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鎌倉時代の伽藍図
自宅を午前9:10に出発してバイクで般若寺へ向かい、
1時間余りで般若寺の駐車場に到着しました。
楼門
現在は駐車所に面して北側に拝観受付がありますが、
かって「京街道」と呼ばれた通りに面して楼門が残されています。
般若寺は奈良市の北方、興福寺から「奈良坂」と呼ばれる登り坂を登りきった所にあり、
山号を法性山と号する真言律宗の寺院です。
西国薬師四十九霊場・第3番と関西花の寺二十五霊場・第17番札所であり、
「コスモス寺」とも呼ばれています。
般若寺は治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで焼失し、衰退しました。
鎌倉時代に真言律宗の宗祖で西大寺の僧・叡尊と観良房良慧(かんりょうぼうりょうけい)に
よって七堂伽藍の再建が行われました。
楼門は鎌倉時代の文永4年(1267)に再建されたもので、日本最古の楼門遺構として
国宝に指定されています。
正門として南大門、中大門があり、楼門は廻廊の西門でしたが、南大門、中大門は
戦国時代の兵火で失われました。
十三重石塔
境内に入った右側に総高14.2m、基壇辺12.3mの十三重石宝塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
十三重石宝塔は天平7年(735)に都を奈良へ遷した聖武天皇が、
平城京の鬼門を守るため『大般若経』を塔の基壇に納め卒塔婆を建てたとされ、
寺名の由来にもなりました。
南都焼き討ちの際に失われ、南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)、
伊行吉らにより建長5年(1253)頃に再建されました。
十三重石塔+薬師
薬師像
基壇には東に薬師、南に釈迦、西に阿弥陀、北に弥勒の
顕教四仏(けんぎょうしぶつ)が刻まれています。
また、宝塔の東側に薬師如来坐像が安置され、
西国薬師四十九霊場・第3番の札所本尊になっています。
相輪
宝塔の脇に初代相輪が置かれています。
南北朝か室町時代の大地震で落下し、三つに割れました。
室町時代の再建時に二代目が新造され、初代は裏山に埋められましたが、
昭和時代に国道(現県道)が旧般若寺境内を分断する形で造られた時に、
工事現場から発見されました。
現在の相輪は昭和の大修理の際に、初代を模して造られた四代目で、
二代目は本山・西大寺本坊の庭で保存されています。
三代目は元禄16年(1703)に青銅製で造られ、現在は般若寺で保存されています。
カンマン石
境内に入った正面にはカンマン石があります。
「カンマン」とは不動明王を象徴する種字(梵字)で、石の上には不動明王像が祀られています。
「この石の突起部にお腹や背中を押し当てると健康が増進する」と記されています。
背後には秋の花だと思っていたコスモスが、初夏にもかかわらず咲き誇っています。
阿弥陀像
コスモスの花の中に阿弥陀仏の石像が祀られています。
まかばら石
参道を楼門の方へ進んだ右側に霊石「まかばら石」が祀られています。
「まかばら」は光明真言に由来し、それを略した「オン・マカバラ・ウン」の呪文を唱え、
石の頂を右回りに3周撫でると、運気が上昇するとの伝承があります。
何時の頃からか境内の片隅にあって、大切に守られてきました。
釈迦像
「まかばら石」の左側に釈迦如来の石仏が祀られています。
護良親王供養塔
阿弥陀仏の石像の手前まで戻り、北側へ進んだ所に、大塔宮・護良親王
(おおおとうのみや・もりよししんのう)の供養塔があります。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に
門室を置いたことから「大塔宮」と呼ばれました。
6歳の頃に当時、岡崎大塔宮敷地に本坊があった梶井門跡(後の三千院)に入り、
正中2年(1325)に門跡を継承して門主となり、嘉暦2年(1327)には天台座主に就きました。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である
元弘の乱を起こすと、還俗して参戦しました。
笠置山で挙兵したのですが、幕府軍に攻められて陥落し、後醍醐天皇は捕えられ、
護良親王は般若寺へと逃れました。
幕府方の追手が五百の兵を率いて般若寺を探索したとき、護良親王は経蔵にあった
大般若経の唐櫃に身を潜めて難を逃れたと伝わります。
その後、護良親王は吉野へと逃れましたが、吉野も陥落し高野山へと落ち延びました。
元弘2年/正慶元年(1332)、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、
同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発しました。
隠岐島へ配流されていた後醍醐天皇も島から脱出し、
伯耆国(ほうきのくに)の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました。
足利高氏(尊氏)が幕府へ反旗を翻したこともあり、
六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。
討幕に勝利し、後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、
兵部卿に任じられて上洛し、足利尊氏は鎮守府将軍となりました。
足利尊氏と確執があった護良親王は、尊氏暗殺のための兵を集めましたが、
後醍醐天皇の命を受けた兵により捕えられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られました。
護良親王は元弘の乱に際し、討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことから、
父・後醍醐天皇との関係は良くなかったとされています。
護良親王は鎌倉将軍府に送られ、尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれましたが、
翌建武2年(1335)、諏訪頼重が鎌倉幕府再興のために挙兵し、中先代の乱を起こしました。
関東各地で足利軍が北条軍に敗れ、鎌倉に護良親王を将軍、北条時行を執権とする
鎌倉幕府が再興され建武政権に対抗する存在になることを恐れた足利直義の命により、
二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は殺害されました。
明治維新後、東光寺跡に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造られました。
鐘楼
供養塔の北方向に鐘楼があり、手前にはアジサイが花を咲かせています。
鐘楼は元禄7年(1694)に再建されましたが、工事の際に地中にあった
石室から如意宝珠が見つかったとの記録が残されています。
現在、如意宝珠は失われ、納められていた箱のみが保存されています。
梵鐘は室町時代の延徳3年(1491)に鋳造されたのですが、興福寺に移され、
西大寺奥之院から江戸時代初期に鋳造されたとみられる現在の梵鐘が移されたと伝わります。
平和の塔
鐘楼の北側に平和の塔があります。
被爆直後の広島の町でくすぶっていた火をカイロに移し、20年後に福岡県星野村の
役場前に平和の塔が建てられ火が移されました。
般若寺には国内で3番目に分火され、昭和64年(1989)に建立されました。
核兵器が廃絶されるまで火は灯し続けられるそうです。
天満宮
平和の塔の奥に天満宮と思われる祠があります。
観良房良慧大徳追慕塔
鐘楼から南方向へ進んだ所に般若寺中興願主上人 
観良房良慧大徳(かんりょうぼうりょうけいだいとく)の追慕塔があります。
治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで焼失し、衰退した般若寺境内で
「大善巧の人(だいぜんぎょうのひと)」が復興を始めました。
その人物の詳細は不明ですが、東大寺の復興に携わった人物と推定されています。
大善巧の人は、十三重石宝塔の基台と初重の大石を積んだところで絶命されました。
基台と初重の軸部はそれぞれ15tの大石となります。
その後、観良房良慧がその遺志を継ぎ建設現場に居住して完成させました。
施工したのは東大寺の復興で重源上人が南宋から招いた伊行末(いぎょうまつ)の
石工集団で、石の切り出し、運搬、彫刻、積み上げと大変な労力と莫大な費用を
要したと推測されます。
また、観良房良慧が願主となり、叡尊上人に率いられた西大寺教団により諸堂の建設と、
仏像が造られました。
文永4年(1267)に諸堂が建立され、本尊の開眼供養が営まれました。
本堂前の石灯籠
本堂の手前右側に立つ総高3.14mの石灯籠は鎌倉時代のものですが、
竿と笠部分は後補となります。
古来「般若寺型」または「文殊型」と呼ばれ、火袋部には鳳凰、獅子、牡丹唐草の浮彫があります。
本堂前の地蔵
本堂の手前左側には水掛地蔵尊が祀られています。
奈良町の住人が宝暦4年(1754)に先祖供養のために造立したもので、
十数年前に東の山中から発見されました。
水掛地蔵尊の右側にある手水石船は、寛文7年(1667)に現在の本堂が
再建された際に寄進されたものです。
本堂
本堂(文殊堂)
般若寺は寺伝では、舒明天皇元年(629)高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされ、
天平7年(735)に聖武天皇が伽藍を建立し、
十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したとされています。
学問寺として千人の学僧を集め栄えましたが、治承4年(1180)の平重衡による
南都焼き討ちで焼失し、衰退しました。
鎌倉時代に西大寺の僧・叡尊と観良房良慧によって七堂伽藍の再建が行なわれ、
鎌倉時代後期には後醍醐天皇の御願により倒幕祈願の文殊菩薩(現在本尊)が造像されました。
像胎内には「金輪聖主御願成就」と記されています。
踏み蓮華石
しかし、延徳2年(1490)の火災で叡尊上人が12年を費やして造立した
丈六の文殊菩薩騎獅像が焼失しました。
本堂前には、その踏み蓮華石が祀られています。
その大きさから獅子の足は直径1mはあったと推定されます。
永禄10年(1567)には東大寺大仏殿の戦いで、
松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失しました。
江戸時代に本堂が再建されるなど復興しましたが、明治の廃仏毀釈で甚大な被害を受け、
寺は荒れ果てて無住となり、西大寺の管理下に置かれるようになりました。
第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されましたが、
客殿は実業家・畠山一清によって東京都港区白金台に移築されました。
観音像
本堂の両側及び背後の左側に西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られています。
江戸時代の元禄16年(1703)に山城国相楽郡(現・京都府精華町)の
寺島氏が病気平癒の御礼に寄進されました。
当初は十三重石塔の基壇上に安置されていましたが、
昭和の大修理の際に現在地に遷されました。
力石
本堂の左側に「般若寺本性房の力石」があります。
本性房は怪力を持った般若寺の僧で、元弘元年(1331)の元弘の乱では笠置山に馳せ参じ、
山上から幕府軍へ大石を投げつけたと伝わり、JR笠置駅前にその像が立っています。
6個の石が並べられ、約20㎏の石は「持てる女石」、約30kgの石は「持てる男石」、
約50kgの石は「持てない石」と名付けられています。
石塔部材群
力石の北側には、鎌倉・室町・戦国時代の石塔部材群が並んでいます。
戦国時代、般若寺の南西700mには、永禄3年(1560)に松永久秀によって築城が開始された
多聞山城(現在は奈良市立若草中学校敷地)がありました。
標高115mでかっては「眉間寺山(びかんじやま)」と呼ばれ、鎌倉時代には眉間寺があり、
付近は墓所でした。
城はそれまでには無かった礎石と石垣を使用して、壁には分厚い土壁、瓦葺の屋根の
恒久的な建物を築いて奈良の街の支配と大和全体を睨んだ拠点の先進的な平山城でした。
城内には本丸(詰の丸)に主殿、会所、庫裏の座敷など豪華な建築が建ち並び、
連結した西の丸は通路沿いに重臣の屋敷や、家臣の家が建てられました。
「高矢倉」と呼ばれた四階櫓がありこれが四重の天守で日本初の天守とされ、
塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりとされています。
永禄7年(1564)に城が完成し、その壮麗さはヨーロッパまで名を知らしめたと伝わります。
永禄8年(1565)、それまで連合していた三好三人衆は筒井順慶と連合し、
松永久秀に向けて進軍を開始しました。
永禄10年(1567)4月に三好連合軍は東大寺に布陣し、
大仏殿を要塞化して多聞城に対峙し南都を制圧しようとしました。
これに対し、松永久秀は同年10月10日に東大寺に襲いかかり東大寺大仏殿の戦いとなりました。
この戦いで松永久秀は勝利したのですが、多聞山城から東大寺周辺の屋敷地を破却しつつ
布陣した久秀の兵火により、般若寺の主要伽藍を焼失しました。
永禄10年(1567)9月織田信長は足利義昭を奉じて上洛し義昭を将軍位に就けました。
当初、松永久秀は織田信長に服属したのですが、足利義昭が画策した信長包囲網に加わり、
天正元年(1573)に織田軍に多聞山城を包囲され降伏しました。
天正4年(1576)に織田信長は大和の守護に筒井順慶を任命し、
郡山城以外の城の破却を命じました。
多聞山城の建物は解体されて京都に運ばれ、旧二条城に活用されましたが、
本能寺の変の際に織田信忠と共に焼失しました。
諸石類は筒井城の石垣に、後に郡山城に転用されました。
般若寺に残る石塔部材群は多聞山城跡の住宅地(かっての般若野)から
寺へ奉納されたものと考えられています。
南朝の石碑
本堂の裏側を西へ進んだ所に「南朝御聖蹟 般若寺」と刻字された石碑が建っています。
南北朝時代、般若寺は南朝側に与(くみ)していました。
地蔵堂
参道の北側には地蔵堂があります。
宝蔵への門
本堂の裏側に参道を挟んで門があり、鎌倉時代にはこの奥に講堂があり、
薬師如来が祀られていました。
門の手前に「秘仏 白鳳阿弥陀如来」と刻字された石碑が建っています。
昭和39年(1964)に十三重石宝塔の解体修理が行われた際に党内から発見された、
像高28.8cmの小金銅仏です。
宝蔵
現在の般若寺の境内図にはこの門を入った右側に宝蔵があると記されていますが、
これがその宝蔵でしょうか?
見た目にはここにその秘仏が保管されているかは疑問に思えます。
八不亭
本堂の裏側にお休み処の「八不亭(はっぷてい)」があります。
八不亭の名は『中論』「八不の偈(げ)」、「不生不滅、不常不断、不一不異、
不来不去(ふこ)」に由来しています。
『中論』は日本では八宗の宗祖と崇められているインドの大乗仏教を理論づけた
龍樹(りゅうじゅ)の著作です。
龍樹の『中論』『十二門論』、その弟子・提婆(だいば)の『百論』を合わせた「三論」を、
中国・隋代に嘉祥大師吉蔵(549年~623年)が『三論宗』として大成させました。
般若寺を開基した高句麗の僧・慧灌(えかん)は、吉蔵から三論を学び、
日本に初めて『三論宗』を伝えました。
鎮守社
本堂裏の参道を東に突き当たった所に桃山時代の鎮守社があり、
伊勢・春日・八幡の三社が合祀されています。
真言律宗では、伊勢は金胎両部の大日如来の垂迹神、春日は法相の垂迹神、
八幡は仏教の守護神とされています。
忍性石碑
鎮守社前を北へ進んだ先に「忍性菩薩利生塔」があります。
忍性(にんしょう)は鎌倉時代の建保5年7月16日(1217年8月19日)に
現在の奈良県磯城郡三宅町で生まれました。
貞永元年(1232)に死の床にあった母の懇願により、大和国・額安寺(かくあんじ)に
入って出家し官僧となり、天福元年(1233)には東大寺戒壇院にて受戒しました。
延応元年(1239)に叡尊が主導していた西大寺の再建に勧進聖として加わり、
叡尊に惹かれて再度叡尊の下で受戒してその弟子となりました。
寛元元年(1243)、般若寺の北東に北山十八間戸を創設し、
ハンセン病などの重病者を保護・救済しました。
北山十八間戸は永禄10年(1567)の東大寺大仏殿の戦いで焼失し、
寛文年間(1661~1672)に奈良市川上町454の現在地に移りました。
全長約38m・幅約4mの東西に長い棟割長屋で、内部は18室に区切られ、
東西に仏間があります。
大正10年(1921)3月3日に国の史跡に指定されました。
寛元2年(1244)には亡母13回忌追善供養として文殊供養と非人に施粥を行いました。
また、般若寺に丈六の文殊菩薩像を安置しました。
その後、建長4年(1252)には本格的な布教活動のために関東へ赴き、
弘長元年(1261)に鎌倉に拠点を置くと、文永4年(1267)に極楽寺を開山しました。
永仁2年(1294)に四天王寺別当に任命され、悲田院・敬田院を再興し
石の鳥居を築造しました。
嘉元元年(1303)、極楽寺において87歳で亡くなり、
嘉暦3年(1328)に後醍醐天皇より忍性菩薩の尊号を勅許されました。
笠塔婆
忍性菩薩利生塔から南へ進み、本堂の右側(東側)に鎌倉時代の笠塔婆二基があり
、国の重要文化財に指定されています。
右側の南塔の総高4.46m、左側の北塔の総高4.76mあり、
笠塔婆形式の石塔では日本最古の作例とされています。
弘長元年(1261)7月に石工・伊行吉(いぎょうきち)が父・伊行末の一周忌に当り
その追善と現存の悲母の供養のために建立しました。
当初は寺の南方にあった般若野五三昧(南都総墓)の入口、京街道に面して建っていましたが、
明治の廃仏毀釈で破壊され、明治25年(1892)に般若寺境内に移設・再建されました。
室町時代の頃には平重衡の墓とみられ、能の謡曲「笠卒塔婆」の題材となりました。
笠塔婆-支え金具
笠塔婆の左側にある笠塔婆の支え金具は、明治25年(1892)の再建時に使用されたもので、
1889年にパリ万博のエッフェル塔用の鋼材して開発された錬鉄製で、フランスで製作されました。
昭和33年(1958)の再修理の際に取り外されました。
藤原頼長供養塔
笠塔婆の南側に藤原頼長の供養塔があります。
藤原頼長は保安元年(1120)5月に藤原北家、
摂政関白太政大臣・藤原忠実の三男として誕生しました。
頼長は少年時代に父親の言葉を聞かなかったため落馬し、この頃から学業に励むようになり、
その後、「日本一の大学生(学者)、和漢の才に富む」と言われるほど
その学識の高さを賞賛されました。
頼長の日記『台記』は当代随一の学識者による同時代の記録であり、
院政期の歴史を研究するうえでの貴重な基礎資料となっています。
但し、文学には疎く、和歌や漢詩も得意ではなかったとされています。
自他共に厳しく苛烈な性格で、「悪左府」と呼ばれましたが、この「悪」も現代でいう
「悪い」という意味ではなく、むしろ性質・能力・行動などが型破りであることを畏怖した表現です。
出世を重ねて要職を歴任し、保延2年(1136)には内大臣、久安5年(1149)には左大臣に進みました。
天治2年(1125)に頼長は後継者に恵まれなかった兄・忠通の養子となりましたが、
康治2年(1143)に忠通に嫡男・藤原基実が生まれると、忠通と頼長は対立するようになり、
頼長を推す忠実と忠通も対立しました。
忠実は一家の後継を意味する宝物・朱器台盤を、忠通から奪取して頼長に与え、
これにより頼長は氏長者(藤原一門の長)・内覧(天皇の奏聞・宣下に先立って
朝廷の重要文書に目を通し、天皇に報告・補佐する役職)となりました。
執政として儒学を重視し、政治の刷新や粛正を厳格に推し進め、会議に遅刻した
公卿の屋敷を燃やしたり破壊させたり、反対派を暗殺するなど、他の貴族や寺社との
反発や対立を多く生み、その苛烈振りに鳥羽法皇とも対立するようになりました。
久寿2年(1155)7月23日に近衛天皇が崩御すると、頼長と忠実が呪詛したからだと噂が広がり、
頼長は謹慎、内覧は停止されました。
この間に皇位継承は、頼長と対立していた美福門院や信西の策動で
守仁親王(後の二条天皇)の中継ぎとして雅仁親王(後の後白河天皇)が即位しました。
保元元年(1156)に鳥羽法皇が崩御すると、その直後に頼長に謀反の疑いがかけられ、
財産が没収されました。
この事態に頼長は崇徳上皇を擁して挙兵を決断し、源為義・為朝父子や
平忠正(平氏の棟梁平清盛の叔父)を味方につけましたが、
その戦力は摂関家の私兵集団に限定され、甚だ弱小で劣勢は明白でした。
後白河天皇も藤原氏・源氏・平氏の味方を集め、源義朝と平清盛が崇徳院側の本拠地に
夜襲を仕掛け、一晩のうちに崇徳院側は総崩れとなり、
頼長は敗走中に矢に当たり、重傷を負いました。
最後の頼みの綱であった奈良の忠実の元へ向かうが、面会を拒まれ、失意の内に力尽きました。
遺骸は般若野に埋葬されましたが、信西の命によって暴かれ、
検視されるという恥辱を受ける羽目となりました。
保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われましたが、
安元3年(1177)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が都で連発し、
朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐れるようになりました。
同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を
「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈されました。
経蔵
藤原頼長の供養塔の南側に経蔵があります。
鎌倉時代に再建されましたが、解体修理の結果、当初は床の無い全面開放の
建物であったことが判明し、何に使われていたかは不明です。
鎌倉時代末期に経蔵に改造され、国の重要文化財に指定されています。
元弘の乱の際は、護良親王は経蔵にあった大般若経の唐櫃に身を潜めて難を逃れたと伝わります。
本尊として室町時代作の十一面観音像が安置されていますが、旧超昇寺の脇仏でした。
三界万霊碑
経蔵の南側に戦国時代の三界万霊碑があります。
生きとし生けるものが平等に成仏できるようにと願った供養塔で、
戦国時代の合戦での物故者及び般若野(南都総墓)に葬られた
おびただしい数の亡者を弔ったものとされています。

笠置寺へ向かいます。
続く

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山門-1
石上神宮から県道51号線を道なりに北西方向へ進んだ先に帯解寺があります。
山号を「子安山」と号する華厳宗の寺院で、神仏霊場・第18番、
大和北部八十八ヶ所霊場の第68番札所です。
元は「霊松庵」と呼ばれ、空海(774~835)の師である勤操(ごんそう:754~827)
によって開かれた巖渕寺の塔頭の一つでした。
山門-2
現在の山門は簡素な四脚門造りですが、かっては徳川家から寄進された
二階建ての楼門造りで、仁王像が安置されていました。
しかし、安政年間(1855~1860)に発生した安政の大地震によって倒壊し、
現在の門に建て替えられました。
手水鉢
山門を入った左側に手水舎があります。
手水鉢には寛文2年(1662)の銘があり、第4代将軍・徳川家綱(在職:1651~1680)から
寄進されたものです。
鐘楼
右側に山門に隣接して鐘楼があります。
本堂
正面に本堂があります。
長らく世継ぎに恵まれなかった第55代・文徳天皇(在位:850~858)の后である
染殿皇后(藤原明子:829~900)が当寺にて祈願をしたところ、
惟仁親王(これひとしんのう=後の第56代・清和天皇)が生まれたことから、
天安2年(858)、文徳天皇の勅願により伽藍が建立されました。
また、「無事に腹帯が解けて安産できた寺」として「帯解寺(おびとけでら)」の
寺号を賜りました。
以来、日本最古の安産・子授け祈願の寺として信仰を集めるようになりました。

江戸時代になって、第2代将軍・徳川秀忠(在職:1605~1623)の
正室・崇源院(浅井江:1573~1626)が安産祈願し、
後の第3代将軍・徳川家光(在職:1623~1651)を安産されました。
そして、家光の側室・お楽の方(宝樹院:1621~1653)が安産祈願し、
後の四代将軍・家綱を出産され、家光からその折種々の瑞祥を記した
『瑞祥記』が下賜され、誕生釋迦佛等が寄進されました。

本尊は弘法大師作との伝承がある、像高182.6cmの子安地蔵菩薩像で、
国の重要文化財に指定され、「腹帯地蔵」とも呼ばれていますが、
鎌倉時代作と判明しました。

大安寺へ向かいます。
続く
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推古天皇社-鳥居
帯解寺から西へ進み、その先の県道8754号線へ右折して北上した先を
左折した先に大安寺があります。
大安寺の駐車場の北側に推古天皇社があり、豊御食炊屋姫尊
(とよみけかしきやひめのみこと=推古天皇)が祭神として祀られています。

第33代・推古天皇(在位:593~628)は父を第29代・欽明天皇(在位:539~571)、
母は蘇我堅塩媛(そが の きたしひめ:生没年不詳)とし、
蘇我馬子(?~626)は母方の叔父に当たります。
『日本書紀』推古紀に「姿色(みかお)端麗(きらきらしく) 進止軌制
(挙措動作は乱れなくととのっている)」との記載があり、
容姿端麗であったとされています。
18歳で第30代・敏達天皇(びだつてんのう/在位:572~585)の
皇后となりましたが、34歳の時、天皇は崩御されました。
その後、欽明天皇の第4皇子・第31代・用明天皇(在位:585~587)が即位しましたが、
皇位に就いて2年後に崩御され、その跡を継いだ欽明天皇の第11皇子・
第32代・崇峻天皇(すしゅんてんのう/在位:587~592)は、
5年後に蘇我馬子の部下に暗殺されました。
推古天皇は39歳の時、第33代天皇として即位し、
甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政としました。

天皇は聡明で、聖徳太子(574~622)と蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、
豪族の反感を買わぬように、巧みに治政を行いました。
推古天皇2年(594)に、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔を発布し、
仏法興隆にも努めました。
聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(推古天皇11年=603)・
十七条憲法(同12年=604)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めました。
推古天皇15年(607)には、初めて日本の独立を強調する目的で
遣隋使を派遣しました。
推古天皇30年(622)に太子が49歳で薨去されると、4年後の同34年(626)には
蘇我馬子も亡くなり、同36年(628)、天皇は75歳で崩御されました。
大安寺に戻ります。
南大門
大安寺は高野山真言宗の寺院で、山号は無く、南都七大寺の一寺であり、
神仏霊場・第17番、大和北部八十八ヶ所霊場・第1及び2番、
大和十三仏霊場・第13番、聖徳太子霊跡・第23番の札所です。
現在の南大門は、かっての基壇の上に建立されていて、平成になってから
興福寺・旧一乗院の門を移築、復元したものです。
かっての南大門は平城京の朱雀門と同じ規模を持つ重層の楼閣でした。
中門跡
門を入ると「中門跡」の石碑が建っています。
かっての伽藍図では、中門の先に金堂、講堂と続いていたようですが、
現在はコンクリート造りの讃仰殿(さんぎょうでん=宝物殿)が建っています。
堂内には、不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)、
楊柳観音(ようりゅうかんのん)、聖観音、四天王像の諸仏をはじめとして、
出土の古代瓦や創建当時の伽藍模型などが展示されています。
仏像はいずれも奈良時代末期の作と推定され、国の重要文化財に指定されていますが、
いずれの像も破損が多く、各像の両腕などは大部分後補のものです。
本堂
現在の本堂は「中門跡」の石碑から左側に進んだ所に建立されています。
大安寺は、聖徳太子が平群郡(へぐりぐん)額田部(現・大和郡山市)に
熊凝(くまごり)道場を創建したことに始まり、
その跡地が額安寺(かくあんじ)とされています。
病床の聖徳太子を田村皇子(593?~641)が見舞った際に、
皇子に「熊凝精舎」を大寺として造営してほしいと告げたとされ、
後に皇子が第34代・舒明天皇(じょめいてんのう/在位629~641)として
即位した舒明天皇11年(639)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めました。
「大寺」とは私寺に対する官寺を意味し、これが百済大宮と百済大寺であり、
日本最初の官寺とされ、桜井市吉備の吉備池廃寺跡(きびいけはいじあと)が
その候補地として確実視されています。

その後、第40代・天武天皇2年(673)に百済大寺は高市の地に移され、
「高市大寺」と改称されましたが、同6年(677)に天皇の寺という意味の
「大官大寺」へ改めたとされています。
第41代・持統天皇4年(690)、藤原京の造営が着工されたことにより、
第42代・文武天皇の御代(在位:697~707)に大官大寺
場所を移して造営されました。
昭和49年(1974)にその跡が発掘調査され、巨大な金堂、講堂、
塔などの遺構が見つかり、国の史跡に指定されました。

和銅3年(710)、都は藤原京から平城京に遷され、霊亀2年(716)に大官大寺は
平城京左京六条四坊の現在地へ移転し、大安寺となりました。

その後、都が平安京へ遷されると、仏教は東寺や延暦寺を中心とした
密教に中心が移ったために宗風は振るわず、
また境内や伽藍の焼失が相次ぎ次第に衰退しました。
寛仁元年(1017)の火災では、本尊の釈迦如来像と東塔を残してことごとく焼失し、
以後、かつての規模を取り戻すことはありませんでした。
慶長元年(1596)の地震による損害の後、近世には小堂1つを残すのみでした。

現在の大安寺が復興されたのは、明治15年(1882)に小堂と庫裡が建築され、
その後に本堂が建立されてからです。
現在では境内の広さが最盛期の約1/25に縮小し、南都七大寺の中で
一番小さな寺院となってしまい、がん封じの祈願寺として復興が進められています。

本尊は奈良時代作、像高190.5cmの木造十一面観音立像で、
国の重要文化財に指定されています。
秘仏とされ、10月1日~11月30日の期間のみ特別開帳されます。
小子坊と嘶堂
本堂の奥に小子坊と嘶堂(いななきどう)が並んでいます。
小子坊は平成(1998~2019)の第一次伽藍整備で建立されたもので、 
写経道場として利用されています。

嘶堂も平成の第一次伽藍整備によるもので、堂内には国の重要文化財に指定
されている、奈良時代作、像高173.5cmの馬頭観音立像が安置されていますが、
秘仏とされ、3月のみ公開されています。
護摩堂
護摩堂も平成の第一次伽藍整備によるもので、毎月第2日曜日13:00から
護摩法要が行われています。
地蔵像
護摩堂から右奥に進むと地蔵像が祀られ、その前に「お竹地蔵参道」と刻まれた
石碑が建っていますが、参道らしきものは見当たらず、
この地蔵尊が「お竹地蔵」なのかもしれません。
五輪塔
右側の五輪塔は、大安寺歴代住侶の供養塔です。
稚児大師像
その右側には弘法大師7歳時の稚児大師像が祀られています。
空海(774~835)は天長6年(829)に大安寺の別当に補され、
多くの弟子達を入住させたと伝わります。
八幡神社-門
門を出て南へ進むと八幡神社があります。
大安寺の旧境内に鎮座し、もと同寺の鎮守神として「大安寺八幡宮」と称されました。
また、山城国男山の石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から
「元石清水八幡宮」とも称されています。

入唐した大安寺の僧・行教(生没年不詳)が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠して
その神影を奉戴、大同2年(807)に大安寺・東室第7院の石清水房に
鎮座したのが始まりと伝わります。
その後、神殿を造営して遷座し、「石清水八幡宮」と号して
大安寺の鎮守神としました。
行教も空海の弟子の一人でした。

貞観元年(859)、神託により山城男山へ遷座したため、
改めてその跡に祀ったのが創祀であるとされています。

訪れた平成29年(2017)当時は工事中だった中門は、室町時代に建立され、
江戸時代の永正元年(1504)、火災により改築されました。
規模の大きな四脚門で奈良県の文化財に指定されています。
本殿
本殿
祭神は第15代・応神天皇(在位:270~970)とその両親である
第14代・仲哀天皇(在位:192~200)、神功皇后(170~269)です。
本殿の下
本殿の下には狛犬や奉納された多数の鳩の像がまとめて置かれていました。
稲荷社
本殿の左側に稲荷社があり、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が
祀られていると思われます。
稲荷社-狐像
多数の狐像が奉納されていました。
東塔跡
八幡神社の先、大安寺・南大門から南へ約150m離れた左右に東・西塔跡があり、
国の史跡に指定されています。
東塔跡には基壇が復元され、大官大寺までは九重塔だったとされていますが、
建っていた塔は七重塔と見られています。
「大安寺式伽藍配置」と称され、東西両塔は金堂から大きく離れ、
南大門の外側に建てられていました。

薬師寺へ向かいます。
続く
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休ヶ岡八幡宮への橋
大安寺から西へ、バイクで約15分進んだ先に薬師寺があります。
南門の南側に鎮守社である休ヶ岡八幡宮があります。
薬師寺参拝の際は、最初に休ヶ岡八幡宮を参拝するのが習わしとなっていたようです。
孫太郎稲荷神社-1
境内へ入った東側に孫太郎稲荷神社があります。
年代は不明ですが、藤原氏が現在の栃木県佐野市で創建したと伝わり、
「孫太郎」はその後復興した人物の名とされています。
その後、姫路城下を経て、寛政年間(1789~1801)に現在地へ遷座されました。
孫太郎稲荷神社-2
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が祀られていると思われます。
休ヶ岡八幡宮-1
西へ進むと休ヶ岡八幡宮(やすみがおかはちまんぐう)があります。
寛平年間(889~898)に薬師寺別当の栄紹(えいしょう)大法師が寺の鎮守社として
大分県宇佐から八幡宮の祭神である僧形(そうぎょう)八幡神・神功皇后・仲津姫命の
三神像を勧請しました。
この三神像は像高約38cm、平安時代の作で木彫神像としては最古の作例に属し、
国宝に指定されていますが、現在は奈良国立博物館に寄託されています。
「休ヶ岡」という地名は、貞観年間(859~877)に大安寺の行教和尚(生没年不詳)が
大安寺の元石清水八幡宮へ八幡大神を勧請された際、
八幡大神が休息された地であることに由来します。
休ヶ岡八幡宮-2
現在の社殿は慶長8年(1603)に豊臣秀頼(1593~1615)の寄進により造立され、
国の重要文化財に指定されています。
本殿は三間社流造で、両脇に脇殿が接続する珍しい形式で、
脇殿には十九明神の板絵(現在は宝蔵殿に安置)が祀られていました。
休ヶ岡八幡宮-座小屋-北
本殿の前庭の両側に座小屋があり、こちらは北側です。
中世に始まった宮座が受け継がれている貴重な歴史的建造物で、
本殿とほぼ同時期に建立され、現在では社務所として使われています。
休ヶ岡八幡宮-座小屋-南
こちらが南側です。
かっては他に瑞垣門・楼門・中門等がありましたが、地震で倒壊し、
再建が検討されています。
南門
薬師寺南門は永正9年(1512)に建立された薬師寺西院の小規模な四脚門が
移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
西側に拝観受付があります。
通常拝観料は1,100円で、東塔・西塔特別公開時は1,600円となり
時間は8:30~17:00(最終受付16:30)までです。
薬師寺に山号は無く、法相宗の大本山で、神仏霊場・第25番、南都七大寺・第6番、
西国薬師四十九霊場・第1番、大和北部八十八ヶ所霊場・第49番の札所です。
また、「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして、
世界遺産に登録されています。
中門
白鳳伽藍の再建は、高田好胤(たかだ こういん:1924~1998)が薬師寺管主となった
翌年の昭和43年(1968)から始められ、中門は昭和59年(1984)に再建されました。
「薬師寺式伽藍配置」と称され、中門左右から出た回廊は講堂の左右に達し、
金堂、東西両塔は回廊で囲まれています。
二天像-阿形
中門には二天像が安置されています。
阿形
二天像-吽形
吽形
金堂
金堂は昭和51年(1976)に再建された二層建ての建物で、
各層に裳階(もこし)があしらわれ、内陣は鉄筋コンクリート造りです。
薬師寺は第40代・天武天皇9年(680)に天皇の勅願で藤原京の西側で造営され、
平城京遷都後の養老2年(718)に現在地へ移転したとされています。
その後、天禄4年(973)の火災や享禄元年(1528)の兵火により焼失しました。
慶長5年(1600)に郡山城主の増田長盛(1545~1615)によって再建されましたが、
昭和19年(1944)の東南海地震より倒壊しました。

金堂に安置されている薬師寺の本尊・薬師三尊像は国宝に指定されています。
奈良時代仏教彫刻の最高傑作の一つとされ、薬師如来坐像は像高254.7cm、
左脇侍の日光菩薩立像は317.3cm、右脇侍の月光菩薩立像は315.3cmです。
東塔
東塔は、当地で薬師寺が創建された際の建物で、相輪含む総高が34.1mあり、
我が国に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては6番目の高さを誇り、
国宝に指定されています。
三重塔で、各層に裳階が付けられ、一見すると六重塔のようにも見えます。
相輪中心部の柱の最下部の「東塔檫銘(とうとうさつめい)」には
第40代・天武天皇(在位:673~686)が皇后(後の第41代・持統天皇/在位:690~697)
の病気平癒を祈願して薬師寺建立を誓願されたことが記されています。
相輪上部の青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされています。

『薬師寺縁起』によれば、創建時の東塔と西塔の内陣には釈迦の生涯を表した
塑像の「釈迦八相像」が祀られていましたが、現在では断片や木芯を残すのみとなり
令和5年(2023)に彫刻家・中村普也(1926~)により、釈迦八相の内
因相の四相(入胎・受生・受楽・苦行)の像が祀られています。
西塔
西塔は享禄元年(1528)の兵火により焼失し、昭和56年(1981)に再建され、
当日も何らかの工事が行われていました。
連子窓(れんじまど)が設けられていますが、元々東塔にもあったそうで、
度々の修復で白壁にされました。
西塔には中村普也氏による釈迦八相の内、果相の四相(成道・転法輪・涅槃・分舎利)
の像が祀られています。
東院堂
東回廊の外、東側に東院堂があります。
養老年間(717~724)に吉備内親王(きびないしんのう:?~729)が
母の第43代・元明天皇(在位:707~715)の冥福を祈るために建立した
東禅院が前身で、弘安8年(1285)に再建され、国宝に指定されています。
当初は南向きに再建されましたが、享保18年(1733)に西向きに建て変えられました。
正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺の和洋仏堂です。

堂内に安置されている聖観世音菩薩立像は像高188.9cmで飛鳥時代(592~710)後期、
または奈良時代(710~794)の作とされ、国宝に指定されています。
蝋型鋳造による銅像で、光背は木造の後補で近世の作です。
四天王立像は多聞天の台座の銘文から正応2年(1289)に造立され、
永仁4年(1296)に彩色が完成したことが判明し、
国の重要文化財に指定されています。
龍王社
龍王社と中門の西側にある若宮社は、第40代・天武天皇とその后で
第38代・天智天皇の皇女・大田皇女(おおたのひめみこ:?~667)の
第3皇子・大津皇子(おおつのみこ:661~702)の鎮魂の為に
建立されたと伝わります。
龍王社には大津皇子とされる坐像が安置され、
若宮社も大津皇子を祭神として祀られています。
大講堂
金堂の背後に大講堂があります。
創建時には第40代・天武天皇(在位:673~686)の七回忌にあたり、
第41代・持統天皇(在位:690~697)が極楽浄土の様相を表して刺繍で作らせた
高さ約9m、幅6.5mの阿弥陀三尊繍仏が本尊として祀られていました。
享禄元年(1528)の兵火で、大講堂と共に焼失し、
大講堂は嘉永5年(1852)に再建されました。
しかし、その規模は小さく平成15年(2003)に創建当初の規模で再建されました。

堂内に安置されている弥勒三尊仏は国の重要文化財に指定されています。
重文指定では「銅造薬師如来両脇士像」の名称で、
金堂の薬師三尊像を模して造立されたと推定され、
元は大和郡山市の植槻寺(うえつきでら)に安置されていました。
中世に薬師寺へ遷され、旧講堂の本尊として祀られていました。
寺では大講堂が再建されたのを機に「弥勒三尊」へ呼称を変更し、
中尊を弥勒菩薩が釈迦入滅後5億7千6百万年の後に悟りを開かれた姿の
弥勒如来としました。
向かって右側の左脇侍に法苑林菩薩(ほうおんりんぼさつ)、
右脇侍に大妙相菩薩(だいみょうそうぼさつ)が安置されています。
また、平成19年から中村普也作の阿僧伽菩薩(あさんがぼさつ)と
伐蘇畔度菩薩(ばすばんどうぼさつ)の両像が中尊の両側に安置されています。
食堂
大講堂の背後に食堂があります。
発掘調査から約300人が一堂に会する規模で、
東大寺、大安寺に次ぐ大きさであったことが判明しました。
創建当初は天平2年(730)頃に建立されたと推定されていましたが、
天録4年(973)に焼失しました。
寛弘2年(1005)に再建されましたが、再び失われ、
平成29年(2017)に現在の建物が再建されました。
同年、堂内に田淵俊夫(1941~)氏により描かれた「阿弥陀三尊浄土図」が
本尊として安置されています。
また、14面全長50mにわたる壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が描かれ、
天井の雲の模様は伊東豊雄(1941~)氏のデザインによるものです。
十字廊
食堂の北に「十字廊」と称された建物の遺構が残されています。
長和4年(1015)成立の『薬師寺縁起』に「東西14丈1尺(42.727m)、
南北5丈6尺(16.969m)、高さ9尺2寸(2.787m)、食殿と云う」のが見え、
食堂に付帯する機能を備えた十字形の間取りをした建物と想定されています。
西僧坊
食堂の西側に西僧坊があります。
かっての西僧坊は大房 ・付属屋 ・小子房からなる建物でした。
不動堂
西僧坊の西側に不動堂があります。
堂内には平安時代(794~1185)作の不動明王像が本尊として祀られ、
神変大菩薩や蔵王権現像などが安置されています。
東僧坊
東側の東僧坊は、現在では休憩所として使用され、
様々な縁起物などの販売所もあります。
鐘楼
東僧坊の前方に鐘楼があります。
かっての梵鐘は奈良時代に鋳造され、高さ約2m、口径約1.3m、重さ3tで、
室町時代(1336~1573)の戦火で入ったとされている亀裂があり、
「西ノ京破れ鐘(われがね)」と称されていました。
梵鐘
現在では昭和51年(1976)の金堂落慶に合わせて鋳造された梵鐘が吊るされています。
聚寶館
北へ進むと聚寶館があり、その東側に大宝蔵殿があります。
宝物等が期間限定で展示され、別途拝観料が必要です。
與樂門
境内の北側に與樂門(よらくもん)があり、門の付近に北受付の唐院があります。
大門
北東側に大門があり、北境内地への入口となります。
本坊
門を入った右側に本坊などの建物があります。
玄奘三蔵院伽藍
正面に玄奘三蔵院伽藍があります。
玄奘塔
中央の玄奘塔は平成3年(1991)に建立され、
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう:602~664)の分骨が祀られ、
彫刻家・大川逞一(おおかわ ていいち:1899~1992)作の坐像が安置されています。
7場面13枚、全長49mの大壁画は平成12年(2000)に
平山郁夫(1930~2009)画伯により奉納されました。
シルクロードを度々旅した画伯が、玄奘三蔵の旅行記である『大唐西域記』から
「大唐西域壁画」と名付けて描かれました。
玄奘三蔵は27歳であった629年に陸路をシルクロードでインドへ向かい、
インドで修学の末、645年に経典657部や仏像など唐へ持ち帰り、翻訳しました。
玄奘三蔵の弟子・慈恩大師は玄奘の教えを「法相宗」として大成しました。

日中戦争当時の昭和17年(1942)に南京で日本陸軍が土木作業中に偶然、
かつて破壊された玄奘の墓を発見し、
石棺内から頭骨と多数の副葬品が発掘されました。
日中で協議され、昭和19年(1944)に遺骨の一部が日本仏教会へ分骨され、
埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)の慈恩寺に祀られていました。
昭和56年(1981)にその一部が薬師寺へ分骨されました。
慈恩殿
右側に慈恩殿があります。
建物の名は法相宗の大成者・中国唐時代の慈恩大師窺基(きき:632~682)に
由来しています。
法相宗の教義である唯識教学は、弥勒菩薩を発症とし、阿僧伽菩薩(あさんがぼさつ)
と伐蘇畔度菩薩(ばすばんどうぼさつ)の兄弟により教学が大成されました。
6世紀半頃、護法菩薩(530~561)が唯識を更に深め、特にナーランダ寺院において
唯識は盛んに研究されました。
インドへ渡った玄奘三蔵は、ナーランダ寺院で護法菩薩の弟子・
戒賢(かいけん:529~645)から学び、経典を唐へ持ち帰りました。
その経典の翻訳に慈恩大師も参加し、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』が
完成しました。
慈恩大師はこの書を中心として法相宗を大成しました。

また、堂内には細川護熙(ほそかわ もりひろ:1938~)元総理により、
「東と西の融合」をテーマとして描かれた障壁画66面・113枚(全長157.72メートル)
が奉納されました。
玄奘三蔵のシルクロードの旅をイメージし、多国籍の人々や動物などが
フレスコ画の手法で描かれ、包み込むように天女や飛天が舞っています。
まほろば会館
東側のまほろば会館は各種イベント会場として使われているようです。
冠木門
北境内地の南西側に冠木門があります。
北門跡
門を出て北へ約200m進むと薬師寺北門跡があります。

唐招提寺へ向かいます。
続く
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南大門
薬師寺北門跡から北へ徒歩約5分の距離に唐招提寺があります。
律宗の総本山で山号は無く、神仏霊場・第24番、
大和北部八十八ヶ所霊場・第26番及び27番の札所です。
南都七大寺は、法隆寺が離れていることから、法隆寺の代わりに
唐招提寺が南都七大寺とされることがあります。
現在の南大門は昭和35年(1960)に天平様式で再建されました。
世界遺産の碑
また、「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして、
世界遺産に登録されています。
寺務所
拝観料は1,000円で、受付から入った右側に寺務所があります。
かって、この地は第40代・天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう:
?~735)の邸宅があり、その広さは東西255m、南北245mに及び、
親王の薨去後に鑑真(688~763)に下賜されて私寺が創建され
「唐律招提」と称されました。
その後官額を賜り、「唐招提寺」と称するようになりました。
境内図
境内図です。
弁天社
北側に弁天社があります。
弁天池
その北側の池は「弁天池」と称されているそうです。
金堂
正面に金堂があります。
奈良時代(710~794)に建立された金堂で、現存する唯一の金堂として
国宝に指定されています。
正面の間口は七間で、中央間は約4.7m、両端へは次第に狭くなり3.3m、
前面一間通りが壁、建具等を設けない吹き放しとなり、
8本の太い円柱が並びます。
側面4間の寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾(しび)が飾られています。
平成の大修理の際に鴟尾は新しいものに取り換えられましたが、
それまでは西側に創建当初のもの、東側に元亨3年(1323)に補作された鴟尾が飾られ、
現在では別途保管されています。
平成の大修理では、金堂の部材に天応元年(781)に伐採されたヒノキ材が使用され、
それより以前に金堂が建立されたことが判明しました。

堂内の広い部分を須弥壇が占め、安置されている仏像は全て国宝に指定されています。
須弥壇中央に本尊の盧舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、
左に千手観音立像が安置されています。
盧舎那仏坐像は奈良時代末期の作で像高304.5cm、蓮華座上に坐しています。
麻布を漆で貼り固めて造形した脱活乾漆像で、515cmの高さがある光背には
本来は千体であったと推定されている化仏が862体残されています。

薬師如来立像は像高535.7cmで、木心に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて
造形した木心乾漆像です。
昭和47年(1972)の修理時に左の掌の内側に3枚の古銭が納入されているのが
発見されました。
その内最も古い隆平永宝が延暦15年(796)以降に鋳造されたことから、
この像も平安京遷都後に造立されたことが判明しました。
光背はこの像のものとしては幅が広すぎ、
他の像の光背を転用したものと推測されています。

千手観音立像は像高535.7cm、奈良時代の作で薬師如来と同様木心乾漆像で、
当初は千本の手を有していたと推定されていますが、現在では953本が残され、
その持物(じもつ)の大部分は後補ですが、当初からの物もあります。

梵天立像は像高186.2cm、帝釈天立像は像高188.2cm、共に奈良時代の作で
木造に乾漆が併用されています。
本来は本尊の盧舎那仏坐像の左右に安置されていましたが、
現在では本尊の手前、左右に安置されています。

須弥壇の四隅に奈良時代の作で、木造・乾漆併用の四天王立像が安置されています。
須弥壇の西南に像高187cmの増長天立像、西北に像高186cmの広目天立像、
東北に像高188cmの多聞天立像、東南に像高185cmの持国天立像が安置されています。
講堂
金堂の背後に講堂があります。
天平宝字4年(760)頃、平城宮が改修されたのに伴い、
平城宮の東朝集殿が移築・改造されたもので、国宝に指定されています。
正面9間、側面4間、切妻造であった屋根は入母屋造に改造され、
壁や建具がほとんどない開放的な建物に建具が入れられました。
更に鎌倉時代の建治元年(1275)に改造されて現在の姿となりました。
昭和45年(1970)に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の仏像が
安置されていましたが、現在では本尊の弥勒如来坐像の他、
持国天と増長天立像が安置されています。

木造弥勒如来坐像は、鎌倉時代作で像高283.3cm、膝裏の墨書きから
弘安10年(1287)の作と判明し、国の重要文化財に指定されています。
木造持国天立像は像高132.5cm、木造増長天立像は像高128.2cmで、
甲(よろい)の文様の彫り口などに唐時代の石彫との類似が指摘され、
鑑真と共に来朝した工人が制作に関与したと推定されています。
鐘楼
金堂と講堂との間の左側に鐘楼があります。
鐘楼-梵鐘
梵鐘は平安時代(794~1185)に鋳造されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
鼓楼
右側は鐘楼に対し、「鼓楼」と称されていますが、太鼓は吊るされず、
鑑真が唐から請来した仏舎利が安置され、「舎利殿」とも呼ばれています。
舎利は中国・唐時代の白瑠璃舎利壺(はくるりしゃりこ)に収められ、
白瑠璃舎利壺は南北時代作の金亀舎利塔(きんきしゃりとう)に収められています。
金亀舎利塔は、鑑真が渡海中、海に沈んだ舎利を亀が背にして浮かび上がってきた
ことの故事に因んで造られました。
鼓楼は鎌倉時代の仁治元年(1240)に建立された2階建の建物で、
外観は、上下階とも扉と連子窓(れんじまど)で構成され、
縁と高欄が取り付けられています。
建物を含め上記の全てが国宝に指定されています。
毎年、5月19日に行われる梵網会(ぼんもうえ=通称「うちわまき」)の際は、
この建物の楼上から縁起物のうちわが撒かれています。
礼堂
鼓楼の右側(東側)には南北19間の細長い建物があり、
南側の8間が礼堂(らいどう)で、北側の10間が東室(ひがしむろ)で、
その間の1間は馬道(めどう)と呼ばれる通路になっています。
礼堂は、鼓楼に安置された仏舎利を礼拝すための建物で、
現在では本尊として釈迦如来立像が安置されています。
清涼寺式釈迦如来立像で、像内納入文書から正嘉2年(1258)の造立と判明し、
国の重要文化財に指定されています。
中興の祖・覚盛(1194~1249)が始めた釈迦念仏会の本尊として造立され、
現在でも10月21日~23日の釈迦念仏会の日に公開されています。
また、日供舎利塔(にっくしゃりとう)が祀られています。
高さ47.8cmで、鑑真が唐から請来した仏舎利から分けられた
数十粒が収められています。
東室
東室は僧房で、対面する西側にも西室がありましたが、現在では失われています。
東室-うちわの柄
礼堂と東室では梵網会で撒かれるうちわの柄が天日干しされていました。
経蔵
更に礼堂の東側に経蔵があります。
奈良時代に建立された校倉造、本瓦葺の高床式の建物で、国宝に指定されています。
唐招提寺創建以前の新田部親王(にいたべしんのう)の邸宅にあった米蔵を
改造したものと伝わり、日本最古の校倉です。
宝蔵
その北側に宝蔵があります。
経蔵と同じ校倉造で、経蔵よりもやや大きく、唐招提寺の創建にあわせて建立された
と伝わり、国宝に指定されています。
滄海池
宝蔵の東側に滄海池(そうかいいけ)があります。
鑑真によって造られた池で、無辺荘厳海雲威德輪蓋龍王
(むへんしょうごんかいうんいとくりんがいりゅうおう)が祀られています。
鑑真和上が渡来の際、一番尊重し大事な信仰の中心であったのは
三千粒の仏舎利でした。
海に沈んだ舎利を鑑真和上に戻した亀は老翁へ姿を変え、
「我は輪蓋龍王である」と名乗り、「昔、釈尊の教えを受け、
入滅後はその恩に謝するため舎利を守護する誓いを立てた」と述べ、
「和上が日本に建てる寺の東南隅に必ず白い石と龍王が現れ、
舎利と戒律道場を守護すると約束しよう」と言い残して海へ消えました。
和上がこの地で唐招提寺を創建すると、約束の通りに東南隅に白い石が現れたので、
その地に池を掘って龍神の住処とし、律法鎮守の神として崇めたと伝わります。
新宝蔵
更に東へ進むと新宝蔵があります。
昭和45年(1970)に完成した鉄筋コンクリート造の収蔵庫で、
3月1日~6月30日、9月1日~11月30日、12月31日~1月3日に開館され、
訪れた2月はその期間外で閉館されていました。
館内には「旧講堂木彫仏群」と称され、もと講堂に仮安置されていた奈良時代末期から
平安時代前期の一木彫仏像群が収蔵され、一部が展示されています。
その一部、像高160.2cmの木造伝・薬師如来立像、像高173.2cmの
木造伝・衆宝王菩薩立像、像高171.8cmの木造伝・獅子吼菩薩立像は、
何れも奈良時代(710~794)の作で国宝に指定されています。
木造大日如来坐像は像高352.7cm、平安時代初期の作で
国の重要文化財に指定されています。
元、廃絶した西山大日堂の本尊と伝わり、
廃絶後は金堂東側の外陣に安置されていました。
鑑真和上の御廟-1
新宝蔵から北への石段を登った先の東に鑑真和上の御廟への門があります。
鑑真和上の御廟-2
門からは参道が続き、その先両側に葉の形の池があります。
鑑真和上の御廟-3
その池に架かる石橋を渡った先に御廟があります。
688年に中国の揚州で生まれ、14歳の時に出家し、20歳で長安ヘ入り、
仏教徒が遵守すべき戒律を伝え研究する律宗を学びました。
南山律宗の継承者となって、4万人以上の人々に授戒を行ったとされ、
713年に揚州へ戻り、江南第一の大師と称されました。
当時の日本には授戒の制度が無く、官の許可なく僧となる農民など(私度僧)が
多かったので、それを改める必要がありました。
天平14年(742)に栄叡(ようえい:?~749)と普照(ふしょう:生没年不詳)が
唐へ渡り、鑑真和上に戒律を日本へ伝えるよう懇請しました。
鑑真和上の弟子たちは日本への渡海を拒んだため、鑑真自ら渡日することを決意し、
それを聞いた弟子21人も随行することとなりました。
翌743年に渡海が準備されましたが、それを嫌う弟子の一人が偽の密告を行い、
日本僧は追放され、鑑真和上は留め置かれました。
その後も弟子の密告や激しい暴風などで渡海が阻まれ、
751年に和上は両眼を失明しました。
天平勝宝5年(753)、遣唐使・大伴古麻呂(おおとも の こまろ:?~757)の船に
鑑真和上が乗船し、6回目の挑戦で成功して同年12月に屋久島へ入港しました。
天平の甍
井上靖(いのうえ やすし:1907~1991)は、昭和32年(1957)に
戒律を日本へ伝える高僧招く使命を受けた栄叡と普照を軸とした遣唐使たちの運命を
題材として『天平の甍(てんぴょうのいらか)』を著しました。
御影堂
御廟から西へ進むと国の重要文化財に指定されている御影堂があります。
元は江戸時代(1603~1868)に建立された興福寺一条院の宸殿でしたが、
明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎となり、
昭和39年(1964)に移築修復され、御影堂となりました。
平成の大修復が令和4年(2022)3月に竣工しましたが、付属施設の工事などで
まだ公開には至っていませんでした。

堂内には鑑真和上坐像が安置されています。
奈良時代の作で、像高80.1cm、脱活乾漆造で、膝上で組んだ両手は木製です。
鑑真和上が入滅された天平宝字7年(763)頃の作と推定され、
日本最古の肖像彫刻として国宝に指定されています。

鑑真和上は天平勝宝6年(754)2月に平城京へ到着し、
第46代・孝謙天皇(在位:749~758)の勅により
戒壇の設立と授戒について全面的に一任されました。
東大寺に住し、4月に大仏殿に戒壇を築き、400名に菩薩戒を授けました。
常設の東大寺戒壇院が建立され、その後も大宰府観世音寺
下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されました。
天平宝字2年(758)に僧綱の任が解かれ、翌年唐招提寺を建立して戒壇を設け、
自由に戒律を伝えるとともに、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組みました。

また、堂内には東山魁夷(ひがしやま かいい:1908~1999)が10年を超える
歳月をかけて描いた障壁画が奉納されています。
南側は昭和50年(1975)に完成し、東の「宸殿の間」に『濤声(とうせい)』16面、
西の「上段の間」に『山雲』10面(床の間、床脇、天袋含む)の彩色画が描かれ、
日本の海と山の風景が表されています。
北側は昭和55年(1980)に完成し、鑑真像の厨子がある「松の間」に
揚州薫風』26面、西の「桜の間」に『黄山暁雲(こうざんぎょううん)』8面、
東の「梅の間」に『桂林月宵(けいりんげっしょう)』8面の水墨画が描かれ、
鑑真和上の故郷・揚州を含む中国の風景が表され、厨子の扉絵『瑞光』は
昭和56年(1981)に描かれました。
中興堂
更に西へ進むと閉じられた門があり、門内には中興堂がありますが、
通常非公開です。
「鑑真の再来」と称され、律学の復興に尽力して唐招提寺中興の祖されている
覚盛上人(かくじょうしょうにん:1193~1249)の750回忌を記念して
平成11年(1999)に建立されました。
堂内には室町時代作で、国の重要文化財に指定されている
覚盛上人像が安置されています。
開山堂
御影堂の南側に開山堂があります。
元禄時代(1688~1704)に徳川家歴代の御霊殿として建立され、
明治14年(1881)に開山堂として現在地へ移築されました。
昭和39年(1964)に御影堂が建てられたことにより、鑑真坐像は御影堂へ遷され、
覚盛上人・第45代・聖武天皇(在位:724~749)・徳川家康(1543~1616)の
坐像を安置した「本願殿」とされましたが、老朽化による改修工事が行われ、
平成25年(2013)に再び開山堂へと戻されました。
堂内には国宝・鑑真和上坐像の「御身代わり像」が安置されています。
芭蕉句碑
開山堂の左前に松尾芭蕉(1644~1694)の句碑があります。
「若葉して 御目(おんめ)の雫(しずく) 拭(ぬぐは)ばや」
芭蕉が貞享5年(1688)4月8日に当寺へ詣で、
鑑真和上像を拝して詠まれた句です。
「周囲の樹々の瑞々しい若葉でもって、
鑑真和上のお目の涙をそっと拭ってさしあげたい」との意味になります。

その碑の西側には食堂がありました。
奈良時代の唐招提寺には南大門、西南門、北土門、中門、金堂、経楼、鐘楼、講堂、
八角堂3基、食堂(じきどう)、羂索堂(けんさくどう)、僧房、小子房、温湯室、
倉などが建ち並び、南大門、西南門、北土門、中門、金堂は鑑真の弟子で
ともに来日した如宝(?~815)により造営されたことが判明しています。
講堂は、平城宮の東朝集殿が移築・改造され、
食堂は藤原仲麻呂(706~764)、羂索堂は藤原清河(ふじわら の きよかわ:
生没年不詳)から寄進されました。

平安時代中期以降は唐招提寺は衰微し、
保延6年(1140)の記録では金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などを
残すのみとなっていました。
鎌倉時代(1185~1333)、第87代・四条天皇(在位:1232~1242)に
覚盛上人が菩薩戒を授けたこともあって、唐招提寺は再興され、
覚盛上人は中興の祖とされました。
しかし、南北朝時代(1337~1392)以降は戦乱によって寺領の多くが没収されるなど
再び衰退し、江戸時代に唐招提寺で授戒を受けた
護持院隆光(1649~1724)が第5代将軍・徳川綱吉(在職:1680~1709)と
その母・桂昌院(1627~1705)の帰依を受けたことにより、
唐招提寺も綱吉と桂昌院の帰依を受け、庇護されました。
水鏡神社-鳥居
境内を出て、東へ進み秋篠川に沿って北上し、西へ入った所に
水鏡神社があります。
水鏡神社-1
元は唐招提寺の鎮守社で、菅原道真(845~903)公を祭神とし、
社殿前には臥牛像が祀られています。
水鏡神社-本殿
本殿
宝蔵の東側にあり、鑑真和上が自ら掘って造られた滄海池(そうかいいけ)に近く、
元は無辺荘厳海雲威德輪蓋龍王(むへんしょうごんかいうんいとく
りんがいりゅうおう)が祀られていたのかもしれません。
明治の神仏分離令により、水鏡神社は唐招提寺から独立しましたが、
現在でも管理は唐招提寺によって行われています。
本殿の左側にはかっては2社ありましたが、現在は1社のみが残されています。
崇道天皇(すどうてんのう750~785)を祀る西宮社か
伊予親王(783~807)を祀る若宮社のどちらかと思われます。
水鏡神社-井戸
本殿の右側に、現在は花崗岩の切石で蓋がされた井戸があります。
昌泰4年(901)に大宰府への左遷を下された道真が、大宰府へ向かう途中に
当地へ立ち寄りこの井戸に姿を映したと伝わります。
この故事により菅原道真が祀られるようになったと思われます。

第11代・垂仁天皇(在位:BC29~70)の菅原伏見東陵へ向かいます。
続く
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