カテゴリ:滋賀県 > 大津市

楼門
長等神社は京阪電車・大津線の三井寺駅で下車して疎水沿いに徒歩5~6分の距離にあります。
現在の楼門は明治37年(1904)に、鎌倉様式を基本として、平安、室町時代の
和様建築の粋を取り入れて復興されたもので、大津市の文化財に指定されています。
随身-黒
随身-赤
随身像が門番をしています。
拝殿
楼門をくぐった正面に拝殿があります。
天智天皇6年(667)、天智天皇は飛鳥から近江へと都を遷し、大津宮で正式に即位しました。
天皇が都の鎮護として、須佐之男命を志賀の長等山岩座谷の地に
祀られたのが長等神社の始まりとされています。
天智天皇8年(669)5月5日、天皇が宇治の山科から帰途、
長等神社へ弓矢を奉納されました。
天智天皇の孫であり、後に園城寺を開基した大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が
その日を祭日と定め、 今も五月五日に例祭が行われています。
歌碑
拝殿の左側に平清盛の末弟である平忠度(たいら の ただのり)の歌碑が建立されています。
 「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」
平忠度は藤原俊成に師事し、歌人としても優れていたのですが、
寿永2(1183)に木曽義仲に都を攻められ兵庫へと敗走しました。
義仲軍は、平家が援軍を求めるであろう比叡山にも手を伸ばし、
東坂本には五万騎が集結していたと云われています。
 忠度は、都落ちした後に6人の従者と都へ戻り、俊成の屋敷に赴いて
自分の歌が百余首収められた巻物を俊成に託しました。
 『千載和歌集』の撰者となった俊成は、
その中から上記の一首を「詠み人知らず」として掲載しました。
この碑は長等山の山上に建てられているものを、
より多くの人の目に触れるように、山上のものを模して建てられました。
中門と回廊
拝殿を廻りこんで進むと中門があり、回廊が本殿を囲んでいます。
貞観2年(860)、園城寺の開祖・智証大師円珍が日吉大神を勧請合祀され、
園城寺の鎮守社として、新日吉社・新宮社としました。
天喜2年(1054)、庶民参詣のため明尊が山上から現在地に遷座し、
その所は神出と名付けられました。
永保元年(1081)には白河天皇が勅使を遣わし、国家安寧の祈願を行い、
官符を下して「日吉祭り」が勤行されました。
以来、日吉大社と対比して「湖南の大社」として崇敬されましたが、
山門・寺門の衆徒の闘争により、度々の兵火で被災しました。
鎌倉幕府は、宇津宮頼綱(うつのみやよりつな)に命じて社殿を造営しましたが、
延元元年/建武3年(1336)には南北朝の戦乱による兵火で焼失しました。
興国元年(1340)、足利尊氏により再建され、社殿は壮麗にして十二の廻廊や
楼門その他多くの建造物があり、皇室を始め武将や
多くの民衆から深く崇敬され隆盛を極めました。
その後、寛文11年(1671)に大修理が施されて以降、天明年間(1781~1789)、
寛政年間(1789~1801)にも修理が行われています。
明治16年(1883)に長等神社に改称され、明治43年(1910)には縣社に列せられました。
右回廊
回廊の右側
左回廊
回廊の左側
回廊の太鼓
回廊の太鼓
本殿
現在の本殿には建速須佐之男大神(たてはやすさのをのおおかみ)と
大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)が祀られています。
1月14日~16日には、建速須佐之男大神が退治した八岐大蛇(やまたのおろち)に
災厄を託す「綱打祭(つなうちさい)」が行われます。
大山咋大神は、神代の昔より比叡山に鎮座する地主神で、日吉大社・東本宮の祭神です。
配祀神に市杵島姫大神(いちきしまひめのおおかみ)、宇佐若宮下照姫大神
(うさわかみやしもてるひめのおおかみ)、八幡大神(やはたのおおかみ)が祀られています。

市杵島姫大神は、天照大神と建速須佐之男大神が誓約(占い)を行った際に、
建速須佐之男大神の十握劒(とつかのつるぎ)から生まれた
宗像三女神の一柱で、海運の守り神とされています。
稲荷神社
本殿の左側には栄稲荷神社、末春稲荷神社・権平稲荷神社、駒竹稲荷神社がありますが、
台風の影響か栄稲荷神社の社殿が破壊され立入禁止になっていました。
馬神神社-鳥居
本殿の右側には両御前神社と馬神神社があります。
馬神神社
馬神神社はかって、大津東町に鎮座され、馬の守護神として、徃古から道中の馬の無事、
安全が祈願されてきましたが、明治34年(1901)に長等神社境内地に遷座されました。
最近では競馬や乗馬関係者、馬の愛好者、馬年生まれの方の参詣者が増えています。
笠森神社
楼門を入った南側には笠森神社があります。

長等神社の横にある三井寺の入口から三井寺を巡ります。
 続く

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地蔵堂
長等神社横の三井寺の入口から石段を上った途中に地蔵堂があります。
「中坂世継地蔵」が祀られ、現在の建物は文久2年(1819)に建立されたもので、
大津市の文化財に指定されています。
江戸時代、なかなか子供が授からない女性が、小さな地蔵菩薩を彫って祈願し
奉納したところ、たちまち身ごもったとの伝承が残されています。
観音堂
石段を上った正面に観音堂があります。
本尊は平安時代作の如意輪観音坐像で、
西国三十三所観音霊場の第14番札所本尊でもあります。
かって、観音堂は聖願寺とも正法寺とも呼ばれ、現在地から険しい道を登った山上で、
女人結界となっていた「華の谷」にありました。
室町時代の文明9年(1477)のある夜、寺中の僧たちの夢の中に老僧が現れ、
「自分は華の谷に住まう者だが、いまの場所では大悲無辺の誓願を達成できないので、
これからは山を下り人々の参詣しやすい地に移り、衆生を利益したい」と告げられました。
僧たちが夢告に従い、文明13年(1481)に現在の地に遷されたと伝えられています。
観音堂-2
現在の観音堂は、江戸時代の貞享3年(1686)に焼失後、元禄2年(1689)に
再建されたもので、滋賀県の文化財に指定されています。
礼堂・合の間・正堂からなり、内部には多くの絵馬が奉納されています。
その中には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されています。
観音堂-本尊
本尊は如意輪観音で、脇侍として愛染明王と毘沙門天が祀られています。
如意輪観音坐像は、平安時代作で一面六臂、像高91.6cmの木造・漆箔像ですが
秘仏とされています。
令和2年3月17日~6月30日まで特別開帳されます。

愛染明王坐像は、平安時代作で像高92.1cmの木造・彩色像で、
如意輪観音坐像とともに、国の重要文化財に指定されています。
水子地蔵
観音堂の前には水子地蔵尊が祀られています。
手水舎-1
手水舎-2
手水舎は大津市の文化財に指定されています。
華の谷への道
境内の南側に展望台への石段があります。
展望台の先には、更に山の上の方へと続く石段があり、
「華の谷」へと続いているように思われます。
そろばん記念碑
展望台には「大津そろばん記念碑」が建立されています。
大津そろばんが日本のそろばんの発祥とされています。
慶長17年(1612)、長崎奉行・長谷川藤広に随行して長崎に赴いた片岡庄兵衛は、
明(みん)人からそろばんの見本と使用方法を授かって帰郷しました。
庄兵衛は研究を重ね、日本人に適した形に改良し、大津そろばんを完成させました。
その後江戸幕府から「御本丸勘定方御用調達」に任命され算盤の家元となり、
制作方法の伝授・価格の決定等を一任されるようになりました。

旧東海道、逢坂の関付近が起源で、盛んに製作されていたそうですが、
明治になって鉄道開通に伴う立ち退き等の影響を受け完全に消滅しました。
現代、生産高8割を占める播州そろばんは、 天正年間(1573~1593)の三木城落城に
際して大津に避難していた人々が、技術を習得し持ち帰ったという逸話が残されています。
展望台からの境内
展望台からの境内
左側の観音堂と手水舎をはさんで、右側に絵馬堂の屋根が見えます。
奥の右側に観月舞台、その左側に百体堂があり、毘沙門堂へと下る石段をはさんで、
観音堂の陰になって見えない所に鐘楼があります。
琵琶湖
浜大津の風景
正面に競艇場が見えます。
観音堂の屋根と比叡山
観音堂の屋根越しに見える比叡山。
比叡山の山門派と園城寺の寺門派は、最澄の没後間もなく
後継をめぐって対立が起きました。
その後、120年余りくすぶり続けた対立は、永祚(えいそ)元年(969)に
寺門派の余慶が第20代・天台座主に任じられたのをきっかけに激化しました。
「山門寺門の確執」と呼ばれ、しばしば武力闘争にも発展しました。
更に約190年後には平家は山門派、源頼政は寺門派と連帯しました。
寺門派は東大寺と興福寺にも働きかけ、山門派に対抗しましたが、
頼政軍は敗退しました。
その3年後の寿永2年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曽義仲は、
都への最後の関門である延暦寺との交渉を始めました。
「もし平氏に助力すれば合戦する事になり、延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」との
恫喝に山門派は屈し、義仲の申し入れを受諾すると、東塔には砦が築かれました。
東坂本には五万騎が集結していたと云われ、平家は都落ちすることになり、
滅亡へと追い込まれました。
源平の争乱が終結すると、山門寺門の確執も沈静化しました。
絵馬堂
絵馬堂まで下りました。
観月舞台
観月舞台は江戸時代の嘉永3年(1849)に建立されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
眼下に琵琶湖の景観を望む、「観月の名所」と呼ばれるに相応しい場所にあります。
観月舞台-仰ぎ見る
毘沙門堂への石段を下った途中で観月舞台を仰ぎ見ました。
百体堂
百体堂は江戸時代の宝暦3年(1753)に建立されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
堂内中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像、その左右に西国三十三所観音霊場
本尊像、堂内の左右には坂東三十三箇所秩父三十四箇所の本尊が安置されています。
合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれています。
百体堂-大津絵
百体堂の前には大津絵「鬼の寒念仏」の絵馬が掲げられています。
赤鬼が僧衣をまとっている典型的な図柄で、
本性を隠した偽善者を風刺しているとされています。
大津絵は逢坂関の西側に位置する近江国追分を発祥の地とし、
東海道を旅する旅人たちの間の土産物や護符として重宝されていました。
寛永年間(1624~1644)のころに、当初は信仰の一環として仏画が描かれていましたが、
世俗画へと転じ、18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになりました。
「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど、
護符としての効能も唱えられるようになり、江戸時代を通じて東海道大津宿の名物となりました。
観音堂-鐘楼
鐘楼は江戸時代の文化11年(1814)に上棟されたことが棟札に残され、
滋賀県の文化財に指定されています。
十八明神社
観音堂-鐘楼-梵鐘
鐘楼にはかって、「童子因縁之鐘」と呼ばれた梵鐘が吊るされていました。
この鐘を鋳造するに際し、当時の僧たちは大津の町々を托鉢行脚しました。
とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。
 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」との返事で、そのまま帰ってきました。
 日が改まり、梵鐘が出来上がると不思議にもその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が
浮かび上がっており、 その日にかの富豪の子供三人が
行方不明になったという伝説が伝わっています。
残念ながら、「童子因縁之鐘」は戦時供出され、現在は重要文化財の
朝鮮鐘」を模鋳したものが吊られています。
朝鮮鐘とは朝鮮半島で主に統一新羅時代から高麗時代に鋳造された銅製の鐘の総称です。
十八明神社
鐘楼の横から下ってきた左側に十八明神社があります。
十八明神社は延暦寺に向かって建てられ、「ねずみの宮」とも呼ばれています。
『太平記』によると、園城寺の僧・頼豪(らいごう)は白河天皇から
園城寺の戒壇道場建立の勅許を得たのですが、対立していた延暦寺の強訴により
勅許が取り消されてしまいました。
これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩を炊き壇上で果ててしまいました。
その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、
堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと伝わります。
毘沙門堂
十八明神社の向かいにある毘沙門堂は、江戸時代の元和2年(1616)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
宝形造、唐様式の小建築物で、極彩色が施されています。
元和2年(1616)、園城寺五別所の一つ尾蔵寺の南勝坊境内に建立されたのですが、
明治42年(1909)に三尾社の下に移築、昭和31年(1956)の解体修理に
際して現在地に遷されました。
紅葉の参道
毘沙門堂から微妙寺へと緩やかに下る参道です。
散り始めた葉が参道にうっすらと積もり、木に残る葉は、
冬の訪れが近いことを示すように深い紅色に染まっています。
衆宝観音
参道脇には衆宝観音が祀られています。
衆宝とは衆生が求めて止まない財宝のことで、観音像は右手を岩に置き、
左手を建て膝の上に置く特異な姿をしています。
三個の蓮華のうち、未開の蓮華は、未だこの世に姿を現さない我々の状態を、
半開の蓮華は現世に生きる私達を、全開の蓮華は完成された人格を現しています。
財宝とは私達の心の宝、つまり仏性を意味しています。
童観音
童地蔵-1
童地蔵-2
参道には童観音と童地蔵が祀られています。
天台智者大師像
参道を下った左側に天台智者大師像が祀られています。
智顗(ちぎ:538年 ~ 597年)は、中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶で、
天台教学の大成者であり、天台宗の開祖とも慧文(えもん)、慧思(えし)に次いで
第三祖ともされています。
智顗は天台大師とも智者大師とも尊称されています。
微妙寺
微妙寺は、圓城寺五別所(別院)の一つで、平安時代の正暦5年(994)に
明尊大僧正によって創建されました。
長等神社から南へ進んだ、現在の長等公園付近に微妙寺、尾蔵寺、
近松寺(ごんしょうじ)があり、三井寺三別所と呼ばれていました。
近松寺は、平安時代に安然和尚によって創建され、今も創建地に残されています。
江戸時代の寛文11年(1672)には20歳になった近松門左衛門
(杉森信盛、通称平馬)が近松寺を訪れ、3年間過ごしました。
その後、武士の身分を捨てて京へ上り、一流の戯曲作家となりました。
尾蔵寺は廃寺となり、昭和63年(1988)に現在地に移された微妙寺には
尾蔵寺の旧本尊であった十一面観音立像が安置されています。
この十一面観音立像は像高81.8cm、平安時代の作で
天智天皇の念持仏であったと伝わります。
古くから、厄除開運、健康長寿、財福授与などを願う参詣客で賑わい、
被っていた笠も脱げてしまったことから「笠脱げの観音」と呼ばれました。
微妙寺の現在の本堂は明暦元年(1655)に再建されたもので、本尊は薬師如来です。

画像はありませんが、微妙寺から参道を挟んだ向かい側に文化財収蔵庫があります。
平成26年(2014)10月に、宗祖・智証大師生誕1200年慶讃記念事業として開館されました。
微妙寺本尊の十一面観音立像や梵鐘の朝鮮鐘などが収蔵されていますが、
館内の撮影は禁止されています。
勧学院
微妙寺からの参道は南北の通りとなり、参道を北へと進んだ左側に
勧学院がありますが、立入は禁止されています。
勧学院客殿は、学問所として鎌倉時代の正和元年(1312)に建立されました。
その後、火災や豊臣秀吉によって破却され、安土・桃山時代の慶長5年(1600)に
豊臣秀頼により再建され、国宝に指定されています。
狩野光信による襖絵「花鳥図」は、国の重要文化財に指定され、
文化財収蔵庫で展示されています。
三尾影向石
勧学院の北側を山へと登って行くと、井桁に組んだ切石によって囲まれた
「三尾影向石」があります。
かって、この地に上三尾社があり、三井寺が創建される以前から
長等山の地主神として、三尾明神が祀られていました。
影向石(ようごうせき)は三尾明神が降臨された際の磐座であり、神聖な場所です。
古来よりこの辺りを「琴尾谷」と呼び、この谷を流れる清流に天人が舞い降り、
琴や笛を奏で舞戯、歌詠し神を慰めたと伝わります。

園城寺(三井寺)-その2(唐院~霊鐘堂)に続く

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村雲橋
南北の参道まで戻り、北へ進むと村雲橋があります。
仁寿3年(853)に唐に渡り長安の青竜寺で学ばれた智証大師・円珍が、
この橋を渡ろうとした際に、青竜寺が焼けているのを感知されされました。
智証大師・円珍は真言を唱えながら橋上から閼伽井水を撒くと、
橋の下から一条の雲が湧き起って西に飛び去り、青竜寺の火災が
鎮火したとの伝承が残されています。
以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになりました。
唐院への参道
村雲橋を渡った左側に灌頂堂への参道があり、参道の両側には、
歴代の探題から奉納された石灯籠が建ち並んでいます。
四脚門
参道を上って行くと、唐院の表門である四脚門があり、
国の重要文化財に指定されています。
門の説明板には「昭和48年(1973)の修理で寛永元年(1624)の
建立であることが判明した。」と記されています。
元は棟門形式だったものが、建立間もなく四脚門に変更されたそうです。
門からは灌頂堂、大師堂と一直線で結ばれ、この区域は「唐院」と呼ばれています。
「唐院」は入唐した智証大師・円珍が天安2年(858)に帰国し、請来した経典や
法具類を貞観10年(868)に納め、伝法道場としたことに始まり、
園城寺で最も神聖な一画とされています。
灌頂堂
門をくぐった正面に灌頂堂があり、国の重要文化財に指定されています。
仁寿殿(じじゅうでん)が下賜されたもので、大師堂の前に建ち、
大師堂の拝殿としての役割を備えています。
仁寿殿は、かって紫宸殿の後方にあり天皇の居所とされていましたが、
平安時代中期の第59代・宇多天皇が清涼殿を居所に変えてからは内宴や
元服等の儀式を行ったり、庭で行われた相撲、蹴鞠等の
各種行事を観覧する場所となりました。
現在の京都御所に仁寿殿はありません。

灌頂堂には日本三不動に数えられている国宝の黄不動尊
秘仏として伝えられています。
承和5年(838)の冬、比叡山で修行中の円珍の目の前に忽然と金色に輝く
不動明王が現れ、「汝を守護するゆえに速く仏の教えを究め、
衆生を導け」と告げました。
円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに
常にその身を守っている答えました。
その姿は「魁偉奇妙(かいいきみょう)、威光熾盛(いこうしじょう)」で手に刀剣をとり、
足は虚空を踏み直立していました。
円珍はこの体験が印象に残り、その姿を画工に命じて写させた、
不動尊を単独で描いた最古の仏画とされています。
平成30年(2018)10月5日~14日までの結縁灌頂会で結縁灌頂を受けると、
黄不動尊を拝することができるようです。
大師堂
灌頂堂の背後に唐門があり、その内部にある大師堂は、
唐門と共に国の重要文化財に指定されています。
唐門及び大師堂は桃山時代の慶長3年(1598)に建立され、大師堂の堂内には
いずれも平安時代作の智証大師像二躯が安置されています。
御骨大師像は像高86.3cmで胎内に大師の舎利(遺骨)が納められています。
智証大師の臨終に際しての命により、 門人達が大師入滅後、
その姿を模刻したもので、秘仏とされています。
中尊大師像は像高84.3cmで、仏壇中央の厨子内に安置されることから
中尊大師と呼ばれ、御骨大師像と共に国宝に指定されています。
毎年、大師の忌日に当たる10月29日に行われる「智証大師御祥忌法要」に開扉されます。
また、堂内に安置されている不動明王立像(黄不動)は、鎌倉時代作で像高159cm、
国の重要文化財に指定されています。
国宝に指定されている秘仏画像「黄不動尊」を彫刻として忠実に模刻した立像です。
長日護摩堂
灌頂堂の左側に長日護摩堂があり、滋賀県の文化財に指定されています。
江戸時代に後水尾天皇の勅願により建立されたと伝わりますが、
建立年代を示す明確な資料は残されていません。
灌頂堂とは渡り廊下でつながっています。
三重塔
三重塔は鎌倉時代末期~室町時代初期に建築されたと見られ、元は大和・比蘇寺
(ひそでら=現在の世尊寺)にあったものを、豊臣秀吉が伏見城に移築しました。
比蘇寺には東西二塔あったとされ、慶長2年(1597)に秀吉はその内、
東塔を伏見城に移築し、秀吉没後の慶長6年(1601)に
その塔は徳川家康によって三井寺に寄進されました。
現在は国の重要文化財に指定され、一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が
安置されていますが、内部は非公開です。
橋と三重塔
三重塔の北側に架かる橋を渡り、一切経蔵へ向かいます。
一切経蔵
一切経蔵は室町時代の建立と見られ、元は山口県の毛利氏との
縁が深かった禅宗寺院・国清寺にありました。
慶長7年(1602)、毛利輝元の寄進より現在地に移築されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
八角輪蔵
堂内には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられています。
上部の四方には「明層(あかりそう)」と呼ばれる採光窓があります。
輪蔵には、高麗版一切経が納められており、また天井から
円空仏七体が発見されています。
一切経蔵-天井
天井は鏡天井で極彩色の絵が描かれていましたが、剥落が著しく、
現在では何が描かれていたのか?判別が不可能な状態です。
一切経蔵前の石段
一切経蔵の前には石段があり、金堂への参道へと下れますが、
下らずに北側へ向かいます。
霊鐘堂
一切経蔵の北側に霊鐘堂があります。
霊鐘堂の堂内には「弁慶の引き摺り鐘」と「弁慶の汁鍋」が置かれています。
弁慶鐘
三井寺の初代梵鐘は奈良時代の作で、総高199cm、口径123.2cm、重量2250kgあり、
東大寺鐘に次ぐ規模を誇り、国の重要文化財に指定されています。
承平年間(931年~938年)に田原藤太(藤原秀郷)が、三上山のムカデ退治のお礼に
琵琶湖の龍神より頂いた鐘を、三井寺に寄進したとの伝承が残されています。
しかし、文永元年(1264)、延暦寺との対立により、弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げた
との伝承から「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれています。
弁慶が奪った鐘を撞いてみると 「イノー・イノー(関西弁で帰りたい)」と響いたので、
弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨てたと伝わります。
鐘に残された傷は、これらの時に付けられたとされています。
文永4年(1267)、鐘は比叡山より戻されましたが、寺に変事があるときには、
その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。
良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、
また良いことがあるときには自然に鳴ると伝わります。
弁慶の汁鍋
「弁慶の汁鍋」は寺伝では弁慶が所持していた大鍋で、梵鐘を奪った時に
残していったものとされていますが、実際は鎌倉時代のものとされています。
弁慶は文治5年(1189)の衣川の戦いで、「弁慶の立往生」と後世に語り継がれるように、
雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命しました。
この大鍋は鋳鉄製で、重さは450kg、外口径166.5cm、深さ93cm、口厚1.5cmの大きさがあり、
僧兵が用いたことから「千僧の鍋」とも呼ばれています。
孔雀
霊鐘堂から西方へ登った所に孔雀が飼育されています。
密教特有の尊格である孔雀明王は、「偉大な孔雀」の意味を持つインドの女神
マハーマーユーリーが尊格化されました。
孔雀は害虫や毒蛇を食べることから、孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」が
あるとされ、信仰の対象となりました。
後に、人間の煩悩の象徴である三毒・貪(とん=むさぼり)、嗔(しん=いかり)、
痴(ち=おろか)を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏と解釈されるようになりました。
孔雀明王を本尊とした密教呪法は孔雀経法とよばれ、真言密教において孔雀経法による
祈願は鎮護国家の大法とされ、最も重要視されています。
修験道の開祖・役行者は17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ後、
葛城山から熊野、大峯の山々で孔雀明王の呪文を唱えて修行を積み重ね、
修験道の基礎を築きました。
熊野権現社
霊鐘堂から下ってきた北側の山手に熊野権現社があります。
智証大師・円珍は天長10年(833)、延暦寺戒壇院で菩薩戒を受け、
12年間の籠山行に入りましたが、その間に黄不動尊の示現に遭いました。
承和12年(845)、籠山行を終えた円珍は、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、
三井修験道の起源となりました。
寛治4年(1090)の正月には、当時の三井寺長吏であった増誉が、白河上皇の熊野御幸の
先達を勤めた功により、熊野三山検校職に補せられました。
以来、この職は三井寺長吏の永代職となり、熊野修験を統轄するようになりました。
鎌倉時代末期に増誉ゆかりの聖護院の門跡であった覚助法親王は、園城寺長吏と
熊野三山検校を兼任すると、熊野三山・大峯山への天台宗系の
修験者を統制するようになりました。
三井寺は本山派修験道の根本道場として勢力を拡大し、
大きな影響力を持つようになりました。
熊野権現社は平治元年(1159)、三井修験の鎮守神として熊野権現が勧請されました。
現在の建物は、江戸時代の天保8年(1837)に再建されました。

園城寺(三井寺)-その3(金堂~仁王門)に続く

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金堂
金堂
かって、この地には天智天皇の長子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)の邸宅がありました。
天智天皇10年12月3日(672年1月7日)、天智天皇が崩御され、
大友皇子が後継者となりましたが、天智天皇の実弟である大海人皇子(後の天武天皇)が
地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、壬申の乱が勃発しました。
干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることが名称の由来となっています。
壬申の乱で大友皇子は敗北し、長等山で自害しました。
大友皇子の皇子・大友与多王(よたのおおきみ)は、父の菩提を弔うため自らの
「田園城邑(じょうゆう=田畑屋敷)」を投げ打って寺の建立を発願し、
天武天皇から「園城寺(おんじょうじ)」の勅額を賜ったのが園城寺の始まりとされています。

貞観年間(859~877)になって智証大師円珍は、 園城寺を天台別院として中興し、
東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられるようになりました。
円珍の没後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦4年(993)、
円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。
この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど
幾多の法難に遭遇しました。

文禄4年(1595)、原因は定かではありませんが、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、
闕所(けっしょ=寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられました。
堂塔は破壊され、当時の金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存し、
延暦寺に残る最古の建物となっています。
本尊や宝物は他所へ移され、寺領も没収されました。
慶長3年(1598)、死期が迫った秀吉は三井寺の再興を許し、
境内に残る多くの建物はその後再建されたものです。
現在の金堂は慶長4年(1599)に豊臣秀吉の正室・北政所によって再建されたもので、
国宝に指定されています。

本尊は弥勒菩薩で、寺伝では中国天台宗の高祖・慧思(えし)禅師が修行されている時に
降臨された弥勒仏が、自らの分身として残された三寸二分(9.7cm)の御像であるといい、
この御像はつねに光を放ち全身が温かく「生けるがごとし」霊仏であったと伝えられてます。
この霊仏が百済に伝わり、用明天皇の時に日本に渡来して、
天武天皇から三井寺創建の際に賜ったと伝えられています。
幾多の法難から守りぬかれた本尊は絶対秘仏として公開されることはありません。
金堂前の石灯籠
金堂前の石灯籠は「園城寺金堂無名指燈籠」と称され、大化の改新で
蘇我氏を滅ぼした天智天皇が、その罪障消滅のため、
自らの左薬指をこの燈籠の台座下に納めたと伝わります。
閼伽井屋
金堂の左奥には慶長5年(1600)に建立された閼伽井屋があり、
国の重要文化財に指定されています。
画像はありませんが、金堂側の正面に江戸時代の名手・左甚五郎作の
龍の彫り物が施されています。
閼伽井
閼伽井は三井寺と呼ばれる由縁にもなっています。
この井戸の水は、天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられたことから
「御井の寺」と称されました。
貞観元年(859)、円珍が園城寺長史に就任した後、井水を厳義・三部灌頂の法義に
用いたことから「三井寺」と改めた伝えられています。
また、この泉に九頭一身の龍神が住んでおり、年に十日、夜丑の刻に姿を現わし、
金の御器によって水花を金堂弥勒に供えるので、その日は泉のそばに参ると
「罰あり、とがあり」といわれ、何人も近づくことが禁じられていたという伝承が残されています。
閼伽井石庭
閼伽井屋の背後には、日本最古とされる石庭があり、「閼伽井石庭」と称されています。
東海中にあって仙人が住み、不老不死の霊山と考えられている蓬莱山が形取られています。
中央より人、神仏、鶴、亀と配されているそうですが、正直にはその判別がつきません。
教待堂
金堂の右後方に教待堂があります。
教待和尚は智証大師入山まで当寺を護持していた不思議な老僧で、
大師を迎えるとともに、石窟に入り姿を隠したといいます。
 後に大師はこの石窟上に一宇を建て廟としました。
この石窟は今も和尚像を安置する須弥壇の真下にあり、
昔から三井寺で僧が出家の際、その落髪を窟内に納める伝統が残っています。
智証大師像
教待堂の付近には、前方右に金剛界、左に胎蔵界の大日如来像、
その奥に智証大師・円珍の石像が祀られています。
鐘楼
教待堂の前方には慶長7年(1602)に建立された鐘楼があり、
国の重要文化財に指定されています。
屋根は近年まで瓦葺でしたが、修理の際、建立当初は檜皮葺であったことが判明し、
現在は檜皮葺に改められています。
三井の晩鐘-説明文
現在の梵鐘は「弁慶の引き摺り鐘」に次ぐ二代目で、鐘楼と同じ慶長7年(1602)に
鋳造されたもので、滋賀県の文化財に指定されています。
鐘の高さは205cm、直径は123.6cm、重さは2,250kgあり、「近江八景」の一つ
「三井の晩鐘」として知られています。
また、日本三名鐘の一つで「音の三井寺」と呼ばれ、
日本の音風景100選」にも選定されています。
晩鐘の絵
三井の鐘には龍にまつわる以下のような伝承が残されています。
『琵琶湖で漁をしている若者が、ある日、子供たちがいじめていた蛇を助けました。
その夜、一人の娘が訪れ、やがて二人は夫婦となり、子供を身ごもりました。
出産が近付くと妻は「けっして見ないでください」と言い残し、産小屋に入りました。
しかし、心配になった若者が中を覗くと、大蛇がとぐろ巻いて赤子を取り巻いていました。
正体を知られてしまった妻は「玉」をしっかりと握りしめた赤子を残して琵琶湖へと姿を隠しました。
赤子は「玉」をなめてすくすくと育ちましたが、
噂を聞きつけた領主に「玉」を取り上げられてしまいました。
若者が困り果てていると、琵琶湖から龍が現れ、「私はあの日助けていただいた蛇です。
あの玉は子供が無事に育つようにと私の眼玉を与えたものです。
もう片方の眼玉を差し上げますが、盲目となってしまいますので、
三井寺の鐘を毎日撞いて子供の無事を知らせてください。
年の暮れには一年が過ぎたことがわかるように、できるだけ多く鐘を撞いてください。
お返しに人々に幸運を授けましょう」と言い残し、若者に「玉」を渡して琵琶湖に消えました。』
以来、三井寺では龍神に聞こえるように毎夕、入相の鐘(晩鐘)を撞き、
除夜の鐘では龍神に灯明を献じ、龍の目玉に因んだ「目玉餅」を供え、
百八に限らずできるだけ多くの人に鐘を撞いてもらうようになりました。

この絵は三橋節子画伯によるもので、滋賀県に伝わる民話を
題材として作品を残されています。
昭和48年(1973)に利き手の右手を鎖骨の癌により手術で切断されましたが、
その後は左手で創作を続け、癌の転移により35歳で亡くなりました。
近松寺(ごんしょうじ)の近くに三橋節子美術館があり、絵葉書を購入して撮影したものです。
天狗杉
金堂の前に聳える天狗杉は、大津市の天然記念物に指定されています。
地上間もない所で二股に分かれ、主幹の先に近い所では数度の落雷により
枯れた状態となっていますが、他は健全で全体的には端正な樹勢が保たれています。
寺伝では樹齢千年とされ、残された伝説から「天狗杉」と呼ばれています。
室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行を行っていました。
ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、
やがて朝になると東の空に向かって飛び去りました。
道了ははるか小田原(神奈川県)まで飛び、降りたところが
大雄山最乗寺であったとされています。
金堂への石段
金堂の東側にある石段を下ります。
弁財天社
参道を仁王門の方へ下ると、小さな池の中に弁財天社があります。
社殿は天和3年(1683)に建立され、『金光明最勝王経』に説かれる
八臂弁財天が祀られています。
8本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持ち、
鎮護国家の戦神として姿をしています。
また、巧みに話す能力や知恵の神としての性格も有すると説かれています。
釈迦堂
仁王門の手前の北側に、釈迦堂があり、国の重要文化財に指定されています。
この地にはかって、食堂がありましたが、文禄4年(1595)に豊臣秀吉により破却され、
室町時代に建立された建物が移築されました。
一説では元和9年(1623)に宮中から清涼殿が下賜され、移築されたとも伝わります。
江戸時代の文政年間(1818~1829)に唐波風の向拝が増築され、
現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂となっています。
清涼寺式釈迦如来像とは、京都の清凉寺(通称=嵯峨釈迦堂)に安置されている
国宝の釈迦如来像を摸刻したものです。
東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、中国・宋に渡り古代インド・コーシャンビーの
国王・優填王(うでんおう)が、存世していた時の釈迦の姿を彫らせたとされる釈迦像
「優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)」に出会いました。
釈迦37歳の姿とされ、インドから中国に渡っていました。
奝然はそれを精密に摸刻させたものを永延元年(987)に日本に持ち帰り、
長和5年(1016)に奝然の弟子・盛算(せいさん)によって清凉寺が創建され、
本尊として安置されました。
この清涼寺式釈迦如来像は全国で100躯近く摸刻されたそうです。
仁王門
仁王門は室町時代の宝徳4年(1452)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
元は湖南市石部町にある常楽寺の門でしたが、豊臣秀吉により伏見へ移され、
慶長6年(1601)に徳川家康により現在地に移築されました。
仁王門は三井寺中院の表門となります。
かって、三井寺は南院・中院・北院と分かれていましたが、
明治9年(1876)に合併され一院制となっています。
因みに南院は観音堂周辺、中院は金堂周辺、
北院は現在の大津市役所や大津市消防局の裏あたりになります。

画像はありませんが仁王像は仏師・運慶の作です。
行者堂
仁王門の先を南へ進んだ所に行者堂があり、神変大菩薩(役行者)や
不動明王像が安置されています。
園城寺(三井寺)-その4(水観寺)に続く

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水観寺-本堂
三井寺の仁王門前を南へ進んだ所に三井寺五別所の一つ、水観寺があり、
西国薬師四十九霊場の第48番札所となっています。
平安時代の長久元年(1040)に小野道風の孫に当たる
明尊大僧正によって創建されました。
現在の本堂は江戸時代の明暦元年(1655)に建立されたものを、
滋賀県の文化財に指定されるにあたり、解体修理を行って、
昭和63年(1988)に現在地に移築されました。
水観寺-堂内
堂内には薬師如来とその左右には十二神将像が安置されています。
浄妙坊跡
水観寺から南へ進んだ所に浄妙坊跡があり、かって筒井浄妙が住していました。
 後白河天皇の第三皇子で高倉天皇の兄宮である以仁王(もちひとおう)は、
治承4年(1180年)、源氏に平氏打倒の令旨を発しました。
以仁王と源頼政は打倒平氏のための挙兵を計画したのですが、準備不足の上、
平家に露見し、逆に追討を受けることになりました。
以仁王を興福寺へ逃すために、三井寺は僧兵千余騎を出して、
当時三井寺の末寺であった宇治の平等院へと向かいました。
平家軍は平知盛を大将に、二万八千余騎を従え大挙して宇治橋まで攻め寄せ、
両軍は宇治川を挟んでの戦闘となりました。
その時、活躍したのが筒井浄妙でしたが、多勢に無勢で、浄妙は命を落とし、
源頼政は平等院で自害しました。
以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出したのですが、藤原景高の軍勢に
追いつかれ、山城国相楽郡光明山鳥居の前で、敵の矢に当たって
落馬したところを討ち取られたと『吾妻鏡』は伝えています。
治承4年(1180)、清盛の五男、重衡(しげひら)は一万余騎を
引き連れて三井寺に火を放ちました。
本堂、大講堂をはじめ、焼け落ちた堂塔伽藍は、総じて637棟に及んだと
『平家物語』巻第四「三井寺炎上」に記されています。

浄妙坊跡の先にある石段を上ると観音堂へと続き、
観音堂から長等神社横へと下り、近松寺へ向かいます。
園城寺(三井寺)-その5(三井寺の周辺)に続く。

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