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通園
京阪宇治駅は宇治橋の東詰にあります。
駅前から道路を横断した正面に「お茶の老舗・通圓」があります。
通圓家の初代は源頼政の家臣で、古川右内という武士でした。
晩年隠居して頼政の政の一字を賜って太敬庵通圓政久と名乗り、
平治元年12月9日(1160年1月19日)に起こった平治の乱
直後に宇治橋東詰に庵を結びました。
治承4年(1180)に頼政が以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒の兵を挙げると、
頼政の元へ馳せ参じ、宇治橋の合戦で平家軍と戦ったのですが、討ち死にしました。

太敬庵通圓政久の子孫は、代々、通圓の姓を名乗って宇治橋の橋守(守護職)を仰せつかり、
道往く人々に茶を振る舞い、橋の長久祈願と旅人の無病息災を願いました。
その後、永暦元年(1160)に「通圓」が創業され、その子孫により現在も引き継がれています。

現在の建物は寛文12年(1672)に建てられました。
宇治橋は20年~30年ごとに幕府によって架け替えられ、その際、通園の建物も
幕府により建て替えられたり、修理が行われました。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)に強制立ち退きを迫られましたが、
寸前のところで終戦となり、回避されました。

店内には7代目と親交のあった一休和尚作の初代・通園が茶筅と茶碗を持ち
舞っている姿の像が安置されています。
その下には、豊臣秀吉が茶の湯に用いる水を宇治川で汲ませるために、
千利休に作らせた釣瓶(つるべ)が保存されています。
また、数百年を経た茶壷が棚に並べられています。
宇治橋
宇治橋が初めて架けられたのは大化2年(646)に道登(どうとう)により架設されたと伝わり、
日本で最も古い本格的な木造橋とされています。
宇治川の上流、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」、宇治川の下流、淀川に架かる
山崎橋」と共に、日本三古橋の一つに数えられ、
「勢多次郎」、「宇治三郎」、「山崎太郎」と称されました。
山崎橋は、神亀2年(725)に行基によって架けられたと伝わりますが、その後、
度々の洪水で流され、豊臣政権下で一時復活されましたが、その後失われてからは
再建されず、昭和37年(1962)まで渡船が運行されていました。

道登は山城に生まれ、高句麗に留学し、帰国後は飛鳥寺に住したと伝わり、
大化元年(645)に仏教の僧尼を教導したと想定される僧官の職である
「十師(じっし)」に任命されたことが記されています。
また、白雉元年(650)に穴戸国(後の長門国=現在の山口県の西半分)の国司が
白雉を献上した際に、高句麗の故事を引いて祥瑞であることを上奏し、
「白雉(はくち)に改元されたという記事が残されています。

一方で、『続日本紀』には架設したのは道昭だと記されています。
道昭は舒明天皇元年(629)生まれで、白雉4年(653)に入唐学問僧として唐に渡り、
玄奘三蔵に師事して法相教学を学びました。
斉明天皇6年(661)に多くの経典や仏舎利を携えて帰国し、飛鳥寺の一隅に
禅院を建立して住し、日本へ初めて禅を伝えました。
その後、日本で初めて大僧正に任じられ、晩年は全国を遊行し、
各地で土木事業を行いました。
仮説では、宇治橋は大化2年(646)に道登により架設されたのですが、その後流出し、
第38代・天智天皇が大津宮に遷都した頃に、近江朝廷の支援を受けて道昭が
大津と飛鳥を結ぶ官道に相応しい宇治橋を架けたとされ、この説を支持したいと思います。

現在の橋は平成8年(1996)3月に架け替えられたもので、長さは155.4m、
幅25mあり、桧造りの高欄に宝珠を冠しています。
擬宝珠は現存する最古の寛永13年(1636)の刻印があるものと、形状と大きさが
合わせてあり、鎌倉時代後期に描かれた『石山寺縁起』にも擬宝珠が描かれています。

橋の上流側には、川の増水などでの流木などが橋脚に衝突し損傷しないように
木除杭(きよけぐい)が設置されています。
三の間-1
三の間-2
橋を渡ると中ほどの上流側の欄干に一部突き出ている所があります。
ここは「三の間」で、橋の守り神である橋姫を祀ったことから「橋姫」さんとも呼ばれています。
宇治川上流の桜谷に鎮座していた瀬織津姫(せおりつひめ)の神像が洪水で流されて
宇治橋に止まったとの由縁でここに祀られるようになったと伝わり、
現在はあがた通りに面した橋姫神社に祀られています。

慶長2年(1597)に二度目の伏見城を築城した豊臣秀吉は、度々茶会を催し、
茶の湯に当時「天下の名水」と言われた宇治川水を用いました。
日の出前の約二時間余りの間に三の間から釣瓶を使って汲み上げ、伏見城へ運ばれました。
現在も10月の第一日曜日には「名水汲み上げの儀」が行われています。
三の間からの眺望
三の間からの宇治川上流の光景
紫式部像
橋を渡った西詰は「夢浮橋ひろば」と称され、紫式部の像が建立されています。
平安時代、風光明媚な宇治川周辺には貴族達がこぞって別荘を設けました。
紫式部は『源氏物語』の第三部、第45帖から第54帖は「宇治十帖」と呼ばれ、
宇治を舞台として記されています。
夢浮橋」は源氏物語を締めくくる第54帖のタイトルです。
明治天皇の碑
また、広場には「明治天皇御駐輦之地(めいじてんのうごちゅうれんのち)」の碑が建っています。
明治10年(1877)2月7日に明治天皇は京都から奈良へ行幸と行幸された際に、
現在の中村藤吉・平等院店に宿泊されたことにより、この碑が建てられました。
鳥居
紫式部像前の府道15号線には縣神社(あがたじんじゃ)の鳥居が建ち、
通称で「あがた通」と呼ばれています。
鳥居手前から斜めの通りが平等院の表参道ですが、鳥居をくぐって府道を進みます。
蔵
蔵の壁です。
橋姫神社-鳥居
宇治橋西詰から約1分歩いた左側(東側)に橋姫神社があります。
橋姫神社は、宇治川上流の桜谷に鎮座していた瀬織津姫(せおりつひめ)の神像が
洪水で流されて宇治橋に止まり、宇治橋の三の間で祀られるようになったのが始まりとされています。
その後、宇治橋西詰に祀られるようになりましたが、明治3年(1870)の洪水によって
宇治橋も社殿も流失しました。
明治39年(1906)に橋を旧観に復興した際に、あがた通りに面する現在地に社殿が造営されました。
橋姫神社-社殿
橋姫神社の社殿
瀬織津姫は水神や祓神、瀧神、川神とされていますが、橋姫と同一視されるようになり、
いつしか次のように語り継がれるようになりました。
「平安時代、嵯峨天皇の時代に、大変激しい嫉妬心を抱いた女がいたという。
その夫はその余りにも嫉妬深い感情に、嫌気がさして離縁をして追い出した。
女は夫に棄てられてからは、恋しさが一層募るばかりで、
ついに宇治川の水神に百夜の願をかけた。
夜ごと川辺に行き、髪を水に浸して「願わくば私は鬼神となって、
わが夫の現在の妻を殺してしまいたい」と水面を叩いて水神に誓い続けた。
その形相はは物凄く、その呪いは川波の音を更にざわめかせ、その恐ろしさは言語に絶したという。
やがて満願の百夜が来ると女はたちまち鬼と化し、夫の妻を殺した。」
このことから、橋姫は嫉妬深い神様になり、嫁入りする時にこの神社の前を通ったり、
宇治橋を渡ると、その夫婦は円満には過ごせないとの言い伝えがあります。

「橋姫神社の神像は鬼女の裸体に緋袴を着け、左手に蛇を握り、右手に釣具を持った坐像で、
物凄い形相をしている。」と「京都故事物語(奈良本辰也編)」で紹介されています。
蛇は川の流れ、釣具は漁業を象徴し、昔の人は、橋姫神社に川の流れを治め、
豊漁を祈ったのではないかと推察されます。
そして、物凄い形相は橋姫を信じない者に対しての怒りを表し、力ずくでも信じさせるという
姿勢が示されているように思われます。

また、『源氏物語』宇治十帖の最初、第45帖は光源氏の子・薫が詠んだ歌
「橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」に因み、「橋姫」とされています。
この和歌に詠まれている橋姫は、繊細で可憐、愛しい人を待つ姫で、
神社の橋姫とは似ても似つきません。
橋姫神社-住吉社
橋姫神社と並んで右側に祀られている住吉社は、宇治川の水運業者の守護神とされています。
公文水の石碑
橋姫神社にはかって、宇治七名水の一つに数えられている公文水が湧きだし、
「公文水」の石碑が建っていますが、現在は枯れてしまっています。

縣神社(あがたじんじゃ)へ向かいます。
続く

鳥居
橋姫神社からあがた通りを南へ約5分歩いた突き当りの左側に縣神社があります。
縣神社が創建された年代は不明ですが、神社の公式HPでは神代から
当地の守護神であったとされています。
永承7年(1052)に藤原頼通は、父・道長の別荘「宇治殿」を寺院に改め「平等院」とし、
縣神社は鎮守社となりました。
その後の変遷は不明ですが、明治維新までは三井寺・円満院の管理下にあり、
明治の神仏分離令により独立しました。
県井
鳥居をくぐった左側に縣井があります。
平安時代から和歌にも詠まれ有名だったようですが、宇治七名水には含まれませんでした。
神木
参道脇の椋の木は御神木とされ、樹齢約500年、樹高26m、幹回り4.4mで、
宇治市名木百選に選定されています。
かっては「縣の森」と呼ばれ、このような樹木で神社が覆われていたのかもしれませんが、
現在では付近は住宅や商店となっています。
本殿
本殿
祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、別名が
吾田津姫(あがたつひめ)であることから、
吾田を縣の字に置き換え、社名としたとする説もあります。

神話によれば、木花開耶姫命は笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内の伝説地)で
邇邇芸能命(ににぎのみこと)と出逢い、その夜の内にしとねを共にして
互いの情愛が結ばれました。
一夜の契りで姫は妊娠したので、邇邇芸能命は本当に自分の子か疑いを持ちました。
邇邇芸能命は「本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と産室に火を放ちました。
しかし、火事の害にもかかわらず、姫は無事に出産し、その宴会で稲から
天甜酒(あまのたむざけ)を造って家来たちに振舞ったと伝わっています。
その伝承から、木花開耶姫命は酒造の神とも言われ、
結婚守護の神であり、安産の神とされています。
梵天
境内の左側に梵天奉納所があります。
毎年、6月5日から6日未明にかけて行なわれる
「あがた祭り」は「暗闇の奇祭」とも呼ばれています。
大祭の6月5日、夜半を過ぎると暗闇の中で梵天の渡御が行われます。
この梵天渡御を象徴するものは縣神社の女祭神である木花開耶姫と
宇治神社の稚郎子命(わきいらつこのみこと)の男神が、
年に一度の愛の契りを、暗闇の中で執り結ぶというものです。
この行事の起こりは江戸時代、文化文政期(1804~1830年)とされ、
幕末になるにつれて盛んになったと伝わります。
江戸時代、庶民は自由に旅をしたり、夜更けに町を歩くことなどは禁じられていました。
唯一この掟から開放されたのが「お伊勢参り」や「祭礼」などの行事でした。
特にこの「あがた祭り」は、当時の庶民にとって大きな開放感の絶頂を
味わえた行事だったと思われます。
祭りの当夜は多くの参詣者が訪れ、町全体が開放的となり、抑圧されていた庶民も、
この夜ばかりとナンパに励み、フリーセックス状態になったと伝えられています。

梵天渡御は本来、宇治神社御旅所→縣神社(神移し)→宇治神社へ渡御→
縣神社(還幸祭)のルートで行われていました。
平成15年(2003)に還幸祭が行われなかったことで御輿の担ぎ手である
「縣祭奉賛会」と縣神社の関係がこじれ、翌平成14年(2004)から
神社側が独自に梵天渡御を行うなど分裂状態となりました。

これには以前よりあった宇治神社と縣神社の対立が関係していて、
昭和43年(1968)には裁判にまで発展しました。
その後、和解と対立が繰り返されているのですが、関係改善には至っていないようです。

現在のあがた祭りは、境内を練り歩き鳥居をくぐって表に出た梵天は、旧大幣殿前で
ブン回しや差し上げなど勇壮に走り回り、再び境内に帰って還幸祭を終えるのは
夜中の1時ごろと簡略化されているようです。
大幣殿
鳥居右側の大幣殿(たいへいでん)では、6月8日に「大幣神事」が執り行われます。
900年前からと伝わる古代日本の貴族的、民族的色の濃い神事です。
大幣
大幣殿にはこの神事で、「疫病」を祓い宇治川に流す「大幣」が納められています。

平等院へ向かいます。
続く

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縣神社(あがたじんじゃ)から東へ約1分歩いた所に平等院の南受付所があります。
画像はありませんが、南受付所の向かいに有料駐車場があり、かっては経堂がありました。
経蔵は平安時代の永久元年(1113)に建立され、
一切経と共に藤原氏の家宝も納められていました。
「宇治の経蔵」として摂関家の権威の象徴とされていましたが、
南北朝時代に焼失し、その後再建されること無く、現在は駐車場と化しています。
旧南門
受付所で拝観料600円を納め、進んだ先に豊臣秀吉が築城した伏見城から
移築された「旧南門」があります。
主要な部材の殆どがアカガシの巨木で造られています。
アカガシは固く火に強い反面、ねじれが起きやすいため、樫材による建築物はこれまで
日本で確認されたことはありませんでした。
城造りの天才として知られた秀吉による城門「薬医門」の現存する最古のものです。
門の右側には平成13年(2001)にオープンした「平等院ミュージアム鳳翔館」があります。
養林庵書院
門を入った先に慶長6年(1601)に伏見城から移築したと伝わる「養林庵書院」があり、
国の重要文化財に指定されています。
内部は非公開ですが、広縁中央には寛永の三筆の一人、
松花堂昭乗による扁額「養林庵」が掲げられています。
襖絵「籬(まがき)に梅図」は狩野山雪工房、床壁絵「雪景楼閣山水図」は
山楽により描かれています。
浄土院-本堂
浄土院-本堂
 「養林庵書院」の先に平等院塔頭の浄土院があります。
浄土宗の栄久上人(えいくしょうにん)が明応年間(1492~1501年)に
平等院修復のために開創した寺と伝わり、以後平等院の管理を担いました。
本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代後期~南北朝時代の作とされ、
京都府の文化財に指定されています。
帝釈天立像は仏師・康尚(こうじょう/こうしょう)の作とされ、
宇治市の文化財に指定されています。
康尚は定朝の父で、「仏師職の祖」と称されています。
浄土院-弁財天
また、本堂には救世船乗観音像が安置されています。
救世船乗観音は江戸時代以来、鳳翔館の南西角辺りに建立されていた
浄土院支院の観音堂の本尊でした。
平等院の地は交通の要衝であったことから、旅の安全と無事を祈願されていましたが、
戦後間もなく盗難に遭い、平等院開創950年祈念事業の一環として復元、安置されました。

非公開ですが平等院山内で最も古い書院の大書院があり、後醍醐天皇が三種の神器を納め、
平等院に逗留したと伝わる御座所が残されています。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇による鎌倉倒幕計画が密告によって露見し、
後醍醐天皇は三種の神器を持って比叡山に頼ろうとしましたが失敗し、笠置山に籠城しました。
その途中、天皇が逗留されたのだと思われます。
その後、笠置山は落城して後醍醐天皇は捕えられ、翌年隠岐島に配流されました。(元弘の乱
浄土院-庫裡
浄土院-庫裡
羅漢堂
浄土院境内の北側には羅漢堂があります。
江戸時代の寛永17年(1640)に禅宗様で建立されました。
羅漢堂-堂内
堂内には十六羅漢像などが安置され、鏡天井には龍の彩色画が描かれています。
上村竹庵の碑誌
羅漢堂の西側に「宇治茶祖・上村竹庵の碑誌」が建ち、元禄12年(1699)と記されています。
宇治茶は鎌倉時代の初期に栄西が宋から持ち帰った茶種を明恵に送り、
明恵はその茶種を京都の北、栂尾の高山寺付近に植えました。
明恵はその後、茶の普及のため山城宇治の地を選び、
茶の木を移植したのが宇治茶の始まりです。
萬福寺の山門前に明恵の『栂山の尾の上の茶の木分け植えて跡ぞ生うべし
駒の足影』と詠んだ歌碑が建っています。
明恵が馬にのり、その馬の足影(足跡)に茶の種を植えることを、
宇治の里人に教えた様子が詠まれています。
13世紀半ば、第88代・後嵯峨天皇(在位:1242~1246年)が宇治を訪れたのを機に、
平等院に小松茶園、木幡に西浦茶園が開かれ、

この地で本格的な茶の栽培が始まったとされています。

上村竹庵の詳細は不明ですが、以下のような逸話が残されています。
『竹庵は千利休を茶会に招いたのですが、緊張のあまり、茶杓や茶筅を落したり、
湯をこぼしたりと粗相をしてしまいました。
これを見た利休の弟子たちは心の中で笑っていましたが、お茶会が終ると利休は
「ご亭主のお点前は、天下一でございます」と称賛しました。
弟子たちは、それを不思議に思い利休に訪ねると、利休は「竹庵は、
私達に最もおいしいお茶をふるまおうと一生懸命だったのです。
ですから、あのような失敗も気にかけず、ただ一心にお茶を点てたのです。
その気持ちが一番大事なのです。」と答え、弟子たちを戒めたと伝わります。
通円の墓-1
境内の東側に通圓家初代・太敬庵通圓政久(たいけいあんつうえんまさひさ)の墓があります。
通圓家の初代は源頼政の家臣で、古川右内という武士でした。
晩年隠居をして頼政の政の一字を賜って太敬庵通圓政久と名乗り、
平治の乱直後に宇治橋東詰に庵を結びました。
治承4年(1180)に頼政が以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒の兵を挙げると、
頼政の元へ馳せ参じ、宇治橋の合戦で平家軍と戦ったのですが、討ち死にしました。
太敬庵通圓政久の子孫は、代々、通圓の姓を名乗って宇治橋の橋守(守護職)を仰せつかり、
道往く人々に茶を差し上げて橋の長久祈願と旅人の無病息災を願いました。
宇治橋東詰にある「お茶の老舗・通圓」は平安時代後期の永暦元年(1160)に創業され、
その子孫により現在も引き継がれています。

最勝院-門
最勝院-山門
最勝院
浄土院の北側に塔頭の最勝院があります。
平等院は創建当初、天台宗寺門派に属し、園城寺(三井寺)の下に置かれました。
室町時代以降は天台宗寺門派の、大津市にある円満院の門主が
平等院の住職を兼任しました。
安土・桃山時代の明応年間(1492~1501年)に浄土宗の浄土院が創建され、
平等院が修復されるようになると、天正10年(1582)に円満院の門主による兼務が断絶し、
慶長15年(1610)以降、天台宗は平等院を放棄しました。
江戸時代の承応3年(1654)に天台宗系の最勝院が創建され、
寛文2年(1662)には円満院の兼帯所となりました。
江戸時代の天和元年(1681)に寺社奉行の裁定により、平等院は浄土宗の浄土院と
天台宗系の最勝院の共同管理となりました。

現在の平等院は山号を「朝日山」と号する特定の宗派に属さない単立の寺院です。
平成6年(1994)に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録され、
神仏霊場の第125番札所にもなっています。
最勝院開祖の碑
境内には「最勝院開祖 澄栄師之碑」が建立されています。
澄栄師は六角堂付近にあった勝仙院の僧でしたが、平等院に移り、
住庵を「最勝院」と称しました。
不動堂-1
境内の南側に不動堂があります。
不動堂-2
堂内には「災難除け不動明王」が祀られています。
源頼政の墓所
境内には源頼政の墓所があります。
源頼政は保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で
源氏の長老として中央政界に留まって平清盛から信頼され、
晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列しました。
しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である
以仁王(もちひとおう)と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えました。
治承4年(1180)に計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、
そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ平等院の
「扉の芝」で自害しました(以仁王の挙兵)。
地蔵堂-堂内
建物の画像はありませんが地蔵堂には「池殿地蔵尊」が祀られています。
観音堂
最勝院から北へ進んだ所に鳳凰堂の内部拝観の受付が行われています。
1回の拝観できる人数が限定されていますので、予約の受付となります。

予約を済ませ、北側の観音堂へ向かいます。
観音堂は鎌倉時代に本堂跡に創建され、重要文化財に指定されていますが、
内部は非公開です。
本尊は重要文化財に指定されている平安時代作で、像高167.2cmの
十一面観音菩薩立像ですが、現在は鳳翔館に安置されています。
扉の芝
観音堂の北側に「扉の芝」があり、源頼政が自害した場所とされています。
表門
「扉の芝」の先にJRや京阪宇治駅からの表参道の表門があります。

鳳凰堂の正面へ向かいます。
続く

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鳳凰堂-正面-2
平等院がある地にはかって、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の
源融(みなもと の とおる)が営む別荘がありました。
その後、第57代・陽成天皇の離宮となった後、第59代・宇多天皇に渡り、
天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)に摂政・藤原道長の別荘「宇治殿」となりました。
万寿4年(1027)に道長が亡くなり、子の関白・藤原頼通は
永承7年(1052)に宇治殿を寺院に改めました。
これが平等院の始まりで、頼通が開基で開山(初代執印)は
天台宗寺門派・園城寺長史・明尊としました。
 明尊(みょうそん)は小野道風の孫で、幼いときに園城寺に入り、
余慶から顕教・密教の2教を学び、慶祚(けいそ)からその奥義を伝授されました。
塔頭の円満院を創建して住し、園城寺法務を兼ね僧正にまで至りました。
創建当初の平等院は、北大門が宇治橋の西辺り、西大門がJR宇治駅辺り、
南大門は浄土院南の現在の旧南門辺りにあり、本堂(金堂)は宇治川の岸辺近くに建てられ、
大日如来を本尊とする、藤原氏の氏寺でした。
鳳凰堂-正面-1
現在の鳳凰堂は天喜元年(1053)に阿弥陀堂として建立され、国宝に指定されています。
鳳凰堂は極楽浄土にあるという阿弥陀如来の宮殿をイメージして建てられたと伝わります。
飛鳥時代に伝来した仏教は現世での救済を求めるものでしたが、
平安時代後期になると釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという
末法思想が広く信じられるようになりました。
当時は都の治安が乱れ、疫病の流行や火災が発生するなど、混乱が相次ぎ、
人々の不安は一層深まっていました。
現世での救済を諦め、極楽浄土を願うようになり、貴族は西方極楽浄土の教主とされる
阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営しました。
寛和元年(985)に源信により記された『往生要集』では、地獄の惨状が説かれると共に、
生者が生前に自らの死後、浄土への往生を願う信仰へと変わりました。
鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画や供養菩薩像、周囲の庭園などは
『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、
現世の極楽浄土として造られました。
極楽浄土の現世とは、平等院そのものであり、「極楽いぶかしくば、
宇治のみてらをうやまえ」とまで歌われました。
平等院の平等とは、「生きていく者に与えられた機会の平等」であり、
「最後の救済が平等に約束されている」ことを意味して名付けられました。
南翼廊
南翼廊
北翼廊
北翼廊
阿弥陀如来
阿弥陀如来
鳳凰堂は平安時代は「阿弥陀堂」、「大堂」または「御堂」とも呼ばれ、
「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降と推察されています。
鳳凰堂を正面から見ると、中央に中堂、左右(南北)に北翼廊、南翼廊が接続して建ち、
左右対称の建物全体が鳳凰の形に似ているからとも、
棟飾りの鳳凰に起因するとも言われています。
全体の建物の大きさは、南北41.5m、東西31.8m、高さ13.6mあります。
中堂は一重裳階付(いちじゅうもこしつき)の建物で、裳階中央の屋根は一段高く切り上げられ、
対岸から本尊を拝することができるように設計されています。
裳階の屋根上には周囲を囲む高欄が設けられ、その上の屋根は大きく張り出しています。
創建当初は屋根の重量を軽減するために木瓦葺(こがわらぶき)だったと考えられています。
現在の鳳凰堂には52,049枚の瓦が使用されていますが、
康和3年(1101)の修理で総瓦葺きに改修されたと推定されています。
室町時代には、「藤原頼道が死後、龍神となり平等院を守護している」との伝承から、
中堂には龍頭瓦が飾られていました。
しかし、屋根が重くなり、明治の修理前までは屋根の垂れ下がりを防止するための
突っかえ棒が設置されて、外観を損ねていたそうです。
鳳凰-1
現在の鳳凰は二代目で、初代のものは国宝に指定され、鳳翔館で展示されています。
鳳凰像は南北一対で、雄・雌の区別は無いようですが、左右で大きさは異なります。
鳳凰像は鳳凰堂の建立当時に、定朝によって原型が造られたとされ、
金銅製で北方像は総高235.0cm、像高98.8cm、総幅34.5cm、
南方像は総高228.8cm、像高95.0cm、総幅44.5cmの大きさがあります。
阿字池
鳳凰堂は阿字池の中島に、東を正面として建てられ、
彼岸の中日には太陽は本尊の正面から昇り、背後に沈みます。
庭園は極楽浄土を具現化したものとされ、阿字池は『観無量寿経』の極楽浄土
「宝池(ほうち)」を表しているとされています。
池は亡くなった人々が往生する所とされ、極楽浄土には欠かせないものとされています。
池に注がれる川は無く、池の水は西側で湧き出て、「阿弥陀水」と呼ばれ、
宇治七名水の一つにも数えられています。
平成2年から15年(1990~2003)にかけて行われた発掘調査で、拳大の玉石を敷き詰めた
平安時代の洲浜が出土し、池の面積は現在よりも広く、
左右の翼廊の端は池の中に建っていたことが判明しました。
昭和32年(1957)の鳳凰堂解体修理の際に、木杭の護岸に改修されていましたが、
現在は平安時代より狭くなりましたが洲浜が復元されています。
この浄土式庭園は国の史跡・名勝に指定されています。
また、鳳凰堂前の石灯籠は「平等院形」と呼ばれ、重要美術品に指定されています。
尾廊
阿字池の北側です。
鳳凰堂の西側には尾廊と呼ばれる建物が接続され、鳳凰の形が表されているようです。
尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものと考えられています。
鳳凰堂へと架けられた反橋に平成14年~15年(2002~2003)の復元工事で
手前の平橋が新造されました。

鳳凰堂の内部拝観は別途300円が必要で、1回の定員が50名で拝観時間は20分となり、
先に受付で予約を済ませる必要があります。
堂内の撮影は禁止されていますが、現在でも修復工事が行われ、足場が組まれていました。
(平成30年11月15日現在)
本尊は阿弥陀如来坐像で国宝に指定されています。
像高277.2cm、鳳凰堂建立時に晩年の仏師・定朝の作で、確証のある唯一の遺作となっています。
円満な面相、浅く流れる衣文などを特色とする定朝の優美で温和な作風は、
「仏の本様」と称されて平安時代の貴族にもてはやされ、
以後の仏像彫刻には定朝様(よう)が流行しました。

像内には木板梵字阿弥陀大小呪月輪(もくはんぼんじあみだだいしょうじゅがちりん)と
木造蓮台が納められ、国宝の附(つけたり)に指定されています。
月輪は満月のように丸い形をしており、梵字で阿弥陀大呪と小呪が記されています。

光背は金箔の二重円相光背で、火炎透し彫りが施され、上に大日如来、
その下に12躯の飛天が配されています。
うち6躯は創建時のものと見られ、当初は十二光仏の化身とも伝わります。

阿弥陀如来像の頭上には木造天蓋が吊られ、国宝に指定されています。
折上小組格天井形の方蓋と、その内側に吊る円蓋からなり、透彫と螺鈿で装飾され、
中央部には銅製で大型の八花鏡がはめられ、
堂内に入る光を反射したと考えられています。
方蓋の内側には、夜行貝から切り出した螺鈿が張り付けられ、
宝相華唐草や蝶の文様が表現されています。
方蓋の四隅には宝相華唐草が透かし彫りされた垂板24枚が吊るされています。

長押(なげし)上の小壁には52躯の「雲中供養菩薩像」が掛けられています。
鳳凰堂の創建当時に定朝工房によって制作されたもので、南北それぞれコの字形に
阿弥陀如来を囲んで並んでいます。
当初、何躯あったかは定かで無く、現在残さている52躯の殆どが菩薩形の像で、
僧形の像も5躯あり、現在は半数の26躯が鳳翔館で展示されています。
像は阿弥陀如来と共に来迎する菩薩像を表したものとみられています。
各像のポーズは変化に富み、琴、琵琶、縦笛、横笛、笙、太鼓、鼓、鉦鼓などの
楽器を奏する像が27体あり、他には合掌するもの、幡や蓮華などを持つもの、
立って舞う姿のものなどがあります。

本尊を取り囲む壁扉画(へきひが)14面は、現存する最古の大和絵風
九品(くほん)来迎図」、扉画2面に「日想感図」が描かれ、
本尊後壁画1面と共に国宝に指定されています。
生前の行いや信仰により、阿弥陀如来の来迎に9種類の差があるとされ、
本尊が対面する東正面中央の扉には上品上生の図が描かれています。
その扉の左右の扉には上品中生と上品下生、北側側面の扉に中品上生、
その奥の板壁に中品中生、南側側面の扉に下品上生、その奥の板壁には
下品中生の来迎図が描かれています。
本尊後壁画は前面の東側と後面の西側にも描かれ、前面に阿弥陀浄土図(諸説あり)、
後面に下品下生、中品下生が描かれています。
本尊の後ろ、西側の扉に日想感図が描かれていますが、
本尊後壁画と共に拝観ができる所からは見ることができません。
当初は平安時代後期に描かれましたが、北面壁、南面壁、仏後壁は土壁から板壁に
変更されたため、鎌倉時代に描かれました。
但し、仏後壁の前面は調査の結果、平安時代後期に描かれたことが判明しました。
東正面中央の上品上生の図が描かれた扉は、江戸時代の寛文10年(1670)の
修理の際に取り替えられ、国宝の「九品来迎図」から外れ、「附(つけたり)指定」となっています。
また、正面と南北側面のオリジナルの扉は取り外して鳳翔館で展示されています。
中堂の柱や天井にも宝相華唐草文様が極彩色で描かれ、天井には66個の
銅製鏡がはめこまれており、こちらも国宝に指定されています。
鐘楼-1
鳳凰堂を出て、阿字池の前を南へ進んだ所に納経所があり、
平等院は神仏霊場の第125番札所となっています。
納経所から西側の石段を上った所に鐘楼があります。
梵鐘
梵鐘は鳳凰堂の創建当時に鋳造されたと推定され、国宝に指定されていますが、
この鐘楼のものは模造で、オリジナルは鳳翔館に展示されています。
総高199cm、口径123.6cmあり、宝相華唐草の地文の上に
鳳凰や踊る天人、龍などの模様が入っています。
「天下の三名鐘」の一つとして「姿の平等院」と称されています。
(三名鐘=声の園城寺鐘・勢いの東大寺鐘)

浮島へ向かいます。
続く

多宝塔跡
平等院の南受付所を出て東へ進むと平等院の多宝塔跡があり、基壇が復元されています。
平成6年(1994)の調査で発見され、鳳凰堂の基壇を参考にして復元されました。
多宝塔跡-復元図
多宝塔は鳳凰堂建立後の康平4年(1061)に藤原頼通の娘・寛子(かんし)に
よってが建てられました。
文献では「多宝塔」と記されていますが調査の結果、珍しい
単層の塔(宝塔)の可能性が指摘されています。
中島橋-対岸
基壇から東へ進むと河岸へと下る石段があり、下った正面には
右側の塔ノ島から左の橘島へと渡る中島橋が架かっています。
鵜飼
河岸には鵜飼の船が係留されています。
宇治川の鵜飼は、例年6月中旬~9月下旬に開催され、
全国で3番目の女性鵜匠が活躍されています。
宇治川の鵜飼の歴史は古く、『蜻蛉日記』にも表されていることから、
平安時代に鵜飼が行われていたことが証明されています。
鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、鵜の食道で一瞬にして気絶させるため、
鮮度を保つことができることから、平安貴族たちに重宝されていたと思われます。
鵜飼-図
鎌倉時代まで鵜飼記事は散見されたのですが、その後歴史から消えてしまいました。
鵜飼は漁獲効率のよい漁法ではないため、何かしらの保護がないと
存続が厳しかったのかもしれません。
宇治川の鵜飼は、昭和初年になって復興されましたが、
観光目的として現在も受け継がれています。
観光センター
下流側には宇治市観光センターがあり、観光ビデオが放映され、
宇治茶の無料サービスもあります。
喜撰橋
川沿いに上流へ向かうと喜撰橋があり、橋を渡って塔ノ島へと向かいます。
十三重石塔
塔の島は叡尊律師が宇治橋を再建するに当たり、十三重石塔を建立して放生会を行い
宇治橋の安全と魚霊の供養を祈る道場とするため、舟を模した形に築いた人工島です。
宇治橋上流での殺生を禁じ、漁具をこの塔の下に埋め、塔中には仏像や経本が納められ、
橋の再建成就の祈願が行われました。
弘安7年(1286)、宇治橋再建の際には亀山上皇の御幸を拝し、橋の落慶法要と
塔の開眼供養が行われ、橋の永世護持が祈願されました。

この石塔は、高さ15.2m、石塔としてはわが国最大・最古で、重要文化財に指定されています。
また、平成15年(2003)3月14日には、塔内納置品が京都府指定有形文化財となりました。
島はその後の度々の洪水に耐え、いつしか「浮島」と呼ばれるようになりましたが、
塔は倒壊と修復・再興が繰り返され、宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、
約150年間、川中に埋没していました。

明治40年(1907)になって、ようやく発掘に着手、同年11月から再興工事が始まりました。
しかし、九重目の笠石と頂の九輪石が見つからず、それを補って再興されました。
九重目の笠石は、石川五右衛門に盗まれ、伏見区の藤森神社の
境内の手水鉢の台石に流用されたとの説が流されました。
礎石には、こうした経緯を詳しく説明した碑が埋め込まれていますが、
石川五右衛門以下の文は除かれています。
九重目の笠石と頂の九輪石はその発見され、
現在ではこれから向かう興聖寺で保管されています。
鵜小屋
塔ノ島を下流側に進むと鵜の飼育小屋があります。
鵜小屋-分離
捕獲された野生の鵜と、人工孵化で誕生した鵜の小屋に分けられています。
人工孵化で誕生した鵜は、幼い頃から英才教育を受け、
優秀な鵜に育っていると思われます。
中島橋-柳
中島橋の袂にはしだれ柳がまだ緑の葉を残しています。
枝垂れ桜
橘島には枝垂桜が植栽され、春には宇治散策に花見が加わりますが、
自分的には秋の紅葉の方が相応しいと思います。
橘橋
島の下流側の端には橘橋が架かり、橋を渡ると平等院の表参道へと繋がります。
朝霧橋
島の中間辺りには対岸の宇治神社と結ばれる朝霧橋が架かっています。
宇治川先陣之碑
橋の袂には「宇治川先陣之碑」が建っています。
古代より水陸交通の要衝の地であった宇治は、幾多の合戦の舞台になりました。
特に宇治川で繰り広げられた木曽義仲軍と、源義経の合戦は有名です。
義仲勢は信濃の豪族仁科・高梨ら五百余騎が宇治橋の橋板を外し、川底には乱杭を立て、
その杭に太い網を張り、綱には逆茂木(棘のある木の枝を逆さにして並べる)を
結びつけて待ち構えていました。

一方、義経軍は圧倒的有利な二万五千余騎で宇治橋の袂に押寄せました。
当時の宇治川は、雪解けで増水し、激流と化していました。
この場面で先陣を買って出たのが佐々木高綱と梶原景季(かげすえ)です。
その頃、頼朝は生食(いけずき)、磨墨(するすみ)という二頭の名馬を秘蔵していました。
鎌倉を出陣する際、梶原景季には磨墨を、佐々木高綱には生食を与えました。
橘の小島より武者二騎が激しく駆け出しました。
磨墨(するすみ)と生食(いけずき)に乗った梶原景季と佐々木高綱、
激しい先陣争いの始まりです。
梶原景季の乗った磨墨は川の中ほどから押流され、はるか川下に打上げてしまいました。
生食という天下一の名馬に乗った佐々木高綱は、水中の大綱を八幡太郎義家が用いていた
名刀「面影」で切り裂き、少しも流されることなく敵陣に突撃しました。
高綱が先陣を遂げ、これを境に綱切と改名されました。
「宇治川先陣之碑」は、寿永3年(1184)の故事に因んで、昭和6年(1931)に建立されました。
神輿洗い場-対岸
対岸には宇治神社の神輿洗い場が見えます。
源氏物語
朝霧橋を渡った正面は宇治神社で、橋の下流側には、『源氏物語』
「宇治十帳」のモニュメントが建っています。
光源氏の異母弟・八の宮の山荘は、現在の宇治神社、或いは宇治上神社辺りに想定され、
夕霧の別荘は対岸の平等院とされています。
八の宮は妻・北の方を病で亡くし、二人の美しい娘・大君(おおいきみ)と中君と
山荘に篭り、仏法に帰依しました。
光源氏の次男・薫は、やがて仏法に興味を抱き、山荘へ通うようになりました。
神輿洗い場
更に下流側には宇治神社の神輿洗い場があります。
夕陽
思っていたより橋の下流側に日が沈みました。
これで終わってしまうようですが、午前中に参拝した宇治神社に続きます。

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