承和年間(834~847)、法輪寺を中興した道昌は勅願により大堰川(おおいがわ)を
修築し、現在の渡月橋より上流約100mに橋を架けました。
大堰川とは渡月橋の上流から松尾の辺りを指し、それより上流は「保津川」、
下流は「桂川」と呼ばれています。
この地を開拓した秦氏により、洪水対策や農業用水の確保に葛野大堰(かずのおおい)と
下嵯峨から松尾にかけての東岸に「罧原堤(ふしはらづつみ)」が築かれ
「大堰川」と呼ばれるようになりました。
橋は「法輪寺橋」と呼ばれ、交通の便が開かれると共に、
下流域の荒野に河水を引き、田畑を開墾しました。
後に橋を見た亀山上皇(1274~1287)は、「くまなき月の渡るに似たり」として
「渡月橋」と命名されました。
江戸時代初期に角倉了以(すみのくらりょうい)により保津峡改修が行われ、
現在の位置に渡月橋が架けられたとされています。
現在の橋は昭和9年(1934)に架けられ、中ノ島公園から桂川右岸の
短い橋は「渡月小橋」と呼ばれています。
渡月橋北詰に「琴きき橋跡」の石碑が建っています。
小督局(こごうのつぼね)は美貌の持ち主で琴の名手でした。
第80代・高倉天皇は小督局を寵愛したことから、天皇の中宮・徳子の父・平清盛の
怒りにふれ、小督局は密かに宮中を去り、嵯峨野に身を隠しました。
嘆き悲しんだ天皇は、腹心の源仲国に小督局を捜すように命じました。
仲国が、現在は嵐山頓宮前に移されている「琴聴橋」とも「駒留橋」称された橋付近で
琴の音を聞き、小督局を捜し出したことが、この碑の由来となっています。
碑の側面には「一筋に 雲ゐを恋ふる 琴の音に ひかれて来にけん 望月の駒」と
刻まれています。
渡月橋北詰の上流、右側(北側)に車折神社(くるまざきじんじゃ)の嵐山頓宮があります。
神社前には「琴きき橋」が残されています。
「琴聴橋」はかって、渡月橋北詰にありましたが、
道路の拡張に伴い橋は現在地に移されました。
かっての橋は木造で、明治13年(1880)に幅・長さとも3mの石橋に架け替えられ、
欄干にはその旨が刻まれています。
毎年5月の第3日曜日に大堰川で行われる三船祭は、車折神社の例祭で平安時代の
舟遊びが再現されますが、その際にこの頓宮で神事が行われるようです。
三船祭は昌泰元年(898)に宇多上皇が嵐山へ御幸した際、大堰川で舟遊びを楽しんだ
ことに始まり、その後第72代・白河天皇(在位:1073~1087)が、和歌・漢詩・奏楽に
長じたもの3隻に乗せ、遊びをされたことが「三船祭」の名の由来となりました。
昭和御大典を記念して昭和3年(1928)から始められました。
嵐山頓宮から上流へ進み、次の丁字路を右折した先に小督塚があります。
小督局が隠れ住んでいた住居跡とされています。
小督局はこの地で「想夫恋(そうぶれん)」の曲を琴で奏でていた際に、源仲国が
その音の方へ向かい、得意の笛で調べを合わせたとされています。
源仲国から高倉天皇の真意が伝えられ、小督局は宮中に戻り、ひっそりと逢瀬を重ね、
治承元年(1177)に範子内親王が誕生しました。
平清盛の知るところとなり、小督局は出家させられました。
治承5年1月14日(1181年1月30日)に天皇が崩御され、清閑寺で葬られると、
その付近に移り、天皇の菩提を弔ったとされています。
拝観入口
大堰川畔まで戻り、上流へと進むと突き当りとなって右に進みます。
左側(西側)に天龍寺塔頭の宝巌院があります。
宝巌院は春と秋に特別公開され、それ以外は非公開です。
春の特別公開は3月19日~6月30日の予定でしたが、4月13日~5月6日までの
期間中は新型コロナの影響で休止されていました。
宝巌院は寛正2年(1461)に室町幕府の管領・細川頼之の寄進により、夢窓国師から
三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え、現在の上京区辺りに創建されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、天正年間(1573~1585)に豊臣秀吉により
再建され、その後は徳川幕府により幕末まで外護されました。
その後の変遷は不明ですが、昭和47年(1972)に天龍寺塔頭・弘源寺境内に移転し、
平成14年(2002)に現在地で再興されました。
宝巌院の向かい側には、多数の羅漢像が祀られ、「嵐山羅漢」と称されています。
天龍寺へ向かいます。
続く
カテゴリ:京都市 > 京都市右京区(嵯峨野)
天龍寺-その1
宝巌院前の車道には杭が立てられ、乗用車では通行できませんが、先へ進むと
天龍寺の自転車・原付の無料駐車場があり、そのすぐ先には法堂(はっとう)があります。
元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変で、長州藩は天王山と
伏見の長州藩邸及び天龍寺に陣を敷いていたことから幕府軍である薩摩藩兵の
攻撃を受け、法堂他多くの諸堂が焼失しました。
法堂は明治32年(1899)に、江戸時代に建立された僧堂(雲居庵:うんごあん)の
選佛場(座禅場)を移築して再建されました。
鏡天井には鈴木松年(すずき しょうねん)画伯により雲龍図が描かれました。
その雲龍図も現在では損傷が激しく、大方丈にて一部が保存され、
毎年2月に一般公開されています。
法堂には平成9年(1997)の夢窓国師650年遠諱記念事業として、
加山又造画伯により新しく雲龍図が描かれ、春・夏・秋の特別参拝期間と、
それ以外の土・日・祝日に公開されていますが、500円の参拝料が必要です。
本尊は釈迦三尊像で、光厳上皇及び歴代住持の位牌、開山・夢窓疎石と
開基・足利尊氏の木像が祀られ、仏殿としても使用されています。
法堂の右側に納経所があります。
天龍寺は神仏霊場の第88番札所です。
納経所から北へ進むと庫裏があり、屋根には煙出しがあります
庫裏の左側は方丈の玄関でしょうか?
庫裏は明治32年(1899)に再建され、台所兼寺務所の機能を持ち、
諸堂参拝の受付があります。
天龍寺の庭園拝観は500円で、それに300円を追加すると諸堂の参拝ができます。
庫裏から多宝殿へと向かう渡廊の右側に茶室・祥雲閣があります。
多宝殿が建立された際に、その記念事業として昭和9年(1934)に、
表千家の茶室・残月亭を模して建立されました。
残月亭は聚楽第の周りにあった千利休の屋敷内に造営した、豊臣秀吉を
迎えるための茶室で、秀吉が上段の柱にもたれ、名残の月を眺めたことが、
その名の由来となりました。
表千家の茶室・残月亭はそれを写したものと思われます。
茶室前にある「大堰川」と記された柱は、渡月橋の欄干だったと思われます。
かっては渡月橋までが天龍寺の境内地だったのかもしれません。
夢窓国師は渡月橋も天龍寺十境に含め下記のように詠まれています。
「虹勢は流れを截(た)ちて両岸に横たわり、一條の活路は清波を透かす、
驢(つき=月)を渡し馬を渡して未だ足らんと為さず、玉兎は三更に縠を推して過ぎる」
※玉兎(ぎょくと)=月に住み、臼と杵で餅をつく架空の生物。
※三更(さんこう)=およそ現在の午後11時または午前零時からの2時間
※縠(こめ)=縠織(こめおり=織目がもみ米状で透き通ったもの)の略
祥雲閣の左側に同時に建立された茶室・甘雨亭(かんうてい)があります。
4畳半台目の茶室で、通い口前に三角形の鱗板をつけるのが特徴とされています。
台目畳とは通常の丸畳の4分の3の大きさの畳で、
鱗板(うろこいた)とは、三角形の板畳のことです。
渡廊
更に渡廊を進むと鐘が吊るされています。
渡廊の先に見えるのは経蔵でしょうか?
多宝殿は昭和9年(1934)に、禅宗最初の道場である檀林寺の旧跡地に、
吉野朝時代の紫宸殿造りで建立されました。
中央に後醍醐天皇像が安置され、両側基に歴代天皇の尊牌が奉安されています。
平安時代の承和2年(835)、第52代・嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子
(たちばな の かちこ:786~850)は唐から禅僧・義空を招いて開山とし、
尼寺の檀林寺を創建しました。
広大な境内に12坊を数えたと伝わり、皇后の崩御後は官寺となりましたが、
平安時代の中期頃に荒廃し、廃絶しました。
鎌倉時代、後嵯峨上皇は檀林寺の跡地に離宮・亀山殿を造営しました。
第88代・後嵯峨天皇は寛元4年(1246)に在位4年で後深草天皇に譲位し、
文永5年(1268)に亀山殿で出家し、文永9年(1272)に同所で崩御されました。
後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である
世仁親王(よひとしんのう=後の第91代・後宇多天皇)を皇太子にして、
治天の君を定めずに崩御されたため、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と
南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、
南北朝の争いの端緒となりました。
後嵯峨天皇の皇子・第90代亀山天皇は、文永11年(1274)に後宇多天皇に譲位し、
退位後は伝領した亀山殿を仙洞とし、嘉元3年(1305)に同所で崩御されました。
その後、第96代/南朝初代・後醍醐天皇が幼少期を当地で過ごし、修学されました。
天龍寺は後醍醐天皇が崩御された後、その菩提を弔むために
足利尊氏により創建されました。
建武の新政後、後醍醐天皇と足利尊氏は敵対しましたが、天龍寺を創建したのは
後醍醐天皇の怨霊を恐れたからとも、後醍醐天皇を尊敬していたとの説があります。
もう少一週間早ければ、多宝殿の前は満開の枝垂桜で彩られていたそうです。
渡廊を戻って方丈の方へ向かいます。
方丈は大方丈と小方丈(書院)から成り、大方丈は明治32年(1899)、
小方丈は大正13年(1924)に再建されました。
渡廊は小方丈へと接続されています。
小方丈の達磨図の掛け軸
小方丈の西南角の手水鉢
小方丈
大方丈には東西各3室あり、天龍寺最大の建物で、表側(東側)と裏側(西側)に
幅広い広縁があり、さらにその外に落縁を巡らされています。
東西を仕切る襖には「雲龍の絵」が描かれていますが、ガラスに阻まれ、
撮影は困難でした。
昭和32年(1957)に第8代管長・関牧翁(せき ぼくおう)老師の友人・物外道人
(もつがい どうじん)画伯によって描かれましたが、
その4ヶ月後に70歳で亡くなりました。
表側、中央は仏間で本尊の釈迦如来座像が安置されています。
像高88.5cm、平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。
天龍寺は創建以来8回の大火を蒙りましたが、本尊は都度運び出され、護られました。
大方丈の表側の前には、慶長年間(1596~1615)に建立された禅宗様・四脚門の
「中門(ちゅうもん)」があります。
中門と大方丈との間の庭は「方丈庭園」と呼ばれ、
ほぼ長方形の庭に白砂が敷かれ、砂紋が引かれています。
大方丈の南側に龍門亭があります。
貞和2年(1346)に夢窓国師が天龍寺境内の十ヵ所を名勝(天龍寺十境)に定め、
偈頌(げじゅ=詩句の形式をとった教理などをほめたたえた言葉)を残しました。
その一ヵ所が龍門亭で、平成12年(2000)の夢窓国師650年遠諱記念事業として
再建されました。
龍門亭には直営の精進料理店「篩月(しげつ)」がありますが、予約が必要です。
龍門亭は以下のように詠まれています。
「巨霊は分破する拳を借りず、両山は一洪川を放出す、三更の夜半に来客は無く、
数片の帰雲は檻前に宿る」
※三更(さんこう)=現在の午後11時または午前零時からの2時間
※檻前(かんぜん)=欄干の前
龍門亭の入り口付近に「一滴之碑」が建っています。
禅の神髄を指す言葉に「曹源(そうげん)の一滴水」があります。
禅宗の事実上の開祖とされる慧能(えのう)は、曹渓(中国の広東省)に住んでいた
ことから「曹渓」とも呼ばれ、慧能によって禅法が大成したことから、
慧能を一滴の源泉と見なして、禅法の源泉を「曹源」と称されます。
また、天龍寺管長を務めた由理滴水(ゆり てきすい:1822~1899)禅師が
修業時代に手桶の僅かな余り水を何気なしに捨てたところ、
「一滴の水をも活かせ、一滴の水を無駄にすることこそ殺生なり」と
叱責された言葉にも由来しています。
大方丈の裏側(西側)は、天龍寺十境の一、曹源池庭園に面しています。
曹源池庭園は開山・夢窓国師による作庭で、当時の面影を留めていることから
我が国初の史跡・特別名勝に指定されました。
左手に嵐山、正面に亀山・小倉山、右手遠景に愛宕山を借景とした池泉回遊式庭園で、
優美な王朝文化と禅文化が融合した庭とされています。
池は、夢窓国師が池の泥をあげた時、池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れ、
「曹源池」と名付けられました。
曹源池は左側(南側)の幅が広く、右側(北側)の幅は狭く造られています。
遠近法が取り入れられ、嵐山の山並みが近くに、
愛宕山は遠くに見えるように設計されています。
正面の三段の石組みは「龍門の滝」と称され、中国の故事「登龍門」に由来します。
江戸時代には、水が流れていましたが、現在は枯山水となっています。
本来は滝の下段の鯉魚石(りぎょせき)が中段に配され、滝を登った鯉が
龍になろうとする姿が表されています。
下の水落石の左は「碧巌石(へきがんせき)」、上段の水落石の右は「観音石」、
左は「不動石」、滝の上は「遠山石」と呼ばれているそうです。
碧巌石は大きな岸壁の前を鳥が飛び交う様思い浮かべる役石で、
遠山石は遠くの山を表しています。
龍門瀑は宋より帰化し、宋風の本格的な臨済宗を広めた蘭渓道隆
(らんけい どうりゅう)禅師が日本に伝え、夢窓疎石がその形を
造り上げたとされています。
龍門瀑には「厳しい修行の後に悟りを開き、仏への道を開く」との
戒めが込められています。
雲水は夜、曹源池に向かい「夜坐」と呼ばれる修行をされるそうです。
滝の前方の橋は3枚の平石から成り、日本最古の橋石組で、
平石は「三橋石」と呼ばれています。
儒教、仏教、道教の三賢者が一同に合して話をしたところ、お互いにつきない興味を感じ、
すっかり夢中になってしまったという「虎渓三笑」の故事に因むとされています。
橋の右側の石組みは「釈迦三尊石」と称され、釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩が
表されているそうですが、判別できませんでした。
その手前の島は鶴島で、右の石が鶴の首を表しています。
右側には鶴島に対する亀島があり、石橋が架けられています。
夢窓国師が曹源池(そうげんち)を十境に定め、次のように詠まれました。
「曹源は涸れず直に今に臻(いた)り、一滴の流通は広く且つ深し、
曲岸の回塘は著眼を休め、夜たけなわの波心に月の落ちる有り」
※回塘(かいとう)= 池や入り江などの周囲をめぐっている堤
夢窓疎石は建治元年(1275)に伊勢で生まれ、
4歳の時に甲斐国(山梨県)に移住しました。
9歳の時に平塩山寺の空阿(くうあ)のもとで密教を学び、
18歳の時に東大寺戒壇院で具足戒を受けました。
中国の疎山(そざん)と石頭(せきとう)に遊ぶ夢をみて「疎石」と改名し、
永仁2年(1294)に建仁寺の無隠円範(むいんえんぱん:1230~1307)に
参じて禅に転じました。
その後、各地を転々として禅を学び、元弘3年/正慶2年(1333)に
第96代/南朝初代・後醍醐天皇に請われて上洛し、南禅寺に入りました。
亀山上皇の離宮「亀山殿」の別殿「川端殿」を受け継いだ後醍醐天皇の
第二皇子・世良親王は、川端殿に禅寺の創建を意図しましたが、21歳で
薨去(こうきょ)され、代わって後醍醐天皇が建武2年(1335)に夢窓疎石を開山として
臨川寺(りんせんじ)を創建しました。
同年、夢窓国師の号を特賜(とくし)され、また、
臨川寺は後に門人1万人以上と言われた夢窓派の本拠となりました。
建武の新政で足利尊氏と対立した後醍醐天皇は吉野へと逃れ、南朝政権を
樹立しましたが、延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)に崩御されました。
夢窓国師は足利尊氏、直義兄弟の外護を受け、安国寺利生塔の創設を進言しました。
尊氏、直義兄弟は元弘の乱からの戦没者の菩提を弔うため、北朝・光厳上皇の
院旨を得て、延元3年/暦応元年(1338)から北海道、沖縄を除く日本各地に
安国寺と利生塔を建立しました。
更に足利尊氏は暦応2年(1339)に、後醍醐天皇の菩提を弔うため、
夢窓国師を開山として創建されたのが天龍寺です。
尊氏や光厳上皇が荘園を寄進して造営費用とし、亀山殿が寺に改められました。
しかし、造営費が不足し、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開して
その利益が費用に充てられました。
室町幕府公認の寺社造営料唐船で、当時は「造天龍寺宋船」と呼ばれ、
康永元年(1342)8月に元へ渡航し、莫大な利益を上げました。
天龍寺の建設が進められ、康永2年(1343)11月に竣工し、貞和元年8月29日
(1345年9月25日)には、後醍醐天皇七回忌にあわせて落慶供養が行われました。
寺号は当初、年号から「暦応資聖禅寺」の予定でしたが、尊氏の弟・直義が大堰川で
金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」としました。
曹源池から苑路を多宝殿へと向かいます。
多宝殿の左奥に平和観音が祀られ、その前に愛の泉があります。
この観音像は中国より伝来したもので、夢窓国師が南北両朝の和平に尽くしたことから、
いつしか「平和観音」と称されるようになりました。
また、夢窓国師は観音菩薩を信仰し、念持仏としていたと伝わります。
愛の泉は、地下80mから湧き出ており、この水を喫すると、
「愛と幸」が受けられると伝わり、「愛の泉」と称されています。
多宝殿から北門への苑路は「百花苑(ひゃっかえん)」と称され、
昭和58年(1983)に整備されました。
百花苑には、その名の通りに色とりどりの花が咲き誇っています。
山吹
蜆花(しじみばな)
楊貴妃桜
光源氏椿
シャクナゲと竹林
硯石
第3代管長・橋本峨山(がざん:1853~1900))は、明治32年(1899)に
選佛場(座禅堂)を法堂として再建された際、鏡天井には鈴木松年
(すずき しょうねん)画伯により仏法を守護するとされる雲龍図が描かれました。
硯石は両名の遺徳を顕彰して建立され、書画が上達する御利益があるそうです。
多宝殿から曹源池の裏側への参道脇にはシャクナゲの苑路となっています。
灯台躑躅(どうだんつつじ)
総門へ向かいます。
続く
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天龍寺-その2
天龍寺総門は、南は渡月橋から北の嵯峨釈迦堂へと至る
府道29号線に面して建っています。
天龍寺は正式には「霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)」と
号する臨済宗天龍寺派の大本山で、神仏霊場の第86番札所です。
平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の構成遺産として、
ユネスコの世界遺産に登録されました。
天龍寺は第96代/南朝初代・後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓国師を開山として、
足利尊氏により創建されました。
康永2年(1343)11月に竣工し、貞和元年8月29日(1345年9月25日)の
後醍醐天皇七回忌にあわせて落慶供養が行われました。
元中3年/至徳3年(1386)、第3代将軍・足利義満は、天龍寺を京都五山の
第一位と定め、寺は栄えました。
最盛期、寺域は約950万㎡に及び子院150か寺を数えました。
しかし、文安4年(1447)に続き、応仁・文明の乱(1467~1477)による
応仁2年(1468)の焼失で大きな被害を受け、天正13年(1585)に
豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興ができませんでした。
その後、文化12年(1815)の7度目の大火後に元治元年(1864)の
禁門の変でも灰燼に帰しました。
天龍寺は計8回の大火で創建当初の建物はことごとく失われました。
更に明治の神仏分離令による廃仏毀釈の混乱や、明治10年(1877)の上地令により
亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方及び嵐山の一部を除いた境内はほとんど
上地することとなり、現在の境内地はかっての10分の一に縮小されました。
天龍寺では毎年2月の節分の日に、総門前で福笹を受け、境内の塔頭七カ寺の
お札を受けて廻る「天龍寺七福神めぐり」が行われています。
しかし、天龍寺の七福神は一般的な大黒天・毘沙門天・恵比寿天・福禄寿・弁財天・
寿老人・布袋尊と異なり寿老人・布袋尊の代わりに
不動明王と稲荷神が札所本尊となっています。
総門をくぐった右側に三秀院があります。
三秀院は第一番の大黒天の札所で、「東向福褧(けい/きょう)大黒天」が祀られています。
「福褧」の意味は不明で、褧には「ひとえ」の意味があります。
三秀院は南北朝時代の正平23年/応安元年(1368)に、夢窓国師の直弟子で
天龍寺16世をつとめた不遷法序(ふせん ほうじょ)和尚を開基として創建されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、寛文2年(1662)に
第108代・後水尾天皇の寄進により再建されました。
大黒天は後水尾天皇の念持仏であったと伝わり、
寛永年間(1624~1643)に嵯峨人形師の作とされています。
三秀院は元治元年(1864)の禁門の変でも焼失しましたが、大黒天は焼失を免れ、
比叡山延暦寺・上野寛永寺の大黒天と共に日本の三大黒天と称されています。
三秀院の先に中門があります。
安土・桃山時代の慶長年間(1596~1603)に建立され、
京都府指定文化財となっています。
中門をくぐると視界が一気に開けます。
弘源寺は三国伝来・毘沙門天の札所です。
弘源寺は永享元年(1429)に細川持之が、夢窓国師の孫弟子・
玉岫英種(ぎょくしゅ えいしゅ)を開山として創建されました。
札所本尊の毘沙門天像は、インドの仏師・毘首羯磨(びしゅかつま)の作で、
中国を経て比叡山無動寺に伝わりました。
その後、今出川般舟院、深草嘉祥寺を経て玉岫英種により、弘源寺に遷されました。
春の特別拝観で毘沙門天の開帳と嵐山を借景とした枯山水庭園の
「虎嘯(こしょう)の庭」が公開されていましたが、時間が合わず断念しました。
虎嘯の庭は塔頭の妙智院にあったものが移されたもので、虎嘯とは「虎が吠える」、
「英雄が世に出て活躍するとの意味があります。
また、寺宝の日本画・竹内栖鳳(せいほう)とその一門展や寺に残された
長州藩兵の刀傷なども公開されています。
慈済院は、無極志玄(むきょく しげん)を開基として貞治2年(1363)に創建されました。
無極志玄は尊雅王(たかまさおう=第84代・順徳天皇の孫)の子で、13歳の時に
東福寺塔頭の願成寺で出家・得度し、東寺や東福寺などで修学しました。
その後、夢窓疎石の門下に入り南禅寺や臨川寺に住し、
正平元年/貞和2年(1346)に疎石の法を継いで天龍寺の第2世となりました。
慈済院の表門や本堂、庫裡、書院などは禁門の変での焼失を免れた
江戸時代の建物で、登録有形文化財ですが、非公開のようです。
表門の東側に来福門があります。
門をくぐると弁天堂があり、「水摺大弁財天」が祀られています。
夢窓国師が一刀三礼して刻んだ弁財天像で、無極志玄が授かりました。
「開運出世大弁財天」として、その姿を水摺りにして信仰篤い人々に
抽選で分け与えたことにより、「水摺大弁財天」と称されるようになりました。
弁天堂の天井には龍図が描かれています。
松巌寺は文和2年(1353)に夢窓国師の直弟子、晦谷祖曇(まいこく そどん)を開基とし、
四辻善成(よつつじ よしなり)により創建されました。
四辻善成は尊雅王(たかまさおう=第84代・順徳天皇の孫)の子で、
文和5年(1356)に源姓(順徳源氏)を賜与され臣籍降下しました。
歌人・古典学者として名が知られ、貞治年間(1362~1368)に『源氏物語』の
注釈書である『河海抄』を第2代将軍・足利義詮(よしあきら)に献上しました。
応永2年(1395)に従一位、左大臣に任ぜられましたが、
約一か月後にこれを辞して出家しました。
応永9年(1402)に亡くなり、松巌寺に葬られました。
山門を入った左側に福禄寿天堂があり、四辻善成の念持仏であったとされる
一刀彫の福禄寿像が祀られています。
松巌寺の西側に天龍寺の経蔵があります。
経蔵の左側に鐘楼があります。
鐘楼の左側に飛雲観音が祀られています。
飛雲観音は、第二次世界大戦での航空戦や特攻隊で亡くなられた方、
更に航空殉職者の慰霊と世界平和及び航空安全の
本尊として祀られるようになりました。
飛雲観音の左側に護国霊験社があります。
第二次世界大戦後にソ連に抑留され、亡くなった方々の霊が祀られた
慰霊碑が建っています。
法堂の裏側から方丈庭園への中門を結ぶ渡り廊下をくぐり、
南側の参道を東へ進みます。
永明院(ようめいいん)は応永20年(1414)に臨済宗の僧・太岳周崇(たいがく しゅうすう)
により創建されました。
太岳周崇は臨川寺で出家・受戒し、第3代将軍・足利義満の帰依を受け、
鹿苑僧録(ろくおんそうろく)に任ぜられました。
鹿苑僧録とは、代々の僧録が相国寺塔頭・鹿苑(ろくおん)院主が兼務したこと
による通称で、五山などの住持任免、位階昇進、寺領与奪や外交文書の作成などを
職務とし、太岳周崇は10年間その職を務めた後、天龍寺に移りました。
応仁・文明の乱(1467~1477)により焼失し、その後、水野守信が父・監物の
菩提を弔うために再建し、水野家の菩提寺となりました。
水野監物は織田信長に仕えて桶狭間の戦いに初陣し、
その後、数々の武勲をたて常滑城三代城主となりました。
監物は常滑焼を奨励、普及させ千利休、津田宗九らと親交を結び、
常滑焼を茶人らに紹介しました。
明智光秀とも親交があり、山崎の合戦では明智光秀に味方したため、
豊臣秀吉から追われ、永明院中興の第六世・三章令彰(さんしょう れいしょう)を
頼り隠棲しましたが、豊臣方に見つかり、慶長3年(1598)に山内で割腹自害しました。
水野守信は徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の会津征伐に従軍し、
旗本として3500石を賜りました。
寛永3年(1626)に長崎奉行に就任し、踏み絵を考案して
キリシタンの取締りを強化したとされています。
その後、大坂町奉行を経て、寛永9年(1632)に秋山正重、柳生宗矩
(やぎゅう むねのり)、井上政重とともに大目付の起源である総目付に任じられました。
永明院は、元治元年(1864)の禁門の変で焼失し、大正期(1912~1926)に実業家の
山口玄洞(げんどう)から寄進を受け再興されました。
山口玄洞は大正6年(1917)、57歳で実業家から引退し、資産の多くを慈善事業の寄付や
社寺に寄進し、表千家の後援者にもなりました。
山門を入った右側の恵比寿天堂には、昭和3年(1928)に新京阪鉄道嵐山線
(現在の阪急嵐山線)が開業したのに伴い、
西宮神社から勧請された恵比寿神が祀られています。
境内には「夢地蔵尊」と称される地蔵菩薩像が祀られています。
平成2年(1990)に19世・國友憲道・前住職により造立され、
夢窓国師の一字から「夢地蔵尊」と名付けられました。
永明院の東側の等観院(とうかんいん)は「天龍寺七福神めぐり」の
札所ではありません。
南北朝時代の元中3年/至徳3年(1386)に徳叟周佐(とくしゅう しゅうさ)を開山として、
管領・細川満元により創建されました。
徳叟周佐開基の退隠寮「正持庵」が復興されたとも伝わりますが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で荒廃し、大正10年(1921)とも
大正8年(1919)ともに現在地で「等観院」として復興されました。
境内には聖観世音菩薩像が祀られています。
寿寧院(じゅねいいん)は南北朝時代の貞治年間(1362~1368)に臨川寺の子院として、
龍湫周沢(りゅうしゅう しゅうたく)により創建されました。
龍湫周沢は夢窓疎石に師事し、臨川寺・建仁寺・南禅寺・天竜寺に歴住しました。
画才・文才に富み、水墨画の不動尊は、
別の法名「妙沢」から「妙沢不動」と称されました。
また、周沢筆の不動明王と二童子の三幅図は国宝として京都博物館に委託されています。
寿寧院はその後衰微し、明治18年(1885)にかって
栖林軒(すりんけん)があった現在地に再建されました。
「天龍寺七福神めぐり」では不動尊像が札所本尊とされています。
不動尊像は「見守り不動」と呼ばれ、交通安全や病気平癒にご利益があるとされています。
寿寧院前の参道と北側の参道の間には放生池があります。
妙智院は享徳2年(1453)に竺雲等連(じくうん とうれん)により創建されました。
竺雲等連は、永明院を創建した太岳周崇に師事して修学しその法を継ぎました。
応永年間(1394~1427)に中国の明に渡り、帰国後は、相国寺を経て、
文安元年(1444)に南禅寺の住持となりました。
妙智院と宝徳院を開創し、康正元年(1455)に相国寺の鹿苑院に住して
僧録司に任じられました。
『周易』『史記』『漢書』に精通し、五山における史書研究の基礎を築きました。
妙智院は天文年間(1532~1555)に策彦周良(さくげん しゅうりょう)が
3世の住持となりました。
策彦周良は永正15年(1518)に18歳で天龍寺にて剃髪、具足戒を授かりました。
天文8年(1539)と天文16年(1547)の二度の天龍寺船で明に渡り、
『策彦入明記』として、貴重な史料を残しました。
また、天文19年(1550)に遣明船を主催した大内義隆の死去により、
天文16年の遣明船が最後となりました。
宝巌院の「獅子吼の庭」の設計者で、当初は妙智院で作庭され、
それが宝巌院に移築されたとも伝わります。
境内の南側にある宝徳稲荷社は、宝徳年間(1449~1452)に妙智院7世・
中山法頴(ちゅうざん ほうえい)が、伏見稲荷大社より勧請されました。
稲荷神は「天龍寺七福神めぐり」の札所本尊です。
妙智院の向かいには勅使門がありますが、工事中でした。
作業の方が覆いを開けられた時に、撮影しました。
勅使門は、元治元年(1864)の禁門の変でも焼失を免れた、
山内最古の建物として京都府指定文化財となっています。
慶長年間(1596~1615)に御所・明照院の禁門として建立され、
寛永18年(1641)に現在地に移築されました。
野々宮神社へ向かいます。
続く
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野宮神社(ののみやじんじゃ)
天龍寺総門から府道29号線を北へ進み、次の丁字路を左折して道なりに進んだ
竹林の中に野宮神社があります。
野宮とは天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に
身を清める場所で、主に嵯峨野の地が選ばれ造営されましたが、
天皇一代ごとに場所を変え、造り替えられました。
第52代・嵯峨天皇の即位に伴い、大同4年(809)に仁子内親王(じんしないしんのう)
が斎宮に卜定(ぼくじょう=占いにより定めること)されてからは、
現在地に野宮が造営されるようになりました。
しかし、第96代・後醍醐天皇の御代から南北朝の動乱が発生し、
祥子内親王(しょうし/さちこないしんのう)を最後に廃絶し、
天照大御神を祀る神社として残されました。
野宮神社には黒木鳥居が建ち、周囲は小柴垣で囲われています。
『源氏物語』第10帖「賢木(さかき)」に記されている情景が再現されています。
黒木鳥居は原始的な日本最古の形式で、クヌギが使われ、
樹皮がそのまま残されています。
中央の本殿には天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)が祀られています。
野宮神社は、度重なる戦乱で衰微しますが、第105代・後奈良天皇、
更に第114代・中御門天皇らの綸旨により再興され、
現在でも皇室からの厚い崇敬を受けています。
本殿の左側に白峰弁財天社があります。
近年まで松尾大神が祀られていましたが、安永9年(1772)の都名所図会を
もとに弁財天が祭祀されるようになりました。
財運・芸能の神とされています。
右側には愛宕大神が祀られ、火伏・勝運の神として信仰を集めています。
本殿前の右側に鳥居が建っています。
鳥居をくぐった左側にあるのは竹製の神輿でしょうか?
奥へ進むと白福稲荷社があります。
子宝・安産及び商売繁盛の御利益があるそうです。
大山弁財天社は財運開運や交通・旅行の安全が祈願されています。
大山弁財天社の右側に二社並んでいますが、詳細は不明です。
左の祠の傘は、単に雨漏りを防ぐものか?...
他に何か深い意味があるのか?...
少し気になります。
参道右側の「じゅうたん苔」には斎宮旧跡の石碑が建っています。
斎宮とは天皇が新たに即位された度に、天照大御神の御杖代(みつえしろ)
として伊勢神宮に遣わされた未婚の内親王・女王で、
起源は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)とされています。
第10代・崇神天皇6年条(BC92年)によれば、国内情勢が不安になったのは、
宮中に天照大御神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)が
祀られていたのが原因とされました。
天照大御神は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託され、
倭の笠縫邑(かさぬいのむら)で祀られるようになりましたが、
豊鍬入姫命を斎王の始まりとし、伊勢神宮の斎王は
特に「斎宮(さいぐう)」と呼ばれています。
その後、第40代・天武天皇は673年に即位すると斎王制度を確立させ、
初代斎王として大来皇女(おおくのひめみこ)が伊勢に遣わされました。
卜定された斎宮は、宮中の初斎院で1年間、野宮に入って1年間
潔斎(けっさい)された後に斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)に向かい、
伊勢神宮での神事に臨みました。
その時の行列は「斎王群行」と呼ばれ、それを再現した「斎宮行列」が
平成10年(1998)から毎年10月に行われ、有料で参加することもできます。
境内へ戻り、白峰弁財天社の前方へと進むと、大黒天が祀られています。
開運・縁結び・学業向上の神として信仰され、多くの絵馬が奉納されています。
左側の「亀石」は「祈りを込めて撫でると、願い事が叶う」神石とされています。
左に置かれている桶には水が張られ、願い事を書いた紙を水に浮かべ、
文字が消え沈むと祈願が成就するとされ、「御禊清浄御祈願」と称されています。
井戸は、この井戸に鎮まったとされる龍神が祀られ、
健康・長寿にご利益があるとされています。
恋愛成就の奉納木
野宮神社の向かい(東側)に小倉百人一首文芸苑があります。
小倉百人一首は、公家・藤原定家が選んだ秀歌撰で、親交があった
宇都宮頼綱が出家して小倉山荘に隠棲した際、
襖の装飾に依頼されて作成した色紙が原型とされています。
藤原定家は『古今和歌集』から『続後撰和歌集(しょくごせんわかしゅう)』に至る
十種の歌集から撰歌され、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、
100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためました。
文芸苑には『続後撰和歌集』から撰ばれた七首の歌が紹介されています。
天智天皇
「秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま=茅葺)をあらみ 衣手は
露にぬれつつ」
(刈り取られた稲の見張り小屋で、夜を明かしたのですが、
茅葺の編み目が粗く着物が夜露で濡れてしまった。)
蝉丸
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」
(これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、
皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関だ)
陽成院
「つくばねの 峰より落つる みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる」
(筑波山の峰から流れ落ちる男女川(おなのがわ)は、流れ行くとともに
水量が増して淵(深み)となるように、私の恋心も時とともに思いは深まり、
今は淵のように深い恋になってしまった)
元良親王(もとよし しんのう)
「わびぬれば 今はた同じ 難波(なにわ)なる みをつくしても あはむとぞ思ふ」
(噂が立ち、逢うこともままならない今は、もはや身を捨てたのも同じこと。
それならばいっそ難波潟の「みをつくし(船用の標識/身を尽くすとの掛詞)」
ではありませんが、この身を捨ててでもあなたに逢いたい)
三条右大臣
「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」
(逢坂山のさねかずら(モクレン科のつる草)が逢って寝るという意味を
持っているのであれば、さねかずらがつるをたぐれば来るように、
誰にも知られずにあなたをたぐり寄せる方法がほしい)
文屋朝康(ぶんや の あさやす)
「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」
(葉の上で光っている白露に、風がしきりに吹きつける秋の野原は、
紐を通して繋がっていた玉の紐が切れて、弾け飛んでいくように見える)
参議等(さんぎ ひとし)
「浅茅生(あさじふ)の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しさ」
(まばらに茅(ちがや)が生える、篠竹の茂る野原の「しの」ではないけれども、
人に隠して忍んでいても、想いがあふれてこぼれそうになる。
どうしてあの人のことが恋しいのだろう)
御髪神社へ向かいます。
続く
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御髪神社
小倉百人一首文芸苑の北側はJR山陰線(嵯峨野線)に面し、踏切がありますが、
渡らずに野宮神社まで戻り、神社の南側の竹林を進みます。
「竹林の道」と呼ばれ、野宮神社から大河内山荘(おおこうちさんそう)まで
約200mの小道で、毎年12月には、京都・嵐山花灯路が開催されています。
突き当たりに大河内山荘がありますが、開門迄まだ時間があり、拝観は断念しました。
案内板の写真
大河内山荘は、熱心な仏教徒であった映画俳優の大河内傳次郎が、
昭和9年(1931)に参禅堂で仏間のある持仏堂を建立したのが始まりです。
自ら庭園の設計を行い、東の嵐山、遠くは比叡山、西の保津峡を借景とした
回遊式庭園を庭師の広瀬利兵衛と共に造営しました。
34歳から戦争を挟みましたが64歳で亡くなるまでの凡そ30年間をかけ、
出演料の大半を注いで造り上げたとされています。
中門、数寄屋師の笛吹嘉一郎が施工した大乗閣、
その他に持仏堂、茶室・滴水庵が登録有形文化財となっています。
大河内山荘から南へ進むと亀山公園で、反対側の北へ進むと小倉池があります。
小倉池の畔には御髪神社があります。
日本で唯一の髪の神社で、昭和36年(1961)に創建されました。
祭神は藤原采女亮政之(ふじわら の うねめのすけ まさゆき)公で、
鎌倉時代に実在し、理美容業者の祖とされています。
第90代・亀山天皇の御代(1260~1274)、藤原鎌足の末孫で、
皇居の宝物守護にあたる武士であった父・基晴が、文永年間(1264~1275)に
紛失した宝刀『九王丸』の探索を行うために下関に居を構えました。
同行した政之は生活の糧を得るため、庄屋の婦女の髪を結って父を助け、
これが「髪結い職」の我国の起源とされています。
床の間があった髪結所を開いたことから「床屋」と呼ばれるようになったと伝わり、
下関には「床屋発祥の地」の記念碑が建てられているそうです。
父の死後、弘安4年(1281)に政之が鎌倉に戻ると、髪結いの技術が評価され、
幕府でも重宝されました。
建武2年(1335)10月17日に政之が亡くなった際には、その功績により
従五位に叙せられ、全国の理美容業者は、
昭和の初め頃まで命日の17日を定休日と定めていました。
御髪神社では新暦の11月17日に秋の大祭が執り行われています。
境内には髪塚があり、神官によって祓い清めるられた毛髪が奉納されています。
願い事をしながら切った髪の毛を納めるとご利益があるとされ、
また、大祭日には髪供養が行われます。
社殿の左側には毘沙門像が祀られていますが、神社との関係は不明です。
小倉池の南側に嵯峨野観光鉄道の「トロッコ嵐山」駅がありますが、
新型コロナの影響で運休中でした。
平成元年(1989)3月に複線化のため新線に切り替えられ、廃止された山陰本線の
嵯峨駅から馬堀駅間の旧線を、観光専用鉄道として利用するため
平成2年(1990)11月に設立されました。
JR西日本の完全子会社で、平成3年(1991)4月にトロッコ嵯峨駅~トロッコ亀岡駅間で
開業され、沿線には桜や楓が植栽されて桜・紅葉の名所となっています。
JR西日本からDE10形ディーゼル機関車1両とトキ25000形貨車4両が譲渡され、
運行に使用されました。
DE10-1104は昭和46年(1971)に製造され、嵯峨野観光鉄道に移籍後は
平安の王朝色である緋色、山吹色、黒の塗装に変更されました。
予備機としてDE10-1156が同様に塗装されていますが、所属はJR西日本です。
トキ25000は窓のない開放構造の中間車SK100-1、2と客室に窓を設けた
中間車SK100-11及び馬堀駅方先頭に連結され、機関車を遠隔制御する運転席をもち、
客室に窓を設けたSK200-1に改造されました。
平成10年(1998)にはトキ25000形貨車を改造し、側面に格子状の柵を設けるなど、
より開放的な構造を採用したSK300-1(愛称=ザ・リッチ)が追加されました。
更に平成12年(2000)にはSK100形、SK200形全車に対し、窓付きだった2両は
開口部を拡大し、他の2両とともに上側に固定窓、下側を下降窓とする改造を施し、
全車ほぼ同様の外観となりました。
嵯峨野観光鉄道にはトロッコ嵐山駅とトロッコ保津峡の中間駅がありますが、
トロッコ列車は全車指定席で、乗車区間にかかわらず片道630円の均一料金です。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ向かいます。
続く
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