カテゴリ:京都市 > 京都市右京区(花園~西京極周辺)

一の鳥居
松尾大社から桂大橋を渡り、四条通りを東へ進み、「梅宮大社前」の信号を
左折した先に梅宮大社があります。

四条通りから左折して北へ進んだ参道には一の鳥居が建っています。
梅宮大社の旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社です。
二の鳥居
更に参道を進むと二の鳥居が建ち、右側の手前に駐車場があります。
楼門
楼門(随身門)は文政13年(1830)の再建とされ、京都府登録文化財に登録されています。
梅宮日本第一の碑
楼門前には「梅宮日本第一酒造之祖神 安産守護神」と刻まれた石標が建っています。
梅宮大社の祭神は酒解神(さかとけのかみ)、大若子神(おおわくこのかみ)、
小若子神(こわくこのかみ)、酒解子神(さかとけこのかみ)で、
酒解神の御子・酒解子神が、大若子神との一夜の契りで小若子神が生まれたことから
歓喜し、狭名田(せなだ)の稲をとって天甜酒(あめのうまざけ)を造って飲んだという
神話から、古くから安産と酒造の神として信仰されてきました。
随身像-左
随身像-右
随身門には随身像が安置されています。
竜吐水
門の内側には「竜吐水(りゅうどすい)」と呼ばれる消火道具が置かれています。
竜が水を吐く様に見えたことから名付けられ、江戸時代から明治時代にかけて
用いられましたが、実際の消火活動ではあまり役に立たなかったようです。
猿田彦命
門をくぐった右側に天宇受賣命(あめのうづめのみこと)と猿田彦命が祀られていますが、
社殿は無く石で祀られ、「磐座」と称されています。
かっては門外で祀られていましたが、昭和59年(1984)に
道路整備のため現在地に遷されました。
ゴヨウマツ
磐座の斜め前の「ゴヨウマツ」は区民の誇りの木に指定されています。
神庫
磐座の左側に神庫があります。
拝殿
拝殿
境内の主要社殿は、元禄11年(1698)の火災で焼失したため、江戸幕府5代将軍・綱吉の
命により亀岡城主が奉行となり、元禄13年(1700)に再建されました。
その後、台風で大破したため、拝殿は文政11年(1828)に再建され、
京都府登録文化財に登録されています。
本殿と拝所
本殿(背後の屋根)と拝所
現在の本殿は文政5年(1822)に再建され、京都府登録文化財に登録されています。
梅宮大社は、社伝によると奈良時代に、県犬養三千代(あがたの いぬかい の みちよ=
橘美千代:665?~733)により、山城国相楽郡井手庄(現・京都府綴喜郡井手町付近)に
創建されたと伝わります。
天平宝字年間(757~765)に三千代の子・光明皇后と牟漏女王(むろ の おおきみ)
により奈良に遷されました。

光明皇后は第45代・聖武天皇の皇后で、仏教に篤く帰依し、
東大寺、国分寺の設立を天皇に進言したとされています。
また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である
「施薬院」を設置して慈善を行いました。
天皇の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、
その宝物を収めるために正倉院が創設されました。

牟漏女王は光明皇后の異父姉で、藤原不比等の次男・房前(ふささき)に嫁ぎましたが、
天平9年(737)に房前が亡くなり、その後は兄の橘諸兄(たちばな の もろえ)が
朝廷の頂点にあったことから宮廷に出仕したと推定されています。
興福寺のかつての本尊であった不空羂索観音像は、天平17年(745)に
房前の追善のために子の真楯(またて)らと造立したものです。

梅宮大社はその後、木津川上流の桛山(かせやま)を経て、平安時代始めに
檀林皇后(橘嘉智子=たちばな の かちこ:786~850)によって
現在地に遷されたとされています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では山城国葛野郡に「梅宮坐神四社
並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で
幣帛に預かった旨が記載されています。
また、二十二社の一社に列せられ、治承4年(1180)には正一位の神階が授けられました。
平安時代には4月と11月の酉日に年2回の梅宮祭が勅祭として行われ、
平安時代末期には橘氏の衰退に伴い社勢も衰えましたが、
中世も藤原氏により祭祀は続けられました。
しかし、文明6年(1474)には戦乱に巻き込まれて社殿を焼失しました。
その後の変遷は不明ですが、元禄13年(1700)に現在の本殿が再建されました。

明治4年(1871)に「梅宮神社」として近代社格制度において官幣中社に列し、
戦後の昭和26年(1951)に「梅宮大社」と改称されました。

本殿には、酒解神(さかとけのかみ)・大若子神(おおわくこのかみ)・
小若子神(こわくこのかみ)・酒解子神(さかとけこのかみ)の
四柱が祭神として祀られています。
天王山に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)がありますが、
梅宮大社や橘氏との関係は明らかではありません。
梅宮大社は、酒解神を大山祇神(おおやまつみのかみ)、
酒解子神を木花咲耶姫(このはなのさくやびめ)、
大若子神を瓊々杵尊(ににぎのみこと)、
小若子神を彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)に比定しています。

葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定し、孫の瓊々杵尊を葦原中国の
主にしようと考えた天照大御神は、瓊々杵尊を地上に降ろしました。(天孫降臨
日向国の高千穗峯に天降った瓊々杵尊は、大山祇神の娘・木花咲耶姫と
出逢い一夜を共にしました。
木花咲耶姫は懐妊し、火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、
彦火々出見尊を出産したとされています。

また、相殿には第52代・嵯峨天皇、檀林皇后、檀林皇后の父・
橘清友(たちばな の きよとも)公、嵯峨天皇の皇子で第54代・仁明天皇が祀られています。
護王社
本殿の左側に護王社があります。
社殿は元禄13年(1700)の建立で、京都府登録文化財です。
護王社には橘氏公(たちばな の うじきみ)公と
橘逸勢(たちばな の はやなり)公が祀られています。
橘氏公(783~848)は檀林皇后の弟で、その威光により要職を歴任しました。
橘逸勢(782?~842)は最澄と空海らと共に唐に渡りましたが、
中国語が苦手なため語学の負担の少ない琴と書を学びました。
大同元年(806)に帰国するとそれらの第一人者となり、特に書に秀で
空海・嵯峨天皇と共に三筆と称されました。
しかし、承和9年(842)に嵯峨上皇が崩御され、その2日後に
皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)の東国への移送を画策し、謀反を企てている
との疑いで捕縛されました。(承和の変
逸勢は伊豆国への流罪が下され、護送の途中に病死しました。
死語、赦免されますが、無実の罪で死亡したことにより怨霊になったとして
御霊会で祀られるようになりました。
影向石
護王社の左側の「三石(みついし)」は、紀州・熊野から飛んできた三羽の烏が
石になったと伝わり、「影向石(ようごうせき)」とも呼ばれ、
熊野三山が祀られています。
末社社殿
更に西側には境外末社8社を合祀した末社社殿が、平成19年(2007)に建立されました。
手前から天満宮・春日社・厳島社・住吉社・薬師社・愛宕社・天皇社・幸神社
またげ石
本殿の右側(東側)には「またげ石」と称される2個の丸石が祀られています。
檀林皇后がこの石をまたいだところ、懐妊したと伝わり、
以来血脈相続の石として信仰されています。
夫婦で子授けの祈祷を受けると案内されるそうです。
若宮社
更に東側には元禄13年(1700)に建立された若宮社があり、社殿は京都府登録文化財です。
若宮社には橘諸兄(たちばな の もろえ)公が祀られています。
橘諸兄(684~757)は、第30代・敏達天皇の後裔で葛城王と称していましたが、
臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となりました。
和銅3年(710)に無位から従五位下に直叙され、神亀元年(724)に
第45代・聖武天皇が即位すると従四位下に昇進しました。
天平3年(731)に参議に任ぜられ公卿に列し、天平8年(736)に母・橘三千代の
氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗りました。
天平9年(737)に天然痘が流行して藤原四兄弟などが次々と死去し、
橘諸兄は次期大臣の資格を有する大納言に任命されました。
翌天平10年(738)には正三位・右大臣に任ぜられ、太政官の中心的存在となりました。
天平12年(740)の藤原広嗣の乱の後、橘諸兄の本拠地に近い恭仁宮に遷都され、
天平感宝元年(749)には日本史上でも6人しか叙されてたことの無い正一位に昇り詰めました。
諸兄は天平勝宝9年(757)に74歳で亡くなり、同年、
子息の奈良麻呂も橘奈良麻呂の乱を起こし獄死しました。
神饌所
境内の東側に明治38年(1905)に建立された神饌所があります。
稲荷社-1
稲荷社-2
神饌所の北側の稲荷社は昭和58年(1983)に境外から遷されました。
見切石
神饌所前にあるお百度参りの見切石
神苑への門
神饌所の南側に神苑への門があります。
神苑
神苑の拝観は有料(600円)で、東神苑・西神苑・北神苑から成り、
東神苑の咲耶池(さくやいけ)の島の中には茶室「池中亭」があります。
この茶室は「芦のまろ屋」とも呼ばれ、平安時代の梅津の里の風景を歌った
『ゆうされば かどたのいなば おとずれて あしのまろやに 秋風ぞふく 
大納言・源 経信』に由来しています。
神苑の作庭時期は不明ですが、江戸時代には現在の姿であったとされ、
池中亭は嘉永4年(1851)に建立されています。
東神苑の咲耶池の周りには、かきつばた、花菖蒲、霧島つつじが相ついで咲き、
西神苑は梅林で、ラッパ水仙が道路に沿って咲きます。
梅は約35種類で、神苑内には約550本が植えられています。
江戸時代の中頃に本居宣長(もとおりのりなが)が梅宮に献木の梅に添えて
『よそ目にも その神垣とみゆるまで うえばや梅を千本八千本』と詠みました。 
北神苑の勾玉池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸つつじが咲き、日陰にはあじさいが咲きます。
また、神苑全体に亘って約50種類の椿が植えられています。
但し、拝観料がちょっと高額に感じられたので拝観は行っていません。
西梅津神明社-門
随身門を出ると、西側に西梅津神明社の門があります。
西梅津神明社-2
西梅津神明社は、旧西梅津村の神明社を平成24年(2012)に現在地に遷されました。
西梅津神明社-3
西梅津神明社には天照大御神(内宮)と豊受大神(外宮)が祀られています。

再び桂大橋を渡って府道29号線まで戻り、府道を北上して、蔵泉庵へ向かいます。
続く

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地蔵院
花園西陵から西へ進むとカーブして南北の通りとなり、
南へ進んだ東側に地蔵院があります。
待賢門院が法金剛院を再興された際に地蔵院が建立されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、地蔵院は法金剛院の塔頭となりましたが、
享保18年(1733)に焼失し、安永8年(1779)に再建されました。
しかし、明治32年(1899)の水害で倒壊し、明治41年(1908)に
本堂の南100mへ場所を移して再建されました。
明治45年(1970)の丸太町通り拡張工事に伴い、地蔵院は取り壊され、
現在地に移転されました。
本尊の地蔵菩薩坐像は像高270cmで、眼が金色であることから「金目地蔵」と呼ばれ、
「要(かなめ)地蔵」、「叶(かなえ)地蔵」と転訛したとも伝わります。
「要」とは、扇のかなめを意味し、宇田川と御室川が合流する地点であり、
花園扇野町の町名の由来となったとされています。
金目地蔵は通常非公開ですが、毎月23日に法要が営まれ、
その日には自由に参拝できるそうです。
表門
地蔵院から南へ進み、丸太町通りへ左折して
少し東へ進んだ北側に法金剛院があります。
法金剛院は新型コロナの影響で長い間拝観が停止されていましたが、6月中旬の
蓮の季節から再開され、それが済んだ8月3日から再び拝観停止となっています。
幸いにも8月1日に時間が取れ、拝観してきました。
拝観には予約が必要ですが、予約をしなくても入山を拒まれることはありませんでした。
但し、拝観時間は7:30~11:30の間で12:00には閉門されてしまいます。
本堂への参拝とトイレの使用は中止され、庭園のみの拝観となります。
御朱印は書置きタイプのみ授与されますが、予約が必要です。
但し、法金剛院は京都十三仏霊場の第十番札所及び関西花の寺二十五霊場
第13番札所で、霊場巡りの御朱印は予約なしでも授与されます。
丸太町通りに面して表門があり、その西側に駐車場への入口があります。
法金剛院は、山号を五位山と号し、唐招提寺に属する律宗の寺院ですが、
明治維新までは真言宗の寺院でした。
中門
現在は表門は閉じられ、駐車場から入り、その先の中門が拝観入口となりますが、
新型コロナの影響で中門の向かい側にテントが張られ、
臨時の拝観入口となっています。
天長7年(830)頃、この地には右大臣・清原夏野
(きよはら の なつの:782~837)が営む山荘がありました。
承和4年(837)に夏野が没すると、山荘は寺に改められ、
「双丘寺(ならびがおかでら)」と称されました。
境内には珍花奇花が植えられ、「花園」の地名の由来となりました。
第52代・嵯峨天皇、第53代・淳和天皇、第54代・仁明天皇などの行幸が相次ぎ、
承和14年(847)に仁明天皇は内山に登られて景勝を愛で、
五位の位を授けられたことから内山は「五位山」と呼ばれるようになりました。
天安2年(858)、第55代・文徳天皇の発願で伽藍を建立し、
定額寺に列せられて寺号は「天安寺」と改められました。
元慶3年(879)に第87代・陽成天皇は、応天門事件で失脚した大納言・伴善男
(とも の よしお)の荘園を没収し、天安寺に施入されました。
寺は栄えますが、その後の火災などで荒廃し、大治5年(1130)に
待賢門院(たいけんもんいん)により再興され、「法金剛院」と称されました。
前年の大治4年(1129)に養父だった白河法皇が崩御され、
その菩提を弔う意味があったのかもしれません。
花園西陵がある五位山を背に中央に池を堀り、池の西に西御堂、
南に南御堂(九体阿弥陀堂)、東に女院の寝殿が建てられ、
庭に青女(せいじょ)の滝を造り、極楽浄土を模した庭としました。
その後、三重塔、東御堂、水閣が建立され、法金剛院に多くの荘園を集積して
「女院領」を形成した最初の女院となりました。
しかし、後ろ盾でもあった白河法皇が崩御されからは、待賢門院の人生は暗転し、
康治元年(1142)に出家して法金剛院で過ごし、
3年後の久安元年(1145)に崩御されました。
法金剛院は、待賢門院の子・統子内親王(とうし/むねこないしんのう)に継がれますが、
文治5年(1189)に統子内親王が崩御されると、法金剛院は衰微していきました。

法金剛院は、鎌倉時代に導御(どうご/どうぎょ:1311~1223)によって中興されました。
導御は3歳の時に父を亡くして捨て子となり、東大寺に拾われて養育されました。
18歳で唐招提寺中興第2世長老・証玄(しょうげん)の弟子として出家しました。
文永5年(1268)頃、法隆寺夢殿に参籠して融通念仏を弘めるようにとの
聖徳太子の託宣を受け、活動の拠点を京都に移しました。
法金剛院・壬生寺清涼寺などの勧進・復興活動を行うとともに、
これらの寺院において融通大念仏会を催しました。
融通大念仏の結縁者が10万人に満ちるごとに供養を行ったので、
「円覚十万上人」と呼ばれました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
天正13年(1586)の天正大地震で被災しました。
更に文禄5年(1596)の慶長伏見地震でも被災して、
元和3年(1617)に泉涌寺の僧・照珍によって再建されました。
待賢門院により再興された法金剛院の領地は、現在の2倍以上とされ、
鉄道の開通や新丸太町通りの拡幅工事などで失われました。
平成8年(1996)のJR花園駅周辺の整備工事に伴い、
駅の南で発掘調査が行われ、池跡や三重塔の基壇などが発見されました。
庫裏
中門の先に庫裏があり、庫裏の西側に茶室、庫裡の北側に仏殿がありますが、
中門から先への立ち入りは禁止されています。
鐘楼
表門を入った西側に鐘楼があります。
梵鐘
梵鐘は元禄元年(1688)に鋳造されました。
経蔵
庭園への入口の北側に元和3年(1617)に建立された経蔵があります。
参道
参道には鉢植えのハスが並べられています。
法金剛院は「花の寺」として、春は桜、初夏は花菖蒲・アジサイ・菩提樹・沙羅双樹・
山椒バラ、秋は嵯峨菊・その後の紅葉、冬には仏手柑(ぶっしゅかん)や
千両・万両が実を付け、年が開けると椿が咲きます。
蓮-1
蓮-2
そして、夏・7月中はハスが見頃となり、法金剛院は「蓮の寺」とも呼ばれています。
車寄せ
本堂の車寄せです。
境内図では庫裏へと続き、その間の渡廊で礼堂へと結ばれています。
礼堂
北側には礼堂があります。
現在の礼堂は、元和3年(1617)に照珍により、本堂として再建されました。
昭和43年(1968)に国庫補助金を受け、新たにコンクリート造りで
収蔵庫を兼ねた仏殿(本堂)が礼堂の西側に建立されました。
旧本堂は礼堂に改められ、北側に釣殿が設けられました。
阿弥陀如来坐像
本尊は大治5年(1130)に仏師・院覚により造立された像高2.27mの阿弥陀如来坐像です。
かっての西御堂の本尊であり、定朝様で本年度(2020)に国宝に指定される予定です。
十一面観音
十一面観世音菩薩坐像は像高69.2cmで、正和5年(1316)に院派(いんぱ)仏師16人
により造立され、国の重要文化財に指定されています。
昭和4年(1929)の解体修理で、像内から1万3千人に及ぶ署名紙片が発見されました。
十一面観世音菩薩坐像としては珍しい四臂の像で、厨子内に安置されています。
地蔵菩薩
平安時代後期作で像高127.2cmの地蔵菩薩立像及び像高78cmの
僧形文殊菩薩坐像も国の重要文化財に指定されています。
他に平安時代作の不動明王立像と毘沙門天立像、
鎌倉時代作の阿弥陀如来坐像などが安置されています。
石仏群
礼堂前の奥には石仏がまとめられ、祀られています。
仏足石
礼堂の向かい側の庭園に仏足石が祀られています。
名勝の碑
その奥に「名勝 法金剛院庭園」の標石が建っています。
法金剛院庭園は、昭和46年(1971)に国の名勝に指定されました。
青女の滝
庭園の北側の滝組は「青女(せいじょ)の滝」と呼ばれ、
日本最古の人工の滝として、国の特別名勝に指定されています。
滝は大治5年(1130)には既にに完成し、造営にあたった林賢りんけん)は
滝の傍らに「衣もて なつれとつきぬ 石の上に 万代をへよ 滝の白糸」
という和歌を書きつけてました。
長承2年(1133)、法金剛院に渡御した待賢門院は、池で舟に乗り、
滝の高さを5・6尺(150~180cm)ほど上げるよう指示し、
静意がこれを受けて改作したとされています。
明治30年(1987)に京都鉄道株式会社(現在の山陰線の嵯峨野線区間)の
鉄道敷設計画に伴い、法金剛院は境内地を売却しましたが、
線路と平行して国道(現在の丸太町通り)も開通しました。
この国道は交通量が激しくなり、昭和42年(1967)に京都市は道路拡張のために
境内地の南側を買収しました。
昭和43年(1968)に京都市は法金剛院庭園の緊急発掘調査を行い、
埋もれていた滝の石組や渓流曲水、池の汀線(ていせん=池面と陸地との境界線)
などが発見されました。
庭園が復元され、境内全体が北に寄せられました。
堀川の歌碑
待賢門院堀河の歌碑です。
「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物こそ思へ」
待賢門院堀河は、平安時代後期の歌人で、女房三十六歌仙・中古六歌仙の一人です。
待賢門院(藤原璋子)に出仕し、「堀河」と呼ばれるようになりました。
康治元年(1142)に璋子が落飾すると、堀河も出家しました。
池
現在の池には蓮が生い茂り、水面が見えない状況です。
蓮の見頃は終わってしまったようで、遅咲きの花がまばらに見られます。
島への橋
池の南側には橋があり、二つの島が連なっています。
島に渡ってみましたが蓮に覆われ、視界は開けませんでした。
西御堂跡
池の西南に西御堂跡があり、この小高い丘辺りかと思われます。
背後に見えるのは経蔵です。

今宮神社へ向かいます。
続く

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鳥居
法金剛院から丸太町通りを東へ進み、JR花園駅前を通りぎた
「花園駅前」の信号を左折して北へ進んだ先に今宮神社があります。
長和4年(1015)、都に疫病が流行した際、第67代・三条天皇(在位:1011~1016)の
託宣により神殿が建立され、厄除け神である
素戔嗚尊を祀ったのが始まりとされています。
その後一時衰微しましたが、永承7年(1052)に再び疫病が流行したため、
第70代・後冷泉天皇は神社を造営して御霊会を執り行いました。
神仏が習合し法金剛院仁和寺の鎮守社となり、寛永21年(1644)には
第3代将軍・徳川家光の保護を受けて覚深法親王により、仁和寺再興の一環として
現在の本殿、拝殿、末社・松尾社が造営されました。
かつては祇花園社(ぎけおんしゃ/ぎはなぞのしゃ)、
花園社(はなぞのしゃ)とも呼ばれました。
社格は旧村社で、右京区花園、太秦安井などの産土神となっています。
松尾社
鳥居をくぐった左側(北側)に末社の松尾社があり、松尾大社の祭神・大山咋神
(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られていると思われます。
松尾社は寛永21年(1644)に造営され、壱千年を祈念して
平成26年(2014)に修復されました。
拝殿
拝殿は寛永21年(1644)に造営されてから、平成26年(2014)の壱千年を祈念して
屋根が木賊葺(とくさぶき)に葺き替えられました。
木賊は、トクサ科の常緑、多年生のシダで、山間の川辺などに生えています。
本殿-1
本殿は寛永21年(1644)に造営されてから、明和4年(1767)の修復、
それ以降も修理や修復が再三行われ、平成14年(2002)には
屋根が檜皮葺に葺き替えられました。
本殿-2
祭神は素戔嗚尊とされていますが、神仏習合時代には牛頭天皇だったと思われます。
牛頭天皇は祇園社の祭神であったことから、祇園天神とも称され、
平安時代から疫病神として崇められてきました。
本殿-3
その後の御霊信仰の影響をから御霊を鎮めるために祀られ、平安末期には
疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて
鎮祭するようになり、祇園祭の起源となりました。
その祇園祭も、今年は疫病が流行し、科学の力で感染のメカニズムが解明されて
巡行が中止されました。
治療薬やワクチンが開発され、疫病の終息を祈願しました。

妙心寺へ向かいます。
続く

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南総門
今宮神社から丸太町通りまで戻り、丸太町通りを東へ進んで「妙心寺前」の信号を
左折して北へ進んだ先に妙心寺の南総門があります。
現在の南総門は慶長15年(1610)に建立された切妻造、本瓦葺きの薬医門で、
国の重要文化財に指定されています。
妙心寺は山号を正法山(しょうぼうざん)と号する臨済宗妙心寺派の総本山です。
かって、この地には第95代・花園天皇が営む離宮・萩原殿がありました。
文保2年(1318)に後醍醐天皇に譲位し、萩原殿を仙洞御所として移り住み、
禅宗の信仰に傾倒しました。
上皇は建武2年(1335)に円観のもとで出家し、法皇となりました。
円観(1281~1356)は、後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の5帝に
戒を授けたために「五国大師」の異名を持っています。
永仁3年(1295)に延暦寺に入り授戒を受けて大乗戒である円頓戒を学びましたが、
嘉元元年(1303)頃には比叡山から下って禅僧となりました。
その後、円観は後醍醐天皇を帰依を受け、嘉暦元年(1326)に法勝寺
勧進職となり、法勝寺を再興して住持となりました。
後醍醐天皇の倒幕計画に参画しましたが、元徳3年/元弘元年(1331)に
計画が露見して六波羅探題に捕縛され、陸奥国へ配流されました。
建武元年(1334)の建武の新政で赦免され、法勝寺に戻りました。

一方で花園法皇は大徳寺を開かれた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師に参禅し、

印可(いんか=弟子が悟りを得たことを師匠が認可すること)されています。
法皇は、花園御所を禅寺に改めることを発願しましたが、建武4年(1337)に宗峰妙超が
病で重態となり、宗峰は後継に高弟の関山慧玄(かんざんえげん)を推挙しました。
関山慧玄はその頃、美濃国(岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に
明け暮れていたのですが、都に呼び戻され、暦応5年/康永元年(1342)に
妙心寺が開山されました。
しかし、妙心寺では宗峰妙超が入寂された建武4年(1337)を開創の年としています。
「正法山妙心寺」の山号・寺号は宗峰妙超によって命名されました。
釈尊が嗣法(しほう=弟子が師の法を継ぐこと)の弟子・摩訶迦葉
(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」
(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取られています。
勅使門
南総門の西側にある勅使門は、南総門と同じく慶長15年(1610)に建立された、
切妻造、檜皮葺の四脚門で、国の重要文化財に指定されています。
かっては総門であり、「南大門」と呼ばれていました。
勅使門は普段は閉じられ、妙心寺住持の入山・晋山時に
新住職がこの門から入られます。
放生池
勅使門の先に放生池があります。
池の中央には石橋が架かっていますが、橋の通行も禁止されています。
境内の参道には石畳が敷かれています。
花園法皇550年遠諱(おんき)に当たる明治28年(1895)に、
匡道慧潭(きょうどう えたん:1808~1895)が私財を投じて
境内縦横の参道に石板を敷きました。
雨が降った後などの“ぬかるみ”から解放されました。
三門
放生池の先に三門があります。
慶長4年(1599)に再建された五間三戸の二重門で、
国の重要文化財に指定されています。
三門は空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門、三解脱門を表すとされ、
初期の寺院では正門と東西2つの副門があったことから「三門」と呼ばれました。
時代が下って、大門のみとなっても、三門の呼び名が残りました。
境内で唯一の朱塗りの建物で、上層には円通大士(円満融通の菩薩の意で、
観世音菩薩の異称)と十六羅漢像が安置されています。
6月18日に懺法会(せんぼうえ)、7月15日に施餓鬼会が修法されています。
浴室
三門の東側に浴室があり、「明智風呂」と呼ばれています。
天正15年(1587)、明智光秀の伯父にあたる塔頭・大嶺院(後に廃寺)の
密宗和尚により、光秀の菩提を弔うために創建されました。
天正10年(1582)に本能寺で織田信長を討った光秀は、妙心寺仏殿に礼拝し、
以下のような辞世の句を残したとされています。
「順逆不二の門 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来たって一元に帰す」
密宗和尚は光秀が自刃して果てることを誡めたとされていますが、
山崎の合戦で敗れて果てました。
浴室は明暦2年(1656)に改築され、国の重要文化財に指定されています。
浴鐘楼
浴室の北側に浴鐘楼があります。
寛永16年(1639)に春日局から寄進されたのですが、昭和37年(1962)に焼失し、
春日局の菩提寺である塔頭の麟祥院(りんしょういん)から移築されました。
井戸
浴鐘楼の北側には井戸が残されています。
浴室で使用される水が汲み上げられたと思われますが、浴室には湯舟は無く、
蒸し風呂で洗い場が設けられています。
鐘楼-三門西
三門の南側にも鐘楼があります。
仏殿
三門の北側に仏殿があります。
現在の仏殿は文政10年(1827)に再建された入母屋造、一重裳階付きの建物で、
国の重要文化財に指定されています。
妙心寺は応永6年(1399)の応永の乱で、6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)が
足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、
足利義満の怒りを買いました。
義満は妙心寺を没収して子の青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、
拙堂宗朴は青蓮院に幽閉されました。
義円は更に妙心寺を南禅寺の廷用宗器(ていよう そうき)に与え、
廷用は寺号を「龍雲寺」と改め、妙心寺は中絶しました。
永享4年(1432)、廷用宗器は開山・関山慧玄の塔所である微笑塔の敷地を、
その頃南禅寺にいた根外宗利(こんがいそうり)に与えました。
根外宗利は関山慧玄の流れを汲み、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を迎えて
妙心寺を復興させ、日峰宗舜は妙心寺中興の祖とされています。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で妙心寺は消失しました。
文明9年(1477)に雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が、
後土御門院から妙心寺再興の論旨を得て再興しました。
雪江宗深は住持の期間を3年と定め、師亡き後は景川宗隆(けいせんそうりゅう)・
悟渓宗頓(ごけいそうとん)・特芳禅傑(とくほうぜんけつ)・
東陽英朝(とうようえいちょう)の4人の法嗣(はっす=師から仏法の奥義を
受け継いだ者)が交代で妙心寺の住持を務めて再興に尽力しました。
その四人は妙心寺四派の龍泉派(宗隆)、東海派(宗頓)、霊雲派(禅傑)及び
聖澤派(英朝)の祖となりました。
四派の松
三門と仏殿との間に植えられている竹垣に囲まれた4本の松は、
その四派を表し「四派の松」と呼ばれています。
現在の松が何代目かは不明ですが、代々一株から二本の幹が伸びる
松が植樹されています。
妙心寺派の寺院は全て四派のいずれかに属しています。
永正6年(1509)には第104代・後柏原天皇から紫衣(しい/しえ)勅許の綸旨を賜り、
この勅許状には大徳寺と位が等しい旨が記されていました。
これをもって妙心寺は大徳寺から独立したとみなされ、修行を重んじる厳しい禅風を
特色とする「林下(りんか)」の寺院として大徳寺と共に代表的な寺院となりました。
京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と
統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあり、
前者は「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者「林下」と呼ばれました。
同年、悟渓宗頓(ごけいそうとん)に帰依していた利貞尼(りていに)が
仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張されました。
やがて、七堂伽藍が再建され、塔頭が創建されていきました。
仏殿-堂内
仏殿中央の須弥壇に本尊の釈迦如来坐像が安置されています。
天正年間(1573~1593)の作で、脇侍には摩訶迦葉(まかかしょう)と
阿難尊者(あなんそんじゃ)の立像が安置されています。
経蔵
仏殿の右側(東側)に延宝2年(1674)に、大坂の豪商・淀屋の寄進により
建立された経蔵があります。
国の重要文化財に指定されていますが、非公開です。
堂内の八角輪蔵には、12人の学僧が8年の歳月をかけて書写したと伝わる、
一切経6527巻が納められています。
輪蔵を考案した傅大士(ふだいし)像が安置されています。
経蔵-扁額
経蔵に掲げられている扁額「毘盧蔵(びるぞう)」は、
第92代・伏見天皇の宸筆によるものです。
雪江松
経蔵の北側に植えられている松は「雪江松」と呼ばれ、
三笠宮殿下御手植と記されています。
文明9年(1477)に妙心寺を再興した雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が、
仏法の興隆を念じて植樹されました。
しかし、その松は昭和4年(1929)に枯死しました。
現在の松は三笠宮殿下御手植の曾孫の松です。
法堂
仏殿の北側に法堂(はっとう)があります。
明暦3年(1657)に再建された入母屋造、一重裳階付きの建物で、
国の重要文化財に指定されています。
法堂は、住持による法座や座禅が行われる所で、拝観ができますが
堂内の撮影は禁止されています。
柱のケヤキ材は富士山麓から運ばれてきたものであり、床には瓦が張られています。
法堂-雲龍図
天井には狩野探幽(1602~1674)による雲龍図が描かれています。
(パンフレットをコピー)
探幽は地上で板を立て、足場を組んで描き、8年を要して法堂の完成に合わせ、
探幽55歳の時に描き上げました。
その板が天井に張られ、鏡天井となっています。
直径は12mあり、外側の霊雲、内側の渦巻く黒雲を背景に、
円の中央に頭を置いてとぐろを巻く龍の図が描かれています。
探幽は胴体は蛇、爪は鷹など実在の動物を参考にして描き、
最後に眼に筆を入れた瞬間、暗雲が空を覆い、
雷鳴が轟いて暴風になったと伝わります。
「八方睨みの龍」と呼ばれ、どの位置から見ても常に龍に睨まれているように見え、
場所によっては天に昇るようにも、天から降って来るようにも見えます。
これほど立派な龍図を描いた探幽ですが、画料も酒樽も何も受け取らず、
立ち去ったと伝えられています。
堂内では「密」を避けるためか多くの扇風機が稼働し、
外は30度を超える暑さですが堂内は涼しく感じられます。
黄鐘調の鐘
堂内を龍に睨まれながら移動すると、北東隅に国宝に指定されている
梵鐘「黄鐘調(おうじきちょう)の鐘」が展示されています。
(パンフレットをコピー)
鐘の内側に「戊戌年四月十三日壬寅収 筑前糟屋評造春米連広国鋳鐘」の
銘が残され、銘のある鐘としては日本最古とされています。
戊戌年=文武天皇2年(698)に筑前糟屋=現在の福岡県糟屋郡(かすやぐん)の
評造(こおりのみやつこ=大化から文武天皇4年まで施行された地方行政区画「評」の
官名)・春米連広国(つきしねのむらじひろくに)が鋳造したと記されています。
この鐘は聖徳太子が推古天皇元年(593)に創建した四天王寺の聖霊会において、
楽律の調整に用いられた鐘と伝わります。
黄鐘調とは雅楽の六調子の一つで、基本となる音であり、
鐘の最も理想的な音とされています。
兼好法師の『徒然草』第220段に以下のように記され、
元は浄金剛院にあった鐘とされています。
「凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。
西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、
叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。
浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。」
浄金剛院は、暦応2年(1339)に足利尊氏が天龍寺を創建するのに伴い
二尊院の境内へと移されました。
浄金剛院の鐘はその際持ち出されたのかもしれません。
一説では、妙心寺を開山した関山禅師が、鐘を運んでいる農民と出会い、
交渉して農民から鐘を買い取ったとされています。
「黄鐘調の鐘」は高さ約1.5m、口径約86cm、重量約830kgで、古式の特徴として
口径が小さく、丈長で細身となり、撞座の位置が高く設計されています。
鐘楼-黄鐘調
法堂を出た左側(西側)に鐘楼があり、「黄鐘調の鐘」はここに吊るされていました。
鐘楼-黄鐘調-梵鐘
現在は「黄鐘調の鐘」を模して鋳造された梵鐘が代役を務めています。
大庫裏-門
鐘楼の手前、北奥に大庫裏があり、法堂と共に拝観ができますが、
建物内の撮影は禁止されています。
大庫裏
享禄元年(1528)に再建され、承応2年(1653)に改築された建物で、
国の重要文化財に指定されています。
文化5年(1808)に瓦葺に改築されましたが、瓦の重さで建物の負担が大きいとして
近年、元の杮葺き(こけらぶき)に戻されました。
屋根には煙出しが見えます。
大庫裏-韋駄天
右側に唐破風の庇が付いた門の内側には韋駄天像が安置されていますが、
この門は開門されません。
韋駄天は増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の
首位を占める天部の仏神です。

特に日本の禅宗では厨房や僧坊を守る護法神とされています。
大庫裏-内部
(パンフレットをコピー)
正面の門を入った所は土間で、西側に竈の焚口が並んでいます。
竈と焚口との間には壁があります。
土間の北側は広い廊下で、天井には法堂の雲龍図を縮小・コピーした図があり、
法堂では見えなかった北側からの雲龍図を見ることができます。
廊下が広く取られているのは、この場所で配膳などが行われ、
東側に板敷きの広間があり、そこが食堂となるようです。
建物の西側に井戸があり、かっては井戸から樋が引かれて水が供給されていました。
また、大庫裏の北側は小庫裏で、少人数の食事の準備が行われます。
小庫裏の東側にも、狭いですが食堂があります。
寝堂
大庫裏から法堂の方へ戻ります。
法堂から北側への渡廊を進んだ正面に明暦2年(1656)に建立された寝堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
「前方丈」、「礼の間」とも称され、元は住持の居室・客間でしたが、
現在は法堂で儀式が行われる際の控えの間として用いられています。
玄関
寝堂の東側にある玄関は、承応3年(1654)に再建された唐破風造で、
国の重要文化財に指定されています。
玄関を入った左側に、拝観受付及び納経所があり、ここで700円を納めると、
職員の方のガイド付きで法堂と大庫裏の拝観ができます。
大方丈
右側には大方丈があります。
承応3年(1654)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
南側3室には狩野探幽、北側3室には狩野洞雲による障壁画が描かれていますが、
入室が許可されているのは中の間で、北側に仏間があります。
仏間には、明治の神仏分離令で石清水八幡宮から遷された
阿弥陀三尊像が安置されています。
真前唐門
玄関の右側に真前唐門があります。
承応3年(1654)に建立され、文化3年(1806)に改造されました。

妙心寺の塔頭を巡ります。
続く

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龍泉庵-表門
妙心寺は日本最大の禅寺で、東西約500m、南北約620mの広大な境内地を有し、
山内に40余りの塔頭が建ち並んでいます。
殆どの塔頭は非公開ですが、退蔵院・大心院・桂春院のみが通年公開されています。
南総門をくぐった右側に塔頭の龍泉庵があります。
妙心寺は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、文明9年(1477)に
雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が、後土御門院から
妙心寺再興の論旨を得、細川勝元・政元親子の援助を受けて再興しました。
雪江宗深は住持の期間を3年と定め、師亡き後は景川宗隆(けいせんそうりゅう)・
悟渓宗頓(ごけいそうとん)・特芳禅傑(とくほうぜんけつ)・東陽英朝
(とうようえいちょう)の4人の法嗣(はっす=師から仏法の奥義を受け継いだ者)が
交代で妙心寺の住持を務めて再興に尽力しました。
その四人は妙心寺四派の龍泉派(宗隆)、東海派(宗頓)、霊雲派(禅傑)及び
聖澤派(英朝)の祖となりました。
龍泉庵は文明13年(1481)に、妙心寺10世住持・景川宗隆(1425~1500)により
創建された龍泉派の本庵です。
平成11年(1999)の開祖500年遠忌の際に、
障壁画が由里本出(ゆりもと いずる)画伯により完成しました。
龍泉庵
寛永年間(1624~1644)に嶺南崇六(れいなん すうろく1583~1643)により中興され、
現在の本堂・庫裏・書院・鐘楼・表門は京都市の有形文化財に指定されています。
嘉永元年(1848)に山内塔頭寺院で最大規模の方丈が建立されました。
明治元年(1868)には塔頭の盛岳院・春浦院・成徳院・普明院が合併されましたが、
明治14年(1881)に春浦院は復しています。
退蔵院-表門-1
龍泉庵から仏殿前を西側へ進んだ所に退蔵院があります。
応永11年(1404)に、妙心寺三祖・無因宗因(むいんそういん)が、波多野重通
(はたのしげみち)の援助を受け、同家の屋敷があった千本通松原に創建しました。
その後、日峰宗舜が退蔵院を山内に移しましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失しました。
慶長2年(1597)、第105代・後奈良天皇の帰依を受けた亀年禅愉
(きねんぜんゆ)により、現在地で復興されました。
退蔵院-表門-2
表門は江戸時代中期に建立された薬医門です。
招き猫
参道では招き猫が迎えてくれます。
参道の正面に庫裏があり、その手前に拝観受付があります。
網代笠
庫裏には網代笠が掛けられています。
拝観入口
御朱印の授与も行われていますので、拝観料600円と合わせて納め、
順路を進みます。
観音菩薩
拝観入口の方へ曲がると観音菩薩像が祀られています。
方丈への参道
順路は突き当たり、北側に曲がると塀越しに大玄関の屋根が見えます。
画像はありませんが、唐破風造りの破風の曲線が直線になった「袴腰造」と
呼ばれる珍しいもので、国の重要文化財に指定されています。
江戸初期の富豪・比喜多宗味居士(ひきたそうみこじ)より寄進されたもので、
法要儀式その他高貴な方々の出入り以外は使用されませんでした。
方丈
方丈(本堂)は慶長2年(1597)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
禅と剣の道には精神的な共通点があり、江戸期には宮本武蔵も
ここに居して修行に励んだと伝わります。
方丈-2
方丈内は通常非公開ですが、狩野了慶により襖絵が描かれています。
狩野了慶は狩野光信の門人で、元和(1615~1624)・寛永期(1624~1645)の
狩野派の有力者とされています。
高台寺の障壁画制作に携わった他、西本願寺対面所・白書院障壁画などが
代表作として残されています。
瓢鮎図-全体
方丈前に紙本墨画淡彩瓢鮎図(ひょうねんず)の複写が掲げられています。
原本は国宝に指定され、現在は京都国立博物館に寄託されています。
如拙筆の確証がある数少ない作品の一つで、
日本の初期水墨画の代表作の一つでもあります。
室町幕府第4代将軍・足利義持の命で制作され、当初は座屏(ついたて)の
表裏にそれぞれ絵と賛を貼ったものでした。
「小さな瓢箪で大きなナマズ(「鮎」は「ナマズ」の古字)をいかに捕まえるか」という
禅の問答で、京都五山の高僧31人の賛(回答)が記されています。
板戸絵-東
東側の板戸絵
板戸絵-西
西側の板戸絵
方丈前庭-1
方丈の縁には座布団が置かれ、前に並べられている
蓮の花を鑑賞するように配慮されています。
蓮
しかし、蓮の花の季節は終りに近く、数輪の花が残されるのみとなっていました。
元信の庭
方丈の西側の庭園は、狩野元信の作で「元信の庭」と呼ばれ、
国の名勝・史跡に指定されています。
狩野派の画家が作庭した珍しい枯山水庭園で、庭の背景には主に
常緑樹が植えられ、一年中変わらぬ「不変の美」を求めたものと考えられています。
多数の庭石が豪快に組まれ、滝から落ちた水流が大海へと
流れ込む様子が白砂で表されています。
元信の庭-つくばい
南庭の方から枯山水庭園の全体を鑑賞したかったのですが、
立ち入りは禁止されています。
水子地蔵
方丈の南庭から往路の塀を挟んだ反対側を戻ると、
正面に水子地蔵菩薩像が祀られています。
水子地蔵菩薩は賽の河原での救護者とされ、子供の救済者として信仰されています。
余香苑への門
水子地蔵菩薩像の手前を南へ進むと門があります。
枝垂桜-1
門をくぐった正面には枝垂桜の大樹が葉を茂られています。
枝垂桜-2
春には見事な花を咲かせるだろうと、容易に想像できます。
陰の庭
門をくぐった左右の枯山水庭園は「陰陽の庭」と名付けられています。
右側の庭は「陰の庭」で、灰色がかった砂が敷かれています。
陰の庭-砂紋
砂紋は「陽の庭」より深く引かれているように思えます。
陽の庭
陽の庭-2
左側の庭は「陽の庭」で、白砂が敷かれ、面積は「陰の庭」よりも広いですが、
配されている石の数は「陰の庭」の8個に対して7個と1個少なく、
白砂の面積が広くてより明るく見えます。
陽の庭-五重石塔
「陽の庭」の背後には五重石塔が配されています。
羅漢石
枝垂桜の背後にある石は「羅漢石」と称されています。
東屋
参道を進むと東屋がありますが、立ち入りは禁止されています。
余香苑-全体
東屋の手前からの庭園・余香苑が見渡せます。
池は「ひょうたん池」と称されています。
水琴窟
東屋の先、右側につくばいがあり、つくばいで流した水が水琴窟で反響します。
それを聞くために竹の棒が用意されています。
茶席・大休庵
その先は屋根付きの廊下で、右側に売店がありますが、
平日なので営業されていません。
廊下を進んだ奥に茶席・大休庵があります。
まちあい
ひょうたん池の右側に藤棚があり、その奥にまちあいがあります。
余香苑-瓢箪池
まちあいの手前からのひょうたん池。
余香苑-滝
山奥の滝から流れ落ちた水が、渓流を下り大海へと注ぐ
元信の枯山水の庭が具現化されているように思えます。
余香苑-睡蓮
ひょうたん池の左側には睡蓮が咲き、奥には滝組があります。

開山堂へ向かいます。
続く

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