カテゴリ:京都府 > 京都府向日市~大阪府島本町

本陣跡の碑
国道171号線から「サントリー通り」と呼ばれる府道204号線を西へ進み、
恵解山口(いげのやまぐち)の信号を左折し、その先で右折した先に
明智光秀の本陣跡があります。
集会所の左側に石碑と説明板が建てられています。
墓地への石段
墓地への石段
光秀の本陣は、「境野一号墳」と呼ばれる、四世紀後半、古墳時代前期後半に
造営された前方後円墳上に築かれたと考えられています。
円墳への石段
行基菩薩
円墳への石段
石段脇には行基菩薩が祀られています。
円墳
円墳
発掘調査で、空堀跡や火縄銃の鉄砲玉が出土しました。
前方部分は、現在は墓地となり、後円墳部分は竹藪となって、サントリービール工場の
敷地内のためフェンスが張られ、立ち入ることはできません。
古墳のある場所は、標高25.2mあり周囲より高くなっています。
今は住宅が立ち並んでいますが、当時は天王山や西国街道が
見渡せたと想像されています。
しかし、最近になって恵解山口の信号を北に進んだ所にある恵解山古墳からも
濠や火縄銃の弾が発見され、光秀の本陣跡の可能性が出てきました。
山崎古戦場-天王山側
境野一号墳から南へ進んだ京都縦貫道の下に造られた公園があります。
公園名は「天王山夢ほたる公園」と名付けられ、
公園の北側にヒメボタルの生息地があります。
公園内には「山崎合戦古戦場」の碑が建てられています。
背後の山が天王山です。
山崎古戦場-ビール側
反対側は大山崎中学校のグランド越しにサントリービール工場が見え、
その右側の竹藪が光秀の本陣跡と思われます。

天正10年6月2日(1582年6月21日)の早朝、本能寺に滞在していた織田信長を
襲撃した明智光秀は、正午頃には二条城を攻め、信長の子・信忠は自害しました。
高松城に篭る毛利軍を包囲していた羽柴秀吉は、6月3日に
本能寺の変の報を入手すると直ちに毛利軍との和議を結び、
中国大返し」と言われる機敏さで畿内へ軍を戻しました。
光秀の意に反し、高山右近ら摂津衆の多くが秀吉軍に味方し、
兵力の差は2~3倍の大差となりました。
それでも、光秀軍は10日に勝龍寺城の修築を行い、
本陣に濠を築くなど決戦に備えました。
12日頃から両軍は碑が建つ西側の円明寺川(現・小泉川)を挟んで対峙し、
秀吉の本陣は宝積寺に置かれました。

13日の午後4時頃、戦端が開かれましたが、僅か3時間余りで勝敗が決着し、
光秀軍は兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減少して
勝龍寺城へと逃げ込みました。
光秀は夜陰に紛れて妻子が待つ坂本城への脱出を図りましたが、現在の伏見区の
小栗栖の藪で落ち武者狩りの竹槍に刺され、自刃したと伝わります。
翌日には勝龍寺城も秀吉軍に落ちました。

一方、先鋒となって本能寺を襲撃した明智秀満は、その後、安土城の守備に
就いていたのですが出陣し、打ち出浜で堀秀政軍と戦って多くの兵を失い、
坂本城へ敗走しました。

まもなく、堀秀政軍に坂本城は包囲され、秀満は光秀が所有する財宝を
堀秀政軍に贈呈した後、天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城しました。

落ち武者狩りに討ち取られた光秀の首は、秀吉が本能寺に晒されましたが、
密かに亀岡に運ばれ、谷性寺に墓碑が建てられたとされています。
谷性寺には江戸時代の安政2年(1855)に建立された首塚が残されています。

明智一族は大津市坂本の西教寺に埋葬され、西教寺に一族の墓があります。
また、高山右近らに京都府亀岡市にあった亀山城が包囲され、
光秀の息子・明智光慶は自刃して果て、明智氏は僧籍にいた者などを除いて滅びました。
小泉川
公園の西側を流れる小泉川です。
河原の地蔵
小泉川に架かる「松田橋」の袂に「子供を守る河原の如来さん」が祀られています。
この如来さんは、江戸時代の初め、
難産で母子共に命の危険にさらされていた時、家族や村人が
「河原の大日如来」にお百度参りを行いました。
お参りを続けて3日後、無事に赤ちゃんは生まれたのですが、
如来さんが消えてしまいました。
昭和の初め、小泉川の改修工事で川底から如来さんが見つかり、
橋の袂に祀られるようになったそうです。
ねじりマンポ-東口
松田橋から西へ進むとJRの線路の下をくぐる
高さ140cmのトンネルがあります。
正式名称は円妙寺橋梁(えんみょうじきょうりょう)といい、
明治8年(1875)に完成した、土木学会の「日本の近代土木遺産」で
Bランクに指定されている貴重な土木遺産です。
大山崎町・町あるきマップでは、「ねじりマンポ」と紹介されています。
「マンポ」、聞き慣れない言葉ですが、鉄道の橋という意味だそうです。
田畑や水路、通路があった所に鉄道が敷設されたため、
分断された水路・通路を補うために設置されました。
ねじりマンポ-図
図のように、線路に対し通路は斜めに交差しているのですが、
レンガは直角に交差しているように積まれています。
道路側から見ると、アーチ部分のレンガがねじったように見えることから、
「ねじりマンポ」と呼ばれています。
バイクではこのトンネルを通行できないので迂回しました。
ねじりマンポ-西口
西口

円明教寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

鐘楼門
「ねじりマンポ」の西口から西へ進んだ突き当りに円明教寺があります。
円明教寺は山号を医王山と号する真言宗東寺派の寺院です。
山門は重層構造で、上層は鐘楼となっていましたが、梵鐘は戦時供出され、
今はありません。
本堂
本堂
円明教寺は奈良時代に修験僧で白山を開山したと伝わる泰澄により、
円明寺として創建されたと伝わります。
また、平安時代後期に天台宗の寛済法師が円明寺を創建したとの説や、
平安時代中期に曼荼羅寺(後の隋心院)を創建した
仁海によって再建されたとも伝わります。
隋心院の末寺で真言宗善通寺派の寺院になったともされています。
その後、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての
公卿・西園寺公経(きんつね)に譲られ、別荘(円明寺山荘)の庭園の
一部として整備されたのが「御茶屋池」と伝わります。

円明寺は、鎌倉中期には西園寺公経の娘婿で、東福寺を建立した
九条道家に譲られ、池庭が更に整備されました。
その後、道家の息子で一条家始祖となる実経(さねつね)に譲られました。
室町時代の応仁・文明の乱(1467~1477)では、兵火を受け衰微し、
江戸時代初期には無住となって薬師堂を残すのみとなり、「薬師堂」と呼ばれました。
弘化3年(1846)、無住となった円明寺には観音寺から住職が派遣されていました。
円明教寺と呼ばれるようになったのは近代になってからで、
現在でも住職は他の寺と兼務しているようです。

本尊は、平安時代の薬師如来像で脇侍の日光・月光両菩薩像の他、
平安時代の毘沙門天立像と鎌倉時代の地蔵菩薩立像が安置されています。
しかし、住職が殆ど不在のため、参拝は無理なようです。
鎮守社
鎮守社でしょうか? 詳細は不明です。
庫裏
現在は本堂の薬師堂と庫裏を残すのみとなっています。
御茶屋池
寺から下った南側に「御茶屋池」があります。
斜面に高い堤防が築かれ、水が溜められています。
現在は潅漑用として、水利組合によって管理され、
池の北側には民家が立ち並んでいます。
かっては池に面して公経の山荘が営まれ、道家の時代には
別荘の数も増え、池庭も整備されました。
道家から譲られた実経は晩年、円明寺山荘で隠棲し、「円明寺殿」と称されました。
遠くに比叡山から東山連峰が一望でき、
閑静で風光明媚な地であったことが想像できます。

小倉神社へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

石倉神社
円明教寺から山裾と言っても住宅街なので分かりずらいですが、
北西の方向に進んだ所に小倉神社があります。
神社前から北へ進み、「奥海印寺納所線」と呼ばれる
府道204号線の角に石倉神社があります。
石倉神社は、小倉神社の末社で、小倉神社にお参りする前に、
お祓いと禊を授ける社で、投石信仰がありました。
石倉神社の小さな社に、小石を投げてから小倉神社にお参りするという風習は
明治の中頃まで続いていました。

かって、石には神さまの他、人の魂もやどるとされていました。
石は“おはらい”と“みそぎ”を受ける“人の身がわり”だったのです。
また、石倉神社は、いつも寝ている寝坊な神様が祀られているそうで、社に石を投げて、
神様を起こさないと願い事が聞いてもらえないとの伝承もあります。
社号標
石倉神社から戻ると、小倉神社の石標が建っています。
一の鳥居
一の鳥居は江戸時代の元禄年間(1688~1703)に建立されました。
一の鳥居-扁額
神額「正一位小倉大明神」は、小野道風の筆と伝わります。
巨大な石
鳥居の手前には巨石が配されています。
神輿庫
参道を進んで右側を登って行くと小倉神社の第二駐車場があり、
その南側にコンクリート造りの神輿蔵があります。
江戸時代の作とされる神輿2基が納められています。
5月3日の春季例大祭で、神輿が巡幸されるそうです。
古墳
駐車場の西側は宅地が造成され、その奥に鳥居前古墳があるそうで、
かってこの地を支配した豪族が被葬者と推定されています。
小泉川流域を支配し、大きな力を持っていたと推測され、
その一族により小倉神社が創建されたと考えられています。
龍王神社-鳥居
神輿庫の南側に龍王神社が祀られています。
龍王神社
龍王神社は、かって、天王山の山頂近くにある竜神池の畔に祀られていたのですが、
江戸末期に現在地に遷座されました。
水利が悪く水に苦しんでいた円明寺村の民を助けるために龍神が池に舞い降り、
恵みの雨を降らせたと伝わり、村の守護神として信仰を集めていました。
稲荷神社-鳥居
稲荷神社
龍王神社の左側にある稲荷神社。
若宮神社-鳥居
若宮神社
稲荷神社の左側にある若宮神社。
天満宮-鳥居
若宮神社の左側にある天満宮。
天満宮
天満宮には天神の神使いである牛が祀られています。
二の鳥居
二の鳥居も元禄年間に建立されました。
手水者
鳥居をくぐった左側には手水舎があります。
熊野神社
手水舎の斜め奥には、境内に背を向けて熊野神社が祀られています。
噴水
境内の中央には噴水があります。
やちまた宮
噴水の南側には、方除交通安全の「やちまた宮」が祀られています。
割拝殿
やちまた宮の横、天王山への登山道を挟んで
斜めの石段を登った先に、割拝殿があります。
絵馬-神幸祭
割拝殿の中、右側に享保2年(1717)の「神幸祭板絵」が掛かっています。
絵馬-相撲
左側には文政10年(1827)正月の「奉納相撲板絵」が掲げられていますが、
現在は土俵も残されていません。
これらの絵馬には近年補彩が行われています。
滝不動
割拝殿の横に滝不動が祀られています。
御神木
割拝殿の左背後に立つ杉と樅の御神木は、樹齢500~600年と推定されています。
拝殿
割拝殿の先に拝殿があります。
安永9年(1780)に編纂された『都名所図会』には、境内に能舞台、楽屋が描かれ、
かっては祭礼時には「小倉能」と呼ばれた能が演じられていました。
三社宮
拝殿の先、右奥には三社宮があります。
右から八幡宮、天照皇大神宮、若宮社が祀られています。
亀の手水
本殿への石段脇には天王山、小倉山から湧き出している清水を手水としています。
亀の口から水が流れ出ていますが、奥の亀さんはお休みしています。
本殿-1
本殿
小倉神社は、乙訓地方(おとくにちほう)で最も古い神社の一つとされています。
奈良時代の養老2年(718)に創建され、
平安遷都の際は御所の鬼門除けとして祈願されました。
嘉祥3年(850)には、神階最高位である「正一位小倉大明神」と号しました。
山崎合戦の際は、秀吉が家臣を遣わし、戦勝を祈願しました。
江戸時代には、徳川幕府から寄進を受け、
禁門の変では幕府軍の戦勝祈願が行われました。
本殿-2
現在の本殿は江戸時代の文化8年(1811)に再建され、
明治30年(1897)、昭和10年(1935)に改修、修築が行われました。
平成29年(2017)に京都府暫定登録文化財に登録されています。

祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
斎主命(いわいぬしのみこと)、比売大神(ひめのおおかみ)で、
以上の四神は春日大社の祭神で「春日神」と呼ばれています。
斎主命は経津主神(ふつぬしのかみ)とも称され、
香取神宮の祭神であることから「香取神」、「香取大明神」とも呼ばれています。
磐座
本殿の裏に「小倉神社磬座(いわくら)、地磁波発生の処」と記された丸い石碑があります。
その横に建つ説明文で、地磁波は、
「地球の持っている磁気が特定の場所で強く認められ、機器測定によると
此の周辺の空間には磁力波が流れ出しています。」と記されています。

磬座は、「古来、自然崇拝の中心として、山を崇高な神の宿るところとの考えから、
御神体の中心とされた岩盤の多い場所」とされています。
現代人よりも、五感が敏感だったであろう古代人は、このような場所に霊感を
得て社寺を創建したと思われ、小倉神社も創建当初は春日神以外の
正体不明の小倉大明神が祀られていたと思われます。
天王山の登山口
久保川に架かる橋を渡ると天王山への登山道で、JR大山崎駅の方へ下ることもできます。
十二支
久保川沿いに下ると、十二支の像が祀られています。

観音寺(山崎聖天)へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

稲荷社
観音寺は小倉神社から円明教寺の方まで戻り、
西へ進んだ先の右側に駐車場への登り口があります。
天王山への登山口から駐車場への分岐点に稲荷大明神が祀られた社殿があります。
薬師堂への石段
稲荷社の北側に石段があります。
石段脇の「不許肉輩入山内」と刻字された石碑は倒れてしまい、
門は閉じられていますが、石段を登ると薬師堂の横、本堂の正面へ出られます。
見張り小屋
観音寺は天王山の東側山麓にあり、JRや阪急の線路が無ければ
この参道からも下の西国街道が見渡せるように思います。
この建物の詳細は不明ですが、見張り小屋のように見えます。
しかしそのための窓もなく、何のための建物か...? 気になります。
仁王門
仁王門の横に駐車場があります。
仁王門は昭和になってから建立されました。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像もそれに合わせて造立されたように思われます。
庫裏への石段
仁王門をくぐると石段が二手に分かれ一方は庫裏の方に直進し、
もう一方は途中で曲がって無料休憩所の前に出ます。
休憩所内
無料休憩所には鎮宅霊符神、大弁財天女、毘沙門天王が祀られています。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
「風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸したとき、
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで
尋ねたところ、その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にあったとき、
いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、十年にして大富豪となり、
二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて来るであろうと預言し、
忽然と消えたという。
ここに孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた」
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、
この神の家内安全、商売繁盛のお祭りです。
本堂
本堂
観音寺は山号を妙音山と号する真言宗系単立の寺院で、
通称で「山崎聖天(やまざきしょうてん)」と呼ばれています。
寺伝では昌泰2年(899)に宇多法皇の御願寺として創建されたと伝わります。
第59代・宇多天皇は寛平9年7月3日(897年8月4日)に皇太子の敦仁親王
(後の醍醐天皇)に譲位し、昌泰2年(899)10月24日に出家しました。
東寺で受戒した後、仁和4年(888)に自らが創建した仁和寺に入り、法皇となりました。
高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣するようになり、昌泰4年(901)正月、
留守中に譲位直前の除目で権大納言に任じた菅原道真に大宰府への左遷が下されました。
昌泰4年が改元され、延喜元年となった12月13日、法皇は東寺で
伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となり、朝廷と真言宗の関係強化や
地位の向上に資することになりました。
病弱であった醍醐天皇に代わって政務を執っていた可能性もあるとみられていましたが、
承平元年7月19日(931年9月3日)に65歳で崩御されました。

後に地中から薬師如来の石像が出現し、「妙音山寛平法皇(=宇田法皇)剏建地
(そうけんち=創建地)」と彫られていたことから山号を「妙音山」としたとされています。
しかし、観音寺は創建後、徐々に衰退し、江戸時代初期になった延宝9年(1681)に、
宮中に出入りしていた摂津勝尾寺の僧・木食以空(もくじきいくう)によって再興されました。
木食とは、肉類,五穀を食べず、木の実や草などを食料として修行することで、
その修行を続ける高僧が木食上人です。
木食以空は、この地にあった聖徳太子作と伝わる十一面千手観世音菩薩を
本尊として中興開山しました。
天和2年(1682)に歓喜天(かんぎてん)が勝尾寺から遷され、鎮守として祀りました。
その際、住友家、鴻池家、三井家などの豪商から寄進があり、
また、第112代・霊元天皇から続けて東山天皇、中御門天皇の帰依を受け、寺は栄えました。
宝永4年(1707)には徳川第五代将軍・綱吉から寺領安堵と
諸役免除の朱印状が与えられました。

観音寺は元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変で、
長州藩の義勇隊が境内を占拠し、会津藩の攻撃により全山焼失しました。
事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像は難を逃れました。
明治13年(1880)に廃寺となった島本町の西観音寺から本堂、聖天堂、鐘楼などが
移築されて再興され、明治23年(1890)には三井、住友などの財閥からの支援を受け、
現在の姿に再建されました。

本堂には中央の厨子内に本尊の十一面千手観世音菩薩立像が安置され、
厨子は開扉されています。
左側に不動明王像とそれを囲うように四天王像が安置されています。
灯籠
本堂前の大灯籠は高さが3m余りあり、元禄3年(1690)に伊予の国
(現在の愛媛県)で発見された別子銅山で採掘された銅で鋳造されました。
元禄10年(1697)に京都発祥で当時は大坂を拠点としていた
住友家の三代目・友信によって寄進されました。
友信は岡山県の吉岡銅山や秋田県の阿仁銅山などの経営に乗り出し、
幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させました。
平成7年(1995)の阪神淡路大震災で一部損傷しましたが、
住友家と住友グループによって修復されました。
歓喜天の鳥居
本堂前の南側に鳥居が建ち、「歓喜天」と記された扁額が掲げられています。
聖天堂-1
本堂の南側の聖天堂のもので、聖天堂の前には礼堂があります。
聖天堂-2
聖天堂と礼堂とは金網で仕切られ、堂内は暗く仏像が安置されているのは見えますが
はっきりとはせず、秘仏の歓喜天像で無いことだけは確かです。

歓喜天はヒンドゥー教のガネーシャ(=群集の長)に起源を持ち、
ヒンズー教最高神の一柱・シヴァ神を父とし、シヴァの軍勢の総帥を務めたとされています。
古代インドでは、もともとは障害を司る神でしたが、やがて障害を除いて
財福をもたらす神として信仰されました。
仏教に帰依し、護法善神となったとして仏教に取り入れられるようになりました。

本尊の歓喜天の像容は頭が象で、首から下は人の姿とされ、男女二躯が
向かい合って抱擁されている陰陽和合の「男女合体神」で、秘仏とされています。
ガネーシャが象の頭を持つ理由には、「シヴァが帰還した際、ガネーシャが
シヴァだと知らずに入室を拒んだのでシヴァが激怒して
ガネーシャの首を切り落とし、投げ捨てました。
シヴァはガネーシャが自分の子と知り、首を探しに出かけたのですが見つからず、
象の首を切り落としてガネーシャの頭として取り付け
復活させた」との説があります。
仏教では「象は瞋恚強力(しんにごうりき)ありと雖(いえど)も、
能(よ)く養育者及び調御者に随(したが)ふ。」され、
歓喜天は帰依した人を裏切らないと信仰されています。

大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)では、
除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。

山崎聖天の歓喜天像には逸話が残されています。
廃仏毀釈の頃、寺を訪れた役人が歓喜天像に手をかけたところ、
その役人の子が池でおぼれ死んだと伝わります。
また、歓喜天像が黄金でできていると思い込んだ泥棒が、歓喜天像を盗み出し刀傷を付けました。
泥棒は山門で腰を抜かして捕まりましたが、刀傷は今も像の肩に二か所残されているそうです。
裏門
天王山への登山道
聖天堂の南側に裏門があり、裏門から出ると天王山への登山道となっています。
裏門-貼り紙
裏門には張り紙が...
土蔵
聖天堂前の南側にある土蔵は、禁門の変で唯一焼け残りました。
光明殿
光明殿は、仁和寺より移築されたもので、大正13年(1924)までは
浴油堂(よくゆどう)と称され、浴油供が修されていました。
現在では聖天堂で毎年11月10日から一週間、人肌に温められた
ごま油を歓喜天の像に108回注ぐ修法が行われています。
堂内には後水尾、明正、霊元、中御門天皇の位牌と東山天皇の坐像が祀られています。
鐘楼
鐘楼
梵鐘
梵鐘は桂昌院によって奉納され、四方に梵字が刻まれています。
薬師堂
開基薬師堂は、山号由来の開基薬師如来像が祀られています。
地蔵像
休憩所前には地蔵菩薩像が祀られています。
玄関
庫裏に隣接して南側に客殿があり、その玄関だと思われます。
二の鳥居
庫裏から仁王門、更に石段を下ると二の鳥居が建っています。
一の鳥居
車道を横断して石段を下り、阪急とJRのガードをくぐった先に一の鳥居が建っています。
山崎津跡
鳥居は西国街道に面し、西国街道を南に進み、一筋目を左折して東へ進んだ
マンションの玄関前に山崎津跡の説明板が立てられています。
現在の桂川の堤防からは500mくらい離れています。
昭和63年(1988)にマンション建設に先立つ発掘調査で、船着場の遺構が見つかりました。
山崎津は延暦3年(784)、長岡京造営に伴い設置されたと考えられています。

山崎津跡-絵図
絵図では上に描かれている瓦窯から港までの近さが把握でき、
舟を使えば大量の瓦も運べただろうと想像できます。
瓦窯跡
二の鳥居まで戻り、車道を南側へ進むと左側には「桜の広場公園」があり、
南側に隣接して瓦窯跡がありますが、現在は保存整備工事が行われています。
瓦窯跡-絵図
工事前には説明板が立てられ、絵図が掲載されていました。
実際には高槻の瓦窯の図で、大山崎はこれとは少し異なるようです。
大山崎瓦窯跡は、平成16年(2004)の発掘調査で発見され、国の史跡に指定されました。
平安京造営やその後の修理の際に瓦を
供給していた国営の瓦窯だったと推定されています。
蛇姫池
瓦窯跡から南へ進むと右側に蛇姫池があります。
幕末かそれ以前、若い娘がこの池に落ちて亡くなったそうで、
その後近在では不幸な事件が続きました。
蛇姫池-祠-1
村人が祠を建てて祀り、娘の霊を慰めると不幸は止んだと伝わり、
現在も祠が残されていますが、その数は三社に及びます。
禁門の変が起こり、この地でも長州藩と会津藩との戦闘で
この池の付近にも多くの戦死者が出たそうで、
その慰霊のために祠が新たに建てられたのかもしれません。
サギ
サギは池の魚を狙っているのでしょうか?
遠くを見つめて、物思いにふけっているようにも見えます。

駐車場まで戻り宝積寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

山崎院跡
観音寺から南へ進むと「山崎院跡」の石碑が建っています。
神亀2年(725)、行基は日本三古橋の筆頭として挙げられている
「山崎橋」を淀川に架橋しました。
その長さは3kmにも及び、対岸には「橋本」という地名が残されています。
天平3年(731)、行基は山崎にあった古寺を改修して「山崎院」を建立し、
橋の管理と仏教の布教を行いました。
山崎橋は洪水で損壊や流出が繰り返され、永承3年(1048)の
『宇治関白高野山御参詣記』の記述を最後に、
文禄元年(1592)に豊臣秀吉が再架橋するまで失われていました。
山崎院が何時頃迄橋の管理を行っていたかは不明で、
その後身が宝積寺とする説もあります。
昭和64年(1989)と平成11年(1999)に行われた発掘調査で奈良時代の
唐草文彩色壁画片、半丈六の如来形などの塑像片など
院に係わる多くの遺物が発掘されました。
登山口
石碑からJRの線路沿いに南へ進むと踏切があり、反対の山側が
宝積寺への参道及び天王山への登山口となり、石碑が建立されています。
山崎宗鑑
脇には山崎宗鑑の「霊泉連歌講跡」の碑が建ち、句碑が建てられています。
山崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧作者で、
幼少時から室町幕府9代将軍・足利義尚に仕えていたとされています。
長享元年(1487)の長享の乱で足利義尚は出陣したのですが、
長享3年(1489)3月に陣中で病死しました。
山崎宗鑑は出家し、山崎に庵「對月庵」を結び、
庵で霊泉連歌講を主催したとされています。
宗鑑は大永3年(1523)頃に山崎の地を去ったとされ、その後に對月庵が
寺に改められたのがJR山崎駅前の妙喜庵と伝わります。
句碑には「うつききて ねぶとに鳴や 郭公(ほととぎす)」と刻まれています。
ここから左に進めば聴竹居(ちょうちくきょ)があります。
昭和3年(1928)に建てられた環境共生住宅の原点といわれる建物で、
見学には予約が必要です。
予約はしていないので宝積寺の方へ向かいます。
大念寺-石段
坂道を少し上ると右側に大念寺への石段があります。
大念寺-本堂
本堂
大念寺は室町時代後期の弘治元年(1555)に創建されましたが、幕末の禁門の変で
長州藩の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失しました。
現在の本堂は明治12年(1879)に西観音寺の閻魔堂を移築して再建されました。

本尊の「阿弥陀如来立像」は像高80cmで、鎌倉時代の寛元元年(1243)に、
浄土宗西山派の派祖・証空(1177~1247)が臨終の際の念持物として造立されました。
その後各所を転々として明治になって大念寺に遷されました。
円仁が自刻したとされる真如堂の本尊を写したもので、拝観には予約が必要です。
仁王門
大念寺から更に坂道を上ると宝積寺(ほうしゃくじ)の仁王門がありますが、
車道は仁王門を迂回して駐車場へと続きます。
仁王門は安土・桃山時代に再建された三間一戸八脚門で、慶長10年(1605)頃に
豊臣家によって改築されたとも伝わり、府の文化財に指定されています。
仁王像-阿形
仁王像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
千手観音の眷属(けんぞく)である二十八部衆の仁王像で、
開口の阿形(あぎょう)像は、「密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)」像で、
像高は277.5cmです。
仁王像-吽形
口を結んだ吽形(うんぎょう)像は
「那羅延堅固王(ならえんけんごおう)」像で、像高は284.2cmです。
鐘楼
駐車場には鐘楼があり、「平成10年(1998)二月吉日 良縁成就 
待宵の鐘 室町時代 宝寺」と記されています。
「宝寺」とは宝積寺の通称です。
梵鐘
梵鐘は口径75cmで、永正16年(1519)の銘があります。
「待宵の鐘」と称され、島本町に墓がある待宵小侍従に由来しています。
不動堂
鐘楼の向かいにコンクリート造りの不動堂があり、不動明王が祀られていますが、
ガラス戸は施錠されています。
三重塔
参道に戻ると、北側に三重塔が建っています。
桃山時代の 天正12年(1584)に建立されたもので本瓦葺、高さ19.5mで、
国の重要文化財に指定されています。
「豊臣秀吉 一夜之塔」の駒札が立てられ、合戦の勝利祝いに、
秀吉が一夜で建立したという逸話が残されています。
三重塔の須弥壇には大日如来坐像が安置されています。
十七士の墓
三重塔の横には墓地があり、「殉国 十七士墓」の石碑が建っています。
禁門の変で、戦いに敗れ天王山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名は、
当初この宝積寺の三重塔前に葬られました。
墓参者の多さに幕府は怒り、墓を暴いて遺骸を竹薮に棄て、
寺領は没収されて3寺が焼かれました。
江戸幕府が倒れた明治元年(1868)に十七烈士の屍は、
天王山の山中へと移されました。
更に宝積寺は神仏分離令の廃仏毀釈により荒廃し、
明治5年(1872)には4院1坊は無量院の1院に合併されました。
本堂ー1
本堂
宝積寺は山号を天王山と号する真言宗智山派の寺院で、
標高270mの天王山の南側山腹にあります。
天王山の登山口であり、「天王山登頂証明書」を
100円が必要ですが発行してもらうことができます。
50枚集めれば「天王山グラス」が頂けるそうです。

宝積寺は神亀年間(724~729)に、聖武天皇の勅命を受けた行基により開創されました。
第45代・聖武天皇の夢枕に立った竜神が授かったとされる寺宝の
「打出」と「小槌」を祀ることから宝寺(たからでら)とも呼ばれています。
平安時代の天安2年(858)に、第55代・文徳天皇が
御物を奉納したことから「宝積寺」と称されました。
長徳年間(995~999)に天台宗の僧・寂照(じゃくしょう)によって中興されています。
寂照は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、
世をはかなんで出家し、その後宋に渡りましたが帰国できずに亡くなりました。
安土・桃山時代には織田信長が滞在し、石清水八幡宮修造の指揮をしました。
天正10年(1582)の山崎の合戦では、羽柴秀吉が本陣を置きました。

宝積寺は、貞永元年(1232)の火災で焼失しました。
現在の本堂はその後再建され、慶長11年(1605)に改築されて
京都府の登録文化財に登録されています。

本尊の木造「十一面観世音菩薩立像」は、焼失した翌年の
貞永2年(1233)に造立され、国の重要文化財に指定されています。
行基像
本堂の南側の縁には開山・行基菩薩像が安置されています。
出世石
本堂前の「秀吉 出世石」は、秀吉が座して天下統一を志したと伝わります。
九重石塔
本堂と小槌宮の間に建つ「九重石塔」には、鎌倉時代の仁治2年(1241)の銘文があり、
大山崎町文化財に指定されています。
塔は、聖武天皇の供養のために建てられ、京都府下では2番目に古いものです。
当初は五重だったのが、いつの頃か九重になりました。
小槌堂
小槌宮は、大黒天が祀られ、竜神が唐よりもたらしたとされる
「打出」と「小槌」が奉納されています。
小槌には伝承があり、聖武天皇がまだ皇子であった時に、竜神が夢枕に立ち、
小槌を出して「左の掌を打てば、計り知れない果報が授かる」と
言って天へ舞い上がって行きました。
皇子が目を覚ますと、枕元に小槌が置かれていて、それで左の掌を打ち、
即位することが叶ったとされています。
竜神を信じた聖武天皇は恵方である山崎の地に、
小槌を奉納し宝積寺を建立したと伝わります。
焔魔堂
閻魔堂はコンクリート造りで、西観音寺から遷された鎌倉時代作で、
重要文化財に指定されている閻魔大王と眷属(けんぞく)の五尊像が祀られています。
閻魔の法廷で書記を務める冥界の役人像が並べて安置され、
地獄の法廷が再現されています。
閻魔堂は有料(400円)で拝観できます。
宝積寺公式HPに記される眷属名は寺に伝わる名称で、実際には司録は五道転輪王、
司命は太山府君、倶生神は司命、闇黒童子は司録が本来の像名とみられます。

閻魔王坐像は像高160.9cmで、閻魔王は死後35日目の審理を行い、
亡者の生前の一挙手一投足が映し出される浄玻璃(じょうはり)の鏡で、
いかなる隠し事も見破るとされています。
嘘をついていたことが判明すれば舌を抜かれ、閻魔王により死者が
六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の何処に生まれ変わるかが決定されます。

五道転輪王坐像の像高は143.6cmで、五道転輪王は
三回忌で最後の裁きを行うとされています。

太山府君坐像の像高は122.4cmで、太山府君は十王の中に取り入れられ、
泰山王として死後49日目の審理を行うとされています。
この審理を終えるとそれぞれ六道と繋がる六つの鳥居が示されますが、
亡者はどれがどこに繋がっているかは分からず、
鳥居をくぐって初めて裁きが分かるようになっています。

司命像の像高は114.5cmで、司命は書巻をひもといて読む姿を表し、
閻魔王の判決を言い渡すとされています。

司録坐像の像高は110.5cmで、司録は筆と経巻を執る姿で表され、
閻魔王の判決を記録する書記官とされています。
弁天社
放生池には島があり、島には弁財天が祀られています。
水掛不動
池の畔には水掛不動尊が祀られています。
鎮守社
池から山側へ登ると鎮守社がありその右側には役行者が祀られています。

鎮守社の右側は天王山への登山道で、山頂へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ