カテゴリ:京都府 > 久御山町~京田辺市

京阪八幡駅
現在の京阪「八幡市駅」
京阪電車は令和元年(2019)10月1日に京阪線2駅と鋼索線2駅の
駅名を変更すると発表しました。
深草駅は「龍谷大前深草駅」に、八幡市駅は「石清水八幡宮駅」に変更され、
鋼索線の八幡市駅と男山山上駅は「ケーブル八幡宮口駅」と
「ケーブル八幡宮山上駅」に改められます。
これにあわせ、「京阪電車 石清水八幡宮・龍谷大前深草 駅名変更記念入場券」
(300円)が10月1日10時から石清水八幡宮駅、龍谷大前深草駅で販売されます。
販売期間は10月6日までで、各駅限定150セットで終了となります。
記念グッズとなる「京阪電車 石清水八幡宮・龍谷大前深草・石清水八幡宮参道ケーブル
駅名変更記念マグネット」(1200円)も用意され、こちらは10月5日、6日に開催される
「鴨東線開通&8000系誕生30周年記念イベント」の中で販売されます。
男山ケーブル
男山ケーブルは大正15年(1926)に男山索道によって開業されました
その後、男山鉄道に社名変更され、京阪電気鉄道の子会社となりましたが、
昭和19年(1944)に資材が供出され、廃止されました。
昭和30年(1955)に京阪電気鉄道の直営で復活され、
平成13年(2001)には現在の車両が導入されました。
男山ケーブル-新
令和元年10月1日には鋼索線の通称は、「男山ケーブル」から
「石清水八幡宮参道ケーブル」に変更されるのに伴い、
同年5月から6月にかけてリニューアル工事が行われました。
男山ケーブル-旧色
かっての車両色は京阪電車の特急色でした。
あかね
あかね
こがね
こがね
リニューアル工事に合わせ、車両デザインも一新されました。
太陽と月に見立て、「陽(赤)の遣い」と「月(黄)の遣い」がデザインのコンセプトとなり、
メタリックフィルムでラッピングされ、光の情緒感と神聖さが表わされています。
車両には「あかね」、「こがね」と命名され、石清水八幡宮の御神紋「流れ左三つ巴」を
モチーフにしたシンボルマークが採り入れられています。

ケーブルでは高低差82m、距離400mを3分で山上へと運び上げてくれますが、
石清水八幡宮へは歴史を知る上で、ケーブルよりも歩いて登る必要があります。
八幡市駅前のロータリーを進み、右に曲がると一の鳥居が見えます。
東高野街道
社標前は東高野街道の起点となっています。
東高野街道は洞ヶ峠(ほらがとうげ)を超え、大阪府の河内長野市で西高野街道と
合流して高野山へと至ります。
街道は、出来るだけ直線になるように計画されて通された古代道路と推定されていますが、
いつごろ開通したのかは定かではありません。
一の鳥居
一の鳥居は高さ約9m、最大幅約11mの花崗岩製で、最初は木製でしたが、
寛永13年(1636)に松花堂昭乗(1548~1639)の発案により石鳥居に造り替えられました。
扁額
鳥居に掲げられた扁額は元は、第66代・一条天皇(980~1011)の勅額でした。
長徳年間(995~999)に平安の三蹟と称えられる藤原行成(972~1027)が
天皇の勅を奉じて筆を執り、元和5年(1619)に松花堂昭乗が行成筆跡の通りに書写しました。
「八」の字は二羽の鳩がデザインされています。
八幡神とされる誉田別命( ほんだわけのみこと)が国内を平定するときに、
水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いとされています。
また、男山にはかって、多くの鳩が住み、「鳩嶺(はとがみね)」とも呼ばれていました。
放生池
鳥居をくぐると参道の右側に放生池があります。
背後の山上に本殿があります。
筒井
参道の左側には筒井があります。
以前は井桁のみでしたが、寛延2年(1749)に「泉殿」が建てられたという記録が残っています。
筒井は、男山名水の一つで、八幡五水の中でも、一番の清水といわれましたが、今は...?。
北門
筒井の先に北門があります。
頓宮殿
頓宮殿
斎館
斎館
北門をくぐると周囲は回廊で囲われ、囲われた場所は「頓宮」と呼ばれています。
頓宮殿や回廊は慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで焼失し、
頓宮殿は大正4年(1915)に、回廊は昭和44年(1969)に再建されました。
頓宮殿の左側には斎館がありますが、鳥羽・伏見の戦いで焼失する前は
元慶2年(878)に創建された極楽寺がありました。

頓宮には普段は誰もいませんが、三大勅祭の一つである9月15日の石清水祭では、
本殿から3座の神霊が御鳳輦(ごほうれん=神輿)3基で頓宮殿まで降りてこられ、
ここで勅使により奉幣が捧げられます。
石清水祭の始まりは、貞観5年(863)の旧暦8月15日に宇佐神宮に倣った「石清水放生会」で、
生ける魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始められました。
御鳳輦は頓宮で一晩滞在されることから、頓宮周辺は「宿院」と呼ばれていました。
天暦2年(948)からは勅祭となりましたが、室町時代になると戦乱のため
度々延期されるようになり、文明年間(1469~87)以降は中絶しました。
江戸時代の延宝7年(1679)に200年ぶりに再興されましたが、明治の神仏分離令により
仏式で行われていた「石清水放生会」は明治元年(1868)年に「仲秋祭」、
同3年に「男山祭」と改称され、仏教色は一掃されました。
明治5年(1872)には神幸の儀が廃されて単に地方長官が奉幣使として
参向されることになりましたが、明治16年(1883)に明治天皇の旧儀復興の命により、
翌年から勅使参向が復活しました。
明治2年(1869)に「男山八幡宮」と改称されていた社号が「石清水八幡宮」に復したのに伴い、
「石清水祭」に改められました。
戦後、昭和20年(1945)に官制廃止により旧儀中絶となりましたが、
昭和24年(1949)に復興されました。

石清水祭は葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の一つで、15日午前2時に山上の
本殿にて御鳳輦(神輿)3基に3座の神霊を奉遷する儀式から始まります。
午前3時に約500人の神人と呼ばれるお供の列を従え、表参道を下ります。
午前8時に放生川にて魚や鳩が放たれ、午前9時には4人の童子による
「胡蝶の舞」が舞われます。
その日の夕刻に御鳳輦は山上へと還幸になります。
黒門
廻廊の西側にある黒門を出た所に全国最大規模の五輪塔があります。
但し、この門は通常閉まっていますので、一の鳥居前から
神應寺の方へ向かわないと行けません。
五輪塔
鎌倉時代の作で高さ約6m、地輪の一辺が2.4mあり、国の重要文化財に指定されています。
この石塔には刻銘が無く、造立の起源が不明なため、様々な伝説があります。

その①
摂津尼崎の商人が、中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、
その恩に報いるために建立されたと伝えられています。
航海の安全を祈って参詣されることから「航海記念塔」とも呼ばれています。

その②
亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたことから「忌明塔」とも呼ばれています。

その③
鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚。

その④
石清水八幡宮を勧請した行教律師の墓。

どれが真実なのか?それとも別に答えがあるのかあるのか?解明は難しそうです。
五輪塔-図
お墓の歴史HPで五輪塔が解説されていましたので、引用します。
『■ 五輪塔は真言宗開祖「空海」によって考え出された墓塔とされている。
空海は、この宇宙は六つの構成要素から成り立つとした。
これを「六大体大」と呼ぶ。
「六大」とは「地・水・火・風・空・識」の六つの存在要素を指し、
このうち「地・水・火・風・空」の五つを「五大」といい、物質的な存在を表す。
「地」は大地であると同時に、固体を表す。
「水」は流れたり、移動したり、下降するもの、つまり水や液体を表す。
「火」は燃え上がり、上昇するものであり、「風」は動く気体を表す。
そして、「空」は空間を表している。
この「五大」に、精神的な存在である「識」が加わって「六大」となる。
「識」とは認識作用のことで、宇宙は物質だけでなく、そこに認識作用が加わって
はじめて存在するとされる。
空海は「識」のことを「智」とも「覚」とも「心」とも言っているが、
つまりは我々の精神活動を言っている。
また、全ての物質の形は宝珠・半円・三角・丸(玉)・四角の五つの相で成り立つとし、
これらを組み合わせることによって五輪塔の形を作り上げた。
また、人間も小宇宙であり、五大要素によって構成されているとし、
    地輪(方形)=体
    水輪(円形)=血液
    火輪(三角形)=体温
    風輪(半円形)=呼吸
    空輪(宝珠形)=これらがうまく融合した状態のことであると説いている。
五大は人間の五体、つまり人を表し、大自然そのものを表している。
墓塔の五輪塔は、この宇宙観から生まれた。
墓石に「五大」の「地・水・火・風・空」を表し、宇宙=人間を表現する。
ここに「識」が加わってはじめて宇宙=人間が成り立つのである。
つまり、召還=お性根入れ=開眼法要を行うことによって、「六大」が完成するわけである。
新しく墓石を建立したとき開眼法要を行うのは、墓石に心=魂を入れることに外ならない。
そうしてみると、墓石には「魂」、「心」が宿っている訳であるから、
決して粗末には扱えない。』---引用はここまで。
五大思想は元来インドにあった思想で、五輪塔はインド思想を構築し直した密教が
日本に伝わり、平安時代後半頃から造立が始まったと考えられています。
南門
頓宮の南門は昭和13年(1938)に山上本宮の南総門が新築されたのに伴い、
ここに移築されました。
高良神社-鳥居

高良神社-本殿
本殿
南門をくぐった右側(西側)に摂社の高良神社があります。
高良神社は宇佐八幡宮から八幡大神を勧請した行教和尚が、貞観2年(860)に社殿を建立し
、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祭神として祀ったと伝わります。
高良玉垂命は記紀にも登場しておらず、その正体は諸説あり、現在も定かではありません。
藤井
鳥居前の左側には男山名水の一つでもある藤井があります。
高良神社-拝殿
鳥居をくぐり石段を上った正面に拝殿があります。
タブの木
拝殿の左側(南側)に聳えるタブの木は樹齢約700年で御神木とされています。
根回り約7.5m、樹高約24mの大きさがあります。
古絵図
神社前には江戸時代後期の高良神社と宿院の図が描かれています。
かっての賑わいは『徒然草』「第52段」に記されています。
『昔、仁和寺の僧侶が年寄りになるまで石清水八幡宮に参拝したことがないのを
苦にしていて、ある日思い立って徒歩で一人石清水八幡宮へ向った。
男山山麓の極楽寺、高良神社を参拝して帰った。 
京に帰って、同僚の僧に「長年の念願をやっと果たすことができました。
 石清水八幡宮は、うわさに聞いていたよりずっと素晴らしく感動いたしました。
ところで、たくさんの人が山へ登るのを見ました。
行ってみたいという気持ちもありましたが、八幡宮の参拝が目的でしたから、
山には登りませんでした。」 と言った。
僧侶は、山上の本殿を拝むことなく帰ってしまったのです。
「どんな小さなことでも、案内人は必要だと痛感した』という戒めが込められています。
当時の極楽寺も壮大な伽藍を持つ大寺院だったそうですが、
高良神社もまた慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで焼失しました。
現在の社殿は明治12年(1879)に再建され、地域の人々の氏神として、
毎年7月17日、18日に例祭が行われています。
高良神社太鼓まつり ※17日-宵宮 18日-本宮 18日19時頃-宮入り
頼朝松
参道を進んだ左側に「く」の字のように見える「頼朝松」があり、
その背後に見える石段は裏参道です。
建久6年(1195)、東大寺の大仏殿落慶供養に参列するため上洛した源頼朝は、
石清水八幡宮を参拝し、持参した6本の松の苗木を境内に植えたと伝えられています。
昭和の初めまで、1本がかろうじて生き残っていたですが、
昭和22年(1947)に落雷によって焼失しました。
現在の松は、昭和30年(1955)に奉納されたものです。
安居橋
頼朝松から石畳の車道を横切った所に放生川が流れ、安居(あんご)橋が架かっています。
この橋は、石清水祭の放生会の舞台になります。

表参道から本殿へ向かいます。
続く

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二の鳥居
頓宮の南門から南へ進むと表参道で、
「頼朝松」から右側(西側)の石段を上ると裏参道となります。
表参道から登り、裏参道へ下りたいと思います。
表参道の入口には二の鳥居が建ち、ここから30分弱で本殿へ参拝することができます。
相槌神社への下り坂
鳥居をくぐり参道を進むと下りの石段があります。
下馬碑
石段を下った所に松花堂昭乗の筆と言われている下馬碑が建っています。
相槌神社
下馬碑の北側に相槌神社があります。
山ノ井-1
山ノ井-2
相槌神社に隣接して山ノ井があります。

相槌神社には髭切(ひげきり)、膝丸(ひさまる)と命名された名刀の
以下のような伝説が残されています。
『平安時代の中頃、多田(源)満仲公が筑紫国三笠郡土山に住んでいる鍛冶職人の男を
呼び寄せて「武将にも朝廷にも代々受け継ぐことのできるような、丁度三種の神器に
匹敵するくらいの立派な刀を打ってほしい」と要望され、
鍛冶職人は、石清水八幡宮に参籠して一心に祈りました。
やがて「汝の申すこと、よく分かった。良い鉄を使って作るがよい。
最上の剣を二つ与える」との託宣を頂いた。
その刀工は良質の鉄を持って来て山ノ井の水を焼刃の水に使って昼夜を問わず
懸命に刀を打っていると、何処からともなく相槌をしてくれる音がして、
ふと我に返ると向かいに神様がいて一緒になって刀を打っていた。
その刀鍛冶は霊験の厳かさに、神様をこの場所に祀り相槌稲荷社とした。
出来た二振りの刀は、早速、多田満仲公に献上した。
満仲は余りもの素晴らしさに、刀の切れ味を罪人を使って試したところ、
罪人の髭まで切れてしまった。
また、もう一方の刀も罪人の膝までも切れてしまい、その刀を髭切(ひげきり)
、膝丸(ひさまる)と命名した。
満仲の息子の源頼光の時、その二振りの刀の一振りは源頼光の配下の渡辺綱が持ち、
一条戻り橋で突然何者かに兜をつかまれた渡辺綱が切りかかると、
兜をつかんだままの鬼の腕だけ落ちていた。
更にもう一振りは源頼光が持ち、瘧(おこり、マラリヤ)で苦しんでいた時、
怪しい法師が現れ切ったところ、それが土蜘蛛だと分かった。
この様な奇怪な出来事が起こり、名前を鬼斬(おにきり)、蛛斬(くもきり)と改名した。
後世、この二振りの刀は北條氏に渡り、一振りを足利尊氏に、もう一振りを
新田義貞へ伝わり、その後新田氏から徳川氏に伝来したという。』
七曲り
参道へ戻ると七曲がりの石段が続きます。
大扉稲荷社-1
大扉稲荷社-2
七曲がりの石段を登りきると左側に大扉稲荷社があります。
文政12年(1829)当時、富くじが流行し、御利益を得た信者の寄進で建立されたそうです。
現在でも宝くじに御利益があるかは定かではありません。
かげきよの碑
大扉稲荷社の前に影清塚があり「舊跡(きゅうせき)かげきよ」の石碑が建っています。
駒返し橋の碑
影清塚から奥へ進むと「駒返し橋」の石碑が建っています。
祓谷
この谷は「祓谷(はらいだに)」と呼ばれ、参道沿いに小川が流れ、
曲がった所に駒返し橋が架かっています。
ここから先は登りが急峻となるので、馬がここから引き返したと伝わりますが、
七曲がりの石段下に下馬碑があり、ここまで馬で来れなかったと思われます。
かって、この辺りに祓谷社があり、人の穢れを早川の瀬で浄めるとされる
瀬織津姫(せおりつひめ)が祀られていました。
参詣の人々はこの小川に自分の影を写し、身繕いを正したことが
「影清」の由来となったと伝わります。
6月30日の夏越大祓と12月31日の年越大祓もここで行われていましたが、
現在は山上の祓所に移されました。
参道の先は松華堂跡や石清水社を経て、裏参道に合流します。
かげきよ塚の先
表参道に戻ります。
ここからは緩やかな登り坂が続きます。
橘本坊跡
緩やかな坂を登った所に東谷・橘本坊(きっぽんぼう)跡があり、石垣が残されています。
石清水八幡宮は宮寺として創建され、江戸時代までは
「男山四十八坊」と呼ばれる宿坊や僧坊が建ち並んでいました。
橘本坊もその一つで、足利氏の祈願所でした。
足利氏は、平安時代後期に石清水八幡宮の社頭で元服し、「八幡太郎」と呼ばれた
源義家の四男・義国が下野国(しもつけのくに)足利荘(栃木県足利市)を領地とし、
義国の次男・義康以降の子孫が「足利」と称したことに始まります。
室町幕府の第三代将軍・足利義光の母・良子は石清水八幡宮寺の長官を務めた
善法寺家の出身であったことから所縁も深く、
足利将軍の多くは何度も参詣し、放生会も執り行いました。
橘本坊には八幡太郎の産衣や甲冑が残されていましたが、
宝暦9年(1759)の大火で失われました。
男山の麓の南約300mの所に善法寺家ゆかりの善法律寺があり、
良子が寄進した紅葉が美しく「もみじ寺」とも呼ばれています。
また、善法律寺には神仏分離令後の廃仏毀釈で、頓宮の極楽寺から
宝冠阿弥陀如来坐像、本宮からは僧形八幡坐像が遷され安置されています。
橘本坊跡先の石段
橘本坊跡からは再び石段が続きます。
石段の曲がり角
石段は右側へカーブしています。
中坊跡
曲がった先に中坊と椿坊の跡があります。
椿坊は現在の社務所辺りにあり、平安時代後期から鎌倉時代にかけての
女流歌人・小侍従(こじじゅう)が住んでいたと伝わります。
小侍従は石清水八幡宮の別当・光清(こうせい)の娘で、異母姉は鳥羽天皇に嫁ぎ、
八幡市の地名・美濃山から美濃局と呼ばれました。
小侍従は女房三十六歌仙の一人に加えられ、私家集である『太皇太后宮小侍従集』、
『小侍従集』、及び『千載和歌集』以降の勅撰集、その他私撰集等に作品を残しています。
また、『平家物語』等に記されたエピソードから
「待宵の小侍従(まつよいのこじじゅう)」と呼ばれました。
小侍従の墓は大阪府三島郡島本町にあります。
四角い切り石が積み上げられた所には中坊の門がありました。
中谷の絵図
この辺りは「中谷」と呼ばれ、現在の社務所周辺まで所狭しと坊が建ち並んでいました。
豊蔵坊跡
中坊跡の石垣の上には豊蔵坊跡があります。
豊蔵坊は徳川家康が早くから祈願所とし、徳川将軍家の坊として最も栄えました。
石清水八幡宮の祀官家・田中氏の分家、正法寺(しょうぼうじ)の志水宗清の
娘・お亀の方は、文禄3年(1594)、22歳の時、家康に見初められ側室に入り、
慶長5年(1600)には尾張徳川家の祖である五郎太(後の徳川義直)を出産しました。
そのような関係からか、豊蔵坊は江戸幕府が直接修理や築造を行い、
客殿や庭園を備え、湯殿が2か所、3棟の蔵がありました。
また、文久3年(1863)には第121代・孝明天皇が攘夷祈願を行いました。
しかし、明治の神仏分離令により建物は全て破却され、
徳川家康の像は等持院へ遷されました。
茶処
石段を上った中間辺りに茶処がありますが、普段は営業されてないようです。
古地図にはこの付近に愛染堂が描かれていますが、
還俗した社僧らによって売却されました。
愛染堂は寛元4年(1246)に建立された隅切り八角形の仏堂だったそうです。
愛染明王像
安置されていた愛染明王像は現在、愛知県蒲郡市の永向寺に遷されています。
開山堂の絵図
愛染堂の向かいには、古絵図では開山堂が描かれていますが、
その後の変遷などの詳細は不明です。
神仏分離令後、石清水八幡宮から凄まじい勢いで仏教色が排除され、
貴重な文化財が換金されて散逸したそうです。
神馬舎
石段を上った左側に神馬舎があります。
昭和34年(1959)に新築され、神馬も奉納されましたが、
平成16年(2004)に死去してからは建物だけが残されています。
神馬舎の辺りには天治3年(1126)に平清盛の孫である平 宗実(たいら の むねざね)が
建立した「駿河三昧堂」と称した多宝塔がありました。
走上り参道
神馬舎の横にも古くからの参道があり、古絵図では小さな門が描かれています。
ナビタイムによると、走上りバス停まで1.1km、約15分、歩数は約1,506歩で、
消費カロリーは約185kcalだそうですが試してはいません。
三の鳥居
神馬舎の正面には三の鳥居があり、参道が南総門まで一直線に伸びています。
三の鳥居周辺には、平安時代に藤原道長の建てた仏塔がありました。
鳩峯寮の庭
鳥居をくぐった左側に、重森三玲氏による「鳩峯寮(きょうほうりょう)の庭」が築庭されています。
昭和36年(1961)9月16日の第二室戸台風で倒壊した三の鳥居の石材を用いて
昭和41年(1966)5月11日に作庭されました。
重森三玲氏は明治29年(1896)8月20日に岡山県で生まれ、昭和4年(1929)に
京都へ移り住み、生涯にわたって石清水八幡宮への月参りを続けられました。
第二室戸台風は最低気圧が882hPaを観測した超大型台風で、9月16日9時過ぎに
中心気圧925hPaで室戸岬西方に上陸し、風速計が振り切れてしまう
(84.5m/s以上)の風を観測しました。
関西に甚大な被害をもたらしたこの台風により、正保2年(1645)に建立された
三の鳥居が倒壊しました。
石灯籠

三の鳥居から南総門までの石畳の参道は100mあり、両側には400基の石灯籠が並び、
その一部にはかっての宿坊の名が残されています。
平成30年(2018)6月18日午前7時58分に発生した大阪北部地震では、境内や参道の
石灯籠約500基の内約40基が倒壊するなどの被害を受けました。
関係者からは「倒れた石灯籠は江戸時代以降のもので、それ以前のものは無傷であった」と
の話もありましたが、現在では全て修復されています。
一ッ石
石畳の参道の三の鳥居前の中央に、自然石が埋め込まれています。
「一ッ石」「勝負石」と呼ばれ、かって南総門の下にあった「五ッ石」まで、
競い馬・走り馬の出発点になっていました。
また、百度参り、千度参りの起点となっていたことから「百度石」とも呼ばれ、
江戸時代には本殿参拝を終えた参詣人が一ッ石の前で再び本殿に向かい
拝礼するという習わしがあったとも伝わります。
御鳳輦舎
参道を進んだ右側(東側)に御鳳輦舎(ごほうれんしゃ)があります。
ここに鳳輦(ほうれん)3基が納められています。
鳳輦とは、屋根に鳳凰の飾りのある天子の輦(くるま)で、神輿の原形と言われています。
石清水祭では、本殿から3座の神霊が鳳輦3基で頓宮殿まで降りられる際に使用されます。
御羽車舎
御鳳輦舎の北側に御羽車舎があります。
淀殿が再興した経蔵でしたが、明治の神仏分離で羽車2基を納め「御羽車舎」と改称されました。
羽車とは、御神体の移動などに用いられる輿(こし)のことです。
書院
御羽車舎の北側に書院があります。
石庭-1
石庭-2
書院石庭は昭和27年(1952)に重森三玲氏によって作庭されました。
南北約8m、東西約6mの方形のなかに白砂が敷き詰められ、
八幡大神の「海神」としての神格に因み、海洋を表しています。
白砂の上にはもともと男山に散在していた石14個を大海原に浮かぶ島に見立てて配し、
三尊石を組んだものもあります。
15個目の石として、石庭の東南の角には配置されている石灯籠には
「永仁3年(1295)未乙三月」の刻銘があり、国の重要文化財に指定されています。
社務所
書院に隣接して北側に社務所があります。
供御所
南総門への石段下の左側に供御所(くごしょ)があり、
現在の建物は慶長2年(1597)に造営されました。
竈神殿
また、末社の竈神殿(そうしんでん)としてかまどが祀られています。
台所守護神を祀り、神殿に供える食物を調理する所としての役割を持っていました。
カゴの木
南総門の右側(東側)に立つカヤの木は、御神木とされています。
樹齢約700年以上で樹高約20mあり、京都府下のカヤのなかでも有数の巨木とされています。
カヤの実からは油が採れますが、現在では石清水祭の神饌として使われ、
また茶道・裏千家の初釜式において「蓬莱山飾り」という新春のお飾りにも用いられています。

本殿へ向かいます。
続く

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南総門
南総門は昭和13年(1938)に再建されました。
南総門から本殿は正対していません。
本殿を参拝して帰る際、本殿に背を向けない配慮がなされています。
本殿の図
現在の社殿は寛永11年(1634)に徳川三代将軍・家光の修造によるもので、
平成28年(2016)に国宝に指定されました。
石清水八幡宮は神仏霊場の第81番札所となっています。
楼門
阿吽の鳩
楼門の正面、蟇股部分に一対の向かい合う鳩の錺金具(かざりかなぐ)が施されています。
向かって右側の鳩は少し口を開けた阿形を示し、八幡大神の神使いである鳩が
阿吽の呼吸で神前を守護しています。
また、蟇股の裏側には徳川家の「葵の御紋」が中央に、その両側に
御神紋「流れ左三つ巴紋」が彫られた錺金具が施されています。
参拝する者には見えませんが、八幡大神には正面になります。
龍虎の彫刻
極彩色の龍虎の欄間彫刻は、四神で考えると東の青龍、
西の白虎からすれば東西が逆となります。
社殿を修造した家光が辰年生まれで、家康が寅年生まれだったことから
上位の東側に虎を配したと考えられています。
東門
本殿は180mに及ぶ回廊によって囲われ、外部から見ることはできませんが、
東門から前殿の屋根の先端が見えます。
八幡造りの本殿は、前殿(まえどの)・後殿(うしろどの)と呼ばれる切妻造・平入の2つの
建物を前後に連結させ、中間には1間の相の間(あいのま)があります。
前殿は外殿、後殿は内殿と呼ばれ、前殿に椅子、後殿に帳台が置かれ、昼は前殿、
夜は奥殿に神が遷られるとされ、共に神座となっています。
前殿と後殿の軒の接する相の間に金属製の樋を渡して雨水を受ける構造となっていますが、
この樋は「黄金の雨樋」と呼ばれています。
長さ21.7m、幅54cm、深さ21cm、唐金(青銅)製の雨樋は、
織田信長によって寄進されました。
天正7年(1579)12月、山崎の寶積寺に逗留していた信長は、石清水八幡宮の雨樋が
木製で朽ちて雨漏りがしていることを聞き及び修理を命じました。
翌、天正8年8月、有事の際には換金できるようにと、
信長はこの「黄金の雨樋」を寄進したと伝わります。

石清水八幡宮の祭神・八幡大神とは、誉田別命(ほんだわけのみこと) 、
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめおおかみ)の
三柱を総称したものです。
誉田別命は第15代・応神天皇で、息長帯姫命(神功皇后)は応神天皇の母親です。
比咩大神は、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、
多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神を指し、
神功皇后は三韓征伐の際、宗像三女神に航海の安全を祈願したと伝わります。
また、社殿内の摂社・武内社の祭神・武内宿禰(たけしうちのすくね)は、
三韓征伐からの帰途、神功皇后を待ち伏せしていた麛坂皇子(かごさかのおうじ)と
忍熊皇子(おしくまのおうじ)を撃退しました。
鬼門封じ
社殿の東北角の石垣は切り取られています。
艮(うしとら)の方角で鬼門とされ、鬼門封じのために切り取った造りになっています。
比叡山の延暦寺が平安京の表鬼門を守護し、石清水八幡宮は裏鬼門を守護する
国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。
また、木津川・宇治川・桂川の三川が合流して淀川となる地点に位置することから、
水運の神としての信仰も集めました。
天慶2年(939)に関東で平将門が、瀬戸内海で藤原純友が朝廷に反旗を翻すと、
朝廷は石清水八幡宮に調伏の祈祷が命じ
翌天慶3年(940)には平将門が討ち取られ、藤原純友も天慶4年(941)に捕えられ、
獄中で没し、乱は平定されました。
皇室からの崇敬は更に深まり、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は240余を数えました。
天慶2年(939)には伊勢神宮に次いで奉幣される地位となり、伊勢神宮と並び
二所宗廟(そうびょう=皇室の祭祀が行われる)とも称されました。
天慶5年(942)、第61代・朱雀天皇より平将門・藤原純友の乱平定の
報賽(ほうさい)として石清水臨時祭が始められました。
石清水臨時祭は、例祭である九月十五日の石清水放生会に対し、
陰暦三月牛の日に行われた祭礼で、宮中から勅使が参向し、幣を捧げ宣命を読み、
東遊・神楽・走馬等が行われましたが、現在では行われていません。
巨大神矢
正月には楼門前に大きな八幡神矢が設置されます。
石清水八幡宮は、貞観元年(859)に大安寺の僧・行教和尚によって
豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮から八幡大神を勧請し、翌貞観2年(860)に朝廷により、
八幡造の社殿(六宇の宝殿)を造営し、4月3日に遷座されました。
行教和尚は天安2年(858)に藤原良房の外孫・惟仁親王(後の清和天皇)の即位を
祈祷するため、九州の宇佐八幡宮へ派遣されました。
しかし、惟仁親王は同年8月27日(858年10月7日)に第56代天皇として即位したため、
翌貞観元年(859)、改めて天皇護持のため宇佐八幡宮に90日間参篭しました。
このとき神託を受け、八幡大神を男山へ勧請したとされています。

一方、大安寺にも八幡神社があり、石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から
元石清水八幡宮とも称されています。
入唐した行教が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠してその神影を奉戴、
大同2年(807)に大安寺・東室第7院の石清水房に鎮座したのが始まりと伝わります。
その後、神殿を造営して遷座し「石清水八幡宮」と号して大安寺の鎮守神としました。
貞観元年(859)、神託により山城男山へ遷座したため、改めてその跡に祀ったのが
八幡神社の創祀であるとされています。

また、大山崎町にある離宮八幡宮も、石清水八幡宮の元宮とされています。
清和天皇の勅命により最初に石清水八幡宮が創建されましたが、その後男山に
遷座されたため、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので
社名を離宮八幡宮とした、と伝わります。

石清水八幡宮の創建以前の男山には、薬師如来を本尊とする石清水寺
(現在の石清水社)があったと伝わります。
「石清水」の社号は石清水寺に由来するとの説があります。
石清水八幡宮が創建されると石清水寺はその神宮寺となり、貞観4年(862)には
護国寺と改称され、神仏習合色が増していきました。
行教の甥、安宗(あんじゅ)が初代別当、行教の弟、益信(やくしん)が
初代検校(けんぎょう)となりこの宮寺を維持・運営しました。
また、貞観2年(860)に社殿が造営された際、行教は祖先とする
武内宿禰命(たけうちのすくね/たけのうちのすくね)を祀る武内社を
本殿内の右側(向かって左側)に造営しました。

清和天皇の子孫の多くが臣籍降下して清和源氏となり、中でも枝葉広く栄えたのが
第六皇子・貞純親王の子・経基王の子孫で、源頼朝・足利尊氏をはじめ武家源氏の
大半がこの系統から輩出しました。
八幡大菩薩は源氏の守護神として深く信仰され、源氏によって各地に勧請されていきました。
源氏一門の崇敬により、武神、弓矢の神としての信仰が更に厚くなり、石清水八幡宮の
御神矢は破邪顕正(はじゃけんしょう)・一発必中(邪悪な敵をうち払い、
正しきを守り、狙った的に必ずあたる)の霊験(れいげん)あらたかとして信仰を集めています。
橘の木
社殿前の左側には橘の木が植えられています。
八幡大神を勧請した行教の家紋が橘であったこと、また創建時の六宇の宝殿を
建立したのが木工寮権允(もくのりょうごんのじょう)・橘 良基であったことに由来します。
石清水八幡宮の御神紋である「流れ左三つ巴」とともに橘が御社紋として使われています。
神楽殿
楼門前の左側に神楽殿、その手前に勤番所があります。
巫女の舞
正月から2月3日の湯立神事などの際に、厄除け・開運の八幡神矢が授与され、
神楽殿で巫女の舞によって清められています。
神矢納め所
神楽殿の南側にある勤番所はその期間中、八幡神矢の授与所、
それ以降は納め所となります。
西総門
信長塀と西総門
神楽殿から社殿を囲むように、天正8年(1580)に織田信長により寄進された
築地塀が築かれています。
瓦と土を幾重にも重ねることにより耐火性と耐久性に優れ、織田信長が好んだ様式で、
通称で「信長塀」と呼ばれています。
楠木
信長塀の外側に聳える楠の大樹は、建武元年(1334)に楠木正成が必勝祈願参拝の折に
手植えしたと伝わる7本の内の1本で、御神木とされています。
樹齢約700年で京都府の天然記念物に指定されています。
北門
北総門
信長塀には江戸時代前期の西総門・北総門・東総門が設けられ、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
三社殿
西総門の北側に手前から長田社・生田社・廣田社の三社殿があります。
長田神社生田神社廣田神社のいずれも神功皇后が三韓征伐から凱旋されたとき、
それそれの地先で「この地に祀れ」との神託をうけて祀ったのが始まりとされています。
校倉
北西の角に江戸時代中期に建立された校倉(宝蔵)があり、
京都府の文化財に指定されています。
住吉社
校倉の右側に住吉社とその手前に一童社(いちどうしゃ)が並んで建っています。
住吉三神は神功皇后の三韓征伐において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導きました。
また、皇后は大和への帰還中に麛坂皇子(かごさかのおうじ)・
忍熊皇子(おしくまのおうじ)の反乱に遭い、更に難波へ向かうも、船が進まなくなりました。
住吉三神から現在の住吉大社の地に三神の和魂を祀るように託宣を受け、
そのように鎮祭すると、無事海を渡れるようになったと伝わります。
社殿は江戸時代初期に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

住吉社の右側にある一童社(いちどうしゃ)には磯良命(いそらのみこと=
阿曇磯良/あづみのいそら)が祀られています。
神功皇后は三韓出兵の際、諸神を招きましたが、海底に住む磯良命だけは、
顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れませんでした。
住吉神は海中に舞台を構えて磯良命が好む舞を奏して誘い出し、磯良命は龍宮から
潮を操る霊力を持つ潮盈珠(しおみつたま)・潮乾珠(しおふるたま)を借り受けて皇后に献上しました。
そのおかげで皇后は三韓征伐に成功したと伝わります。
貴船社
一童社から北総門を挟んで東側に、右に貴船社、左に龍田社の二社殿があります。
貴船神社の祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で、龗(おかみ)とは、龍の古語であり、
龍は水や雨を司る神として信仰されていました。
龍田大社の祭神は天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)と
国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)で、別名を志那都比古神(しなつひこのかみ)と
志那都比売神(しなつひめのかみ)と称します。
天と地の間、大気・生気・風力を司る神で、「風の神様」として天地宇宙の
万物生成の中心となる「気」で守護されると信仰されています。
貴船社と龍田社は雨と風を司り、台風のような神ですが、
豊作を祈るように祀られているのかもしれません。
若宮社
二社殿の東側、手前の若宮殿社と奥に若宮社があります。
若宮社の祭神は応神天皇の第4皇子である第16代・仁徳天皇で男性の守護神とされています。
若宮殿社の祭神は応神天皇の皇女で、女性の守護神とされています。
この二社は、石清水八幡宮本社と同時期の江戸時代前期に造営され、
国の重要文化財に指定されていますが、現在は工事中で令和2年(2020)3月に完成の予定です。
気比社と一若社
若宮社の南側に氣比社、その南側に水若社があります。
敦賀市の氣比神宮(けひじんぐう)の主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)、
相殿(あいどの)に第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と神功皇后が祀られています。
記紀には仲哀天皇が角鹿(=敦賀)に行宮として「笥飯宮(けひのみや)」を
営んだと記されています。
また、神功皇后の太子(後の応神天皇)が武内宿禰に連れられて
禊のため気比大神に参詣し、名を交換したとされています。
太子が伊奢沙別命から浦に出るように告げられ、浦に出ると
浦には一面に伊奢沙別命の献じた入鹿魚(イルカ)がありました。
これにより太子は伊奢沙別命を「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、
のちにその名が「気比大神」となったと伝わります。

水若社の祭神は応神天皇の皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)で、
応神天皇の寵愛を受けて立太子されましたが、異母兄の
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したとされています。
因みに菟道稚郎子は京都府の宇治市と関係が深く、宇治神社及び宇治上神社
祭神として祀られ、墓は史跡「宇治川太閤堤跡」付近にあります。
社殿は江戸時代前期のもので、国の重要文化財に指定されています。
おがたまの木
水若社の向かい、本殿側におがたまの木が立っています。
日本に自生するモクレン科オガタマノキ属の高木で、モクレン科唯一の常緑樹です。
「招霊の木」とも書かれ、天照大神の天岩戸隠れの際、天岩戸の前で舞った
天鈿女命(あめのうずめのみこと)が手にしていたとする説があります。
多くの神社に御神木として植栽され、榊の自生しない地域を中心に
神前に供える玉串として古くから代用されていました。

山上の周辺を巡ります。
続く

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涌峯塔
表参道から石段を西側に下った広場に、高さ18.3mの涌峯塔(ゆうほうとう)が
建っていますが、本殿より高くならないように配慮されています。
昭和59年(1984)に清水九兵衛(きよみず きゅうべえ)の神刀や神職の使用する
笏(しゃく)・冠などをイメージしたデザインにより建立されました。
山上では水圧が低いため、一度ポンプで塔の高いところに上げて、
落下する水の勢いを利用して各所に配水する給水塔の役割を果たしています。

かって、この地は「西谷」と呼ばれる谷でしたが、平安時代後期に白河法皇が
大塔の建立を発願したのをきっかけに、谷が埋められて整地されました。
この付近には長久元年(1132)に待賢門院(たいけんもんいん)の発願により建立された
小塔(多宝塔)がありました。
藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ)は7歳の時に実父・公実(きんざね)を亡くし、
白河法皇が養父となり育てられました。
永久5年(1117)12月13日に第74代・鳥羽天皇に入内し、元永2年(1119)5月28日、
第一皇子・顕仁親王(あきひとしんのう=後の崇徳天皇)を出産しました。
保安4年(1123)正月28日、白河法皇は5歳になった顕仁に践祚(せんそ)させ、
璋子も翌天治元年(1124)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称しました。
しかし、鳥羽上皇は側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛し、得子が生んだ
第八皇子・体仁親王(なりひとしんのう)を立太子させ、崇徳天皇に譲位を迫りました。
永治元年(1141)12月7日、体仁親王が第76代・近衛天皇として即位すると、
天皇を狙った呪詛(じゅそ)事件が相次いで発覚し、待賢門院が黒幕として疑われ、
権勢を失いました。
待賢門院は康治元年(1142)に自ら建立した法金剛院において落飾し、
3年後の久安元年(1145)8月22日に長兄・実行の三条高倉第にて崩御しました。
文禄5年/慶長元年(1596)の慶長の大地震で塔は倒壊し、
その後に再建されることはありませんでした。
大塔設計図
大塔の設計図
小塔の北側には大塔がありました。
大塔は白河法皇の発願により天永2年(1111)に建立されました。
慶長10年(1605)に豊臣秀頼に再建されましたが、その絵図面によると側柱の一辺14.9m、
高さ27.1mの規模を誇り、根来寺の大塔とほぼ同規模の日本最大級の真言形式の大塔でした。
しかし、明治の神仏分離令により失われました。
エジソン記念碑
涌峯塔の西側にエジソン記念碑があります。
トーマス・エジソンは白熱電球のフィラメントに男山の「八幡竹」を使い、
白熱電球を商用化しました。
白熱電球はイギリスの物理学者・ジョゼフ・スワンが発明・実用化しましたが、
エジソンはフィラメントに竹を使い点灯時間を飛躍的に伸ばしました。
1900年代初頭にタングステン製のフィラメントが登場するまでの
約10年間、八幡竹が使われました。
電気自動車コンセント
エジソン記念碑の前には電気自動車の充電器がありますが、
使用されているのを見たことはありません。
バッテリーと充電の改良、それに価格が下がれば電気自動車の
普及が加速されるかもしれません。
その前に、スマホでナビに使うとすぐに減ってしまうバッテリーを何とかしてほしい。
宇宙桜
エジソン記念碑の南側に「宇宙桜」が植栽されています。
高知県仁淀川町の小学生達が、樹齢500年のひょうたん桜の種を採取し、
平成20年(2008)、スペースシャトル「エンデバー」号で宇宙に運ばれ、実験棟「きぼう」で
259日間の宇宙旅行を経て、翌年若田飛行士と共に地球に生還しました。
170粒の種は、仁淀川町に返還され、翌平成22年(2010)春に4本が発芽しました。
育成された枝から接木された50本の内の1本です。
茶室
宇宙桜の南側に茶室「鳩峯庵」があります。
清峯殿(研修センター)に申し込めば、5,000円で使用できるそうです。
中尾都山の頌徳碑
茶室の南側に尺八・都山流の創始者・中尾都山の
頌徳碑(しょうとくひ)が建立されています。
中尾都山は石清水八幡宮への信仰が厚く、枚方の都山邸に石清水八幡宮を分祀して、
流の記念行事をその神前で行いました。
この伝統は現在も都山流会館で続いています。
この碑は流祖七回忌記念事業として昭和37年(1962)に建立されました。
楠峯館
広場の西側に無料の山上駐車場があり、その南側に青少年文化体育センターの
体育館「楠峯館(なんぽうかん)」があります。
茶園
楠峯館の手前を南へ進んだ所に茶園があります。
石清水八幡宮では宇治・山城地区の各献茶家から毎年献茶が奉納されていました。
昭和22年(1947)7月には益々の茶業振興を志し「石清水八幡宮献茶講」が設立されました。
献茶講では、毎年9月下旬にその献茶の審査品評会が行われ、入賞した献茶は、
10月27日に斎行される秋季献茶祭にて全献茶を御神前にお供えした後、
褒賞式にて表彰されます。
昭和26年(1951)には、更なる茶業の発展を願い境内に「鳩嶺(きゅうれい)茶園」が
開園されましたが、昭和58年(1983)春に宿泊施設・研修センターの建設に伴い閉園となりました。
現在の茶園は平成16年(2004)4月に「雄徳山(おとこやま)茶園」として復活されたものです。
石翠亭
参道の西側には「石翠亭」と呼ばれる休憩所があります。
供御井
石翠亭の北側に供御井があります。
かっては神饌(しんせん)の調理などに使われていたのかもしれません。
八角堂-古絵図
古絵図では供御井の西側、現在の三女神社の付近に八角堂、
その南側に大塔が描かれています。
八角堂は鎌倉時代初期の健保年間(1213~19)に第84代・順徳天皇の発願により、
石清水八幡宮検校・善法寺祐清(ぜんぽうじゆうせい)によって建立されました。
慶長12年(1607)に豊臣秀頼によって再建されましたが、
寛文年間(1661~73)には破損転倒していました。
元禄11年(1698)に善法寺央清(ぜんぽうじおうせい)の勧進により再建され、
神仏分離令により撤去されました。
八角院
明治3年(1807)、正法寺の住職・志水円阿(しみずえんあ)が八角堂と元三大師堂を譲り受け、
所有地であった西車塚古墳の後円部上に移築しました。
八角堂の東側に庫裏を、その南側に茶所を設け、「八角院」と称されていました。
しかし、その後荒廃し、八角堂を除いた建物は昭和50年代には撤去されました。
八角堂
平成24年(2012)に石清水八幡宮の境内が国の史跡に指定されたのに伴い、
この地も境内の一部として指定され、八幡市の所有となりました。
市は平成26年(2014)から保存修理工事を行い、平成31年(2019)3月末に完了しました。
阿弥陀如来
本尊であった像高約3mの阿弥陀如来坐像は重要文化財に指定され、
現在は正法寺の法雲殿に安置されています。
三女神社-1
三女神社(さんみょうじんじゃ)には、多紀理毘売命(たぎりびめ)、
市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神が祀られています。
三女神社-2
宗像三女神は比咩大神として本殿の西御前にも祀られています。
『日本書紀』巻第三「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の
御許山(おもとやま)に降臨し、宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐八幡宮の
本殿二之御殿に祀られ、この日本書紀の記述を神社年表の始まりとしています。
地蔵尊-1
地蔵尊-2
ケーブル山上駅の方へ下って行くと駅前には地蔵尊が祀られています。
山上駅
ケーブル男山山上駅
10月1日からは「ケーブル八幡宮山上駅」に改められます。
展望台への石段
駅前には展望台への石段があります。
十三重石塔
展望台には十三重石塔が建っています。
竹細工-展示
竹細工
展望台にはNPO法人「八幡たけくらぶ」の集会所があります。
八幡たけくらぶは男山に点在する竹林の整備活動を行うボランティア団体で、
展望台や集会所には竹細工製品の展示が行われています。
谷崎潤一郎文学碑
展望台には谷崎潤一郎の文学碑が建立されています。
谷崎潤一郎は大正12年(1923))9月1日に起こった関東大震災で横浜の自宅が類焼し、
関西に移り住みました。
現在の神戸市で何度か転居を繰り返し、昭和7年(1932)に根津松子の隣に転居しました。
根津松子は『細雪』の幸子のモデルとなった人物で、この年から松子との
不倫が始まり、同年に『蘆刈(あしかり)』が発表されました。
『蘆刈』は十五夜の大山崎から橋本へ渡る淀川の中州が舞台となり、
月を背にする男山が描写されています。
また、蘆の中で出会った男が語った恋の話は、当時の潤一郎の心境だったのかもしれません。
この碑は谷崎潤一郎生誕100年に当る昭和61年(1986)7月24日に除幕されました。
京阪電車
展望台の眼下には木津川鉄橋を渡る京阪電車が望めます。
比叡山
東北方向には平安京を守護する比叡山とその奥には比良山が顔を覗かせています。
天王山
西には天王山が迫っています。
愛宕山
北西にはとんがった愛宕山があり、周囲を山で囲われている故に千年以上、
京都が都であり続けたのかもしれません。
鳥居
展望台から参道の方へ進むと鳥居が建っています。
かってはケーブル山上駅からのメインルートだったのか?
麓から別の参道があったのか?定かではありません。
大西坊跡
鳥居の手前に太西坊(たいせいぼう)跡の説明板があります。
太西坊の住職・専貞(せんてい)は赤穂藩家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の実弟で、
後を継いだ覚運は内蔵助の養子でした。
「松の廊下事件」の7日後、内蔵助は覚運に仮住まいできる邸宅を探すように依頼しています。
覚運が紹介したのが、山科の邸宅跡でしょうか?
討ち入り後、覚運が討ち入りを手伝ったことが評判となり、沢山の寄付が集まって
覚運は坊を再興したと伝わります。
近年、覚運の墓が善法律寺で見つかりました。

裏参道を下ります。
続く

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復旧された遥拝所
鳥居をくぐり、南へ進んで行くと左側に伊勢神宮遥拝所があります。
壊れた遥拝所
平成30年(2018)6月18日午前7時58分に発生した大阪北部地震で燈籠が大破しましたが、
最近ようやく修復されました。
細橋
伊勢神宮遥拝所の参道を挟んだ向かいに、
今は水が枯れて使われていない手水舎があります。
かっては、石清水が湧き出して、手水鉢を満たしていました。
手水舎の左側に敷かれた石は「細橋(ささやきばし)」と呼ばれ、
手水鉢から流れ出た清水に架けられていました。
かっては細木で造られ、四隅に榊を立て、注連縄が張られ、渡ることのできない橋でした。
水分社への石段
細橋から東総門への石段がありますが、通行は禁止されているように見えます。
水分社
その石段を上った東総門の手前に水分社(みくまりしゃ)があり、
国水分神(くにのみくまりのかみ)が祀られています。
水源地に祀られ、山の神とも結びつき、男山に湧き出る清水を司る神とされています。
後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、
子授け・安産の神としても信仰されるようになりました。
宝塔院跡
伊勢神宮遥拝所から南へ進んだ所に宝塔院(琴塔)跡があり、
参道の東側には礎石が残されています。
宝塔院の図
平安時代以降明治時代までこの参道上に天台密教系の仏塔・宝塔院がありました。
万寿年間(1024~28)に修造の記録が残され、
この時代には既に建っていたと推定されています。
江戸時代の設計図によれば側柱の一辺が10.92m、高さが11.9mで、
軒の四隅に風が吹けば鳴るように琴が吊るされていたことから、「琴塔」と呼ばれていました。
宝塔院跡-図面
慶長5年(1600)に豊臣秀頼により再興されましたが、
明治3年(1870)に撤去され、参道が通されました。
社務所への参道
参道はこの先、石段を登れば社務所の横へと続きますが、後戻りして裏参道を下ります。
裏参道下山口
下り口には「急階段が続くので足元に注意するように」と警告されていますが、
石段は整備されていますので、危険とは感じません。
但し、雨などで濡れていると滑ることがあります。
護国寺跡
石段を下った左側に護国寺跡があります。
石清水八幡宮の創建以前の男山には、薬師如来を本尊とする石清水寺があったと伝わり、
石清水八幡宮が創建されると石清水寺はその神宮寺となりました。
護国寺の図
貞観4年(862)には護国寺と改称され、神仏習合色が増していきました。
行教の甥、安宗(あんじゅ)が初代別当、行教の弟、益信(やくしん)が
初代検校(けんぎょう)となりこの宮寺を維持・運営しました。
護国寺はその後、火災などで被災し、何度か再建が繰り返されました。
護国寺-祭器
八幡市教育委員会は平成22年(2010)に護国寺跡を発掘調査し、円形の「輪宝(りんぽう)」
(直径約19cm)と、棒状の「独鈷杵(とっこしょ)」(長さ18cm)と呼ばれる
二つの銅製法具を組み合わせた地鎮具6点が見つかったと発表しました。
独鈷杵は輪宝の中央に突き立てられ、護国寺の本堂跡に
五角形に沿った形で配置されていました。
文化13年(1816)に本堂を再建した際、八方に法具を埋める天台宗特有の
「安鎮家国法(あんちんかこくほう)」に基づき地鎮祭を行ったと推定されています。
明治の神仏分離令により護国寺は廃され、本尊の薬師如来と十二神将は、
淡路島の東山寺(とうざんじ)に現存しているそうです。
護国寺薬師堂跡の石碑
護国寺跡には仮堂だった「護国寺薬師堂跡」の石柱が建っています。
裏参道分かれ道
護国寺跡から参道は石清水社・松華堂跡の方へ下る「石清水下り坂」、
「裏参道」の二手に分かれます。
裏参道-図面
裏参道は江戸時代まで「太子坂」と呼ばれ、古くは鎌倉時代に上皇が参詣の帰りに
この坂を通ったとの記録が残されています。
聖徳太子像
「太子坂」の由来は、登り口付近に行願院・太子堂があったことによるもので、
聖徳太子3歳像が安置されていました。
明治の神仏分離令後、聖徳太子3歳像は滋賀県大津市の国分聖徳太子会で保管されています。
行願院には室町時代に丈六の阿弥陀如来像が安置されていたそうです。
また、坂の途中には地蔵堂がありました。
裏参道脇の灯篭
裏参道の脇には石灯籠が建ち、明和9年(1772)に宿坊・太西坊の寄進により
建立されたことが刻字されています。
萩坊跡
石灯籠から石段を下った右側に萩坊跡があります。
萩坊の客殿には狩野山楽が描いた金張付極彩色の図で飾られていました。
狩野山楽は永禄2年(1559)に浅井長政の家臣・木村永光の子として生まれ、
浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕えるようになりました。
秀吉の命により狩野永徳の養子となり、安土城障壁画や正親町院御所障壁画
(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わりました。
豊臣家の関係の諸作事に関わっていましたが、大坂城が落城すると豊臣方の残党として
嫌疑をかけられ、松花堂昭乗を頼って萩坊に身を隠しました。
その後、松花堂昭乗や九条家の尽力で恩赦を受けて助命され、狩野山雪を養子に迎え
後継者としました。
狩野山雪は神応寺に襖絵を描いています。
栗本坊跡
萩坊跡の先に栗本坊があったと思われ、整地されています。
瀧本坊跡-石碑
その先不鮮明ながら通路らしきものがあり、進んだ先に瀧本坊(たきのもとぼう)跡があります。
瀧本坊跡-茶室の図
瀧本坊は松花堂昭乗が住職を務めた坊で、親友であった小堀遠州と共に造った
茶室・閑雲軒(かんうんけん)、その北には書院がありました。
瀧本坊跡-平面図
閑雲軒と書院は床面の多くが、5~6mの高い柱で支えられて崖の斜面に迫り出す
「懸(か)け造り」の建物であったことが平成22年(2010)の発掘調査で判明しました。
礎石の列は30m以上に渡って見つかり、特に閑雲軒には7mの柱で支えられ、
床面の殆どが空中に迫り出した「空中茶室」というべき構造であったことが判明しました。
石清水社
瀧本坊の西側に石清水社があります。
石清水社は岩間から湧き出る清泉を神として祀ったのが始まりとされ、
その後、この付近に石清水寺が創建されたと伝わります。
現在は石清水八幡宮の摂社・石清水社で、天之御中主命
(あめのみなかぬしのみこと)が祀られています。
天之御中主命は天地開闢(かいびゃく)において神々の中で最初に現れた神であり、
造化三神の一柱とされています。
天の中央の神とされることから北極星を神格化したされる妙見菩薩と習合されるようになり、
神仏分離令後は妙見社の多くが天之御中主命を祭神としました。
平安時代の『延喜式神名帳』には天之御中主命を祀る神社の名は記載されておらず、
石清水社が何時頃天之御中主命を祀る神社となったかは不明です。
神社前の鳥居は、寛永13年(1636)に当時の京都所司代・板倉重宗の寄進により
建てられたもので、完全な形で境内に残る最古の鳥居となります。
石清水社井戸
石清水井は澄んだ水を湛えています。
厳冬にも凍らず、大旱にも涸れない霊泉として、男山五水の中でも特に尊ばれれています。
往古より皇室および将軍家の祈祷にあたっては、この霊水を山上の本宮に
「御香水」として献供されていました。
現在でも祭典の際には、当日早朝に汲み上げられた「石清水」が御神前に献供されています。
泉坊跡-入口
石清水社から参道を少し下った右側、短い石橋を渡り、
石段を上った所に泉坊跡があります。
泉坊跡-図面
泉坊には松花堂昭乗が晩年に建てた庵「松花堂」がありました。
松花堂昭乗は天正10年(1582)に和泉国堺に生まれ、文禄2年(1593)頃に
近衛信尹(このえ のぶただ)に仕えました。
近衛信尹は本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)・松花堂昭乗とともに
「寛永の三筆」と呼ばれました。
昭乗は慶長3年(1598)石清水八幡宮寺で出家し、瀧本坊実乗に師事して密教を学び
その後、僧として最高位である阿闍梨となりました。
寛永4年(1627)3月23日に実乗が亡くなったため、瀧本坊の住職となり、
翌寛永5年に小堀遠州と共に茶室・閑雲軒を造りました。
寛永14年(1637)11月、瀧本坊の焼失を期に瀧本坊を弟子に譲り、
同年12月に泉坊の一隅に方丈を建て、「松花堂」と名付けました。
しかし、その2年後、寛永16年(1639)に57年の生涯を閉じました。

神仏分離令後、草庵・松花堂と書院は、京都府八幡市八幡女郎花43番地の1
にある松花堂庭園に移築されました。
昭和32年(1957)にこの地と松花堂庭園が国の史跡に指定され、昭和57年(1982)から
翌年にかけて整備のため、この地で発掘調査が行われました。
泉坊跡-玉石
奥にある茶室・松花堂跡へは玉石が敷かれた参道があります。
泉坊跡-松花堂跡
茶室跡には当時の間取りがコンクリートで再現されています。
泉坊跡-庭の遺構-1
泉坊跡-庭の遺構-2
松花堂跡の手前に庭(露地)の遺構があります。
現在残されているのは、昭乗亡き後、江戸時代後期に造り直されたものだそうです。
泉坊跡-石柱
泉坊跡には図に描かれている井戸は見つからず、
「石清水下り坂」に近い所に石柱が建っていました。
下山して泰勝寺(たいしょうじ)へ向かいます。
泰勝寺-1
下山して泰勝寺(たいしょうじ)へ向かいます。
表参道から相槌神社の方へ下り、神社前を少し東へ進んだ右側に泰勝寺があります。
普段は非公開で拝観には予約が必要です。(電話番号:075-981-0056)
予約していなかったので、外からの画像しかありません。
泰勝寺は松花堂昭乗の菩提寺で、門前には「松花堂旧跡」の石碑が建っています。
泰勝寺-2
「泰勝寺」の寺号は、熊本の細川家菩提寺「泰勝寺」から譲り受けたもので、
明治の廃仏毀釈によって、荒廃した昭乗の墓を保存するため、
大正7年(1918)に寺が建立されました。
茶席「閑雲軒」が復元され、日本百席の一つに選ばれています。
熊本の泰勝寺は、神仏分離令後に廃寺となり、別邸に改められました。
昭和30年(1955)から、熊本市が細川家より庭園部分を借り受け、立田自然公園として
一般開放され、細川家立田別邸は国の史跡に指定されています。

次回は竹生島の宝厳寺から近江八幡を巡ります。

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