カテゴリ:京都市 > 京都市右京区(嵯峨野)

鳥居
清涼寺の仁王門の手前に愛宕野々宮両御旅所があります。
神輿-1
御旅所とありますが、ここに両社の神輿が納められています。
5月の第四日曜日に野宮神社と愛宕神社合同の還幸祭が行われますが、
愛宕神社は山の上なので勿論、野宮神社の神輿でさえ、
神社に立ち寄ることはありません。
神輿-2
大覚寺までの二つのコースがあり、年毎に交互にコースに沿って大覚寺へ向かい、
神官と僧侶のお祓いを受けて御旅所へ戻るという、ちょっと考えると不思議な祭です。
神輿-3
元禄4年(1691)に松尾芭蕉が見学したとの記録も残され、歴史のある祭でもあります。
「嵯峨祭」と呼ばれ、当日は2基の神輿の他、子供神輿、5本の剣鉾や稚児行列が
嵯峨野一帯を巡幸するそうですが、今年は新型コロナの影響でどうなることか...

清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ向かいます。
続く

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仁王門
小倉池から東へ進み、府道29号線へ左折して北へ進んだ突き当りに
清涼寺の仁王門があります。
現在の仁王門は天明4年(1784)に再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
和様と禅宗様を折衷した建物で、初層には室町時代の長亨(ちょうきょう)年間
(1487~1489)作の仁王像が安置されています。
上層には十六羅漢像が安置されています。

清涼寺は山号を五台山(ごだいさん)と号する浄土宗知恩院派の寺院で、
京都十三仏霊場の第2番札所です。
かっては千本釈迦堂と共に釈迦信仰の中心でもありました。
山号の「五台山」は、中国山西省東北部にある霊山で「清涼山」とも称されます。
東大寺で三論教学を、石山寺で真言密教を学んだ
奝然(ちょうねん:932~1016)は永観元年(983)に宋に渡りました。
五台山を巡礼した後、台州の開元寺を訪れました。
インド・コーシャンビー国の国王・優填王(うでんおう)は、釈尊が不在で会うことが
できなかったことを悲しみ、栴檀(せんだん)の木で等身大の釈尊の立像を造らせました。
その像が中国に伝わり、開元寺に安置されていたことから、
奝然は現地の仏師に依頼してその像を模刻させました。

永延元年(987)に帰国した奝然は、愛宕山を中国の五台山に見立て、
この地にその像を安置する寺の建立を意図したのですが、延暦寺に反対され、
実現できずに長和5年(1016)に入滅しました。
都の東北に聳える比叡山に対し、愛宕山は西北に位置し、奝然には、この地を
南都系の旧仏教の中心地とし、延暦寺と対抗するような思いがあったと考えられています。
その後、奝然に随持して入宋した弟子の盛算(じょうさん)が、
奝然の遺志を継ぎ、清涼寺を創建しました。
本堂
仁王門をくぐると参道は本堂へ斜めに伸びています。
現在の本堂は元禄14年(1701)に再建され、
本尊の釈迦如来像が安置されていることから「釈迦堂」とも称されています。
かってこの地には第52代・嵯峨天皇が造営した離宮・嵯峨院(後の大覚寺)があり、
その一部を天皇の皇子で左大臣の源融(みなもと の とおる:822~895)が譲り受け、
別荘・栖霞観(せいかかん)を営みました。
源融は阿弥陀三尊像の造立を発願しましたが、寛平7年(895)に薨去されました。
翌寛平8年(896)に三尊像は造立され、子息によって阿弥陀堂が建立されて
「棲霞寺(せいかじ)」と号して安置されました。
天慶8年(945)、醍醐天皇の第4皇子・重明親王(しげあきらしんのう)の
后・藤原寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ)が亡くなり、親王は菩提を弔うために
新堂を建立し、等身大の釈迦像を安置して「釈迦堂」と称しました。
長和5年(1016)に奝然が入滅し、その後奝然の遺志を継いだ盛算により、
棲霞寺の境内に清涼寺が建立され、勅願寺となりました。
承徳2年(1098)には園城寺(みいでら)の隆明が清涼寺の別当に就き、
釈迦如来像を模刻して三室戸寺に安置しました。
「清凉寺式釈迦像」と呼ばれ、日本各地に100躯近く残されています。
鎌倉時代には建長元年(1249)に叡尊は釈迦如来を模刻し、
西大寺の本尊としています。

建保5年(1217)の火災で清涼寺は棲霞寺と共に焼失し、その後再建され、
承久元年(1219)には釈迦堂が上棟しましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)で山門、
多宝塔、五大堂、鎮守社などが焼失しました。
延徳元年(1489)に山門が再建され、仁王像も造立されて安置されました。
文禄5年(1596)の慶長伏見地震で損壊し、豊臣秀吉の援助を受けて再興されました。
慶長7年(1602)には豊臣秀頼により釈迦堂が再建され、
諸堂再興による供養が行われました。
慶長15年(1610)、徳川家康は大方丈を建立し、亡くなった四女・松姫の
位牌所とし、慶長17年(1612)には寺領を寄進しました。
寛永14年(1637)の嵯峨の大火が類焼し、釈迦堂をはじめ多くの伽藍が焼失しました。
元禄13年(1700)から本尊の出開帳が始まり、再建のための資金が集められると、
翌元禄14年(1701)には桂昌院の発願により、伽藍の復興が行われました。
出開帳は万延元年(1860)まで、9回行われました。
明治元年(1868)、真言宗系の子院が大覚寺に合併され、浄土宗単立の寺院となりました。
本尊
清涼寺では毎月8日と春(4月・5月)及び秋(10月・11月)に本尊の特別開帳、
春と秋に霊宝館の特別公開が行われています。
本堂・霊宝館の共通券は700円でした。
本尊の釈迦如来立像は像高160cmで国宝に指定されています。
天竺(てんじく=いんど)伝来の善光寺の阿弥陀如来、平等寺の薬師如来と共に
「日本の三如来」と称されています。
また、釈迦37歳の時の生き姿を刻んだとされていることから
「生身(しょうじん)如来」とも呼ばれ、古くから信仰を集めています。
渡り廊下
本堂の裏側からL字形の渡り廊下が大方丈まで続いています。
納骨堂
納骨堂
忠霊塔
池泉回遊式庭園が築かれていますが、名称は無いようです。
島には十三重石塔(忠霊塔)が建っています。
弁天堂
池の東側には江戸時代後期の建立とされている弁天堂があります。
弁天堂には多くの彫刻が施されています。
渡り廊下からの弁天堂
渡り廊下からの弁天堂
大方丈前の門
大方丈は6歳で亡くなった徳川家康の四女・松姫の位牌所として慶長15年(1610)に、
家康と実母・おちかの方の寄進により建立されましたが、
寛永14年(1637)の大火で焼失しました。
現在の大方丈は享保年間(1716~1735)に再建されたもので、
襖絵の一部は狩野探幽によるものです。
大方丈前庭園
大方丈前の庭は小堀遠州作と伝わり、
家康が大方丈を建立した当時のものとされています。
阿弥陀堂
本堂の右側に阿弥陀堂が西向きに建立されています。
阿弥陀三尊像
寛平7年(895)に建立された棲霞寺(せいかじ)の旧跡で、
阿弥陀三尊像が安置されていました。
阿弥陀堂-2
現在の阿弥陀堂は文久7年(1863)の再建で、
阿弥陀三尊像は霊宝館に遷されています。
吉井勇の歌碑
本堂と阿弥陀堂との間の奥に吉井勇の歌碑があります。
「今もなほ なつかしと思ふ 夕霧の 墓にまうでし かへり路の雨」
初代・夕霧大夫は清涼寺附近の生れとされ、島原の置屋・扇屋で太夫となりました。
寛文12年(1672)に扇屋が大坂の新町へ移転すると、大坂で最初の太夫となりました。
姿が美しく、芸事に秀でた名妓でしたが、新町移転の6年後に病死しました。
享年は22とも27とも伝わります。
中村芳子の歌碑
また、中村芳子の歌碑も残されています。
「あでやかに 太夫となりて我死なん 六十路過ぎにし 霧はかなくも」
初代・中村鴈治郎の末娘・中村芳子は女優で、父の生家が扇屋であったことから、
昭和55年(1980)に夕霧大夫を襲名し、毎年11月第2日曜日に
清涼寺で開催されている「夕霧供養祭」を始めました。
昭和62年(1987)に亡くなり、井筒八ツ橋本舗がこの歌碑を建立しました。
井筒八ツ橋本舗が「夕霧」という銘菓を作ったことに因み、
夕霧供養祭は現在も島原の太夫を招いて引き継がれています。
当日は仁王門から本堂への、太夫道中が見学できます。
井戸
阿弥陀堂の右側に、桂昌院遺愛の井戸が残されています。
庫裏
北側に庫裏があり、大方丈と続いています。
霊宝館
霊宝館は二階建てで、一階には阿弥陀三尊像・文殊菩薩騎獅像・普賢菩薩騎象像・
釈迦十大弟子像・四天王立像・清涼寺式釈迦如来模刻像・兜跋毘沙門天像
などが安置されています。
阿弥陀三尊像は中尊・阿弥陀如来坐像(像高178cm)、左脇侍・観音菩薩
(像高165.7cm)・右脇侍・勢至菩薩(像高168.2cm)の三尊像で、
寛平8年(896)の作とされ、国宝に指定されています。
棲霞寺の旧本尊で、『源氏物語』光源氏のモデルとされた源融(みなもと の とおる)が
自分の顔に似せて造らせたと伝わり「光源氏写し顔」との異名があります。

文殊菩薩騎獅像と普賢菩薩騎象像は、共に平安時代後期(10世紀末)の作で、
国の重要文化財に指定されています。
普賢菩薩像は、元は密教の帝釈天像として造られたものを普賢菩薩像に
転用したもので、象に乗った帝釈天像は四例しかありません。

釈迦十大弟子像(像高80㎝~83cm)は、いずれも平安時代後期(11世紀初)の作で、
国の重要文化財に指定されています。

像高138cmの持国天、像高139cmの増長天、像高141cmの広目天、像高141cmの
多聞天の四天王像はは、いずれも平安時代後期(10世紀後半)の作で、
国の重要文化財に指定されています。

清涼寺式釈迦如来模刻像は鎌倉時代の作で、鎌倉時代から江戸時代にかけて
数多く模刻された内の一躯です。

像高184cmの兜跋毘沙門天像は、平安時代後期の作で、
国の重要文化財に指定されています。
かって、羅城門の上に安置されていた像を模して造られました。

霊宝館の二回には釈迦如来立像体内納入品・十六羅漢図・渡辺正栄尼像図・
市姫像図・熊谷直実自筆誓願書・狩野探幽作花鳥図などが展示されています。

釈迦如来立像体内納入品は、昭和28年(1953)に本尊の釈迦如来立像の体内から
発見された26件・250点で、いずれも中国宋時代985年の作で国宝に指定されています。
特に注目されているのは五色のシルクで造られた五臓六腑で、
人体の位置に納められ、世界最古の内臓模型で貴重とされています。
五臓の周りには多数の絹織物や網が納められ、仏像の血液・体液、筋肉、
血管・神経を表すものと考えられています。
また、X線撮影により、口中には歯、頭中には脳と思われる鏡が発見されました。
納入されていた「奝然(ちょうねん)上人へその緒書」は日本最古の平仮名で、
「ミロク菩薩版画」は唯一残された中国宋時代の画家・高文進の作品です。
その他、経典や文書類、版画、銅銭などが納められていました。

十六羅漢図は中国宋時代のもので、国宝に指定されていますが、
展示されているものは模写です。

正栄尼(しょうえいに)の父は、明智光秀、浅井長政など、様々な説があります。
渡辺昌の妻となり、渡辺糺(ただす)・つるをもうけ、後に豊臣秀頼の乳母となりました。
糺は槍の名手で、豊臣秀頼の槍の指南役(師範)として仕え、
慶長19年の大坂冬の陣では根来衆の鉄砲隊300名を率いました。
大坂夏の陣では深手を負って大坂城に退き、母と共に自害しました。
正栄尼は不明ですが、渡辺糺の墓は清涼寺にあります。
渡辺正栄尼像図は、府の文化財に指定されています。

市姫は徳川家康の五女で、慶長12年(1607)、家康が66歳の時に生まれました。
しかし、慶長15年(1610)に亡くなり、冥福を祈って肖像画が描かれました。
市姫像図は、府の文化財に指定されています。

熊谷直実は、寿永3年(1184)の一ノ谷合戦で、平敦盛の首をはねました。
平敦盛は17歳であり、我が子・直家ぐらいの齢で、これ以後、
直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いがいっそう強くなりました。
建久4年(1193)頃、法然の弟子となって出家し、法名を法力房・蓮生
(ほうりきぼう・れんせい)と称しました。
直実の自筆誓願書は、元久元年(1204)に上品上生(じょうぼんじょうしょう)の
極楽往生を誓ったもので、国の重要文化財に指定されています。

狩野探幽(1602~0674)は京都で生まれ、江戸に出て、
元和3年(1617)に16歳の若さで幕府の御用絵師となりました。
幕府の用命を受け、日光・芝・上野の徳川家霊廟の装飾や
江戸城の障壁画の制作に従事しました。
また、大坂城・二条城・名古屋城・京都御所や寺院などの
障壁画制作にも活躍しました。
寛永12年(1635)に出家して探幽斎と号し、
法印に次ぐ僧位である法眼に叙せられました。
寛文2年(1662)には宮内卿(くないきょう=宮内省の長官)法印へと昇進し、
狩野派の権威を不動のものとしました。
清涼寺で展示されているものは、四季花鳥図の紙本墨画金泥引・六曲一双で、
市の文化財に指定されています。
八宗論池-手水鉢
本堂前の参道を仁王門の方へ向かった左側に八宗論池があります。
弘法大師がこの池を巡り、南都八宗の学僧を論破したことに因み、
名付けられたと伝わります。
また、池の畔には嵯峨上皇が崩御された際に、御遺詔により御棺をかけたとされる
「棺掛桜」があったそうです。
池の西北に置かれている手水鉢には、四面に仏像が刻まれています。
右側の桜の何代目かの「棺掛桜」かもしれません。
源昇公墓所
池の北側の宝篋印塔は源昇公墓所とされています。
源昇(みなもと の のぼる:848~918)は源融の次男で、第56代・清和天皇から
第60代・醍醐天皇まで仕え、最終の官位は大納言正三位兼民部卿に叙されています。
経蔵
池の北側を東へ進んだ正面には一切経蔵があります。
経蔵-傅大師像
堂内には傅大師(ふだいし)とその長男・普建、及び
次男の普成(ふしょう)の像が安置されています。
傅大師は在家の身でありながら禅修行をされて出家修行者をしのぐ力量を得られ、
弥勒菩薩の化身とまで称されました。
双林寺を建てて住し、大蔵経の閲覧に不便を覚えたことから転輪蔵を考案しました。
後世、経蔵に傅大士と二子の像が安置されるようになりました。
経蔵-法輪
一切経は「大蔵経」「三蔵」とも称され、仏陀の説いた教え (経蔵) と戒律 (律蔵) 及び
経と律に関する解説や研究 (論蔵) から成り、
これに精通した僧侶が三蔵法師と呼ばれています。
清涼寺の経蔵には唐紙製の明板本五千四百八巻の大部が納められています。
この法輪を一回転すれば、一切経を読んだ功徳が得られるとされています。
経蔵-法輪を囲む柱
法輪を囲む柱の上部は極彩色で彩られています。
経蔵-賓頭盧尊者
堂内には賓頭盧尊者像と四隅には四天王像が安置されています。
弥勒多宝石仏
一切経蔵の南側に高さ2.1mの弥勒多宝石仏が祀られています。
空也上人(903~972)の作と伝わり、江戸時代には「空也上人塔」とも
呼ばれていましたが、鎌倉時代前期の作と推定されています。
弥勒多宝石仏-裏
裏側には宝塔が刻まれています。
愛宕権現社-1
弥勒多宝石仏の南側、仁王門の右側に愛宕権現社があります。
愛宕権現社-2
愛宕山は大宝年(701~704)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖である
泰澄によって朝日峰に神廟が建立されたのが創建とされています。
一方で愛宕神社は、神代に現在の亀岡市で創祀された後、
継体天皇元年(507)に社殿が創建され、
その後、分霊が鷹ヶ峰に祀られるようになりました。
天応元年(781)に慶俊僧都と和気清麻呂がその分霊を愛宕山の山上に
遷したとされていますが、途中一時この地で祀ったと伝わり、
それが仁王門前の御旅所なのかもしれません。
法然上人像
仁王門の左側に法然上人(1133~1212)像が祀られています。
法然上人が保延7年(1141)の9歳の時に父が殺害され、
天養2年(1145)に比叡山に登り源光に師事しました。
久安3年(1147)に得度・受戒し、久安6年(1150)に
比叡山黒谷別所に移って修行を行いました。
保元元年(1156)に清涼寺で七日間参篭し、
そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えたとされています。
この像は24歳で清涼寺に参篭された「求道青年像」です。
聖徳太子殿
法然上人像から西側の奥、木立の中に聖徳太子殿があります。
法隆寺夢殿を模した建物であることから
「聖徳太子殿」と呼ばれているそうですが、詳細は不明です。
聖徳太子は、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり
諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝され、
室町時代末期頃から「太子講」が結成されるようになりました。
更に、江戸時代には左官や桶職人、鍛冶職人など、
様々な職種へと広がり太子講が盛んとなりました。
聖徳太子は、8世紀には「日本の釈迦」と仰がれ、また、観音菩薩の化身として尊ばれ、
古くから多くの寺院で太子堂が建立されて、祀られてきました。
聖徳太子が実在したかについて議論がありますが、聖徳太子の墓は叡福寺にあります。
多宝塔
法然上人像の北側に元禄16年(1703)に建立され、
府の文化財に指定されている多宝塔があります。
元禄13年(1700)に江戸・護国寺で釈迦如来立像の出開帳が催され、そこで集まった
浄財により江戸で建立されたものが、元禄16年(1703)に現在地に移築されました。
源融の墓
多宝塔の裏側にある宝篋印塔は、源融(みなもと の とおる)の墓と伝わります。
源融は弘仁13年(822)に、第52代・嵯峨天皇の皇子として誕生し、
承和5年(838)に元服して正四位下に直叙されました。
順調に昇進し、貞観6年(864)には中納言に叙されましたが、この頃、
異母兄の左大臣・源信(みなもと の まこと)と大納言・伴善男(とも の よしお)が
不和の状況にありました。
貞観8年(866)に応天門の変が発生して、伴善男は失脚、源信は籠居(ろうきょ)して
出仕を取り止め、貞観10年(868)に事故死しました。
また、貞観9年(867)には右大臣・藤原良相(ふじわら の よしみ)や
大納言・平高棟(たいら の たかむね)が相次いで亡くなり、
融は貞観12年(870)大納言に昇進しました。
更に貞観14年(872)には太政大臣・藤原良房が薨去し、
融は太政官の首班に立って左大臣に任ぜられました。
しかし、貞観18年(876)に第57代・陽成天皇が即位すると、藤原基経
天皇の外戚として摂政に任じられたため、融は上表を出して自宅に引籠もり、
陽成天皇が退位するまで続きました。
その後、第59代・宇多天皇の治世となった寛平3年(891)に関白太政大臣・藤原基経が
薨去、融は再び太政官の首班に立ちましたが、寛平7年(895)に74歳で薨去されました。
源融は『源氏物語』の主人公・光源氏の実在モデルの有力候補とされ、陸奥国塩釜の
風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園=しょうせいえん)を造営しました。
『源氏物語』では光源氏の邸宅「六条院」のモデルとされています。
また、嵯峨にあった別邸の栖霞観(せいかかん)の地に清涼寺が創建され、
宇治に営んだ別邸は後に平等院となりました。
嵯峨天皇供養塔
多宝塔の北側に第52代・嵯峨天皇(右)と檀林皇后(左)の供養塔があります。
嵯峨天皇(786~842)は、第50代・桓武天皇の第2皇子で、
大同4年(809)に第51代・平城天皇の譲位を受け即位しました。
翌大同5年(810)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立し、薬子の変が起こりますが、
嵯峨天皇側が迅速に兵を動かし、平城上皇が出家して決着しました。
以後、40年間は平穏で、宮廷文化が盛んとなりました。
弘仁14年(823)に大伴親王(淳和天皇)に譲位して太上天皇となり、
冷泉院を後院としました。
天長10年(833)に淳和天皇の譲位により、実子の仁明天皇が即位し、
同年には在位中に造営された離宮・嵯峨院(後の大覚寺)に御所を新造し、住しました。
この宝篋印塔は平安時代末期の作とされ、
相輪は折れ、笠石四隅の突起は失われています。

橘 嘉智子(たちばな の かちこ:786~850)は、嵯峨天皇が親王の時に入侍し、
弘仁6年(815)に皇后に立てられました。
絶世の美女として名高く、一方で篤く仏教を信仰して承和2年(835)は唐から
禅僧・義空を招いて開山とし、現在の天龍寺・多宝殿の地に尼寺の檀林寺を創建しました。
日本最初の禅院で、寺名から「檀林皇后」と呼ばれました。
橘氏出身としては最初で最後の皇后で、
橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立しました。
死に臨み、自らの遺体を「埋葬せず路傍に放置せよ」と遺言し、
帷子辻((かたびらがつじ=現在の帷子ノ辻附近)において遺体が腐乱して
白骨化していく様子を人々に示したと伝わります。
五重石塔は高さ3mで平安時代中期の作ですが、基礎は鎌倉時代の作で、
初層投身とその屋根及び二重目の屋根が本来のものとされています。
奝然の墓
供養塔の北側に開山・奝然(ちょうねん)上人の墓があります。
鐘楼
鐘楼は江戸時代に建立されました。
梵鐘
梵鐘には室町時代中期の「文明16年(1484)11月吉日」の日付と寄進者名の中に、
足利義政、日野富子、日野富子の子で征夷代将軍・義尚(よしひさ)及び
堺の商人の銘があり、府の文化財に指定されています。
「五台の晨鐘」として嵯峨十景の一つに数えられています。
狂言堂
鐘楼の西側に明治34年(1901)に現在地に移設された狂言堂があります。
平安時代末期の永久5年(1117)、大原声明を完成させた
天台宗の僧・良忍(1073~1132)は阿弥陀仏の示現を受け、融通念仏を創始しました。
融通念仏とは「1人の念仏が他人の 念仏と通じ合い(融通)、より大きな
功徳を生み出す」というもので、誰もが速やかに仏の道に至る方法とされています。
良忍は現在の大阪市平野区に、その後の融通念仏の総本山・大念仏寺
前身・修楽寺を開きました。
その後、融通念仏は途絶えましたが、円覚上人(1223~1311)によって中興され、
上人により念仏の教えを無言劇とした大念仏狂言が創始されました。
円覚上人は壬生寺再興のため、正嘉2年(1258)に勧進で融通念仏を行い、
弘安2年(1279)には清涼寺で大念仏会が開始されました。
これが「嵯峨大念仏狂言」の始まりで、現在では4月第1日曜日と
第2土・日曜日に催され、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
豊臣秀頼の首塚
本堂の左側に豊臣秀頼の首塚があります。
大坂夏の陣で淀殿と秀頼の親子は自害して果てましたが、昭和55年(1980)の
大坂城三ノ丸跡の発掘調査で、1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、
馬1頭の頭の骨が発見されました。
頭蓋骨は20代男性のもので、秀頼のものと推定され
昭和58年(1983)に現在地に埋葬されました。

首塚の左側に大坂夏の陣での諸霊供養碑が建っています。


首塚の左側に薬師寺があります。
続く

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本堂
薬師寺の本堂は清涼寺の境内に向かって建っています。
現在の本堂などの建物は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1645)に焼失し、
その後再建されたものです。
薬師寺は山号を竜蟠山(りゅうばんさん)と号する浄土宗知恩院派の寺院で、
清涼寺の境内塔頭です。
薬師寺は弘仁9年(818)に第52代・嵯峨天皇の勅願により創建されました。
疫病の流行を憂慮した天皇は、空海に薬師如来の造立を命じ、自らも般若心経を
写経して病魔の退散と招福を祈念されました。
空海は高尾・神護寺で、一刀三礼して薬師如来像を刻み、薬師寺の本尊としました。
薬師如来の霊験はあらたかで、「心経秘鍵薬師如来像」と称されました。
「心経秘鍵(しんきょうひけん)」とは空海が著した『般若心経』の解説書
『般若心経秘鍵』によるものと思われますが、詳細は不明です。
薬師如来は勅封の秘仏とされていましたが、8月24日は開帳されているようです。

堂内に安置されている阿弥陀三尊像は恵心僧都の作と伝わります。
恵心僧都は生身の阿弥陀如来を拝もうと七日間、清涼寺に籠り祈願しました。
七日目の暁、高貴な尼僧が現れ、その導きに従うと、紫雲の中に船に乗った
阿弥陀三尊が出現したとされ、恵心僧都は後世に伝えるために
三尊像を刻んだと伝わります。
「船上阿弥陀三尊像」と称され、発見された江戸時代の版木には、
船に乗った阿弥陀三尊像が描かれていたことから、
この三尊像は船に乗っていたと推定されています。

堂内には他に室町時代作の嵯峨天皇坐像が安置されています。
また、福生寺の遺仏とされる小野篁像や小野篁作と伝わる
地蔵菩薩像なども安置されています。
明治13年(1880)に福生寺が合併されました。
福生寺の創建やその後の変遷は不明ですが、かって、清涼寺と大覚寺との
中間辺りの嵯峨六道町にありました。
福生寺には嵯峨天皇に仕えた小野篁(おの の たかむら:802~852)が、
冥界から生還したと伝わる7基の井戸があったとされ、近年の調査で
発掘されましたが、その後埋め戻され、現在は宅地となっています。
小野篁は昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで
裁判の補佐をしていたという伝説が残され、冥界へと通ったとされる井戸が
六道珍皇寺に残されています。
六道珍皇寺の六道の辻が「死の六道」に対し、
福生寺は「生の六道」と呼ばれました。
山門
山門は「日月門」と称されています。
薬師寺は、第二代住職・高岳親王(たかおかしんのう:799~865?)の時に
焼失しました。
高岳親王は第51代・平城天皇の第三皇子で、在原業平は甥にあたります。
第52代・嵯峨天皇の代に皇太子に立てられましたが、
大同5年(810)の薬子の変に伴い廃されました。
その後、名誉回復されましたが、弘仁13年(822)に出家し、
「真如」と名乗って空海の弟子となりました。
弘法大師の十大弟子の1人となり、阿闍梨の位を授かりました。
老年になって入唐求法を志し、貞観6年(864)に唐へ渡りましたが、
当時の唐は仏教弾圧政策がとられ、優れた師を得られませんでした。
貞観7年(865)に海路天竺へ向かいましたが、その後消息を絶ちました。
三地蔵
境内には、六道地蔵尊(中央)・るり光地蔵尊(右)・夕霧地蔵尊(左)の
三地蔵が祀られています。
境内
薬師寺は通常非公開で、8月24日のみ無料で一般公開され、
画像が掲載できなかった庭園などの拝観もできるようです。
西門
薬師寺の左側に清涼寺の西門があります。
西門を出て慈眼堂(じげんどう)へ向かいます。
続く

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慈眼堂
清涼寺西門から西へ進んだ北側に慈眼堂があります。
鎌倉時代前期、この地に藤原定家(1162~1241)が中院山荘を営み、
慈眼堂を開基したと伝わり、慈眼堂には本尊として
木造千手観音立像が安置されていました。
千手観音立像は像高58.1cm、鎌倉時代の作で「中院観音」とも呼ばれ、
藤原定家の念持仏であったと伝わり、市の文化財に指定されています。
定家没後は子の為家に伝領されましたが、
為家は千手観音立像を地元の人に与えました。
その後、この地の豪農・浜松屋善助の屋敷内の堂に祀られていましたが、
文政5年(1822)に浜松屋が没落し、地元の人々により
現在地に遷され祀られるようになりました。
慈眼堂-堂内
堂内には千手観音立像の右側に地蔵菩薩像と、
左側に毘沙門天像が安置されています。
中院山荘跡
慈眼堂から更に西へ進むと中院山荘跡があり、現在では駒札のみが残されています。
清涼寺から西に伸びるこの街道は「愛宕道」で、
両側の一帯が「中院」と呼ばれていたことから「中院山荘」と称されました。
野宮神社の向かい(東側)に小倉百人一首文芸苑があり、「宇都宮頼綱が出家して
隠棲したのは小倉山荘」と記されていますが、
こちらでは隠棲したのは中院山荘としています。
そして、小倉山荘は藤原定家の山荘で、定家が宇都宮頼綱に依頼されて
百人一首の和歌を中院山荘の襖の装飾としたことから、
「小倉百人一首ゆかりの地」と記されています。
個人的には、襖の装飾がされたのは小倉山荘で、
「小倉百人一首」の原型となったの方が説得力があるように思えます。
土佐四天王
愛宕道を少し清涼寺の方へ戻り、南側への丁字路を南に進み、
変則的な四つ角を通り過ぎ、次の四つ角で西へ曲がると
「無動庵」というギャラリーがあります。
その前に中岡慎太郎・坂本龍馬・武市瑞山(たけち ずいざん=通称:半平太)・
吉村寅太郎の像が建立されています。
碑には「これを土佐四天王という。
風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元治元年(1864)坂本龍馬は中岡慎太郎と
長州本陣天龍寺に長州藩士の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために
立ち寄ったという口碑を伝えている。」と記されていますが、来島又兵衛は
天龍寺にいたと思いますが、久坂玄瑞は天王山の陣だったと思います。
だから、蛤御門での戦闘で来島又兵衛が負傷・自決後に
久坂玄瑞は、遅れて到着しました。
中岡慎太郎は前年の文久3年(1863)に脱藩して長州藩に亡命し、来島又兵衛と
行動を共にしていたそうですが生き残り、後に坂本龍馬らを説き伏せて
薩長同盟締結を実現させました。
武市瑞山は優れた剣術家で、坂本龍馬とは遠縁にあたる人物でした。
文久元年(1861)に築地で土佐勤王党を結成し、坂本龍馬が土佐における
筆頭加盟者となって同志を募り、四天王以下総勢192人で結成されました。
文久3年(1863)の八月十八日の政変で、勤王派は急速に衰退し、武市瑞山は
捕えられて投獄され、慶応元年(1865)に切腹を命じられ果てました。
吉村寅太郎は土佐勤王党に加盟しましたが、武市瑞山と意見が合わずに脱藩しました。
同時期に坂本龍馬も脱藩しています。
吉村寅太郎は長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り倒幕挙兵を計画しましたが、
公武合体を掲げた島津久光は、寺田屋を襲撃させました。(寺田屋事件
吉村寅太郎は捕えられ、土佐藩へ送還されましたが8ヶ月後に釈放されました。
文久3年(1863)に天誅組を結成しますが、幕府軍により射殺されました。
明治10年(1877)に四天王の名誉が回復され、明治24年(1881)に正四位が贈られました。

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)へ向かいます。
続く

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山門
「無動庵」から100m足らず西へ進んだ突き当りに常寂光寺があります。
南約100mに小倉池があるので随分遠回りして来た感があります。
山門は江戸時代後期に改修されました。
江戸時代中期の「都名所図会」には袖に土塀をめぐらした薬医門が
描かれていますが、現在は土塀は取り払われ、「塀の無い寺」となっています。
常寂光寺は山号を小倉山と号する日蓮宗の寺院で、洛陽十二支妙見の札所です。
慶長元年(1596)に本圀寺(ほんこくじ)十六世・日禎(にっしん)が
この地に隠棲して開創されました。
常寂光の「常」には法心(ほっしん)、「寂」には般若、
「光」には解脱の意味があります。
法心とは仏が悟った真理、般若とは真理を悟る智慧、解脱とは生死の苦悩から
根源的に開放された状態のことであり、この地は涅槃にいたっている
仏が住む地の観があるとして「常寂光寺」と名付けられました。

かって、山門脇に歓喜天堂がありましたが、元治元年(1864)の「禁門の変」の際、
天龍寺から逃れてきた長州兵を追って来た幕府軍の薩摩藩兵により焼かれました。
尚も薩摩藩兵は本堂にも火を放とうとしたのですが、
第32世・日仁がこれをくい止め、焼失は免れました。
仁王門
仁王門は境内で最も古い建物で、貞和年間(1345~1350)に本圀寺客殿の
南門として建立されたものを、元和2年(1616)に移築されました。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像は鎌倉時代の仏師・運慶の作と伝わり、北の政所の甥で小浜城主の
木下長嘯子(きのした ちょうしょうし:1569~1649)により、長源寺から遷されました。
山荘跡石碑
仁王門の右側に藤原定家山荘跡の石碑が建っています。
定家の山荘の場所については諸説あります。
碑には定家の歌が刻まれています。
「小倉山 峯のもみじ葉 こころあらば いまひとたびの 御幸(みゆき)またなん」
本堂への石段
仁王門をくぐった石段上に本堂があります。
本堂
本堂は安土・桃山時代の慶長年間(1596~1614)に、第2世・通明院日韶(にっしょう)

により、小早川秀秋の助力を得て伏見城の客殿が移築・修造されたものです。
かっては本瓦葺の二層屋根でしたが、昭和7年(1932)の大修理の際に
平瓦葺屋根に改修されました。
本尊は「法華題目」で、釈迦如来像が安置されています。
鐘楼
鐘楼は寛永18年(1642)に建立されました。
鐘楼-梵鐘
梵鐘は戦時供出され、昭和48年(1973)に京都工芸繊維大学教授・青木一郎氏の
音響設計により鋳造されたものです。
庫裏
本堂の右側に庫裏があります。
妙見堂
本堂から左側に進むと妙見堂があります。
慶長年間(1596~1610)の保津川洪水の際、上流から流れ着いた妙見菩薩像を
角倉(すみのくら:現在の嵯峨天龍寺角倉町)の船頭が拾い上げ、地元で祀られていました。
享和年間(1801~1803)の第22世・日報上人の時に常寂光寺へ遷され、
第26世・日選上人の代に妙見堂が建立されました。
妙見堂-拝殿
拝殿は昭和3年(1928)に建立されました。
妙見菩薩は、インド発祥の菩薩ではなく、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と
習合し、仏教の天部の一尊として日本に伝来したものです。
北極星または北斗七星を神格化したもので、「尊星王(そんしょうおう)」、
「妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)」、「北辰菩薩(ほくしんぼさつ)」などとも

呼ばれています。
古代中国では北極星を中心に星々が回転することが既に知られ、北極星が
宇宙の中心と考えられて「北辰」と呼ばれていました。
また、北斗七星は「斗=柄杓」の形をしていることから、
大地を潤す農耕の神として信仰されてきました。
「北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、
夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証する」と重要視されました。
中国に仏教思想が流入すると、善悪や真理を見通すという意味が込められた
「妙見菩薩」と称されるようになり、飛鳥時代に日本へ伝わりました。
妙見堂-本殿
本殿
妙見菩薩は、軍神として崇敬され、また、薬師如来の化身とみなされました。
中世には、日蓮宗の檀越であった千葉氏が一族の守り神として妙見菩薩を
祀るようになったことから、多くの日蓮宗の寺院でも祀られるようになりました。
江戸時代中期に、京都の中心である御所・紫宸殿を中心に十二支の方角に
祀られた妙見宮を巡る「洛陽十二支妙見めぐり」が始まりました。
江戸時代末期から昭和初期にかけては、市内だけでなく関西一円から
大勢の参拝者で賑わうようになりました。
開運や厄除けが祈願された他、「妙見」の語義が「麗妙なる容姿」と解されて
役者や花街の女性などからも信仰を集めました。
妙見堂-狛犬
石造りの鳥居や石灯籠、本殿前の狛犬などが寄進・奉納されています。
五輪塔
妙見堂から西側へと進む参道の脇には五輪塔があり、石仏が祀られています。
本堂-裏の庭園
本堂の裏側に戻ると庭園が築かれています。
多宝塔
石段を登ると元和6年(1620)に建立され、重要文化財に指定されている
多宝塔があります。
方三間、重層、宝形造、檜皮葺で総高は12m余りです。
歌仙祠
多宝塔の上方に歌仙祠(かせんし)があり、富岡鉄斎筆の扁額が掲げられ、
藤原定家、藤原家隆像が祀られています。
定家の山荘は常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側にあったと伝わり、
室町時代頃から定家像を祀る祠が建てられました。
常寂光寺の創建に伴い、祠は現在地に遷され、明治23年(1890)に以前の祠より
大きな現在の歌仙祠に建て替えられました。
藤原定家(1162~1241)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての
公家・歌人で、2つの勅撰集、『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』を撰進しました。
宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じ、18歳から74歳までの
56年にわたる克明な日記『明月記』を残しました。

藤原家隆(1158~1237)は、藤原定家と並び称される歌人で、『新古今和歌集』の
撰者の一人でした。
嘉禎2年12月(1237年1月)に病を得て79歳で出家し、四天王寺に入りました。
四天王寺は日本浄土思想発祥の地とされ、西方の浄土を思って日が没する様子を
見詰める「日想観」が修せられていました。
家隆は四天王寺の西側に夕陽庵(せきようあん)を営み、「日想観」を修したとされ、
後にこの地は夕陽庵に因んで「夕陽丘」と呼ばれるようになりました。
大阪市天王寺区夕陽丘町5には、藤原家隆の墓と伝わる家隆塚があります。
時雨亭跡
歌仙祠の南隣に時雨亭跡(しぐれていあと) があります。
江戸時代の享保13年(1728)の境内図には、既に描かれており、
戦前まで建っていたとされていますが、台風で倒壊したと伝わります。
展望台-市内
歌仙祠の右上方に展望台があり、京都市内が一望できます。
展望台-比叡山
東側は比叡山から東山連峰が一望でき、画像の右端に大文字山が望めます。
開山堂
多宝塔の北側の開山堂は、平成16年(2004)に建立され、
開山・日禎(にっしん)上人坐像が安置されています。
日禎は第105代・後奈良天皇から第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)に
仕えた公家・広橋国光の三男で、幼い頃に本圀寺に入り、
18歳で本圀寺第16世となりました。
文禄5年(1596)、豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)から小倉山の土地を
寄進され、常寂光寺を開山して隠棲しました。

落柿舎へ向かいます。
続く

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