カテゴリ: 奈良県

鎌倉時代の伽藍図
自宅を午前9:10に出発してバイクで般若寺へ向かい、
1時間余りで般若寺の駐車場に到着しました。
楼門
現在は駐車所に面して北側に拝観受付がありますが、
かって「京街道」と呼ばれた通りに面して楼門が残されています。
般若寺は奈良市の北方、興福寺から「奈良坂」と呼ばれる登り坂を登りきった所にあり、
山号を法性山と号する真言律宗の寺院です。
西国薬師四十九霊場・第3番と関西花の寺二十五霊場・第17番札所であり、
「コスモス寺」とも呼ばれています。
般若寺は治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで焼失し、衰退しました。
鎌倉時代に真言律宗の宗祖で西大寺の僧・叡尊と観良房良慧(かんりょうぼうりょうけい)に
よって七堂伽藍の再建が行われました。
楼門は鎌倉時代の文永4年(1267)に再建されたもので、日本最古の楼門遺構として
国宝に指定されています。
正門として南大門、中大門があり、楼門は廻廊の西門でしたが、南大門、中大門は
戦国時代の兵火で失われました。
十三重石塔
境内に入った右側に総高14.2m、基壇辺12.3mの十三重石宝塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
十三重石宝塔は天平7年(735)に都を奈良へ遷した聖武天皇が、
平城京の鬼門を守るため『大般若経』を塔の基壇に納め卒塔婆を建てたとされ、
寺名の由来にもなりました。
南都焼き討ちの際に失われ、南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)、
伊行吉らにより建長5年(1253)頃に再建されました。
十三重石塔+薬師
薬師像
基壇には東に薬師、南に釈迦、西に阿弥陀、北に弥勒の
顕教四仏(けんぎょうしぶつ)が刻まれています。
また、宝塔の東側に薬師如来坐像が安置され、
西国薬師四十九霊場・第3番の札所本尊になっています。
相輪
宝塔の脇に初代相輪が置かれています。
南北朝か室町時代の大地震で落下し、三つに割れました。
室町時代の再建時に二代目が新造され、初代は裏山に埋められましたが、
昭和時代に国道(現県道)が旧般若寺境内を分断する形で造られた時に、
工事現場から発見されました。
現在の相輪は昭和の大修理の際に、初代を模して造られた四代目で、
二代目は本山・西大寺本坊の庭で保存されています。
三代目は元禄16年(1703)に青銅製で造られ、現在は般若寺で保存されています。
カンマン石
境内に入った正面にはカンマン石があります。
「カンマン」とは不動明王を象徴する種字(梵字)で、石の上には不動明王像が祀られています。
「この石の突起部にお腹や背中を押し当てると健康が増進する」と記されています。
背後には秋の花だと思っていたコスモスが、初夏にもかかわらず咲き誇っています。
阿弥陀像
コスモスの花の中に阿弥陀仏の石像が祀られています。
まかばら石
参道を楼門の方へ進んだ右側に霊石「まかばら石」が祀られています。
「まかばら」は光明真言に由来し、それを略した「オン・マカバラ・ウン」の呪文を唱え、
石の頂を右回りに3周撫でると、運気が上昇するとの伝承があります。
何時の頃からか境内の片隅にあって、大切に守られてきました。
釈迦像
「まかばら石」の左側に釈迦如来の石仏が祀られています。
護良親王供養塔
阿弥陀仏の石像の手前まで戻り、北側へ進んだ所に、大塔宮・護良親王
(おおおとうのみや・もりよししんのう)の供養塔があります。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に
門室を置いたことから「大塔宮」と呼ばれました。
6歳の頃に当時、岡崎大塔宮敷地に本坊があった梶井門跡(後の三千院)に入り、
正中2年(1325)に門跡を継承して門主となり、嘉暦2年(1327)には天台座主に就きました。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である
元弘の乱を起こすと、還俗して参戦しました。
笠置山で挙兵したのですが、幕府軍に攻められて陥落し、後醍醐天皇は捕えられ、
護良親王は般若寺へと逃れました。
幕府方の追手が五百の兵を率いて般若寺を探索したとき、護良親王は経蔵にあった
大般若経の唐櫃に身を潜めて難を逃れたと伝わります。
その後、護良親王は吉野へと逃れましたが、吉野も陥落し高野山へと落ち延びました。
元弘2年/正慶元年(1332)、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、
同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発しました。
隠岐島へ配流されていた後醍醐天皇も島から脱出し、
伯耆国(ほうきのくに)の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました。
足利高氏(尊氏)が幕府へ反旗を翻したこともあり、
六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。
討幕に勝利し、後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、
兵部卿に任じられて上洛し、足利尊氏は鎮守府将軍となりました。
足利尊氏と確執があった護良親王は、尊氏暗殺のための兵を集めましたが、
後醍醐天皇の命を受けた兵により捕えられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られました。
護良親王は元弘の乱に際し、討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことから、
父・後醍醐天皇との関係は良くなかったとされています。
護良親王は鎌倉将軍府に送られ、尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれましたが、
翌建武2年(1335)、諏訪頼重が鎌倉幕府再興のために挙兵し、中先代の乱を起こしました。
関東各地で足利軍が北条軍に敗れ、鎌倉に護良親王を将軍、北条時行を執権とする
鎌倉幕府が再興され建武政権に対抗する存在になることを恐れた足利直義の命により、
二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は殺害されました。
明治維新後、東光寺跡に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造られました。
鐘楼
供養塔の北方向に鐘楼があり、手前にはアジサイが花を咲かせています。
鐘楼は元禄7年(1694)に再建されましたが、工事の際に地中にあった
石室から如意宝珠が見つかったとの記録が残されています。
現在、如意宝珠は失われ、納められていた箱のみが保存されています。
梵鐘は室町時代の延徳3年(1491)に鋳造されたのですが、興福寺に移され、
西大寺奥之院から江戸時代初期に鋳造されたとみられる現在の梵鐘が移されたと伝わります。
平和の塔
鐘楼の北側に平和の塔があります。
被爆直後の広島の町でくすぶっていた火をカイロに移し、20年後に福岡県星野村の
役場前に平和の塔が建てられ火が移されました。
般若寺には国内で3番目に分火され、昭和64年(1989)に建立されました。
核兵器が廃絶されるまで火は灯し続けられるそうです。
天満宮
平和の塔の奥に天満宮と思われる祠があります。
観良房良慧大徳追慕塔
鐘楼から南方向へ進んだ所に般若寺中興願主上人 
観良房良慧大徳(かんりょうぼうりょうけいだいとく)の追慕塔があります。
治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで焼失し、衰退した般若寺境内で
「大善巧の人(だいぜんぎょうのひと)」が復興を始めました。
その人物の詳細は不明ですが、東大寺の復興に携わった人物と推定されています。
大善巧の人は、十三重石宝塔の基台と初重の大石を積んだところで絶命されました。
基台と初重の軸部はそれぞれ15tの大石となります。
その後、観良房良慧がその遺志を継ぎ建設現場に居住して完成させました。
施工したのは東大寺の復興で重源上人が南宋から招いた伊行末(いぎょうまつ)の
石工集団で、石の切り出し、運搬、彫刻、積み上げと大変な労力と莫大な費用を
要したと推測されます。
また、観良房良慧が願主となり、叡尊上人に率いられた西大寺教団により諸堂の建設と、
仏像が造られました。
文永4年(1267)に諸堂が建立され、本尊の開眼供養が営まれました。
本堂前の石灯籠
本堂の手前右側に立つ総高3.14mの石灯籠は鎌倉時代のものですが、
竿と笠部分は後補となります。
古来「般若寺型」または「文殊型」と呼ばれ、火袋部には鳳凰、獅子、牡丹唐草の浮彫があります。
本堂前の地蔵
本堂の手前左側には水掛地蔵尊が祀られています。
奈良町の住人が宝暦4年(1754)に先祖供養のために造立したもので、
十数年前に東の山中から発見されました。
水掛地蔵尊の右側にある手水石船は、寛文7年(1667)に現在の本堂が
再建された際に寄進されたものです。
本堂
本堂(文殊堂)
般若寺は寺伝では、舒明天皇元年(629)高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされ、
天平7年(735)に聖武天皇が伽藍を建立し、
十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したとされています。
学問寺として千人の学僧を集め栄えましたが、治承4年(1180)の平重衡による
南都焼き討ちで焼失し、衰退しました。
鎌倉時代に西大寺の僧・叡尊と観良房良慧によって七堂伽藍の再建が行なわれ、
鎌倉時代後期には後醍醐天皇の御願により倒幕祈願の文殊菩薩(現在本尊)が造像されました。
像胎内には「金輪聖主御願成就」と記されています。
踏み蓮華石
しかし、延徳2年(1490)の火災で叡尊上人が12年を費やして造立した
丈六の文殊菩薩騎獅像が焼失しました。
本堂前には、その踏み蓮華石が祀られています。
その大きさから獅子の足は直径1mはあったと推定されます。
永禄10年(1567)には東大寺大仏殿の戦いで、
松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失しました。
江戸時代に本堂が再建されるなど復興しましたが、明治の廃仏毀釈で甚大な被害を受け、
寺は荒れ果てて無住となり、西大寺の管理下に置かれるようになりました。
第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されましたが、
客殿は実業家・畠山一清によって東京都港区白金台に移築されました。
観音像
本堂の両側及び背後の左側に西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られています。
江戸時代の元禄16年(1703)に山城国相楽郡(現・京都府精華町)の
寺島氏が病気平癒の御礼に寄進されました。
当初は十三重石塔の基壇上に安置されていましたが、
昭和の大修理の際に現在地に遷されました。
力石
本堂の左側に「般若寺本性房の力石」があります。
本性房は怪力を持った般若寺の僧で、元弘元年(1331)の元弘の乱では笠置山に馳せ参じ、
山上から幕府軍へ大石を投げつけたと伝わり、JR笠置駅前にその像が立っています。
6個の石が並べられ、約20㎏の石は「持てる女石」、約30kgの石は「持てる男石」、
約50kgの石は「持てない石」と名付けられています。
石塔部材群
力石の北側には、鎌倉・室町・戦国時代の石塔部材群が並んでいます。
戦国時代、般若寺の南西700mには、永禄3年(1560)に松永久秀によって築城が開始された
多聞山城(現在は奈良市立若草中学校敷地)がありました。
標高115mでかっては「眉間寺山(びかんじやま)」と呼ばれ、鎌倉時代には眉間寺があり、
付近は墓所でした。
城はそれまでには無かった礎石と石垣を使用して、壁には分厚い土壁、瓦葺の屋根の
恒久的な建物を築いて奈良の街の支配と大和全体を睨んだ拠点の先進的な平山城でした。
城内には本丸(詰の丸)に主殿、会所、庫裏の座敷など豪華な建築が建ち並び、
連結した西の丸は通路沿いに重臣の屋敷や、家臣の家が建てられました。
「高矢倉」と呼ばれた四階櫓がありこれが四重の天守で日本初の天守とされ、
塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりとされています。
永禄7年(1564)に城が完成し、その壮麗さはヨーロッパまで名を知らしめたと伝わります。
永禄8年(1565)、それまで連合していた三好三人衆は筒井順慶と連合し、
松永久秀に向けて進軍を開始しました。
永禄10年(1567)4月に三好連合軍は東大寺に布陣し、
大仏殿を要塞化して多聞城に対峙し南都を制圧しようとしました。
これに対し、松永久秀は同年10月10日に東大寺に襲いかかり東大寺大仏殿の戦いとなりました。
この戦いで松永久秀は勝利したのですが、多聞山城から東大寺周辺の屋敷地を破却しつつ
布陣した久秀の兵火により、般若寺の主要伽藍を焼失しました。
永禄10年(1567)9月織田信長は足利義昭を奉じて上洛し義昭を将軍位に就けました。
当初、松永久秀は織田信長に服属したのですが、足利義昭が画策した信長包囲網に加わり、
天正元年(1573)に織田軍に多聞山城を包囲され降伏しました。
天正4年(1576)に織田信長は大和の守護に筒井順慶を任命し、
郡山城以外の城の破却を命じました。
多聞山城の建物は解体されて京都に運ばれ、旧二条城に活用されましたが、
本能寺の変の際に織田信忠と共に焼失しました。
諸石類は筒井城の石垣に、後に郡山城に転用されました。
般若寺に残る石塔部材群は多聞山城跡の住宅地(かっての般若野)から
寺へ奉納されたものと考えられています。
南朝の石碑
本堂の裏側を西へ進んだ所に「南朝御聖蹟 般若寺」と刻字された石碑が建っています。
南北朝時代、般若寺は南朝側に与(くみ)していました。
地蔵堂
参道の北側には地蔵堂があります。
宝蔵への門
本堂の裏側に参道を挟んで門があり、鎌倉時代にはこの奥に講堂があり、
薬師如来が祀られていました。
門の手前に「秘仏 白鳳阿弥陀如来」と刻字された石碑が建っています。
昭和39年(1964)に十三重石宝塔の解体修理が行われた際に党内から発見された、
像高28.8cmの小金銅仏です。
宝蔵
現在の般若寺の境内図にはこの門を入った右側に宝蔵があると記されていますが、
これがその宝蔵でしょうか?
見た目にはここにその秘仏が保管されているかは疑問に思えます。
八不亭
本堂の裏側にお休み処の「八不亭(はっぷてい)」があります。
八不亭の名は『中論』「八不の偈(げ)」、「不生不滅、不常不断、不一不異、
不来不去(ふこ)」に由来しています。
『中論』は日本では八宗の宗祖と崇められているインドの大乗仏教を理論づけた
龍樹(りゅうじゅ)の著作です。
龍樹の『中論』『十二門論』、その弟子・提婆(だいば)の『百論』を合わせた「三論」を、
中国・隋代に嘉祥大師吉蔵(549年~623年)が『三論宗』として大成させました。
般若寺を開基した高句麗の僧・慧灌(えかん)は、吉蔵から三論を学び、
日本に初めて『三論宗』を伝えました。
鎮守社
本堂裏の参道を東に突き当たった所に桃山時代の鎮守社があり、
伊勢・春日・八幡の三社が合祀されています。
真言律宗では、伊勢は金胎両部の大日如来の垂迹神、春日は法相の垂迹神、
八幡は仏教の守護神とされています。
忍性石碑
鎮守社前を北へ進んだ先に「忍性菩薩利生塔」があります。
忍性(にんしょう)は鎌倉時代の建保5年7月16日(1217年8月19日)に
現在の奈良県磯城郡三宅町で生まれました。
貞永元年(1232)に死の床にあった母の懇願により、大和国・額安寺(かくあんじ)に
入って出家し官僧となり、天福元年(1233)には東大寺戒壇院にて受戒しました。
延応元年(1239)に叡尊が主導していた西大寺の再建に勧進聖として加わり、
叡尊に惹かれて再度叡尊の下で受戒してその弟子となりました。
寛元元年(1243)、般若寺の北東に北山十八間戸を創設し、
ハンセン病などの重病者を保護・救済しました。
北山十八間戸は永禄10年(1567)の東大寺大仏殿の戦いで焼失し、
寛文年間(1661~1672)に奈良市川上町454の現在地に移りました。
全長約38m・幅約4mの東西に長い棟割長屋で、内部は18室に区切られ、
東西に仏間があります。
大正10年(1921)3月3日に国の史跡に指定されました。
寛元2年(1244)には亡母13回忌追善供養として文殊供養と非人に施粥を行いました。
また、般若寺に丈六の文殊菩薩像を安置しました。
その後、建長4年(1252)には本格的な布教活動のために関東へ赴き、
弘長元年(1261)に鎌倉に拠点を置くと、文永4年(1267)に極楽寺を開山しました。
永仁2年(1294)に四天王寺別当に任命され、悲田院・敬田院を再興し
石の鳥居を築造しました。
嘉元元年(1303)、極楽寺において87歳で亡くなり、
嘉暦3年(1328)に後醍醐天皇より忍性菩薩の尊号を勅許されました。
笠塔婆
忍性菩薩利生塔から南へ進み、本堂の右側(東側)に鎌倉時代の笠塔婆二基があり
、国の重要文化財に指定されています。
右側の南塔の総高4.46m、左側の北塔の総高4.76mあり、
笠塔婆形式の石塔では日本最古の作例とされています。
弘長元年(1261)7月に石工・伊行吉(いぎょうきち)が父・伊行末の一周忌に当り
その追善と現存の悲母の供養のために建立しました。
当初は寺の南方にあった般若野五三昧(南都総墓)の入口、京街道に面して建っていましたが、
明治の廃仏毀釈で破壊され、明治25年(1892)に般若寺境内に移設・再建されました。
室町時代の頃には平重衡の墓とみられ、能の謡曲「笠卒塔婆」の題材となりました。
笠塔婆-支え金具
笠塔婆の左側にある笠塔婆の支え金具は、明治25年(1892)の再建時に使用されたもので、
1889年にパリ万博のエッフェル塔用の鋼材して開発された錬鉄製で、フランスで製作されました。
昭和33年(1958)の再修理の際に取り外されました。
藤原頼長供養塔
笠塔婆の南側に藤原頼長の供養塔があります。
藤原頼長は保安元年(1120)5月に藤原北家、
摂政関白太政大臣・藤原忠実の三男として誕生しました。
頼長は少年時代に父親の言葉を聞かなかったため落馬し、この頃から学業に励むようになり、
その後、「日本一の大学生(学者)、和漢の才に富む」と言われるほど
その学識の高さを賞賛されました。
頼長の日記『台記』は当代随一の学識者による同時代の記録であり、
院政期の歴史を研究するうえでの貴重な基礎資料となっています。
但し、文学には疎く、和歌や漢詩も得意ではなかったとされています。
自他共に厳しく苛烈な性格で、「悪左府」と呼ばれましたが、この「悪」も現代でいう
「悪い」という意味ではなく、むしろ性質・能力・行動などが型破りであることを畏怖した表現です。
出世を重ねて要職を歴任し、保延2年(1136)には内大臣、久安5年(1149)には左大臣に進みました。
天治2年(1125)に頼長は後継者に恵まれなかった兄・忠通の養子となりましたが、
康治2年(1143)に忠通に嫡男・藤原基実が生まれると、忠通と頼長は対立するようになり、
頼長を推す忠実と忠通も対立しました。
忠実は一家の後継を意味する宝物・朱器台盤を、忠通から奪取して頼長に与え、
これにより頼長は氏長者(藤原一門の長)・内覧(天皇の奏聞・宣下に先立って
朝廷の重要文書に目を通し、天皇に報告・補佐する役職)となりました。
執政として儒学を重視し、政治の刷新や粛正を厳格に推し進め、会議に遅刻した
公卿の屋敷を燃やしたり破壊させたり、反対派を暗殺するなど、他の貴族や寺社との
反発や対立を多く生み、その苛烈振りに鳥羽法皇とも対立するようになりました。
久寿2年(1155)7月23日に近衛天皇が崩御すると、頼長と忠実が呪詛したからだと噂が広がり、
頼長は謹慎、内覧は停止されました。
この間に皇位継承は、頼長と対立していた美福門院や信西の策動で
守仁親王(後の二条天皇)の中継ぎとして雅仁親王(後の後白河天皇)が即位しました。
保元元年(1156)に鳥羽法皇が崩御すると、その直後に頼長に謀反の疑いがかけられ、
財産が没収されました。
この事態に頼長は崇徳上皇を擁して挙兵を決断し、源為義・為朝父子や
平忠正(平氏の棟梁平清盛の叔父)を味方につけましたが、
その戦力は摂関家の私兵集団に限定され、甚だ弱小で劣勢は明白でした。
後白河天皇も藤原氏・源氏・平氏の味方を集め、源義朝と平清盛が崇徳院側の本拠地に
夜襲を仕掛け、一晩のうちに崇徳院側は総崩れとなり、
頼長は敗走中に矢に当たり、重傷を負いました。
最後の頼みの綱であった奈良の忠実の元へ向かうが、面会を拒まれ、失意の内に力尽きました。
遺骸は般若野に埋葬されましたが、信西の命によって暴かれ、
検視されるという恥辱を受ける羽目となりました。
保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われましたが、
安元3年(1177)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が都で連発し、
朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐れるようになりました。
同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を
「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈されました。
経蔵
藤原頼長の供養塔の南側に経蔵があります。
鎌倉時代に再建されましたが、解体修理の結果、当初は床の無い全面開放の
建物であったことが判明し、何に使われていたかは不明です。
鎌倉時代末期に経蔵に改造され、国の重要文化財に指定されています。
元弘の乱の際は、護良親王は経蔵にあった大般若経の唐櫃に身を潜めて難を逃れたと伝わります。
本尊として室町時代作の十一面観音像が安置されていますが、旧超昇寺の脇仏でした。
三界万霊碑
経蔵の南側に戦国時代の三界万霊碑があります。
生きとし生けるものが平等に成仏できるようにと願った供養塔で、
戦国時代の合戦での物故者及び般若野(南都総墓)に葬られた
おびただしい数の亡者を弔ったものとされています。

笠置寺へ向かいます。
続く

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池
龍泉寺は大峯山の登山口・洞川(どろがわ)にあり、
山号を「大峯山」と号する真言宗醍醐派の寺院で、役行者霊蹟札所及び
近畿三十六不動尊霊場の第31番札所です。
公共交通機関を利用の場合は、近鉄吉野線の「下市口」駅から
奈良交通バスの洞川温泉行で終点まで約1時間20分乗車しますが、
平日だと下市口駅発9:20を逃すと14:20まで便がありません。
当日はバイクを利用し、約2時間半かけて龍泉寺へ参拝しました。
龍泉寺の駐車場の奥に透明な水を湛えた池があり、
池を見ているだけで心が洗われるような気がして疲れも癒されます。
修行大師像
池の奥の方には修行大師像が祀られています。
総門
車道に戻り、少し下って総門へ向かいます。
龍泉寺が立地する洞川は昭和21年(1946)に大火があり、
境内の殆どの建物が焼失したため、
昭和35年(1960)に伽藍の復興が行われています。
第一水行場
門を入った右側に第一水行場があります。
池の中には正面に役行者、右側に不動明王像が祀られています。
大峯山への修験者はこの行場で禊を行います。
水子地蔵尊
その前に水子地蔵尊が祀られています。
なで石
左には「なで石」があります。
駒札には『なでると軽く持ち上がり、叩いて持ち上げると重くなるという
龍泉寺に古くから伝わる不思議な石。
生き物にも心があるように、石にも心がある。
常にこの石をなでるときのような気持ちで、何事にも接することを、
この石は教えてくれているのではないでしょうか。』と記されています。
本堂
水行場に架かる橋を渡った先に本堂があります。
本堂前には右側に前鬼、左側に後鬼像が本堂を守護しています。
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたと伝わり、
前鬼と後鬼を従え、水を汲み薪を採らせていたとされています。

伝承によれば、白鳳時代(645~710)に大峯を開山し、修行していた
役小角(えん の おづの /おづぬ:634~701)がこの地へ下り、
泉を発見して「龍の口」と名付け、その畔に小堂を建てて、
八大龍王を祀ったのが始まりとされています。
役小角が大峯開山の際に「一之行場」として開いた
「蟷螂(とうろう)の岩屋(洞窟)」がここより約1km上流にありますが、
寺が開かれてから約200年後、その岩屋に雄雌の大蛇が住着き、
修験者に危害を加えました。
それからは大峯山を訪れる人も途絶え、寺も寂れました。
そこで、醍醐寺を開いた理源大師・聖宝(しょうぼう832~909)が、
真言の力で大蛇を退治し、寺を再興したと伝わります。
堂内には本尊である弥勒菩薩と、役行者、弘法大師、理源大師、
不動明王像が安置されています。
不動明王は「一願不動明王」と称され、
一願成就の御利益があるとされています。
賓頭盧尊者像
本堂前には賓頭盧尊者像が安置されています。
紫燈護摩道場
本堂の右側に紫燈(さいとう)護摩道場があります。
利剣
正面には不動明王を象徴する利剣と左に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、
右に制多迦童子(せいたかどうじ)の像が建立されています。
三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)では、不動明王が右手に持つ
降魔の三鈷剣は、不動明王の象徴そのものであり、貪・瞋・痴の三毒を破る
智恵の利剣であるとされています。
魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切とされています。
紫燈護摩道場-不動明王
背後には中央に不動明王、右側に役行者、
左側に理源大師が祀られています。
龍の口-1
紫燈護摩道場の右側に「龍(たつ)の口」があり、岩窟より霊水が湧き出て、
水行場へと流れています。
龍の口-2
龍泉寺が創建される由来となった泉であり、伝承も残されています。
『龍の口に棲む白蛇は、龍泉寺で修行しながら働く、
まじめな寺男に惹かれ、女に姿を変えて寺男の家に住着きました。
そして、いつしか二人は夫婦になり、かわいい男の子が産まれました。
しかし、ある日その女の正体が白蛇であることが寺男に知られ、
白蛇は龍の口へ帰りました。
その時、白蛇は自分の目玉を繰り抜き、子供に与え、
「目を亡くしたので昼夜の区別がつくように朝に六つ、暮れに七つ、
お寺の鐘を鳴らしてください」と告げました。
子供は、目玉をなめて育ち、龍泉寺の鐘は、毎日鳴らし続けられた』と
伝わり、鐘は今も撞かれているそうで、
同様の伝承は三井寺にも残されています。
石仏
左側には多数の石仏が祀られています。
龍王橋
龍の口の少し下流に龍王橋が架けられています。
善女龍王
橋を渡って龍の口の方へ戻った所に善女龍王が祀られています。
善女龍王は八大龍王の一王・娑伽羅龍王(しゃがらりゅうおう)の
三女とされています。
天長元年(824)、空海(774~835)が干ばつで人々が飢えと渇きで
苦しんでいた時に、第53代・淳和天皇(在位:823~833)も命により、
神泉苑の池畔で雨乞いの祈祷を行いました。
空海は、北印度の無熱池の善女龍王を勧請して祈祷すると、
三日三晩に渡って雨が降り続き、
池からは金色に輝く善女龍王が出現したと伝わります。
光明白龍王
また、光明白龍王が祀られた祠などがあります。
多数の石仏
奥の方に石段があり、石段の右側には多数の石仏が並んで祀られています。
龍王の滝
石段を登った右側に龍王の滝があります。
龍泉寺が女人解禁された際に、女性修験者の水行場として建設されました。
不動堂
滝の右側には不動堂があり、不動明王像が安置されています。
八大龍王堂
龍王の滝から下ってきた所に八大龍王堂があり、八大龍王が祀られています。
八大龍王は天龍八部衆に所属する龍族の八王で、法華経(序品)に登場し、
仏法を守護しています。
洞川から大峯山を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、
八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっています。
八大龍王堂-天井
堂内の天井には龍の図が描かれています。
修験門-上
八大龍王堂から車道の方へ進んだ所に修験門があります。
修験門-下
修験門から車道を下り、総門を超えた先にも修験門があります。
鐘楼
修験門を入った右側に鐘楼があります。
寺務所
鐘楼の前方に寺務所があります。
寺務所-玄関
玄関
庫裏
寺務所の右側に庫裏があります。
彦根城にあった第123代・大正天皇(在位:1912~1926)の
行在所を移築したものです。
神聖殿
庫裏の右側に納経所を挟んで神聖殿があり、神変大菩薩、
聖宝理源大師の精霊が泰安されています。

天河弁財天社へ向かいます。
続く
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鳥居
龍泉寺から県道21号線を戻り、国道309号線へ右折した先の「川合」の
信号を左折して県道53号線を進んだ先に天河弁財天社があります。
明神鳥居と太鼓橋は平成10年(1988)に新築されましたが、
天川村は平成23年(2011)の台風12号により、約8割の家屋が浸水する
という大きな被害を受けました。
天河弁財天社でも約2mの高さまで浸水し、太鼓橋が浮き上がり、
その後修復されました。

天河弁財天社がある地は、日本で最初に海から隆起した所であり、
神武天皇が「日本(ひのもと)」を霊感した所とも伝わります。
高野・吉野・熊野の三大霊場を結んだ三角形の中心地でもあり、
役行者(634~701)が大峯山を開山した際に弁財天を勧請し、
弥山(標高1,895m)の鎮守として祀られたのが天河弁財天社の始まりとされ、
山頂には奥宮として弥山神社が残されています。
その後、第40代・天武天皇(在位:673~686年)により現在地に
社殿が建立され、「天の安河の宮」と称されました。
平安時代の弘仁年間(810~824)に空海(774~835)は、高野山の開山に
先立って大峯山で修行し、最大の行場を天河社とし、
「琵琶山妙音院」と称しました。
天河弁財天社には、空海が唐より持ち帰ったとされる密教法具など、
遺品が多数残されています。
本殿への石段
太鼓橋を渡った正面に本殿への石段があります。
五社殿
石段の途中に五社殿があり、手前から「龍神大神」、「代将軍大神」、
「大日霊貴神(おおひるめのむちのかみ)」、「天神大神」、
「大地主神(おおどころぬしのかみ)」が祀られています。
「龍神大神」は、弁財天の化身とされる龍神の神が祀られています。
「代将軍大神」は八ツの社の内、森本神社の祭神とされています。
「大日霊貴神(おおひるめのむちのかみ)」は、天照大御神の別名です。
「天神大神」には菅原道真が祀られています。
「大地主神(おおどころぬしのかみ)」は琵琶山の地主守神と
されています。
天石-1
社殿前に「天石」が祀られ、その云われとして次のように記されています。
天石-2
『大峰弥山を源流とする清流は天の川にそそがれ坪内(壺中天)で蛇行し、
その形は龍をしのばせる。
 鎮守の森、琵琶山の磐座に弁財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す。
この地は「四石三水八ツの社」と言われ、四つの天から降った石、
三つの湧き出る清水、八つの社に囲まれし処とされ、神域をあらわす。
その内三つの天石を境内に祀る。』
拝殿
拝殿の鈴は五つからなり、「五十鈴(いすず)」と呼ばれています。
天照大御神が天岩屋戸に籠られた時、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、
ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、
岩屋戸の前にて舞を舞われ、岩屋戸が開かれたことに由来しています。
また、拝殿には能舞台があり、能舞台を含めた拝殿は、
辨財天の別名「妙音天」から「妙音院」と称されています。
本殿
本殿には市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、
熊野坐大神(くまのにますおおかみ)、吉野坐大神、南朝四代天皇の御霊、
神代天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)より百柱の神が祀られています。
明治の神仏分離令により、祭神が弁財天から市杵島姫命に改められました。
役行者堂
本殿の横から裏側へ下る石段があり、下った所に役行者堂があります。
役行者堂-天石
役行者堂の左側に「天石」が祀られています。
舟形の石
何か由来のありそうな舟形の石が置かれていますが詳細は不明です。
斉灯殿
役行者堂から石段を登って本殿へ戻り、
本殿から下って駐車場の方へ進んだ所に平成12年(2000)に
新しく建て替えられた斉灯殿があります。
斉灯殿では千年間護り続けられている燈明が祀られています。
平成23年(2011)の洪水でも、寸前のところまで浸水しましたが、
灯は消えることは無かったそうです。
宝物殿
宝物殿も階段の最上部まで浸水したそうです。

如意輪寺へ向かいます。
続く
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鳥居
天河弁財天社から国道309号線まで戻り、北西方向へ進んだ先に
丹生川上神社・下社があります。
平成30年(2018)に神仏霊場会に加盟し、神仏霊場の奈良・第29番札所となりました。
また、日本最古の水神を祀る神社として日本遺産に登録されています。
鳥居の前に丹生川が流れ、初代・神武天皇(在位:BC660~BC585)が大和平定の際、
丹生川を遡り、戦勝を占って天神地祇(あらゆる神々)を祀ったと伝わります。
その後、白鳳4年(675)に第40代・天武天皇(在位:673~686)が
丹生川の川上に水神を祀れば雨を降らし、長雨を止めるとの神託を受け、
社殿が造営されました。
太鼓(古)踊りは、祈止雨祈願がかなった人々が、
喜びのあまり神前に集まって踊ったことに起源を持つと伝わり、
県の無形民俗文化財及び日本遺産に指定されています。
丹生川
丹生川の流域には丹生神社が点在していたと伝わり、
かって、その丹生社の鳥居が洪水で流れてきたので、それを拾って御神体として
祀ったのが丹生川上神社・下社の創祀とされています。
また神社背後の丹生山の山頂には祭祀遺跡と思しき四角形の石群が
残されているそうです。
但し、この丹生川の上流には丹生川上神社の中社や上社は無く、
丹生川の下流は吉野川に合流しています。
上社は東の山並みを超え、吉野川から山側へ登った川上村迫にあり、
中社は上社から北の吉野川支流・高見川沿いに立地しており、
吉野川を基準にすると上社が最も上流に位置し、その下流で高見川、
次いで丹生川が合流しています。

江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、
「式内大社 丹生川上神社」については当時「丹生大明神」と称していた
当神社に比定する説が有力となりました。
その後、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年(1710)に
第114代・中御門天皇(在位:1709~1735)の勅使が差遣されたのを始め、
時には祈雨の奉幣がなされるようになりました。
また嘉永6年(1853)に黒船が来航すると、
翌7年に第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)が当神社に宣旨を下して
国家安泰を祈願し、文久2年(1862)には攘夷を祈願するなど、
二十二社の1社として遇されました。
文久3年(1863)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭(1823~1865)や
中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により
本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失しました。
馬
鳥居をくぐった右側に白馬と黒馬が飼育されています。
天平宝字7年(763)、幣帛の他、黒毛の馬が奉献されたとの記録が残され、
古くから朝廷より雨を祈り黒馬を、晴れを祈り白馬が献上されました。
平安京へ都が遷ると貴船神社に受け継がれ、絵馬へと発展し、
丹生川上神社が「絵馬発祥の地」とされています。
平成23年(2011)8月25日に発生した台風12号は、
紀伊半島に甚大な被害をもたらし、「紀伊半島豪雨」とも呼ばれました。
翌年、その災害復興を祈り「白馬献上」の祭事が行われ、
室町時代に途絶えて以来、約600年ぶりに復興されました。
発祥致福
「祓いの人形(ひとがた)」人形をした紙を、
日々の罪と穢れと共に流すためのものです。
側面には「発祥致福(しょうをはっし、ふくをいたす)」と記され、
「めでたい事が生じて、幸福を招きよせる」との意味が込められています。
二の鳥居
その左側の石段上に二の鳥居が建ち、その正面に拝殿があります。
拝殿
現在の拝殿は文久3年(1863)の兵火で焼失後、明治34年(1901)に再建され、
「平成の修復」が行われて全ての社殿が銅板葺に葺替えられました。
75段の階
本殿は拝殿から75段の階(きざはし)で結ばれています。
現在の本殿は文久3年(1863)に被災後、明治18年(1885)に修築された
三間社流造で、棟には千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が置かれています。
以前は高龗神(たかおかみのかみ)が祀られていましたが、
大正11年(1922)10月12日に内務省告示で丹生川上神社上社・下社は
中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされ、
下社の祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)に改められました。
龗(おかみ)は龍の古語であり、「水の湧き出るところ」という意味もあります。
上社の祭神、高龗神は日光の降り注ぐ山の高い所の神で、「闇(くら)」は
日の光が届きにくい山の谷間を意味し、下社の祭神となりました。
産霊石
拝殿前の右側に祀られている「産霊石(むすびいし)」は、男根と女陰が
重なり合っているように見え、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と
神皇産霊尊(かみむすびのみこと)の御神体とされています。
天地開闢(かいびゃく)の時、天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の
次に高皇産霊尊、その次に神皇産霊尊が高天原に出現し、
造化の三神」と呼ばれています。
神皇産霊尊は女性とされ「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、
高皇産霊神とともに「創造」を神格化した神とされています。
御神木
拝殿の左側奥に御神木である欅の大樹が聳えています。
幹回り4~5m、樹高30mで推定の樹齢は500年とされています。
井戸
拝殿の左側に井戸があり、「名水いのちの水、丹生の御食(みけ)水」と
記されています。
大昔から枯れることなく、森を育むために必要な水を祀った神社として、
御神木と共にこの井戸が神社を象徴しているように思われます。
社務所
境内の左側に社務所があります。
多羅葉
社務所前、右側の深い緑の木は「多羅葉」で、葉の裏に固い物で文字を書くと、
文字が黒く浮かび上がります。
上手に乾燥すると20年経っても文字が読めるとされ、葉書の語源ともなっています。
牛石と蛙石
社務所から左前方に「牛石」と「蛙石」があり、牛は伏せているように、
蛙は飛び跳ねているように見えます。
牛はじっくりと物事を見極め、粘り強く歩み、
一方蛙は瞬時に獲物を捕らえる瞬発力を持っています。
「静」と「動」の対照的な性格を持つ二つの石が並び置かれています。

如意輪寺へ向かいます。
続く
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小判井戸-標石
丹生川上神社・下社から国道309号線を北へ進み、
その先で吉野川沿いの国道169号線を東へ進み、「吉野大橋北詰」の
信号を右折して橋を渡って県道37号線を進んだ左側に「小判井戸」があります。
延元元年/建武3年12月21日(1337年1月23日)、吉野の行宮に遷った
第96代/南朝初代・後醍醐天皇(在位:1318~1339)が飲料として使用し、
文禄3年(1594)に豊臣秀吉(1537~1598)が吉野山で花見の宴を催した際には
茶の湯として用いたと伝わります。
小判井戸
今でもこんこんと清水が湧き出ています。
裏門
その先、右側へ下った先に如意輪寺の駐車場があります。
山号を「塔尾山(とうのおさん)」、院号を「椿花院(ちんかいん)」と号する
浄土宗の寺院で、役行者霊蹟札所近畿三十六不動尊霊場の第三十番の札所です。
平安時代の延喜年間(901~922)に日蔵上人(905?~967?)によって開かれ、
当初は真言宗の末寺でしたが、その後荒廃し、慶安3年(1650)に浄土宗の
文誉鉄牛(ぶんよてつぎゅう)上人によって復興され、浄土宗の寺院となりました。
不動堂
裏門をくぐり参道を進んだ先に不動堂があり、
難切不動尊が祀られています。
不動堂-堂内
石像では日本最大とされ、
近畿三十六不動尊霊場の第三十番札所本尊でもあります。
元は吉野に登る途中の不動坂に祀られていましたが、
約60年前に信者がお告げを受け、如意輪寺に遷されました。
不動坂に祀られていたとき、「牛車が転落したがその農夫の身代りとなって
左手を負傷され、人命を救助された」という記録があるそうですが、
傷痕らしきものは確認できませんでした。
向かって左に制多迦童子(せいたかどうじ)、右に矜羯羅童子
(こんがらどうじ)の石像が安置されています。
鐘楼
鐘楼
旧・役行者堂
以前は役行者堂として堂内には役行者像が安置されていました。
猫不動
現在では役行者像は権現堂へ遷され、猫不動像が安置されています。
表門
西側にある山門が表門です。
菊厄玉
表門には菊厄玉が吊るされ、「下をくぐって厄を払う」と記されています。
本堂
門の正面に本堂があります。
建立当初は、約12畳の大きさで「如意輪堂」と呼ばれていましたが、
江戸時代に改修されて現在の大きさとなりました。
本尊として如意輪観音が祀られています。
腰掛石
本堂前には後醍醐天皇の腰掛石があります。
如意輪寺は、吉野に行宮を構えた際に、後醍醐天皇の勅願時と定められ、
南朝の勅願時ともなりました。
木斛の木
木斛(もっこく)の木は楠木正成(1294~1336)の手植えとされています。
至情塚
本堂の左側に「至情塚」があります。
第97代/南朝第2代・後村上天皇(在位:1339~1368)に仕えていた
女官・弁内侍(べんのないし:生没年不詳)は、天皇から
楠木正行(くすのき まさつら:?~1348)の妻になるように
薦められましたが、正行は正平3年/貞和4年(1348)に四條畷の戦いで敗れ、
自害して果てました。
弁内侍はその後、正行の菩提を弔うために尼僧となり、
ここに黒髪を納めたと伝わります。
寺務所
境内の北側にある寺務所は納経所であり、拝観受付が行われています。
拝観料は500円で、桜の季節は8:30~17:00、それ以外は9:00~16:00まで
受付が行われています。
御霊殿-1
受付から入った右側に後醍醐天皇御霊殿があります。
御霊殿-2
堂内は非公開ですが、南朝歴代天皇の御尊牌が祀られているそうです。
権現堂
正面に権現堂があり、役行者像などが安置されていますが、
堂内の撮影は禁止されています。
二河白道の庭
左へ折れて進んだ右側に築かれている庭園は「二河白道の庭」と称されています。
火の河と水の河を人の貪欲と怒りにたとえ、
この間にある白い道は極楽に通じる道とされています。
宝物殿
更に左へ進んだ正面に宝物殿があり、
天井には寝て拝む日本最大の観音像が油絵で描かれています。
蔵王権現立像
蔵王権現立像は、仏師・源慶(生没年不詳)により嘉禄2年(1226)に造立され、
後醍醐天皇の念持物であったとされています。
国の重要文化財に指定され、延元元年/建武3年(1337)に作成された
厨子に納められていましたが、現在は別々に展示されています。

紙本著色吉野曼荼羅図は奈良県の文化財に指定されています。

木造阿弥陀如来立像は平安時代前期の作とされています。

その他、楠木正行(くすのき まさつら:?~1348)が四條畷の戦いに
出陣する時に、一族郎党は壁板に名を録し、正行が扉に鏃(やじり)で
「かゑらじとかねておもへば梓弓(あずさゆみ)なき数に入る名をぞとどむる」
との辞世の歌を書き残したと伝わり、その扉が展示されています。
また、正行が着用していた兜や鎧などが展示されています。
宝物殿-裏側
宝物殿の裏側からは展望が開け、金峯山寺から吉野水分神社へ至る
メインストリートの方が望めます。
報国殿
宝物殿から右奥の、吉野造りで建てられている報国殿の方へ下りますが、
報国殿は一般公開されていません。
父子像
その手前に楠木正成(1294~1336)と正行が桜井駅での別れを表した像が
造立されています。
多宝塔
報国殿を通り過ぎ、北へと登って行くと多宝塔があります。
塔内には阿弥陀仏が祀られているそうですが非公開です。
髷塚碑文
有料拝観エリアから出た東側に小楠公(楠木正成)髷塚碑文が建ち、
その背後に御霊殿の御門があります。
御門には菊の紋があしらわれ、皇族方の参拝時と後醍醐天皇の命日に行われる
後醍醐天皇御忌法要のときにのみ開かれます。
髷塚(もとどりづか)碑は慶応元年(1865)に、紀州藩氏・津田正臣(1841~1896)
によって建てられました。
津田正臣は、楠木正成の18世の子孫にあたるとされ、
尊皇思想の持ち主であり、討幕派の森田節斎(もりた せっさい:1811~1868)に
碑文の選を依頼しました。
髷塚
御門の東側に髷塚があります。
正平2年/貞和3年(1347)、楠木正行の一族郎党143名は四條畷の戦いに臨み、
死を覚悟して如意輪寺に詣で、髻(もとどり)を切って本堂へ奉納し、
それを埋めた所とされています。
後醍醐天皇陵への石段
その右側に後醍醐天皇陵への石段があります。
世泰親王の墓
石段の途中で右側に進んだ所に
世泰親王(ときやすしんのう:生没年不詳)の墓があります。
世泰親王は南朝の第3代天皇・長慶天皇(在位:1368~1383)の皇子で、
生前の事績については一切不明です。
また、親王墓は明治12年(1879)に宮内庁に治定され、
現在は宮内庁の管理下にあります。
塔尾陵-1
更に石段を登った所に後醍醐天皇の塔尾陵(とうのおのみささぎ)があります。
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333)に後醍醐天皇は、天皇が自ら政治を
行うとして、自らの退位と北朝初代・光厳天皇(在位:1331~1333)の
即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、
幕府・摂関を廃して建武の新政を開始しました。
しかし、その施策の大半が政権批判へとつながり、
武士勢力の不満が大きかっただけでなく、
公家たちの多くも政権に冷ややかな態度をとるようになりました。
建武2年(1335)には足利尊氏(1305~1358)が新政から離反し、
後醍醐天皇は新田義貞(1301~1338)に尊氏追討を命じました。
足利尊氏は九州へと逃れ、翌年には態勢を立て直し、京都へと迫りました。
後醍醐天皇は楠木正成と新田義貞に尊氏追討を命じましたが、
新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れました。
後醍醐天皇は吉野へ逃れて朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と
吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まりました。
塔尾陵-2
後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に如意輪寺は勅願所とされました。
延元4年/暦応2年(1339)8月15日に天皇は病で倒れ、
義良親王(のりよししんのう=後の村上天皇)に譲位して、
翌日、吉野金輪王寺で崩御されました。
「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕(ほっけつ=京都の皇居)
の天を望まん」と病床で詠まれた歌に従い、天皇の遺体は座ったままの姿で、
北面して土葬し、そこに円形の山陵を築造したと伝わります。
天皇家の墓陵としては、唯一の北向きとなりました。

金峯神社へ向かいます。
続く
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