カテゴリ:和歌山県 > 高野山・九度山町周辺

表門
午前5時に自宅を出発し、バイクで慈尊院へ向かいました。
スマホの地図アプリの更新や細々としたトラブルの連続で、予定より約1時間遅れの
8時30分頃に慈尊院に到着しました。
慈尊院は山号を万年山と号する高野山真言宗の寺院で、
仏塔古寺十八尊霊場の第6番札所となっています。
表門(北門)は切妻造り、本瓦葺の四脚門で、親柱は円柱、控え柱は面取り角柱からなり、
県の文化財に指定されています。
土塀
築地塀(土塀)は、境内の周囲3方約119mにわたり、棟高2.9mで和歌山県一の古さと
壁の厚さがあり、県の文化財に指定されています。
下乗石
表門前の左側に下乗石があり、九度山町の文化財に指定されています。
保延2年(1136)に建立されたもので、かって、高野山へは皇族や貴族であっても
徒歩で登るのが原則とされ、ここで馬や御輿から降りました。
県下最古の下乗石ですが、天文9年(1540)に紀の川の大洪水によって破損し、
「下」の字から上部のみが現在地に移されました。
慈尊院は、弘仁7年(816)に弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たる
この地に、表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置き、
高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。
当時の慈尊院は、「慈氏寺(慈氏とは弥勒菩薩のこと)」と称され、今の場所より北側にあり、
方6丁の広さがあったと伝わります。
天文9年(1540)の紀ノ川の氾濫により諸堂の大半が流失し、弥勒堂だけは
文明6年(1474)に現在地に移してあったので、流失を免れました。
残った堂塔を弥勒檀に縮小移転し、天文10年3月に落慶供養が営まれましたが、
政所の事務や宝蔵の什宝は山上に移されました。
天文13年(1544)7月にも再度、紀ノ川に大水が出て、残っていた旧慈氏寺は、全て失われました。
五輪塔
表門を入った右側に二基の五輪塔がありますが、塔の建て方の順番が異なっています。
承安元年(1171)12月、慶幸俊厳の放火によりたくさんの経巻、道具類が焼失し、
その悲しみのうちに建てられ、町の文化財に指定されている五輪塔二基がありますが、
この塔がそれなのかは定かではありません。
大師堂
大師堂(四国堂)には弘法大師像と脇仏として四国八十八霊場の各本尊が祀られています。
賓頭盧尊者像
大師堂の縁側には賓頭盧尊者像が安置されています。
多宝塔
大師堂の先に多宝塔があり、県の文化財に指定されています。
弘法大師によって創建された後、現在の塔は寛永元年(1624)に再建されました。
本尊は胎蔵界大日如来で、胎蔵界四仏が脇仏として安置されています。
鬼子母神堂
大師堂と多宝塔の間に許梨帝母(かりていぼ=鬼子母神)を祀る社殿があります。
鬼子母神は多くの子を持ち、これらの子を育てるだけの栄養をつけるために
人間の子を捕えて食べていました。
しかし、釈迦に諭され、仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。
ナギの木
社殿の背後に聳える「ナギの木」は樹齢350年以上で、胸高の幹回り2.03m、樹高15mあり、
町の天然記念物に指定されています。
観音像
社殿の左側に観音像が祀られています。
弥勒堂
表門を入った右側に本堂(弥勒堂)があります。
弘法大師が開いた高野山を一目見たいと母の玉依御前は讃岐国多度郡
(現:香川県善通寺市)から訪れました。
しかし、当時の高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、
麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰しました。
弘法大師は月に9度、高野山から下って母に会いに来たことから
「九度山」の地名の由来となりました。
玉依御前は訪れた翌年の承和2年(835)2月5日に亡くなり、大師はここに廟堂を建立し、
自作の弥勒菩薩像と母の霊を祀り、母の法号「慈尊院」をとって当寺の院号としました。
廟堂は文明6年(1474)に現在地に移され、国の重要文化財に指定され、
世界遺産に登録されています。
本尊の弥勒菩薩坐像は平安時代作で国宝に指定され、21年に1度開帳されます。
高野山詣では、まず高野山の玄関である慈尊院の弥勒菩薩と縁を結び罪業を流してから
山上へ登って行くのが、高野山への本参りとされています。
慈尊院は高野山の結縁寺と呼ばれています。
乳房形絵馬
弥勒堂前には多数の乳房形絵馬が奉納されています。
慈尊院は女人高野として、子授け、安産、育児、授乳、良縁などを願って
乳房形の絵馬を奉納する女性が多く訪れるそうです。
地蔵像
弥勒堂前の左側には約100体の地蔵像が祀られています。
大日如来像
弥勒堂前の右側には胎蔵界大日如来像が祀られています。
拝所-1
弥勒堂の向かい側に排堂があり、北側は納経所となっています。
慈尊院は仏塔古寺十八尊霊場の第6番札所となっています。
納経所の絵馬-1
納経所の絵馬-2
納経所の上部には絵馬が掲げられています。
拝所-南側
拝所の南側
噴水
拝所の東側は広場で中央に噴水があります。
修行大師像
山際には修行大師像とその横に案内犬ゴンの像が祀られています。
ゴンは白色の紀州犬と柴犬の雑種の雄で、住所不定の野良犬でしたが、
昭和60年代(1985~1989)に慈尊院近くに住着き、慈尊院から聞こえる
鐘の音を好んだことから「ゴン」と呼ばれるようになりました。
最初の頃は九度山駅と慈尊院の間を案内するだけでしたが、いつしか慈尊院を
ねぐらとして、高野山町石道の約20kmの道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の
大門まで道案内し、夜には慈尊院に戻るという毎日を送るようになりました。
約1200年前の弘法大師の時代にも高野山の案内犬がいたという伝説があり、ゴンは
その再来・生まれ変わりとして参詣者から愛されましたが、
平成14年(2002)6月5日に息を引き取りました。
鐘楼
修行大師像の左前の奥に鐘楼があります。
かって、この地に弁財天と稲荷明神を厚く信仰した後藤角女と称する老婆が、人々を救済し、
功徳報恩報謝のために鐘楼堂を建立したと伝わります。
弁財天と稲荷社-1
鐘楼の左側に弁財天と稲荷明神が祀られた社殿があります。
弁財天と稲荷社-2
右に弁財天、左に稲荷明神が祀られています。
丹生官省符神社への石段
多宝塔前から丹生官省符神社への石段があります。
町石
その石段を上った鳥居の手前の右側に第一番目の町石が建立されています。
弘法大師は山上の根本大塔から慈尊院までの一町(約109m)毎に木製の
卒塔婆(そとうば)を180本を建て、信仰の道としました。
老朽化のため鎌倉時代の文永2年(1265)頃に石造の町卒塔婆建立が発願され、
20年の歳月をかけて弘安8年(1285)に完成し、現在でもその8割以上にあたる
150本の石柱が建立当時のまま残されています。
また、慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が
合計4基置かれています。
高野山町石道は「高野参詣道」として国の史跡に指定され、平成16年(2004)7月には、
世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として登録されました。

丹生官省符神社へ向かいます。
続く

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石段
慈尊院の多宝塔前から丹生官省符神社へ119段の石段があります。
石の鳥居
その中間辺りに石の大鳥居が建ち、九度山町の文化財に指定されています。
宝永2年(1705)3月に九度山の村民により九度山槙尾山明神社の参道に建立されました。
明治43年(1910)に町内の九度山、入郷、慈尊院の三地区の氏神社、
無格社が丹生官省符神社と合祀されたのに伴い、
大正10年(1921)8月に現在地へ移されました。
両部鳥居
石段を上った所には丹塗りの両部鳥居が建っています。
拝殿
鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
本殿
拝殿奥の本殿は三棟から成り、現在の本殿は天文10年(1541)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
また、平成16年(2004)7月には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
一部として登録されました。
社伝では弘仁7年(816)に空海によって慈尊院と共に丹生高野明神社として
創建されたと伝わります。
空海は霊地・高野山の存在を教えられた狩場明神(高野御子大神)とその母である
丹生都比売大神を高野山の入り口である当地に祀りました。
永承4年(1049)に金剛峰寺は紀の川北岸地域及び南岸地域一円の支配を求め、
朝廷は租税官物免除と国使不入(国が干渉しない)正式な荘園であることを認めました。
これが官省符荘です。
文明6年(1474)に慈尊院の弥勒堂が現在地に移された際に、丹生官省符神社も
一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移されました。
その時、気比、厳島二神を合わせ祀って四神とし、古くからこの地に鎮座していた
天照、八幡、春日の三神を合祀して七社明神としました。
その後、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し、官省符荘の鎮守社とされてきました。
天正18年(1590)、豊臣政権は金剛峯寺の所領を一時没収した際に官省符荘などの
金剛峯寺領は解体されましたが、その後、豊臣政権から改めて寺領が与えられました。
明治43年(1910)に九度山、入郷、慈尊院(現・九度山町)にあった諸社を合祀し、
昭和21年(1946)に丹生官省符神社の社号に改められました。
現在は第一殿に丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)、
高野御子大神(たかののみこのおおかみ=高野明神)、天照大御神、
第二殿に大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ=気比明神)、
誉田別大神(ほんだわけのおおかみ=八幡神)、天児屋根大神(春日大神)、
第三殿に市杵島比売大神(厳島明神)、合祀祭神が祀られています。
出会いの図
拝殿前の左側に空海と狩場明神出会いの図が描かれています。
弘仁年間(810~824年)、空海は真言密教修法の道場の根本地を求めて、東寺を出立ち
各地を行脚され、途中、大和国宇智郡に入られた時、1人の気高い猟師に出会い
「高野」という山上に霊地のあることを教えられました。
猟師は、従えていた白・黒二頭の犬を放たれ、空海を高野山へと導かれました。
此の処は天下無双の霊地であり、空海は地主神が姿を猟師に現し、
化現狩場明神(けげんかりばみょうじん)となり、神託として一山(高野山)を
与え下さったものであると、想念の内に感得されました。
招魂社
境内の東側にある招魂社は伊勢神宮及び高野山遥拝所となっています。
楊柳山
境内の西側に社務所があり、丹生官省符神社は神仏霊場・第11番札所となっています。
社務所前から尖った楊柳山の山頂が望めます。
高野山を真言密教の根本道場として開いた弘法大師は、高野山全体を十六弁の
八葉蓮華にたとえ、中心にある大塔の四方四隅の峰を内八葉、
奥ノ院の外にそびえる八峰を外八葉と見立てました。
楊柳山はその外八葉の一峰で、高野山の北部に位置し、
十六葉の峰の中では最も高く、標高は1009mあります。

かつらぎ町兄井にある鎌八幡宮・諏訪明神社から
かつらぎ町三谷にある丹生酒殿神社・鎌八幡宮へ向かいます。
続く

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鎌神社-社標
慈尊院から西へ進み、少し山手へ登ったかつらぎ町兄井に鎌八幡宮と諏訪明神社があります。
鎌八幡宮の御神体は、三韓討伐の際に神功皇后が用いた幡と熊手とされています。
当初は、讃岐国の多度津辺りに祀られ、「熊手八幡」と称されていましたが、
弘法大師が高野山を開山した時に大師を慕い追ってきました。
伝承では幡は上空を飛んできて、紀の川べりの松の木に引っ掛かったとされ、松の木があった
兄井の跡地には「幡掛松跡」の石碑が建てられています。
また、白龍が紀の川を遡上してきて、やがて熊手に姿を変え、兄井村の神主によって
引き取られ、神社の木に立てかけられていました。
ある日、農作業をしていた村人が鎌をその木に打ち付けて休憩し、その後、
鎌を抜こうとしたのですが、引き抜くことができなくなりました。
この話を聞きつけた高野山の僧侶はきっと霊験のあるものだと幡と熊手を
高野山に持ち帰りました。
幡と熊手は高野山行人方のお守りとして、幡と熊手を担いで山内の寺を巡る、
「巡寺八幡」と呼ばれる儀式が明治まで行われていました。
行人方は、寺院の管理・法会といった実務を行った集団で、僧兵としての役割も担いました。
明治の神仏分離令による変遷を経て、幡と熊手は兄井の鎌八幡宮に戻されました。
その後、神社と小祠(しょうし)の統廃合が行われ、明治40年(1907)までには兄井、
寺尾の神社が丹生酒殿神社に合祀されました。
諏訪神社
石段を上った所に諏訪明神社があります。
鎌神社
諏訪明神社の左側に鎌八幡宮があります。
鎌神社-御神体
鎌八幡宮の御神体はイチイガシの木で、『紀伊続風土記』によると、イチイガシの木に
鎌を打ち込むことで、これを献じて祈願成就を願います。
成就する場合は鎌がさらに深く食い込んでいき、叶わない場合はそのまま木から
外れ落ちるという不思議なことが起きるとされています。
三谷こども園
鎌八幡宮から三谷の方へと戻る県道沿いに三谷こども園があります。
以前は三谷小学校で、明治時代には「臨降小学校」と呼ばれていました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、丹生酒殿神社の別当護摩院の建物は
臨降小学校の校舎に転用されました。
酒殿神社-鳥居
三谷こども園前を通り過ぎた先で山手に入った所に丹生酒殿神社があります。
神社がある榊山一帯は、原初、先祖霊を祭祀する聖域でした。
第10代・崇神天皇の御代(BC97~BC30)、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が、
その第一御子・高野明神と120の眷属を従え、七尋滝(ななひろのたき=酒殿神社の裏手)に
降臨されたと伝わります。
丹生都比売大神は、天照大御神の妹神であり、高野御子と共に大和・伊勢地方を巡歴し、
農耕、糸紡ぎ、機織り、煮炊きなどを人々に教えられました。
また、紀の川の水で酒を醸して神に供えられたことが、
丹生酒殿神社の社名の由来となっています。
昭和10年(1935)には丹生都比売神社の摂社として合併されましたが、
戦後、三谷、兄井、寺尾の氏神に復しました。

酒殿神社を実質的な基点とする三谷坂は神社を含め、高野参詣道の一つとして
平成28年(2016)に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産に追加登録されました。
三谷坂は、平安時代には既に開かれており、朝廷からの勅使が高野山へ向かう道として
用いられたことから古くは「勅使道」と呼ばれました。
酒殿神社に参拝した後、社殿の背後にある七尋滝で水垢離による潔斎を行い
三谷坂を登り始めました。
三谷坂は丹生都比売神社に至り、高野山町石道へ合流する平安時代には
高野山参詣の最短の道でした。
沿道には弘法大師の笠が風で吹き飛ばされ、笠が引っ掛かったとされる「笠石」があります。
酒殿神社-銀杏の木
境内に入った右側には大銀杏の木が聳えています。
酒殿神社-拝殿-1
酒殿神社-拝殿-2
鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
酒殿神社-本殿
本殿は右から小社、右座、中座、左座の四殿から成ります。
小社には諏訪明神と八王子神、右座には丹生都比売大神(丹生明神)、
中座には高野御子大神(狩場明神)、左座には誉田別大神(熊手八幡)と
市杵島比売大神(厳島明神)が祀られています。
また、若力大神社(わかりきおおかみしゃ)は、榊山山頂の若力大神が祀られています。
榊山神社
本殿の左側には榊山神社があり、第二次世界大戦で亡くなられた
56柱の英霊が祀られています。
酒殿神社-鎌神社石碑
拝殿前の左側には「鎌八幡」の石碑が建っています。
酒殿神社-鎌神社鳥居
本殿の右側を進むと鎌八幡宮の鳥居が建っています。
酒殿神社-鎌神社
酒殿神社-鎌神社御神体
本殿の裏側に当る山の斜面にイチイガシの大樹を御神体として鎌八幡が祀られています。

丹生都比売神社へ向かいます。
続く

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外鳥居
丹生酒殿神社から少し東へ進み、その先で右折して県道109号線を
約15分進んだ先に丹生都比売神社があります。
外鳥居は神仏習合の名残である両部鳥居で、
両部とは密教の金剛界・胎蔵界を指します。
空海は唐で習得した真言密教の修験の拠点を神々の鎮まる山、高野山に求め、
まず守護神として丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)と
高野御子大神(たかのみこのおおかみ)を祀る社を建てました。
これが日本における「神道と仏教の融合」の始まりとされています。
境内の古絵図には多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の
仏教建物が描かれ、その一部の遺構も残されていることから、
境内は国の史跡に指定されています。
輪橋
外鳥居をくぐった先に鏡池があり、輪橋が架けられています。
日本で数少ない木造で大型の反り橋で、平成27年(2015)6月から
平成28年3月までの10ヵ月にわたり、塗装の塗り直しや、
腐朽した木部の補修が行われました。
弁財天
橋の右側には島が見え、島には弁財天を祀ると思われる小さな祠があります。
中鳥居
橋を渡った先に禊橋があり、その先に中鳥居の両部鳥居が建っています。
楼門
中鳥居をくぐった正面にある楼門は室町時代中期に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本殿
本殿は四殿から成り、第四殿の左側に若宮があり、本殿の四殿はいずれも
同形式・同規模の一間社春日造の檜皮葺で日本一を誇り、
国の重要文化財に指定されています。
また、本殿、楼門及び境内はユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
一部として登録されています。
向かって右側の第一殿は江戸時代の正徳5年(1715)の造営で、
丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が祀られています。
第二殿は室町時代の文明年間(1469~1486)の造営で、
高野御子大神(たかののみこのおおかみ)が祀られています。
第三殿は明治34年(1901)の造営で、
大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)が祀られています。
第四殿は室町時代の文明元年(1469)の造営で、市杵島比売大神が祀られています。
若宮には真言宗の木食僧・行勝上人が祀られています。
行勝上人は、鎌倉時代に気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から
市杵島比売大神を勧請し、神社の発展に尽力しました。
丹生都比売神社は、延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では名神大社に列っせられ、
明治6年(1873)の近代社格制度では県社に列し、大正13年(1924)に官幣大社に昇格しました。
現在は神社本庁の別表神社で、神仏霊場の第12番札所となっています。

丹生都比売神社が創建された詳細は不明ですが、『丹生大明神告門(のりと)』では、
第10代・崇神天皇の御代(BC97~BC30)、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が、
その第一御子・高野明神と120の眷属を従え、
七尋滝(ななひろのたき=丹生酒殿神社の裏手)に降臨されたと伝わります。
丹生都比売大神は、天照大御神の妹神であり、高野御子と共に大和・伊勢地方を巡歴し、
農耕、糸紡ぎ、機織り、煮炊きなどを人々に教えられました。
その後、現在地である天野の地に鎮まったとされています。
丹生都比売神社は「天野大社」、「天野四所明神」とも呼ばれます。
弘仁7年(816)、空海が金剛峰寺を開いた際、丹生都比売神社から神領を譲られたと伝わります。
佐波神社-1
佐波神社-2
楼門前を左に進んだ所にある佐波神社は、明治時代に上天野地区の諸社が合祀されました。
多宝塔跡
佐波神社の左側には小川が流れ、小川を渡って右側(東側)へ進んだ先に
多宝塔跡と御影堂跡があります。
多宝塔は雅真(がしん)僧都によって建立され、胎蔵界大日如来を安置し、
神社周辺に建立された仏教建物の中心的な存在でした。
雅真僧都は天暦6年(952)に金剛峰寺座主・寛空に招かれ、落雷で焼失した
高野山奥之院の弘法大師廟塔を再建し、この時期に多宝塔も建立されたと推定されています。
雅真僧都は永観元年(983)に検校となり、正暦5年(994)に再び落雷で炎上した
大塔や講堂などの修復に、天野に居を移して尽力しました。

御影堂は源頼朝の正室・尼御台(北条政子)により、建暦元年(1211)に建立されました。
尼御台は熊野詣での帰りに天野社に立ち寄り、三、四社殿の建立を寄進しました。
更に女人禁制で高野山に登れない女人のためと、
夫・頼朝の菩提を弔うために御影堂を建立したと伝わります。
五輪卒塔婆
御影堂跡から東へ進んだ所に鎌倉時代から室町時代に建てられた
石造の五輪卒塔婆4基があります。
高さは2.1mから3.6mあり、向かって右側の4号塔に延元元年(1336)、
2号塔に正安4年(1302)、1号塔に正応6年(1293)、3号塔に文保3年(1319)の刻銘があります。
大峯修験者が大峯入峯に際し建てた碑で、和歌山県の有形文化財に指定されています。
光明真言曼荼羅碑
五輪卒塔婆の左側にある光明真言曼荼羅碑は、寛文2年(1662)に建立され、
正面の円形の部分に中央下より、時計回りに梵字で光明真言が、
背面には多くの僧名が刻まれています。
この頃より光明真言講が形成され、この形の碑が建立されるようになりました。
光明真言は、正式には不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)と云い、
23の梵字と最後の休止符「ウン」を加え、合計24の梵字から成ります。
金剛界五仏(五智如来)に対して光明を放つように祈願している真言とされています。
石龕
また、付近には石龕(せきがん)もありますが、詳細は不明です。

高野山へ向かいます。
続く

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大門



丹生都比売神社から南進し、国道480号線へ左折して
東方向へ進んだ先に大門があります。
大門が創建されたのは平安時代の永治元年(1141)と推定されていますが、
かっては九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。
その後、落雷や山火事等で再三焼失し、その都度再建されてきましたが、
現在の建物は江戸時代の宝永2年(1705)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
五間三戸の二階二層門で、高さ約25.1m、横幅約21.4m、奥行約10mあります。
大門-聯
門には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という
聯(れん)が掲げられています。
「弘法大師は毎日御廟から姿を現され、所々を巡っては我々を救ってくださっている」という
意味であり、同行二人信仰を表しています。

大門-仁王像左


大門-仁王像右


















門の左右に安置されている仁王像は江戸中期に活躍した大仏師である
運長と康意の作で、東大寺南大門の仁王像に次ぐ大きさを誇ります。
櫻池院-山門

大門前で国道は大きくカーブして進んだ先、中門前に駐車場があります。
満車でしたが、隅っこにバイクを置き、少し戻って南へ進んだ所に櫻池院(ようちいん)があります。
櫻池院-庭園1
櫻池院-庭園2
宿坊で建物内の拝観はできませんが、庭園は国の登録記念物に指定されています。
昭和27年(1952)に重森三玲氏によって作庭され、龍安寺の石庭と同数の
15石を用いて石を組み、周囲を苔地、全体には白砂を敷いた枯山水の庭園です。
櫻池院-玄関
玄関
櫻池院は平安時代末期に白河天皇の第四皇子である覚法親王によって開基されました。
創建当初は光恩寺養智院と称されていましたが、鎌倉時代の正嘉2年(1258)3月に
第88代・後嵯峨天皇が高野山へ御幸の際、養智院を訪れました。
天皇は養智院の池の畔に咲く桜が池に映る光景に感銘を受け、
「桜咲く 木の間もれ来る 月影に 心も澄める 庭の池水」と詠みました。
このことから「櫻(桜)池院」と改称されました。
櫻池院の精進料理はNHKの「アサイチ」でも紹介されました。

また、隣接している成慶院の管理も行っています。
成慶院は竹田信玄の菩提寺として、 信玄公に関する宝物が多数残されています。
奥之院の櫻池院墓所には信玄及び竹田一族の墓があります。
宝亀院-山門
櫻池院の南側を西へ進んだ所に宝亀院があり、御衣寺(おころもでら)とも呼ばれています。
延喜21年(921)10月21日の夜、第60代・醍醐天皇の枕元に空海が現れました。
その姿は、髪や髭が伸び放題で、袈裟や衣も汚れて破けていました。
そして、「高野山 結ぶ庵に 袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月」と
詠むと突如として姿を消しました。
天皇は10月27日に「弘法大師」の号を授けると、勅使を高野山へと遣わしました。
すると、11月5日の暁になって高野山奥之院の弘法大師御廟の前で祈っていた
東寺長者の観賢僧正の眼前に、
髪や髭は伸び放題で袈裟や衣も汚れて破けている空海が現れました。
観賢僧正は空海の髪や髭を剃って奇麗にし、
新しい袈裟と衣に着替えてもらうと、空海は消えました。
以来、毎年空海の命日である3月21日に新しい衣を弘法大師御廟に供えるようになりました。
この報告を受けた醍醐天皇は、観賢を開山として高野山内に勅願寺を建立し、
空海が宝亀5年(774)6月15日に生まれたことから、寺の名を宝亀院としました。
宝亀院-玄関
宝亀院-井戸
玄関の左側には観賢僧正が掘ったとされる井戸があり、毎年3月17日に
井戸から汲ん水で衣を染める「弘法大師御衣加持」が行われ、
それを3月21日に弘法大師御廟に供える「弘法大師御衣替法要」が営まれます。
宝亀院-本堂
井戸の左側を奥へ進んだ所に本堂があります。
本尊は弘法大師作と伝わる十一面観世音菩薩像で、第52代・嵯峨天皇の御代から
宮中で祀られていたものを、醍醐天皇が宝亀院の本尊としました。
また、新西国霊場・第6番の札所本尊でもあり、国の重要文化財に指定されています。
堂内には弘法大師作と伝わる弁財天像が安置されています。

壇上伽藍へ向かいます。
続く

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