カテゴリ:京都府 > 宇治市

鳥居-修復前
朝霧橋を渡った正面にはかって、宇治神社の朱に塗られた鳥居が建っていました。
平成30年(2018)9月4日に近畿地方を横断した台風21号により、鳥居が倒壊しました。
兎楽の樹-1
現在は年内の完成を目指して修復工事が行われていますが、狛犬の右横に聳える
「兎楽の樹」と称される楠は災難を免れたようです。
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子がここを訪れた際、先導してきた兎が、
この木の下で楽しく戯れたとされ、宇治神社を象徴する楠と説明されています。
宇治神社では兎は神使いとされ、境内には所々に兎像が祀られています。
社務所前の狛犬
参道の左側に社務所があり、社務所前には狛犬が祀られています。
手水舎
参道の右側にある手水舎で最初の兎に出会えますが、
鳥居の修復工事中は鳥居から拝殿までの通行は禁止されています。
拝殿
参道の石段を登った正面に拝殿があります。
鎌倉時代の建保3年(1215)頃に建立され、
かっての当地の地名・桐原から「桐原殿」と称されています。
神楽殿
拝殿の右奥に神楽殿があります。
参集殿
拝殿の左側には参集殿があり、ここで御朱印の授与が行われています。
本殿前鳥居
本殿
かってこの辺りに第15代・応神天皇の離宮・桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)があり、
天皇の皇子・菟道稚郎子命が宮居(みやい)を構えた所とされています。
智慧の環
本殿前には「知恵の輪」があります。
菟道稚郎子命は、幼い頃から聡明であったことから、学業の神様として崇められています。
本殿前の石灯籠-1
本殿前の石灯籠には「離宮八幡石灯籠 元和三年(1617)九月吉日」と刻字されています。
本殿
現在の本殿は鎌倉時代初期に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
殿内中央には菟道稚郎子命の木像が安置されています。
木造は等身大の衣冠、笏を持つ坐像で、平安時代中期の作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
また、鎌倉時代作で市の文化財に指定されている、
木造狛犬一対が宇治市歴史資料館に寄託されています。
阿形像は像高80.9cm、吽形像は像高87.7cmで、狛犬の作例中では最大級に属します。

祭神の菟道稚郎子命は、百済から来朝した阿直岐(あちき)と王仁(わに)を師に
典籍を学び、父・応神天皇から寵愛されました。
王仁は『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字を日本に伝えた人物とされています。

応神天皇40年(309)1月に菟道稚郎子命は皇太子となりましたが、
翌年天皇が崩御されました。
菟道稚郎子命は儒教を学んだことから、天皇には異母兄の
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=後の仁徳天皇)が、天皇に相応しいとして即位しませんでした。
菟道稚郎子命は菟道に移り、現在の宇治神社または宇治上神社の地に
菟道宮(うじのみや)を建てて住し、大鷦鷯尊と3年に亘って皇位を譲り合いました。
そして、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩み自ら果てました。
313年、大鷦鷯尊が第16代・仁徳天皇として即位すると、菟道宮跡に祠を建て
菟道稚郎子命の神霊を鎮祭したのが宇治神社の始まりとされています。

その後、平等院が創建されると、宇治神社は宇治上神社と共に平等院の鎮守社となりました。
かっては平等院に参拝する前に宇治神社に参拝するのが習わしとなっていました。
みかえり兎
みかえり兎-説明
説明書きには「宇治」の地名について触れられていますが、
「宇治」の地名が定着するようになったのは平安時代とされています。
『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀には既に「菟道河(宇治川)」の記載があり、
菟道稚郎子命は地名を冠したと推察されています。
また、南方熊楠(みなかたくまぐす)は、菟道の由来を
「兎の群れが通って道になった」との説を立てています。
寝そべり兎
本殿玉垣内の右側には「寝そべり兎」の像が祀られています。
遥拝所
本殿の右側に伊勢神宮と橿原神宮の遥拝所があります。
願掛け兎
宇治神社ではここをパワースポットし、「願い兎」の像が祀られています。
末社‐右
遥拝所の奥には、手前から春日大社日吉神社住吉大社の末社群があり、
春日大社の社殿は京都府の文化財に指定されています。
末社-左
本殿の左側には、手前から廣田神社、松尾大社、高良神社、
伊勢神宮の末社群が並んでいます。
松尾大社には市杵島姫命、高良神社には武内宿禰、伊勢神宮には
天照大御神、国常立命が祀られています。
招魂碑
境内の右奥には招魂碑があります。
発電所
招魂碑の奥にフェンスがあり、土手に登り、フェンス越しに宇治発電所の全景を見渡せます。
レンガ造りのこの建物は、土木学会選定「現存する重要な土木遺産2800選」
Aランクに選定されています。
早蕨の古跡
境内の裏側から宇治上神社への参道に出られ、参道との角には『源氏物語』
「宇治十帖」第4帖の早蕨(さわらび)の古跡があります。
宇治の中君(なかのきみ)が詠んだ「この春は誰にか見せむ 亡き人の形見に摘める
嶺の早蕨」の和歌に因んで名付けられました。
父・八の宮、姉の大君(おおいきみ)を亡くした中君が、その心情を詠まれたものだと思いますが、
この参道は「さわらびの道」と名付けられ、先へ進むと仏徳山への登山口があります。
春には仏徳山で蕨が摘めるかもしれません。
更に「さわらびの道」を進んだ先には源氏物語ミュージアムがあります。

宇治上神社へ向かいます。
続く

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鳥居
「さわらびの道」の早蕨(さわらび)の古跡のすぐ先に宇治上神社の鳥居が建ち、
その前には「世界文化遺産」の石碑が建立されています。
宇治上神社は日本最古の現存する神社建築として平成6年(1994)に、
「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。
宇治市では平等院と宇治上神社が登録され、滋賀県大津市の延暦寺と
京都市内の清水寺や二条城など17の社寺と城で構成されています。
鳥居-扁額
鳥居には殆ど読めませんが、「離宮」の扁額が掲げられています。
明治以前まで二社一体で、宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は
「上社」・「本宮」と呼ばれ、両社を合わせて
「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称されていました。
明治に入って宇治神社と宇治上神社は分離し、宇治上神社は村社に列し、
宇治神社は明治44年(1911)に府社に昇格しました。
神門
神社の表門の手前には池があり、池には石橋が架けられています。
拝殿
門をくぐった正面に拝殿があります。
鎌倉時代の初期に建立され、国宝に指定されています。
平成15年~16年(2003~2004)に行われた年輪年代測定法で、
建保3年(1215)頃の建立と推定されています。
神のための本殿に対し、人が使う拝殿は住宅建築の様式である寝殿造が採用されています。
屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根が設けられています。
切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、
こうした形は縋破風(すがるはふ)と称されています。
清め砂
拝殿前の「清め砂」は9月1日の八朔祭で氏子により奉納され、
正月や祭事の際に境内にまき散らし、境内の清めに使われます。
御神木
授与所背後のケヤキの木は、樹齢約300年と推定され、樹高約27m、
幹回り約4.8mで、御神木とされています。
桐原水-1
拝殿の右側に、「桐原水」の建屋があります。
桐原水-2
「桐原水」は今も湧き出ている現存する唯一の宇治七名水で、手水に使われています。
飲用する場合は沸かす必要があるそうです。
本殿-1
本殿は康平3年(1060)頃の建立と推定され、現存する最古の神社建築として
国宝に指定されています。
桁行5間、梁間3間の大きな覆屋に中に一間社流造の内殿3棟が左・中・右に並んでいます。
左殿と右殿は三斗組(みつどぐみ)で、組物間に蟇股が置かれ、覆屋とは構造的に一体化されて、
左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっています。
また、左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、
建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されています。
左殿の扉絵は唐装の二人の童子、
右殿の扉絵は笏を持つ束帯姿の二人の随身が描かれています。
中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木(ふなひじき)とし、蟇股を用いないなど、
形式にも違いがあり、覆屋からも独立しています。
本殿-2
左殿(向かって右)に菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)、
中殿に応神天皇、右殿に仁徳天皇が祀られています。
菟道稚郎子命と仁徳天皇は兄弟で、応神天皇を父とし、
応神天皇は八幡神としても祀られています。
岩
本殿の右横の岩は、元は何かの社殿があった旧地です。
踏み荒らされないように岩が置かれ、祀られています。
拝殿の右奥にも、同じように岩が祀られています。
春日社
春日神社は鎌倉時代後期に造営された一間社流造、檜皮葺の建物で、
国の重要文化財に指定されています。
二社
春日神社の右側には、左に住吉社と右に香椎社があります。
香椎社には神功皇后と武内宿禰神(たけのうちのすくねのかみ)が祀られています。
神功皇后は応神天皇の母親で、武内宿禰は第12代・景行天皇(けいこうてんのう)から
第16代・仁徳天皇まで仕えたとされています。
神功皇后が三韓征伐からの帰途、麛坂皇子(かごさかのおうじ)と
忍熊皇子(おしくまのおうじ)兄弟が起こした反乱に対し、後に応神天皇となる皇子を
護ったとされ、石清水八幡宮では本殿内に祀られています。
厳島社
本殿の左側には厳島社が祀られています。
武本稲荷
厳島社から左へ進むと武本稲荷社があり、伏見稲荷大社の祭神である
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られています。
平等院を開いた藤原頼通(ふじわら の よりみち)は武本稲荷社に
神馬を献上していたとされ、その後氏子の人々が田楽を奉納したのが
宇治猿楽の始まりとされています。
武本大神
武本稲荷社の右上方には武本大神が祀られています。
与謝野晶子句碑
「さわらびの道」まで戻り源氏物語ミュージアムの方へ進むと、
与謝野晶子の「宇治十帖」の歌碑が建っています。
与謝野晶子没後50年、市制40周年を記念して平成4年(1992)10月に建立されました。
歌碑には両面に10首が晶子の真筆によって刻まれています。
晶子が34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出版したのですが、誤りが多く、欠陥本でした。
その後、一から書き直したのですが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で原稿が焼失しました。
再び書き直しに取り組み、17年後の昭和13年(1938)、
晶子61歳の時に6巻本『新新訳源氏物語』を完成させました。
与謝野晶子-句
更に『源氏物語』54帖の情景を詠み込んだ54首の和歌から成る
『源氏物語礼讃歌(げんじものがたりらいさんか)』を発表しました。
与謝野晶子は、生涯で5万首ともいわれる和歌を詠み、その中の数多くにさまざまな形で
『源氏物語』の影響を受けたと見られるものが残されています。
総角
歌碑の先に仏徳山への登山口があり、そこに「宇治十帖」第3帖「総角(あげまき)」の
古跡の碑が建っています。
薫24歳の秋八月から冬十二月の話で、八の宮の一周忌法要の夜、
薫は大君(おおいきみ)に意中を訴えたのですが拒まれました。
大君は独身を貫く決意をし、薫と妹の中君を結婚させようと考えていました。
大君の意思を知った薫は、中君を匂宮(におうのみや)と結婚させようと考えたのですが、
匂宮の母が反対し、叶いませんでした。
11月、大君が26歳の若さでこの世を去り、薫は深い悲嘆に沈み、宇治に籠って喪に服しました。
薫の悲しみを人伝てに聞いた匂宮の母は、中君と匂宮の結婚を認めました。

ここから源氏物語ミュージアムまで徒歩約3分の距離ですが、
引き返し宇治神社から上流側すぐの恵心院へ向かいます。
続く

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福寿園
宇治神社から上流側へすぐの所に福寿園宇治茶工房があります。
一階の売店の他に二階の工房では、お茶作りからお茶の楽しみ方まで、
そして朝日窯元の手ほどきで茶器造りの体験ができます。
参道
福寿園の横に恵心院への参道があります。
弘法大師
参道を進んだ突き当りには、弘法大師の石像が祀られています。
恵心院は弘仁2年(821)に空海によって創建されました。
空海は唐に渡って学んだ青龍寺の地形に似ていたことから寺号を「龍泉寺」と号しました。
その後、戦火を受け荒廃していましたが、
寛弘2年(1005)に恵心僧都源信により再興され「朝日山恵心院」と改められました。
源信は天慶5年(942)に大和国で生まれ、天暦2年(948)の7歳の時に父と死別しました。
天暦4年(950)、9歳で比叡山に登って良源に師事し、
止観業、遮那業を学び、天暦9年(955)に得度しました。
良源は定心房(現在の元三大師堂)を住房として横川(よかわ)に住したため、
源信も横川に居を移しました。
永観2年(984)11月に良源が病に倒れ、これを機に『往生要集』の執筆に取り掛かりました。
永観3年(985)1月3日に良源が入滅し、以後、
良源は「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれるようになりました。
源信は横川の恵心院に篭り、寛和元年(985)に『往生要集』を書き上げました。
『往生要集』は、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を
集めた仏教書で、1部3巻からなり、以後の浄土宗信仰の発展に大きな影響を与えました。
横川の恵心院は、我が国の浄土信仰の発祥の地とされています。

寛弘元年(1004)に藤原道長の帰依を受け、権少僧都となり、
道長の別荘「宇治殿(後の平等院)」があったこの地に移り、
龍泉寺を再興して住したと思われます。
『源氏物語』では「横川の僧都」のモデルとなり、自殺を図るも一命を取り留めた浮舟を助け、
願いを聞き浮舟を出家させた僧侶として登場しています。

翌寛弘2年(1005)、源信は母の諌言(かんげん)、「まことの求道者となり給へ」を守り、
権少僧都の位を辞退して横川へと戻り、
寛仁元年6月10日(1017年7月6日)に76歳にて入滅されました。
山門
弘法大師像の前で東に向きを変えると正面に表門があります。
煙突
表門をくぐった右側に東屋があり、そこから朝日山焼窯の煙突が望めます。
本堂
左側の正面に本堂があります。
恵心院は恵心僧都に再興されてからも兵火を受けて荒廃し、
天正5年(1577)に真言宗の僧によって中興されました。
その後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、真言宗の大道場として繁栄しました。
延宝4年(1676)に萬福寺の伽藍を中国風の黄檗様式で造営した秋篠兵庫により、
現在の本堂が再建され、京都府の文化財に指定されています。
元禄4年(1691)、第6代将軍・徳川家宣(とくがわ いえのぶ)の正室・近衛熙子
(このえ ひろこ)の寄進により聖天堂が建立され、歓喜天が安置されました。
歓喜天は藤原頼通の娘・寛子(かんし)の持念仏とされ、
大正7年(1918)以降に聖天堂が破却されてからは本堂に安置されています。
また、昭和25年(1950)に結婚した作家の稲垣足穂(いながき たるほ)は、
翌年から10年間の新婚生活を恵心院の別棟で過ごしました。

本尊は平安時代後期作で像高91.5cmの十一面観音菩薩立像で、
宇治市の文化財に指定されています。
堂内には大日如来や虚空蔵菩薩など多くの仏像が安置されています。
また、源信が自ら刻んだとされる自身の像や弘法大師像なども安置されています。
水子地蔵
本堂前には水子地蔵尊が祀られています。
池
本堂の左前には池があります。
鎮守社-1
鎮守社-2
池の横に白龍大神が祀られた社殿があります。
朝日焼
車道へと下り、上流側へ進むと朝日焼の窯元があります。
朝日焼は、慶長年間(1596~1615年)に朝日山の麓で開窯されました。
小堀遠州の庇護を受けて「朝日」が与えられ、
指導を受けて遠州七窯の一つとして一躍名を高めることになりました。
陶芸教室や体験会も開催されています。

興聖寺へ向かいます。
続く

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石門
恵心院から5分余り宇治川の上流へと歩いた所に、慶安元年(1648)に建立された
興聖寺の総門(石門)があります。
道元の碑
総門の脇には「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」と刻字された石碑が建っています。
道元禅師は建保2年(1214)に延暦寺で出家し、園城寺(三井寺)の
公胤(こういん)の元で天台教学を修めました。
貞応2年(1223)に南宋に渡り、中国の曹洞禅を学びました。
安貞元年(1227)に帰国し、天福元年(1233)に京都深草で
観音導利院興聖宝林禅寺(かんのんどうりいん こうしょうほうりんぜんじ)をを開き、
『正法眼蔵』の最初の巻である「現成公案」を執筆しました。
しかし、比叡山からの弾圧を受け、寛元元年(1243)7月に越前志比荘へ移りました。
寛元2年(1244)に傘松に大佛寺を開き、寛元4年(1246)に大佛寺は永平寺に改められました。
道元禅師は日本での曹洞宗の開祖ですが、宗旨で「高祖」と尊称されています。

断絶していた興聖寺は、慶安元年(1648)に当時の淀城主、永井尚政(ながい なおまさ)
によって、宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興されました。
尚政は、道元禅を志していた高僧・万安英種(ばんなんえいじゅ)を招いて中興開山とし、
本堂、開山堂、僧堂、庫院、鐘楼、山門などの諸堂を建立整備しました。
ほうきょう-1
ほうきょう
山門までの緩い登り坂は「琴坂」と呼ばれています。
参道の両側のせせらぎが琴の音のように聞こえることから「琴坂」と呼ばれ、
その水は総門の左側に築かれた「宝栬鏡池(ほうせいきょうち)」へと注がれています。
石門-裏側
総門をくぐって振り返ると紅葉が鮮やかで、琴坂は紅葉の名所でもあります。
茶筅塚-1
山門の手前、左側に茶筅塚があります。
茶筅塚-2
毎年10月の第1日曜日に開催されている「茶まつり」では、興聖寺で「茶壺口切の儀」
「献茶式」「茶筅塚供養」が行われます。
山門
山門は江戸時代の弘化元年(1844)に改築され、明朝の建築様式、
竜宮造となっていることから竜宮門とも呼ばれています。
楼上には釈迦三尊と十六羅漢が安置されています。
山門-紅葉
山門前の紅葉
鐘楼
門をくぐった右側に慶安4年(1651)に建立された鐘楼があります。
午前4時と10時に撞かれ、午前4時に撞かれる鐘は、振鈴(しんれい・起床の合図)と呼ばれ、
暁天坐禅、朝課(ちょうか=朝のお勤め)、回廊掃除・作務と続く
修行の一日が始まる合図になります。
この鐘楼は「興聖の晩鐘」として「宇治十二景」の一つに数えられています。
鐘楼の背後に浴司(よくす=浴室)がありますが非公開です。
庫裡
浴室の左側には庫裏があります。
秋葉大権現
門をくぐった左側には鎮守社の秋葉大権現が祀られています。
不動明王
秋葉大権現の斜め向かいには不動明王の石仏が祀られています。

秋葉大権現の左の建物は衆寮で、研修道場とされ、修行僧が修行を深める
自習用の建物であり一般には公開されていません。
本堂
画像はありませんが、山門をくぐった正面に薬医門があります。
薬医門をくぐった正面に法堂(本堂)があります。
興聖寺は正式には、山号を「仏徳山」、寺号を「興聖宝林禅寺」と号します。
「宝林禅寺」は中国の曹渓山にあって、道元禅師が敬慕した中国禅宗の
六祖・慧能(えのう)が住した「宝林寺」に因むとされています。
現在の本堂は慶安元年(1648)に伏見城の遺構を用いて建立されました。
本尊は釈迦牟尼仏で、攝津の国、自笑庵にあったものを永井尚政が譲り受けたとされ、
寺伝では道元禅師が自ら刻んだとされています。
書院-玄関
本堂の右側には大書院の玄関があります。
本堂前庭-庫裡側
参道の右側には庫裏の建物が続いています。
本堂前庭-僧堂側
参道の左側には僧堂があります。
十三重石塔塔頂部
本堂、庫裏、僧堂、薬医門に囲われた所には庭園が築かれ、その一角に浮島に
建っていた十三重石塔の九重目の笠石と頂の九輪石があります。
十三重石塔は宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、約150年間川中に埋没し、
明治40年(1907)になって発掘に着手されたのですが、
九重目の笠石と頂の九輪石は見つかりませんでした。
石川五右衛門に盗まれ、伏見区の藤森神社の境内の手水鉢の台石に流用されたとの
噂が流れましたが、その後見つかり興聖寺へ運ばれました。
魚板
興聖寺は「開かれた禅寺」として堂内の拝観が許されています。
庫裡には大きな大きな二つの魚板(魚鼓)が吊るされています。
木魚の原型とされ、魚の形をしているのは、魚は日夜を問わず目を閉じないことから、
寝る間を惜しんで修行に精進しなさいという意味が込められています。
口にくわえた丸いものは煩悩を表し、魚の背をたたくことで煩悩を吐き出させようとするものです。
ここの魚板は、よほど叩かれ続けられたのかお腹がすり減り、
もう一方は穴が開いています。
庫裡-竈
お昼前なので、大きな竈で昼食の準備が行われていました。
大書院-内部
庫裡から廊下を進んだ先に大書院があり、「宇治八景展」が催されていました。
大書院は明治45年(1912)に新築された興聖寺の「貴賓室」で、
大正8年(1919)には貞明皇后(ていめいこうごう)の行幸がありました。
大書院
大書院の東側
方丈
大書院の向かい側には方丈があり、その間には小滝が流れ落ちる内庭が築かれています。
方丈は住職の居室とされ、非公開です。

方丈の南側に次書院がありますが、非公開です。
井戸
大書院から方丈への廊下の南側には井戸があります。
宝物殿
大書院の西側には手習観音が安置されている宝物殿と
その上部に天竺殿の屋根が望めます。
引き戸-右
引き戸-左
順路に従い本堂へと進むと引き戸があり、左に鶴、右に孔雀の図が描かれています。
本堂-木魚
引き戸から本堂へ入ると大きな木魚があります。
これは「一願木魚」と呼ばれ、「静かな心で木魚を摩り、
一つだけ願い事を念じてください」と記されています。
本堂-天井
本堂は、慶安元年(1648)伏見城の遺材を用いて建立されました。
伏見城は、以前に築かれた指月伏見城が完成直後に慶長伏見地震によって
倒壊したため、慶長2年(1597)に指月から北東約1kmの木幡山に築かれました。
豊臣秀吉は完成した城に入りましたが、1年後の慶長3年(1598)に城内で亡くなりました。
城には徳川家康とその家臣が入ったのですが、家康が上杉景勝を討つために
出陣した間隙を縫って反家康を掲げる豊臣派の武将により攻撃されました。
伏見城は落城し、徳川軍は自刃して果てました。
その時の廊下の板を供養のため天井に張ったとされ、「血染めの天井板」と呼ばれ、
印内に当時の血痕が残されています。
また、前縁の廊下は鴬張りとなっています。
本堂-扁額
本堂前中央には、第87代・四条天皇(在位:1232~1242)の勅額
「興聖實林禅寺」が掲げられています。
本尊
法堂(本堂)には釈迦三尊像が安置されていますが脇侍はの詳細は不明です。
釈迦三尊の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩、梵天と帝釈天などと一定でなく、
曹洞宗などの禅宗では羅漢が配される場合もあります。
開山堂
本堂から左側の廊下を進むと、開山堂が見えますが、
順路は先に上部の天竺殿へ向かうように指示されています。
聖観音菩薩像
天竺殿の手前、右側に宝物殿があります。
以前は「知祠(ちし)堂(位牌堂)」と称されていましたが、
今回の新しいパンフレットには「宝物殿」と記されています。
堂内には檀信徒の先祖の位牌が祀られ、聖観音菩薩立像が安置されています。
像高1.6mで、平安時代の小野 篁(おの の たかむら)作と伝わり、
宇治市の文化財に指定されています。
現在は廃寺となった塔頭の大悲院に安置され、『源氏物語』「宇治十帖」
第9帖「手習」に記されている観音像として「手習観音」と称されています。
『源氏物語』ではこの観音像は「手習の杜」に祀られていたとされ、宇治川に身を投げた
浮舟が死にきれず、横川の僧都に助けられますが、
その場所が手習の杜付近だったとされています。
聖観音菩薩像-親指
この観音像は左足を前に出し、親指を上げています。
これは衆生の困苦を救うために、すぐに駆けつけるということを表しています。
天竺殿
天竺殿の須弥壇中央の厨子内には聖観音像が安置されています。
この像は東福門院が先だって崩御された第110代・後光明天皇の手紙を張り合わせて
作らせた内の一躯です。
東福門院(徳川和子:とくがわ まさこ)は第2代将軍・徳川秀忠の娘で、
徳川家康の内孫にあたり、第108代・後水尾天皇の中宮となりました。
後光明天皇は後水尾天皇の第四皇子で、東福門院が養母となっていました。
承応3年(1654)9月20日に後光明天皇は病で崩御され、明暦3年(1657)に
永井尚政がこの尊像を拝領し、興聖寺に安置されるようになりました。

左奥に永井尚政、右奥に父・直勝の像が祀られています。
永井尚政は、曹洞宗に帰依していたとされる両親の菩提を弔うと共に、
自らの菩提寺とするため興聖寺を再興しました。
また、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いで、直勝が相手側の
武将・池田恒興(いけだ つねおき)を討ち取ったことにより、
その菩提を弔うためであったともされています。
直勝は供養のため、一宇の建立を願っていたのですが、果たせませんでした。
堂内には永井家の位牌が祀られています。
開山堂‐扁額
天竺殿から下り開山堂へ向かいます。
開山堂は寛延3年(1750)の道元禅師500回大遠忌に塔頭・東禅院の大悲殿が移築されました。
道元禅師が梅の花を好まれた事から「老梅庵」と名付けられ、扁額が掲げられています。
堂内には鎌倉時代作で、竹椅子に座る等身大の道元禅師像が安置されています。
胎内には遺骨が納められています。
両脇には歴代住職の像や位牌が祀られています。
三面大黒天
本堂左側の廊下から僧堂への回廊に三面大黒天像が安置されています。
正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁才天の三つの顔を持っています。
僧堂-文殊菩薩
僧堂は慶安元年(1648)の永井尚政による再興時に建立され、
元禄15年(1702)に改修されました。
堂内には文殊菩薩坐像が「聖僧」として安置されています。
文殊菩薩は獅子の上に坐していますが、
興聖寺の獅子は開山堂の方へ尻を向けないように、右側に顔があります。
聖僧を囲むように、建物の壁に沿って僧侶個人の坐禅・生活の場である
1人1畳の大きさの「単」が連続して設けられています。
修行僧は「単」で参禅の他、食事や就寝もここで行われます。
僧堂と東司(トイレ)及び浴司(浴室)は「三黙道場」と呼ばれています。
僧堂-通路
興聖寺は「開かれた道場」として毎月第1及び第3日曜の午前9時から、
参加費無料で日曜参禅会が行われています。
経堂
堂内の拝観を終え、衆寮の方へ向かうと北側に経堂があります。
墓地の石段
経堂の先は墓地で石段が一直線上に続いています。
道元の墓
墓地の最上部に道元禅師の墓があります。
道元禅師は建長5年(1253)に病にて54歳で入寂され、廟は永平寺にありますが、
この地にも霊骨が改納されました。
嘉永7年(1854)に第121代・孝明天皇から「仏性伝燈国師」、
明治12年(1879)には第122代・明治天皇より「承陽大師」の諡号(しごう)が贈られました。
墓地からの伽藍
墓地からの伽藍です。
東禅院
琴坂を下り、途中で左に入ると塔頭の東禅院の境内となります。
東禅院は一般には公開されていないようですが、白壁と対比して紅葉が美しく感じます。
東禅院からの下り
東禅院から下ると興聖寺の石門のすぐ横に出ます。
亀石
下った所の上流側に旅館の亀石楼があり、
その駐車場前付近の宇治川に「亀石」があります。
江戸時代の地誌に「宇治川一の名石」と紹介され、
古くは第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう在位:BC29~70)の逸話が残されています。
天皇は山背の大国不遅(現在の伏見区醍醐付近)に綺戸辺(かにはたとべ)と称する
美人が住んでいると聞き、山背へ行幸されました。
途中、川から大亀が出現し、これを矛で刺すと石になったと伝わります。
天皇は霊験があるのに違いないと喜び、綺戸辺を妃としました。
また、豊臣秀吉が伏見城へ通ずる水路を開いた際に蓋にしたとも語り継がれてきましたが、
今はこの石を見るためにここまで来る人はほとんど見かけません。

京阪宇治駅の方へ戻ります。
続く

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工事竣功記念碑
興聖寺から宇治川の下流方向へ進むと宇治発電所からの放水路に架かる観流橋があり、
その袂に「工事竣功記念碑」が建っています。
宇治発電所は明治39年(1906)10月に設立された宇治川電気株式会社よって創建され、
瀬田川の南郷洗堰(なんごうあらいぜき)から、総延長11kmに及ぶ
導水路(大半がトンネル)を6年8ヶ月の期間を要して掘削し、
大正2年(1913)6月に操業を開始しました。
出力は27,630kWで、当時、関西地方の最大出力を誇っていた蹴上(けあげ)発電所の
4,800kWを大幅に上回りました。
発電所の建設には景観が配慮され、現在は発電所付近は立入禁止になっていることから、
この橋からは発電所の一部しか見えません。
離宮水
更に下流方向へ進むと「離宮水」の建屋があります。
宇治神社・宇治上神社の「宇治離宮明神」から「離宮水」と名付けられたと思われますが、
宇治七名水では無く水道水が使われているので、飲用も可とのことです。
茶業会館
「離宮水」から下流側に京都府茶業会館があります。
京都府茶業会館は昭和3年に建築されましたが老朽化が進み、
平成29年(2017)に総事業費約7千万円をかけ、
耐震補強を含めた大規模修理が行われました。
京都府茶業会館の右に隣接して「匠の館」があり、日本茶インストラクターが
「匠の館流」、お茶の淹れ方の説明を受けて自身で淹れたお茶を楽しむことができます。
一人用で4煎くらいいただけ、茶菓子とのセットで600円です。
また、予約が必要ですが、茶香服(聞き茶ゲーム)やお茶の淹れ方教室の体験ができます。
橋寺-山門
茶業会館から更に下流側へ進むと橋寺放生院があります。
正式には山号を雨寶山(うほうざん)、寺号は常光寺、
院号を放生院と号する真言律宗の寺院です。
宇治橋を管理していたことから、通称で「橋寺」と呼ばれました。
推古天皇11年(603)に聖徳太子の発願で秦河勝(はたのかわかつ)が創建したとも、
大化2年(646)に道登(どうとう)により宇治橋が架けられた際に創建されたとも伝わります。
鎌倉時代後期の弘安4年(1281)大和西大寺の僧・叡尊によって
現在地に再興されたと伝えられています。
その後、叡尊は弘安7年(1284)に宇治川での網代漁を禁止し、
弘安9年(1286)に宇治橋の再建を行いました。
浮島に十三重石塔を建立して再建成就の祈願が行われ、
橋寺では放生会が行われたことから、以後放生院と称されるようになりました。
室町時代の文明11年(1479)には三室戸寺との紛争で放火により焼失し、
江戸時代の寛永8年(1631)にも焼失しましたが、その都度再建されました。
宝暦6年(1756)の宇治川大洪水により、浮島の十三重石塔が流された際に、
塔内に納められていた金銅舎利塔などが橋寺に移され、京都府の文化財に指定されています。
橋寺-断片碑
山門をくぐった左側に「宇治橋断碑」を納めた建屋がありますが、
「宇治橋断碑」は覆いがかけられて外からは見えません。
春3月1日~5月31日と秋9月1日~11月30日までの午前9時から午後4時まで、
有料(300円)で公開されています。
宇治市文化センターにはレプリカが展示されているそうです。
宇治橋断碑は、寛政3年(1791)に橋寺の境内で発見された、宇治橋架橋の由来を刻す
石碑の首部1/3の断片で、日本で現存する最古の石碑の一つと考えられ、
国の重要文化財に指定されています。
碑文では、大化2年(646)に僧・道登が架橋したと記されていますが、
それとは異なる資料も残され、真相は明らかではありません。
橋寺-本堂
本堂
本尊は鎌倉時代作で像高191.8cmの地蔵菩薩立像です。
聖徳太子の念持仏であった地蔵菩薩を、叡尊が参考にして橋寺再興の際に
自ら刻んで安置したとも伝わり、国の重要文化財に指定されています。
脇壇には像高160cmの不動明王立像が安置されています。
平安時代作で、橋寺再興以前の本尊であったも伝わり、国の重要文化財に指定されています。
その他に清凉寺式釈迦如来坐像、阿弥陀如来、弁財天などが安置されています。
橋寺-マニ車
本堂前のマニ車には般若心経が刻まれ、
一回転すれば般若心経を読んだのと同じ功徳があるとされています。
橋寺-花
境内は紅葉と白と黄色の花に緑の葉と、色彩が豊かです。
守り本尊
境内の中央には十二支生まれ年の守り本尊が祀られています。
向かって右から千手観世音菩薩(子)、虚空蔵菩薩(丑・寅)、文殊菩薩(卯)、
普賢菩薩(辰・巳)、勢至菩薩(午)、大日如来(未・申)、不動明王(酉)、
阿弥陀如来(戌・亥)が安置されています。
橋寺-イチョウ
境内の南西端に聳えるイチョウの木は推定樹齢250年、樹高約14m、幹周約2.9mで、
宇治市の名木百選に選定されています。
橋寺-橋かけ観音
橋かけ観音には、「恋のはしかけ」「極楽のはしかけ」「合格のはしかけ」と記されています。
橋寺-子育地蔵
水子地蔵尊と子育地蔵尊が並んで祀られています。

橋寺放生院から京阪宇治駅までは2~3分の距離です。

次回は平泉、中尊寺の金色堂の元となった白川金色院跡から
天ケ瀬ダム、三室戸寺を巡ります。

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