カテゴリ:滋賀県 > 湖北地方(高島市・長浜市・米原市・彦根市周辺)

鳥居
自宅から近江今津港までスマホのナビで検索すると、約2時間と表示されたので、
出航時間9:30に余裕を持たせて7時に自宅を出発しました。
しかし、坂本から先の湖西道路は125cc以下は通行が禁止されていたため、
国道161号線への迂回を余儀なくされ、予定時間に遅れが生じました。
白鬚神社に到着した時、出航時間に間に合わないと判断して参拝することにしました。
白鬚神社で有名なのが湖中大鳥居ですが、その由来は諸説あるようです。
古来波打ち際に鳥居が湖水の増減で見え隠れしていたとも、室町時代後期に天下変災の
前兆として社前の湖中に石橋や鳥居が突然姿を現したとも伝わります。
或いは琵琶湖で100以上確認されている湖底遺跡のように、以前は鳥居が建っていた所も
陸地だったのでは...と想像もされます。
弘安3年(1280)の絵図では陸上に鳥居が描かれていますが、
現在のように離れているのかは不明です。
江戸時代中期には既に湖中に鳥居が建っていることが確認でき、
舟での参拝の目印となっていたのかもしれません。
昭和12年(1937)に大阪で薬問屋を商う小西久兵衛氏の寄進によって再建された後、
現在の鳥居は昭和56年(1981)に、琵琶湖総合開発の補償事業で建立されました。
国道端から58.2m沖に建てられ、高さが湖面から12m、柱幅は7.8mの大きさを誇り、
「近江の厳島」とも称されています。
鳥居復興の碑
境内に入った左側には昭和12年(1937)に建てられた鳥居復興の碑があります。
拝殿
白鬚神社の所在地は滋賀県高島市鵜川215で、国道161号線に面しています。
全国に約300社に及ぶ白鬚神社の総本社です。
第11代・垂仁天皇25年(BC5年)に倭姫命(やまとひめのみこと)によって社殿が造営、
または再建されたのが始まりと伝わる近江最古の大社とされています。
倭姫命は垂仁天皇の第4皇女で、第10代・崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命
(とよすきいりひめのみこと)の跡を継いで諸国を巡り、伊勢の国に入って神託により
皇大神宮(内宮)を創建したとされています。
倭姫命が大和を出発したのが垂仁天皇25年で、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の
諸国を経て、垂仁天皇26年(BC4年)に伊勢の国に入り皇大神宮を創建したと伝わります。
伊勢の国に入ると先導を務めたのが、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)で、
五十鈴川の川上一帯を献上したとされています。

また、背後の山頂には磐座や古墳群が残されていることから、倭姫命がこの地を訪れる
以前から何らかの祭祀が行われていたのかもしれません。

祭神は猿田彦命で、白髪で白い鬚を蓄えた老人の姿だったことが
「白鬚神社」の由来となりました。
観阿弥作の謡曲「白髭」では、湖岸で釣りをする翁に姿を変えた白鬚明神が、
参詣に訪れた勅使に白鬚明神の縁起を語ります。
社伝では白鬚明神が猿田彦命であったとされています。
白鳳3年(675)には、第40代・天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとされています。
貞観7年(865)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載がありますが、
『延喜式』神名帳には記載されていないため、国史見在社とされています。
国史見在社とは、六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』
『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載が見られ、『延喜式神名帳』に記載の無い
390余社の神社を指します。
朝廷の尊崇が厚く、由緒ある神社として重んじられています。
明治の近代社格制度では、明治9年(1876)に郷社に列し、
大正11年(1922)に県社に昇格しています。
境内図
本殿は豊臣秀頼の寄進により、慶長8年(1603)に再建され、
国の重要文化財に指定されています。
拝殿は明治12年(1879)に再建されました。
若宮神社
本殿の左側には末社・若宮神社があり、大田命が祀られています。
太田命(おおたのみこと)とも表記され、猿田彦命の別名とする説もあります。
現在の社殿は、本殿と同じく豊臣秀頼により、慶長8年(1603)に再建されたもので、
昭和15年(1940)に高島町指定文化財の第一号に指定されました。
上の宮への石段
若宮神社の右側にある石段を上り、「上の宮」へ向かいます。
伊勢両宮
石段を上った左側には手前から外宮、内宮、三社殿が並び、
いずれも町の文化財に指定されています。
三社殿には中央に八幡神社、向かって右に加茂神社、左に高良神社が祀られています。
伊勢両宮と三社殿は、天文8年(1540)に近江国守護・六角義賢(ろっかくよしかた)
により奉納されました。
紫式部歌碑
社殿の前に「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 
都恋しも」と詠まれた紫式部の歌碑が建っています。
長徳2年(996)、越前の国司となった父・藤原為時が船路にて湖西を通り
越前へと赴く際に、同行した式部が高島の三尾崎の浜辺で、
漁をする人々の網を引く見なれぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだとされています。
昭和63年(1988)4月に紫式部を顕彰して、高島町観光協会によって建立されました。
弁財天社
奥の方には右側の覆い屋の中に鳴子弁財天社と寿老神社、
その左側に波除稲荷社と天満宮社が祀られています。
鳴子弁財天社は、社殿が大阪の信者の寄進により建立されましたが、
昭和初年から社務所や宮司宅で奉斎されていました。
寿老神社は昭和63年(1988)に西近江七福神巡りの一つになったのを
記念して建立されました。
波除稲荷社の社殿は平成17年(2005)に修復されました。
天満宮社はかって、三社殿の軒下にあったものが、
平成11年(1999)に現在地に移転、修復されました。
磐座
更に山の方へ登って行くと、右側に磐座として祀られていると思われる岩があります。
天の岩戸社
岩の左側に岩戸社があり、古墳の石室が天の岩戸として祀られています。
暗くてよくは見えませんが、結構大きな石室のように思われます。
池
下って拝殿の右側へ進むと、小さな池があります。
与謝野夫妻の歌碑
池の畔に与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑が建っています。
「しらひげの 神のみまへに わくいづみ
 これをむすべば ひとの清まる」
大正初年に白鬚神社に参拝した二人が、社前に湧き出る水の清らかさを詠んだもので、
上の句は鉄幹、下の句を晶子が詠みました。
大正7年(1918)、京都延齢会が手水舎を再建した際に
その記念として同年12月この歌碑を建立しました。
鉄幹の揮毫によるもので、全国にある与謝野夫妻の歌碑の中で
最も古い頃のものとされています。
社務所
歌碑から右側へ進んだ所に社務所があります。
四十八石仏への道標
白鬚神社から国道161号線を北へ少し進んだ先に、四十八体石仏群への
道標が建っていますが、車高の高い自動車では進入できません。
四十八石仏
「鵜川四十八躯仏」と称され、滋賀県の史跡に指定されています。
伝承では六角義賢(ろっかくよしかた)が母の菩提を弔うために、
天文22年(1533)に造立したとされていましたが、永享8年(1436)、
周辺の境界争いの記録に四十八仏が記されていることから、
この頃には既にあったと推察されています。
四十八躯は『無量寿経』に説く、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩として修行していたときに
仏になる条件として立てた四十八の誓願によるものです。
地元の「比良石」と呼ばれる花崗岩製で、
像高は多少の大小の差があるものの像高は約1.6mあります。
しかし、内十三躯が江戸時代前期に坂本の慈眼堂(じげんどう)へ遷され、
昭和62年(1987)10月には二躯が盗難に遭いました。
現在は三十三躯の定印を結んだ結んだ阿弥陀如来坐像が、
東を向いて整然と安置されています。
海津大崎
近江今津港発10:50の便に間に合うように出発しましたが、予定より若干早く到着したので、
近くのコンビニで弁当を購入して竹生島行の船に乗船することにしました。

現在待合所が工事中で、北へ少し離れた所に仮設の待合所があり、
その前にバイクを置くことができました。
乗船券は往復で2,590円ですが、10/1から消費税が10%になるのに伴い、
2,640円に変更されますが、ネットで1割引きになる割引券が取得できます。

乗船すると船は定置網を避けるためか北に進路を取り、海津大崎が正面に見えてきます。
波の浸食により突き出た岩礁地帯で、琵琶湖国定公園の中でも有数の景勝地となり、
「暁霧(ぎょうむ)・海津大崎の岩礁」として、琵琶湖八景の1つに数えられています。
春は琵琶湖岸4kmに渡って約800本の桜が立ち並び、遅咲きの桜の名所となっています。
葛籠尾崎
海津大崎の先にある半島が葛籠尾崎(つづらおざき)です。
葛籠尾崎へは無料の観光道路「奥琵琶湖パークウェイ」が開通するまで、
容易に立ち入ることができませんでした。
しかし、葛籠尾崎の沖10~700m、湖岸に添って北へ数kmの範囲、水深10~70mの湖底に
葛籠尾崎湖底遺跡が発見されました。
大正13年(1924)末に漁師が網で数個の縄文・弥生土器を引き上げたことから
その存在が明らかとなりました。
現在までに縄文時代早期から晩期、弥生時代中・後期、古墳時代、奈良時代、
平安時代の各期の土器等が見つかっています。
葛籠尾崎周辺に河川が無く、土砂が堆積しなかったために、
土器等が沈んだ当時のままの状態で引き上げられました。
但し、何故この湖底から土器等が発見されたかは現在でも解明されていません。
竹生島-西側
竹生島に近付いてきました。
竹生島と伊吹山
島の南側の奥に伊吹山が見えてきました。
『近江国風土記』には、夷服岳(いぶきのたけ=伊吹山)の多多美比古命
(たたみひこのみこと)が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、
負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、
湖に落ちた首が竹生島になったと記されています。
伊吹山の標高は1,377mで現在は滋賀県の最高峰ですが、
金糞岳は1,317mで頭を切られたため、二位に転落したのでしょうか?
竹生島-南側
竹生島の南側は波に削られ、岩が露出しています。
竹生島港
竹生島港には既に長浜からの便が入港しています。
竹生島へは今津、長浜の他に彦根港からも出航しています。
今津と長浜からは琵琶湖汽船が運行し、今津港からは約25分で
往復の料金は10/1から2,640円になります。
長浜港からは乗船時間が約30分で、往復の料金は10/1から3,130円で
便数はこちらの方が多いです。
彦根港からは近江マリンが運行し、乗船時間は約40分で往復料金は3,000円ですが、
西武プリンスクラブのカードを提示すると2割引きで最安となります。
間もなく島に上陸します。
続く

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琵琶湖周航の歌
竹生島に上陸すると「琵琶湖周航の歌」の歌碑が出迎えてくれます。
この曲は大正6年(1917)6月28日、第三高等学校(現在の京都大学)ボート部の部員による
恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ」
(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われました。
歌詞にある「古い伝えの竹生島」のとおり、古来、信仰の対象となった島で
神の棲む島とも伝えられています。
深緑 竹生島の沈影の碑
背後には「琵琶湖八景 深緑 竹生島の沈影」の碑が建立されています。
竹生島では平成16年(2004)以降、カワウが急速に増加して、
多くの樹木を枯らせたとニュースで報じられていました。
現在ではカワウの姿も見られず、植林もされて深緑が取り戻されています。
上部に見える細長い建物は宝厳寺の本坊です。
殺生禁止の碑
また、竹生島の水際八町は殺生を禁止する旨の碑も建っています。
境内図
自販機で400円の入島券を購入して境内に入りますが、下船したほぼ全員の方々は
宝厳寺へ向かいますので、参拝図にあるようにまず、都久夫須麻神社の方へ向かいました。
橋
始発の船なら宝厳寺の方から下ってくる人とも出会わず、ほぼ独占して
都久夫須麻神社に参拝することができると思います。
竹生島港
橋の上からは竹生島港が一望できます。
手前には都久夫須麻神社の船も停泊しています。
黒龍社-1
橋を渡った所に黒龍堂があります。
昭和45年(1970)に大阪の岡橋氏によって建立された後、
平成7年(1995)に修復が行われ、鳥居が再建されました。
黒龍社-2
黒龍が祀られ、背後の大木が黒龍が湖から昇ってくると伝わる御神木とされています。
黒龍堂は大阪の黒龍大神が勧請されたのでしょうか?
懸け造り
参道は「舟廊下」の懸け造りの横を通ります。
弁財天像
先にある石段を上った右側に招福弁財天が祀られています。
白巳大神
白巳大神を祀る社殿。
白巳大神の詳細はこちらをご覧ください。
龍神拝所
琵琶湖を望む断崖上に龍神拝所があります。
龍神拝所-鳥居
ここから土器(かわらけ)に願い事を書き、湖面に突き出た宮崎鳥居へと投げ、
鳥居をくぐれば、願い事が成就するとも言われています。
厳島神社
厳島神社-2
本殿への石段の右側に江の島の江島神社と宮島の厳島神社があります。
この二社を含め「日本三大弁才天」と称されています。
天忍穂耳神社-1
石段の左側には左側には天忍穂耳神社(あめのおしほみみじんじゃ)と
大己貴神社(おおなむちじんじゃ)があります。
天平3年(731)に第45代・聖武天皇が都久夫須麻神社に参拝した際に創建されたと伝わります。
天忍穂耳神社-2
天忍穂耳神社の祭神・天忍穂耳命は『古事記』では、天照大神の勾玉から生まれたとされています。
天照大神から葦原中国(あしはらのなかつくに)を天降って平定するように命じられますが、
下界は物騒だとして途中で引き返しました。
葦原中国とは、天にある高天原と地下にあり、死者の世界である黄泉(よみ)の国の中間にある、
日本の地上世界を指します。

大己貴神社の祭神・大己貴命は大国主命とも呼ばれ、粗暴のため高天原を追放された
須佐之男命(すさのおのみこと)の息子とも六世または、七世の孫ともされています。
大己貴命は少名毘古那命(すくなびこなのみこと)の協力を得て、
人々に農業や医術を教え葦原中国の国造りを完成させました。
その後、建御雷神(たけみかづちのかみ)らによって大己貴命から国譲りがなされ、
再び天忍穂耳に降臨の命が下りました。
しかし、天忍穂耳はその間に生まれた息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に
行かせるようにと進言し、瓊瓊杵尊が天下ることになりました。
天忍穂耳命の「おしほみみ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神を意味し、
稲穂の神、農業神として信仰されています。
大国主命は出雲神社の祭神であり、病を封じる神(医療神)として信仰されています。
本殿
本殿は永禄元年(1558)の大火で焼失し、永禄10年(1567)に再建されました。
これが現存する庇(ひさし)と向拝の部分にあたります。
本殿-身舎
慶長7年(1602)には豊臣秀頼により、片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行として改造されました。
建物中心部の身舎(もや)は、伏見城の勅使殿が移築され、
元の本殿の外回りにの中に組み込まれました。
身舎の正面中央間は黒漆塗の桟唐戸を立て、菊文様の装飾彫刻で飾られています。
現在、内陣の拝観は中止されていますが、折上格子天井には
菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地・著色画が施されています。
襖には草花図が描かれ、天井画と共に狩野永徳、光信親子の筆によるものと伝わります。
本殿-廂
庇の部分は素木仕上げで彫刻が施されています。
建立年代の異なる2つの建物を合体して1棟としたもので、国宝に指定されています。

社伝では、雄略天皇3年(459)に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが、
都久夫須麻神社の始まりと伝わります。
『近江国風土記』には夷服岳(いぶきのたけ=伊吹山)の多多美比古命
(たたみひこのみこと)、久恵(くえ)の峰に姉の比佐志姫命(ひさしひめみこと)、
浅井の峰に姪の浅井姫命がいました。
ある時、夷服岳と浅井の峰(金糞岳)が高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って
浅井の峰の頭頂部を斬ったところ、湖に落ちて竹生島になったと記されています。
湖に落ちる時、「都布都布(つぶつぶ)」という音がしたので「都布失島(つぶくしま)」という
名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから
「竹生島」という名前になったとも伝わります。

天智天皇6年3月19日(667年4月17日)、近江大津宮へ遷都した第38代・天智天皇は、
宮中の守護神とし、第45代・聖武天皇は竹生島に宝厳寺を創建しました。
聖武天皇は天平3年(731)に参拝し、社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったと伝わります。
天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられ、
平安時代中期の『延喜式神名帳』で式内小社に列っせられました。
平安時代末期から弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として
「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになりました。

木曽義仲を討つべく平家の軍勢10万余騎は、北陸へ向けて琵琶湖西岸を北上しました。
その途中、琵琶の名手として名高い平経正(たいら の つねまさ)は竹生島に渡り、
この地で「上弦(しょうげん)、・石上(せき しょう)」の秘曲を奏でました。
そのあまりにも美しい調べに、弁才天の化身と思われる白龍が龍神となって現れたと伝わります。
寿永2年(1183)、平氏の北陸追討軍が倶利伽羅峠の戦いで、木曾義仲に撃破され
大半の軍勢を失い、平家滅亡への道を辿ることとなりました。
また、平経正は寿永3年(1184)、一ノ谷の戦いで命を落としました。
明治の神仏分離令により都久夫須麻神社と宝厳寺が分離、併存するようになりました。

祭神は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと=弁財天)、宇賀福神、
浅井比売命(あざいひめのみこと)、龍神の四柱が祀られています。

地上から高天原に登ってきた須佐之男命と、「高天原を奪う等という邪心のないこと」を
天照大神に示すために誓約(うけい)が行われた際、天照大神が須佐之男命が
剣を噛んで吹き出した霧から生まれた五男三女神の三女神が宗像三女神とされています。
市杵島比売命は宗像三女神の三女(諸説あり)で「市杵(斎き)」には、
「神霊を斎き祭る」という意味があるとされています。
宗像三女神は、邇邇芸命を見守り助けるために玄界灘に浮かぶ
筑紫宗像の島々に降り立ったとされています。
後の神仏習合においては弁財天と同神とされるようになりました。

宇賀福神は、宝厳寺の弁財天像の頭頂部に小さく乗っています。
神名の「宇賀」は、伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂神(うかのみたま)に
由来するもの、または仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に
由来するという説もあります。
その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、延暦寺(天台宗)の教学に
取り入れられて、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体したとされ、
この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれます。
宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され案出された神、との説もあります。

宝厳寺へ向かいます。
続く

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舟廊下
都久夫須麻神社と宝厳寺の観音堂を結ぶ渡り廊下は「宝厳寺渡廊」と称され、
国の重要文化財に指定されています。
慶長8年(1603)に豊臣秀吉の御座船「日本丸」の用材を用いて建てたという
伝承から「舟廊下」とも呼ばれています。
観音堂
観音堂は現在、工事中で国宝の唐門や重要文化財の観音堂など、
全容を見ることはできませんでした。
戦国時代の永禄元年(1558)の大火で、都久夫須麻神社の本殿や観音堂が被災し、
現在の観音堂は慶長7年~8年(1602~1603)に、豊臣秀頼の命を受けた
片桐且元によって再建されました。
観音堂は傾城地に建てられた懸造(かけづくり)で、京都から移築された痕跡が残されています。
平面構造は、桁行五間、梁間四間でその外回りに縁が巡っています。
琵琶湖側の正面一間通りが外陣、奥四間通りが内陣で、
内陣の右手奥に本尊が安置されています。
折上格子天井には牡丹、菊、桐が描かれています。
賓頭盧尊者
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像は「なで仏」とも呼ばれ、まず像をなで、
その手で自身の患部を撫でると治癒するとの伝承があります。
宝厳寺の像は古いので、優しく撫でるようにと注意書きがしてあります。
極楽橋
唐門は豊国廟の唐門が移築され、土地の条件から観音堂に接して建てられています。
平成18年(2006)、オーストリアのエッゲンベルク城で豊臣期大坂図屏風が発見されました。
大坂城の本丸北側に極楽橋が描かれています。
唐門が付いたこの橋は慶長元年(1596)に建設されましたが、
唐門は慶長5年(1600)に豊国廟へ、慶長7年(1602)に現在地に移築されました。
本尊
書写山圓教寺の参道に祀られている宝厳寺の札所本尊
参拝する仏間は2階にあたり、西国三十三所観音霊場の本尊である鎌倉時代の
千手千眼観世音菩薩像が安置されていますが、秘仏とされ原則として
60年に一度開扉されます。(次回の御開扉は2037年)
像高約1.8mで等身大とされています。
千手にはそれぞれ一眼を持ち、全てを見渡し、どのような衆生をも漏らさず
救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表しています。
修行大師像
唐門を出た左側には修行大師像が祀られています。
観音像
観音堂前の石段を上った左側にぼけ封じ、諸病封じの
「薬寿・観世音菩薩」像が祀られています。
三十三所堂
更に石段を上って進むと西国三十三所観世音奉安殿があります。
三十三所堂-堂内
堂内には霊場の各本尊が祀られています。
天狗堂
奉安殿の先、左側に行尋坊天狗堂があります。
行尋坊とは天狗の名前だったのでしょうか?
何か謂れがありそうですが、詳細は不明です。
妙音天堂
また、妙音天堂の小さな祠もあります。
妙音天女は、天界に住んで空中を飛翔し、妙なる楽器を奏て仏の功徳を讃える
菩薩形の天女だそうで、中国では弁才天、或いは同一視されているようです。
手水舎
奉安殿から進んだ先の右側に手水舎があります。
五重石塔
手水舎の左側に高さ247cmで鎌倉時代作の五重石塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
全国で重文指定を受けている五重石塔は七基しか無く、その内の一基となります。
石材は比叡山中から採掘される小松石が使用され、
初重塔身の四方には四仏が配されています。
相輪は、豪雨による土砂崩れで埋没し、発見できなかったために
相輪の下部のみが後補となっています。
本堂
古来、都久夫須麻神社(竹生島神社)の本殿が、宝厳寺の本堂とされてきました。
しかし、明治の神仏分離令の際、弁財天社は平安時代の『延喜式』に見える
「都久夫須麻神社」という社名に変更することなりました。
宝厳寺は廃寺の危機を迎えましたが、寺側の「弁才天は仏教の仏である」との主張が通り、
寺と神社が分離することになりました。
本堂の建物のみが神社側に引き渡されたため、昭和17年(1974)に
平安時代様式で本堂が新築されました。
邪鬼
軒の四隅は邪鬼によって支えられています。

寺伝では、神亀元年(724)、聖武天皇の勅命を受け、僧・行基によって創建され、
弁才天を祀ったとされています。
第45代・聖武天皇は夢枕に立った天照大神より「江州の湖中に小島がある。
その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、
万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、
堂塔を開基させたと伝わります。
一方、承平元年(931)成立の『竹生島縁起』によれば、行基の来島は天平10年(738)で、
小堂を建て四天王を祀ったのが始まりとされています。
天平勝宝5年(753)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、
千手観音を造立して安置したとの記録が残されています。
当初は本業寺(ほんごうじ)、後に竹生島大神宮寺と称し、東大寺の支配下にありました。
平安時代前期に延暦寺の傘下に入り、天台寺院となりました。
以降、島は天台宗の僧の修行の場となり、また、平安時代末期頃からは
観音と弁才天信仰の島として栄えたと記されています。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長は比叡山を焼き討ちし、ルイス・フロイスの
書簡には約1500人、『信長公記』には数千人の僧侶や僧兵、
坂本周辺に住んでいた住民たちまで殺害されました。
信長は宝厳寺には手を下さずに竹生島を安堵し、『信長公記』には
竹生島に参詣した記録が残されています。
現在は真言宗豊山派の寺院で、山号を巌金山(がんこんさん)と称します。

本尊の弁天像は江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」の一尊で、
その中でも最も古い弁才天とされ、宝厳寺では「大弁才天」と称しています。
宝厳寺の創建時に行基が開眼したと伝わりますが、60年に一回開帳される秘仏で、
次回の開帳は西暦2037年になります。
内陣の厨子前には御前立の弁財天像が安置されています。
内陣には荒井寛方画伯により、正面には「諸天神の図」、
側面には「飛天の図」と呼ばれる壁画が描かれています。
弁才天像-右
弁才天像-左
また、堂内外陣の左右にも慶長10年(1605)作の夫婦の弁才天像が安置されています。
現在は毎年8月15日に、「蓮華会(れんげえ)」と呼ばれる
竹生島最大の行事が行われています。
昔は籤(くじ)で選ばれた二人の頭役(とうやく)が弁才天像を新造して、
それぞれの自宅で夫婦で祀り、8月15日に竹生島に奉納していました。
この夫婦の像はそのようにして奉納されたものと思われます。
現在は新造ではなく、宝厳寺から像を預かる方式に変更されているようです。

弁財天は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名で、
七福神で唯一の女神です。
女神にも拘らず、竹生島は明治までは女人禁制でした。
原語の「サラスヴァティー」はインドの聖なる河の名であったのですが、
河の守護神とされるようになりました。
水を神格化し、言語や音楽の神とされています。
経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」ですが、「才」が「財」の音に通じることから
「弁財天」と表記し、金運・財運の神としての性格が付与されました。
お願いだるま
奉納されている多数の達磨像は「お願いだるま」と呼ばれ、願い事を書いた紙を
達磨の中に封入して祀られています。

本殿の左手前に納経所があります。
宝厳寺は西国三十三所観音霊場・第30番及び神仏霊場・第138番他札所となっています。
三龍善神
納経所の奥、本殿の左側の奥に三龍善神が祀られた社殿があります。
「潤徳護法善神」、「福壽白如善神」、「徳澤惟馨善神」の三神が祀られていますが、
詳細は不明です。
不動三尊像
本殿の右前に不動明王と矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を
両脇に従えた三尊像が祀られています。
その右横には「竹生島棒術発祥の地」が建っています。
平安時代末期、大坂の難波平治光閑(なんば へいじみつのり)は、源平合戦に出陣しましたが、
戦いの最中に長刀の刃が折れ、棒の部分のみで戦いました。
光閑は更に創意工夫を重ね棒術の技を編み出し、
竹生島の弁才天にあやかり「竹生島流棒術」と名付けまし た。
蔵
三尊像の右側にある石段を上った所に土蔵があります。
経蔵でしょうか?
モチの木
蔵の右側にに片桐且元(かたぎり かつもと)が手植えしたとされている「モチの木」が
大きく枝を伸ばしています。
宝厳寺は中世以降、貞永元年(1232)、享徳3年(1454)、永禄元年(1558)などに大火が
ありましたが、その都度復興されてきました。
 永禄元年の大火後、慶長7年~8年(1602~1603)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて
伽藍を復興し、その記念樹として植えられました。
三重塔
モチの木の先に建つ三重塔は6年の歳月をかけて平成12年(2000)5月に再建されました。
正中3年(1326)の『竹生島勧進帳』などからその存在が確認できますが、
江戸時代初期に焼失したそうです。
雨宝童子堂
三重塔の奥に雨宝童子(うほうどうじ)堂がありますが、工事中だったため
平成29年(2017)10月8日参拝時の画像を使用します。
雨宝童子とは、天照大神が16歳のときに日向に降臨されたときの姿とされています。
また、天照大神の本地仏とされる大日如来の化身とする説もあります。
頭上に五輪塔を頂き、右手に宝棒(ほうぼう)、左手に宝珠を持つ童子形の神像で表されています。
宝物殿
三重塔の右側に宝物殿がありますが、船を一便遅らせたため、
昼食時間を取る必要から今回も入館を控えました。
鐘楼
三重塔前の石段は手水舎の横へと下り、そこからは港までの石段が続いています。
石段を下った左側に鐘楼があります。
護摩堂
右側の石段上には護摩堂があります。
月定院
護摩堂の左側に月定院があります。
本坊
鐘楼から石段を下った右側に本坊の玄関があります。
瑞祥水
玄関の南側に地下水「瑞祥水」の井戸があります。
深さ230m(湖底130m)より汲み上げられています。
宝厳寺鳥居
「瑞祥水」から下る石段には、神仏習合時代を思わせる宝厳寺の鳥居が建ち、
山号「巌金山(がんこんさん)」の扁額が掲げられています。
竹生島神社鳥居
更に石段を下ると都久夫須麻神社への参道と分かれる所に
都久夫須麻神社の鳥居が建っています。
しかし、都久夫須麻神社へ向かうには、鳥居をくぐらず、手前を右に進みます。
直正
港に到着すると、彦根港から出航した近江マリンの「直正」が入港していました。
インターラーケン
コンビニ弁当で昼食を済ませると、12:30発今津港行が入港し、
今津港まで戻って長命寺へ向かいます。
続く

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仁王門
総持寺は県道509号線に面して南向きに大門(仁王門)が建ち、
その横に駐車場があります。
現在の大門は寛永12年(1635)に再建された切妻、こけら葺、三間一戸の八脚門で、
滋賀県の文化財に指定されています。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は京仏師・高野左京作と伝わります。
中門
参道を進むと中門があります。
総持寺は医王山・楞厳院(りょうごんいん)と号する真言宗・豊山派(ぶざんは)の寺院で、
西国四十九薬師霊場の第31番札所となっています。
大日堂
中門をくぐった左側に大日堂があります。
大日堂-堂内
堂内には左から地蔵菩薩、地蔵菩薩の背後に不動明王、千手観音、大日如来、
薬師如来、弘法大師の石像が安置されています。
鐘楼
大日堂の向かいには鐘楼があります。
客殿
門の正面に客殿があります。
画像はありませんが、客殿の北側には小堀遠州が作庭したと伝わる池泉回遊式庭園があり、
滋賀県の名称に指定されいますが、拝観には予約が必要です。
また、総持寺の西隣に小堀遠州の生誕地があります。
庫裡
客殿の左側に庫裡があり、納経所にもなっています。
修行大師像
客殿の前に修行大師像が祀られています。
松梅木
修行大師像の右側に松梅木(しょうばいぎ)が植栽されています。
梅を宿として、松が生え、「商売気」として商売繁盛に結びつくのかもしれません。
本堂
松梅木の右側に本堂があります。
総持寺は天平13年(741)に第45代・聖武天皇が仏教による国家鎮護のため各地に
国分寺を創建しましたが、その際試し寺として勅命により
行基が開基したのが始まりとされています。
その後、衰退しましたが永享2年(1430)に実済によって中興されました。
第102代・後花園天皇の勅願寺となって惣持院の寺号を賜わり、
室町幕府6代将軍・足利義教から寺領600石を安堵され、七堂伽藍を建立しました。
以後、地元の京極家や浅井家の加護を受け、寺は大いに栄えました。
しかし、元亀元年(1570)の姉川の戦いで織田信長の兵火を受け、堂宇は悉く焼失しました。
その後、長浜城主となった羽柴秀吉から寺領120石の寄進によって復興され、
江戸時代になると彦根藩主の伊井家から庇護を受けるようになりました。
彦根藩の第4代藩主および第7代藩主の井伊直興(いい なおおき)は、須弥壇と厨子を寄進し、
菅山寺から薬師如来像を勧請し本尊としました。
この薬師如来は、天正11年(1583)に賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで負傷した
永沢四朗衛門が仏の加護に感謝して菅山寺に奉納したもので、頭の部分は平安時代に、
体の部分は江戸時代に修復されています。
また、堂内に安置されている平安時代後期で像高100.1cmの聖観音立像は、
国の重要文化財に指定されています。
本堂の参拝は予約と500円を納める必要があります。
護摩堂
本堂の向かい側には護摩堂があります。

長浜八幡宮に続く

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一の鳥居
(この記事は平成29年(2017)12月22日のものです)
長浜八幡宮は平安時代後期の延久元年(1069)に、源義家が後三条天皇の勅願を受け、
石清水八幡宮を勧請して創建したと伝わります。
源義家は長暦3年(1039)に河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井
(現・大阪府羽曳野市壺井)に生まれたと伝わり、七歳の春に石清水八幡宮で
元服したことから八幡太郎義家と名乗りました。
以後、この地は八幡の庄と称され、庄内十一郷の産土神(うぶすなかみ)として
深く崇敬されるようになりました。
当時その社頭は三千石、一山七十三坊と伝わりますが、戦国時代にはたびたび
兵火にみまわれ、社殿はほとんど消失しました。
天正2年(1574)に長浜城主となった羽柴秀吉により復興され、秀吉の男子誕生を
町民が祝って曳山を造ったのが長浜曳山祭の起源とされています。
境内の南西隅に一の鳥居が建立されています。
鳥居
鳥居をくぐり、真っ直ぐに伸びる参道を東へと進むと中間辺りの北側に二の鳥居があり、
参道を直角に曲がって本殿へと向かいます。
縁松
二の鳥居をくぐった左側に縁松(えにしまつ)があり、二本の松が寄り添うように
立っているのですが、片方の松はまだ若く、親子のように見えます。
松と松の間に張られているしめ縄をくぐると「縁」がいただけるそうです。
拝殿
鳥居の正面に拝殿があります。
神輿庫
拝殿の右側に神輿庫があり、背後にすっかり雪化粧した滋賀県の
最高峰・伊吹山(標高1,377m)が望めます。
幣殿
拝殿を回り込むと幣殿があります。
本殿
本殿の中御前に誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)、東御前に
足伸彦尊(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)、
西御前に息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が祀られています。
仲哀天皇と神功皇后は夫婦であり、応神天皇の両親となります。
本殿は八幡宮には珍しい神明造となっています。
高良神社
本殿の右側に摂社の高良神社があり、武内宿禰(たけうちのすくね)が祀られています。
武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の第12代から第16代まで、
5代の天皇に仕えた忠臣とされています。
八幡神とされる応神天皇にも仕えていたことから、多くの八幡社で祀られています。
長浜八幡宮では、武内宿禰が長寿で5代の天皇に仕えた故事により、
高良神社は「ボケ封じの宮」として崇敬されています。
ボケ封じ大石
高良神社の社殿の右側には「ボケ封じ大石」が祀られています。
亀願石
幣殿の左前に「亀願石」と記され、その背後には穴が空けられた岩が立っています。
「願い通して矢」と称され、願い事を祈念し、
岩の前方にある矢を射って穴に通せば、成就するそうです。
放生池
境内を西側へと進んだ所に放生池があり、池泉回遊式の庭園として
長浜市の名勝に指定されています。
羽柴秀吉が八幡宮を復興し、放生会を行うために造られました。
都久夫須麻神社-1
都久夫須麻神社-2
池の島には摂社の都久夫須麻神社があり、
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
竹生島の都久夫須麻神社が勧請されたものと思われます。
市杵島姫命は天照大神の子で、邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨した際に、
養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、
子供の守護神として、崇敬されています。
石清水八幡宮では比咩大神(ひめのおおかみ)として、左御前に祀られています。
天満宮-1
天満宮-2
放生池から北へ進むと摂社の天満宮があり、菅原道真が祀られています。
地主神社
天満宮の左側に末社の地主神社があり、大地主神(おおとこぬしのかみ)が祀られています。
土地ごとにそれぞれの地主神がいるとされ、その土地を守護する神とされています。
熊野神社
地主神社の左側に末社の熊野神社があり、家津御子神(けつみみこのかみ)、
熊野速玉神、熊野夫須美神が祀られています。
熊野速玉神と熊野夫須美神は夫婦神とされていますが、家津御子神は定かではありません。
家津御子神は熊野本宮大社の第三殿に祀られ、
素盞鳴尊(すさのおのみこと)の別名とされています。
家津御子神は元は、出雲の熊野大社で祀られていた櫛御気野命(くしみけぬのみこと)が、
和歌山・熊野の地に勧請され、家津御子神として祀られるようになったとされています。
「けつみこ」は「木津御子」とも表記され、櫛御気野命の子・五十猛命(いたけるのみこと)が
紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたと伝わります。
金刀比羅宮
熊野神社の左側には摂社の金刀比羅宮(ことひらぐう)と末社の
河濯神社(かわそぎじんじゃ)が一つの社殿内に祀られています。
金刀比羅宮には三輪明神の別名を持つ、大物主命(おおものぬしのみこと)が祀られています。
河濯神社には瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)で、人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、
祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神とされています。
末広稲荷神社-1
末広稲荷神社-2
金刀比羅宮の左側に末社の末広稲荷神社があり、稲荷三神である
宇迦之御魂(うかのみたまのかみ)・佐田彦神(さだひこのかみ)・
大宮能売神(おおみやのめのかみ) が祀られています。
舎那院-山門
長浜八幡宮の東側に隣接して舎那院があります。
舎那院は、山号を勝軍山、寺号を新放生寺と号する真言宗豊山派の寺院です。
平安時代初期の弘仁5年(814)に空海により開基されたと伝わります。
山号の勝軍山は学頭別当職に就いた源義家による中興の時代
(11世紀後半)に第71代・後三条天皇より賜ったものです。
その後、長濱八幡宮が創建されてからは神宮寺としての勝軍山新放生寺の一院でした。

16世紀後半の度重なる兵火を受けて堂宇を焼失し、羽柴秀吉による
長浜八幡宮復興の際に、新放生寺も再興されました。
明治初年(1868)の神仏分離令により、新放生寺は廃され、神社境内の仏堂は
名称・用途を変更し、仏教に関するものは新放生寺の学頭であった舎那院に移されました。
舎那院-鐘楼
山門を入った左側に宝暦5年(1755)に建立された鐘楼があります。
舎那院-鐘楼-彫刻-1
舎那院-鐘楼-彫刻-2
美しい彫刻が施されています。
舎那院-太子堂
右側には聖徳太子が祀られた太子堂があります。
観音堂
太子堂の左側に観音堂があります。
舎那院-地蔵堂-1
観音堂の左側に地蔵堂があります。
舎那院-地蔵堂-2
堂内には地蔵菩薩像が安置されています。
舎那院-池
観音堂の向かいには池があり、池の畔には地蔵菩薩像が祀られています。
舎那院-本堂
参道を進んだ奥に本堂があり、昭和14年(1939)からの長浜八幡宮社域の整備に伴い、
文化7年(1810)に建立された建物が八幡宮から移築されました。
本尊の愛染明王坐像は、鎌倉時代の作で国の重要文化財に指定されています。
元は新放生寺の本堂に安置されていました。
阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の作で国の重要文化財に指定されています。
元は新放生寺の本尊でした。

画像はありませんが本堂の左側に室町時代に建立された護摩堂があり、
滋賀県の文化財に指定されています。
本堂と同じく昭和14年(1939)に八幡宮の境内から移築され、
県内の護摩堂としては最も古い遺構です。
その他にも茶室、書院、庫裡、などの建物があります。

近江鉄道ミュージアムに続く

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