宝積寺から天王山への登山道に入った直ぐ先に、アサヒビール美術館への
下り道があり、天王山への登山道を進めば木立の間から建物も見えてきます。
アサヒビール美術館は加賀證券(後に三菱UFJ証券と合併)を設立した
実業家・加賀正太郎の山荘を美術館としたものです。
加賀正太郎は現在のニッカウヰスキー株式会社の創業にも参画し、
同社の株を70%取得する筆頭株主でした。
株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山本為三郎に同社の株を売却している
ことから、アサヒビールが山荘の建物を復元・整備したのかもしれません。
美術館に納められているのは山本為三郎が収集したコレクションが中心となっています。
宝積寺から登山道を10分くらい歩くと、青木葉谷展望広場があります。
広場には「秀吉の道」の陶版画が建てられています。
山頂までの登山道は大山崎町により「秀吉の道」と名付けられ、
5枚の陶版画が建てられています。
原画は日本画家の岩井弘画伯が屏風絵として描いたもので、
広場には最初の「秀吉の中国大返し」の図が描かれています。
展望台からは見通しが良ければ、あべのハルカスや大阪城まで望めるそうです。
画像の左側から中央には三川が合流して一本の淀川となって流れています。
更に登山道を進むと観音寺からの登山道と合流します。
道標には観音寺も宝積寺からも同じ0.5kmと記されています。
道標のすぐ先に旗立松展望台があります。
展望台には、山崎の合戦で羽柴軍と
明智軍が布陣した図と説明文が記されています。
眼下には画面上下の名神高速道路と画面左右の京都縦貫道が立体交差し、
京都縦貫道の名神高速道路から左側が山崎合戦古戦場となっています。
その後方、直線距離で1km足らずの所、サントリービール工場の
裏辺りに明智軍の本陣が置かれました。
背後の山の左側が醍醐山です。
展望台付近に「山崎合戦之地」の石碑が建っています。
天王山では明智光秀の家臣・松田政近及び亀岡の並河城主・並河易家
(なみかわ やすいえ)の軍と天王山麓に布陣していた黒田孝高(通称=官兵衛)・
羽柴秀長との交戦がありました。
石碑の付近に「旗立松」が立っています。
羽柴秀吉が士気を高めるために軍旗を掲げたとされる松は、
明治の中頃に朽ちてしまい、その後松を植えても枯れてしまい、
現在の松は昭和63年(1988)に植えられた五代目になります。
登山道には酒解神社の鳥居が建っています。
鳥居をくぐった先に「頼みの諸将来たらず◆明智光秀の誤算」の図が建っています。
光秀が頼りにし、縁戚であった細川藤孝・忠興父子は「喪に服す」として剃髪、
中立の構えを見せ、光秀の出兵要請には応じませんでした。
また、光秀が普請目付として大規模な近世城郭とした大和郡山城の城主・筒井順慶は
秘密裏に秀吉側に寝返り、出兵せずに籠城しました。
その隣には「天下分け目の天王山◆勝負は川沿いで決まった」の図が建ち、
右側に羽柴軍、左側に明智軍が描かれています。
淀川沿いは湿地帯で沼が描かれ、秀吉の援軍が駆けつけています。
更に中央の上部から守りの手薄な所に秀吉軍が急襲しています。
鳥居をくぐってしばらく登ると左側に石段があります。
石段を登った所に十七烈士の墓があります。
元治元年7月19日(1864年8月20日)、長州藩勢は禁門の変を起こし、
会津藩主で京都守護職・松平容保(まつだいら かたもり)らの排除を目指して挙兵しました。
京都御所の蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突し、戦闘が勃発しました。
しかし、来島又兵衛は援軍に駆けつけた薩摩藩兵の狙撃を受け、自決しました。
久坂玄瑞、寺島忠三郎らは鷹司邸で自害し、入江九一は鷹司邸から脱出したところを、
越前藩士の槍に倒れました。
長州勢は長州藩屋敷に火を放って逃走し、真木和泉は敗残兵と共に天王山に
辿り着きましたが、他の勢力との合流に失敗しました。
真木和泉は敗残兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もりました。
21日に会津藩と新撰組に攻め込まれると、小屋に立て籠って火薬に火を放って自爆しました。
この変により尊王攘夷派の急進的指導者の大半が失われました。
毎年、10月21日には「天王山十七烈士招魂祭」が行われ、
真木和泉が自害の際に詠んだとされる和歌や漢詩が吟詠されるそうです。
十七烈士の墓から少し進むと、ポンプ室があり、その奥に酒解神社の末社である
厳島社の小さな祠があります。
横に置かれている太いパイプのようなものの詳細は不明です。
ポンプ室と何か関係があるのかもしれません。
しかし、太くて大きいです。
厳島社の先には、天照大神社・月讀社(つきよみしゃ)・蛭子社(ひるこしゃ)が
祀られた三社宮があります。
三社宮の先に陶版画「明智光秀の最後◆古い常識人の敗北」が建ち、
小栗栖の竹藪で落ち武者狩りの竹槍で討ち取られる場面が描かれています。
明智光秀は詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われ、織田信長の家臣となりました。
僅か4年で坂本城主となり、やがて丹波一国を領地とする
織田家屈指の有力武将にのし上がりました。
しかし、光秀は信長の改革の過激さに反発を感じるようになりました。
「古い常識にこだわる知識人の弱さ」と記されています。
陶版画の先に酒解神社が見えてきます。
石鳥居の柱の根元部分を残して上部は倒れてしまって失われています。
何か文字が刻まれていますが判読するのは困難でした。
壊れた鳥居から境内に入った左上方に神輿庫があります。
鎌倉時代後期に建立された切妻造り板倉式の建築物で、
国の重要文化財に指定されています。
板倉式とは、柱に溝を彫り、この神輿庫では14cmの厚板を落とし込む工法で、
鎌倉時代以降は次第に土蔵に代わっていったため、
酒解神社の神輿庫は現存する最古のものです。
神輿庫内には2基の神輿が納められています。
江戸時代の宝暦3年(1753)に3基の神輿が新造され、
内1基が関大明神社(せきだいみょうじんじゃ)に譲られました。
神輿庫と本殿との間には宮主社があり、足名稚命(あしなづちのみこと)と
手名椎命(てなづちのみこと)の夫婦神が祀られています。
二神は大山津見神(おおやまつみのかみ)の子で、
出雲国の肥の川の上流に住み八人の娘と共に暮らしていました。
しかし、毎年八俣遠呂智(やまたのおろち)がやって来るようになり、
その度に娘がさらわれ、食べられてしまいました。
最後に残った櫛名田比売(くしなだひめ)が八俣遠呂智の生贄にされようとした時に
素戔嗚尊(すさおのみこと)が現れ、素戔嗚尊は八俣遠呂智を退治し、
櫛名田比売を妻としました。
素戔嗚尊は須賀の地に宮殿を建て、足名稚命を宮の首長に任じて
稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)の名を
与えたとされています。
本殿
酒解神社は、正式には自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)と称し、
養老元年(717)建立の棟札が残されていることから奈良時代の創建と推定されています。
旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていました。
平安時代の『延喜式神名帳』では名神大社に列せられ、
月次、新嘗の官祭を預かっていました。
中世には離宮八幡宮の勢力が強まり、天王山の頂上近くに遷座されて
牛頭天王(こずてんのう)を祀る「山崎天王社」と呼ばれるようになりました。
天王山は、元は「山崎山」と呼ばれていましたが、同社に因んで
「天王山」と呼ばれるようになりました。
山崎天王社の社殿は、江戸時代の文化10年(1813)に大部分を焼失し、
文政3年(1820)に再建されました。
明治10年(1877)6月、山崎天王社は「自玉手祭来酒解神社」に改称しました。
現在の祭神・酒解神、素戔嗚尊他九柱はそのときに定められました。
国の有形文化財に指定された現在の本殿は、雨漏りがするのでしょうか?
前面がブルーシートで覆われています。
酒解神社は現在では離宮八幡宮によって管理されているそうで、
朱印も離宮八幡宮で授与されます。
本殿前に拝殿があり、本殿と拝殿の間を登山道が横切っています。
拝殿は鉄骨で補強されています。
本殿の右側には後見社があり、大己貴命(おおなむちのみこと=
大国主命)が祀られています。
酒解神社の200m先に、山頂と小倉神社への三叉路があり、
山頂まで残り100mの急坂を登ります。
標高270mの天王山の山頂です。
最後の陶版画「秀吉の天下人への道はここから始まった」が建てられています。
天王山には南北朝時代の延元3年/暦応元年(1338)に城が築かれていた記録が残され、
南朝側の赤松範資(あかまつ のりすけ)が城に入りました。
しかし、建武の新政で赤松範資は後醍醐天皇から冷遇されたため足利尊氏に与し、
室町幕府成立後には尊氏から摂津守護に任じられました。
応仁元年(1467)に起こった応仁・文明の乱では、天王山の山城は東軍によって支配され、
乱後の文明14年(1482)には細川勝元の子・政元が城に入りました。
大永7年(1527)の桂川原の戦いで、管領・細川高国に対して波多野元清と
柳本賢治(やなぎもと かたはる)は反旗を翻し、波多野軍は山崎城を攻撃して
城に詰めていた摂津守護代・薬師寺国長を高槻城への逃亡へと追い込みました。
細川晴元に出陣を命じられた三好長家、三好政長は山崎城で波多野軍と合流し、
桂川を挟んで細川高国軍と対峙しました。
合戦は波多野・三好連合軍が勝利し、細川高国は
第12代将軍・足利義晴を奉じて坂本へ逃げ去りました。
天文7年(1538)に細川晴元は城を修造し、翌年起こった
三好長慶(みよし ながよし)と三好政長の同族争いで、
晴元は政長に肩入れしたため三好長慶の攻撃に備えました。
六角定頼の仲介で大規模な戦闘には至らず、小競り合いで収まりました。
天正10年(1582)の山崎の合戦では、明智光秀軍は一時城に入りました。
しかし、なぜか光秀軍は勝竜寺城へ撤退し、
翌日には羽柴軍が布陣し、優勢となりました。
合戦後のその年、秀吉は天王山(山崎山)に山崎城を築城し、本拠としました。
城には天守台が備わり、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣されました。
しかし、天正11年(1583)には大坂城が築かれ、秀吉の本拠が移されたことから、
天正12年(1584)に山崎城は廃城となりました。
山頂から南側に少し下ると、広く平地に整地されています。
平地の少し東側には井戸跡が残され、雨水を溜めて利用していたと考えられています。
更に東側に行くと石仏が祀られています。
山頂から小倉神社の方へ下ると石仏が祀られています。
平成8年(1996)に竹藪や落ち葉に埋もれていた石仏が
この場所に集められ、祀られています。
更に下ると登山道の右側に池が見えます。
龍が池に舞い降りたとの伝承があり、「龍神池」と称されています。
かって、池の畔には竜王神社があり、円明寺村の鎮守として祀られていましたが、
江戸時代の末期に小倉神社へ遷されました。
水利が悪く水に苦しんでいた円明寺村の村民は、その社で雨乞いを行い、
その風習は昭和10年(1935)頃まで続いていました。
登ってきた宝積寺の方へ下山して離宮八幡宮へ向かいます。
続く
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