カテゴリ:滋賀県 > 比叡山・坂本周辺

子安観世音
京都市内から比叡山へバイクで向かうには、北白川から山中越を登り、
田の谷峠ゲートから比叡山ドライブウェイに入ります。
かっての白川村の入口には、鎌倉時代の子安観世音の石仏が祀られています。
この辺りに住んでいた女性が、四季の草花を頭上に載せて
京都市内を売り歩いていました。
彼女らは「白川女(しらかわめ)」と呼ばれ、平安時代に切り立ての草花を
内裏に献上したのがその起源とされています。
白川女はこの石仏に花を供えて商いに出るのが習わしでした。
地蔵谷不動院-不動堂への橋
白川通の「北白川別当町」の信号を右折して東へ進み、その先を左折して
白川沿いに登って行くと地蔵谷不動院があります。
地蔵谷不動院-不動堂
江戸時代の寛政4年(1792)に沙門宗の鏡法師により開創されました。
身代り不動尊
この峠道を行く旅人に多くの犠牲者が出たことにより、その安全と
京都御所の鬼門守護を祈願して、自ら不動明王像を刻んで安置したのが始まりとされ、

不動明王像は「身代わり不動尊」と呼ばれています。
地蔵谷不動院-本堂
街道の少し先に新しく本堂が建立されています。
不動温泉
向かって右側に不動温泉があります。
昭和29年(1954)に現在地に本堂が建立された際、ラジウム泉が湧出しました。
北白川付近には黒雲母花崗岩が広く分布し、その岩間から湧出する鉱泉元は
関西第1位とされ、不動温泉として無料休憩所も併設されています。
また、黒雲母花崗岩は、白色の中粒で緻密な石材で、近世まで
建造物や灯籠、手水鉢、墓石などにも広く利用されました。
しかし、昭和初期に石切場が閉山され、現在は採石されていません。
また、白川石が風化した白く美しい砂利は「白川砂」と呼ばれ、
古くから各地の神社仏閣、京都御所、天皇陵などに利用されてきました。
地蔵谷不動院-護摩壇
最上部に登ると護摩壇があり、毎年11月には、
柴燈大護摩供(さいとうだいごまく)・火渡りの祈願が行われています。
地蔵谷不動院-線描
その奥の岩に不動明王が線で刻まれています。
西尊院堂-鳥居
田の谷峠ゲートで通行券を取り、ドライブウェイに入りましたが、
仰木料金所を出る時に125cc以下の通行が禁止されていることを知らされました。
因みに二輪車の通行料金は1,680円でした。
ドライブウェイで唯一の信号がある所に「無動寺」のバス停があります。
バス停前に「大弁財天」の扁額が掛かる鳥居が建っています。
西尊院堂
鳥居をくぐると西尊院堂があります。
駒札等の説明書きが無いので詳細は不明ですが、無動寺谷の弁天堂と何らかの
関係があるように思います。
西尊院堂-展望
駐車場はありませんので路肩にバイクを停車しました。
近江大橋方面の展望が開けていましたが、朝霧で霞んでいました。
延暦寺駅
信号から先に進むとトンネルがあり、その手前を下ると無動寺の駐車場があります。
駐車場から坂本ケーブルの延暦寺駅の方へ向かいます。
駅舎は麓の坂本駅と共に登録有形文化財に選定されています。
坂本ケーブル
坂本ケーブルのキャッチフレーズは「長さも、景色も、日本一」で、
全長2,025mは日本最長であり、ほうらい丘駅と、もたて山駅の中間駅があります。
また、京都側の叡山ケーブルは、日本一の高低差561mを誇り、
二つの日本一が比叡山に集中しています。
延暦寺駅からの展望
延暦寺駅には展望台があり、琵琶湖大橋の先には沖ノ島が望めます。
一の鳥居
延暦寺駅の西側に無動寺参道があり、坂本へと下る無動寺谷に堂宇が点在しています。
「大弁財天」の扁額が掛かる鳥居が建っています。
延暦寺駅の標高は約650mで、弁天堂まで約100m下ります。
二の鳥居
しばらく下ると二の鳥居が建ち、その脇には休憩所が準備されています。
三の鳥居
更に下ると三の鳥居。
参道-急カーブ
急カーブが続きます。
閼伽井-1
閼伽井があり、手前の一般用の手水舎で、清めや喉を潤すこともできます。
閼伽井-2
明王堂から往復すると約5分の距離です。
堂入りの回峰行者は深夜2時にこの閼伽井まで来て閼伽水を汲み、
堂内の不動明王に供えなければなりません。
弁天堂-入口
その先に弁天堂へ下る参道がありますが、明王堂へ向かいます。
明王堂-入口
「無動寺本尊 不動明王」と刻まれた標石が建っています。
「無動」とは、不動とも表し、禅定(ぜんじょう)により、心が少しも乱れないこと、
また、そのような状態を意味します。
不動明王は大日如来の使者として、回峰行者を守護するとされています。
手水舎
ここにも手水舎があります。
この動物は何でしょう?
明王堂
明王堂は貞観7年(865)に建立大師・相応(こんりゅうだいし・そうおう)によって
創建され、正式には「無動寺明王堂」と称します。
天仁元年(1109)に無動寺管領に就いた寛慶(かんけい:1044~1123)によって
東塔から自立し、東塔・西塔・横川に匹敵する発言力を持つようになりました。
本尊の不動明王木造座像は、近畿三十六不動尊霊場
第26番札所本尊でもありますが、秘仏とされ、
6月23日の明王講曼荼羅供法要の時に開帳されます。
無動寺は元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちで焼失し、
その後再建されましたが、江戸時代の天保14年(1843)に起こった大火で焼失しました。
現在の建物はその後再建されたもので、明王堂は回峰行者の参籠所となっています。

比叡山の千日回峰行は、7年間にわたって行われ、
無動寺で勤行を済ませて深夜2時に出発し、真言を唱えながら東塔、西塔、横川、
日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30kmを平均6時間で巡拝します。
これを1~3年目は年に100日、4~5年目は年に200日行い、
5年700日を満行すると、最も過酷とされる明王堂での「堂入り」が行われます。

「堂入り」の際は、五色幕が張られて全ての扉は閉じられ、
辺りは静寂に包まれます。
入堂前に行者は生き葬式を行い、足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・
断眠・断臥の4無行に入り、行者は不動明王の真言を唱え続けます。
深夜2時に堂を出て、閼伽井へ閼伽水を汲みに行き、堂内の不動明王に供えます。
生死の境をさまよう中で、五感が研ぎ澄まされ、
一方で身体からは死臭が漂うそうです。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、

信者達に支えられ、合掌して迎えられます。
これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入ります。

6年目にはこれまでの行程に赤山禅院への往復が加わり、
1日約60kmの行程を100日続けます。
7年目の最初の100日間は京都大廻りで、その行程は84kmに及びます。
比叡山中と日吉大社への約30kmの巡拝の後に赤山禅院へ下り、清水寺から
六波羅蜜寺を経て北上し、北野天満宮から東へ進み上御霊神社から下鴨神社
巡拝した後に市内で仮眠し、翌日はその逆を無動寺へと戻ります。
その100日の次の100日は再び比叡山中と日吉大社への約30kmの行程に戻り、
7年目の200日を終えて満行となります。
この7年間は、途中で離脱することが許されず、行を続けることが出来なくなった
時には自害する定めがあります。
そのため、行者は首をくくるための四手紐(しでひも)と両刃の短剣を
常時携行し、白の装束は「死出装束」と呼ばれています。
鐘楼
明王堂の左側に鐘楼があります。
鎮守社と相応和尚像
右側には山王鳥居が建ち、鎮守社として山王権現が祀られていると思われます。

その右側に回峰行者姿の相応和尚(そうおうかしょう)の像が祀られています。
相応和尚(831~918)は「建立大師」とも称され、千日回峰行の祖とされています。
承和12年(845)の15歳の時に比叡山に入り、17歳で剃髪・受戒しました。
根本中堂の本尊・薬師如来に山野の花を供えることを日課とし、約7年間続けていた
ところ、第3代延暦寺座主・円仁に認められ得度を薦められました。
その時は弟子に譲りましたが、斉衡2年(855)に藤原良相(ふじわら の よしみ)が、
自分の身代わりとなって得度する者を捜して欲しいと円仁に依頼しました。
円仁は相応を選んで得度させ、良相から一字をとって「相応」の名を授けました。
相応は天台宗で定められた得度後12ヶ年の篭山修行に入りましたが、4年後の
天安2年(858)に藤原良相の娘が重病で瀕死の状態に陥りました。
相応は円仁から命じられて修行を中断し、山から下って娘の病魔を調伏しました。
その娘は後に第56代・清和天皇の女御となり、「西三条女御」と称されました。

貞観元年(859)に大願を発し、比良山中での3ヶ年にわたる修行を誓いました。
葛川息障明王院(かつらがわそくしょうみょうおういん)を創建し、
明王滝川上流の滝に篭り7日間飲食を断つなど厳しい修行を行いました。
しかし、貞観3年(861)に清和天皇の勅命により参内して、病魔を除き災いを祓う
とされる「阿比舎の法」を修しました。
貞観5年(863)に等身大の不動明王を刻み、貞観7年(865)にその像を安置するための
仏堂を建て、「無動寺」と名付けました。
延喜18年(918)に入滅されるまで、数々の伝承が残され、千日回峰行の満行者が
土足厳禁の京都御所で、草鞋履きで参内して加持祈祷を行うのも、
その伝承によるものです。
法曼院
明王堂から石段を下ると法曼院があります。
法曼院は本坊で、回峰行者の世話や管理が行われています。
護摩堂
法曼院から更に石段を下ると坂道となり、少し下ると護摩堂がありますが、
屋根がシートで覆われています。
現在でも護摩供が修されているかは不明です。
宝珠院建立道場
宝珠院建立道場
詳細は不明です。
大乗院
大乗院
境内には「親鸞聖人御修行舊跡(きゅうせき)」の石碑が建ち、
親鸞聖人自作とされる「蕎麦喰い木像」が安置されています。
建仁元年(1201)、この地で修行していた親鸞聖人は、夢告により
六角堂への百日参籠を行いました。
親鸞聖人は聖徳太子を敬い、太子建立の六角堂へ百日参籠を行ったのですが、
95日目の暁に聖徳太子化身の救世観音菩薩から夢告を受けました。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある
法然が住していた吉水草庵を訪ね、岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、
百日にわたり法然の元へ通い、そして法然聖人の弟子となりました。

この木像には以下のような伝承が残されています。
親鸞聖人が六角堂へ百日参籠のため、毎夜大乗院を抜け出すのを見た僧たちは
「女人の所に通っている」と噂し、親鸞聖人を懲らしめるために
親鸞聖人が出立後に全員に蕎麦を振舞いました。
親鸞聖人が不在なことを師に明かす目的でしたが、この木像が聖人の身代わりとなって
蕎麦を食べたと伝わります。
玉照院-山門
更に下ると竜宮門の玉照院があります。
玉照院は回峰行の本院となり、行者はここで寝泊まりして、ここから出立されます。
玉照院-木の根
石垣の上には巨大な切り株が...
玉照院から坂本の方へ下る道は閉鎖されています。
法曼院下の石段
弁天堂の方へ戻ります。
法曼院から下ってきた石段です。
石段脇の巨木が切り倒されていますので、台風でこの木の枝などが護摩堂の屋根に
被害を及ぼしたのかもしれません。
建立道場への登り口
弁天堂の鳥居の脇には建立道場への登り口がありますが、
立ち入りは禁止されているようです。
松林院
弁天堂の鳥居から下ると松林院がありますが詳細は不明です。
弁天堂-授与所
授与所
祈祷などの受付も行われています。
弁天堂-手水舎
手水舎
水掛大弁財天
水掛大弁財天
赤井稲荷大明神
赤井稲荷大明神
一願成就石
一願成就石の上に梵字が刻まれ、その部分を手で右転しながら真言を七編唱え、
願い事を一つ念じます。
弁天堂
弁天堂は、相応和尚により創建されました。
相応和尚が修行中に、この地に白蛇弁財天が顕れた霊地とされています。
弁財天は智慧、長寿、富という現世の願いを聞き届けるとされ、
広く信仰されています。
信者の寄進による外護(げご)により、回峰行者が支えられています。
相応和尚は修行に必要な善知識、教授の善知識(師匠)、
同行の善知識(共に修行する者)の他に修行を支援する外護の善知識が不可欠として
この弁天堂を創建したと推定されます。
弁天堂の右側
弁天堂の右側
石垣内の祠
石垣内の祠
白龍弁財天社
右、白龍弁財天社と左、宇賀神社
宇賀神は人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く姿で表され、弁財天もまた、蛇や龍の
化身とされることから習合して、弁財天像の頭頂部に乗り、
「宇賀神弁財天」とも称され、福徳の神として信仰を集めています。

駐車場まで戻り、延暦寺東塔への駐車場へ向かいます。
続く

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延暦寺は令和2年(2020)3月1日から巡拝料が700円から1,000円に改定されました。
東塔、西塔、横川の全てを巡拝することが出来、個別の入山料は設定されていません。
国宝殿
駐車場から入った左側に国宝殿がありますが、拝観料500円が必要です。
「国宝殿」という名称は、伝教大師最澄が著わした『山家学生式』の中の
「一隅を照らす。これ則ち国宝なり。」という言葉から名付けられ、
「国宝」とは物ではなく、人の心であると説かれています。
館内では延暦寺に伝来する数多くの仏像・仏画・書跡等の文化財が
保管・展示されています。
大講堂
参道を進んだ所に大講堂があります。
昭和31年(1956)に消失し、昭和39年(1964)に坂本の讃仏堂を
移築して再建されました。
本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の
宗祖の木像が祀られています。
外陣に掲げられている釈迦を中心とした仏教・天台宗ゆかりの高僧の肖像画は、
国の重要文化財に指定されています。
4年に一度天台宗僧侶の最終試験として
「法華大会広学竪義(ほっけだいえこうがくりゅうぎ)」が行われます。
瑞雲院
大講堂の左奥に瑞雲院があります。
かっては「教光坊」と称されていましたが、貞享元年(1684)に再興された際に
瑞雲院に改められ、法華三昧道場となりました。
昭和48年(1973)に天台宗大僧正・岡野正道と岡野貴美子により大講堂の政所として
復興されました。
岡野正道は、昭和11年(1936)に孝道教団を開宗したことから、
平成24年(2012)秋に「孝道教団始祖伝法堂」の別称が定まりました。
前唐院
東側に第3代天台座主・円仁の住坊であった前唐院(ぜんとういん/さきのとういん)
があり、慈覚大師円仁が祀られています。
第5代天台座主・智証大師円珍より先に入唐したので、円珍の後唐院に対し、
「前唐院」と称されるようになりました。
慈覚大師円仁(794~864)は、大同3年(808)の15歳の時に延暦寺に入り、
最澄に師事しました。
弘仁6年(815)に得度し、翌年に東大寺具足戒を受戒しました。
弘仁8年(817)には大乗戒を受戒し、
自らが教授師として諸弟子に授けるようになりました。
弘仁13年(822)に最澄が入寂された後、承和2年(836)に最後の遣唐使に
選出されましたが、2度渡航を失敗し、承和5年(838)に短期留学僧として
唐へ渡りました。
遣唐使一行から離れ、五台山を巡礼した後、当時の世界最大の都市であった
長安を訪れ、9年6ヶ月の承和14年(847)に帰国しました。
423部・合計559巻の仏典や曼荼羅を持ち帰り、前唐院はそれらを所蔵する
経蔵としての機能も果たしていました。
大鐘楼
大講堂の方へ戻り、東へ進むと大鐘楼があります。
昭和31年(1956)に焼失し、その後再建されました。
大鐘楼-梵鐘
梵鐘は焼失を免れ、現在は国宝殿で保存されています。
再鋳された梵鐘は、「開運の鐘」とも「平和の鐘」とも呼ばれ、
一打50円で撞くことが出来ます。
巳講坂
大鐘楼から萬拝堂前の広場へと下る石段は
「巳講坂(いこうざか)」と呼ばれています。
「巳講」とは学問を究めた僧侶の階位のことで、いまでも主な行事の時、
巳講は石段のほうを上がって大講堂へ向かいます。
また、左側の参道を進んでも大講堂へ行けます。
臥牛像
巳講坂の石段の脇に宗教法人・福田海(ふくでんかい)から奉納された
臥牛像が祀られています。
福田海の開祖・中山通幽(なかやま つうゆう:1862~1936)は、明治維新の
神仏分離や境内地の没収などで、延暦寺が困窮に陥った時に、
根本中堂の不滅の法灯のための種油を、自ら背負って寄進を続けられました。
更に、昭和9年(1934)秋に根本中堂付近の参道に牛の銅像が寄進されたのですが、
戦時供出され、その代わりに石像が安置されました。
福田海は、神道・儒教・仏教・道教を折衷した宗教団体で、
明治41年(1908)に大阪で開宗され、不滅の法灯が分灯されています。
昭和2年(1927)、岡山県吉備中山の有木山・青蓮寺を福田海の聖地とし、
牛の鼻ぐり塚を造り、食肉の犠牲となる動物を供養しています。
登天天満宮
臥牛像の少し上に天満宮があり、「登天天満宮」と称されています。
第13代天台座主・尊意(そんい:866~940)は、菅原道真の仏教学の師とされ、
『北野天神縁起絵巻』には、以下の伝承が残されています。
「ある時、尊意のもとへ道真の霊が現れ、自分を陥れた者の復讐を行うが、
天皇からの命令であっても阻止しないでほしいと頼まれました。
尊意がこれを断ると、霊は差し出されていたザクロの実を口に含み、
種ごと吹き出しました。
種は炎となって燃え上がりましたが、尊意は印を結び水を放ち消し止めました。
尊意が霊を追って鴨川まで来ると、突然、川の水位が上がり始め、
土手を越えて町中に流れ込みました。
尊意が祈ると流れは二つに分かれ、石が現れてその上に道真の霊が立っていました。
尊意と霊が問答した結果、霊は雲の上へ飛び去り、それまで荒れ狂っていた
雷雨がぴたりと止んだ」と伝えています。
護良親王遺跡
根本中堂へと下る坂道の右側に「大塔宮護良親王御遺跡」の石碑があります。
護良親王(もりよししんのう:1308~1335)は、第96代・後醍醐天皇の第三皇子
とされ、通称を「大塔宮(おおとうのみや)」と称しました。
還俗(げんぞく)前は尊雲法親王と称し、6歳の頃に梶井門跡(三千院門跡)に入り、

20歳で天台座主となりました。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が元弘の乱を起こしましたが、鎌倉幕府討幕計画が
露見し、天皇は笠置山へ逃亡しました。
しかし、幕府軍に攻められ、天皇は捕えられて隠岐の島へ流されました。
大塔宮は般若寺から十津川村を経て吉野へと逃亡し、還俗して護良親王と名乗り、
吉野城(金峯山城)を仮の本拠地として挙兵するも敗退し、
高野山へと落ち延びました。

元弘3年(1333)に後醍醐天皇が隠岐の島を脱出して挙兵すると、足利尊氏は
幕府に背いて天皇方につき、鎌倉幕府は滅亡しました。
同年、後醍醐天皇は建武の新政を開始しましたが、護良親王と足利尊氏が対立し、
親王は捕えられて鎌倉へ配流され、建武2年(1335)に殺害されました。
大黒堂
東側の大黒堂は元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちで焼失し、
寛永年間(1624~1643)に再建され、根本中堂御供所、
食堂としても使用されてきました。
最澄が比叡山へ登った際、この地に大黒天が顕れ、寺の財政を約束したと伝わり、
日本の大黒天信仰の発祥の地とされています。
本尊は豊臣秀吉が開運と福徳を祈願したことから「三面出世大黒天」と呼ばれ、
正面は大黒天、左は毘沙門天、右は弁財天の三面の顔を持っています。
最澄が根本中堂建立の際に、守護神として自ら刻み、
一山の平安と庶民の財福を祈願しました。
摩尼車
大黒堂前の摩尼車は、本来は経文が刻まれ、一回転するとそれを読んだ功徳があると
するものですが、大黒堂前のは「願い事をして車を回すと願いがかなう」と
記されています。
要の地蔵尊
大黒堂と並ぶように地蔵尊の小さな祠があります。
「要の地蔵尊」と呼ばれ、本坂(坂本~東塔)の要の宿(やどり)にあったものが
ここに遷されました。
宿(やどり)とは和労堂(わろうどう)とも言い、急な登山路の休憩所の意味です。
萬拝堂
広場南側の萬拝堂は、平成時代に建立され、人類の平和が祈願されています。
萬拝堂-堂内
堂内には千手千眼観世音菩薩・伝教大師最澄像・天台大師智顗(ちぎ:538~598)像
の他、日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神が勧請され、祀られています。
東側の一隅会館は、無料休憩所で、比叡山全体の立体模型が設置され、
延暦寺を紹介するビデオが放映されています。
根本中堂への下り坂
坂を下り、根本中堂へ向かいます。
根本中堂は現在、2026年完成予定の10年間にわたる大改修が行われ、
覆屋の中に収められています。
根本中堂
延暦寺は、最澄が延暦7年(788)に現在地で、南に経蔵、中央に薬師堂、
北に文殊堂の三堂を建立し、「一乗止観院」と称して寺号を「比叡山寺」
と号したのが始まりとされています。
薬師堂には最澄自ら刻んだ薬師如来像が本尊として安置されていました。
延暦13年(794)、第50代・桓武天皇の行幸を仰ぎ、一乗止観院の落慶法要が
営まれた後に平安京遷都の詔が発せられました。
弘仁14年(823)に第52代・嵯峨天皇より「延暦寺」の寺号を賜り、一乗止観院は
「根本中堂」に改称されました。
根本中堂-変遷
仁和3年(887)、第5代天台座主・智証大師円珍は根本中堂を九間四面の大堂に改修し、
三堂を合わせて一つの堂とし、孫庇(まごひさし)が加えられました。
天元3年(980)、第18代天台座主・慈恵大師良源(元三大師)は谷を埋め立て、
現在と同規模の十一間の大堂に改修し、廻廊や中門が新造されました。

元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ちで焼失し、寛永19年(1642)に
第3代将軍・徳川家光の命により現在の根本中堂が再建されました。
寛政10年(1798)に本堂の屋根がとち葺きから銅板葺きに改められ、
昭和30年(1955)の半解体修理を経て、現在本堂の銅板葺きと廻廊のとち葺きの
葺き替え工事などが行われています。
本堂は国宝に、廻廊は国の重要文化財に指定されています。
延暦寺は神仏霊場の第150番札所です。
根本中堂-図
本尊は薬師如来で、寛永19年(1642)の再建時に新たに造立されたもので
秘仏とされ、御前立が安置されています。
その前には千二百年間灯り続けている
「不滅の法灯」が安置されています。
信長の焼き討ちの際には失われましたが、立石寺(りっしゃくじ)の
分灯から彩灯され、現在に引き継がれています。
立石寺は松尾芭蕉の句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」で有名ですが、
貞観2年(860)に第56代・清和天皇の勅命により、
第3代天台座主・慈覚大師円仁が開山し、不滅の法灯が分灯されました。
大永元年(1521)に立石寺が天童頼長の兵火を受けて焼失した際には、
天文12年(1543)の再建時に延暦寺から再び分灯されました。
根本中堂-天井画
根本中堂の内陣には護摩壇があり、毎日薬師護摩が焚かれています。
天井には「百花の図」が描かれた200枚もの天井板が張られています。
内陣と中陣との境の欄間には紫雲に踊る天人などの彫刻が施されています。

廻廊内の中庭の竹台の北は「筠篠(いんじょう)」と呼ばれ、
国内3700社の神が祀られています。
南は叢篠(そうじょう)」「篆篠(しゅうしょう)」と呼ばれ、
山王七社が祀られています。
また、二つの鎮壇塚には18神が祀られています。
根本中堂-工事
堂内で参拝した後に、工事の模様を見学することが出来ます。
山家学生式
廻廊前の東側に天台法華宗分学生式一首(山家学生式=さんけがくしょうしき)の
碑があります。
「国宝とは何物ぞ、宝とは道心(どうしん)なり。
道心ある人を名づけて国宝と為(な)す。
故(ゆえ)に古人(こじん)言わく、径寸十枚(けいすんじゅうまい)、
是れ国宝にあらず、一隅(いちぐう)を照す、
此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと。
古哲(こてつ)また云(い)わく、能(よ)く言いて行うこと能(あた)わざるは
国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用(ゆう)なり、能く行い能く言うは

国の宝なり。
三品(さんぼん)の内、唯(ただ)言うこと能わず、
行うこと能わざるを国の賊(ぞく)と為す。
乃(すなわ)ち道心あるの仏子(ぶっし)、西には菩薩(ぼさつ)と称し、
東には君子(くんし)と号す。
悪事を己(おのれ)に向(むか)え、好事(こうじ)を他に与え、
己(おのれ)を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。」

伝教大師童形像は昭和12年(1937)の比叡山開創千百五十年を記念して建立されました。
「我れ生まれてよりこのかた、口に麤言(そげん=荒々しい言葉)なく、
笞罰(ちばつ=むちで打つこと)せず、今我か同法(道を同じくする者)
童子を打たずんば、我が大恩となさん、努力せよ、努力せよ。」とあり、
伝教大師の児童に対する心を世に伝えました。
この像は全国小学校児童の一銭醵出金(きょしゅつきん)によって建立されました。

右側には伝教大師像が祀られています。
宮沢賢治歌碑
北へ進むと宮沢賢治の歌碑が建立されています。
「ねがはくは 妙法如來 正遍知 大師のみ旨 成らしめたまへ」
正遍知とは「あまねく正しい智慧のある方」といういみで、
根本中堂の本尊・薬師如来の智慧により、伝教大師の国の平和を願う祈りが
叶えられるようにと詠まれました。
大正10年(1921)4月初めに賢治は、父とともに関西旅行に旅立ち、伝教大師生誕
千百年大法要会が営まれた比叡山に訪れました。
この碑は「関西宮沢賢治の会」の初代会長で、千日回峰行を達成した
葉上照澄大阿闍梨(1903~1989)の発願により建立されました。
賢治の命日である9月21日に、延暦寺によって賢治忌法要が営まれています。
経蔵
経蔵と思いますが、定かではありません。
最澄が一乗止観院を建立した際、経蔵・薬師堂・文殊堂が横一列に並んでいました。
円珍はその三堂を一堂とし、良源がその堂をさらに拡大させて改修した際に
経蔵は移築されています。
星峯稲荷-鳥居
その先に星峯稲荷社の鳥居が建っています。
星峯稲荷
鳥居をくぐり登って行くと星峯稲荷社があります。
本尊は茶枳尼天(だきにてん)で、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の
衆生を救ってくださる辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)です。
延暦寺が創建された頃に茶枳尼天が白狐(びゃっこ)に姿を変え、
この地、星の峰に出現されて諸人の罪や穢れを祓い、福徳を施したと伝わります。
文殊楼
星峯稲荷社横を登って行った所に文殊楼があります。
文殊楼は延暦寺の山門であり、かっては坂本からの本坂を登り、
最初にくぐる門でした。
第3代天台座主・慈覚大師円仁は、貞観3年(861)に中国・五台山の霊石5つを
周囲に埋めて建立を開始し、貞観8年(866)に五台山の香木を納めた
文殊菩薩像を安置しました。
康保3年(966)に焼失した際は、第18代天台座主・慈恵大師良源が五台山の
文殊菩薩を勧請して再建されました。
現在の文殊楼は、寛文8年(1668)に再建されたもので、
大津市の指定文化財となっています。
根本中堂への石段
根本中堂と20mの高低差があり、根本中堂の屋根と文殊楼へ登ってきた石段の
最上部が同じ高さになっています。
楼内の参拝もでき、急勾配の階段を上ると、本尊の文殊菩薩他多数の仏像が
安置されています。
世界平和の鐘
南側の「世界平和の鐘」は、世界106ヵ国から寄せられたコインやメダルにより
鋳造されました。
国連本部の世界平和の鐘を継承し、戦争の悲惨さ、核兵器廃絶、平和の尊さを
訴えるために平成19年(2007)に寄贈されました。
大書院
下ると大書院があります。
延暦寺の大本坊であり、迎賓館としての役割を果たしています。
比叡山開創1,150年を記念して、もと東京赤坂にあった村井氏の山王荘の一部を
移築して建立されました。
大書院-門
大書院の門
大書院は「特別保存建造物であることから立ち入りを禁止します」と記されています。
延暦寺会館
更に少し下ると、宿坊である延暦寺会館があります。
かってはここに灌頂堂がありました。
見た目にには、宿坊というよりホテルです。

画像はありませんが、延暦寺会館前に厄除不動尊が祀られています。
元は正覚院で祀られていましたが、延暦寺会館が建てられたのに伴い、
宿泊者や参拝者の旅行安全・厄難消除を祈願して現在地に遷されました。
本坂
延暦寺会館の横から坂本へと下る参道があり、これが本坂であると思われますが、
定かではありません。
法然上人碑
下って行くと「法然上人得度御霊場」の石碑が建っています。
法然上人は、長承2年(1133)に美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)で誕生し、
幼名を「勢至丸」と称しました。
現在その地には、熊谷直実により誕生寺が建立されています。
保延7年(1141)、9歳の時に父が土地争論に関連して殺害され、
母方の叔父の僧侶・観覚に預けられました。
観覚は、勢至丸の能力に気付き、当時の仏教の最高学府であった
延暦寺での勉学を勧めました。
天養2年(1145)に勢至丸は比叡山に登って源光に師事し、久安3年(1147)に
皇円の下で得度し、第48世天台座主・行玄を戒師として受戒しました。
法然堂
下って行った所に金勝院(こんしょういん)法然堂があります。
かって、ここは皇円の住坊であり、当時は功徳院と称されていました。
皇円は、その広い学徳により「肥後阿闍梨」と尊称され、功徳院は後に
「金勝院」と改称されましたが、明治39年(1906)に廃されました。
昭和7年(1932)に楊谷寺の住職で翌年、西山浄土宗総本山・光明寺の第70代管長に
就いた日下俊隆(くさか しゅんりゅう)大僧正が願主となって再建されました。
堂内には法然上人得度の御尊像が安置され、昭和10年(1935)には
浄土宗西山深草派・真宗院が秘蔵していた「法然上人晩年の尊影」と
「法然上人一代絵伝」が安置されました。
蓮如堂
下ってきた坂を登り、延暦寺会館の方へ戻ります。
延暦寺会館の駐車場から奥の車道は通行が禁止されていますが、
その先に蓮如堂があり、通行禁止を破らないと行くことは出来ません。
蓮如堂は、浄土真宗第八祖「蓮如上人」が十八歳の頃、ここで念仏の修行をしたと
されています。
蓮如堂-堂内
堂内
蓮如(1415~1499)は、本願寺第7世・存如の長子として誕生しましたが、
その頃の本願寺は衰退の極みにあり、青蓮院の末寺に過ぎませんでした。
蓮如は17歳の時の永享3年(1431)に中納言・広橋兼郷の猶子となり、
青蓮院で得度しました。
親鸞足跡を尋ねて比叡山に登り、この地で5年間を過ごしたとされていますが、
訪れた信徒の一人が、修行姿の痛ましさに泣いたと伝えられています。
宝徳元年(1449)には父と共に北国で布教していましたが、長禄元年(1457)に
父の死去に伴い本願寺第8代を継ぎました。
当時の本願寺は、青蓮院の一末寺に過ぎず、宗旨について弾圧が加えられるように
なると、蓮如は延暦寺への上納金を拒絶しました。
寛正6年(1465)、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と定め、同年1月10日に
大谷本願寺を破却しました。
蓮如は近江を転々とした後、文正2年(1467)3月に本願寺を延暦寺西塔の末寺とし、
蓮如の隠居と長男の順如の廃嫡を条件に事態は収束されました。
応仁3年(1469)延暦寺と敵対していた園城寺(三井寺)は順如を庇護し、
大津南別所に顕証寺を建立し、宗祖・親鸞の真影(木像)が安置されました。
文明3年(1471)に蓮如が越前吉崎で、吉崎御坊を建立すると多くの信者が集まり、
文明10年(1478)には山科に移り、坊舎の造営を開始しました。
蓮如の下には浄土真宗他派や他宗からも集結し、浄土真宗宗派の中心寺院としての格
を取り戻して文明15年(1483)8月22日に山科本願寺が落成しました。
蓮如は現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、
「本願寺中興の祖」と呼ばれています。

画像はありませんが、蓮如堂の西側の山間の窪地に本願堂旧跡の碑が建っています。
伝教大師最澄が最初に比叡山に入って草庵を結び、仏教の研究に没頭された場所と
伝わり、東塔北谷虚空蔵尾(こくぞうお)と称されていました。
最澄は、虚空蔵尾にあった霊木で本尊の薬師如来と西塔釈迦堂の釈迦如来像、
及び浄土院の阿弥陀如来像を一刀三礼して自ら刻んだと伝わります。
但し、現在はその地へ下る参道も無く、行くのは困難です。
総持坊
蓮如堂から車道はその谷を迂回するように南へ進みます。
その東側に総持坊があります。
玄関は閉じられていましたが、玄関の真上に一つ目・一本足の奇妙な僧の額が
掲げれていて、比叡山七不思議伝説の一つとして伝えられています。
この僧とは、慈忍和尚の変身で、真夜中に一眼一足に鐘をぶら下げるという
奇妙な格好をして山中を廻り、怠け者や悪僧を見つけると胸につるした
鐘を鳴らして警告しました。
こうして怠け者や悪僧を次々と下山させたと伝わります。
戒壇院への石段
大講堂まで戻り、阿弥陀堂へと向かうと、途中に戒壇院への石段がありますが、
戒壇院は後で行きます。
阿弥陀堂への石段
参道を進むと52段の石段下に出ます。
人が悟りを開くには52の段階があり、それを一段一段修行を積み重ねて、
 成仏に至ることができるといわれています。
阿弥陀堂
石段を登った正面に阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂は昭和12年(1937)に建立された、檀信徒の先祖回向の道場です。
本尊は丈六の阿弥陀如来像で、全国の檀信徒の位牌が祀られています。
阿弥陀堂-鐘楼
鐘楼は昭和58年(1983)に坂本の讃仏堂から移築されました。
東塔
法華総持院東塔は、木造桧造りの重層多宝塔で高さ30m、
昭和55年(1980)に再興されました。
伝教大師最澄は日本を護るため、全国に6ヶ所の宝塔建設を計画され、
その中心の役割を果たすのがこの塔としました。
第3代天台座主・円仁は、中国の長安青龍寺の鎮国道場の形態を模して
この塔を創建し、胎蔵界の五仏を本尊として安置して天台密教の根本道場としました。
度々の焼失でも再建が繰り返されてきましたが、元亀2年(1571)の織田信長による
比叡山焼き討ちで焼失してからは再建されず、約400年振りに
伝教大師出家得度千二百年度讃大法会を祈念して再建されました。
現在の東塔には本尊として胎蔵界の五仏が安置され、正面柱に四菩薩、
両面壁画に妙法蓮華経の四用品、裏面壁画に金剛界五仏が描かれ、
上層に仏舎利、法華経千部が納められています。

背後の廻廊や楼門などは昭和61年(1986)に建立されました。
灌頂堂
東塔の左に灌頂堂(かんじょうどう)がありますが、立ち入りは禁止されています。
法華総持院の中の一堂で、元亀二年織田信長の焼き打ちで焼失しましたが、
昭和59年(1984)に復興された天台密教の伝法道場です。
桓武天皇の勅命により、伝法灌頂結縁灌頂など伝教大師が中国から伝承した秘法が、

僧侶や信者に伝えられています。
僧侶の伝法は毎年九月に、信者のため結縁灌頂は年中適当に執り行われています。
道標
阿弥陀堂から石段を下るとこのような道標が立っています。
戒壇院
西塔の方へ曲がるとすぐに右手に戒壇院があり、参道からの石段を登らずに済みます。
戒壇院は、天台宗の僧侶になるために必要な大乗戒を受ける所で、
比叡山中で最も重要なお堂とされています。
戒壇院-2015
平成27年(2015)参拝時の画像です。
堂内には大乗仏教の戒律を授ける釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、文殊菩薩、
弥勒菩薩が祀られていますが、現在は工事中でした。
伝教大師は、我が国初の大乗戒壇院の建立に心血を注がれましたが、
勅許が下されたのは大師の没後7日後でした。
初代天台座主・義真(ぎしん:781~833)が天長5年(828)に創建し、
延宝6年(1678)に現在の建物が再建されて、国の重要文化財に指定されています。

西塔へ向かいます。
続く

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弁慶水
道標に従い、戒壇院から進むと杉の大木の根元から湧き出る
「弁慶水」の水屋形があります。
 『山門堂社由緒記』では、西塔の武蔵坊に住んでいた弁慶が、
「一千日夜に勇力を大士に祈り、この水を用って浴身す。」との由来から「弁慶水」と
呼ばれるようになりました。
また、「山王院千手大士の閼伽水なり」との由来から「千手水」とも呼ばれ、
「寛平法皇(宇多法皇)、かつてこの水を掬(く)み勅して千手水(又は千寿水)と
号す。」との記録もあり、この霊水の呼び名は諸説あるようです。
千手大士とは、この先の山王院に安置されている千手観音立像のことで、
仏前に供える閼伽水が正しいように思えます。
弁慶水-地蔵像
脇には地蔵菩薩と無縁塔が祀られています。
山王院堂への橋
その先で参道は山頂と西塔へと別れています。
西塔へはドライブウェイに架かる橋を渡ります。
山王院堂
橋を渡った所に山王院堂があります。
伝教大師最澄が延暦年間(782~822)に創建し、法華鎮護として
山王権現が勧請されたことから、詳しくは「法華鎮護山王院」と称されています。

第5代天台座主・智証大師円珍の住坊であったことから「後唐院」とも呼ばれ、
千手観音を祀ることから「千手堂」とも「千手院」とも称されました。
堂内に安置されている千手観音立像は平安時代の作で像高51.2cm、
山内最古とされ、国の重要文化財に指定されています。
また、かっては智証大師円珍像も安置されていました。

智証大師の臨終に際しての命により、 門人達が大師入滅後、
その姿を模刻した二躯の大師像を造立しました。
一躯は山王院堂に、もう一躯は園城寺(三井寺)に安置されました。
智証大師円珍が寛平3年(891)に入滅されてから約100年後の正暦4年(993)、
智証大師円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、
円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入りました。
この時、円珍門下は智証大師円珍像を背負って三井寺へ遷しました。
以来、延暦寺を山門、三井寺を寺門と称して天台宗は二分されました。
山王院堂-宝篋印塔
宝篋印塔は宝永3年(1706)に建立されました。
山王院堂からの下り
山王院堂からは下りの石段が続きます。
浄土院-全体
2~3分下った所に浄土院があります。
ここが東塔と西塔の境で、浄土院は東塔に属します。
大正10年(1921)に建立された平唐門に江戸時代中期の拝殿、
その背後に伝教大師最澄の御廟がある比叡山中で最も清浄な聖域です。
慈覚大師円仁は、仁寿4年(854)に中国・五合山竹林院を模して建立し、
伝教大師最澄が自ら刻んだ阿弥陀如来像が安置されました。
その後、織田信長による焼き討ちで焼失し、現在の御廟は江戸時代中期の再建で、
国の重要文化財に指定されています。
浄土院-廟
横の通路から御廟へ参拝することが出来ますが、近寄ることは出来ません。
御廟前には常香炉が置かれ、常に香が焚かれています。
御廟玉垣の辺りには沙羅双樹と菩提樹が植えられています。
毎年、伝教大師最澄の命日である6月4日に「長講会」が営まれ、
御廟の扉が開けられます。
最澄は、弘仁13年6月4日(822年6月26日)に56歳で入寂されました。
貞観8年(866)に第56代・清和天皇から、日本で始めての大師号である
「伝教大師」の諡号が贈られました。
大師とは人を教え導く偉大な指導者という意味です。
浄土院-拝殿
境内に入ると、御廟の前に拝殿があります。
浄土院-政所
苔と白砂で作庭され、背後の建物には「侍眞(じしん)」という
修行僧が控えています。
建立以来、侍眞(じしん)は、早暁より薄暮まで勤行と掃除勉学修行に励んで、
12年間山を降りない籠山修行の内規に則って生活しています。
侍眞の修行は、伝教大師最澄の真影に侍り、御膳を供え、五体投地の礼拝を行い、
読経を行う他、経典や仏教全般、更には政経文化なども修学します。
境内や周辺の掃除は徹底して行われ「掃除地獄」と呼ばれています。
「論湿寒貧」と称され、この地は比叡山中でも湿気が多く、冬の寒さは厳しくて
雪が深く、そのような環境下で清貧な生活を送り、勉学に励まなければならないとの
意味が込められているそうです。
我が志の碑
浄土院からしばらく進むと西塔の駐車場からの参道と合流します。
その手前の石碑には、臨終で弟子たちに遺誡(ゆいかい)の一部、
「我が志を述べよ」が刻まれています。
全文は「「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、
我が志を述べよ(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、
私の志を後世まで伝えなさい)」です。
箕淵弁財天-鳥居
合流した北側に鎮守社の箕淵弁財天(みのふちべんざいてん)が祀られています。
箕淵弁財天
現在の社殿は昭和64年(1989)に再興されました。
聖光院跡の碑
箕淵弁財天の前に「聖光院跡」の碑が建っています。
かって、この地に聖光院があり、親鸞聖人が住持していました。
親鸞聖人(1173~1263)は、治承5年(1181)の9歳の時に青蓮院に入り、
後に第62代/65代/69代/71代天座主となる慈鎮和尚(じちん かしょう)のもとで
得度し、「範宴(はんねん)」と称しました。
慈鎮和尚が横川(よかわ)の検校(けんぎょう)を勤めていたことから、
当初は横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂の堂僧なって
不断念仏の修行をしたとされています。
親鸞聖人は、その後の20年間を比叡山で修行に励み、建仁元年(1201)の29歳の時に
無動寺谷から山を下り、六角堂へ百日参籠した後に法然上人の弟子となりました。
親鸞聖人
先へ進むと「親鸞聖人ご修行の地」の碑も建っています。
真盛上人
ここはまた、真盛上人修学の地でもあります。
真盛上人(1443~1495)は、寛正2年(1461)の19歳の時に西塔の慶秀に師事して
天台宗の教学を学び、文明14年(1482)の母の死を契機に世の無常を感じ、
黒谷青竜寺に隠棲しました。
文明18年(1486)に西教寺に入り、不断念仏の根本道場として
天台宗真盛派(現在の天台真盛宗)を創始しました。
円戒国師・慈摂大師の諡号が贈られています。
西教寺では真盛上人を中興の祖としています。
椿堂
更に参道を進むと「にない堂」が見えますが、その手前を南側に下った所に
椿堂があります。
椿堂は、聖徳太子が比叡山に登られた時に使われた椿の杖を、この地に差して
置かれたところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁から、
椿堂と名付けられました。
左側の葉を茂らせているのが、それに因んだ椿の大木かと思われますが、
定かではありません。
本尊は千手観世菩薩で、不動明王像も安置されているようです。
延暦寺では古くから「四種三昧(ししゅざんまい)」と称される
修行が行われてきました。
常坐三昧(じょうざざんまい)は、このお堂で行われているそうで、
90日間を1期とし、一人で入堂して2度の食事と用便以外は坐禅に没頭し、
精神を統一して法界を観ずるとされています。
椿堂-鐘楼
椿堂の前に鐘楼があります。
修行の何かの合図に撞かれるのかもしれません。
にない堂
にない堂は、常行堂と法華堂を合わせた呼び名で、共に文禄四年(1595)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
同じ形をした二つのお堂が、廊下で繋がっています。
この姿から廊下が「にない棒」のように見えて、「にない堂」と呼ばれています。
弁慶がこの廊下に肩を入れて担いだという逸話も残されています。
正面に向かって右が法華堂で、左が常行堂です。
また、にない堂には比叡山七不思議伝説の一つが残されています。
『「真弁(しんべん)」という名の修行僧がこの堂に篭もって修行を行っていました。
真弁は自分の気むずかしい性格を変えるために、ひょうきんで愛嬌のあるタヌキに
あやかろうと考え、タヌキの彫刻を始めたのです。
その彫刻を始めてから10日目の夜のこと…。
真弁の目の前に突然、巨大なタヌキの怪物が現れました。
タヌキの額には白く横一文字に引かれた眉毛が1本という奇妙な顔でした。
タヌキの怪物は「我は、大師開山以前より、この山に住んでいる一文字のタヌキだ。
お前は、己のためでなく、仏道修行のために千体のタヌキを彫り、
願を立てるのなら、お山はお前を擁護するだろう…」と告げたのです。
そのタヌキのお告げを聞いた真弁はその意味を悟り、千日回峰行を始めたのです。
一日の行を終えると、タヌキを一体彫り、そのようにして
真弁は千日回峰行を成し遂げました。』
しかし、その千体のタヌキの彫刻は、織田信長の焼き討ちに遭って、
失われてしまったと伝わります。
法華堂
右側の法華堂は、法華三昧を修する普賢菩薩が本尊です。
四種三昧の半行半坐三昧には、方等三昧と法華三昧があり、
比叡山では法華三昧が行なわれています。
21日間にわたって五体投地や法華経の読誦からなり、
本尊の周囲を歩く行と座禅を中心に修行し、
精神を集中させて仏の智慧を得ようとするものです。
常行堂
左側の常行堂は、四種三昧の常行三昧を修する阿弥陀如来が本尊です。
常行三昧は、90日間を1期とし、念仏を唱えながら本尊の周囲を常に歩行する行です。
坐ることは許されず、堂内の柱間にしつらえた横木を頼りに歩いたり、
天井からつり下げられた麻紐につかまって歩を休めることはできます。

また、四種三昧の非行非坐三昧は、毎日の生活そのものが修行となります。
釈迦堂への下り坂
廊下の下をくぐった先で、釈迦堂へと石段を下って行きます。
西塔政所
石段の途中、右側に西塔政所があります。
事務や財務が扱われる所で、立ち入りが禁止されています。
恵亮堂
左側には江戸時代初期に創建された恵亮堂(えりょうどう)があり、
恵亮和尚(802/812~860)が本尊として祀られています。
恵亮和尚は信濃の人で、天長6年(829)に比叡山に登り、初代天台座主・義真から
受戒し、第2代天台座主となる円澄に師事しました。
比叡山で修力霊験に最も優れた和尚であり、第55代・文徳天皇の第一皇子・
惟喬親王(これたかしんのう)と第四皇子・惟仁親王が立太子を争った際に、
惟仁親王のために祈願しました。
惟仁親王が第56代・清和天皇として即位すると、宮中で天皇の安穏を祈る
内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に任ぜられました。
貞観元年(859)に西塔宝幢院(ほうどういん)の検校となり、
西塔の興隆に尽力されました。
寿塔
境内の南側に真盛上人の寿塔があります。
寿塔とは、生前に予め造った墓のことで、文明14年(1482)に黒谷青竜寺へ隠棲する
直前に建てられました。
真盛上人が黒谷青竜寺へ隠棲したのには、母の死を機に、
応仁・文明の乱(1467~1477)で起きた世の惨状を見るに忍びず、
意を決して社会浄化に身を挺するため、
三千宗徒との交わりを辞するためとされています。
中西悟堂
境内の北側には中西悟堂(なかにし ごどう:1895~1984)の歌碑が建っています。
「樹之雫(きのしずく) しきりに落つる 暁闇(ぎょうあん)の
比叡をこめて 啼くほととぎす」
暁闇とは夜明け前の暗い時です。
釈迦堂の辺りは比叡山でも野鳥の多い所で、西側は鳥類繁殖地として、
国の天然記念物に指定されています。
中西悟堂は金沢の生れで、幼少期は発育不全で歩行困難でした。
滝行修行などを行って健康となり、16歳で得度して比叡山で教義を学びました。
大正11年(1922)には第一詩集『東京市』を出版し、その後も詩集『花順礼』、
『武蔵野』と出版しましたが、昭和元年(1926)に作家を目指すようになりました。
東京での質素な田園生活で、昆虫や野鳥の観察を始めるようになり、
昭和11年(1936)に日本放鷹倶楽部の設立に発起人として参加しました。
野鳥や昆虫に関する著作が多数あります。
釈迦堂
釈迦堂は、正式には「転法輪堂」で、伝教大師最澄作と伝わる釈迦如来が
本尊であることから釈迦堂と呼ばれるようになりました。
承和元年(834)に第2代天台座主・円澄により創建された西塔の本堂です。
現在の建物は、織田信長の焼き討ち後に園城寺(三井寺)の金堂が移築された
延暦寺に現存する最古の建築物で、国の重要文化財に指定されています。
文禄4年(1595)、原因は定かではありませんが、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、
闕所(けっしょ=寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられました。
堂塔は破壊され、当時の金堂が、現在の釈迦堂となりました。

本尊の釈迦如来立像は、焼き討ちの際には現在の滋賀県高島市に避難して
焼失を免れ、国の重要文化財に指定されています。
当日は内陣の特別公開があり、文殊菩薩像や持国天像、増長天像、梵天像、
帝釈天像、不動明王像、元三大師像などを間近で拝することが出来ました。
釈迦牟尼佛
釈迦堂前の左側(西側)に釈迦牟尼佛の石像が祀られています。
鐘楼
そこから登って行くと鐘楼があります。
横川への道標
右側(東側)には横川への道標が建ち、横川中堂まで4kmと記されています。
その途中に居士林(こじりん)があり、一般の人々でも修行の体験ができ、
坐禅、写経、作務などの指導が受けられるそうです。
十一面観世音菩薩像
釈迦堂の左後方に十一面観世音菩薩像が祀られています。
当日は瑠璃堂の特別御開帳が行われていましたので、
この付近から瑠璃堂の方へ向かいます。
相輪塔への道標
途中で、相輪橖(そうりんとう)、弥勒石仏への山道が分岐しています。
相輪塔
相輪橖は、正式には「浄菩提心無垢浄光摩尼幢相輪橖(しょうぼだいしんむく
じょうこうまにどうそうりんとう)」」と称され、
最澄が弘仁11年(820)に創建したのが始まりとされています。
塔内に法華経・大日経22部58巻の経典、銘文が納められました。
但し、西塔の名の由来となったのはこの塔ではなく、山城宝塔院です。
現在の塔は、明治28年(1895)頃に改鋳された青銅製で、高さは11.65m、
国の重要文化財に指定されています。

山城宝塔院は最澄が計画した六所の宝塔の一つで、東塔(近江宝塔院)と共に
最澄が在命中には完成には至りませんでした。
延長元年(923)頃に完成したようですが、その後の詳細は不明です。
弁財天への道標
相輪橖の手前に、「右 弁財天」の道標があったので、そちらへ向かいました。
六所大権現
六所大権現を祀る祠がありました。
宝幢院(ほうどういん)の鎮守社として恵亮和尚により創建されました。
相輪橖が建てられたその境内に宝幢院が創建されたそうですが、
その後の詳細は不明です。
瑠璃堂
弥勒石仏を捜したのですが見つからず、瑠璃堂へ向かいました。
瑠璃堂へはドライブウェイを横断しなければならず、横断歩道もないので、
当日は係の方の指示で横断し、更に下って
釈迦堂からは歩いて10分を要します。
瑠璃堂は西塔北谷にあった古仙の霊崛(れいくつ=ひときわすぐれる)に
最澄が自作の薬師如来を安置したのが始まりと伝えられています。
元慶年間(877~885)の頃に、本尊が光を放ち京の都を照らしたので、
第57代・陽成天皇が不思議に思い、その光を尋ねたところ、ここに辿り着いたので、
この寺が放光院の号を賜ったという逸話が残っています。
現在の建物は、室町時代末期の再建と推定され、織田信長による焼き討ちから
免れた唯一の建物です。
しかし、本尊の薬師如来像は、新しく造立されたように思われます。

ここから下り、黒谷青竜寺へ至る山道もあるようですが、
東塔の駐車場まで戻り、横川へ向かいます。
続く

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伝教大師像
東塔の駐車場から横川(よかわ)の駐車場まではバイクで15分余りです。
回峰行者はドライブウェイの西側の峯道(みねみち)を行きます。
かって、西塔から峯道(みねみち)を歩いた時は、
横川の駐車場まで1時間弱を要しました。
ドライブウェイの瑠璃堂へと横断した少し先に峰道レストランがあります。
その駐車場には昭和62年(1987)の比叡山開創1200年を記念して造立された
高さ12mの伝教大師像が祀られています。
毎年3月13日にこの前で大護摩法要が執り行われています。
龍ヶ池
横川の駐車場から参拝受付所を経て参道を進むと龍ヶ池があり、
以下のような伝承が残されています。
『延暦寺古書に曰(いわく) 昔この池に大蛇が住みつき村人達に害を与えていた。
元三(がんざん)大師これを聞き大蛇に向い 「汝―法力を持っていると聞くが
本当か」とおたずねになった。
大蛇は、威猛々に「本当ダ俺に出来ないことは何もない」 と答えました。
大師は 「ナラバ大きい姿になってみよ」と申されると
お安いご用とばかり数十倍の大きさに変身しました。
大師は再び 「デワ小さくなり私の手の平に乗れるか」とのお言葉に
「承知」とばかり小さくなり手の平の中に入りました。
大師がすぐさま観音様の念力により閉じ込めてしまわれました。
そして弁天様をお迎えし、小さくなった大蛇をお渡しになり、
弁天様のお侍いとしてお側に仕えさせて頂きたいとお願いされました。
大蛇も大師に諭され前非を悔い今度は自分の持っている法力を善業に向け
横川の地を訪れる人の道中の安全と心願の成就の助けをしようと大師に誓いました。
以後訪れる人の幸せを願い助力を盡(つ)くしております。
別名 「雨乞いの弁天様」としても有名であります。』
龍ヶ池八大龍王
池の中央にはその弁財天が祀られ、「龍ヶ池八大龍王」と称されています。
横川中堂-1
池の前から南への石段があり、それを登った所に横川の本堂であり、
「首楞厳院(しゅりょうごんいん)」とも称される横川中堂があります。
横川中堂は、新西国霊場の第18番札所です。
横川中堂は舞台造りで全体的に見て船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴で、
堂内中央部が2mほど下がっています。
横川中堂-2
横川中堂は嘉祥元年(848)に第3代天台座主・慈覚大師円仁により創建され、
自ら刻んだ像高170.6cmの聖観音菩薩立像と毘沙門天像が安置されています。
円仁は最後の遣唐使として承和3年(836)に太宰府から出航しましたが、
嵐に遭遇して九州に漂着しました。
翌年も渡航に失敗して第1船が損傷し、承和5年(838)に第1船と副使の小野篁が
乗る予定の第2船を交換して出航しました。
この渡航でも一隻が遭難し、円仁は観音菩薩に祈ると、船は毘沙門天に導かれて
唐に渡ることが出来たと伝わります。
帰国した円仁がこの二躯の像を安置したのは、その時の加護によるものとされています。

その後、横川中堂は第18代天台座主・慈恵大師良源によって改造されました。
良源は、承平5年(935)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、
荒廃していた延暦寺を再建し、中興の祖とされています。
良源は第62代・村上天皇の皇后の安産祈願を行ったことから
皇后の父・藤原師輔(ふじわら の もろすけ)の援助を得ました。
横川の定心房に住し、天禄3年(972)に横川を東塔、西塔からの独立体制としました。
天延2年(974)に不動明王を開眼し、本尊を聖観音菩薩、右脇侍を毘沙門天、
左脇侍を不動明王とする三尊形式とし、横川中堂を改造しました。

元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ち後、天正12年(1584)に豊臣秀吉により
再建され、慶長9年(1604)には豊臣秀頼を願主として秀吉の側室・淀殿により
改修が加えられました。
昭和17年(1942)に落雷で焼失し、昭和46年(1971)に現在の横川中堂が
再建されました。
護法石
横川中堂の前に護法石が祀られています。
延暦寺の守護神である鹿島明神と赤山明神が影向された石と伝わり、
「影向石」とも呼ばれています。
赤山明神社-1
横川中堂の前方、石段の上に赤山明神を祀る赤山明神社があります。
赤山明神社-2
唐に渡った円仁は山東半島の石島湾に入りました。
近くに赤山が聳え、その山中に新羅僧たちに営まれていた
「赤山法華院」と呼ばれる寺院があり、円仁はここに8ヵ月間逗留しました。
そこで祀られていた道教の神・泰山府君を勧請し、9年6ヵ月に及ぶ入唐求法巡礼で
自らの守護神としました。
帰国後この地に祀り、比叡山東麓の守護神・日吉大社の山王権現に対し、
西麓の守護神としました。
一念寺跡
赤山明神社への石段の奥に「一念寺跡」の碑が建っています。
かって、この地には横川中堂の政所があり、明治40年(1907)に高浜虚子は
政所に籠り、小説『風流懺法(ふうりゅうせんぽう)』を執筆しました。
政所に請われ、小説中の小僧・一念から「一念寺」と名付けましたが、
その後、焼失したとも台風による倒木で壊滅したとも伝わり、廃されました。

高浜虚子の同郷の先輩・正岡子規が明治35年(1902)に亡くなると、
虚子は俳句の創作を辞め、小説の執筆に没頭するようになりました。
正岡子規は虚子の俳句の師であり、俳号の「虚子」も正岡子規から授かりました。
しかし、親友であり、同じく子規から俳句を学んだ河東碧梧桐
(かわひがし へきごとう:1873~1937)が、従来の五七五調の形にとらわれない
新傾向俳句に走り始めると、対抗するために俳壇に復帰しました。
星野立子の句碑
横川中堂の正面からの緩い上り坂の参道を進むと、左側に高浜虚子の次女で俳人の
星野立子(ほしの たつこ:1903~1984)の句碑が建っています。
「御僧に 別れ惜しなや 百千鳥」
虚子の句碑
その横には虚子の句碑も建っています。
「清浄な 月を見にけり 峰の寺」
虚子の塔
奥には虚子の塔(逆修爪髪塔=ぎゃくしゅうそうはつとう)があります。
生前に予め造った墓である寿塔であり、昭和28年(1953)に建立されました。
昭和34年(1959)4月8日に鎌倉の自宅で永眠され、この塔に遺髪と爪が納められました。
周囲には虚子が愛した椿が植えられています。
また、毎年命日には元三大師堂において法要が営まれています。
横川-鐘楼
参道の坂を登り詰めた所に鐘楼があります。
秘宝館
鐘楼から左側(南側)へ進むと昭和42年(1967)に建立された秘宝館があります。
かっては寺宝が収蔵されていましたが、現在は使われていません。
恵心院はこの地で創建されたと伝わります。
恵心院は永観元年(983)に藤原兼家(929~990)が良源のために建立した
念仏三昧道場でした。
因みに、藤原兼家は策略により、第65代・花山天皇を退位させ、
娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となりました。
元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ち後、天正12年(1584)に豊臣秀吉により
再建されましたが、明治元年(1868)、昭和31年(1956)にも焼失しました。
海軍通信学校
向かいには海軍通信学校の慰霊碑が建立されています。
恵心堂
その先に恵心堂があります。
現在の恵心堂は昭和31年(1956)の焼失後に
坂本の別当大師堂が移築されて再建されました。
源信はこの地で『往生要集』を執筆しました。
源信は天慶5年(942)に大和国で生まれ、天暦2年(948)の7歳の時に父と死別しました。
天暦4年(950)、9歳で比叡山に登って良源に師事し、
止観業、遮那業を学び、天暦9年(955)に得度しました。
良源は定心房(現在の元三大師堂)を住房として横川(よかわ)に住したため、
源信も横川に居を移しました。
永観2年(984)11月に良源が病に倒れ、
これを機に『往生要集』の執筆に取り掛かりました。
永観3年(985)1月3日に良源が入滅し、
以後、良源は「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれるようになりました。
源信は横川の恵心院に篭り、寛和元年(985)に『往生要集』を書き上げました。
『往生要集』は、多くの仏教の経典や論書などから、
極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなり、
以後の浄土宗信仰の発展に大きな影響を与えました。
恵心院は、我が国の浄土信仰の発祥の地とされています。
源氏物語の碑
『源氏物語』の横川僧都遺跡の碑が建てられています。
源信は、寛弘元年(1004)に藤原道長の帰依を受け、権少僧都となり、
道長の別荘「宇治殿(後の平等院)」があった宇治へ移り、
龍泉寺を再興して「朝日山恵心院」と改めました。
『源氏物語』では「横川の僧都」のモデルとなり、自殺を図るも一命を取り留めた
浮舟を助け、願いを聞き浮舟を出家させた僧侶として登場しています。
しかし、源信は母の諌言(かんげん)、「まことの求道者となり給へ」を守り、
翌寛弘2年(1005)に権少僧都の位を辞退して横川へと戻り、
寛仁元年6月10日(1017年7月6日)に76歳にて入滅されました。
源信は法然上人や親鸞聖人に大きな影響を与え、「恵心僧都」と尊称されています。
浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、「源信和尚」、
「源信大師」と尊称されています。

この先、徒歩13分の所に恵心僧都の墓所・恵心廟がありますが、
参拝は後日とします。
鐘楼まで戻り、そこから直進すると元三大師堂があり、その前の広場から
南東側に下ると「道元禅師得度の地」があります。
ここも参拝は後日とします。
角大師
元三大師堂の前に「元三大師と角大師(つのだいし)の由来」と「おみくじ発祥之地」
の碑が建っています。
「角大師」と呼ばれる図像には、2本の角を持ち骨ばかりに痩せた夜叉の姿を
表したものと、眉毛が角のように伸びたものの2種類があります。
72歳の元三大師が座禅を組み、その姿を弟子が写し取ったものとされています。
永観2年(984)に疫病が流行した際、疫病の神が徘徊して
人々を冒すと信じられていました。
元三大師は写し取った絵を版木でお札に刷り、これを人々に配布して各家の戸口に
貼り付けるように命じられました。
すると疫病は収まり、以来病気の平癒と厄難除けのお札として全国に広まりました。
また、33体の豆粒のような大師像が描かれた「豆大師」と呼ばれる護符もあります。
正確には「魔滅大師」と称され、元三大師があらゆる衆生を救うために33の姿に
変える観音菩薩の化身とする信仰から生まれました。

「おみくじ」は、古代に神の意向を伺うための籤引き(くじびき)を起源とし、
多くの神社仏閣でみられる現在のおみくじの原型は
元三大師が創始したものとされています。
元三大師堂-門
元三大師堂の門をくぐります。
元三大師堂
元三大師堂は、第18代天台座主・慈恵大師良源の住房であった定心房の跡とされ、
康保4年(967)に第62代・村上天皇の勅命により、春夏秋冬の四季に
法華経が論議されたことから「四季講堂」とも呼ばれています。
現在の建物は、元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ち後、
天正12年(1584)に豊臣秀吉により再建され、慶長9年(1604)には豊臣秀頼を
願主として秀吉の側室・淀殿により改修が加えられました。
当初、本尊は弥勒菩薩でしたが、現在は元三大師の画像です。
鶏足院灌室
右側(北側)に鶏足院灌室があり、「灌室」とは灌頂(かんじょう)を行なう部屋
のことです。
旧恵雲院
左側(南側)に旧恵雲院があります。
箸塚弁財天社-1
元三大師堂の東側に箸塚弁財天社があります。
箸塚弁財天社-2
慈恵大師良源が千僧供養を行った際に、使われた箸をこの地に埋め、
弁財天を祀ったのが始まりとされています。
その後、信長の焼き討ちで焼失し、文禄3年(1594)に修行僧が竹生島に参詣した帰途、
一匹の白蛇が船に乗り込んできたと伝わり、
弁天の分身としてこの地で祀られるようになりました。
比叡山行院
北へ進むと比叡山行院があります。
一般の天台僧侶を養成する所で、2ヶ月間修行します。
瀬戸内寂聴さんもここで修行されたそうです。
甘露山王社
その向かい側には甘露山王社があります。
道標
先へ進むと参道は、直進・定光院、左折・元三大師御廟へと分岐しています。
この御廟への北回りの道を「猿馬場(さるがばんば)」、
南回りの道を「龍馬場(たつがばんば)」と呼ばれています。
地蔵堂
曲がった所には地蔵堂があります。
元三大師御廟-拝殿
元三大師御廟が築かれたこの地は、比叡山の「三大魔所」とされ、
天狗が住み、不浄・不信の輩を懲らしめたと伝わります。
慈恵大師良源は天禄2年(971)に、自身の葬儀についての詳細を遺言し、
永観3年1月3日(985年1月26日)に入寂されました。
命日が正月の3日であることから、「元三大師」と呼ばれるようになりました。
元三大師御廟-2
慈恵大師良源は、承平5年(935)の大規模火災で根本中堂を初めとする
多くの堂塔を失い、荒廃していた延暦寺を再建しました。
天禄元年(970)には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、
山内の規律の維持に努め、広学堅義(こうがくりゆうぎ)を興して
学の論議を盛んにしました。
元三大師御廟-1
天台宗は密教化へと傾いていたため、最澄の原点に戻し「天台本覚思想」という
大乗仏教の究極のとも言うべき哲理を極めました。
本覚思想は、その後さらに深化され、『源氏物語』や『花伝書』など日本文化に
大きな影響を与え、鎌倉仏教の開祖を生む土壌となりました。
閼伽井
御廟から南へ進むと、元三大師堂から下ってきた参道と合流します。
更にそれを下った所に閼伽井があります。
根本如法塔-1
その脇から登って行くと根本如法塔があります。
この塔は、第三代天台座主・慈覚大師円仁が、自ら書写した法華経一部八巻を
納める宝塔を建てたのが起源で、横川発祥の聖跡であることから
「根本如法塔」と称されています。
現在の塔は大正14年(1925)の再建で、釈迦・多宝の二仏を本尊としています。
根本如法塔-2
大正12年(1923年)、如法堂跡に塔を建てるための工事中に経箱が発掘されました。
銅製の箱に金メッキが施され、蓋には「妙法蓮華経」と書かれており、
この箱は後に「金銅経箱」として国宝に指定されました。
三十番神
塔前には、法華経守護の三十番神が祀られています。
定光院-寺号標
駐車場まで戻りドライブウェイを仰木(おおぎ)の方へ下って行くと、
右側に「日蓮上人御霊跡」の碑が建ち、定光院への参道があります。
定光院-権現の滝
それを登って行くと、日蓮上人が滝尾権現を感得されたと伝わる滝があります。
滝尾権現
更に登ると駐車場があり、駐車場と山門の間に滝尾権現を祀る祠があります。
定光院-三門
山門
本来は16:00で閉門されるようですが、少し過ぎていましたが
まだ開いていたので参拝しました。
定光院-庫裡
山門をくぐると手前から庫裡、本堂と続きます。
定光院-本堂
本堂
この地は「華芳谷(かほうだに)」と呼ばれ、華光坊・浄光院がありました。
その後の変遷は不明ですが、再建されて「定光院」に改められました。
寛元元年(1243)から建長6年(1254)まで、日蓮上人はこの地を拠点として
修行を行いました。
妙法蓮華経(法華経)を中心とする文献的な学問と、天台本覚思想を学び、
「阿闍梨」の称号を得ました。

定光院はその後、江戸時代に復興され、日蓮上人700遠忌にあたる昭和56年(1981)に
「定光院奉賛会」が結成され、
天台宗の寺院ですが、日蓮宗が整備するようになります。
平成5年(1993)に日蓮宗と延暦寺との間で定光院護持運営に関する協定が結ばれ、
日蓮宗による組織的な護持管理体制が確立されました。
平成17年(2005)の日蓮宗立教開宗750年慶讃事業で
本堂、庫裡、山門が再建されました。
日蓮-手水鉢
本堂前には日蓮上人が使用したとされる手水鉢があります。
日蓮聖人像
日蓮上人像は大正14年(1925)に造立されました。
右側のコンクリート造りの建物は、研修道場として使用されているようです。
飯室-寺号標
仰木の料金所を出て県道47号線を南に向かって走った所に
「飯室谷不動堂」の碑が建っています。
この地を開いた第三代天台座主・慈覚大師円仁が、不動の秘法を求めて
この地に道場を造り、修行に励まれました。
その時、弁財天十六童子の一人である飯櫃童子(はんきどうじ)が老翁に化身して
慈覚大師に仕えたとされています。
飯櫃童子が飯室谷の名の由来となりました。
安楽律院への道標
脇には「安楽律院」への立札もありますが、参拝は後日とします。
飯室-仁王像
駐車場の先には多数の灯籠が奉納され、仁王像の奥には閼伽井があり、
「明王水」と称されています。
飯室-閼伽井
慈覚大師円仁が、不動明王の霊感により発見したとされ、
諸病平癒、健康増進の功徳があるとされています。
千日回峰行の堂入りでは不動堂から石段を下ってこの水を汲み、
不動堂本尊の不動明王に供えられます。
比叡山千日回峰行は、無動寺の本流、西塔の正教坊流、
そして飯室谷の恵光坊流の三流があります。
西塔の正教坊流は元治元年(1864)以来途絶し、恵光坊流は天正18年(1590)に
松禅院慶俊により創始されました。
その後途絶し、昭和19年(1944)に箱崎文応師が古い手文をもとに、百日回峰行が
満行されました。
昭和62年(1987)には酒井雄哉師(さかい ゆうさいし:1926~2013)が、無動寺での
本流の千日回峰行を満行した後に、飯室谷で60歳という最高齢で
2度目の満行を達成しました。
更に、平成15年(2003)に藤波源信師(1959~)が満行を達成し、
長壽院の住職となりました。
飯室-灑水観音
横の石段上には灑水観音(しゃすいかんのん)の像が祀られています。
飯室-千手堂
石段を登った左側に千手堂があります。
飯室-水掛観音
右側には水掛観音が祀られています。
飯室-御供所
奥には御供所があります。
飯室-一願不動尊
御供所の左端に一願不動尊が祀られています。
飯室-護摩堂
左側に護摩堂があります。
毎月第2日曜日と28日に護摩供が修せられています。
飯室-不動堂
護摩堂の左側の石段を登った所に本堂の不動堂があります。
飯室谷不動堂は、根本中堂、転法輪堂(釈迦堂)、横川中堂、無動寺明王堂と並ぶ
延暦寺五大堂の一つで、この地で修行した慈覚大師円仁が不動明王を感得され、
自ら不動明王を刻んで安置したのが始まりとされています。
第18代天台座主・慈恵大師良源は、弟子・尋禅(じんぜん:943~990)のために
飯室谷に妙香房を建立しました。
尋禅は藤原師輔(ふじわら の もろすけ:909~960)の十男で、天延2年(974)に
天台宗で初めて一身阿闍梨となり、天元4年(981)には権僧正に任じられました。
寛和元年(985)に良源のあとを受けて第19代天台座主となり、「妙香房」を
「妙香院」と改称し整備拡充しました。
永祚元年(989)に天台座主を隠退して飯室谷へ移り、正暦元年(990)には
第66代・一条天皇の御願寺となり、父・師輔から荘園を寄進され、
不動堂を建立しました。
没後の寛弘4年(1007)に「慈忍」の諡号が贈られました。
元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ち後は
江戸時代まで復興がなされませんでした。
飯室-鐘楼
石段を下った所に鐘楼があります。
南へ進むと松禅院とその奥に慈忍和尚廟がありますが、
参拝は後日とします。
飯室-庫裡
北側の石段上に庫裡があります。
飯室-地蔵堂
その脇を北へ進むと地蔵堂がありますが、扉は閉じられていました。
元三大師堂への道標
その先の橋を渡ると元三大師堂への登り口があります。
「中尾坂」と呼ばれるそうで、後日ここから横川まで登り、今回参拝できなかった
所を巡りたいと考えています。

仰木料金所の方まで戻り、仰木の里から坊村の葛川明王院へ向かいます。
続く

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