カテゴリ:滋賀県 > 湖東地方(東近江市・近江八幡市周辺)

長命寺港
今津港を13:00過ぎに出発し、長命寺の麓に14:40頃に到着しました。
60km足らずの距離なのに、湖西道路が使えない悲しさで、途中休憩の時間を省き、
全体的な遅れを約1時間に短縮しました。
麓には長命寺港があります。
現在は長命寺山の東側は大中之湖干拓地が広がっていますが、
干拓以前の長命寺は島の中にあったそうです。
かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島・宝厳寺から船で長命寺に参詣したそうです。
また、安土の城下に物資が運ばれた水上交通の要衝でもありました。
日吉神社
港から道路を渡った所に日吉神社があります。
創建の詳細は不明ですが、滋賀県神社庁の記録によると、「平安時代の承和3年(836)、
長命寺の僧・頼智が長命寺再興の際、
山王十禅寺を祀ったと長命寺文書にあるのを創立とする。
その後文政3年(1820)本殿改築の事、棟礼に記される、
明治九年村社に列せられた。」と記されています。
延暦7年(788)、延暦寺を開いた最澄は、大山咋神(おおやまくいのかみ)と
大物主神を地主神として延暦寺の守護神としました。
大山咋神は、もともと近江国日枝山(ひえのやま=比叡山)の神で、
大物主神は第38代・天智天皇が天智天皇7年(668)に大津京の鎮護のため
大和国三輪山から勧請しました。
延暦寺ではこの二神を「山王」と称し、天長2年(825)に天台宗の
第2代座主・円澄(えんちょう)が、延暦寺の西塔を開くと、東塔に対応する形で
地主神を祀るようになりました。
このようにして増えていった地主神の一尊が十禅寺(十禅師)だと思われます。
長命寺は頼智によって再興されてから、延暦寺西塔院領となりました。

現在の祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で別名を
山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)とも称し、
背後の長命寺山(333m)の地主神として祀られています。
穀屋寺
日吉神社の右側に穀屋寺があり、推古天皇時代(592-628)に聖徳太子によって創建され、
本尊として聖徳太子が祀られています。
聖徳太子扁額
長命寺が推古天皇27年(619)に同じく聖徳太子によって創建されていますので、
同時期かそれ以降と思われます。

平成21年(2009)、穀屋寺から熊野観心十界曼荼羅(くまのかんしんじつかいまんだら)2点と
長命寺参詣曼荼羅3点が見つかりました。
十界曼荼羅は縦約141cm、横約110~113cm、同じ絵柄で、上部に誕生から死までの
人間の姿が描かれ、中下部に地獄や餓鬼、菩薩や仏など
仏教の世界観を表す「十界」を表現しています。
中央上部には十界のうち「仏界」の阿弥陀、薬師、釈迦の三仏が描かれています。
戦国時代末期と江戸時代後期の作とみられ、戦国時代末期のものは、
全国で確認された十界曼荼羅約60点の中で最古級とされています。

長命寺参詣曼荼羅は縦約154~約161cm、横約159~約180cmで、
長命寺の境内を上から眺めた視点で描かれています。
3点はそれぞれ戦国時代末期、江戸時代中期、同後期の作と推定されています。
長命寺は永正13年(1516)の兵火で焼失し、寺の再興のため、16世紀半ば頃から尼僧が
全国を歩きながら十界曼荼羅を用いて布教し、浄財を集め、穀屋寺は、
長命寺再建のため全国に寄付を募った僧や尼僧の拠点となりました。
参道入口の石段
穀屋寺から奥へ進むと石段があり、標高約250mにある本堂まで808段の石段の参道が続き、
約20分の時間を要します。
平成29年(2017)10月8日参拝時にはこの石段を上りましたが、
今回は時間短縮のため冠木門下の駐車場までバイクで登ることにしました。
休憩所
三重塔-再建
駐車場には休憩所があり、その前に重要文化財に指定され、平成25年(2013)に
屋根の葺替工事が行われた三重塔の説明書きがありました。
工事は既に完了し、修理現場の見学も終了しています。
冠木門
駐車場から参道に入ると、すぐ前に冠木門が見えます。
手水舎
門をくぐった右側に手水舎があります。
手水舎-石像
奥には石仏が祀られています。
書院
書院-屏風
書院は工事をされていたので、平成29年(2017)10月8日参拝時の画像を使用します。
閼伽井堂
本堂前まで登り右側へ進むと、本堂の裏側に当たる所に閼伽井堂があります。
天智天皇6年(667)に近江大津宮へ遷都した天智天皇は、
大津宮の鎮護と天下泰平を祈願するため長命寺に参拝しました。
その折、この古井戸で念仏を唱えたところ、水泡が浮かび出たことから
「念仏井戸」と呼ばれるようになりました。
閼伽井堂-堂内
閼伽井は今も清水を湛えています。
閼伽井堂-堂内の仏像
堂内上部には仏像が安置されています。
三重塔
閼伽井堂の右側にある石段を上った所に、天正17年(1589)に着手し8年かけて
慶長2年(1597)に再建された三重塔が建っています。
永正13年(1516)の兵火で焼失する以前には、
鎌倉時代の元応2年(1320)に建立された塔がありました。
現在の塔は、高さ24.35mで、県内に現存する三重塔七基の内、
二番目の高さを誇り、国の重要文化財に指定されています。
昭和40年(1965)には解体修理が行われています。

初重内部は須弥壇を設け、胎蔵界大日如来像(桃山時代)と
四天王像(鎌倉時代)が安置され、共に近江八幡市の文化財に指定されています。
大日如来像は像底の銘から天正17年(1589)、七条仏師の作と判明しました。
護摩堂
三重塔の左前奥に慶長11年(1606)に再建された護摩堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
再建後間もなく、屋根の葺き替えで二重軒付に変更されましたが
、昭和49年(1974)の半解体修理で、一重軒付に復元されました。
桁行3間、梁間3間(4.863m)の宝形造り、檜皮葺、丹塗りの建物で、
堂内には本尊として不動明王像が安置されています。
本堂
三重塔の前から見る本堂。
現在の本堂は、寺の文書から室町時代の大永4年(1524)に再建されたと判明し、
国の重要文化財に指定されています。
長命寺は山号を姨綺耶山(いきやさん)と称する天台宗系単立の寺院です。
西国三十三観音霊場所・第31番、神仏霊場巡拝の道・第143番、聖徳太子霊跡・35番、
近江西国三十三所・第21番、近江七福神(毘沙門天)などの各札所になっています。

伝承によると、第12代景行天皇の時代(71~130)に、武内宿禰(たけしうちのすくね)が
この地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願し、
そのご利益があったのか300歳(360歳とも)の長寿を得られたと伝わります。
六処権現影向石
宿禰が祈願したとされる岩が本堂の裏にある
六処権現影向石(ろくしょごんげんようごうせき)で祈願石とも呼ばれています。
修多羅岩
また、境内には修多羅(すだら)岩があり、武内宿禰の御神体とされています。
修多羅とは仏教用語で天地開闢(かいびゃく)、天下泰平、子孫繁栄を意味します。

推古天皇27年(619)、この地を訪れた聖徳太子が宿禰が祈願した際に彫った文字を
発見し、感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、
その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げました。
太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置し、宿禰の長寿にあやかり、
当寺を長命寺と名付けたと伝わります。

中世の長命寺は延暦寺・西塔の別院としての地位を保ち、近江守護・佐々木氏の
崇敬と庇護を受けて栄えていました。
しかし、永正13年(1516)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼しました。
本尊
書写山圓教寺の参道に祀られている千手観音像
本尊は、千手十一面聖観世音菩薩三尊一躯、つまり、千手観音、十一面観音、
聖観音(しょうかんのん)の3躯が長命寺の本尊とされています。
中央に千手観音像、向かって右に十一面観音像、左に聖観音像が安置され、
いずれも秘仏で、国の重要文化財に指定されています。
千手観音像は像高91.8cm、平安時代末期頃の作と推定されています。
十一面観音像は像高53.8cm、平安時代初期~中期の作と推定されています。
聖観音像は像高67.4cm、鎌倉時代の作と推定されています。
堂内、後の間には地蔵菩薩立像と薬師如来立像が安置されています。
三仏堂
本堂から三仏堂は渡廊下で結ばれています。
三仏堂は平安時代末期の元暦元年(1184)に佐々木秀義の菩提を弔うため、
その子・定綱によって建立されました。
永正13年(1516)に焼失後、室町時代の永禄8年(1565)に再建されたと推定され、
江戸時代の寛政5年(1793)に改造されています。

堂内には釈迦・阿弥陀・薬師の三仏(いずれも立像)が安置され、
県下でも数少ない持仏堂形式の貴重な遺構として、滋賀県の文化財に指定されています。
また、西国観音霊場の各本尊像が安置されています。
主痘神
三仏堂の左横に主痘神が祀られていますが、疱瘡神(ほうそうがみ/疱瘡=天然痘)が
祀られているのでしょうか?
護法権現社拝殿
渡廊下は、更に護法権現社拝殿へと結ばれています。
護法権現社拝殿及び渡廊下も残されていた墨書きから三仏堂と同じ、
永禄8年(1565)の再建と見られ、県の文化財に指定されています。
護法権現社
護法権現社本殿は、聖徳太子が長命寺を創建した際に、武内宿禰の霊を勧請し、
仏法を守護する護法神として祀ったのが始まりとされています。
現在の社殿は江戸時代後期の再建と推定されています。
右横には天神詞(てんじんのやしろ)がありますが、詳細は不明です。
意味不明-1
意味不明-2
本堂前の南側は琵琶湖の展望が開けていますが、その一角に
意味が理解できないものが祀られています。
経蔵
広場から西へ進むと経蔵と思われる土蔵がありますが、修理工事が行われていました。
太郎坊-鳥居
更に西へ進むと鳥居が建ち、横に石段がありますが、その奥にも石段が見え、
鳥居をくぐって奥へ進みます。
太郎坊-石標
石段の脇に太郎坊大権現の石標が建っています。
太郎坊-拝殿
拝殿
太郎坊-本殿
太郎坊大権現社は長命寺の総鎮守社となっています。
太郎坊-飛来石
社殿前の大きな岩は「飛来石」と呼ばれ、普門坊が愛宕山の岩を投げたとされています。
長命寺で修行した普門坊は、後に京都・愛宕山の愛宕権現を祀る白雲寺に住しました。
長命寺を懐かしみ愛宕山の岩を投げたのがこの岩と伝わります。
長命寺の寺伝では、第105代・後奈良天皇の時代(在位:1526年6月9日~1557年9月27日)に
長命寺にいた普門坊なる超人的力をもった僧が、寺を守護するため大天狗に変じ、
「太郎坊」と称したと伝わります。
「太郎」という名前には、最も優れたものや最も秀でたものとの意味が込められているそうです。
三上山
社殿前からは近江富士と呼ばれる三上山を正面に望むことができます。
陀枳尼天への石段
太郎坊大権現社の東側にある石段を上って進みます。
陀枳尼堂-1
陀枳尼堂-2
山側にに陀枳尼(だきに)天尊が祀られたお堂があります。
かっての、稲荷大明神が祀られた社殿がお堂の中に納められ、仏教の天尊に改められました。
如法行堂
陀枳尼堂の先の石段を下った所に如法行堂があり、堂内には「勝運・将軍地蔵尊」、
「智恵文殊菩薩」、「福徳・庚申(こうじん)尊」が安置されています。
鐘楼
如法行堂に隣接して建つ鐘楼は、上棟式の際に用いられた木槌の墨書きから
慶長13年(1608)に再建されたことが判明し、国の重要文化財に指定されています。
袴腰の柱の配置が下層は二間x二間(各面3.33m)ですが、上層は南北面、
東面は二間ですが西面のみ、撞木を吊る関係で三間(各面3.03m)にしたと考えられています。
鐘楼-梵鐘
梵鐘は鎌倉時代のものと見られ、県の文化財に指定されています。

日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)へ向かいます。
続く

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八幡山
八幡山
日牟禮八幡宮は長命寺から南東方向にバイクで約15分走った所にあります。
正暦2年(991)に標高271.9mの八幡山の山上に創建され、
寛弘2年(1005)には遥拝の社として麓に建てられたのが現在の日牟禮八幡宮です。
豊臣秀次像
八幡公園に建立されている豊臣秀次像
天正13年(1585)、豊臣秀次が山上に八幡城を築城すると、
天正18年(1590)に山上の社は、麓の日牟禮八幡宮に合祀されることになりました。
八幡宮のすぐ近くには八幡山ロープウェーの乗り場がありますが、
八幡城は築城されてから秀次の死に伴い10年後に廃城となり、
現在は石垣を残すのみとなりました。

豊臣秀次は、天正18年(1590)に尾張国清洲城へ移封された後、
文禄4年(1595)に謀反の疑いで切腹を命じられ、28歳で生涯を閉じました。
本丸跡には秀次の母で豊臣秀吉の姉である日秀尼(にっしゅうに)が
開基した瑞龍寺(ずいりゅうじ)が、昭和36年(1961)に京都、今出川堀川から移転しています。
八幡掘
八幡城が築城された際に、八幡堀も開削されました。
琵琶湖から5kmに及ぶ掘割の全体は「八幡浦」と称され、大津・堅田と並んで
琵琶湖の三大港の一つとして数えられました。
この水運を利用した交易は大いに栄え、堀沿いには白壁の土蔵などが建ち並び、
八幡城が廃城となってからも商家町として賑わいました。
「八幡商人」と呼ばれ、近江商人を代表するような存在となりました。
八幡宮鳥居
堀には橋が架かり、橋のたもとには日牟禮八幡宮の鳥居が建っています。
白雲館
また、鳥居から車道を挟んだ向かい側には明治10年(1877)に
建築された「白雲館」があります。
当初は学校として使用され、その後は役場や信用金庫の建物となり、
平成6年(1994)に建設当初の姿に復元されました。
現在は観光案内所などとして使用されています。
八幡掘+船
鳥居をくぐり、橋を渡っていると水郷巡りの船が通り過ぎて行きました。
エイリアンのような木-1
橋を渡った左側のイチョウの木はエイリアンを思わせます。
落雷で裂けたのでしょうか?
黒く焦げたイチョウの大樹の中に、何本もの細い木が寄生しているように見えます。
神門
神門には随身像が安置されていますが、ガラスと金網に阻まれ画像に収めるのが困難です。
神門+鳩
門には神使いとされている鳩が羽を休めていました。
狛犬-右
狛犬-左
門の裏側には狛犬が安置されています。
手水舎
門を入った左側に手水舎があり、背後に絵馬殿があります。
子供左義長
子供左義長のダシでしょうか?
毎年3月14、15日に近い土・日に行われる左義長祭は、豊臣秀次が八幡城を築城し、
麓を城下町として整備したことにより、日牟禮八幡宮の祭礼となったと伝わります。
左義長は、本来は正月の行事で、織田信長が安土城下で
盛大に行っていたことが記録に残されています。
豊臣秀次が城下を開くと、安土の人々も移住してきましたが、毎年4月14日前の
日曜日に行われる八幡祭の荘厳さに対抗するように3月に左義長祭が
行われるようになったと伝わります。
左義長祭と八幡祭は平成4年(1992)に国の無形民俗文化財に選定されました。
能舞台
門を入った右側には能舞台があります。
明治32年(1899)の能舞台改築の際、日牟禮八幡宮の能楽「日觸詣(ひむれもうで)」が
完成し、この舞台で初演されました。
神馬
境内には神馬が奉納されています。
拝殿
門の正面には拝殿があります。
社伝によれば、第13代・成務天皇(せいむてんのう/在位:131~190年)が、
志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや=現在の滋賀県大津市穴太)で即位した際に、
武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じ、現在地に地主神である
大嶋大神を祀られたのが、始まりとされています。
応神天皇6年(275)、第15代・応神天皇(在位:270~312年)が近江に行幸した際、
奥津島神社を参詣し、その神社の付近に御座所を設けたと伝わります。
奥津島神社と大嶋神社は、延文6年(1361)以前に現在の近江八幡市北津田町に遷座され、
「大嶋神社」と「奥津嶋神社」の二社が並び建っています。
その行幸の帰途、天皇は宇治の木幡村で日触使主(ひふれのおみ)の
娘・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)と出会い、后としました。
二人の間に生まれたのが菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)で、百済から来朝した
阿直岐(あちき)と王仁(わに)を師に典籍を学び、父・応神天皇から寵愛されました。
菟道雅郎子は異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=仁徳天皇)に
皇位を譲るべく自殺したとされています。

御座所跡には、その後、日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて
「日群之社八幡宮」と称し、持統天皇5年(691)に藤原不比等が参拝し、
詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められたと伝わります。
しかし、八幡宮の総本社である宇佐八幡宮が創建されたのは神亀2年(725)で、
それ以前に八幡宮と称されたかは疑問が残ります。
宇佐八幡宮が創建された後、日触使主を祖とする王仁氏(和珥氏)や
櫟井氏(いちいうじ)がこの地に定住したことで、所縁のある応神天皇を
八幡神として祀ったとのではないかと想像されます。
鳩の像
拝殿の片隅には向かい合う二羽の鳩の像が金色に輝いています。
本殿
拝殿横の石段を上った所に本殿があります。
正暦2年(991)、第66代・一條天皇の勅願により、法華峰(八幡山)に社を建て、
宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮が創建されました。
寛弘2年(1005)には遥拝の社を「下の社」として麓に建立され、
これが現在の日牟禮八幡宮と推定されています。
天正13年(1585)、四国を平定したことで豊臣秀次は、近江国の蒲生・甲賀・野洲・
坂田・浅井の5郡を領地とし、八幡山城を築いて居城としました。
日牟禮八幡宮の上の社は下の社へ合祀され、
山頂の尾根には三層の天守閣が築かれました。
上の社は日杉山に建設される予定でしたが、豊臣秀次が切腹となって
八幡城も廃城となり、上の社の計画は立ち消えとなりました。

日牟禮八幡宮の祭神・八幡大神とは、誉田別命(ほんだわけのみこと) 、
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、
比咩大神(ひめおおかみ)の三柱を総称したものです。
誉田別命は第15代・応神天皇で、息長帯姫命(神功皇后)は応神天皇の母親です。
比咩大神は、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、
多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神を指し、
神功皇后は三韓征伐の際、宗像三女神に航海の安全を祈願したと伝わります。
天満宮-鳥居
本殿の左側には、「天満宮」の扁額が掲げられた鳥居が建ち、中央に天満宮、
右に宮比社、左に常磐社が祀られています。
天満宮
天満宮は菅原道真を祭神とし、元は宮内町で祀られていたものが遷座されました。
社前には白と黒の臥牛像が奉納されています。
宮比社
宮比社には天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られ、
古くから百太夫社(ももだゆうしゃ)が合祀されています。
天宇受売命は、天照大御神の岩戸隠れ際、胸をあらわにして
妖艶な舞いを踊ったとされています。
百太夫社は西宮神社にも祀られ、人形遣い(傀儡師=くぐつし)達に信仰されていました。
その人形遣い達は後に淡路島へ移り、人形浄瑠璃を生み出しました。
宮比社は芸能の神かと思われますが、百太夫社には疱瘡(天然痘)に霊験のある神とされ、
庶民信仰では子供の病気予防のため、御神体の顔に塗られたおしろいを
子供の額に付けて、健康に育つようにとする習わしがありました。
常磐社
常磐社は、天照大御神、豊受大神、熱田大神、津嶋大神が祀られています。
天保13年(1842)八幡が尾張藩領になったのを機に、嘉永元年(1848)に
尾張地方に関係のある諸神を祀り城山に創建されました。
明治2年(1872)に繁元稲荷と共に現在地に遷座されました。
三社殿
北側には愛宕神社、子安神社、秋葉神社が合祀された社殿があります。
祈祷所-1
祈祷所-2
本殿の右側に祈祷所があり、本殿と渡り廊下で結ばれています。
大島神社
祈祷所の右側に大島神社があり、大国主命と
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=仁徳天皇)が祀られています。
「八幡宮遷座以前の地主神と伝え、徳川時代までは大嶋大明神または
両神と称した」と記されていますが、平安時代の延喜式神名帳に
記載されている大嶋神社は、近江八幡市北津田町の大嶋奥津嶋神社が比定されています。
神輿庫
大島神社の右側に神輿庫があります。
繁元稲荷神社
神輿庫の右側に繁元稲荷神社があり、宇加之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。
江戸時代の享保2年(1717)に稲荷山に勧請され、天保13年(1842)に当地が
尾張藩領になったとき山祇神(やまづみのかみ=山の神)が合祀されました。
以来、代官所の鎮守として祀られていましたが、明治22年(1889)に現在地に
遷座され、大正2年(1913)に幾つかの稲荷社が合祀されました。
八坂神社
繁元稲荷神社の右側に八坂神社があり、建速須佐雄命(たけはやすさのおのみこと)と
少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。
明治の神仏分離令以前は「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」とも称されていましたが、
以後は同体とされる建速須佐雄命へ祭神が変更されました。
大正5年(1916)に粟島神社が合祀されています。
恵比須神社
八坂神社の右側に恵比須神社があり、事代主命(ことしろぬしのみこと)と
金山彦命(かなやまひこのみこと)が祀られています。
西宮神社から分霊し、もと新町に鎮座してましたが、現在地に遷座されました。
大正3年(1914)に針の社を合祀されました。
岩戸神社
恵比須神社の右側に岩戸神社があり、 憧賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかき・ いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)が祀られています。
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命は伊勢国の五十鈴宮に坐す神とあり、
「往年、近江の人は毎年伊勢神宮に参詣していたが、
それができない年の代参の社」として祀られていたようです。

次回は百済寺から桑実寺(くわのみでら)を巡ります。

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日吉神社
湖東三山は、西明寺・金剛輪寺・百済寺の三つの天台宗寺院の総称で、琵琶湖の東側、
鈴鹿山脈の西山腹に位置し、紅葉の名所と知られ、
日本の紅葉名所百選にも選ばれています。
最も京都寄りにあるのが百済寺で、125ccバイクは名神高速道路を
使えない悲しさから、自宅からの距離は80km余りなのに
途中休憩を含め2時間半を要しました。
百済寺へ向かい、最初に目にするのは赤門で、その前には
「日吉神社御旅所」と刻字された石柱が建っています。
見過ごしてしまいましたが、手前には和銅5年(712)に創建された日吉神社がありました。
百済寺は寺伝では推古天皇14年(606)に聖徳太子によって開かれ、
後に延暦寺の勢力下に入り、天台宗に改宗されました。
延暦寺が創建されたのは延暦7年(788)であることから、
日吉神社も創建当初は産土神を祀っていたのかもしれません。
その後、百済寺が天台宗寺院となってからは、「日吉山王権現」、
「日吉十禅社」と称され、明治の神仏分離令で「日吉神社」に改められました。
峻徳院殿廟所
赤門の東側200m奥には峻徳院殿廟所(井伊直滋墓所)がありますが、
鎖で参道は閉ざされているようなので、先へは進みませんでした。
毎年6月8日に百済寺住職により「峻徳院殿墓参」が行われているようです。
井伊 直滋(いい なおしげ:1612~1661)は、彦根藩第2代藩主・井伊直孝の
長男でしたが、父と度々対立し、万治元年(1658)に廃嫡(はいちゃく)されて、
百済寺で出家しました。
井伊直孝・直滋親子は百済寺の再興に尽力されました。
直滋は寛文元年(1661)に百済寺で亡くなりました。享年50。
赤門
赤門からの参道が表参道となります。
阿弥陀堂
門をくぐってしばらく進むと右側に阿弥陀堂があります。
供養塔
阿弥陀堂の向かい側に天文法華の乱・戦士供養塔があります。
天文5年(1536)7月に延暦寺の衆徒が、洛中洛外の拠点 21ヵ寺を焼き払い、
法華宗徒を武力で洛外へ追放しましたが、その際、
出陣した百済寺僧兵の戦死者の供養碑です。
極楽橋
赤門から50mほどの先に架かる極楽橋は、手前が「此岸」、渡り終えると「彼岸」となります。
かってこの橋から本堂まで多くのの僧坊が建ち並び、「石垣参道」と称されたそうです。
戦国時代に来日した宣教師のルイス・フロイスは、
「地上の天国 一千坊」と絶賛したと書簡に残しています。
また、橋の袂に「矢杉」と呼ばれる杉の木と、その付近に「ねずみ地蔵」が祀られています。
時間が遅れていた関係で表参道は極楽橋の手前までしか行かず、
それより先の画像はありません。
元亀4年(1573)4月、織田信長に抵抗を続けていた六角承禎(ろっかく じょうてい)が
百済寺の近くにあった鯰江城(なまずえじょう)に籠城しましたが、
百済寺は六角氏に味方しました。
百済寺は鯰江城に僧兵や兵糧を支援し、六角軍の妻子を匿うなどをしたため
同月11日に信長軍の襲撃を受けました。
その時、ネズミたちが矢を僧兵に運んで助け、「矢杉」の梢からは無数の矢が
飛び出して信長軍に対抗した、という伝説があります。
しかし、百済寺は全焼しましたが、本尊の植木観音は約8㎞離れた奥の院に
避難させて難を免れました。
奥の院は明治時代に本坊隣に移されました。
また、「ねずみ地蔵」の先に「蛇封じの井戸」がありますが、詳細は不明です。
通用門
通用門下の駐車場まで登り、拝観受付となっている
本坊の喜見院(きけんいん)へ向かいます。
百済寺は山号を釈迦山(しゃかさん)と号する天台宗の寺院で、
神仏霊場・第141番、聖徳太子霊跡・第34番、近江西国三十三観音霊場・第16番などの
札所となっています。

寺伝では推古天皇14年(606)に聖徳太子の勅願によって開かれた
近江最古の仏教寺院とされています。
当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈(えじ)と共にこの地を訪れた
聖徳太子は、山中に不思議な光を見出しました。
太子はその光を発しているのが杉の霊木であることを見つけ、その杉を
根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音像(植木観音)を造り、
像を囲むように堂を建立しました。
その木は上半分が切られていて、百済の龍雲寺の十一面観音が刻まれ、
東向きに安置されたと伝わります。
百済寺では西向きに安置され、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので
百済寺と号したとされています。
一方で、渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高いとの見方もあります。

平安時代からは延暦寺の勢力下に入り、「湖東の小叡山」や
「天台別院」とも称されるようになりました。
寺の規模は拡大され、北谷・東谷・西谷・南谷に300近い坊を持つようになりました。
しかし、明応7年(1498)の火災と文亀3年(1503)の兵火により創建以来の
建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類などの大半を焼失しました。
喜見院
本坊の喜見院は、かっては仁王門付近にあり、千手坊と呼ばれていました。
寛永11年(1634)に天海大僧正の弟子・亮算(りょうさん)が入山して
喜見院に改め、昭和15年(1940)に現在地に移され、庭園が築かれました。
書院
本坊の書院か客殿でしょうか?
千年菩提樹-下
本堂脇の「千年菩提樹」の子株が植栽されています。
不動堂
建暦3年(1213)、百済寺は延暦寺塔頭・無動寺の末寺となったことが記録に残されています。
無動寺は千日回峰行の拠点で、百済寺でも比叡山に倣い背後の山を越えた
8㎞先(現・東近江市百済寺甲)に不動堂を建立して奥の院と呼び、
回峰修行が盛んに行われるようになりました。
元亀4年(1573)の織田信長による焼き討ちの際は、本尊を不動堂に遷して難を逃れました。
明治時代に不動堂は現在地に移築され、堂内に安置されている
鎌倉時代後期作の不動三尊像は東近江市の文化財に指定されています。
下馬碑
不動堂の脇に立つ下馬碑は小野道風が参拝した際に直筆したものとされています。
庭園入口
不動堂の横を奥へ進むと池泉回遊式庭園が築かれています。
池-1
池には平らな石が配され、その上を渡って進みます。
滝組-1
池の奥には滝が組まれ、自然の谷川の水が石の間を渓流となって流れ、
池に落ちるように造られています。
滝の脇には「不動石」が配されています。
池-2
池を半周しました。
遠望への石段
滝からは緑の中を石段が続き、それを登ると遠望台があります。
遠望-看板
遠望
遠望台からは湖東平野、その右側に太郎坊宮、安土城跡、
琵琶湖対岸の比叡山や比良山系が望めます。
石垣
遠望台先の石垣は六角氏が文亀年間(1501~1503年)に着工したとされる
城砦(じょうさい)の遺構です。
元亀4年(1573)の織田信長による焼き討ちで、建物は悉く焼失し、
寺坊の石垣も持ち去られ安土城の石垣となりました。
弥勒像
参道を右に外れると全高3.3mの弥勒菩薩半跏思惟の石像が祀られています。
寺宝である像高27cmの金銅製弥勒像(秘仏)を模して2000年の
ミレニアムを記念して造立されました。
仁王門への石段
参道に戻ると石段の先に、本堂と同時期に建立され、
市の文化財に指定されている仁王門が見えてきます。
仁王門
仁王門前には大きな草鞋が吊るされています。
当初は仁王像に相応しい50cm程度の大きさでしたが、江戸時代中頃から
仁王門を通過する参拝客が健脚・長寿の願をかけるようになりました。
草鞋が大きくなればご利益も大きくなるということで、草鞋が段々大きくなり、
現在では3mほどの大きさになりました。
約10年毎に新調されているそうです。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像は、門と同時期に造立されたのでしょうか?
長く門番をされているのか、少々負傷されているようです。
弁天堂
仁王門をくぐり参道を進んだ右側に池があり、その中に弁天堂があります。
慶安3年(1650)に本堂と共に再建されましたが、昭和の豪雪で倒壊し、
平成8年(1996)に新しく造り替えられました。
しかし、平成24年(2012)春に風で倒壊し、現在の弁天堂は翌25年に再建されたもので、
「七転び八起きの弁天様」として信仰を集めています。
観音杉
参道の正面には石垣が積まれ、その上に本堂があります。
参道の石段は石垣の下まで続き、そこで右側に折れますが、
その角に境内最大の樹木で、樹齢430年と推定される「観音杉」が聳えています。
三所権現社
本堂の右側には三所権現社があり、市の文化財に指定されています。
本堂と同時期に建立され、熊野三山の主祭神が祀られています。
画像はありませんが三所権現社から右手に入った所に五重塔跡があり、
礎石が残されています。
五重塔が創建されたのは鎌倉時代と考えられています。
その後、百済寺は4度の焼失があり、塔は明応7年(1498)と文亀3年(1503)に焼失しました。
昭和26年(1951)に発掘調査が行われ、心礎位置から高さ21cm、
径19cmの信楽焼の壺が発掘されました。
文亀3年の焼失後に塔が再建され、舎利容器として埋められたと推定されています。
本堂-横
本堂の側面
現在の本堂は慶安3年(1650)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
元亀4年(1573)の織田信長による焼き討ち以前の本堂は、現本堂の裏側にありました。
焼き討ち後の天正12年(1584)に堀秀政により仮本堂が再建され、
寛永11年(1634)に天海大僧正の弟子・亮算(りょうさん)が入山して百済寺が再興されました。
享保年間(1716~1736年)には四谷の坊舎は37坊、僧60数名まで復興されましたが、
慶応元年(1865)には5坊にまで減少し、明治の神仏分離令後は喜見院1坊を
残すのみとなり、坊舎は廃棄され、僧は山を去りました。
本堂-斜め前
本尊は信長の焼き討ちでも難を逃れた像高2.6mの十一面観音立像で、
脇侍として室町時代作の聖観音菩薩坐像と如意輪観音菩薩半跏思惟像
安置されていますが、いずれも秘仏です。
御前立として院祐作の聖観音菩薩坐像と如意輪観音菩薩半跏思惟像が安置されています。
閻魔像
閻魔+賓頭盧尊者
堂内外陣には閻魔大王像と賓頭盧尊者像が安置されています。
五重塔
また、五重塔の模型や聖徳太子元服姿立像が祀られています。
聖徳太子元服姿立像は、平成3年(1991)に滋賀県主催の
世界陶芸祭ワークショップ会場で陶芸家・島林氏により造形されたものです。
千年菩提樹-上
本堂の左側には樹齢約千年と推定される菩提樹が葉を茂らせ、「千年菩提樹」と称されています。
信長の焼き討ちの際、幹まで焼損しましたが根は無事であったため、幹の周囲から蘇ってきました。
中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当しているそうです。
鐘楼
千年菩提樹の左側に鐘楼があります。
梵鐘
初代の鐘楼は信長の焼き討ちの際に持ち去られ、
江戸時代に鋳造されたものは戦時供出されました。
現在の梵鐘は昭和30年(1955)に鋳造された三代目で、
余韻の長さと音色の美しさで「昭和の名鐘」と謳われ、自由に撞くことができます。
表門
参道を下ると表門があります。
更に参道を下ると赤門へと続きますが、駐車場の方へ戻り、永源寺へ向かいます。
続く

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上流
愛知橋の上流
川の水は昨日までの雨で濁っています。
下流
下流
永源寺をスマホのナビで検索すると、愛知川(えちがわ)上流の愛知橋を渡り、
そこから山側へ登るように指示されます。
しかし、永源寺会館の駐車場があり、そこから山側の先は土砂崩れで通行止めとなり、
寺側は関係者以外の乗り入れが禁止されていました。
永源寺会館の駐車場も関係者以外駐車禁止になっていますので、
脇の空き地にバイクを置き、寺まで歩くことにしました。
茶筅塚
5分余り歩くと受付がありますが無人で、本堂脇の志納所で
入山料500円を納めるようにと注意書きがされています。
その先に茶筅塚があります。
永源寺では、永源寺を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師の
生誕日5月15日に近い日曜日に「寂室禅師奉賛茶会」が行われています。
風穴-1
茶筅塚から下ると風穴がありますが、この窪んだ所がそうなのかと思い、
石垣に手を当ててみましたが風は感じませんでした。
専用道場
風穴から左に曲がると専用道場がありますが、一般には開放されていません。
含空院
右側にある含空院は10月30日~11月28日まで庭園が公開されています。
(拝観料:お菓子、お抹茶付きで500円)
含空院は永和3年(1377)に考槃庵(こうはんあん)として創建され、
足利義持が入山の際に含空院と改められました。
その後、永禄6年(1563)の兵火で焼失した後、
現在の建物は正保4年(1647)に再建されました。
蔵
含空院の右側に蔵があります。
標月亭
蔵の右側に標月亭がありますが、非公開です。
経堂
含空院から少し下った南側に経堂があります。
応永11年(1404)に創建され、現在の経堂は延宝4年(1676)に再建されました。
傅大士
堂内前面には傅大士(ふだいし)とその長男・普建、
及び次男の普成(ふしょう)の像が安置されています。
傅大士は中国・南北朝時代の在俗仏教者で、大蔵経を閲覧する便をはかって、
転輪蔵を創始しました。
転輪蔵
堂内中央には転輪蔵があり、明版大蔵経が納められています。
開山堂
経堂の向かい側に開山堂があります。
享保10年(1725)に彦根藩第8代藩主・井伊直惟(なおのぶ)より
能舞台の寄進を受け再建されました。
永源寺を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師が祀られています。
寂室元光は、正応3年5月15日(1290年6月23日)に美作国(みまさかのくに)高田
(現在の岡山県)で生誕し、13歳で山城国三聖寺(東福寺塔頭)で出家しました。
元応2年(1320)に元(中国)へ渡り、天目山の中峰明本(ちゅうほう みんぽん)に参禅し、
中峰から寂室の道号を与えられました。
嘉暦元年(1326)に帰国してから25年間は中国地方、中部地方など各地を行脚し、
正平16年/康安元年(1361)に近江守護・六角氏頼(ろっかく うじより)の帰依を得て、
永源寺を開山しました。
師・中峰の隠遁的な禅を受け継ぎ、世俗から離れ、生涯黒衣の平僧として過ごしました。
法堂
開山堂から下った所に「大雄宝殿」と称される法堂(はっとう)があります。
創建当初は大雄宝殿と称し、現在の建物は享保13年(1728)に再建されました。
法堂は、僧侶が仏教を講義する建物で、堂内に安置されている釈迦牟尼佛・
迦葉尊者・阿難尊者の三尊像は第108代・後水尾天皇から寄進されました。
鏡文字
法堂の東側にある池には「永源寺」の文字が
水面に反射すれば読めるように掲げられています。
観音像-1
観音像-2
池のから奥へと進むと観音像が祀られています。
禅堂
法堂の向かいには禅堂があります。
方丈
法堂から下ると方丈(本堂)があります。
古例の法要が行われる道場で、正平16年/康安元年(1361)に
近江守護・六角氏頼(佐々木氏頼)により「安心室」と号して創建されました。
寂室元光を慕い2千人余りの僧が入寺し、56坊もの末庵を有するまでに栄えました。
応仁の乱(1467~1478)では京都五山の名だたる高僧も当地に避難して修行をされました。
明応元年(1492)、次いで永禄6年(1563)と二度も大きな戦火を受けて全山焼失し、
衰亡の危機にありましたが、寛永20年(1643)に一糸文守(いっし ぶんしゅ)が招かれ、
再興されました。
一糸文守は岩倉家の祖である岩倉具堯(いわくら ともたか)の三男で、
近衞信尋(このえ のぶひろ)などの公家と交流があり、第108代・後水尾天皇とも近侍しました。
一糸文守は永源寺に入った3年後、正保3年(1646)3月19日、39歳で逝去され、
没後30年目の延宝3年(1675)に後水尾院より「定慧明光仏頂国師」の号を贈られました。
永源寺は後水尾天皇や東福門院、彦根藩などの帰依を受けて再興されました。
現在の建物は明和2年(1765)に井伊家の援助により再建されました。

創建当初、山号は「飯高山」と号していましたが、開創後「瑞石山」と改号されました。
正面広縁の開山・寂室禅師の真蹟「瑞石山」には、「石」の字の口の上に丶が付けられています。
「石」が角のない丸石に対し、「丶」付きの石」は角のある割れ石を意味していると伝わります。
明治6年(1873)に明治政府の政策により、臨済宗東福寺派に属したましが、
明治13年(1880)に永源寺派として独立しました。

本尊は「世継観世音菩薩」で、寂室元光禅師が元からの帰途、嵐に見舞われ船が
難破しかけましたが、禅師が祈りを捧げると海上に白衣の観世音菩薩が顕れ、嵐が治まりました。
禅師が永源寺を開山すると、寺の東の峰から光明が放たれ、禅師がそこを訪れると
大きな石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
禅師は、元からの帰途、嵐の海上に顕れた観世音菩薩であると確信して中国から仏師を招き、
かって修行した中国の土で観世音菩薩を造らせました。
その像の額の宝冠の中に、小さな観世音菩薩の像を埋め込み本尊としました。
佐々木氏頼の子・満高は跡取りに恵まれませんでしたが、本尊に熱心に祈願したところ、
9代目の当主となる満綱が誕生し、いつしかこの本尊は「世継観世音菩薩」と
呼ばれるようになりました。
現在は秘仏とされています。
鐘楼
本堂の向かい側には安永元年(1772)に再建された鐘楼があります。
梵鐘は戦時供出され、昭和23年(1948)に再鋳されました。
宗務所
方丈の西側に志納所や庫裡及び宗務所があります。
鉄筋コンクリート造りで、昭和54年(1979)に建立されました。
志納所では朱印を受けることができ、永源寺は神仏霊場・第140番札所となっています。
不動堂
宗務所の向かい側には不動堂があり、休憩所になっているようですが
当日は施錠されていました。

山門は寛政7年(1795)に井伊家の援助等により着工され、5年の歳月を経て
享和2年(1802)に竣工し、滋賀県の文化財に指定されています。
五間三戸二階二重門ですが、画像を撮り忘れました。
上層には釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩及び十六羅漢像が安置されています。

バイクを置いた所まで戻り、太郎坊宮(阿賀神社)へ向かいます。
続く

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一の鳥居
永源寺から太郎坊宮へはバイクで約30分で移動できますが、途中でコンビニに寄り、
昼食をとったため約1時間を費やし、予定より1時間遅れの12:30過ぎとなりました。
現在の三重県四日市市から鈴鹿山脈の八風峠を越えてきた
八風街道沿いに一の鳥居が建立されています。
この鳥居は明治27年(1894)に建立されました。
鳥居をくぐった所に無料駐車場があり、正式に参拝するならここに駐車すべきと
思いつつも、時短のためバイクで先へ進みます。
二の鳥居
一の鳥居から北上した所に二の鳥居が建ち、その手前右側に無料駐車場があり、
その西側に御神田があります。
毎年5月の第三日曜日には地域の五穀豊穣と諸業繁栄を祈念する
お田植大祭が行われています。
背後の赤神山(標高357.2m)は太古から神奈備として信仰されてきました。
山頂には奥ッ磐座(いわしろ)、山麓には辺ッ磐座が祭祀場として残されています。
また、赤神山には正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神
(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が降臨されたと伝わります。
正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神は天照大御神の第一皇子神で、天照大御神がいつも
小脇に抱えて「此の脇の子」といってかわいがっていたことから、
この地は「小脇町」と呼ばれています。
麓からの石段
鳥居をくぐり参道を進むと石段が見えます。
その脇にある駐車場には、「本堂までの石段数742段、山上駐車場まで491段、
山上の駐車場もご利用ください」と記されていますので、
491段の石段を短縮することにしました。
参集殿
山上駐車場の上には巨大な参集殿があります。
祈祷殿
駐車場の西側には祈祷所があります。
車のお祓いや本殿まで参拝できない方の祈祷が行われます。
天狗
祈祷所の背後には願掛け天狗が奉納されています。
先ず社殿に参拝し、天狗に願いを込めて祈ります。
次に天狗の持つ「神威玉」を両手でさわり、心と病のある方は悪いところを撫で、
祈願すれば...と記されています。
絵馬殿
参道の石段が込み合っていましたので、向かいの絵馬殿の方へ渡りました。
絵馬殿は大正14年(1925)に建立されました。
絵馬-1
絵馬-2
絵馬殿には建立された当時に奉納された絵馬が掲げられています。
絵馬殿から先は裏参道で、こちらの方は空いているので、先へ進むことにしました。
不動明王-1
細く流れ落ちる滝があります。
不動明王-2
滝には不動明王が祀られています。
祠前に建つ総花崗岩造りの拝所は昭和5年(1930)に建立されました。
不動明王-手水舎
手水はカラス天狗の口から出ています。
福助
しばらく進むと福助の像が祀られています。
福助は実在した人物がモデルとなり、自分の容姿に模した像を造って
売り出しのが始まりとされています。
一説では、享和2年8月(1802年9月)に長寿で死去した摂津国西成郡安部里
(現在の大阪市)の佐太郎がモデルとされています。
佐太郎は障害を持って生まれ、短身で大頭だったとされ、
近所で笑い者となったことを憂いて東海道を下りました。
江戸で「福助」として見世物に出演すると評判となり、旗本に召し抱えられると
その家が栄えたと伝わります。
その後、人形を造って売り出すようになると、「福の神の人形」、
「願いを叶える人形」叶福助として流行したと伝わります。
福禄寿
先には七福神が祀られ、最初に福禄寿が祀られています。
大黒天
鳥居の脇に大黒天が祀られています。
恵比須
その先には恵比須神が祀られています。
一願成就社-鳥居
その先にも鳥居が建っています。
一願成就社
一願成就社があります。
画像はありませんが、社殿の裏側にお百度道があり、
この社殿で祈願してお百度参りを行うそうです。
一願成就社-天井
社殿の格子天井には草花の絵が描かれています。
鎮魂窟
一願成就社の右上方に鎮魂窟があり、 神道行法の鎮魂法が修されています。
「自分の霊魂を丹田に鎮め、霊魂を安定・充足・強化させる」修法のようです。
詳しいことは知りませんが、結構深そうで暗い洞窟に入るにも勇気がいりそうです。
弁才天
鎮魂窟の上には弁財天の石像が祀られています。
毘沙門天
鎮魂窟から登った所に毘沙門天が祀られています。
寿老人
更に登ると寿老人が祀られています。
地主神社先の鳥居
寿老人の先に鳥居が建っています。
地主神社-入口
鳥居の手前から下った所に地主神社があります。
地主神社
生成発展の神・縁結の神と記されています。
地主神社-穴
社殿の右側に深く穴が掘られています。
井戸のために掘られたとする説もあるようですが、詳細は不明です。
布袋尊
参道に戻り、鳥居をくぐった先には布袋尊が祀られています。
参拝所
石段を上った先に参拝所があり、参拝所に取り囲まれた中に本殿があります。
聖徳太子は赤神山(太郎坊山)の北東にある箕作山(みつくりやま)に
四天王寺の瓦を焼くために、瓦屋寺を創建しました。
ほぼ同時期に正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神
(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)を祀る社殿を創建し、
赤神山から「阿賀神社」と称したと伝わります。
延暦18年(799)、最澄は阿賀神社の麓に神宮寺として成願寺を創建しました。
その際、赤神山に棲んでいた天狗の太郎坊が現れ、建設の手伝いをしたと伝わります。
太郎坊は役行者の兄弟子で、江戸時代の書物には夫婦岩が太郎坊の住まいと記され、
人間は立ち入るべきでないとされていました。
尚、弟の次郎坊は愛宕山に棲んでいたとされることから、年代の相違はあるものの
長命寺の太郎坊権現社との関係性が伺えます。

やがて、阿賀神社と成願寺は神仏習合し、50余りの坊舎や社殿が建立され発展しました。
成願寺の本尊・薬師如来の縁日である八日には市が立ち、町も発展していき、
隆盛を極めるようになりました。
成願寺は阿賀神社境内の最高所に奥之院を作り、そこに太郎坊大権現像を
祀るようになると、阿賀神社は成願寺の管理下に置かれて名称も両者を合わせて
「太郎坊宮」と呼ばれるようになり、修験道の霊場となりました。
永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始しましたが、
六角義賢(ろっかく よしかた=六角承禎/じょうてい)は、
信長の援軍要請を拒否して交戦しました。
この戦に巻き込まれ、太郎坊宮は炎上し、荒廃しました。
阿賀神社は村人や氏子などによって再建され、成願寺は江戸時代になって
寛永17年(1640)に復興されました。
延宝年間(1673~1681)に村人と成願寺との間に対立が起こり、
阿賀神社は成願寺の管理下から離れることになりました。
宝暦3年(1753)、成願寺は奥之院にあった太郎坊大権現像の他、
いくつかの仏教関係の宝物を成願寺本堂に移して「太郎坊大権現」と称し、
阿賀神社は成願寺の奥之院を新たに阿賀神社の本殿に改め、
「太郎坊宮」と称するようになりました。
明治の神仏分離令により、阿賀神社と成願寺は完全に分離し、
明治5年(1872)には修験道が廃止されました。
明治9年(1876)、「太郎坊宮」という名称は規制を受け、正式名称を阿賀神社とし、
後に通称で「太郎坊宮」と呼ばれるようになりました。
明治42年(1909)に近隣10社の神を相殿に祀るようになりました。
大正13年(1924)に本殿の前に参拝所が設けられました。
夫婦岩-1
本殿の先にある岩は「夫婦岩」と呼ばれています。
高さ数十mあり、大神の神力により二つに裂かれ、その間には幅80cm、
長さ12mに及ぶ通路があります。
山側の岩を「男岩」谷側の岩は「女岩」と呼ばれ、「この岩の間を通って参拝する者は、
即座に病苦を取り除き諸願が成就するが、悪心ある者は岩に挟まれる」との
言い伝えがあります。
東近江市の天然記念物に指定され、それによると赤神山は中生代白亜紀
(凡そ7千万年前)の火山活動でできたと考えられ、「湖東カルデラ」と呼ばれています。
山は「湖東流紋岩」で構成され、火成岩は冷えて固まるときに収縮し、
「節理」と呼ばれる規則的な割れが生じ、夫婦岩は節理に沿って割れ目が
発達したものと解説されています。
夫婦岩-2
夫婦岩に挟まれること無く、無事に通り過ぎた所に銅の鳥居が建っています。
板金加工が施された珍しい鳥居で、昭和32年(1957)に設置されました。
火防の稲荷
山側に火防の稲荷・二見神社と十二社神社があります。
腰掛石
腰掛岩
源義経は鞍馬山から下り、奥羽に向かう途中、阿賀神社に参詣し、
源氏の再興を祈願したと伝わります。
その時、腰を掛けた岩が「腰掛岩」として伝えられています。
稲荷神社
赤神山稲荷社
愛宕神社-1
愛宕神社-2
赤神山愛宕社
根上がりの御神木
根上がりの御神木
拝殿
拝殿は夫婦岩の下に建ち、背後に神楽殿が付帯します。
拝殿は江戸時代末期、神楽殿は明治時代中期に建築されました。
永安殿
拝殿の崖下に明治40年(1907)に建立された永安殿があります。
神楽演奏所兼社務所として建築されましたが、社務所は現在、参集殿の中に移されました。
手水舎
永安殿の向かい側の岩棚に手水舎があります。
「竜神舎」と称され、龍の口からは御霊水が流れ出ています。

手水舎から頂上へのハイキングコースがありますが、しばらく登ると
下山して来る人と出会い、山頂までまだ時間がかかりそうなのを聞いて、
途中で断念して引き返しました。
祭器庫
手水舎から下った所に昭和13年(1938)に建立された祭器庫があります。
長楽殿
祭器庫から下ると昭和5年(1930)に建立された長楽殿があります。
集会施設で永安殿へ渡る空中階段が付属します。
参集殿-下山路
参集殿で阿賀神社または、太郎坊宮の朱印を受けることができます。

観音正寺へ向かいます。
続く

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