カテゴリ:京都府 > 京都府北部

仁王門
京都は連日35度を超える猛暑が続いていますが、早朝のこともあり、
国道162号線は山の中を縫うように走るため、空気は冷ややかで、バイクで走ると爽快です。
かっては、曲がりくねった峠を超えていた所も、今はトンネルで快調に走れます。
以前は名田庄まで国道162号線を走っていたのですが、スマホのナビから
弓削(ゆげ)から府道78号線へ入るように指示され、その後、19号線から368号線、
12号線を経て国道162号線に合流しました。
道の駅・名田庄の先から県道16号線(坂本高浜線)に入り国道27号線に合流しましたが、
国道では渋滞が発生していました。
しばらく渋滞とお付き合いし、「関屋」の信号を右折して山手へ入って行くと、
松尾寺の横へと続いていました。
自宅を5時に出発し、ほぼ予定通りの8時過ぎに松尾寺に到着しました。
更に車道を下って右折すると仁王門の前に出ます。
仁王門は江戸時代に再建されたもので、京都府の文化財に指定されています。
松尾寺は、天正8年(1580)の織田信長の丹後攻めの命を受けた
細川藤孝の兵火によって堂宇をことごとく焼失しました。
藤孝の嫡男・忠興(ただおき)は信長の薦めにより、天正6年(1578)に明智光秀の
娘・玉(ガラシャ)と婚姻しています。
しかし、丹後攻めでは丹後国守護の一色氏に反撃されて敗退し、
後に光秀の加勢を得て丹後南部を平定しました。
信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められ、宮津城を居城としました。
北半国の中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である
一色氏が領有し、分け合う形となりました。
天正10年(1582)の本能寺の変では、藤孝は親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、
剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗って田辺城に隠居し、
忠興に家督を譲りました。
松尾寺は、細川藤孝や京極家によって復興された後、江戸時代の
享保15年(1730)に牧野英成によって現在の姿に整備されました。
牧野英成は、丹後田辺藩第3代藩主で寺社奉行を経て京都所司代に就任しています。
仁王門-扁額
松尾寺は「若狭富士」と呼ばれている青葉山(693m)の
中腹にあり、山号を青葉山と称します。
仁王門には山号の扁額が掲げられています。
仁王像写真
仁王像は鎌倉時代の作で、京都市の文化財に指定され、
現在は宝物殿に安置されています。
その代役として写真が門番をしています。
霊宝殿
仁王門をくぐった右側に宝物殿があります。
宝物殿は、開創1300年記念事業として、平成20年(2008)建設され、
東京・京都・奈良各博物館に寄託していた国宝や重要文化財を収蔵しています。
中でも仏画「絹本着色普賢延命菩薩像」は、舞鶴市唯一の国宝で、第74代・鳥羽天皇が
行幸の際、寄進されたと伝えられていますが、
美福門院による寄進の方が正しいように思われます。
絹本着色普賢延命菩薩像は、美福門院の念持仏であったと伝わります。
藤原 得子(ふじわら の とくし/なりこ)は長承3年(1134)に鳥羽上皇の寵愛を
受けるようになり、保延5年(1139)5月18日には
躰仁親王(なりひとしんのう=後の近衛天皇)を出産しました。
久安5年(1149)8月3日には美福門院の院号を宣下されています。
弁才天
宝物殿の向かい側には放生池があり、池の中には弁財天を祀ると思われる祠があります。
本坊への門
池の北側には風格のある門があり、門の先は本坊へと続きますが、門は閉じられています。
本堂への石段
仁王門への石段に続き、本堂への石段を上ります。
本堂
石段を上った正面に美しい二重屋根の本堂があります。
松尾寺は、和銅元年(708)に唐の僧・威光上人によって開基されたと伝わります。
青葉山は二つの峰を持ち、それが中国の馬耳山という霊験のある山と
山容が似ていたことから登山され、松の大樹の下に馬頭観音を感得し、
草庵をを結ばれたのが始まりとされています。
また青葉山北麓の若狭神野浦(こうのうら)の漁師・春日為光が海難に遭遇し、
一浮木で助かり、その木が馬頭観音であったとも伝わります。
元永2年(1119)には、鳥羽天皇の行幸があり、寺領四千石を賜り、
寺坊は65を数えて栄えました。
その後、美福門院(1117~1160)の崇敬を受け、伽藍と15宇の坊舎が再建され、
平安時代の末期には観音霊場の一として庶民の信仰を集めるようになりました。
寺蔵の「松尾寺参詣曼荼羅」には、中世末から近世初期にかけて本堂を中心とした
七堂伽藍や背後の青葉山奥院、境内の参詣人などが詳細に描かれ、松尾寺の隆盛が偲ばれます。
本堂は天正8年(1580)に焼失後、細川藤孝により再建され、
慶長7年(1602)には初代宮津藩主・京極高知により修復されました。
しかし、寛永7年(1630)、正徳6年(1716)の火災で本堂などを焼失し、
享保15年(1730)に牧野英成により大修復されたと伝わります。
本尊
書写山圓教寺に祀られている松尾寺の本尊。
本尊は馬頭観音坐像で、西国三十三所観音霊場の第29番札所本尊でもあります。
西国三十三所観音霊場で唯一の観音像ですが秘仏とされ、
最近では草創1300年を記念して平成20年(2008)から1年間開帳されました。
因みにその前の開帳は77年前の昭和6年(1931)です。
御前立
現在の本堂では厨子の扉は閉じられ、御前立が安置されています。
馬の像
本堂の左前には馬の像が奉納されています。
馬頭観世音が農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通 、
更には競馬に因む信仰を集めていることから奉納されたものと思われます。
修行大師像
本堂前の参道の東側に修行大師像が祀られ、その右側には高野槇が植栽されています。
松尾寺は真言宗醍醐派の寺院で、高野槙は高野山では霊木とされています。
子抱き地蔵尊
大師像の南側に子供を抱いた地蔵像が奉納され、その背後には上部の無い灯篭が
石の玉垣で囲われていますが、詳細は不明です。
観音像
境内の南西側には、観音像が祀られています。
経蔵
観音像の右側に江戸時代に建立され、京都府の文化財に指定されている経蔵があります。
六地蔵
経蔵の右側を西へ進んだ先に地蔵堂と思われる建物があります。
縁側には六地蔵が祀られています。
祠
本堂の裏側の左方向に丹塗りの祠があります。
祠内の石碑
閼伽井では?と思われたのですが、中を覗いて見ると石碑が祀られていました。
但し、その石碑の詳細は不明です。
心霊閣
心霊閣の扁額
本堂の右側にある建物には「心霊閣」の扁額が掲げられています。
役行者像
堂内の左端には役行者像が安置されています。
屋根
また、小さなお堂の屋根が置かれていました。
渡り廊下
心霊閣から本堂へは渡り廊下で結ばれています。
登山口
廊下をくぐった先に「京都の自然200選」に選定されている青葉山への登山道があります。
青葉明神
登山道から横に入った所に「青葉大権現」が祀られた祠があります。
石仏
祠の背後には多くの石仏が山積みされています。
両部鳥居
心霊閣の左側を東へ進んだ先に六所神社と思われる社殿があります。
両部鳥居が神仏習合の名残を示しています。
狛犬
苔むした狛犬と石灯籠が歴史を感じさせます。
六所明神
由緒等を示す駒札などがありませんので祭神等、詳細は不明です。
銀杏の木
神社前の参道を西へ進んだ左側にイチョウの大樹が聳えています。
樹齢約870年と推定され、根回りは6mあり、舞鶴市の文化財に指定されています。
元永2年(1119)に鳥羽天皇が行幸の際に手植えされたと伝わります。
鐘楼
イチョウの木に隣接して鐘楼があります。
納経所
本堂前の石段を下って納経所へ向かいましたが、
現在工事中で車道を挟んだ向かい側に臨時の納経所がありました。
方丈
工事中の納経所の奥には方丈と思われる建物があります。

多禰寺(たねじ)へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村にほんブログ村 バイクブログ 近畿バイクライフへ
にほんブログ村

舞鶴クレインブリッジ
多禰寺から戻り、再び舞鶴クレインブリッジを渡ります。
舞鶴クレインブリッジは舞鶴平湾に架けられた全長735m、主塔の高さは92mになる
鋼製の白い斜張橋で、平成11年(1999)5月に開通しました。
2羽の鶴をイメージして設計されたもので、主塔は鶴のくちばしを、ケーブルは
羽をイメージして造られ、英語で「鶴の橋」を意味する「クレインブリッジ」と名付けられました。
橋を渡った先で左折して、府道21号線のトンネルを抜けた先に舞鶴引揚祈念館があります。
赤れんが博物館との共通入館券400円を購入して、冷房の効いた館内へと入り、
しばらくの間は猛暑から解放されました。
赤紙
臨時召集令状
館内で最初に目に付いたのは陸軍省の臨時召集令状です。
「赤紙」と呼ばれ、当初は真っ赤でしたが、
物資不足による染料の節約で淡紅色となって行きました。
この紙を受け取った人の何割が日本に帰れたのかと思うと心が痛みます。
月~金曜日の午後12:30から放映されている「やすらぎの刻~道」では、
赤紙を破って山へ逃げた人物の放送がありました。
多数の捜索隊が編成され、執拗な捜索が行われましたが、
彼は猟師で山に精通していたため、逃げ切れたようです。
また、その弟は徴兵を逃れるため自殺しました。
猟師でもない自分がその立場だったら...と考えさせられた場面でもありました。
ジオラマ
館内には舞鶴引揚時のジオラマが展示されています。
終戦時、海外には軍人及び一般人を含めて660万人以上が在住していたと考えられています。
引揚事業を早期に終了させるために、厚生省はGHQの指令を受けて
引揚援護庁を設置しました。
厚生省は昭和20年(1945)11月24日に佐世保、博多、鹿児島、唐津、仙崎、宇品、
舞鶴、田辺、名古屋、浦賀、函館の11カ所に地方引揚援護局を設置するよう告示しました。
舞鶴には昭和20年(1945)10月7日に第一船の入港がありました。
舞鶴引揚援護局は昭和20年から昭和33年(1958)まで13年間に渡り、
昭和25年(1950)以降は国内唯一の引揚港として重要な役割を果たしました。
満州
満州へ渡った日本人の引揚は過酷すぎるもので、多くの人が亡くなり、
民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、
さらには沖縄戦を凌ぐものとなりました。
昭和7年(1932)3月1日に中華民国から独立宣言し、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀
(あいしんかくら ふぎ)を元首として満洲国の建国が開始されました。
満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)が組織され、昭和恐慌で疲弊する内地農民を
昭和11年(1936)まで、試験的に年平均3000人を大陸へ送り出しました。
昭和11年(1936)に2.26事件が発生し、政治に軍部の力が増してくると、
移住計画はさらに加速され、昭和20年(1945)までに155~200万人の
日本人が満州へ渡ったとされています。
昭和12年(1937)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)が発足し、
満15~18歳の青少年、約8万人が海を渡りました。
昭和16年(1941)からは、統制経済政策により失業した都市勤労者からも
開拓団を編成され、青少年義勇軍を含めると約32万人が移住しました。
大戦の末期には開拓団からの招集も増えるようになり、特に昭和20年(1945)7月の
「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集されました。
旧ソ連は、日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)を締結していたにも関わらず、
日本の敗戦色が濃くなった終戦間際の昭和20年(1945)8月8日に条約を一方的に破棄し、
満州や朝鮮半島などに侵攻を開始しました。
大半が老人、女性、子供となり、男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かいましたが、
規律の緩いソ連兵は、占領地で強姦・殺傷・略奪行為を繰り返しました。
更に地元民からの襲撃や、収容所における伝染病感染を含む病死など、
難民生活で約8万人が死亡しました。
ソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、満州からの引揚は、
ソ連から中華民国の占領下になってから行われました。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人とされていますが、内20万人が亡くなり、
その4割を開拓団員が占めました。
満州からの引揚は昭和21年(1946)5月から始まり、
夏には本格化して年内には大半の日本人が引揚ました。
収容所
館内にはシベリア抑留者の生活が再現されています。
旧ソ連は、昭和20年(1945)8月8日に満州や朝鮮半島などに侵攻を開始し、
8月14日に日本がポツダム宣言を受諾して武装解除したにも拘らず、
ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領しました。
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を
下していたのですが、8月23日にはこれを翻し、日本軍捕虜63万9635人の
ソ連内の捕虜収容所へ移送し、非人道的な強制労働を行わせる命令を下しました。
過酷な労働と乏しい食事で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割を超す
約7万人の死亡者を出したとされています。
ソ連兵は抑留者から腕時計を奪い、ネジを巻くことを知らず、それが止まるとそれを捨て、
別の人から腕時計を奪ったとシベリアから帰国した父から聞かされたことがあります。
そのようなソ連兵を侮辱した言葉で「ロスケ」と呼んだ、と聞かされたことは
覚えていますが、それ以外の詳細なことは記憶にありません。
多分、それ以外の事を聞かなかったし、父も話さなかったからだと思いますが、
父が亡くなった今、もっと聞いておけば良かったと後悔しています。
昭和22年(1947)から日ソが国交回復する昭和31年(1956)にかけて、
抑留者の日本への帰国事業が行われました。
抑留所の分布
旧ソ連内の抑留者収容されていた分布図
展示品
中段左側の朝食は「コウリャン」と呼ばれる穀物で作ったおにぎりとスープでした。
昼食の黒パンは固く酸味の強いパンで、収容所によっては一食に一切れしか与えられませんでした。
夕食は粟のおにぎりと水のようなスープで、栄養的にも空腹を満たすにも、全く不十分です。
その右側にあるのが黒パンで、見た目にも美味とは言えず、
実際には薄くスライッスされたものが支給されていたそうです。
舞鶴引揚記念館に収蔵されている資料の内、570点がユネスコの世界記憶遺産に登録されています。
アリシェルナヴォイ劇場
劇場の碑
企画展会場では、東京オリンピック2020で舞鶴市がウズベキスタンのホストタウンに
内定したことを記念して「ウズベキスタン抑留~抑留から交流へ~」展が開催されていました。
アリシェルナヴォイ劇場には「抑留された数百名の日本人が建設に参加し、
その完成に貢献した」と記されたプレートがはめこまれています。
民族衣装
民族衣装
復員桟橋
引揚祈念館から展望広場への遊歩道がありますが、暑いので止めました。
府道21号線を少し北上した先を左折して、西へ大きくカーブして進んだ先に
復員引揚桟橋が復元されています。
海中の杭
海には多くの杭が撃ち込まれ、その外側に大型船が停泊し、
大型船と桟橋の間を小型船が往復して復員者を運んだと思われます。
かっては、木造の小さな桟橋がいくつもあったようです。

赤れんが博物館へ向かいます。
続く

にほんブログ村 バイクブログ 近畿バイクライフへ
にほんブログ村

海上自衛隊
復員引揚桟橋からバイクで10分余り走った所に赤レンガ博物館がありますが、
その先に海上自衛隊の造修補給所があります。
海外では写真を撮ると逮捕されるかもしれないと思いながらも、こっそりと撮ってしまいました。
赤れんが博物館
赤れんが博物館の建物は、明治36年(1903)に旧舞鶴海軍の魚雷の倉庫として建設されました。
日本に現存する建物では最も古い時代の建造物の一つで、国の重要文化財に指定されています。
赤煉瓦倉庫の碑
建物の左前には「赤煉瓦倉庫壱号棟」の石標が建っています。
銀座の柳
隣接して「銀座の柳二世」が植栽されています。

館内の見学は一通り行ったのですが、涼むのがメインになってしまい、
展示内容等の記憶が乏しくなりました。
赤れんがパークもスルーして成相寺へ向かいました。
展望台の碑
途中、昼食で少し涼んだのですが、直射日光とアスファルトの照り返しで、
温風を受けて走るので、ヘルメットの中でも汗が流れます。
直進「宮津」と左折「大江」の標識が出ている三叉路に出ましたが、
スマホのナビは左折を指示しています。
疑問を感じながらもナビに従い左折したのですが、
誘導されたのは自動車専用道路の入口でした。
原付二種では入れないのでUターンして木陰でバイクを停め、
スポーツドリンクで水分補給を行いました。
心は萎えましたが、気を取り直し、三叉路まで戻ることにしました。
予定では丹後国分寺跡や山道の途中に祀られている子育て子宝地蔵尊にも
立ち寄る予定でしたが、時間のロスを取り戻すため通り過ぎ、
予定より20分遅れの14:00に成相寺に到着しました。
前回、成相寺へは北タンゴ鉄道の天橋立駅から智恩寺(文殊堂)を経て、
約1時間かけて天橋立を歩き、ケーブルとバスを乗り継いで訪れました。
パノラマ展望台へは時間的に無理があるので最初から諦めていました。
今回は成相寺の駐車場前で入山料500円を納め、
駐車場から成相山パノラマ展望台へ向かいました。
かなりの急坂を約7分バイクで登った所に展望台があります。
標高470mの地点にあり、「日本一 成相山パノラマ展望台」の石碑が建っています。
下界より気温が約3度低く、山を渡ってくる風は、幾分涼しく感じられます。
冠島
展望台の西側から遠くに冠島とその左側に画像では判りにくいですが沓島が望めます。
傘松公園には冠島・沓島遥拝所があります。
伝承では、冠島と沓島は元伊勢籠神社の奥宮で、籠神社のご祭神である
彦火明命(ひこほあかりのみこと)と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が
天降り夫婦となった神聖な島として古代から特別視されてきました。
また、『丹後風土記』には、大宝元年(701)に三日続きの大地震が発生し、
凡海郷(おおしあまごう)と呼ばれた集落が海に沈み山頂だけが海上に残って
冠島と沓島になったとの記述が見られます。
そして、「冠島の磯に鳥居ありて 老人島神社(おいとじまじんじゃ)といふ」との
記述があり、この老人島神社が籠神社の奥宮であったとされています。
現在も社殿が残され、彦火明命(ひこほあかりのみこと)が祀られています。
冠島周囲の海底の一部から弥生時代の遺跡のようなものが見つかっているそうです。
現在、冠島は国の天然記念物に指定されていて、沓島とともに
京都府指定冠島沓島鳥獣保護区にも指定されていることから、
一般の人は島に立ち入ることが出来なくなっています。
半島-1
半島-2
正面には天橋立の左側から複雑な形の半島が伸び、天橋立を形成したのは
この半島が何か関与したのではないかとと思われます。
2万年前は、現在の宮津湾にあたる一帯は完全な陸地で、その後、
6千年前の縄文時代に海面が上昇し、海底に砂州が形成され始めたと考えられています。
この付近には山田断層が存在し、宮津市北部から伊根町にかけては地滑り地形が集中しています。
約2千2百年前に発生した地震によって大量の土砂が宮津湾に流入し、
天橋立が形成されたと考えらています。
天橋立
橋立の右側は「阿蘇海」と呼ばれる汽水域で、
阿蘇海の西端(右側)の野田川から大量の土砂が運ばれました。
半島は土砂をそれ以上奥へと流さない堤防のような役目をしていたのかもしれません。

展望台から下って成相寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 バイクブログ 近畿バイクライフへ
にほんブログ村

巨木
パノラマ展望台から少し下ると車道の左側に巨木が聳えています。
本堂跡地
その巨木の付近に室町時代まで本堂がありました。
成相寺は寺伝によれば、飛鳥時代の慶雲元年(704)に文武天皇の勅願寺として
真応上人が創建したと伝わります。
成相寺は日本古来の山岳宗教の修験場で、
日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つとして信仰を集めていました。
その後の変遷は不明ですが、承和4年(1348)に成相寺を訪れた覚如上人は日記に、
多くの堂宇が建ち並び寺が隆盛していたことを記しています。
しかし、応永7年(1400)に山崩れが発生し、本堂は現在地に移されました。
こちらの旧境内地は、平成28年(2016)10月3日に国の史跡に指定されました。
仁王門
駐車場まで戻りましたが、駐車場は本堂に近い高い所にありますので、
歩いて山門まで下りました。
山門は入母屋造単層の八脚門で、宝徳4年(1452)に現在地で再建されましたが、
永正4年(1507)に一色氏と武田氏の兵火により、多くの堂宇が焼失し
、山門も失われ、現在の山門はその後の再建と思われます。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像の像高は約2m80cmで、昭和59年(1984)に解体修理が行われた際に、
胎内から修理銘文が発見されました。
くずし字で書かれているため読み取ることができませんが、貞享5年(1687)と
文政11年(1828)に修復が行われたようです。
像はその様式から藤原時代(894~1185年)の製作されたと推定されています。
五重塔
山門をくぐり、山道の方を登って行くと五重塔の側面に出ます。
高さ33mの五重塔は、鎌倉様式を再現し、総工費10億円で平成10年(1998)に完成しました。
竜神のタモ
五重塔の南側の高台に「竜神のタモ」と呼ばれる古木を仰ぎ見ることができます。
樹齢300年以上とされる成相寺の御神木で、天に昇り行く龍をイメージさせることから
このように呼ばれるようになりました。
展望台
五重塔から西側へ少し登ると弁天山展望台があります。
本当の股のぞきとは、この展望台で行われてきたものが伝承されてきたそうです。
画像は平成29年(2017)3月に訪れた時のもので、股のぞきした画像ではありません。
蓮池
展望台から下ってきた所に蓮池があります。
蓮池は「底無し池」とも呼ばれ、大蛇が住んでいたと伝わります。
寺の小僧を次々と呑み込んでいったため、和尚が小僧に見せかけた藁人形を作り、
中に火薬を仕込みました。
藁人形を呑み込んだ大蛇の腹の中で火薬が爆発し、大蛇は苦しみながら山を下り、
阿蘇海に入り文殊の辺りで力尽きて沈んでしまったとの伝承が残されています。
弁天堂
池の中島には弁天堂があり、弁財天が祀られています。
鐘楼
本堂への石段を少し上った所に鐘楼があります。
梵鐘には慶長13年(1608)の銘が入り、府の文化財に指定されています。
この鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったのですが、府中で一軒だけ
「子供は沢山居るが寺に寄付する金はない」、と言って断った家がありました。
鋳造が始まると、二度続けて失敗し、三度目に取り掛かった時、
寄付をしなかった家の赤ん坊を誤って坩堝(るつぼ)の中に落としてしまいました。
出来上がった鐘をつくと、子供の泣き声、母を呼ぶ悲しい声が聞こえ、
聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、
以後、一切この鐘をつくのを止めたと伝わり、「撞かずの鐘」と呼ばれています。
観音堂
鐘楼から少し石段を上った左側に観音堂があります。
観音堂-堂内
堂内には、三十三霊場の各本尊の像が安置されています。
一願地蔵尊
観音堂の右前方に、約650年前に造られた「一願一言地蔵」が祀られています。
ただ一つの願いを一言でお願いすれば、どんなことでも必ず叶えてくれる地蔵と伝わります。
本堂-1
石段を上った正面に本堂があります。
本堂-2
現在の本堂は、江戸時代の安永3年(1774)に再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
成相寺は山号を成相山と号し、平成19年(2007)に高野山真言宗から
独立して真言宗単立寺院となりました。
本尊
書写山圓教寺の参道に祀られている成相寺の本尊。
本尊は平安時代の聖観音菩薩ですが、33年に一度開扉の秘仏とされています。
この観音菩薩は美人観音と呼ばれ、室町時代の『御伽草子』に登場する
梵天国王の姫君が姿を変えた観音様と伝わります。
小野小町も信仰したと伝わり、拝む人は美しい人になると言い伝えられています。
また、西国三十三所観音霊場・第27番の札所本尊でもあり、
「成相寺」と称されるようになった由来も持っています。
「一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中、深雪の為、
里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。
死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。
すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に傷ついた鹿が倒れているのに気付きました。
僧として肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、
決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。
やがて雪も消え、里人達が登って来て堂内を見ると、
本尊の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散っていました。
それを知らされた僧は観音様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、
木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。
此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。」
真向きの龍
堂内の撮影は禁止されていますが、左甚五郎作の「真向きの龍」は撮影が許可されています。
雨乞いのため、龍の彫刻を成相寺に奉納することになり、
折しも宮津に滞在していた左甚五郎に製作の依頼を行いました。
しかし、龍の姿を見たことない甚五郎は、途方に暮れていたのですが、
ある夜夢の中で龍の住処を教えられます。
早速、教えられた場所、成相山のとある滝壺に降り立つと、龍が姿を現したと伝わります。
そして、完成したのが「真向きの龍」で、右から見ても左から見ても
自分の方を向いていることから、「真向きの龍」と云われています。
鉄湯船
本堂の左前に置かれている鉄湯船は、鎌倉時代の正応3年(1290)の銘があり、
重要文化財に指定されています。
現在は手水鉢に転用されています。
画像は雪が残る、平成29年(2017)3月の訪問時のものを使用しました。
楽寿観音
鉄湯船の左側に、安楽と健康長寿の御利益があるとされる、楽寿観音が祀られています。
多数の石仏
楽寿観音の北側には多くの石仏や五輪塔が祀られています。
鎮守社
本堂の右側に鎮守社があり、熊野権現が祀られています。
延宝4年(1676)に上棟されたもので、成相寺に現存する最古の建物であり、
府の文化財に指定されています。
社殿は覆屋の中に収められています。
十王堂
鎮守社の前方に十王堂があり、西向きに建てられています。
賓頭盧尊者
縁側に賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)が安置されています。
孔雀明王
堂内の左側に孔雀明王(くじゃくみょうおう)像が安置されています。
孔雀は害虫やコブラなどの毒蛇を食べることから、人々の災厄や苦痛を取り除く
功徳があるとされる孔雀明王として信仰の対象となりました。
後には人間の煩悩の象徴である三毒『貪(むさぼ)り・嗔(いか)り・痴行』を喰らって
仏道に成就せしめる功徳がある仏という解釈が一般的になりました。
また雨を予知する能力があるとされ祈雨法(雨乞い)にも用いられ、
孔雀明王を本尊とした密教呪法は「孔雀経法」と呼ばれ、真言密教において
孔雀経法による祈願は鎮護国家の大法とされ最も重要視されました。
像容は憤怒の相が特徴である明王のなかで唯一、慈悲を表した菩薩の姿をしています。
一面四臂の姿で、4本の手にはそれぞれ倶縁果(ぐえんか=レモン)、
吉祥果(きっしょうか=ざくろ)、蓮華、孔雀の尾を持っています。
閻魔大王
十王-右
十王-左
堂内の右側には閻魔大王を中心に十王尊が安置されています。

籠神社(このじんじゃ) へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

一の鳥居
成相寺から下り国道178号線を東へ進み、大型バスの駐車場を超えた所に、
一般参拝者用の無料駐車場があります。
国道まで戻ると、国道に面して一の鳥居が建ち、その手前には宇治橋が架けられています。
(画像は全て平成29年(2017)3月の参拝時のものを使用しています。)
さざれ石
鳥居をくぐり参道を進むと、右側に舞鶴市で見つかった「大和さざれ石」が奉納されています。
二の鳥居
参道を進んだ先に二の鳥居が建っています。
狛犬-右-1
狛犬-右-2
狛犬-左-1
狛犬-左-2
鳥居の先にある狛犬は、鎌倉時代の作とされ重要文化財に指定されています。
この狛犬には、以下のような伝説が残されています。
「その昔、作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬が天橋立に暴れ出て通行人を
驚かしたので、たまたま仇討ちに来ていた豪傑・岩見重太郎が一夜待ち伏せ、
剛刀で狛犬の脚に一太刀浴びせたところ、それ以来社頭に還り事無きを得て、
爾来魔除けの狛犬と云われて霊験があらたかになったと伝えられています。」

岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の次男でしたが、
父が同僚の広瀬軍蔵、鳴尾権三、大川八左衛門によって殺害されました。
三人は丹後へと逃れ、領主の京極家に匿われていましたが、
追って来た重太郎は京極家に乞うて仇討ちが許されました。
寛永9年(1632)9月20日、天橋立の濃松において三人を討ち倒し、ついにその本望を
とげたと伝わり、天橋立には「仇討の場」の碑が建立されています。
また、その付近には、仇討の前に試し切りをしたと伝わる石も残されています。
重太郎はその後、叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田兼相(すすきだかねすけ)と
名乗って豊臣氏に仕え、大坂夏の陣の道明寺の戦いで戦死したとされています。
拝殿
神門をくぐった先に拝殿があるのですが、ここから先は撮影禁止になっています。
籠神社は延喜12年(912)に完成した『延喜式神名帳』では名神大社、天平時代以降は
丹後国一宮、旧社格は国幣中社に列せられていました。
現在は神社本庁の別表神社に列せられ、神仏霊場の第131番札所となっています。

神代の昔、籠神社の奥宮である「眞名井原」は匏宮(よさのみや)と呼ばれ、
豊受大神が祀られていました。
『丹後國風土記』によれば、現在の峰山町の比治山(ひじさん=磯砂山[いさなごさん])の
山頂にある池に八人の天女が舞い降りて水浴をしてました。
その内の一人が老夫婦に羽衣を隠されて天へ帰れなくなってしまい、
老夫婦の娘にされて一緒に暮らすようになりました。
天女は一杯飲めば万病に効く酒を造り、また機織りも教え、老夫婦はたちまち裕福になりました。
10年後、なぜか老夫婦は天女を追い出しました。
天女は比治の里を彷徨った末、船木(現在の京丹後市弥栄町船木)の里に至り、
そこに鎮まりました。
以来、この地は「奈具」と呼ばれ、村人たちによって天女は
豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として奈具神社に祀られたと伝わります。

後に、邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄である彦火明命(ひこほあかりのみこと)が、
十種神宝(とくさのかんだから)の沖津鏡(おきつかがみ)と辺津鏡(へつかがみ)を
携えて冠島に降臨されたと伝わります。
彦火明命は、籠神社の社家、海部氏(あまのべし)の始祖となり豊受大神を祀ったのが
籠神社の始まりとされています。
第10代・崇神天皇の御代(BC97~BC30)に大和笠縫邑(かさぬいむら)に移された、
天照大神の神霊を込めた八咫鏡(やたのかがみ)は、真名井神社に遷されて
4年間祀られ、「元伊勢籠神社」と呼ばれる由縁となりました。
その後、海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、
真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代の
養老3年(719)に、二十七代目当主・海部直愛志(あまべのあたええし)が、
現在の籠神社の地へと遷宮しました。
それを機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に
豊受大神・天照大神・海神(わたつみのかみ)・
天水分神(あめのみくまりのかみ)が合祀されました。

本殿は伊勢神宮の内宮と同様の神明造りで、鰹木(かつおぎ)は十本、
千木(ちぎ)は内削(うちそぎ)で、神社建築最古の様式となっています。
また、内宮・外宮の正殿と同様に高欄上に五色(青、黄、赤、白、黒)の
座玉(すえたま)が飾られ、これは他の神社では見られません。
産霊岩
拝殿から左側に進んだ左側に「産霊岩(むすびいわ)」と呼ばれる
天然記念物のさざれ石が祀られています。
御生れの庭
産霊岩の横に磐座を象徴したと思われる「御生(みあ)れの庭」が作庭されています。
天照神社
「御生れの庭」の向かいには、天照大神和魂社(あまてらすおおかみにぎみたましゃ)があります。
天照大神の、優しく平和的な側面である和魂が祀られています。
春日社
天照大神和魂社の左側に春日大明神社(かすがだいみょうじんのやしろ)があります。
古代は武甕槌(たけみかづち)社と称されていましたが、現在は春日四神が祀られています。
猿田彦神社
春日大明神社の横に猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)があります。
古代は大世多大明神と呼ばれ、猿田彦命が祀られています。
真名井稲荷神社
猿田彦神社の横に真名井稲荷神社(まないいなりじんじゃ)があり、
古代から明治末迄奥宮・真名井原に祀られていました。
平成3年(1991)になって、現在地に遷座されました。
倭宿禰命像
真名井稲荷神社の先に亀に乗った倭宿禰命(やまとすくねのみこと)の像があります。
倭宿禰命は、海部家四代目の祖先で、元々は「珍彦(うづひこ)」、
「椎根津彦(しいねづひこ)」、「神知津彦(かんしりつひこ)」、
「槁根津日子(さおねづひこ)」と呼ばれていました。
倭宿禰命は神武東征の際に、速吸門(はやすいのと=明石海峡)に亀に乗って現れ、
神武天皇の先導役として浪速、河内、大和へと導いて東征の行軍に貢献したとされています。
神武天皇が帝位に就いてから、天皇を無事に大和へと導いた
功労者として「倭宿禰」の称号を授かりました。

真名井神社へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ