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アサヒビール美術館
宝積寺から天王山への登山道に入った直ぐ先に、アサヒビール美術館への
下り道があり、天王山への登山道を進めば木立の間から建物も見えてきます。
アサヒビール美術館は加賀證券(後に三菱UFJ証券と合併)を設立した
実業家・加賀正太郎の山荘を美術館としたものです。
加賀正太郎は現在のニッカウヰスキー株式会社の創業にも参画し、
同社の株を70%取得する筆頭株主でした。
株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山本為三郎に同社の株を売却している
ことから、アサヒビールが山荘の建物を復元・整備したのかもしれません。
美術館に納められているのは山本為三郎が収集したコレクションが中心となっています。
絵図-秀吉の中国返し
宝積寺から登山道を10分くらい歩くと、青木葉谷展望広場があります。
広場には「秀吉の道」の陶版画が建てられています。
山頂までの登山道は大山崎町により「秀吉の道」と名付けられ、
5枚の陶版画が建てられています。
原画は日本画家の岩井弘画伯が屏風絵として描いたもので、
広場には最初の「秀吉の中国大返し」の図が描かれています。
青木展望台-写真
展望台からは見通しが良ければ、あべのハルカスや大阪城まで望めるそうです。
青木展望台-三川合流
画像の左側から中央には三川が合流して一本の淀川となって流れています。
観音寺との合流
更に登山道を進むと観音寺からの登山道と合流します。
道標には観音寺も宝積寺からも同じ0.5kmと記されています。
旗立松展望台
道標のすぐ先に旗立松展望台があります。
旗立松展望台-布陣図
展望台には、山崎の合戦で羽柴軍と
明智軍が布陣した図と説明文が記されています。
旗立松展望台からの眺望
眼下には画面上下の名神高速道路と画面左右の京都縦貫道が立体交差し、
京都縦貫道の名神高速道路から左側が山崎合戦古戦場となっています。
その後方、直線距離で1km足らずの所、サントリービール工場の
裏辺りに明智軍の本陣が置かれました。
背後の山の左側が醍醐山です。
合戦の碑
展望台付近に「山崎合戦之地」の石碑が建っています。
天王山では明智光秀の家臣・松田政近及び亀岡の並河城主・並河易家
(なみかわ やすいえ)の軍と天王山麓に布陣していた黒田孝高(通称=官兵衛)・
羽柴秀長との交戦がありました。
旗立松
石碑の付近に「旗立松」が立っています。
羽柴秀吉が士気を高めるために軍旗を掲げたとされる松は、
明治の中頃に朽ちてしまい、その後松を植えても枯れてしまい、
現在の松は昭和63年(1988)に植えられた五代目になります。
酒解神社-鳥居
登山道には酒解神社の鳥居が建っています。
絵図-頼みの諸将来たらず
鳥居をくぐった先に「頼みの諸将来たらず◆明智光秀の誤算」の図が建っています。
光秀が頼りにし、縁戚であった細川藤孝・忠興父子は「喪に服す」として剃髪、
中立の構えを見せ、光秀の出兵要請には応じませんでした。
また、光秀が普請目付として大規模な近世城郭とした大和郡山城の城主・筒井順慶は
秘密裏に秀吉側に寝返り、出兵せずに籠城しました。
絵図-天下分け目の天王山
その隣には「天下分け目の天王山◆勝負は川沿いで決まった」の図が建ち、
右側に羽柴軍、左側に明智軍が描かれています。
淀川沿いは湿地帯で沼が描かれ、秀吉の援軍が駆けつけています。
更に中央の上部から守りの手薄な所に秀吉軍が急襲しています。
十七烈士の墓への石段
鳥居をくぐってしばらく登ると左側に石段があります。
十七烈士の墓
石段を登った所に十七烈士の墓があります。
元治元年7月19日(1864年8月20日)、長州藩勢は禁門の変を起こし、
会津藩主で京都守護職・松平容保(まつだいら かたもり)らの排除を目指して挙兵しました。
京都御所の蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突し、戦闘が勃発しました。
しかし、来島又兵衛は援軍に駆けつけた薩摩藩兵の狙撃を受け、自決しました。
久坂玄瑞、寺島忠三郎らは鷹司邸で自害し、入江九一は鷹司邸から脱出したところを、
越前藩士の槍に倒れました。
長州勢は長州藩屋敷に火を放って逃走し、真木和泉は敗残兵と共に天王山に
辿り着きましたが、他の勢力との合流に失敗しました。
真木和泉は敗残兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もりました。
21日に会津藩と新撰組に攻め込まれると、小屋に立て籠って火薬に火を放って自爆しました。
この変により尊王攘夷派の急進的指導者の大半が失われました。
毎年、10月21日には「天王山十七烈士招魂祭」が行われ、
真木和泉が自害の際に詠んだとされる和歌や漢詩が吟詠されるそうです。
厳島社
十七烈士の墓から少し進むと、ポンプ室があり、その奥に酒解神社の末社である
厳島社の小さな祠があります。
パイプ
横に置かれている太いパイプのようなものの詳細は不明です。
ポンプ室と何か関係があるのかもしれません。
しかし、太くて大きいです。
三社宮
厳島社の先には、天照大神社月讀社(つきよみしゃ)・蛭子社(ひるこしゃ)が
祀られた三社宮があります。
絵図-光秀の最後
三社宮の先に陶版画「明智光秀の最後◆古い常識人の敗北」が建ち、
小栗栖の竹藪で落ち武者狩りの竹槍で討ち取られる場面が描かれています。
明智光秀は詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われ、織田信長の家臣となりました。
僅か4年で坂本城主となり、やがて丹波一国を領地とする
織田家屈指の有力武将にのし上がりました。
しかし、光秀は信長の改革の過激さに反発を感じるようになりました。
「古い常識にこだわる知識人の弱さ」と記されています。
酒解神社-倒れた鳥居
陶版画の先に酒解神社が見えてきます。
石鳥居の柱の根元部分を残して上部は倒れてしまって失われています。
何か文字が刻まれていますが判読するのは困難でした。
酒解神社-神輿庫
壊れた鳥居から境内に入った左上方に神輿庫があります。
鎌倉時代後期に建立された切妻造り板倉式の建築物で、
国の重要文化財に指定されています。
板倉式とは、柱に溝を彫り、この神輿庫では14cmの厚板を落とし込む工法で、
鎌倉時代以降は次第に土蔵に代わっていったため、
酒解神社の神輿庫は現存する最古のものです。

神輿庫内には2基の神輿が納められています。
江戸時代の宝暦3年(1753)に3基の神輿が新造され、
内1基が関大明神社(せきだいみょうじんじゃ)に譲られました。
酒解神社-宮主社
神輿庫と本殿との間には宮主社があり、足名稚命(あしなづちのみこと)と
手名椎命(てなづちのみこと)の夫婦神が祀られています。
二神は大山津見神(おおやまつみのかみ)の子で、
出雲国の肥の川の上流に住み八人の娘と共に暮らしていました。
しかし、毎年八俣遠呂智(やまたのおろち)がやって来るようになり、
その度に娘がさらわれ、食べられてしまいました。
最後に残った櫛名田比売(くしなだひめ)が八俣遠呂智の生贄にされようとした時に
素戔嗚尊(すさおのみこと)が現れ、素戔嗚尊は八俣遠呂智を退治し、
櫛名田比売を妻としました。
素戔嗚尊は須賀の地に宮殿を建て、足名稚命を宮の首長に任じて
稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)の名を
与えたとされています。
酒解神社-本殿-
本殿
酒解神社は、正式には自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)と称し、
養老元年(717)建立の棟札が残されていることから奈良時代の創建と推定されています。
旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていました。
平安時代の『延喜式神名帳』では名神大社に列せられ、
月次、新嘗の官祭を預かっていました。
中世には離宮八幡宮の勢力が強まり、天王山の頂上近くに遷座されて
牛頭天王(こずてんのう)を祀る「山崎天王社」と呼ばれるようになりました。
天王山は、元は「山崎山」と呼ばれていましたが、同社に因んで
「天王山」と呼ばれるようになりました。
山崎天王社の社殿は、江戸時代の文化10年(1813)に大部分を焼失し、
文政3年(1820)に再建されました。
酒解神社-本殿-2
明治10年(1877)6月、山崎天王社は「自玉手祭来酒解神社」に改称しました。
現在の祭神・酒解神、素戔嗚尊他九柱はそのときに定められました。
国の有形文化財に指定された現在の本殿は、雨漏りがするのでしょうか?
前面がブルーシートで覆われています。
酒解神社は現在では離宮八幡宮によって管理されているそうで、
朱印も離宮八幡宮で授与されます。
酒解神社-拝殿
本殿前に拝殿があり、本殿と拝殿の間を登山道が横切っています。
酒解神社-拝殿内部
拝殿は鉄骨で補強されています。
酒解神社-後見社
本殿の右側には後見社があり、大己貴命(おおなむちのみこと=
大国主命)が祀られています。
山頂手前の道標
酒解神社の200m先に、山頂と小倉神社への三叉路があり、
山頂まで残り100mの急坂を登ります。
山頂-1
山頂-2
標高270mの天王山の山頂です。
絵図-天下人秀吉
最後の陶版画「秀吉の天下人への道はここから始まった」が建てられています。

天王山には南北朝時代の延元3年/暦応元年(1338)に城が築かれていた記録が残され、
南朝側の赤松範資(あかまつ のりすけ)が城に入りました。
しかし、建武の新政で赤松範資は後醍醐天皇から冷遇されたため足利尊氏に与し、
室町幕府成立後には尊氏から摂津守護に任じられました。
応仁元年(1467)に起こった応仁・文明の乱では、天王山の山城は東軍によって支配され、
乱後の文明14年(1482)には細川勝元の子・政元が城に入りました。

大永7年(1527)の桂川原の戦いで、管領・細川高国に対して波多野元清と
柳本賢治(やなぎもと かたはる)は反旗を翻し、波多野軍は山崎城を攻撃して
城に詰めていた摂津守護代・薬師寺国長を高槻城への逃亡へと追い込みました。
細川晴元に出陣を命じられた三好長家、三好政長は山崎城で波多野軍と合流し、
桂川を挟んで細川高国軍と対峙しました。
合戦は波多野・三好連合軍が勝利し、細川高国は
第12代将軍・足利義晴を奉じて坂本へ逃げ去りました。

天文7年(1538)に細川晴元は城を修造し、翌年起こった
三好長慶(みよし ながよし)と三好政長の同族争いで、
晴元は政長に肩入れしたため三好長慶の攻撃に備えました。
六角定頼の仲介で大規模な戦闘には至らず、小競り合いで収まりました。

天正10年(1582)の山崎の合戦では、明智光秀軍は一時城に入りました。
しかし、なぜか光秀軍は勝竜寺城へ撤退し、
翌日には羽柴軍が布陣し、優勢となりました。
合戦後のその年、秀吉は天王山(山崎山)に山崎城を築城し、本拠としました。
城には天守台が備わり、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣されました。
しかし、天正11年(1583)には大坂城が築かれ、秀吉の本拠が移されたことから、
天正12年(1584)に山崎城は廃城となりました。
山頂南側の平地
山頂から南側に少し下ると、広く平地に整地されています。
井戸跡
平地の少し東側には井戸跡が残され、雨水を溜めて利用していたと考えられています。
山頂付近の石仏
更に東側に行くと石仏が祀られています。
納集仏
山頂から小倉神社の方へ下ると石仏が祀られています。
平成8年(1996)に竹藪や落ち葉に埋もれていた石仏が
この場所に集められ、祀られています。
龍神池
更に下ると登山道の右側に池が見えます。
龍が池に舞い降りたとの伝承があり、「龍神池」と称されています。
かって、池の畔には竜王神社があり、円明寺村の鎮守として祀られていましたが、
江戸時代の末期に小倉神社へ遷されました。
水利が悪く水に苦しんでいた円明寺村の村民は、その社で雨乞いを行い、
その風習は昭和10年(1935)頃まで続いていました。

登ってきた宝積寺の方へ下山して離宮八幡宮へ向かいます。
続く

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妙喜庵
JR山崎駅前に妙喜庵があります。
妙喜庵は山号を豊興山と号する臨済宗東福寺派の寺院で、妙喜禅庵とも称します。
室町時代の明応年間(1492~1501)に、江戸時代末期までこの地にあった
地蔵寺の塔頭として、春嶽士芳により開創されたと伝わります。
また、戦国時代の連歌師・俳諧作者であった山崎宗鑑がこの地で結んだ庵
「對月庵」を、宗鑑が大永3年(1523)頃に山崎の地を去る際に春嶽士芳に譲り、
妙喜庵になったとの説もあります。

天正10年(1582)の山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、
天王山に山崎城を築き、本拠としました。
天王山から宝積寺一帯にかけて陣が敷かれ、陣内に千利休に命じて
茶室「待庵(たいあん)」を造らせました。
待庵はにじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型であり、数奇屋建築の原型です。
日本最古の茶室建造物で、国宝に指定されています。
天正11年(1583)には大坂城が築かれて秀吉は大坂に移り、
待庵は解体して移築されました。
慶長11年(1606)に描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに
「かこひ」(囲い)の書き込みがあり、この時には
既に現在地に移築されていたと考えられています。
また、「宝積寺絵図」には現在の島本町の宗鑑旧居跡付近に「宗鑑やしき」と
「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたと推定されています。

重要文化財に指定されている書院は室町時代の文明年間(1469~1487)に
妙心寺の霊雲院書院を模して建てられたとされ、山崎宗鑑の旧居とも伝わります。
書院前の庭にある松の切り株は、かって「袖摺(そですり)の松」と呼ばれ、
利休を訪れた秀吉の衣の袖が、松に触れたことから名付けられました。
枯れ死した松からは「老松の茶杓」が作られたと伝わります。
妙喜庵ー拝観謝絶
妙喜庵の前には「拝観謝絶」の紙が張られ、
拝観には一か月以上前に往復はがきで予約が必要です。
予約していない場合は、近くの大山崎町歴史資料館に創建当時の「待庵」を
原寸大で復元された模型が、国宝の指定はありませんが展示されています。
(入館料200円、館内の撮影禁止)
東門
山崎駅前通りを東へ進んだ西国街道に面して離宮八幡宮があります。
駅に近い東門は、兵火を免れた江戸時代のもので、
大山崎町指定文化財になっています。
旧社務所
東門から入った右側に旧社務所があります。
惣門
西国街道に面した惣門も兵火を免れた江戸時代のもので、
大山崎町の文化財に指定されています。
惣門の左側が駐車場への入口となります。
神馬像
惣門から入った右側に神馬像が奉納されています。
かしき石
神馬像の左側には奈良時代以前に制作されたと推定されている、
塔の心柱を支えた礎石(塔心礎)が置かれています。
「かしき石」と称され、最大幅は約266cm、中央の心柱を立てる柱座は
短径106cm、長径110cmあり、柱座の中央には直径約20cm、
深さ約35cmと推定される舎利孔が設けられています。
七世紀の山崎廃寺、八世紀前半の山崎院、或いは九世紀中期の
相応寺のものかと推定されています。
後年、柱座部分を扇形に掘り込み、離宮八幡宮で手水鉢として使用されていました。
現在、この石は大山崎町の文化財に指定されています。
鳥居
境内の中央には鳥居が建っています。
鳥居の正面、石段上には中門があり、右側には新しく社務所が建てられています。
河陽宮の碑
鳥居の右側には「河陽宮(かやのみや)故址」の碑が建っています。
嵯峨天皇はこの地を「河陽」と名付け、離宮を設けました。
『日本後紀』の弘仁4年(813)2月16日の条に「山埼駅を行宮となす」との記述があり、
かって、この地には山崎駅が置かれ、人馬の中継などが行われていました。
山崎駅の建物を整備し、河陽宮としたとされ、かってはその東側に相応寺があり、
相応寺の先に山崎橋が架橋されていました。
大山崎町歴史資料館には当時のジオラマが再現されています。
承平4年(934)12月21日、土佐守の任を終えた紀貫之は、土佐国の国府を出発し、
翌年の2月15日に山崎の津へ降り立ちましたが、上陸前に船から見えた
相応寺の塔などについて日記に記されています。
本邦製油発祥の地
その碑の背後には「本邦製油発祥地」の碑が建っています。
貞観年間(859~877)に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を
発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始めました。
日本の製油発祥地とされ、鎌倉時代前期から戦国時代末期にかけては油は
「大山崎油座」により広範囲に渡って独占販売されていました。
油祖像
油祖像
「大山崎油座」の構成員は主として離宮八幡宮の神人
(じにん=寺社の雑役を行う人)であり、石清水八幡宮内殿への灯油貢納及び
日使神事(ひのとしんじ=八幡宮の例祭)の頭役などを本務としました。
朝廷や室町幕府からは関所の通行料や津(港)の使用料が免除されるなどの特権、
原料仕入れや販売の独占権が与えられました。
その活動範囲は東海、瀬戸内、四国、九州にまで及び、「大山崎油座」は栄えました。
しかし、応仁元年(1467)に起こった応仁・文明の乱では山崎にも戦火が及び、
その後の戦国大名の出現で、朝廷や幕府の権威は失墜し、
特権の維持が困難となりました。
豊臣政権下で座は解体され、「大山崎油座」も終焉を迎えました。
全国油脂販売店標識
「全国油脂販売店標識」は、全国油脂販売業者共通の店頭標識として、
離宮八幡宮遷座1100年記念大祭施行の際に制定されました。
手水舎
鳥居の左の手水舎には「石清水」と掲げられています。
石灯籠
その先にある石灯籠には「石清水八幡宮」の名が残されています。
拝殿
中門をくぐると、正面に拝殿があります。
大和大安寺の僧・行教和尚は天安2年(858)に藤原良房の外孫・惟仁親王
(後の清和天皇)の即位を祈祷するため、九州の宇佐八幡宮へ派遣されました。
しかし、惟仁親王は同年8月27日(858年10月7日)に第56代天皇として即位したため、
翌貞観元年(859)、改めて天皇護持のため宇佐八幡宮に90日間参篭しました。
行教和尚はこの時神託を受け、平安京の守護神として宇佐神宮から
分霊を持ち帰ったのですが、帰途山崎津で霊光を見、その地より
石清水が湧き出たのを、帰京後に天皇に奏上しました。
清和天皇の勅命により、山崎の地に国家鎮護のため、
「石清水八幡宮」が創建されました。
嵯峨天皇の離宮・河陽宮の跡地に因み、「離宮八幡宮」と称されましたが、
八幡宮はその後男山に遷座され、石清水八幡宮の元社とされました。

鎌倉時代から戦国時代には「大山崎油座」が結成され、荏胡麻油の販売独占権を
得たことにより離宮八幡宮は壮大な社殿を構え、栄華を極めました。
しかし、織田信長の「楽市楽座」の制度により「大山崎油座」は衰退し、
南蛮貿易が盛んになると、それまで食用とされていた
菜種から搾油する技術がもたらされました。
菜種油は荏胡麻油に比べてはるかに優れた燈明油であったため
一層普及するようになり、「大山崎油座」は終焉を迎えることになりました。
慶長6年(1601)、徳川家康は社領700石を寄進し、寛永11年(1634)には
境内が拡張され、翌年には第3代将軍・家光の命により、勝竜寺城主・永井直清が
社殿の大修理を行いました。
元禄10年(1697)、石清水八幡宮との間に呼称や支配関係についての対立が起こり、
離宮八幡宮側は「石清水」の使用ができなくなりました。

元治元年(1864)に起こった禁門の変では、山崎に長州藩の頓宮があったため、
幕府軍の攻撃を受け被災しました。
水瀬川から円明寺に及んだ広大な神領は焼け野原となり、
廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲されました。
更に明治4年(1871)には国策により境内の大半が鉄道用地と化したため、
神領の規模は大幅に縮小されました。
境内には「室町時代のものと推定される2基の神領境標石が残されています。
明治12年(1879)、現在の社殿が再建され、昭和4年(1929)に改築されています。
昭和60年(1985)には日使頭祭(ひのとさい)が復活し、
毎年4月初旬に執り行われています。
本殿
本殿には八幡神である応神天皇、左殿に酒解大神、右殿に比売三神
(ひめさんしん)が祀られています。
現在は天王山の山中にある自玉手祭来酒解神社
(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)は、
山崎の氏神でかってはこの地にありました。
八幡神が勧請された際は酒解神社の神主が迎えました。
その時以来、酒解大神は八幡宮神殿に祀られるようになりました。
石清水ー1
本殿の左側に石清水が湧き出ています。
石清水ー2
行教和尚が山崎の津で霊光を見、その場所を掘ると岩間から清水が湧き出たと伝わり、
現在地に社殿が建てられたとされています。
更に行教和尚が御神体を祀る場所を問うと、淀川対岸の男山に光り輝くものが見え、
「男山の峰なり」とのお告げがあったと伝わり、現在の石清水八幡宮が創建されました。
手水鉢
石清水の左側の手水鉢は、江戸時代初期の寛永11年(1635)に、勝竜寺城主であった
永井日向守大江直清が幕府の命令で造営奉行として、
離宮八幡宮の造替の指揮に当たり、奉献したものです。
元治元年(1864)の禁門の変による兵火で焼けたため大きな
騰裂があって現在は使われていません。
表面には「寛永十一年十二月 永井日向守大江直清」の署名が残っています。
境内社ー西
境内の西側には右から武内社、天照皇太神社、蛭子神社、
鹿島神社、気比宮が祀られています。
境内社ー南
境内の南側には右から高天宮神社・住吉神社・稲荷神社の三社殿、
小禅師宮、勝手神社、腰掛天神社が祀られています。
道真腰掛石
腰掛天神社の左側には「菅原道真腰掛け石」があります。
道真が大宰府へ左遷された際、西国街道脇の石に座して休息されたと伝わり、
「君が住む 宿の梢を ゆくゆくと 隠るるまでも 返り見しはや」と
京に残された妻あてに詠まれたとされています。
塔礎石
境内社に取り囲まれるように配置されている4列に並べられた16個の礎石は、
かって建立されていた宝塔のものと記録に残されています。
境内社ー中間
礎石の左側には高良社が祀られ、その左側は「三社さん」と呼ばれています。
境内社ー本殿右
本殿の右側には若宮社が祀られています。
本殿の右側の社務所では酒解神社の御朱印も授与されています。

関大明神社(せきだいみょうじんじゃ)へ向かいます。
続く

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関大明神社
西国街道は、離宮八幡宮でクランク状に曲がり、京都府と大阪府の境になっています。

その境、大阪府島本町側に関大明神社(せきだいみょうじんじゃ)があります。
この地は古くは、交通の要衝として関所「山崎関」が設置されたことから、
この「関」が関大明神社の名前の由来となりました。

また、「四角四境祭(畿内堺十処疫神祭)」が行われたとされています。
仏教や儒教と共に伝わった陰陽道により、平安京に悪霊や疫病の侵入を防ぐため、
四つの国境で執り行われた国家による重要な官祭でした。
陰陽寮の官僚により、東海道の逢坂、東山道の和邇(わに)、
竜華(りゅうげ=大津市途中町)、山陰道の大江(老の坂峠)、
そして当地、山陽道の山崎の関で行われていました。
関所は平安時代に廃止され、「関戸院」として貴族や官人の
宿泊施設に使われたといいます。
その後の変遷は不明で、関大明神社の創建も定かではありませんが、
現在の関大明神社は、関所の跡地に建立されています。
関大明神社-本殿
本殿は室町時代の建立と推定されています。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と天児屋根命
(あめのこやねのみこと)又は大智明神。
関大明神社-神輿庫
神輿庫
江戸時代の宝暦3年(1753)に、酒解神社から三基の神輿の内一基を譲り受け、
神輿庫に保管されています。
府県境
関大明神社の横には「従是 東山城國」と刻字された石碑が建ち、
間に流れる小さな川が府境になっているとのことです。
山崎宗鑑旧居跡
関大明神社の向かいの建物が山崎宗鑑の旧居跡とされていますが、
一般公開はされていないようで、詳細は不明です。
建物
西国街道を南へ進むとJRの西谷踏切があり、それを渡った所に
サントリー山崎蒸溜所があります。
サントリー山崎蒸溜所の記事は平成28年(2016)のものです。
工場見学には予約が必要で、同社HPから行うことができます。
見学コースには、無料と有料(1,000円または2,000円)があり、有料のコースは
工場見学と「山崎」及び山崎構成原酒のテイスティングが付いています。
仕込み
工場見学は、まずエレベーターで二階に上がります。
最初に訪れるのが、「仕込み(糖化)」と呼ばれる行程です。
原料
原料である二条大麦と山崎の水を温め、麦芽中の酵素の働きで、
でんぷんを糖分に変えます。
これをろ過して、発酵にむかう為の麦汁がつくられます。
仕込みに使われている釜は、一階から二階に達する大きなものです。
発酵
仕込みの向かいの「発酵」の行程は、
ガラスで仕切られた中で行われています。
ここでは、仕込みで作った麦汁をアルコール分約7%の発酵液に変えます。
発酵中の麦汁に酵母を加えると、酵母は麦汁中の糖分を分解し、アルコールと
炭酸ガスに変え、ウイスキー特有の香味成分がつくられます。
酵母の種類や発酵条件によって香りなどに特長がでます。
発酵は約60時間かけて行われ、これでできた発酵液をもろみと呼び、
この段階でのアルコール分は約7%です。
ポットスチルの列
次の部屋では、蒸溜が行われています。
ここでは、発酵の終わったもろみを銅製のポットスチルにいれて、
アルコール濃度を高めます。
通路を挟んで、銅製のポットスチルと呼ばれる単式蒸溜器が左右に並んでいます。
ポットスチルの列-左
向かって左側では、一回目の初溜が行われています。
右側では二回目の再溜が行われ、アルコール濃度は65~70%に高められます。
ポットスチル
ポットスチルは、形と大きさ、そして蒸溜方法・
加熱方式を違え、様々なタイプのモルト原酒がつくられています。
この生まれたばかりのウイスキーはニューポットと呼ばれています。
樽の列
貯蔵庫は、別の建物でずら~っと並んだ樽の多さに圧倒されます。
樽の種類
蒸溜で出来たニューポットを樽の中で
長期間じっくり寝かせるのですが、
樽には樽材や大きさに種類があります。
樽の内面は、焼かれているのですが、
その焼き方にも違いがあり、更に気温や湿度などによって
熟成の度合いが微妙に変化します。
樽の中
透明だったニューポットが、年月を経るごとに、琥珀色が濃くなり、
密度が凝縮されるかのように樽の中の量が減っていきます。
これは、「天使の取り分」と呼ばれるそうです。
長期間の熟成では、樽の蓋が膨らんだりして、原酒の力強さが感じられます。
庭園
貯蔵庫を出たところに庭園があり、「山崎の水」が湛えられています。
ここから一旦工場外へ出て、テイスティングが行われる部屋へと向かいます。
テイステイング
テイスティングでは、市販の「山崎」、ホワイトオーク材の樽とワイン樽で熟成された
原酒の色や香り、そして味わいの違いを感じます。
ホワイトオーク材の樽とワイン樽では、ワイン樽の方が色が濃く、
香りはホワイトオーク材の樽ではフルーティーで、
ワイン樽は若干の酸味を感じました。
原酒なのでアルコール濃度は65%以上あり、同量の水を加えて味を確かめます。
山崎
そして、山崎の天然水でつくられたソーダ水と「山崎」でハイボールをつくり味わいました。
左端のソーダ水の瓶がその時のものです。
売店でお土産を買って、工場見学を終了しました。
椎尾神社-一の鳥居
サントリー山崎蒸溜所から山側へ進んだ所に椎尾神社があり、
一の鳥居が建立されています。
椎尾神社-二の鳥居
参道を進むと二の鳥居が建っています。
椎尾神社-手水舎
鳥居をくぐった先には石段があり、その手前に手水舎があります。
水車
手水舎の向かいに小さな水車が設置されていますが、
現在は水車は回転していませんでした。
椎尾神社-拝殿
石段を登った正面に拝殿があります。
すぐたからでらの碑
拝殿の右側に石段があり、その脇に「すぐたからでら」と刻まれた石碑が建っています。
右たからでらの碑
その横には「右たからでら三町 てん王九町」の碑が建てられ、
本殿の奥に天王山への登山道があります。
椎尾神社-境内社-朱
石段を登った所に朱塗りの社殿がありますが、詳細は不明です。
五八郎稲荷-1
五八郎稲荷-2
北側には五八郎稲荷大神が祀られています。
椎尾神社-本殿
本殿は覆屋の中に納められています。
かって、この地の「閼伽谷(あかだに)」で役行者が修行し、呪術で閼伽を湛え、
堂前の滝に不動明王を安置し、山上に弁才天社を勧請したと伝わります。
その後、天平18年(746)に聖武天皇の勅を受けた行基が西観音寺を創建しました。
創建当初の西観音寺は、現在地より西南の方角にあり、寺域には
大谷、中谷、閼伽谷の3つの谷があったことから「谷の観音」とも呼ばれました。
本尊は、聖武天皇の念持仏であった像高一寸八分(約5.4cm)の十一面千手観音菩薩で、
閻浮檀金(えんぶだごん=想像上の金の名称で、
最も優れたもの)の像であったとされています。
脇時には左に不動明王、右に毘沙門天が安置されていました。

境内の入り口付近に閻魔堂があり、小野篁(おの の たかむら)が自作した
十王像が安置されていました。
小野篁は3組の十王像を刻み、西観音寺の他に越中国中野と
筑後国古津郡に安置されたと伝わります。

西観音寺はその後、寛弘年間(1004~1012)に焼失し、
久寿元年(1154)に河内の豪族・八戸重忠によって再建されました。
再建された西観音寺には水瀬離宮から後鳥羽上皇も参拝されたと伝わり、
上皇の崩御後は西観音寺で毎年命日の2月22日に
御忌仏事(ぎょきぶつじ)が行われていました。

江戸時代初期には総門、七間四面の本堂、法華堂、経蔵、常行堂、三重塔、
閻魔堂の他12坊があり、境内地は山腹から
現在のサントリー工場にまで及びました。
しかし、その後衰微して明治の神仏分離令により西観音寺は廃寺となり、
明治元年(1868)に神社として残され「椎尾神社」に改められました。
椎尾神社は明治5年(1872)に村社に列せられています。
西観音寺の本堂、聖天堂、鐘楼などは観音寺(山崎聖天)に移築され、
閻魔像などは宝積寺へ遷されました。

壽屋(ことぶきや=後のサントリー)の創業者・鳥井信治郎は大正12年(1923)に
この地でウイスキーを製造するため山崎蒸溜所が開設しました。
初代工場長には後のニッカウヰスキー株式会社を創業した竹鶴政孝が就任しました。
鳥井信治郎は村人と協力し、荒廃してた椎尾神社を再興し、
蒸溜所が竣工した11月11日に秋季祭礼が行われることとなりました。
椎尾神社-本殿-2
祭神として素戔嗚尊、第45代・聖武天皇、第82代・後鳥羽天皇が祀られています。
椎尾神社-樽
神前にはサントリーのウイスキーの樽が奉納されています。
椎尾神社-境内社
本殿の左側に小さな祠があります。
西観音寺の鎮守社であった、天照大神、鴨別雷命(かもわけいかづちのみこと)、
応神天皇(八幡神)を祀る尾上神社が境内に遷座されたそうですが、
この祠が尾上神社なのかは不明です。
護国天神社
小さな祠の左側の石碑、左側の「護国天神社」と右側の「陸鼻社」は、
昭和17年(1942)に谷から掘り出されたそうです。
登山道
奥へ進むと天王山への登山口があり、杖が置かれています。
登山道へは入っていないので、定かではありませんが、
途中で宝積寺(宝寺)と天王山山頂への道が分岐しているようです。
トンネル
谷側には、上部に名神高速道路・天王山トンネルの一部が露出しています。
慈悲尾谷
トンネル下をくぐって滝の下へと進む道は土砂崩れで寸断されていました。
神社の西側の谷は「慈悲尾谷」と称され、慈悲尾(じひお)が
転訛して「椎尾(しいお)の社号となったとされています。

水無瀬の滝へ向かいます。
続く

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天王山断層露頭
山崎蒸溜所前の通りを南へ進み、丁字路を右折して柳谷島本線を北上して
名神高速道路の上りと下りの車線の間を登って行くと
天王山断層露頭」の案内板が立っています。
「断層露頭」とは、断層が地表に表れた所のことで、昭和30年代(1955~1964)に
建設された名神高速道路の工事で表れたと解説されています。
現地には、当時の写真は残されていますが、下を走る高速道路の安全上、
断層面を可視化できる保存はされていないようです。
水無瀬の滝-道標
案内板から少し下った所に水無瀬の滝への登り口があります。
標識が立ち、滝まで70mの距離と記されています。
高速道路の下をくぐると滝への登り口となります。
滝近くの祠
石段を登ると小さな祠が祀られていますが、詳細は不明です。
水無瀬の滝
水無瀬の滝は、天王山断層によって落ち込んでできた高さ約20mの滝で、
古くから枯れることが無いと伝わります。
歌にも詠まれ、水無瀬川とともに歌枕となり、藤原家隆は下記のように詠んでいます。
「水無瀬山 せきいれし滝の 秋の月 おもひ出ずるも 涙なりけり」

藤原家隆は鎌倉時代初期の歌人で、同時代の藤原定家と並び称されました。
『新古今和歌集』の撰者の一人で、後鳥羽上皇の和歌の師であったとされています。
晩年は出家して四天王寺に入り、その西側の地に
「夕陽庵(せきようあん)」を営みました。
現在、その地に残る地名「夕陽丘」は夕陽庵に因むものです。

また、藤原定家の日記『明月記』によれば、後鳥羽上皇は
建仁2年(1202)7月18日に水無瀬の滝へ行幸されたことが記されています。
瀧脇のご神体
滝の左側には八大龍王、白姫龍王、玉龍大神などが祀られています。
龍神は雨を司る神とされ、降雨の祈願が行われましたが、
下流の村人からは氾濫を恐れて祀られたのかもしれません。
春日神社-1
標識から約100mほど坂を登った所に春日神社があります。
元々この地は、東大寺の寺領で、今も東大寺の地名が残されています。
旧東大寺村の五穀を守護する産土神として創祀されたと伝わりますが、
勧請された後、神官が不在となり、社殿が荒廃して移転を繰り返してきました。
春日神社-2
昭和38年(1963)に水無瀬の滝の近くに遷座されましたが、平成4年(1992)に
名神高速道路の拡張工事に抵触し再度の移転となって、
高速道横の現在地に遷されました。
瀧谷庵
瀧谷庵
新しく春日造りの社殿を造営、寄進による春日灯篭、鳥居、手水舎、
「瀧谷庵」と名付けられた休憩所が新設されました。
水無瀬荘跡碑
柳谷島本線を北上した先で水無瀬川に架かる橋を渡り、南へ戻った所に東大寺公園が

あり、公園の向かいの車道側に「東大寺水無瀬荘跡」の石碑が建っています。
天平勝宝8年(756)、「東大寺」の地名が残るこの地は聖武天皇の勅命により、
東大寺領の荘園となりました。
東大寺は天平17年(745)に起工され、伽藍が一通り完成するまでには40年近い歳月を

要していますので、東大寺創建途上にこの地は東大寺領となり、
室町時代の末期頃まで続きました。
水無瀬宮跡碑
「東大寺水無瀬荘跡碑」から東にJRの線路まで進み、線路沿い南へ進んで
踏切がある交差点を右折した先のガレージ内に
「後鳥羽上皇水無瀬宮跡」の石碑が建っています。
水無瀬殿は現在の水無瀬神宮辺りに造営されましたが、建保4年(1216)の
洪水で流失したため、その翌年に現在地で新たに造営されました。
神宮-鳥居
石碑から東へJRの踏切を渡り、突き当りの府道67号線を右折した先に水無瀬神宮の

社号標が建っていますので、左折した先に水無瀬神宮があります。
水無瀬駒の碑
鳥居をくぐった左側に「島本町指定文化財1号 水無瀬駒発祥の地」の碑が
建っています。
安土・桃山時代の水無瀬家13代目の神官・兼成は能筆で知られ、
第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の命を受け、将棋駒に文字を書きました。
製作された駒は、第107代・後陽成天皇の他、室町幕府第15代将軍・足利義昭や
豊臣秀次、徳川家康などの大名及び公家に譲渡されました。
現在の駒の形として作者と製作年が特定できる最古の将棋駒であり、
高級な駒の形は現在もこれに倣っています。
神門
参道を進むと神門があります。
神門は、桃山時代に作られた薬医門造で、大阪府の文化財に指定されています。
また、神門と築地塀は国の登録文化財です。

神門前には「洗心流華元」の石碑が建っています。
菊花を好み御霊に捧げられた供花の流れから華道・洗心流が興され、
毎年献花展が催されています。
五右衛門の手形
神門には石川五右衛門の手形が残されています。
五右衛門が祀られた名刀を盗みに入ろうとして様子を窺っていましが、
神威により門内へも入れず、やむなく立ち去った時に残した手形とされています。
金網で囲われ、手形と判別するのは困難なように思われます。
拝殿
拝殿
かって、この地には西殿があり、仏式の行事が行われていました。
現在の建物は江戸時代前期の1615~1661年頃に建立され、御影堂への廊下があり、
左側は渡廊下で客殿に通じていました。
明治8年(1875)に拝殿に改造され、昭和4年(1929)に国費で改築されました。
桁行四間の入母屋造で、正面に三間の向拝、北側に庇(ひさし)状の張出と神饌所、

背面に二間の幣殿が設けられています。
平成28年(2016)に国の登録有形文化財に指定されています。

拝殿から本殿の撮影は禁止されています。
本殿は京都御所の旧内侍所の旧材を用いて
江戸時代の寛永年間(1624~1645)に移築されました。

水無瀬神宮は、第82代・後鳥羽天皇がこの地に造営した離宮である
「水無瀬殿」が始まりです。
鎌倉時代、この地には公卿・源通親(みなもと の みちちか:1149~1202)の
別業(=別荘)がありましたが、後鳥羽上皇に譲渡されました。
後鳥羽天皇は、建久9年(1198)に土御門天皇に譲位して、上皇として院政を敷き、
翌建久10年(1199)頃、別業を改めて水無瀬殿を造営したとされています。
上皇は、承久3年(1221)に承久の乱を起こしましたが敗北し、
隠岐に流されそこで崩御されました。

仁治元年(1240)、上皇の遺勅に基づき、藤原信成(のぶなり)・親成(ちかなり)
親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀りました。
親子はその後も上皇の菩提を弔い、信成は水無瀬家の家祖となって
水無瀬家は明治維新まで続きました。

明応3年(1494)、第103代・後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎えて
「水無瀨宮」の神号を奉じ、離宮内に御影堂が建立されました。
文禄5年(1596)に発生した慶長伏見地震で御影堂は倒壊し、
慶長5年(1600)に再建されましたが、寛永8年(1631)に焼失しました。
明治時代になって、それまで仏式で祀られたいたものを神式に改め、
「水無瀬御影堂」から「水無瀨宮」と改称し、土御門天皇・順徳天皇の神霊を
配流地から迎えて合祀されました。
社僧は還俗(げんぞく)し、僧坊は廃されました。

明治6年(1873)に官幣中社に、昭和14年(1939)に官幣大社に列格し、
「水無瀬神宮」と改称されました。
水無瀬神宮は神仏霊場の第62番札所です。
客殿
拝殿前の左に客殿があります。
客殿は桃山末期に豊臣秀吉が家臣の福島正則に命じて造営して
寄進したと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
茶室
拝殿北側の庇と客殿の間に見えるのが茶室・燈心亭でしょうか?
拝観には5名以上の予約が必要です。
第108代・後水尾天皇より下賜されたと伝えられる江戸初期の数奇屋風書院で、
国の重要文化財に指定されています。
都忘れの菊
客殿前の小さな花壇には菊が植栽されています。
承久の変で佐渡に配流された第84代・順徳天皇は、菊花を好まれた父・後鳥羽上皇を

偲び、佐渡の行在所に咲く野菊を「都忘れの菊」命名され、
下記のように詠まれました。
「いかにして 契おきけん 白菊を 都忘れと 名づくるもうし」
この菊は佐渡から移植されました。
神宮-手水舎
手水舎は、大正期(1912~1926)のもので国の登録文化財です。
「離宮の水」は、大阪で唯一環境庁に「名水百選」に選定されています。
手水舎の奥には蛇口があり、現在は井戸から汲み上げられて
献茶式で用いられています。
毎日、多くの方々が汲みに来られています。
神庫
神庫は大正期(1912~1926)に建てられた土蔵造り、
二階建で国の登録有形文化財です。
神庫は境内の南西隅に、北面して建っています。
神宮-稲荷神社
神庫から東側に境内社が並んでいます。
稲荷神社
神宮-星阪神社
星阪神社
神宮-柿本神社
柿本神社
神宮-春日神社
春日神社

桜井駅跡へ向かいます。
続く

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島本駅
水無瀬神宮から府道67号線まで戻り、府道を南進するとJR島本駅に至ります。
駅前の短時間無料駐車場にバイクを停車することができます。
JR島本駅は、平成20年(2008)3月5日に開業しました。
歴史資料館
駅前の左側に島本町立歴史文化資料館があります。
資料館は、駅の開業に伴い平成20年(2008)4月12日に開館しました。
休館日の月曜日と年末・年始を除き午前9時30分から午後5時まで開館しています。
資料館の建物は、国史跡桜井駅跡の記念館として
昭和16年(1941)に有志により建てられた「麗天館」を改修して使用しており、
平成27年(2015)に国の登録有形文化財となっています。
水無瀬離宮
資料館の敷地には、平成26年(2014)に発掘調査された水無瀬離宮の
庭園跡の遺構が移築・復元されています。
離宮庭園
この庭園跡は、遣水(やりみず)跡で、水を池に注ぐための施設です。
踏車
また、建物の横には昔使われていた農機具や縄ない機などが展示されています。
踏車(ふみぐるま)は水田に水を入れるために用いられました。
江戸時代中期に大坂で発明され、各地に普及しました。
唐箕
唐箕(とうみ)は江戸時代に中国から伝わったもので、人力で風を起こし、
風力を利用して穀物を精選する道具です。
すき
犁(すき)は奈良時代に中国や朝鮮半島から伝来し、牛馬に引かせて
田畑を耕すのに用いられてきました。
縄ない機
縄ない機は明治末期に佐賀県で考案されたと伝わり、足踏み装置で連結する車を回し、
上部にある撚りかけ装置、巻取り装置に、2個のラッパ状の受け口から
藁(わら)を挿入して縄になう装置です。
藁打ち機
藁打ち機は藁を縄などに加工する前に、細工しやすいようにローラーで潰し、
柔らかくするための機械です。
大甕
資料館の入館料は無料で、「撮影禁止」と表示されているもの以外は
撮影も許可されています。
町の文化財に指定されている須恵器の大甕は、平成6年(1994)に
淀川河川敷中州の「広瀬南遺跡」で、渇水により露呈した河床に
埋没した状態で発見されました。
雲龍水
「雲龍水」と呼ばれる手押しポンプは、時々参拝した寺社で見かけたことがあります。
江戸時代から使われ始められました。
後鳥羽天皇像
国宝「紙本著色・後鳥羽天皇像」は承久の乱の直後、生母である七条院に送るために
藤原信実に描かせたと伝わります。
後鳥羽上皇が配流先の隠岐で崩御された後、水無瀬殿の地に御影堂が建てられ
藤原信成・親成父子は隠岐から送られた「御手印置文」と修明門院(後鳥羽院後宮)から
寄進された上記の直衣姿の肖像画の俗体と、隠岐に在って御自ら鏡をとって
写されたと伝えられる法体の御影二幅とを安置しました。
御手印置文
国宝「後鳥羽天皇宸翰御手印置文(しんかんおていんおきぶみ)」は隠岐に流された
後鳥羽上皇が、水無瀬・井口両荘と出雲国の持田・加賀の両地が無事に
忠臣・藤原親成に伝領されることを願い、崩御される13日前に書き上げたものです。
後鳥羽天皇像と御手印置文はいずれも複製品で、現物は水無瀬神宮の所蔵ですが、
現在は京都国立博物館に寄託されています。
桜井駅跡石碑
島本駅の右側には、国の史跡に指定された桜井駅跡があります。
「桜井」は長岡京遷都で、第50代・桓武天皇の皇子・円満院法親王が大和・桜井から
この地に移ったのが由来とされています。
古代律令制の成立と共に、中国の律令制に倣い、
国内には官道が張り巡らせられるようになります。
大宝元年(701)に制定された大宝律令と、その後部分改修された養老律令に、
駅制・伝馬制の古代の交通制度が制定されました。

中央政府と地方とを結ぶ駅路が整備され、
諸道の30里(約16km)ごとに駅家(うまや)が置かれました。
駅路は、中央と地方との直接の情報連絡を目的とした路線で、
駅家は、官吏や使者に馬・食糧などを提供する施設です。
駅(中継所)から駅まで情報伝達を行う駅伝制は、
陸上競技の「駅伝」の元となりました。

駅家には駅戸(えきこ)が配置され、駅馬の飼養やその他の駅務に従事しました。
また、駅家には駅田(えきでん)が置かれ、
稲作による財源で維持・管理の費用に充当されました。
しかし、駅戸の負担過重などにより,律令体制の崩壊とともに衰え、
「駅」という言葉自体も「宿」「宿場」などに取って代わられましたが、
制度の思想は江戸時代に整備された五街道制度にも生かされています。
パークスの碑-表側
また、この地は楠木正成(くすのき まさしげ)が嫡男正行(まさつら)を
河内国に帰らせ、決別した所でもあります。
戦前の国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話で、
戦前の桜井駅跡周辺には記念品を売る店や食堂がありました。

『太平記』第十六巻の「正成兵庫に下向の事」では、
正成が数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げ、
死を覚悟し、湊川の戦場に赴く様子が記されています。
足利尊氏の軍を京都より駆逐した際、楠木正成は後醍醐天皇に足利尊氏と
和睦すべきと奏上しましたが、受け入れられませんでした。
九州で態勢を立て直した足利尊氏の軍は京都奪還を目指して進軍すると、
後醍醐天皇は楠木正成に出軍を命じました。
『太平記』には天皇側の軍5万以上に対して尊氏軍は50万以上と記され、
圧倒的な戦力の差がありました。
正面からぶつかれば、天皇側の敗北は明らかで、正成は新田義貞の軍とで
尊氏軍を挟み撃ちにして京都で迎え撃つべきと奏上しましたが、これも却下されました。
楠木正成は負け戦を覚悟の上で、「湊川の戦い」に臨み、
命を落としました。

桜井駅跡が整備されたのは、明治9年(1876)に
「楠公訣児之處(なんこうけつじのところ)」の石碑が建てられたのが始まりです。
この碑は駐日英国大使であったハリー・S・パークスが発案し、
当時大阪府権知事の渡辺昇が賛同して自ら筆をとりました。
パークスの碑-裏側
碑は西国街道に向かって建てられ、裏面にはパークスによる英文が書かれています。
その訳文は、「忠義の士、楠木正成の勤皇に捧げる。
一外人の碑、彼は1336年、この地において、その子正行と別れ、
湊川の戦いに赴く」
パークスは、18年間駐日大使として在任し、忠臣・楠木正成の忠義に、
着目したイギリス人として興味が持たれます。
忠義貫乾坤 碑
明治27年(1894)に、「忠義貫乾坤 碑(ちゅうぎげんごんをつらぬくひ)」が
地元有志によって建てられました。
当時は「楠公訣児之處」と並んで玉垣の中に建てられたのですが、
昭和14年(1939)、桜井駅跡の拡張工事に伴い、隣に移されました。
父子決別所の碑
大正2年(1913)に「 楠公父子訣別之所 ( なんこうふしけつべつのところ ) 」 碑 の
建碑式が盛大に行われました。
寄付によって敷地が拡張され、三方を濠で囲われていました。
六百年祭の柱
昭和10年(1935)5月16日には「楠公六百年祭」が行われ、「 楠公父子訣別之所」碑の
周囲には、個人の寄贈により鉄筋コンクリートの柱が建てられ、鎖を巡らせた玉垣と
正面には、金色の菊水紋を浮き出した鉄の門がありました。
明治天皇
更に敷地が拡張され、大正5年(1916)に島本村公園に指定され、
大正10年(1921)に国の史跡として指定されました。
昭和6年(1931)に「明治天皇御製 」 碑 が建てられました。
明治天皇が、明治31年(1898)11月に三島地方での陸軍大演習に行幸の際、
この地で詠まれたものです。
「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」
子別れの像
楠公父子別れの石像は、昭和15年(1940)に新京阪電鉄(現・阪急電鉄)の
「桜井の駅」前に青葉公園が建設され、
そのシンボルとして子別れの銅像が設置されました。
戦時中に銅像は供出され、コンクリート製で代替され、
戦後に桜井駅跡に移されました。
現在の石像は、平成17年(2005)に有志によって寄贈されたものです。
屋形
手水鉢
公園の奥には、手水鉢と屋形があります。
元は、大阪府青年の家の入口前にあったものですが、
新駅の開設に伴い青年の家が壊され、現在地に移されました。
桜井駅跡公園の敷地に大阪府青年の家が建てられていたことから、
元々は桜井駅跡公園の出入り口に設置されていたものと推察されます。
屋形の柱に戦前の木製の千社札が三枚残されていることから、
当時は信仰の場であったと考えられています。
屋形-蟇股
屋形の蟇股には楠木正成の兜飾り「三ツ鍬形」の彫刻が施されています。
旗立松
屋形に隣接して「旗立松」の一部が保存されている小屋があります。
楠木父子が訣別をした場所は、幹周り約4.5mの老松の大木のもとと伝わります。
明治30年(1897)に松は枯死し、その一部が切り取られ保存されています。

国道171号線を横断して高浜砲台跡へ向かいます。
続く

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