カテゴリ:滋賀県 > 湖北地方(高島市・長浜市・米原市・彦根市周辺)

地蔵堂
近江鉄道の多賀大社前駅から鳥居をくぐり、多賀大社への参道を進むと丁字路となり、
左へ曲がった先に延命地蔵菩薩が祀られた地蔵堂があります。
天保年間(1830~1840)に多賀大社門前の名物・糸切り餅を発案した北国屋市兵衛が、
木之本地蔵の分身を勧請し、堂を建てて祀ったのが始まりとされています。
地蔵菩薩
堂内中央には地蔵菩薩像が安置されています。
千手千眼菩薩
右側の中央は死体の両足を引っ張る奪衣婆(だつえば)の像が安置されています。
その背後に千手千眼観世音菩薩、地蔵菩薩像が安置されています。
閻魔大王
左側には中央に閻魔大王像が安置され、その前には亡者の生前の一挙手一投足が
映し出されるため浄玻璃(じょうはり)の鏡が置かれています。
閻魔大王の左右には罪状を読み上げている司命(しみょう)と
それを記録する司録が配されています。
閻魔大王の両肩には倶生神(くしょうじん)が亡者の生前の行いを報告しています。
倶生神は、人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、
昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する神です。
左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を
同生(どうしょう)といい、悪行を記録するとされています。
地蔵堂前
地蔵堂の前左側には半跏地蔵菩薩像、右側には阿弥陀三尊が
極楽浄土へと導く来迎像が祀られています。
地蔵堂-股裂地獄の像
また、「開運!近江の地獄巡り」と称され、参道には様々な
地獄世界を表した像が祀られています。
頬落地獄の像
参道の先には、「開運!近江の地獄巡り」「頬落(ほおとし)地獄」の像が祀られています。
真如寺-山門
参道を進んだ先に真如寺があります。
室町時代の創建と伝わり、現在の本堂などの建物は創建時代のものとされています。
真如寺-本堂
本堂
堂内には多数の仏像が安置されています。
重要文化財に指定されている平安時代後期作で像高約140cmの木造阿弥陀仏如来坐像は、
多賀大社の本地仏で、明治の神仏分離令により真如寺に遷されました。
真如寺には四天王像など廃寺となった寺院から遷されたと思われる仏像が安置されています。
鎌倉時代の正安元年(1299)作の阿弥陀三尊懸仏(かけぼとけ)は
多賀町の文化財に指定されています。
直径61.6cmのやや厚めの木板に薄銅盤を打ち付けて鏡面を作り、中央に像高23cmで
鋳造の阿弥陀如来、左右に像高14.5cmの観音菩薩と勢至菩薩が配されています。
初七日の図
須弥壇前の地獄絵図は、江戸時代後期に修行僧により、
法要の周期に合わせた10枚の地獄の様子が描かれています。
初七日の図は、泰広王(しんこうおう)による裁きの模様が描かれています。
倶生神(くしょうじん)からの報告を元に、無益な殺生を初めとする仏教の五戒に
反していなかったかについての審理を行い、その死者がどこから三途の川を渡るかを決定します。
罪の浅い者は山水瀬(浅水瀬)や七宝飾りの 美しい橋を渡ることができ、
罪の深い者は激流の江深淵(こうしんえん)を泳いで渡ります。
また、善人用の渡し舟(六文船)も用意され、葬儀の際に六文銭を持たせる風習が生まれました。
三途の川を渡ってきた亡者の衣服は、奪衣婆が剥ぎ取り、懸衣翁(けんえおう)が
衣領樹(えりようじゆ)に掛けて、衣服の濡れ具合で罪の重さを量ります。
二七日の図
二七日は、死後14日目に初江王(しょごうおう)により、泰広王の審理結果や
懸衣翁からの報告を元に、主に盗みに関しての審理が行われます。
三七日の図
三七日は、死後21日目に宋帝王(そうたいおう)により、性に関する罪の審理が行われます。
左側には僧によって救済されている様子が描かれていますが、改心の見込みがあったり、
裁きに不完全な部分があったり、現世の遺族側の回向(えこう)が
十分に行われていたりすると、次の裁判にまわされるそうです。
四七日の図
四七日は、死後28日目に五官王により、目 · 耳 · 鼻 · 口 · 舌の五官が元となる
悪業や罪を審理対象とし、特に妄言(もうげん=嘘)に関する詮議が行われます。
五七日の図
五七日は、死後35日目に閻魔王による審理が行われます。
亡者の生前の一挙手一投足が映し出される浄玻璃(じょうはり)の鏡が置かれ、
いかなる隠し事も見破られます。
もしこれで嘘をついていることが判明した場合、舌を抜かれてしまうとされています。
これまでの裁きの結果を元に閻魔王により、死者が
六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の何処に生まれ変わるかが決定されます。
六七日の図
六七日は、死後42日目に変成王(へんじょうおう)による審理が行われます。
六道に振り分けられた亡者が、その中でもどのような場所に
生まれ変わるかの審理が行われます。
変成王に懇願している女性が描かれていますが、十王の中では比較的寛容で、
亡者側の意見や願いを聞き入れてくれるとされています。
また、図では三つ目ではありませんが、人間の善悪を見破る三つ目の赤鬼と青鬼を
従えているとされています。
七七日の図
七七日は、死後49日目に泰山王により、最終の審理が行われます。
どのような姿で生まれ変わるか、寿命などが決定されます。
この審理を終えるとそれぞれ六道と繋がる六つの鳥居が示されますが、
亡者はどれがどこに繋がっているかは分からず、
鳥居をくぐって初めて裁きが分かるようになっています。
百箇日の図
百ヶ日は、平等王により、救済の審理が行われます。
遺族が供養に努めれば、悪道に堕ちたものは救済され、
善道に行ったものは更に徳をつめるとされています。
一周忌の図
一周忌は、死後二年目に都市王による審理が行われ、これで喪は明けたとされています。
光明箱とよばれる箱を持ち、中にはありがたい経文が入っていますが、
悪業の深い者があけると業火に焼かれるとされています。
都市王の裁きの場から極楽に行くことが可能ですが、
その距離は十万億土(一説には三十光年)とされています。
三回忌の図
三回忌は、五道転輪王により最後の裁きが行われます。
図では地面の割れ目から這い出して、阿弥陀如来に救いを求めていますが、
生前の行いにより、岩で蓋をされ、鳥に啄まれる姿が描かれています。
地獄絵図の像
本堂前には「開運!近江の地獄巡り」の「地獄絵図」の像が祀られています。
釜ゆで地獄の像
更に先に進むと「開運!近江の地獄巡り」の「かまゆで地獄」の像が祀られています。

多賀大社に続きます。

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西参道入口
多賀大社の西参道入口です。
日向神社-1
鳥居をくぐった正面には日向神社(ひゅうがじんじゃ)があります。
創建に関する詳細は不明ですが、天平神護2年(766)に神封二戸を寄せられたとの
記録が残され、奈良時代には既に存在しており、
平安時代の延喜式神名帳に列せられた延喜式内社です。
昭和9年(1934)に多賀大社の摂社に指定されています。
日向神社-2
祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、天照大御神の神勅を受け、
日向の高千穂峰に天下ったとされています。
多賀大社には本地堂があり、行基菩薩作とされる阿弥陀如来像が安置されていました。
猿田彦命を祀る摂社の山田神社は観世音菩薩、日向神社は勢至菩薩を本地仏とする、
阿弥陀三尊が形成され、多賀三所明神と称されていました。
尚、山田神社は境外摂社で、多賀大社の北方向にあります。
神明両宮-1
日向神社の右側に神明両宮があります。
神明両宮-2
伊勢神宮の内宮外宮の祭神・天照大御神と豊受大神が祀られています。
夷神社
神明両宮の右側に夷神社があり、事代主神が祀られています。
また、この付近に神宮寺の般若院があったと推定されています。
多賀大社には、不動院とその配下に般若院、成就院、
観音院の四つの神宮寺があったとされ、坊人と呼ばれる僧が奉仕していました。
室町時代中期の明応3年(1494)に天台宗の不動院が建立されると、
坊人は全国にお札を配って信仰を広めました。
多賀大社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わい、
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡も生まれました。
舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロイン・村山たか(1809~1876)は若き頃、
般若院で過ごしたとされ、また、般若院は井伊家の宿坊であったことから、
村山たかと井伊直弼の初めての出会いは般若院であったのかもしれません。
太閤蔵
夷神社から参道を進んだ右側に太閤蔵があります。
天正16年(1588)、豊臣秀吉は生母・大政所の病気平癒の祈願を行い、
これが成就したことから大名に与えるに等しい1万石を寄進し、社殿の改修等を行いました。
この蔵はその際に建立されたもので「太閤蔵」と呼ばれています。
鐘楼
太閤蔵の東側に鐘楼があります。
現在の鐘楼は昭和59年(1984)12月から昭和61年(1986)3月にかけて再建されました。
梵鐘は室町時代後期の天文24年(1555)に鋳造されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
鐘身153.2cm、龍頭からの高さ209.2cm、口径127cmあり、
全国五指に入る大鐘とされています。
天文5年(1536)から永禄6年(1563)にかけて室町幕府、佐々木六角、浅井家の
奉賛のもとに大々的な社殿の修造が行われ、この梵鐘もその一環として鋳造されました。
神輿庫
鐘楼の東側に神輿庫があります。
かって、参集殿の西側にあったものが、昭和の大造営に際し、
昭和11年(1936)に現在地に鉄筋コンクリート造りで建立されました。
毎年4月22日に営まれる「古例大祭(多賀まつり)」に出御される
神輿と鳳輦(ほうれん)が収納されています。
大ガマ
神輿庫の斜め左前に2個の大釜が置かれています。
元和元年(1615)に社殿が焼失し、第3代・徳川家光は
30万両を寄進して社殿の再建を命じました。
寛永11年(1634)から5年の歳月を要して本殿以下の大造営が行なわれ、
更に約60年後の元禄11年(1698)には再び大修復工事が行われました。
この二つの大釜は、両度の正遷宮を祈念して営まれた「御湯神事」に使われたと伝わります。
文庫
神輿庫の東側にある文庫はかって、多賀大社大禰宜だった車戸宗功(くるまどむねいさ)の
邸内にあり、長州や土佐の志士と密議を行ったとされています。
車戸宗功は、平田篤胤(あつたね)門の国学者で、多賀神社の自邸を
諸国勤王派の交流の場とし、「桜田門外の変」の後の彦根藩が
倒幕の姿勢を示す一因となりました。
社務所
社務所
社務所前の参道
社務所前の参道から境内を出て、西参道から改めて御神門のある参道から境内に入ります。
鳥居
こちらからが正式な参道入り口となります。
そり橋
鳥居をくぐった正面にそり橋があり、町の文化財に指定されています。
太鼓橋で「太閤橋」とも呼ばれているそうですが、豊臣秀吉が架橋したのではなく、
寛永の大造営の際に築造されました。
かなりの急勾配で渡るのも一苦労ですが、「古例大祭(多賀まつり)」では
この橋を神輿が渡る「神橋」でもあります。
神門
そり橋を渡った先に御神門があります。
多賀大社は寛永の大造営以降、安永2年(1773)に焼失し、
天明2年(1782)にも火災に遭いました。
寛政3年(1791)には暴風で社殿が倒壊しましたが、その都度彦根藩及び幕府からの
手厚い寄進により再建されてきました。
しかし、明治の神仏分離令により境内にあった全ての神宮寺は払拭されました。
明治以降建物の再建や撤去が無計画に行われたため、社殿配置に
統一性が欠けているとして大正から昭和にかけて大造営が行われ、
御神門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置されました。
夫婦桜
御神門前の「夫婦桜」は昭和7年(1932)に、大正から昭和にかけて大造営の竣工を
記念して植樹された、県内屈指の早咲きの枝垂れ桜です。
秋葉神社と愛宕神社
「夫婦桜」の手前には向かって右側に秋葉神社、左側に愛宕神社があります。
神馬舎
御神門をくぐった先に神馬舎があり、町の文化財に指定されています。
手水舎
神馬舎の向かいには手水舎があります。
拝殿
参道の正面に拝殿があり、その奥に神楽殿、幣殿そして本殿と並んでいます。
現在の社殿は大正8年(1919)に明治神宮造営局技師・大江新太郎氏の設計により、
国費で建立されました。
拝殿には巨大なしゃもじが立てられています。
第44代・元正天皇(在位:715~724)が病の際、多賀大社の神主が強飯を炊き、
しでの木で作った杓子を献上したところ病気が平癒したと伝わります。
現在、お守りとしてしゃもじが授けられる「お多賀杓子(おたがじゃくし)」は、
この故事に因むもので、「お多賀杓子」は「お玉杓子」の由来になったとされています。
本殿
祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命で、社殿では国産み・神産みを終えた伊邪那岐命が
多賀大社から東約6kmの杉坂峠に天下り、この地に鎮まったとされています。
杉坂峠には、三本杉が残されています。
天下った伊邪那岐命に土地の老人が粟の飯を献上し、食後伊邪那岐命が杉箸を
地面に突き刺したところ、それが根付いたとされています。
能舞台
拝殿の東側に能舞台があります。
多賀大社では毎年1月3日に能始が行われ、「翁」が舞われることから
翁始式(おきなはじめしき)」と呼ばれています。
多賀大社の近くにある敏満寺は近江猿楽の発祥地とされ、
多賀大社でも古くから神事で能が奉納されてきました。
多賀大社には現在、能面五十九、狂言面十三面が残されています。
子安神社と二社殿
能舞台の東側に子安神社があり、安産・子育ての神が祀られています。
子安神社の左側に年神神社と竃神神社の二社殿があります。
さだれ石
さだれ石
寿命石と祈願の白石
寿命石と祈願の白石
鎌倉時代の東大寺中興の祖・俊乗房重源上人は、後白河上皇の命を受け、
61歳で東大寺勧進職に就きました。
上人は伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したのですが、夢に天照大神が現れ、
「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げられました。
上人は多賀大社の本地堂に参籠して20年の延命を告げられたとされ、
寿命石はその由緒を伝えるものとして建てられています。
祈願の白石
祈願の白石は、上人が柏の葉の神託により延命を授かった故事に因み、
白石に願い事を書いて寿命石に祈願するものです。
三社殿と二社殿
本殿の右側には熊野新宮、天神神社、熊野神社の三社殿があります。
なぜ那智大社でなく天神神社が祀られているのか悩みます。
また、三社殿の右側に聖神社、三宮神社の二社殿があります。
金咲稲荷神社-1
金咲稲荷神社-2
金咲稲荷神社-3
参道を進むと金咲稲荷神社があります。
神田
更に北へ進んだ右側に神田があり、遠く山頂だけ見える山は薄く雪化粧しています。
伊邪那岐命が天下ったとされる杉坂峠も雪が積もっているようです。

西明寺へ続く

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