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仏谷への道標
阿弥陀如来磨崖仏-1
浄瑠璃寺は京都府最南端、木津川市の「当尾(とうの)の里」と呼ばれる地区にあり、
浄瑠璃寺(じょうるりじ)から岩船寺(がんせんじ)に至る約1.5kmの山道を中心に、
平安時代から室町時代の石仏や石塔が点在しています。
当尾磨崖仏文化財環境保全地区として、京都府の保全地区に指定されています。
当尾の里は、古くは「小田原」と呼ばれ、平安時代後期の頃から俗化を嫌った興福寺の僧などが
この地に隠棲して修行を行い、興福寺の「小田原別所」と呼ばれていました。
やがて、草庵が寺院へと姿を変え、塔頭が並び「塔の尾根」ができ、
いつしか「当尾」と呼ばれるようになったと伝わります。
加茂青少年山の家から南へ約600m進んだ所に大門仏谷の阿弥陀如来磨崖仏があります。
阿弥陀如来磨崖仏-2
丈六(約2.5m)の如来形坐像で、この磨崖仏には銘文がありませんが、
像容から鎌倉時代初期の作と推定されています。
大門石仏群
大門石仏群-五輪塔
更に山道を進んで行くと大門石仏群があります。
山内に散在していた石仏や石塔を集めて祀られています。
春日神社-1
春日神社-2
向かい側には小さな祠もあります。
木津川市観光ガイド「当尾マップ」によると、春日神社だと思われます。
首切り地蔵
大門石仏群の先に釈迦寺跡があり、その地に首切地蔵が祀られています。
弘長2年(1262)の銘があり、藪の中三尊と共に在銘石仏では最古のものです。
首のくびれが深く、切れて見えるからとも、また、処刑場にあったことから
「首切地蔵」と呼ばれたとも伝わります。
藪の中の三体仏-1
藪の中の三体仏-2
首切地蔵から先へ進み、府道752号線に入った所に「藪の中の三尊磨崖仏」があります。
右側の岩に右・十一面観音、左・地蔵菩薩が、左側の岩には阿弥陀如来が刻まれています。
「東小田原西谷浄土院 弘長2年 大工 橘安縄」と銘文が刻まれ、
塔頭の浄土院で祀られていたようです。
浄瑠璃寺参道

「藪の中の三尊磨崖仏」から府道を南西方向に進んだ所に浄瑠璃寺があります。
山門
山門
浄瑠璃寺は山号を小田原山と号する真言律宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第37番、
仏塔古寺十八尊・第10番及び関西花の寺二十五霊場・第16番の札所となっています。

門前の石仏-左門前の石仏-右











山門の前には石仏が祀られています。
鐘楼
鐘楼-2
山門を入った左側に鐘楼があります。
灌頂堂
右側に灌頂堂があります。
苑池
正面に梵字の阿字をかたどったとされる苑池があり、中島には弁財天を祀る祠があります。
本堂
本堂は西向きに建立されています。
浄瑠璃寺は『浄瑠璃寺流記事(じょうるりじ るきのこと)』によると、永承2年(1047)に当麻(とうま)出身の
義明(ぎみょう)上人が、薬師如来を祀る小堂を建立したのが始まりとされています。
その後、浄瑠璃寺と称されるようになりましたが、嘉承2年(1107)には本堂が取り壊され、
新たに九躯の阿弥陀如来を本尊とする本堂が建立され、薬師如来は西堂に遷されました。
久安6年(1150)に興福寺の僧・恵心が入寺して池を掘り、極楽浄土の宝池になぞらえた苑池を中心とした
現在の伽藍配置となったとされています。
現在の本堂は嘉承2年(1107)に建立されたもので、国宝に指定されています。
堂内には横一列に九躯の阿弥陀如来坐像が安置されていますが、平成30年(2018)7月から
5ヵ年計画で二躯ずつ修理中です。
『観無量寿経』に説く「九品往生」の考えに基づき、九躯の阿弥陀如来像を安置したのは、記録には
多数残されていますが、平安時代の阿弥陀如来像が残されているのは浄瑠璃寺のみで、
国宝に指定されています。
中央に安置されている像は一際大きく、像高が224cmあり、左右に像高139cmから145cmの像が
並んで安置されています。
中央の阿弥陀如来像は、右手を挙げ、左手を下げる来迎印で、残りの八躯は腹前で両手を組む、
「弥陀の定印(じょういん)」を組んでいます。
造立された年代は定かではありませんが、平等院鳳凰堂に安置されている定朝による天喜元年(1053)作の
阿弥陀如来像と様式的類似を認められています。
また、厨子に納められた像高90.0cmの吉祥天立像は、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代の建暦2年(1212)に本堂に安置され、現在は中尊の左側にある厨子内に納められています。
厨子は正月(1/1~1/15)、春季(3/21~5/20)、秋季(10/1~11/30)の期間のみ開扉されます。
中尊の右側に安置されている、平安時代作で像高像高157.6cmの地蔵菩薩立像は、
「子安地蔵」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
堂内右側に安置されている像高99.5cmの不動明王と制多迦(せいたか)・矜羯羅(こんがら)の
二童子像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
平安時代後期の作で国宝に指定されている四天王像ですが、広目天は東京国立博物館、
多聞天は京都国立博物館に寄託され、増長天と持国天のみが本堂の両端に安置されています。
本堂前の石灯籠
本堂前の石灯籠は南北朝時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
六字名号碑
本堂の左側に建つ「六字名号碑」は寛永2年(1625)に建立されました。
三重塔-対面
本堂と苑池をはさんで対面して建つ三重塔は、『浄瑠璃寺流記事』では治承2年(1178)に
京都の一条大宮から移築したと記され、国宝に指定されています。
彼岸の中日には三重塔背後から太陽が昇り、本堂の中央に沈みます。
三重塔
初層内部に薬師如来像が安置され、壁面には十六羅漢像などの壁画が描かれています。
薬師如来坐像は、平安時代の作で像高85.7cm、重要文化財に指定されていますが秘仏とされ、
毎月8日、彼岸中日、正月三が日のみ開扉されます。
薬師如来は、仏塔古寺十八尊・第10番及び西国薬師四十九霊場・第37番の札所本尊となっています。
壁画は平安時代から鎌倉時代にかけて描かれ、最も古いのが壁面の十六羅漢像で、その後、
柱や扉に八方天像、釈迦八相図などが描かれたと見られていますが、
現在では剥落が激しく、判別が困難な状況です。
塔の扉は、保護のため晴天時のみ開扉されます。

塔の前に建つ石灯籠には「貞治五年(1366)丙午正月十一日造立之為法界衆生願主阿闍梨祐実」の
銘が刻まれ、国の重要文化財に指定されています。
東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した庭園は極楽世界をこの世に表わし、
東岸を「此岸」(しがん=現世)、西岸を仏の世界である「彼岸」と見立てられています。

岩船寺(がんせんじ)へ向かいます。
続く

穴薬師-1
浄瑠璃寺から岩船寺へと向かう府道752を進むと、「穴ヤクシ」の道標があり、
その示す方向へと進路を変えました。
穴薬師-2
室町時代の石仏に囲まれた石龕(せきがん)の中に薬壺を持った薬師如来の石仏が安置されています。
墓地-六地蔵
更に北へ進むと当尾(とうの)地区で最も古い千日墓地があり、六地蔵が祀られています。
墓地-鳥居
墓地の入口には鳥居が建ち、背後の十三重石塔には永仁6年(1298)の銘があり、
国の重要文化財に指定されています。
十三重石塔
基壇には西側にに阿弥陀如来、東側に薬師如来、南側に弥勒菩薩、
北側に釈迦如来の像が彫られています。

しかし、双仏石や阿弥陀三尊石仏は見落としてしまいました。
当尾では最大の双仏石で、右に阿弥陀如来、左には地蔵菩薩が彫られた石龕仏(せきがんぶつ)で、
屋根石、宝珠が揃っており、当初は扉が付属していたと思われる形跡があります。
阿弥陀三尊石仏は、善光寺型といわれる1つの光背に阿弥陀三尊が彫られている石仏で、
前には「南無阿弥陀仏」と彫られた六字名号板碑が建ち、左右に三体ずつ、
六体のお地蔵さまが並んでいます。
竹藪の中の地蔵像
少し離れた竹藪の中には地蔵菩薩像が祀られています。
墓地-西南の六地蔵
墓地南西側の六地蔵

千日墓地から下って行くと辻堂があり、辻地蔵・不動明王磨崖仏が祀られていますが、
見落としました。
地蔵像は舟形光背、錫杖、宝珠をもつ室町時代のものです。
不動明王像は岩に彫られた小型の磨崖仏です。
石風呂-1
石風呂-2
岩船寺に到着して有料駐車場にバイクを置くと、駐車場の先に鎌倉時代の作で、
修行僧が身を清めたとされる石風呂があります。
白山神社-石段
山門前の西側にある石段を上った上に白山神社があります。
白山神社-社務所
石段を上った所に社務所があります。
白山神社-絵馬
社務所横の通路には京都府登録無形民族文化財に指定されている
「おかげ踊り」の絵馬が奉納されています。
白山神社-鳥居
白山神社は、岩船寺の鎮守社として歌人・柿本人麻呂により創建され、
僧・行基により遷宮されたと伝わります。
白山神社-社殿
白山神社は奈良時代の天平勝宝元年(749)に創建され、
現在の社殿は室町時代の嘉吉2年(1442)頃に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
白山神社-春日神社
右側にある摂社・春日神社は江戸時代に勧請され、京都府の文化財に指定されています。
山門
白山神社から下り、岩船寺への石段を上った所に山門があり、入山料500円を納め山門をくぐります。
石室不動明王
山門を入った先の左側に応長2年(1312)の銘がある石室不動明王立像が祀られ、
国の重要文化財に指定されています。
地蔵堂
地蔵堂-地蔵像
地蔵堂には鎌倉時代後期の石造り地蔵尊が安置され、「厄除け地蔵」と呼ばれています。
五輪塔
五輪塔は鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
東大寺別当・平智僧都の墓と伝わり、昭和初期に岩船の北谷墓地から移されました。
寺-十三重石塔
石室不動明王の先に建つ高さ5.5mの十三重石塔は、正和3年(1314)に妙空僧正による建立と伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
初重の軸石の四面には金剛界四仏の梵字が薬研彫りで刻まれています。
昭和18年(1943)に軸石のくぼみの中から水晶五輪舎利塔が発見されました。
本堂
十三重石塔の右側に阿字池があり、池の向かいに本堂があります。
岩船寺は山号を高雄山(こうゆうざん)、院号を報恩院と号する真言律宗の寺院です。
神仏霊場・第129番、仏塔古寺十八尊・第4番、関西花の寺二十五霊場・第15番札所となっています。
岩船寺は天平元年(729)に第45代・聖武天皇が出雲国に行幸の際に霊夢があり、
大和国鳴川(現在の奈良市東鳴川町)の善根寺に籠居していた僧・行基に命じて
阿弥陀堂を建立したのが始まりとされています。
大同元年(806)、空海と姉の子・智泉大徳(ちせんだいとく)は伝法灌頂を修し、
新たに灌頂堂として報恩院を建立しました。
智泉大徳は第52代・嵯峨天皇の勅命を受け、皇子誕生の祈願を行ったところ、
弘仁元年(810)に正良(まさら)親王(後の仁明天皇)が誕生しました。
弘仁4年(813)皇后・橘 嘉智子(たちばな の かちこ)の寄進により堂塔伽藍が整備され、
寺号を岩船寺と称されるようになりました。
鎌倉時代以降、法相宗大本山・興福寺塔頭の一乗院の末寺となりました。
鎌倉時代の中後期には寺運隆盛となり、最盛期には東西及び南北十六町の
広大な境内に三十九坊の坊舎を有しました。
しかし、承久3年(1221)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げた
承久の乱で兵火を受け、堂塔の大半を焼失しました。
弘安2年(1279)に現在地に移転し、同8年(1285)には落慶法要が行われました。
弘安年間(1278~1288)には東小田原の随願寺が荒廃し、建物や仏像が岩船寺に遷されましたが、
応長元年(1311)にも兵火を受け焼失しました。
室町時代の嘉吉2年(1442)に、現在の三重塔が再建され、江戸時代の寛永年間(1624~1643)には
本堂、三重塔、坊舎、鎮守社など残された10棟の堂宇を、徳川家康、秀忠親子らの
寄進により修復されました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で混乱し、一時無住となりましたが、
明治14年(1881)に西大寺の末寺となり、真言律宗に改宗されました。
昭和63年(1988)に現在の本堂が建立されました。

本尊は平安時代作で丈六(284.5cm)の阿弥陀如来坐像で、国の重要文化財に指定されています。
行基作と伝わりましたが、胎内の墨書きから天慶9年(946)の造立と判明され、
行基の没年(天平21年/749)以降に造立となります。

本尊脇の厨子内には、平安時代作で像高39.5cmの普賢菩薩騎象像が安置され、
国の重要文化財に指定されています。
智泉大徳の作と伝わり、元は三重塔内に安置されていました。
厨子は宝形造りで、内部には法華曼荼羅が描かれています。

須弥壇の四隅には鎌倉時代作の四天王像が安置され、京都府の文化財に指定されています。
多聞天像の台座裏に正応6年(1293)の銘があります。

堂内には鎌倉時代作で像高55.5cmの十一面観音菩薩立像、以下室町時代作の薬師如来像、
十二神将像、釈迦如来像、不動明王像、菅原道真像が安置されています。
三重塔
阿字池先の石段を上った所に三重塔があり、国の重要文化財に指定されています。
承和年間(834~847)に仁明天皇が智泉の遺徳を偲んで宝塔を建立したと伝わりますが、
承久3年(1221)の承久の乱で兵火を被り、焼失しました。
現在の塔は、昭和18年(1943)の解体修理で「嘉吉二年(1442)五月廿日」の銘文が発見され、
室町時代に再建されたことが判明しました。
三重塔の四隅の垂木を支える隅鬼(天邪鬼)は、解体修理の際に本堂で祀られ、
国の重要文化財に指定されています。
初重の内部には来迎柱が立てられ、須弥壇と来迎壁があります。
来迎柱には昇龍、降龍、来迎壁の正面に十六羅漢図、背面に五大明王像、
四周の扉両脇の板壁には真言八祖像、板戸の内面には八方天が描かれ、
平成15年(2003)に復元されています。
三重塔付近の五輪塔
付近には五輪塔もありますが、詳細は不明です。
鐘楼
三重塔の左奥に鐘楼があります。
鎮守社-1
鎮守社-2
三重塔から西方向へ進んだ所に、智泉大徳により祀られたとされる歓喜天堂があります。
貝吹岩
歓喜天堂から更に西方向へと進むと貝吹岩があります。
標高290mの地にあり、かって、三十九の坊舎を有していた際、一山の僧を集めるために
この岩の上に立って、法螺貝を吹いたと伝わります。
貝吹岩からの遠望
当尾地区で最も高い場所であり、西には遠くに生駒の山々が望めます。
開山堂
来た道を戻り、歓喜天堂前から左に折れて進んだ所に開山堂があります。
宝篋印塔
一願地蔵
仏頭
開山堂の付近には宝篋印塔が建ち、その周辺には仏頭や身代り地蔵尊、
双体仏の石像などが安置されています。
愛宕燈籠
岩船寺からの帰途、府道752号線から少しそれた所に三角形をした愛宕燈籠があります。
江戸時代のもので、当尾では正月、ここからおけら火を採り雑煮を炊く風習があったそうです。
たかの坊地蔵-1
更に浄瑠璃寺の前を通り下って行くと、鎌倉時代中期の「たかの坊地蔵」が祀られています。
たかの坊地蔵-2
横に並ぶ小さな石仏は室町時代のものとされ、背後には宝篋印塔も建っています。

今回は時間が限られているため帰宅します。
次回は清荒神清澄寺、中山寺、花山院、播州清水寺を巡ります。

山門
笠置寺は標高289mの笠置山を境内とし、般若寺から国道369号線を進み、
柳生の里から北上した笠置山上に駐車場があります。
山号を鹿鷺山(しかさぎさん)と号する真言宗智山派の寺院です。
駐車場から歩き、料理旅館の前を右に曲がり、石段を上った先に山門があります。
笠置型灯篭
山門をくぐった所に、平安時代に参道に建てられていたと伝わる
笠置型灯篭が復元されています。
本尊仏香爐
本尊仏香爐は高さ20mもある磨崖仏の前に置かれていた香炉で、室町時代に造られ、
江戸時代は手水鉢に転用されていました。

参道の左側に本坊がありますが、画像を撮り忘れました。
平安時代の最盛期、笠置寺には49の子院がありましたが、鎌倉時代の元弘元年(1331)に
後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱が起こすと
幕府軍の奇襲により全山焼失しました。
室町時代に小規模の復興がなされましたが、江戸時代後期の安政年間(1850年代)に
起こった安政南海地震でも甚大な被害を受け、江戸末期には福寿院・多聞院・文殊院・知足院の
四子院が無住のまま残されました。
明治9年(1876)、大倉丈英和尚により復興がなされ、文殊院と知足院は破却され、
多聞院の本堂は毘沙門堂となり、福寿院を本坊として再興し笠置寺とされました。
鐘楼
参道の正面にコンクリートで再建された鐘楼があります。
梵鐘は「解脱鐘」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代の建久4年(1193)、藤原貞慶(じょうけい=後の解脱上人)が
日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、
信仰の山として全盛を極めました。
東大寺再建中の俊乗房重源は、建久7年(1196)に貞慶に宋から持ち帰った紺紙金泥の
『大般若経』600巻を寄進し、般若台(『大般若経』を安置する六角堂)の鐘として
「解脱鐘」を寄進しました。
最下部に6つの切り込みを入れて六葉形にするのは中国鐘に見られる形式で、
日本に一つしかありません。
また、銘文は鐘の側面でなく下面に刻まれています。
収蔵庫
鐘楼から東へ進んだ先に受付があり、入山料300円を納め、
その先へ進んだ左側に収蔵庫があります。
無料で見学はできますが、館内の撮影は禁止されています。
朱塗りの鳥居
収蔵庫の先に朱塗りの鳥居が建っています。
椿本護王宮
鳥居をくぐった右側に椿本護王宮があります。
椿本護王宮は笠置山一山50ヶ寺の総鎮守社で、延喜8年(908)に
吉野・金峯山から勧請されました。
元弘の乱で焼失後、桃山時代に豊臣氏によって再興されたと見られています。
春日明神社
左側には春日明神社があり、建久4年(1193)に藤原貞慶が
笠置寺へ入る際に勧請されました。
藤原貞慶の祖父・藤原通憲(信西)は、平治元年(1160)の平治の乱で自害させられ、
また父・藤原貞憲も 土佐に配流されました。 生家が没落した幼い貞慶は望まずして、
興福寺に入り11歳で出家して叔父・覚憲(かくけん)に師事して法相・律を学びました。
仏教界において将来の日本仏教界を背負って立つ存在として期待されていましたが、
僧の堕落を嫌い春日明神の神託を受けて笠置寺に入りました。
貞慶は以後15年間にわたり笠置寺の再興と南都仏教復興運動を展開されました。
春日明神社は元弘の乱で焼失後、平成28年(2016)の春日大社第60次式年造替に際し、
御蓋山(みかさやま)に祀られていた摂社・本宮神社社殿を移譲され再興されました。
行場入口
鎮守社の先で参道は突き当りとなり、左に曲がると修行場の入口があります。
修行大師像
修行場の入口から進んだ先に修行大師像が祀られています。
笠やん-像
修行大師像の傍らに道案内猫「笠やん」の像が祀られています。
茶トラのオス猫で、住所不定だった野良猫が平成2年(1990)に笠置寺に住着き、
5年間に渡り日に何回か参拝客と共に修行道を歩きました。
いつしか道案内猫の「笠やん」と呼ばれ、人気猫になりましたが
平成6年(1994)2月2日に永眠しました。
大師堂
修行大師像横にある石段を上った所に大師堂があります。
かって、この地には天平勝宝3年(751)に東大寺の僧・実忠が創建した正月堂がありましたが、
元弘の乱で焼失後はこの地に再建されることはありませんでした。
明治30年(1897)に関西鉄道(JR関西本線の前身)の開通により、
現在の笠置駅にあった大師堂がこの地に移築されました。
堂内には室町時代の弘法大師石像が安置されています。
正月堂
石段を下って参道を進んだ先に正月堂があり、
笠置寺の本尊・弥勒大磨崖仏の礼拝堂となっています。
実忠は天平勝宝3年(751)に笠置山に入り、山中にあった龍穴の奥へ入っていくと、
そこは都卒天(とそつてん=兜率天)の内院に通じており、そこでは天人らが
生身(しょうじん)の十一面観音を中心に悔過(けか)の行法を行っていました。
悔過とは自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することであり、実忠はこの行法を
人間界に持ち帰りたいと願ったのですが、そのためには生身の十一面観音を
祀らねばならないと告げられました。
実忠は下界に戻り難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの
補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養し、100日ほどして
生身の十一面観音が海上から来迎したと伝わります。
現在東大寺二月堂で営まれる修二会は、二月堂本尊の十一面観音に対して
自らの過ちを懺悔し、国家の安定繁栄と万民の幸福を祈願する
十一面悔過(けか)法要です。
天平勝宝4年(752)、笠置寺に正月堂が建立され、十一面観音像が安置されて
第1回のお水取りは正月堂で営まれました。
同年2月には実忠により東大寺に二月堂が建立されてこの行法が修され、
以後、東大寺に引き継がれることになりました。
現在の正月堂は室町時代に東大寺の僧・貞盛により再建されました。
因みに東大寺には二月堂、三月堂、四月堂がありますが、正月堂はありません。
弥勒磨崖仏-写真
堂内には弥勒大磨崖仏の写真が祀られています。
平成22年(2010)に文化財復元センターが岩に残るわずかな痕跡からデジタル技術で
復元した画像で、像高は10~12mにもなる立像であることが判明しました。
笠やん-写真
また、道案内猫「笠やん」の写真も掲示されています。
弥勒磨崖仏
正月堂の正面の弥勒大磨崖仏は元弘の乱の兵火を受け、現在は姿が失われ、
輪郭を残すのみとなっています。
笠置山は、山中の至るところに花崗岩の巨岩が露出し、弥生時代には磐座を信仰する
巨石信仰の霊地であったと推定されています。
笠置石
笠置寺の創建については諸説ありますが、寺伝では白鳳11年(682)に
大海人皇子(後の天武天皇)によって創建されたと伝わります。
大海人皇子がある日、馬に乗って鹿狩りをしていた時、鹿は断崖を越えて
逃げ去ったのですが、馬は断崖の淵で動きが取れなくなりました。
皇子は山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と
誓願して難を逃れたと伝わり、その断崖の目印として笠を置いたことが、
笠置の地名の起こりとされています。
弥勒大磨崖仏の左側にある「笠置石」と呼ばれる断崖がその地とされています。
その後、皇子が再び笠置山を訪れ、誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたのですが、
あまりの絶壁で困難を究めました。
伝承では天人が現れて弥勒像を刻んだとされていますが、
実際には中国からの渡来人によるものと考えられています。
十三重石塔
笠置石の手前には十三重石塔が建てられ、国の重要文化財に指定されています。
この塔は鎌倉時代のものとされ、元弘の乱での戦死者の供養塔とも、
貞慶上人が母のために建てた供養塔とも伝わります。
元来この場所には建久7年(1196)に貞慶上人が建てた、
木造瓦葺の十三重塔がありましたが、元弘の乱の兵火で焼失しました。
正月堂-懸崖造り
正月堂の懸崖造りの柱の脇を参道は進みます。
龍神
岩と岩の間に千手窟があり、龍神が祀られ、立ち入りができなくなっています。
千手窟
天平勝宝3年(751)に笠置山に入った実忠が、この奥へと入り
十一面悔過(けか)法要が伝授されたと伝わります。
また、東大寺大仏殿再建の際、用材は木津川を利用して奈良へと送る計画でしたが、
日照り続きで木津川の水量が少なく、用材の配送に遅延が生じていました。
実忠はこの場で雨乞いの修法を行うと大雨が降り、無事に用材を奈良へと送ることができて、
予定通りに大仏殿を完成させることができたとの伝承もあります。
この故事から以後、大仏殿の修理の際は、必ずこの場で無事完成を願っての
祈願法要が執り行われたとされています。
虚空蔵磨崖仏
千手窟の先にある高さ10mの岩には、太さ約2cmの線で像高約7mの虚空蔵仏が描かれ、
こちらはくっきりと像が残されています。
寺伝では弘仁年間(810~824)に弘法大師がこの岩に登り、求聞寺法を修した際、
「星から出た光が穿(うが)った」と伝わります。
しかし、彫刻の様式が中国・山西省雲崗(うんこう)の磨崖仏に相通じるものが
あることから、弥勒磨崖仏と同様に奈良時代の渡来人の作と考えられています。
虚空蔵磨崖仏-図面
昭和59年(1984)にこの磨崖仏が拓本にとられ、8mX10mの大掛け軸が作成されました。

また、正月堂にはその拓本から採寸された図の写真が掲示されています。
胎内くぐり
虚空蔵磨崖仏の先は、約40分の笠置山修行場となっており、
その入り口に胎内くぐりが設けられています。
本来は滝で身を清めてから行場へ入るのですが、笠置山では滝が無いため、
胎内くぐりすることによって身を清めるとされています。
嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生した安政南海地震により、
天井石が落下したため切り石が天井石となっています。

通路は緩くカーブしており、少しかがみながら、それでも小さなリュックを
背負ってでも通り抜けることができました。
太鼓石-2
参道を進んだ正面に太鼓石があります。
標識の柱が立つ背後の石で、ある一部を叩くとポンポンと音を発します。
その場所は自分で見つけることに意義があり、目印を付けてはならないそうです。
岩のトンネル
参道には岩のトンネルがありますが、こちらの通過は容易です。
木津川
ゆるぎ石
更に参道を進み眼下に木津川の流れが望める所にゆるぎ石があります。
元弘元年(1331)9月28日に鎌倉幕府軍による奇襲を受けた所で、
その奇襲に供えるために運ばれた石とされています。
石の運搬には怪力の持ち主で般若寺の僧・本性房が携わっていたのかもしれません。
ゆるぎ石の重心は中央にあり、人の力で動くことから「ゆるぎ石」と呼ばれています。
平等石
参道は大きな岩と右側の岩の間の狭い通路をよこばいになって進みます。
「蟻の戸わたり」と呼ばれ、大きな岩は「平等石」と名付けられています。
二の丸跡
開けた所に二の丸跡があります。
笠置山には正式な城は築かれず、山頂の後醍醐天皇行在所が本丸と見立てられ、
室町時代以降にこの広場が二の丸跡と呼ばれるようになりました。
貝吹き石
二の丸跡の先を右に曲がり西へ進んだ先に貝吹き岩があります。
修験者がこの岩の上で法螺貝を吹いたとされ、元弘元年(1331)の元弘の乱では
後醍醐天皇の軍が士気を高めるためこの岩の上で法螺貝を吹いたと伝わります。
登ってみようと試みたのですが、カメラをぶつけ途中で諦めました。
貝吹き石前の塔
広場には塔が建てられていますが詳細は不明です。
もみじ公園への下り坂
広場から階段を下った所に宝蔵坊跡があり、現在はもみじ公園として整備されています。
もみじ公園
公園には東屋があります。
行在所への石段
公園を横切った先にも階段があり、それを登った所に行在所への石段があります。
もみじ公園へ下らなくても、参道をそのまま進めばこの石段下に着けます。
行在所
標高289mの笠置山の山頂に後醍醐天皇の行在所跡があります。
後醍醐天皇は文保2年3月29日(1318年4月30日)に31歳で即位しましたが、
兄・後二条天皇の遺児である皇太子・邦良親王が成人して皇位につくまでの
中継ぎとして位置づけられていました。
後醍醐天皇が即位しても3年間は父の後宇多法皇が院政を行い、邦良親王の皇位継承計画は
後宇多法皇の遺言状に基づくもので、鎌倉幕府はその計画を承認し保障しました。
これに対して後醍醐天皇は幕府への不満を募らせていき、正中元年(1324)に
討幕計画を立てたのですが発覚し、天皇の側近が
処分されましたが天皇の処分は免れました。(正中の変
元弘元年(1331)の後醍醐天皇による再度の討幕計画が側近・吉田定房の密告により発覚し、
身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断しました。
後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて笠置山に籠城し、
三種の神器を持って挙兵しました。
幕府軍7万5千に対し、後醍醐天皇の軍は2.500でその差は歴然でした。
後醍醐天皇は大覚寺統でしたが、大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を
支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、
後醍醐天皇は窮地に陥っていました。
笠置山は一カ月間は持ちこたえましたが、9月28日の夜半、風雨を味方に付けた
幕府軍の決死隊50名の奇襲攻撃を受け、笠置寺山内49の支院全てが灰燼に帰しました。
後醍醐天皇は捕えられ、隠岐島へ配流されました。
後醍醐天皇歌碑
行在所の玉垣前には後醍醐天皇御製の歌碑があります。
「うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る」
大師堂-裏側
行在所跡から石段を下り、参道を下ると大師堂の裏側に出ます。
毘沙門堂
大師堂から参道を戻り、直進した右側に毘沙門堂があります。
毘沙門堂は支院・多聞院の本堂が移築され、
鎌倉時代作の毘沙門天像を本尊としています。
この毘沙門天像は像高50cmで、楠木正成の念持仏であったと伝わり、
かっては信貴山の毘沙門天と共に戦勝の神、福徳の神、財宝の神として信仰を集めました。
信貴山は聖徳太子が物部守屋を攻めた時、この山に毘沙門天が現れ、太子が信ずべし、
貴ぶべしといったことに由来すると伝わります。
稲荷社-鳥居
毘沙門堂の南側に鳥居が建っています。
稲荷社
鳥居をくぐり、石段を上った先に稲荷社があります。
大正時代に笠置町の回船業者の発願で愛知県の豊川稲荷(妙厳寺)から勧請されました。
稲荷権現、飯綱権現と同一視される荼枳尼天(だきにてん)が祀られ、
「その法を修するものは自由自在の力を与える」とされています。
笠置山の麓を流れる木津川は、古くから船による水運業が盛んで、笠置にも回船業が多く、
江戸時代から鉄道が開通する明治初期までは栄えていました。
舎利殿
鳥居の手前を東へ進むと舎利殿があります。
昭和49年(1974)春に笠置寺創建1300年、宗祖弘法大師御生誕1200年を
記念して建立されました。

海住山寺へ向かいます。
続く

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木津川
笠置寺から木津川の方への下り道は道幅が狭く、急勾配でカーブが続きます。
バイクなら難なく離合できますが、四輪車なら奈良からの方がお勧めです。
木津川に架かる笠置橋から上流を見ました。
山門-外
橋を渡り、国道163号線を西方向へ進んだ先に、海住山寺への案内板があり、
右折して進んだ道路脇に山門があります。
六地蔵
山門付近には六地蔵が祀られています。
解脱上人墓所
山門を超えた所の広場にバイクを停め、山側へ登って行くと中興一世・解脱上人
及び二世・慈心上人の墓所があります。
海住山寺はかつて、恭仁京(くにきょう)があった瓶原(みかのはら)を見下ろす
三上山(さんじょうさん)の中腹にあります。
瓶原は奈良時代初期に第43代・元明天皇(在位:707~715年)が離宮を設け、
第45代・聖武天皇(在位:724~749年)は、天平12年(740)12月15日に
平城京から恭仁京へ遷都しました。
それに先立つ天平7年(735)に聖武天皇は大盧舎那仏造立を発願し、
その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、
十一面観音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と号したのが海住山寺の始まりとされています。
その後、保延3年(1137)に全山焼失し、承元2年(1208)になって貞慶(解脱上人)が
笠置寺から移り住んで中興され、観音寺から補陀洛山海住山寺に改められました。
山号の補陀洛山はインドの南方海上にあり、観音菩薩が降臨するという伝説上の山で、
『明本抄』「良算聞書」の、「海」とは観音の衆生を救済しようという誓願が海のように
広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味が
海住山寺の由来となったとされています。
貞慶は晩年の5年間を海住山寺で過ごし、建暦3年(1213)に59歳で亡くなりました。
平成24年(2012)、解脱上人八百年御遠忌にあたり、供養塔が建立されました。

慈心上人は後鳥羽上皇の側近でしたが、解脱上人の徳を慕って海住山寺で出家し、
五重塔の建立など寺観の整備に尽力され、中興二世となりました。
恭仁京への道標
墓所の先には恭仁京跡へのハイキングコースもあります。
開山堂
墓所から北へ進むと薬師堂(開山堂)があります。
三社
薬師堂の北側に三社があり、右から天満宮、春日大明神、稲荷大明神が祀られています。
五重塔
三社の東側に五重塔があり、国宝に指定されています。
貞慶の在世中に建立が開始され、遺志を引き継いだ弟子・慈心上人が
貞慶一周忌の建保2年(1214)に完成させました。
塔には後鳥羽上皇から賜った仏舎利二粒に五粒を加えた七粒の仏舎利が安置されています。
塔の総高は17.7mで、屋外にある木造五重塔で国宝・重要文化財に
指定されているものとしては、室生寺五重塔に次いで日本で二番目に小さく、
初層の屋根の下に裳階(もこし)があります。
初層に裳階が付いた五重塔は法隆寺中山寺にしか見られませんが、
現存する平安~鎌倉時代の五重塔では海住山寺の塔が唯一となります。
裳階には壁を造らず吹放ちとなり、心柱は初層天井の上から立っています。
初重内部の厨子状の造りは現存する塔には他に例が無く、仏舎利そのものを
塔の本尊として祀った例もありません。
初重内部の四天柱の間には東西南北の4面とも両開扉を設け、厨子状の構えとし、
8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれています。
塔内の四方には、かって四天王像が安置されていましたが、
現在は奈良国立博物館に寄託されています。
木造四天王立像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
海住山寺は仏塔古寺十八尊霊場の第3番札所となっています。
本堂
五重塔から北へ進んだ所に本堂がありますが、現在は工事中でした。
現在の本堂は明治元年に山津波で倒壊した後、明治17年(1884)に再建されました。
海住山寺は鎌倉から室町時代に大いに栄え、塔頭五十八ヶ坊を数えましたが、
天正年間(1573~1593)に豊臣秀吉の検地によって寺領地を失い、以後衰微しました。
海住山寺は鎌倉時代に貞慶により再興されてからは、法相宗で興福寺の末寺でしたが、
現在は独立して真言宗智山派に属しています。
本尊は平安時代作で像高189cmの十一面観音菩薩立像で
、国の重要文化財に指定されています。
賓頭盧尊者
本堂の縁側には賓頭盧尊者像が安置されています。
岩風呂
本堂前にある岩風呂には正嘉2年(1258)の銘があります。
茄子の腰掛
岩風呂の前方に「願いを叶える茄子の腰掛」があります。
「茄子の花は、一つの無駄なく実を結び、また「成す」と語呂が同じことから、
努力は報われ願いは叶えられるという縁起が含まれています。
二人で座って、深く縁を結び、一人で腰かけて良縁成就を祈願してください。」と記されています。
山門-中
本堂前の正面には山門があります。
鐘楼
山門の手前北側に鐘楼があります。
梵鐘
梵鐘は堺の鋳物師・丹治国忠により正嘉元年(1257)に鋳造されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
修行大師像
鐘楼の北側に修行大師像が祀られています。
文殊堂
鐘楼の西側に鎌倉時代の正和元年(1312)の建立された文殊堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
当初は檜皮葺で経蔵として使われていましたが、
鎌倉時代作の文殊菩薩坐像が安置され、文殊堂となりました。
また堂内には、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとされる鎮宅霊符神が祀られています。
やる気地蔵
やる気地蔵
持ち上げ大師
本堂の右側にもちあげ大師、その前に仏足石が祀られています。
「大師像を持ち上げ願をかける」と記されています。

もちあげ大師の右側に輪廻塔があり、「輪廻車を一心に念じて廻すと諸々の苦悩から
抜け出すことができる」と記されています。
土蔵
輪廻塔の向かい側に土蔵があり、その横から本坊へと行けますが、
特別公開の日以外の立ち入りは禁止されています。
本坊
本堂及び本坊への拝観料900円を納め本坊へと向かいます。
本坊前
本坊前
庭園-1
庭園-2
本坊では庭園が特別公開されていました。
本堂及び本坊の建物内の撮影は禁止されています。
庭園-3
庭園-4
江戸時代に作庭されました。
本坊-外
外から見ると正面の建物が本坊で、その右側に奥書院があり、
画像はありませんが奥書院の右側に奥之院があります。
展望台
本堂の北側を西へ進んだ所に展望台があります。
寺号標
駐車場へと下る手前には寺号標が建っています。

次回は慈尊院から高野山を巡ります。

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仁王門
京都は連日35度を超える猛暑が続いていますが、早朝のこともあり、
国道162号線は山の中を縫うように走るため、空気は冷ややかで、バイクで走ると爽快です。
かっては、曲がりくねった峠を超えていた所も、今はトンネルで快調に走れます。
以前は名田庄まで国道162号線を走っていたのですが、スマホのナビから
弓削(ゆげ)から府道78号線へ入るように指示され、その後、19号線から368号線、
12号線を経て国道162号線に合流しました。
道の駅・名田庄の先から県道16号線(坂本高浜線)に入り国道27号線に合流しましたが、
国道では渋滞が発生していました。
しばらく渋滞とお付き合いし、「関屋」の信号を右折して山手へ入って行くと、
松尾寺の横へと続いていました。
自宅を5時に出発し、ほぼ予定通りの8時過ぎに松尾寺に到着しました。
更に車道を下って右折すると仁王門の前に出ます。
仁王門は江戸時代に再建されたもので、京都府の文化財に指定されています。
松尾寺は、天正8年(1580)の織田信長の丹後攻めの命を受けた
細川藤孝の兵火によって堂宇をことごとく焼失しました。
藤孝の嫡男・忠興(ただおき)は信長の薦めにより、天正6年(1578)に明智光秀の
娘・玉(ガラシャ)と婚姻しています。
しかし、丹後攻めでは丹後国守護の一色氏に反撃されて敗退し、
後に光秀の加勢を得て丹後南部を平定しました。
信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められ、宮津城を居城としました。
北半国の中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である
一色氏が領有し、分け合う形となりました。
天正10年(1582)の本能寺の変では、藤孝は親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、
剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗って田辺城に隠居し、
忠興に家督を譲りました。
松尾寺は、細川藤孝や京極家によって復興された後、江戸時代の
享保15年(1730)に牧野英成によって現在の姿に整備されました。
牧野英成は、丹後田辺藩第3代藩主で寺社奉行を経て京都所司代に就任しています。
仁王門-扁額
松尾寺は「若狭富士」と呼ばれている青葉山(693m)の
中腹にあり、山号を青葉山と称します。
仁王門には山号の扁額が掲げられています。
仁王像写真
仁王像は鎌倉時代の作で、京都市の文化財に指定され、
現在は宝物殿に安置されています。
その代役として写真が門番をしています。
霊宝殿
仁王門をくぐった右側に宝物殿があります。
宝物殿は、開創1300年記念事業として、平成20年(2008)建設され、
東京・京都・奈良各博物館に寄託していた国宝や重要文化財を収蔵しています。
中でも仏画「絹本着色普賢延命菩薩像」は、舞鶴市唯一の国宝で、第74代・鳥羽天皇が
行幸の際、寄進されたと伝えられていますが、
美福門院による寄進の方が正しいように思われます。
絹本着色普賢延命菩薩像は、美福門院の念持仏であったと伝わります。
藤原 得子(ふじわら の とくし/なりこ)は長承3年(1134)に鳥羽上皇の寵愛を
受けるようになり、保延5年(1139)5月18日には
躰仁親王(なりひとしんのう=後の近衛天皇)を出産しました。
久安5年(1149)8月3日には美福門院の院号を宣下されています。
弁才天
宝物殿の向かい側には放生池があり、池の中には弁財天を祀ると思われる祠があります。
本坊への門
池の北側には風格のある門があり、門の先は本坊へと続きますが、門は閉じられています。
本堂への石段
仁王門への石段に続き、本堂への石段を上ります。
本堂
石段を上った正面に美しい二重屋根の本堂があります。
松尾寺は、和銅元年(708)に唐の僧・威光上人によって開基されたと伝わります。
青葉山は二つの峰を持ち、それが中国の馬耳山という霊験のある山と
山容が似ていたことから登山され、松の大樹の下に馬頭観音を感得し、
草庵をを結ばれたのが始まりとされています。
また青葉山北麓の若狭神野浦(こうのうら)の漁師・春日為光が海難に遭遇し、
一浮木で助かり、その木が馬頭観音であったとも伝わります。
元永2年(1119)には、鳥羽天皇の行幸があり、寺領四千石を賜り、
寺坊は65を数えて栄えました。
その後、美福門院(1117~1160)の崇敬を受け、伽藍と15宇の坊舎が再建され、
平安時代の末期には観音霊場の一として庶民の信仰を集めるようになりました。
寺蔵の「松尾寺参詣曼荼羅」には、中世末から近世初期にかけて本堂を中心とした
七堂伽藍や背後の青葉山奥院、境内の参詣人などが詳細に描かれ、松尾寺の隆盛が偲ばれます。
本堂は天正8年(1580)に焼失後、細川藤孝により再建され、
慶長7年(1602)には初代宮津藩主・京極高知により修復されました。
しかし、寛永7年(1630)、正徳6年(1716)の火災で本堂などを焼失し、
享保15年(1730)に牧野英成により大修復されたと伝わります。
本尊
書写山圓教寺に祀られている松尾寺の本尊。
本尊は馬頭観音坐像で、西国三十三所観音霊場の第29番札所本尊でもあります。
西国三十三所観音霊場で唯一の観音像ですが秘仏とされ、
最近では草創1300年を記念して平成20年(2008)から1年間開帳されました。
因みにその前の開帳は77年前の昭和6年(1931)です。
御前立
現在の本堂では厨子の扉は閉じられ、御前立が安置されています。
馬の像
本堂の左前には馬の像が奉納されています。
馬頭観世音が農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通 、
更には競馬に因む信仰を集めていることから奉納されたものと思われます。
修行大師像
本堂前の参道の東側に修行大師像が祀られ、その右側には高野槇が植栽されています。
松尾寺は真言宗醍醐派の寺院で、高野槙は高野山では霊木とされています。
子抱き地蔵尊
大師像の南側に子供を抱いた地蔵像が奉納され、その背後には上部の無い灯篭が
石の玉垣で囲われていますが、詳細は不明です。
観音像
境内の南西側には、観音像が祀られています。
経蔵
観音像の右側に江戸時代に建立され、京都府の文化財に指定されている経蔵があります。
六地蔵
経蔵の右側を西へ進んだ先に地蔵堂と思われる建物があります。
縁側には六地蔵が祀られています。
祠
本堂の裏側の左方向に丹塗りの祠があります。
祠内の石碑
閼伽井では?と思われたのですが、中を覗いて見ると石碑が祀られていました。
但し、その石碑の詳細は不明です。
心霊閣
心霊閣の扁額
本堂の右側にある建物には「心霊閣」の扁額が掲げられています。
役行者像
堂内の左端には役行者像が安置されています。
屋根
また、小さなお堂の屋根が置かれていました。
渡り廊下
心霊閣から本堂へは渡り廊下で結ばれています。
登山口
廊下をくぐった先に「京都の自然200選」に選定されている青葉山への登山道があります。
青葉明神
登山道から横に入った所に「青葉大権現」が祀られた祠があります。
石仏
祠の背後には多くの石仏が山積みされています。
両部鳥居
心霊閣の左側を東へ進んだ先に六所神社と思われる社殿があります。
両部鳥居が神仏習合の名残を示しています。
狛犬
苔むした狛犬と石灯籠が歴史を感じさせます。
六所明神
由緒等を示す駒札などがありませんので祭神等、詳細は不明です。
銀杏の木
神社前の参道を西へ進んだ左側にイチョウの大樹が聳えています。
樹齢約870年と推定され、根回りは6mあり、舞鶴市の文化財に指定されています。
元永2年(1119)に鳥羽天皇が行幸の際に手植えされたと伝わります。
鐘楼
イチョウの木に隣接して鐘楼があります。
納経所
本堂前の石段を下って納経所へ向かいましたが、
現在工事中で車道を挟んだ向かい側に臨時の納経所がありました。
方丈
工事中の納経所の奥には方丈と思われる建物があります。

多禰寺(たねじ)へ向かいます。
続く

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