図鑑としての性質が強く、絵師たちが絵を描く際に手本とする粉本であった
可能性も指摘されています。
鳥獣戯画-丙
丙巻は縦30.9cm、全長933.3cmで、前半10枚は人々による遊戯、
後半10枚は動物による遊戯が描かれています。
京都国立博物館による修復過程で元は表に人物画、裏に動物画を描いた
1枚だった和紙を薄く2枚にはがし繋ぎ合わせて絵巻物に仕立て直したことが判明しました。
元々は10枚の人物画の裏に動物画が描かれ、江戸時代に鑑賞しやすいように
2枚に分けられたと推定されています。
鳥獣戯画-丁
丁巻は縦31.2cm、全長1,130.3cmで、人々による遊戯の他、
法要や宮中行事も描かれています。
東屋
石水院を出て、裏参道を下って行くと東屋がありますが、
現在は立ち入りが禁止されていました。

国道を高雄の方へ戻って、西明寺へ向かいます。
続く

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指月橋
高山寺から国道162号線を南下し、「高雄神護寺前」から西側へ下って行った先に
西明寺への朱塗りの指月橋が架かっています。
聖天堂の碑
橋の手前には「槙尾山聖天堂」の石標が建っています。
参道の石灯籠
橋を渡った参道には石灯籠が建っています。
参道の石段-宝篋印塔
左側には苔むした宝篋印塔も建っています。
表門
表門は元禄13年(1700)に再建された薬医門で、市の文化財に指定されています。
西明寺は山号を槇尾山(まきのおさん)と号する真言宗大覚寺派の寺院です。
本堂
表門から入った正面に本堂があります。
画像はありませんが、本堂の扁額「霊山鷲心(りょうせんじゅしん)」は
空海の筆によるものです。
インドのビハール州にある山で、釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山
「霊鷲山(りょうじゅせん)」に因んでいます。
西明寺は平安時代の天長年間(824~834)に空海の高弟・智泉大徳により、
戒律道場として開かれました。
智泉大徳(789?~825?)の母は空海の姉と伝わり、
空海の十大弟子の一人に数えられています。
大同4年(809)に唐から帰国した空海が、第52代・嵯峨天皇の勅命により
高雄山寺(神護寺)に入った際は、智泉大徳も随行したと伝わり、
弘仁3年(812)には空海から高雄山寺の三綱の1人に選ばれました。
三綱(さんごう)とは、寺院を管理・運営し、僧尼を統括する上座(じょうざ)・
寺主(じしゅ)・都維那(ついな・維那とも)の3つ僧職の総称で、
杲隣(ごうりん)と実恵(じちえ)と共に選ばれました。

しかし、西明寺は平安時代末期には荒廃しました。
鎌倉時代の建治年間(1275~1278)に施福寺の我宝自性上人
(がほうじせいしょうにん)により中興され、本堂、経蔵、宝塔、
鎮守などが建立されました。
正応3年(1290)には後宇多法皇から「平等心王院」の院号を賜り、
神護寺から独立しましたが、室町時代の永禄年間(1558~1570)に兵火を受けて焼失し、
その後に神護寺と合併して別院となりました。

慶長7年(1602)に明忍律師(みょうにんりっし)により再興されました。
明忍律師(1567~1610)は代々朝廷に仕えてきた中原氏の出で、7歳の時に
高雄山寺の晋海僧正(しんかいそうじょう)の弟子となり、内外の諸典を学びました。
16歳にして正七位上相当の官職である太政官所属の少外記及び右少史
両職を拝命していましたが、21歳の時に出家し、西大寺で学びました。
しかし、戦国時代を経た当時の日本には、正しく戒律を受持する
僧侶が存在していませんでした。
そこで律師は真の仏教僧たるべく戒律復興を志し、日蓮宗の慧雲(えうん)、
西大寺の僧・友尊と寥海(りょうかい)らと共に高山寺で自誓(じせい)受戒
(仏前で自ら誓って大乗戒を受けること)しました。
荒廃していた平等心王院に庵を結び、律宗を中興しました。
律師は明に渡るため、対馬に滞在していましたが、
慶長15年(1610)の35歳の時に病に倒れ、他界しました。
律師は律と真言宗の思想を統合した立場をとり、
その思想的流れが真言律宗となりました。
また、律師の「自誓得戒の教え」に桂昌院が帰依され、
元禄13年(1700)に現在の本堂を寄進されました。
本堂は市の文化財に指定されています。

堂内正面の須弥壇には、本尊の鎌倉時代作の清凉寺式釈迦如来像
脇陣には平安時代作の千手観世音菩薩像・鎌倉時代後期作の愛染明王像の他、
多数の仏像が安置されています。
清凉寺式釈迦如来像と千手観世音菩薩像は、国の重要文化財に指定されています。
聖天堂
本堂前の右側に元禄時代(1688~1704)に建立された聖天堂があります。
堂内には歓喜天像が安置されていますが、秘仏となっています。
『大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)』では、除病除厄、
富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。
西明寺では「倍返りお守り」が授与されています。
出るお金に感謝すると、倍になって帰ってくるとされています。
渡り廊下
本堂と聖天堂とは渡廊で結ばれ、奥には苔庭があります。
苔庭-宝篋印塔
苔むした自然石の上に宝篋印塔が建っています。
土蔵
苔庭の左側には白壁の土蔵が見えます。
高野槙
本堂前の左側に樹齢700年とされる高野槙の木が聳えています。
鎌倉医時代に我宝自性上人により、手植えされたと伝わります。
歌碑
木の根には「白露の おのが姿を そのままに 紅葉におけば 紅の玉」と詠まれた
上人の歌碑が建っています。
鐘楼
鐘楼は元禄時代(1688~1704)に建立されました。
梵鐘には黄檗宗の僧・月潭道澄(げったん どうちょう:1636~1713)の
銘文が刻まれています。
庫裏
本堂の左側に庫裏があります。
客殿
庫裏の左側に本堂より古く、江戸時代前期に移築された客殿があります。
かっては食堂と称され、僧侶の生活や戒律の道場として使用されていました。
池
客殿前には池があります。
馬の塔
また、4頭の馬が立つ石柱が建っています。
仏教の重要な聖地のひとつであるサールナートにあるアショーカの尖塔(せんとう)を
模したものかもしれませんが、アショーカ王の尖塔は馬ではなく、
インドライオンが背中合わせに並んでいます。
橋
境内を西側へ進むと急傾斜の下り坂となり、境内を出て坂を下った所には
清滝川が流れています。
清滝川
橋から上流の方を見ましたが、ここからは西明寺に入る際に渡った
指月橋は見えませんでした。
川からは河鹿カエルの涼しげな鳴き声が聞こえてきます。

橋を渡り、清滝川沿いに下流の方へ進み、神護寺へ向かいます。
続く

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鳥居
国道162号線を高雄から市内方面へと走った左側(東側)に平岡八幡宮があります。
明治の神仏分離令で神護寺から独立しました。
旧社格は村社で、梅ヶ畑一帯の産土神として祀られ、
「梅ヶ畑八幡宮」とも呼ばれています。
拝殿-1
拝殿
文政9年(1826)に第120代・仁孝天皇の命により現在の社殿が再建されました。
僧形八幡大菩薩
大同4年(809)に空海が神護寺の鎮守社として、宇佐八幡宮から勧請され、
自ら描いた僧形八幡神像をご神体として祀ったのが始まりとされています。
本殿-1
本殿-その1
山城国最古の八幡宮とされていましたが、平安時代末期には神護寺が荒廃したのに伴い、
八幡宮も荒廃し、一時廃絶しました。
建久元年(1190)に神護寺を再興した文覚(もんがく:1139~1203)により、
八幡宮も復興されました。
本殿-2
本殿-その2
貞応元年(1220)には文覚の高弟・上覚により、北から現在地へと遷座されました。
応永14年(1407)に社殿が焼失した際は、第3代将軍・足利義満により再建されました。
義満の夫人が高雄へ紅葉狩りに訪れた際に荒れ果てた八幡宮の姿に
心を痛めたことが、社殿を再建したきっかけとなったという伝承が残されています。
本殿-3
本殿-その3
現在の本殿は、市内に現存する数少ない切妻造本殿の一つであり、
平成12年(2000)に市の有形文化財に指定されました。
花の天井
本殿内陣の天井には極彩色で44枚の花絵が、内陣長押しには紅白の熨斗(のし)に
包まれた梅や椿が描かれ、春と秋には有料(800円)で特別公開が行われているようです。
足利義満の御所・室町第が「花の御所」と呼ばれ、自らも花を愛した事から、
これらの天井画は、義満の再建時に描かれていたと推定され、
文政9年(1826)の再建時にもそれに倣い描かれました。

現在は祭神として誉田別命(ほむたわけのみこと)が祀られています。
例祭は毎年、10月上旬の日曜日に行われ、当日催される「三役相撲」は
市の無形民俗文化財に指定されています。
「三役相撲」は地元の子供と大人が取り組み、神の加護を受けた
子供が勝つという古くから伝わる神事です。
安産・子宝の樹
本殿の玉垣脇に植栽されている木は「安産・子宝の樹」と称され、
「樹をなでて御祈願ください」と記されています。
山の神石
山の神石は江戸時代の『都名所図会』に描かれていた神殿傍らの大石で、
里人は山神として怖れたと伝わります。
現在の山の神石はさざれ石で、獅子の姿に似ていると言われていますが、
けして大石ではありません。
やぶ椿
やぶ椿は、ツバキ科ツバキ属に属する日本固有の常緑樹で、
日本最古の観賞用花木あるいは代表的な茶花とされています。
室町時代(1336~1573)には既にこの場所にあったとされ、
樹齢は300年とも500年とも伝わり、境内の椿では最も古い木とされています。
日本武尊(やまとたける)の父である第12代・景行天皇(在位:71~130)は、
即位12年(82)に現在の南九州に居住していたとされる熊襲(くまそ)征伐のために
九州に巡幸し、まず、豊後国の碩田(おおきた=大分県大分市)で、
天皇に背く土蜘蛛を退治しました。
退治の際、特に勇猛な兵士を選んで与えられたのが椿の木槌で、椿は邪気を払うとされ、
平安時代から椿は長寿・招福・吉兆の木として愛されるようになりました。
白玉椿伝説
平岡八幡宮の故事に、「願い事をすると白玉椿(形の良い白椿)が一夜で開花し、
願い事が成就した」との記録があり、「白玉椿伝説」と呼ばれています。
本殿の内陣長押しには白玉椿が描かれています。
為朝の試し石
為朝の試し石は、大男(身長2m10cm)で弓を引くために生まれたような体つきを
していたと伝わる源為朝(みなもと の ためとも:1139~1170?)が
射貫いたとされる石です。
源為朝は、頼朝・義経兄弟の叔父にあたり、気性が荒く、
父に持て余され九州へ追放されました。
九州では手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗りました。
保元元年(1156)の保元の乱(ほうげんのらん)では、父と共に崇徳上皇方に
参戦したため、敗れて伊豆大島に流されました。
しかしそこでも国司に従わず、追討を受け自害しました。

試し石には、後に「京鹿子」を創刊した鈴鹿野風呂(すずか のぶろ:1887~1971)の
句が刻まれました。
「眞開らきの 龍胆(りんどう)玉の 如き晴れ」
その左側には佐々木一水の句碑「啄木鳥(きつつき)の 天鼓の響き 山桜」が
建っています。
武内社
竹内社には武内宿禰(たけのうち の すくね)が祀られています。
武内宿禰は第12代・景行天皇から第16代・仁徳天皇まで5代の天皇に仕えた忠臣とされ、
神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の後に、麛坂皇子(かごさかのおうじ)・
忍熊皇子(おしくまのおうじ)が起こした反乱から応神天皇を護り、
神功皇后に協力して乱を平定したとされています。
貴布禰社
貴布禰社には貴船神社の祭神・高龗神(たかおかみのかみ)では無く、
罔象女神(みづはのめのかみ)が祀られています。
地域の貴重な水源を護る神として、平岡八幡宮の創建期より鎮座されていました。
若宮社
若宮の祭神も誉田別命(ほむたわけのみこと)で、巫女を通じて怨霊の祟りを
封じるために勧請され、鎌倉時代(1185~1333)には若宮社の前に
専用の参道と鳥居がありました。
神庫
神庫
地主社
地主社(じぬししゃ)には大地主大神(おおどこぬしのみこと)が祀られ、
古くは地蔵谷に鎮座していました。
土地を護る神として信仰を集め、現在でも最初に詣でる習わしがあります。
ツブラジイ-1
ツブラジイ-2
御神木のツブラジイは、樹齢600年と伝わり、高さ約15m、幹回り約4.8mで、
幹回りでは市内最大とされています。

三寶寺(さんぽうじ)へ向かいます。
続く

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冠木門
平岡八幡宮から国道162号線を市内方面へ進み、JRバス「三宝寺」バス停付近で
左折して北へと進んだ突き当りに三寶寺があります。
三寶寺は山号を金映山、院号を妙護国院と号する日蓮宗の寺院で、
洛陽十二支妙見めぐりの戌(西北西)の札所です。
楊梅の木
冠木門(かぶきもん)をくぐると右側に古木が茂っていますが、
府民の木に指定されている樹齢700年の楊梅(やまもも)の木と思われます。
楊梅の木-祠
木の前には小さな祠が祀られています。
大黒天像
参道の正面に大黒天の石仏が祀られています。
三寶寺では大黒天の縁日である甲子の日に甲子祭が執り行われています。
甲子(きのえね)の日とは、干支の60通りの組合せの一番最初で、
物事を始めるのに適した吉日とされています。
特に、1月の大黒尊天初講会では大黒堂から三面大黒福寿尊天が本堂に遷され、
日蓮大聖人直授の秘妙五段加持を修し、一年の福徳と商売繁盛・金融円滑・
家運隆昌等が祈念されます。
また、秘法『大黒天行水事』は、一年に六度ある甲子祭でも行われず、
この日限りのものです。
本堂
現在の本堂は、昭和4年(1929)に行われた第124代・昭和天皇即位式の
建物の一棟が下賜、移築されました。
三寶寺は寛永5年(1628)に第108代・後水尾天皇の内旨を受け、
右大臣・今出川経季(いまでがわ つねすえ:1594~1652)と
中納言・冷泉為尚(れいぜい ためひさ:1604~1662)が
中正院日護上人を開山に迎え創建されました。
「金映山妙護国院三寳寺」の号は後水尾天皇より賜ったと伝わります。
寺は大いに栄え、十二ヶ寺の塔頭を擁するまでに至りましたが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で一時荒廃しました。

本堂では元旦に新年祝祷会、3月に春季彼岸会法要、4月及び10月にペット法要祭、
5月(?)に千団子鬼子母神祭、7月に土用の丑祈祷会、8月に盂蘭盆法要、
9月に秋季彼岸会、12月に厄落としの大根焚きが行われています。
土用の丑祈祷会では「ほうろく灸祈祷」が行われています。
呪文を書いた「ほうろく」を頭の上に乗せ「もぐさ」を置いて火をつけ、
木剣で九字を切り悪鬼邪霊を払う祈祷が行われます。
茶室
茶室・松宝庵では大黒尊天初講会で茶道・宗徧流による接待が行われます。
茶道・宗徧流の流祖・山田宗徧(やまだ そうへん:1627~1708)は、
18歳の正保元年(1644)に千宗旦(せん の そうたん)に弟子入りし、
承保元年(1652)には皆伝を受けました。
三寶寺に茶室を建てると、宗旦から千利休の伝来の品である四方釜を譲られ、
宗旦が一時入った大徳寺195世・翠巌宗珉(すいがん そうみん)からは
「四方庵」の茶号を贈られました。
明暦元年(1655)に三河国吉田藩の小笠原家に仕え、元禄10年(1697)には
江戸へ下り、宗徧流茶道を興しました。
赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件では、赤穂浪士の大高忠雄が
宗徧に弟子入りし、宗徧から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして、
討ち入り日を決定しました。
滝行場
滝行場では、不定期に水行祈祷会が行われているようです。
浄行堂
浄行堂には、浄行菩薩の石像が祀られています。
浄行菩薩は『法華経』に説かれている菩薩で、水徳を持つ菩薩とされ、
水で穢れを清めるように、煩悩を洗い流すとされています。
また、水子供養の「水かけ地蔵」としても信仰されています。
石段-東
境内の東側に石段の参道があります。
千躯佛釈迦堂
参道の中段に昭和59年(1984)に再建された千躯佛釈迦堂があります。
釈迦如来像
堂内中央に日護上人作と伝わる釈迦如来坐像と、
その両側に像高約10cmの釈迦如来立像千躯が安置されています。
鐘楼
石段を登った所に鐘楼があります。
梵鐘は「忍辱(にんにく)の鐘」と呼ばれています。
永享9年(1437)に本山の本法寺を開いた日親上人の作で、
当山三世・日逞(にってい)上人の代に本山から譲り受けた名鐘とされています。
日親上人は足利将軍家を日蓮宗への改宗を試みましたが失敗し、
永享12年(1440)に投獄され、本法寺は破却となりました。
拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、
「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれました。
嘉吉元年(1441)に赦免され、本法寺を再建するも、
寛正元年(1460)に肥前で布教したため、再び本法寺が破却されました。
翌年赦免され、本法寺は再々建されましたが、忍辱には「苦しみに耐え忍び、
心を動かさない」との意味があり、
日親上人の生き様が梵鐘の名称となったように思われます。
三十番神堂
鐘楼から参道は北へと向きを変えます。

左側に三十番神堂があり、三十番神が祀られています。
三十番神は、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことで、
最澄が比叡山で祀ったのが始まりとされ、京都で日蓮宗を布教しようとした
日像上人が取り入れたため、日蓮宗の寺院で重視されるようになりました。
大黒堂-1
更に参道の石段は続き、中段の左側に平成7年(1995)に
再建された大黒堂があります。
大黒堂-2
大黒堂に安置されている三面大黒福寿尊天は最澄作で、日蓮聖人が
比叡山遊学の際に開眼入魂した三面六臂の秘仏とされています。
1月の大黒尊天初講会以外は60年に一度の甲子の年に開帳されます。
最上稲荷殿-1
参道の右側には最上稲荷殿があります。
最上稲荷殿-2
岡山市にある日蓮宗の最上稲荷山 妙教寺から勧請され、最上位経王大菩薩
(稲荷大明神)が祀られていると思われます。
最上位経とは法華経を意味しています。
三寶寺では三面大黒福寿尊天の眷属とされ、商売繁盛・五穀豊穣を成就し、
屋敷を守る法華経の守護神としています。
石段-北
更に石段を登ります。
子宝犬
子宝犬は平成6年(1994)に奉納されました。
十二支の方位盤を台座とし、磁石とは逆に刻まれていることから、
その前に立てばその方向へ向かうように作られています。
縁結びの塔
縁結びの塔は豊臣秀頼・国松丸・淀殿の供養塔で、
いつの頃からかこの塔を撫でると良縁が得られると伝えられています。
国松丸は秀頼の正室・千姫の子ではなく側室の子で、
生後すぐに秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先である若狭京極家へ預けられました。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が起こると、
国松丸は常高院と共に大坂城へ入りました。
しかし、翌年の大坂夏の陣では城から落ち延びましたが、徳川方に捕えられ、
市中車引き回しの後、六条河原で斬首に処せられました。
また、道明寺の戦い八尾・若江の戦い天王寺・岡山の戦いで相次いで敗退し、
大坂城も、堀が埋められ、守備能力を失っていました。
城内からも徳川方に寝返りする者が現れ、
城に火が放たれると秀頼と淀殿は自害しました。
妙見堂
最上部に昭和47年(1972)に再建された妙見堂があります。
堂内には日護上人作と伝わる北辰妙見大菩薩像が安置されています。
洛陽十二支妙見めぐりの戌(西北西)の札所であることから、
特に戌歳生まれの人の守護神として、また戌が安産に通じるところから
安産祈願所として、更には願いが叶うとして「満願妙見宮」とも呼ばれています。
妙見堂では毎月1日に月並祭が行われる他、2月に節分祈祷会、
11月には妙見宮大祭が行われています。
庫裏
石段を下り境内西側の庫裏へと向かいましたが、その手前に植栽されている
山桜は市の保存樹に指定されています。
江戸時代に公家邸宅内から移植されたと伝わり、
「御車返(みくるまがえし)」の品種名があります。
京都御所内にも同種の桜があり、かつて「牛車を返して」ご覧になったことが
名前の由来となっています。

福王子神社へ向かいます。
続く

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社号標
三寶寺から国道162号線まで戻り、国道を市内方面へと走った五差路の角に
福王子神社があります。
かって、この地には延喜式に名前が見える深川神社がありました。
仁和2年(886)に第58代・光孝天皇の勅願により、福王子神社の東方に
仁和寺の建立が着手されました。
しかし、光孝天皇は翌年に崩御され、第59代・宇多天皇が遺志を継ぎ、
仁和4年(888)に仁和寺は落成しました。
昌泰3年(900)に光孝天皇の妃で、宇多天皇の母である班子女王
(はんし/なかこじょおう)が崩御され、神社付近に陵墓が造営されて葬られました。
鳥居
応仁・文明の乱(1467~1477)で深川神社は焼失し、寛永21年(1644)、跡地に
第3代将軍・徳川家光と仁和寺第21世・覚深法親王により社殿が造営され、
仁和寺の鎮守社となりました。
班子女王が祀られ、班子女王が多くの皇子・皇女を生んだ事から
「福王子神社」と称されたと伝わります。
鳥居・拝殿・本殿は寛永21年(1644)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
拝殿
拝殿
入母屋造、銅板葺
本殿
本殿
春日造、銅板葺
夫荒神社-1
本殿の左側に夫荒神社(ふこうじんしゃ)があり、
深川神社が転訛したとの説があります。
夫荒神社
江戸時代には「松尾大明神」とも称され、平安時代に氷室から宮中へ氷を献上する
習わしがあり、その運搬の際に命を落とすこともあった役夫たちの霊を祀り、
安全を祈願したとも伝わります。

仁和寺へ向かいます。
続く

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