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楼門
自宅から久安寺へはバイクで、亀岡を経由して国道423線を南下して向かいました。
久安寺は国道423線に面し、国道が西側へ曲がった所に楼門があります。
楼門は室町時代初期の応永年間(1394~1428)の建立とされ、国の重要文化財に指定されています。
「水平の無い軒反り」という他に類例のない技法で造られ、「最も美しい楼門」と評価されています。
仁王像-左
仁王像-右
南北朝時代の作とされる仁王像は親柱の後方に安置され、親柱は通路上を高くし、
前面を広くした「仏堂形式」が採られています。
残念ながら楼門前はフェンスで囲われ、楼門を通行することはできません。
楼門の右側にある鉄製の引き戸から境内に入ることができます。
本坊-門
参道を北へ進むと本坊(小坂院)がありますが、公開はされていないようです。
明治以前には楼門内に49の子院があったそうですが、現在残されているのはこの一院のみです。
具足池
駐車場から西へ進んだ所でもあり、本坊前の広場には円形の「具足池」があります。
「吾(われ)、唯(ただ)、足(た)るを知る心」
中央の岩の上には修行大師像が祀られています。

画像はありませんが、拝観受付の前に立つ榧(かや)の老木は、豊臣秀吉の手植えとされています。
受付所は納経所も兼ねています。
久安寺は山号を大澤山と号する高野山真言宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第18番、
関西花の寺二十五霊場・第12番などの札所となっています。
御影堂-1
御影堂-2
拝観料300円を納めて境内に入り、西側の石段を上った所に御影堂があります。
寺伝によると久安寺は、神亀28年(725)に聖武天皇の勅願を受け、行基が開創したと伝わります。
その後、天長年間(824~833)の頃に空海が真言密教の道場として中興したとされています。
空海は現在の霊園の地に留錫(りゅうしゃく)したとされ、その草庵跡地に弘法大師を祀る御影堂が建立され、明治末年に現在地に移築されました。
遍照殿扁額
遍照金剛大日如来は弘法大師の金剛名で、
御影堂には「遍照殿(へんじょうでん)」の扁額が掲げられています。
堂内には弘法大師像、行基菩薩像、及び安元年(1175)に久安寺を再興した
賢実上人の像が安置されています。
三十三所堂
本坊から御影堂、そして本堂へは渡廊下で結ばれています。
御影堂から本堂への渡廊下は「三十三所堂」と呼ばれ、西国観音霊場の各本尊が祀られています。
また、33mの須弥壇に慰霊壇があり、自宅に仏壇を持たない人の先祖霊、遺骨が祀られています。
渡廊下をくぐると四国八十八か所のお砂踏み巡拝霊場が設けられている弥勒山への入口がありますが、
一周1080m(約1時間)の山歩きとなります。
また、三十三所堂の背後に、薬師堂と対面するように阿弥陀堂があります。
鐘楼
御影堂から石段を下り、参道を北へと進むと鐘堂があり、「開運殿」の扁額が掲げられています。
昭和の本堂建立時に新築されました。
鐘楼-内部
堂内の四隅には来迎の際に阿弥陀三尊と共に現れ、楽器を奏でる菩薩像が祀られています。
鐘楼-梵鐘
「開運の鐘を撞いて仏前に」と記されています。
腰掛石
鐘堂の手前に「腰掛石」があります。
豊臣秀吉が月見の会を催した時に腰を掛けた石と伝わり、元は三光社がある阿字山の山頂にありました。
薬師堂
鐘堂から東へ進んだ所に薬師堂があり、「瑠璃光殿」の扁額が掲げられています。
平成元年(1989)に西国四十九薬師霊場会が開創されたのを記念して建立されました。
前面ガラス張りの近代的な建物で、堂内は広く、椅子が並べられて
各種行事に使用されるように見受けられます。
薬師堂-堂内
本尊は薬師如来立像で、その両側に日光・月光の両菩薩図、
更にその両側に金剛界・胎蔵界の両曼荼羅図が掲げられています。
芳泉庭-2
芳泉庭-3
薬師堂の北側に「芳泉庭」が築かれています。
「東方瑠璃光浄土」の世界を具現化されたものでしょうか?
仏足石
また、釈迦が悟りを開いたとされる庭園の趣旨から仏足石が祀られています。
本堂前のつつじ
本堂前のツツジは満開で、本堂へいざなってくれているように思えます。
本堂-1
本堂-2
本尊は定朝作とされる千手観音立像で、第68代・後一条天皇(在位:1016~1036年)の
勅願によるものと伝わります。
胎内には聖武天皇勅願で、行基が感得したとされる千手観音が納められています。
本尊は秘仏で非公開です。
普供養の庭
本堂の左側には信者の方々によって築かれた「普供養の庭」があります。
「心字池(しんじいけ)」には大師ゆかりの光明泉から水が引かれているそうですが、現在は枯れていました。
本堂西側の参道
本堂の西側を北へと進む参道脇には牡丹の花が咲いています。
バン字池-1
本堂の裏側には「バン字池」があります。
バン字池-2
バン字池-本堂裏
バン字池の北岸から本堂を望みます。
虚空園
「バン字池」の東側に木立が聳える「阿字山」があり、
「バン字池」と「阿字山」を含めた庭園全体が「虚空園」と称されています。
アジ山-修行大師像
「阿字山」の麓には修行大師像が祀られています。
平成23年(2011)、久安寺開創1300年、高野山開創1200年を記念して、
開創時に鐘撞堂のあったこの地に像が祀られました。
愛宕地蔵尊
修行大師像の奥に愛宕地蔵尊(将軍地蔵)の像が祀られています。
三光社
山頂には久安寺の伽藍神である三光大善神を祀る三光社があります。
豊臣秀吉はこの山頂で月見の会を催し、三光社に祈願したと伝わります。
地蔵堂
北の仏塔へと向かう参道は「両果(りょうが)の道」と呼ばれ、参道を進んだ右側に地蔵堂があります。
明治末年に廃寺となった久安寺別院・菩提寺の本尊であった僧形地蔵菩薩像が安置されています。
行基像
参道の左側には行基菩薩像が祀られています。
朱雀池
参道の先には朱雀池があります。
神亀2年(725)にこの地に辿り着いた行基は、この池から閻浮檀金(えんぶだごん)の小観音を感得し、
聖武天皇の勅願を受け安養院を開創しました。
「閻浮」は須弥山のまわりにある四大陸の一つで、南にある大陸の閻浮提で、 「檀」は川を意味しています。
 閻浮提の大木の下にある金塊のことや、その近くにある川の砂金とされ、良質の金という意味があります。
天長年間(824~833)の頃、空海が真言密教の道場として中興した後、久安元年(1145)に
賢実上人が近衛天皇の勅願を受け、祈願所として中興され、「久安寺」と改称されました。

池には弁財天が祀られています。
仏塔
朱雀池に架かる橋を渡った正面に仏塔があり、創建時にはこの地に伽藍が建立され、
大正年間(1912~1926)まで本堂がありました。
仏塔は「舎利殿涅槃堂」と呼ばれ、平成18年(2006)に中国・福建省の石材と技術により建立されました。
涅槃像
堂内には像高6.4mの涅槃像が安置されています。
レリーフ-生誕
壁には釈尊の誕生から入滅までのレリーフが祀られています。
釈尊はマーヤーの右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、
『天上天下唯我独尊』と語ったと伝わり、マーヤーは出産した7日後に亡くなったとされています。
レリーフ-出城
釈尊はインドとネパールの国境付近にあったカピラ城で、マーヤーの妹マハープラージャーパティ
によって育てられました。
ある時、釈尊が東門から出ると、老人に会い、南門から出ると病人に会い、西門を出ると死者に会い、
この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じました。
北門から出た時に一人の沙門(=修行者)に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、
出家の意志を持つようになったとされています。
レリーフ-修行
釈尊は29歳で出家し、林に入って様々な苦行を行うと、父は警護も兼ねて五人の沙門を同行させました。
僅かな水と豆類などで何日も過ごした断食修行では、骨と皮のみのやせ細った肉体となり、
極端な苦行も不適切であると悟って苦行を止めました。
五人の沙門は、釈尊は修行を放棄した堕落者と軽蔑し、釈尊の元を去りました。
レリーフ-布施
釈尊はナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳粥(ちちがゆ)の布施を受け、
体力を回復して菩提樹の下に坐して瞑想に入りました。
レリーフ-降魔
釈尊の成道が近いことを知った魔王は、これを阻止するために様々な妨害を行いました。
魔王はまず三人の魔女を使わし、その誘惑によって釈尊の心を乱そうとしました。
釈尊の心が動じないことを見ると、今度は悪魔の軍勢を率いて、武力でもって釈尊の瞑想を妨げようとしました。
しかし、悪魔の放った矢は釈尊に近づくと悉く花びらとなって落ち、石の雨、剣の雨も釈尊を
傷つけることはできませんでした。
『悪魔よ、汝は敗れたり!』、こうして釈尊は責めくる悪魔の誘惑を悉く滅ぼし、
最後の瞑想に入り、35歳の時に悟りを開かれ、仏陀となりました。
レリーフ-初転法輪
初転法輪(しょてんぼうりん)
悟りを開いた釈尊に天上に住む梵天が現れ、人々に真理を説くことを勧めました。
釈尊は去って行った五人の沙門を最初に教えを説くべき相手と決め、五人に向かって静かに語りかけました。
これが釈尊最初の説法(初転法輪)で、五人は改めて釈尊の弟子となりました。
十大弟子象-1
十大弟子象-2
堂内の柱には十大弟子の像が刻まれています。
慈母の庭
仏塔の左側には「慈母の庭」が築かれています。
五輪塔の庭
仏塔の右側には五輪塔の庭が築かれています。
仏塔-修行大師像
五輪塔の庭の前には修行大師像が祀られています。
本堂への渡り廊下
「バン字池」の西側を進むと本堂への渡り廊下が望めます。
阿弥陀堂
「三十三所堂」の背後と画像に収められませんでしたが、右側に阿弥陀堂があり、
文化財収蔵庫にもなっていますが、通常は非公開です。
重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像を本尊とし、池田市の文化財に指定されている
薬師如来立像の他、行基像、賢実像が安置され、釈迦涅槃図、久安寺縁起三種などが収蔵されています。
そして、この場所は四国八十八か所のお砂踏み巡拝霊場の出発地となります。

新西国霊場・第12番札所の東光院へ向かいます。
続く

北向き延命地蔵尊
久安寺から南方向へバイクで約30分走った所に東光院があります。
東光院は山号を仏日山と号する曹洞宗の別格地寺院で、境内の随所に萩が植えられ、
「萩の寺」の通称があり、毎年9月には「萩まつり」が催されています。
境内に入った右側に北向き延命地蔵尊が祀られています。
その昔、大阪南浜(現大阪市北区中津)の海中より出現し“抜苦与楽”の衆生済度と山門の
永代守護を誓願されたとの伝承があります。
山門
山門の前に大護摩壇があります。
毎年9月23日には道了大権現採灯大護摩供が行われます。
延命の御詠歌碑
延命の御詠歌碑は大正4年(1915)に建立されたもので、発起された延命講は
「あごなし地蔵講」として発展・継承されています。
高浜虚子の句碑
山門の手前には高浜虚子の句碑、「おもひおもひに座りこそすれ 萩の縁」、
「我のみの菊日和とはゆめ思はじ」が建立されています。
境内には他にも多くの句碑が建立されています。
山門-2
山門は薬医門で宝歴7年(1757)6月に建立されました。
東光院は大正3年(1914)に大坂豊崎の里(摂津国西成郡豊崎村下三番、現在の北区中津)から、
阪急電車敷設により現在地へ移転しました。
それに伴い、山門も現在地に移築されましたが、平成7年(1995)1月17日に発生した
阪神・淡路大震災により大破し、同年7月に修復されました。
魯山人観音
山門にて拝観料300円を納め、山門を入った左側に魯山人観音が祀られています。
昭和10年(1935)、東光院から徒歩約4分の距離にある阪急曽根駅前に、東京赤坂にある
高級料亭「星岡茶寮」の大阪店が開業することになりました。
「星岡茶寮」の顧問兼料理長であった北大路魯山人は、星岡窯で自ら制作した百衣観音像を奉納して
「星岡茶寮」の開店・繁栄を祈願しました。
この観音像は平成17年(2005)に開催された「愛・地球博」を記念して、愛知県産の
小呂青石(おろあおいし)で、魯山人観音を等身大に摸刻したものです。
三十三観音堂
三十三観音堂は天保4年(1833)に創建され、堂内には観音霊場の各本尊及びお砂と
円坐石が設けられていますが、巡拝できるのは毎年4月29日~5月5日までです。
明治6年(1873)に大阪天満川崎(現・大阪市北区天満1丁目、造幣局一帯)にあった川崎東照宮
廃社されるのに伴い、東照宮本地堂「瑠璃殿」(現・東照閣仏舎利殿)とその本地仏である
徳川家康ゆかりの厄除薬師如来坐像が東光院に遷されました。
厄除薬師如来坐像は三十三観音堂の本尊として安置されています。
東照閣仏舎利殿
東照閣仏舎利殿・あごなし地蔵堂
あごなし地蔵は、かって隠岐島の伴桂寺で祀られていました。
承和5年(838)12月、隠岐に流された小野篁(おの の たかむら)は、
阿古という農夫により身の回りの世話をされていました。
阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、
篁は地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。
阿古がこの地蔵菩薩に祈願したところ、病気が平癒したことから「阿古直し」と呼ばれ、
島民から信仰されるようになりました。
篁が都へ召し返されると、地蔵菩薩は伴桂寺に安置されていましたが、廃仏毀釈により
明治2年(1869)に伴桂寺は廃寺となり、地蔵菩薩は当時縁のあった東光院へ遷されました。
しかし、地蔵堂の新築が大阪府から認められず、明治5年(1872)正月に申請した旧川崎東照宮の
本地仏と本地堂の引取りが認められ、本地堂は「あごなし地蔵堂」となりました。
「あごなし地蔵」とは、「阿古直し」から転訛したとされています。
また、堂内には平成2年(1990)9月に造立された、仏舎利を納めた孔雀宝座が安置され、
仏舎利殿とも称されています。
東光院はスリランカへの宗教的交流を長年に渡り積極的に推進し、
その人道奉仕活動に対する感謝の印として、昭和63年(1988)秋に現地の寺院に紀元前3世紀より
伝わる釈尊の鎖骨が贈られました。
孔雀宝座は、その仏舎利を2羽の白孔雀が守護するという様式になっています。
萩露園
東照閣仏舎利殿の前に、北大路魯山人により命名された「萩露園」があり、
三千株の萩が植えられています。
「萩露園」は大阪みどりの百選に選定されています。
ただ、現在は育成のため立ち入りは禁止されています。

水子地蔵尊
参道の突き当り、納経所がある建物の手前には水子地蔵尊が祀られています。
揚羽蝶
供えられた花にアゲハチョウが舞っていました。
写経塔
水子地蔵尊の左側に嘉永2年(1849)に建立された、
金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の写経塔があります。
台座の中には、金光明経10巻31章を一石一字ずつ彫った、
白く丸い碁石ぐらいの小石が納められています。
施主一人ひとりが一字ずつ写経したので、完成まで17、8年を費やしたとされています。
柱の上の蓮華座には梵字で表わされた金光明如来が乗せられています。
道了大権現像
総門の右側に道了大権現の石像が祀られています。
平成22年(2010)9月23日に、了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師六百回大遠忌記念として造立されました。
妙覚道了(みょうかくどうりょう)は、室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧で、
応永元年(1394)に了庵慧明が最乗寺を開創すると、慧明の弟子であった道了は
その怪力により寺の創建に助力しました。
師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って天狗となったと伝えられ、
最乗寺の守護神・道了大権現として祀られました。
また、十一面観世音菩薩の化身として崇められ、所願成就の道了尊として尊崇を集めています。
道了大権現堂
道了大権現堂は、天正18年(1590)に豊臣秀吉により最乗寺から勧請され、
小田原藩の寄進により小田原御蔵やしき内に道了大権現堂が建立され、
明治36年(1903)に現在地に移築されました。
本堂
本堂は「吉祥林(きっしょうりん)・圓通殿(えんつうでん)」と称され、阪神・淡路大震災後の
平成11年(1999)10月19日に復興されました。
東光院は天平7年(735)に行基によって創建されたと伝わります。
かって、東光院があった大坂豊崎の里辺りでは、古くから死人が出ると淀川河畔に
捨ててしまう風習があり、「浜の墓」とも呼ばれていました。
68歳の秋、豊崎を訪れた行基は、民衆に我国で初めて火葬の方法を伝授し、荼毘に付した
死者の霊をなぐさめるため、自ら一体の薬師如来像を造り、
その仏前に淀川水系に群生する萩を手折り供えました。
それを縁に人々の浄財で薬師堂を建立したのが東光院の始まりです。
寺号を「薬師堂」と号していましたが、延宝9年(1681)相州(今の神奈川県)功雲寺の霊全和尚に
よって中興され、仏日山吉祥林東光院に改められて曹洞宗の寺院となりました。

本尊は明和7年(1770)作の薬師如来坐像で、脇侍として菩提達磨(だるま)大師像と
東光院の伽藍守護神である招宝七郎大現修理(だいげんしゅり)菩薩が安置されています。

新西国観音霊場・第12番の札所本尊である「こより十一面観世音菩薩立像」は、
聖徳太子の作とされ、第96代/南朝初代・後醍醐天皇の念持仏でした。
天皇の亡き後、菩提を弔うため南朝の女官たちが帝を偲んで法華経八巻を写経し、
その紙をこよりにして衣に編み、この観世音菩薩像に着せ掛けた、全国的にも珍しい仏像であります。

西国七福神・第一番霊場の本尊である毘沙門天は、文化5年(1808)の作で、妻の吉祥天と
子供の善爾膩師(ぜんにし)童子を脇侍とする三尊形式となっています。
釈迦如来白仏像

本堂前の右側には吉祥林永代塔があり、釈迦如来白仏像が祀られています。
釈迦如来白仏像は、東光院の阪神・淡路大震災からの復興を讃え、
平成12年(2000)春にスリランカ仏教徒会議から贈呈されました。

近畿不動尊・第8番札所の不動寺へ向かいます。
続く

納経所
東光院から北へバイクで20分弱走った所に不動寺があります。
不動寺は山号を大聖山と号する真言宗醍醐派の寺院で、
近畿三十六不動尊の第8番札所となっています。
寺伝では弘仁年間(810年~824)に空海が諸国巡業中、兎我野の地(現在大阪市北区兎我野町)で
七色の光を放つ石を見つけ、 これを五輪宝塔に仕上げ、不動明王の梵字を刻み本尊とし、
不動堂を建てて祀ったのが始まりとされています。
その後、第52代・嵯峨天皇や後鳥羽上皇の勅願所となり、豊臣・徳川の厚い庇護を受けるなど、
兎我野の不動として、庶民の信仰を集めました。
しかし、第二次世界大戦の空襲により全ての堂宇が焼失しました。
戦後、昭和25年(1950)に本堂が再建されましたが、寺の周辺の環境の悪化が深刻化となり、
伝統行事の大護摩法も行えなくったなどの事情から、昭和41年(1966)に現在地に移転されました。
スマホのナビでは納経所の裏側にある駐車場へと案内され、
納経所がある建物の右側には近代的な本堂があります。
観音堂
納経所がある建物には観音堂があり、聖観音菩薩像が安置されています。
本堂
本堂-内部
本堂は前の階段を上った所が一階とされ、二階に本尊の五大力不動明王が祀られているようですが、
行事日と毎月28日の午後3時~4時半しか公開されません。
本堂には降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、愛染明王、十一面観音菩薩、
地蔵菩薩、阿弥陀如来、弘法大師が祀られています。
護摩堂-1
護摩堂-2
本堂前の階段を下った右側にある護摩堂は、兎我野の地にあったものを移築したものです。
本尊は不動明王で、前鬼・後鬼を従えた神変大菩薩、弘法大師、理源大師が祀られています。

画像はありませんが、護摩堂前の石段を下った所に阿弥陀堂があります。
鎮守堂
護摩堂前を左へ進むと鎮守社があり、龍神とお前立として白鹿霊神が祀られています。
鹿は第16代・仁徳天皇ゆかりの鹿とされています。
仁徳天皇は難波高津宮に都を遷し、毎夜、兎我野から聞こえて来る澄み切った
鹿の声に慰められていましたが、その鹿は猟師に射られ、天皇の夕食に献上されました。
弘法大師が不動寺を開基した際、仁徳天皇ゆかりの鹿が、大師の夢枕に立ち、
「もし私を信ずる人がいるのなら、吉凶禍福の前兆を夢で示し、
種々の厄難から逃れるよう導きましょう」とお告げをされました。
大師はこの鹿に菩薩の戒を授け、白鹿霊神の神名を與えて不動寺の鎮守とし、
鹿の塚とそれに因む「白鹿堂」を建立し、白鹿霊神を祀ったとされています。
大師堂
鎮守社の左側には大師堂があり、弘法大師が祀られています。
お砂踏み石
大師堂の右前方には四国八十八箇所霊場のお砂踏み石が設置されています。
柴燈護摩道場
大師堂の左側にある柴燈護摩道場では、毎年11月3日に鎮守白鹿霊神祭が行われています。

勝尾寺へ向かいますが、勝尾寺へは二輪車の通行が禁止されていますので、
箕面警察での通行許可書が必要となります。
しかし、箕面ドライブウェーの通行は許可されず、府道4号線(茨城・能勢線)へ
迂回するように指示されました。
かって、ローリング族による事故の多発や騒音問題で二輪車の通行が禁止となり、
その解除はかなり困難なようで、二輪車による西国巡礼では不便を感じる巡礼地となっています。

勅使門
勝尾寺(かつおうじ)は、標高400m余りの箕面の山中にあります。
山号を「応頂山」と称する高野山真言宗の寺院で、寺号は「かつおじ」「かちおじ」とも読まれます。
府道4号線に面して勅使門があります。
入口
勅使門の西側に「お休み処 花の茶屋」があり、その横が入口となっています。
入山料400円を納め、境内へと入りますが、帰りには花の茶屋の売店内を通らなければならず、
ついお土産に手が伸びてしまいます。
お迎え地蔵
境内に入ると勅使門の方へと戻りますが、その正面に「お迎え地蔵さま」が祀られています。
手を合わせ、心を整えてから仁王門をくぐりなさいと諭されているようです。
山門
仁王門(山門)は、寛文9年(1669)に豊臣秀頼により再建され、平成8年(1996)に修復されました。
仁王門には山号「応頂山」の扁額が掲げられています。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は門の再建時に造立されたものでしょうか?
仁王は仏敵の侵入を阻止していますが、
仏敵は自分の心に中に潜んでいることがようやく解かってきました。
山門-内側
山門をくぐると、「勝王山」の扁額が掲げられています。
寺号「勝王寺」は、第56代・清和天皇から賜りました。
元慶4年(880)、当時の住職・行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、
「勝王寺」の寺号を賜りましたが「王に勝つ」という意味の寺号は
畏れ多いとして勝尾寺に差し控えたと伝わります。
『日本三代実録』には、清和天皇は貞観18年(876)に第一皇子である
9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、2年半後の元慶3年(879)に出家して
畿内巡幸の旅に入り、勝尾山に参詣したとの記述が残されています。
清和天皇の勅額は、国道171号線勝尾寺口の南側の大鳥居に掲げられており、
この大鳥居は日本最古の町石の起点でもあります。
翌年、天皇は京都嵯峨水尾の地に入りましたが病を発症し、
行巡の祈祷により回復の兆しを見せたものの、同年崩御されました。
お浄め橋
仁王門の先に「お浄(きよ)め橋」が架かっています。
橋の下からは霧が出ていて、心身が浄められます。
時折、虹も架かり、心から癒されます。
参道
参道-2
橋を渡った参道の両側には石灯籠が立ち並び、木々は新緑に映えています。
勝尾寺HPの動画では、「自然は人の五感に訴える」と説かれています。
また、参道ではスピーカーを通して読経が流されています。
宝物館
参道を少し進んだ右側に宝物館がありますが、残念ながら公開されていません。
勝尾寺は、勝運の寺であったことから武将や貴族から数多くの経典、仏像、古文書などが
寄進され、収蔵されています。
多宝塔と観音像
参道の石段を上ると正面に多宝塔が見え、手前の池には観音像が祀られています。
一願不動堂
池の左側に「一願不動堂」があります。
一願不動尊
一願不動尊は、一つの願い事のみを叶える不動尊として信仰されています。
勝ち達磨奉納所
不動堂の左側には「勝ち達磨奉納所」があり、多くの達磨像が奉納されていますが、
この奉納所以外にもあらゆるところに達磨像が置かれています。
ただ一つの願い事に対して目を入れ、願いが叶い両目が入った勝ち達磨は、
まず荒神堂へ、続いて本堂でお礼の参拝をしてから奉納所へ納められています。
応頂閣
参道の南側には宿坊の応頂閣があります。
応頂閣の滝
応頂閣の北側には滝が組まれた庭園が築かれています。
石垣
参道へ戻り、進んだ北側に城壁のように積まれた石垣の上に、
鐘楼やチラッと本堂の屋根の一部が見えます。
荒神堂
参道を西へ進み、突き当たった右側に「厄払い三宝荒神堂」があります。
宝亀3年(772)、開成(かいじょう)皇子が修行していたとき、
体長3mの鬼神の姿をした三宝荒神が、多数の眷属とともに夢の中に現れたと伝わります。
皇子は驚き、自ら尊影を模刻し守護神として祀った、日本最初の荒神社です。
三宝荒神は、凄まじい力を持ち、仏・法・僧を守護し、不浄を許さない厳しさを持つことから、
火で清浄が保たれる竈(かまど)に祀られ、かまどの神、火の神とされています。
勝尾寺の荒神は、厄を祓う、難を祓うとして信仰を集めています。
薬師堂
荒神堂の北側に石段があり、その上に修復中の薬師堂があります。
源頼朝によって再建された薬師堂は、勝尾寺で最古の建造物です。
本尊の薬師三尊像は開成皇子一刀三礼の作とされ、秘仏で国の重要文化財に指定されています。
他にも経堂や閻魔堂もあるようですが、工事中に付、石段から先の通行は禁止されていました。
鎮守堂
石段の北側に鎮守堂があります。
開山堂
鎮守堂の右側にある開山堂には善仲、善算と開成皇子の木像が安置されています。
伝承によると神亀4年(727)、藤原致房(むねふさ)の双子の兄・善仲(ぜんちゅう)と
弟・善算(ぜんさん)は、この地に草庵を結び、仏道修行を続けていました。
それから約40年後の天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子である開成が2人に師事して仏門に入りました。
宝亀8年(777)、開成は念願であった大般若経600巻の書写を終え、
勝尾寺の前身である弥勒寺を創建しました。
宝亀11年(780)、妙観が弥勒寺を訪れ、7月18日から8月18日の間に、
本尊の十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝わり、
18日が観音の縁日となった由来とされています。
水掛け観音堂
「開山堂」前の短い石段を下った左側に「水掛け観音堂」があります。
水掛け観音堂-観音像
先祖供養・水子供養の観音菩薩が祀られています。
大師堂
「水掛け観音堂」の右側に「大師堂」があります。
弘法大師像
阿弥陀如来像
地蔵菩薩像
堂内には弘法大師像、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像が安置されています。
大師堂-堂内
周囲には四国八十八ヶ所霊場より持ち帰られた砂が埋められた御砂踏み場が設けられ、
各霊場の本尊が祀られています。
本堂
現在の本堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼により再建され、平成11年(1999)に修復が行われました。
勝尾寺は、元暦元年(1184)、治承・寿永の乱の一ノ谷の戦いの兵火を受けて焼失しましたが、
文治4年(1188)に源頼朝の命により、

熊谷直実梶原景時によって再建されました。
本尊の十一面千手観世音菩薩像は、観音縁日である毎月18日に特別開帳されます。
勝ち達磨授与所
本堂前に「勝ち達磨」授与所があります。
鐘楼
授与所の横に鐘楼があります。
納経所横の大樹
鐘楼の向かいに納経所があり、その横には楠の大木が聳えています。
勝尾寺は、西国三十三所観音霊場・第23番、神仏霊場・第65番、
法然上人二十五霊場・第6番などの札所となっています。
不動堂
納経所の東側に不動堂があります。
不動堂-堂内
堂内
二階堂
不動堂から北方向へと進むと二階堂があります。
二階堂は、第四代座主・証如上人によって建立されました。
承元元年(1207)、法然上人は讃岐国流罪を赦免され、帰途、証如上人の遺徳をしのび
西の谷の草庵に4年間滞在され念佛三昧の行に入られました。
建暦元年(1211)に中国浄土教の中興の祖・善導大師と夢中対面され布薩戒を授けられました。
その時、 壁板に浮かび上がった善導大師と法然上人の二祖の尊影が二階堂の本尊となりました。
上人は同年に京都に戻りましたが、翌建暦2年(1211)に享年80(満78歳)で亡くなりました。
二階堂は上人没後に建立されましたが、敷地が狭く二階建ての建物であったため
「二階堂」と称されるようになったと伝わります。
明和7年(1770)に勝尾寺が焼失した際に、二階堂も類焼し、天保13年(1843)に再建されています。
二階堂からの境内
二階堂から少し下り、山門を望みます。
多宝塔
二階堂から下り、不動堂の手前を東へ進んだ所に多宝塔があります。
多宝塔-干支の彫刻
軒下には干支の彫刻が施されています。
弁天堂-1
弁天堂-2
多宝塔から下って行くと池の中に弁天堂があります。
鳥居と滝
鳥居を東側にくぐった所に滝があり、小さな祠が祀られていますが詳細は不明です。
智慧の環
智慧の環-説明
「お浄め橋」まで戻り、橋の北東角にある「智慧の環」で、案内板の通りに試してみました。

西国三十三所観音霊場・第22番、神仏霊場・第63番他札所の総持寺へ向かいます。
続く

仁王門
国道171号線の西河原の信号を左折し、JRの高架をくぐり、茨木郵便局の先で左折した先、
一段と高い所に山門が見えます。
山門は江戸時代中期の建立と見られています。
三間一戸の楼門で、北摂地方では箕面の勝尾寺、池田市の久安寺と総持寺の
三箇寺にのみ楼門形式の門が残されています。

総持寺は山号を補陀洛山と号する高野山真言宗の寺院です。
総持寺には二つの定紋が掲げられています。
一つは開基・藤原山蔭家の家紋「桔梗」で、もう一つは仙台藩・伊達家の家紋「竹に雀」です。
伊達家初代の伊達朝宗は、藤原山蔭の子孫と伝わります。
また、藤原山蔭は、藤原鎌足の6代目の孫に当たります。
江戸時代、仙台藩・伊達家は始祖・藤原山蔭の菩提寺である総持寺に帰依し、仙台藩第3代藩主で、
伊達家第19代当主の伊達綱宗(だて つなむね)は、開山堂に祀られる藤原山蔭像を寄進されました。
その後も藤原山蔭廟所や堂宇の修繕などに寄進され、伊達家から家紋を寺の定紋として賜りました。
仁王-阿形像
仁王-吽形像
金剛力士像の阿形像(上)は、像高227.5cm、吽形像(下)の像高は226.7cmで
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての作例の特色を持っています。
石標
山門の手前右側に、贔屓(ひいき)に乗せられた寺号の石標が建っていますが、
総持寺の草創には亀が深く関わっています。
但し、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子(りゅうせいきゅうし)の一つとされる
中国の伝説上の生物で、亀に似ていますが亀ではありません。
重い物を負うことを好むといわれ、石碑の土台の装飾に用いられることが多く、
石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と呼ばれます。
寺所蔵の縁起絵巻や『今昔物語集』などによると、開基・藤原山蔭の父・藤原高房は、
漁師たちが大亀を捕らえているのを見、
「今日18日は観音様の縁日だから」と言って、亀を買い取って逃がしてやりました。
その日の夜、高房の子・山蔭は、継母の計略で船から川に落とされました。
高房はこれを悲しみ、観音に祈ったところ、高房が助けた亀が、山蔭を甲羅に乗せて現れたと伝わります。
高房の没後、山蔭が報恩のため観音像を造立し祀ったのが総持寺の起源だとされています。
寺伝では元慶3年(879)頃、藤原山蔭が創建し、
山蔭の三回忌の寛平2年(890)に伽藍が完成したと伝わります。
開山堂-1
左側には、懸崖造りの開山堂が見えます。
賓頭盧尊者
山門をくぐって進んだ先、左側に賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)が祀られています。
観音堂の脇に安置されているのは良く見かけますが、参道脇に安置されているのは珍しいと思います。
鐘楼
賓頭盧尊者像の先に鐘楼があります。
鐘楼は江戸時代中期に建立されたとみられ、茨木市の文化財に指定されています。
現在の梵鐘は、高野山開創1200年を記念して新造されました。
かっての梵鐘は永享6年(1434)の銘があり、片桐且元(かたぎり かつもと)陣中の鐘と伝わり、
現在は納経所に保管されています。
閻魔堂
鐘楼の左側に放生池があり、池の中に閻魔堂があります。
地蔵像
閻魔堂の南側には地蔵菩薩が祀られています。
開山堂-2
山門の西側にある開山堂(包丁式殿)があります。
開山堂には正保2年(1645)に仙台藩第3代藩主・伊達綱宗から寄進された
藤原山蔭像が安置されていますが、開山堂は平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で被災し、
平成18年(2006)に再建されました。
藤原山蔭(四条中納言)は総持寺本尊造立の際、仏師に千日間、毎日違う料理を供し、
「中納言の千日料理」と呼ばれました。
また、第58代・光孝天皇の勅命を受け、庖丁式(料理作法)の新式を定めたことが
山陰流(四条流)包丁式の起源とされ、山蔭は包丁道の祖とされています。
総持寺では毎年4月18日に、開山堂で包丁式が行われています。
五社稲荷
池の西側の丘には五社稲荷大明神があります。
庭園
五社稲荷大明神が祀られている丘の北側には、新しく庭園が築かれ、池には白砂が敷かれています。

新しい庭園の西側にはかって、不動堂がありました。
不動堂は天保14年(1843)に建立された経堂を、大正時代以降に不動堂に改修されましたが、
平成30年(2018)6月の大阪北部地震で被災し、倒壊の恐れがあるため解体されました。
本尊の不動明王像、脇侍として矜羯羅童子(こんがらどうじ)像と制多迦童子(せいたかどうじ)像の
不動三尊像は太子堂へ遷されました。
荒神社
旧不動堂の右側に荒神社があります。
荒神社は、昭和60年(1985)に解体修理が行われ、その際に発見された墨書きから
寛永20年(1643)に造営されたことが判明され、
茨木市の文化財に指定されています。
仏・法・僧の三宝を守護する三宝荒神として祀られています。
仏教では、荒神は如来の姿で表され、「如来荒神」と呼ばれています。
総持寺に伝来する「如来荒神画像」は収蔵庫で保管されています。
宝蔵
荒神社の右側に寛永20年(1643)に造営された約2.5m四方、高さ約4mの宝蔵があり、
茨木市の文化財に指定されています。
大阪府下では四天王寺の宝蔵以外に校倉造が見られず、全国的にも例の少ない建物です。
断面が五角形の校木が正面と側面で交互に組まれ、また入口が左に偏っています。
宝蔵-扁額
承応元年(1651)の境内絵図では「御朱印蔵」として描かれ、「旧御朱印蔵 経蔵」の
扁額が掲げられています。
江戸時代には寺の領地を保障した徳川将軍の御朱印状を収蔵していました。
新しい施設
宝蔵と収蔵庫の間に新しいエリアが設けられています。
新しい施設-観音像
奥には観音像が祀られています。
新しい施設-鳥獣戯画
手前の円筒には鳥獣戯画が描かれています。
新しい施設-水の奉納
多数の水が奉納されていますが、詳細は不明です。
収蔵庫
収蔵庫
鎮守社
境内の西北に鎮守社があります。
江戸時代初期に建立されたと考えられ、茨木市の文化財に指定されています。
元、箕面市にあった素戔嗚尊神社(すさのおのみことじんじゃ)の本殿でしたが、
総持寺に移築されました。
大黒天・弁財天・青面金剛(庚申・こうしん)が祀られています。
包丁塚
鎮守社の右側に右側に包丁塚があります。
山蔭の命日に当たる4月18日には、室町時代から続くとされる山陰流包丁式が行われ、
包丁塚には包丁が奉納されます。
観音堂
包丁塚の右側に観音堂があり、普悲観音(ふひかんのん)が祀られています。
観音像
普悲観音とは、観音様の平等普遍の大慈悲心を特に強調した名前で、
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第6番札所の本尊となっています。
北東の門
観音堂の右方向にも門があります。
本堂
山門の正面に本堂があります。
本堂は慶長8年(1603)に豊臣秀頼の命により、片桐且元(かたぎり かつもと)を
奉行として再建されましたが、その後火災などで大破し、寛永期(1624~1645)と
元禄期(1688~1704)に大規模な修復が行われました。
一部慶長期、寛永期の部材を残しつつ、現在の本堂は元禄12年(1699)に再建されたと考えられ、
茨木市の文化財に指定されています。
昭和10年(1935)に廻縁を取り込み、現在の形に改修されています。
本尊
本尊は、平安時代作で像高75.4cmの千手観世音菩薩像です。
本尊は桂昌院が寄進したとされる宮殿型厨子内に納められ、毎年4月15日~21日の
7日間のみ開帳されます。
縁起絵巻の続きが残されています。
藤原山蔭の父・藤原高房は、山蔭を助けた亀は観音菩薩の変身だと信じて霊像を造ることを発願しました。
そこで、来日していた遣唐使に観音像を刻む香木を依頼したのですが、
当時の唐は香木の国外搬出が許されませんでした。
依頼を受けていた遣唐使は、「日本の藤原越前守高房に寄せる」と香木に刻んで海に流しました。
年は流れ、高房が亡くなった後、藤原山蔭が中納言となり、父のあとを継ぎ
大宰帥(だざいのそつ)に任じられ任地に赴きました。
或る日、浜辺で、中国より流れ着いた木を発見し、その木が父・高房が依頼した香木であることを知り、
驚きと歓喜に包まれ、高房の遺志を継ぐことを決心しました。
数年が経ち、任期を終えて香木を携えて京の都に帰ることになり、山蔭の一行が茨木の辺り来た時、
香木に根が生えたように動かなくなりました。
山蔭は途方にくれましたが、ここは有縁の地であると気付き『ここに、伽藍を建立する』と
決意すると香木は軽くなりました。
都に帰った山蔭は、仏師を探すために奈良の長谷寺に籠もり祈願すると、ある夜、夢枕に『明日の朝、
下山のとき最初に出会う者が名工である』とのお告げがありました。
翌朝下山すると、一人の童子にめぐり合い、山蔭はその童子を屋敷に連れ帰り
観音菩薩を彫るように依頼しました。
すると童子は『仏を彫るのに千日かかる。その間、誰もこの仏舎に立入らないこと、そして、山蔭自身で私の食事を作ること』を申し出ました。
山蔭はこの申し出に従い、毎日違った料理を作り童子に差し出しました。
造仏を始めてより千日目の早朝、『長谷の観音様はどちらに』と声が聞こえると、仏舎より『行基菩薩よ、
今帰るところよ』との答えがあり童子は空に飛び立ちました。
山蔭が急いで仏舎に駆けつけると、千日間の食事が供えられた千手観音菩薩立像が
亀の座に立った姿で祀られていました。
この仏像を本尊として総持寺は建立されたと絵巻は伝えています。

また、本尊の脇侍として、像高57.4cmの善女龍王立像と像高50.6cmの
雨宝童子立像が安置されています。
共に安土・桃山時代から江戸時代の復興作であると考えられています。
厨子前には御前立の千手観世音菩薩像と両脇侍(ともに江戸時代作)が安置されています。

総持寺は、一条、後一条、白河、鳥羽天皇の勅願寺として栄えましたが、次第に衰え、
元亀2年(1571)の白井河原の合戦のとき、織田信長の焼き討ちにあいました。
この時、観音像は下半身が焼け、炭化しながらも焼け残ったことから
「火伏観音」・「厄除観音」として信仰を集めました。
その後、天正6年(1578)、同10年(1582)の火災や、文禄3年(1594)の地震で被害を受け、
古くから伝わっていた記録類はほとんど失われました。
金堂
本堂の左側に慶安2年(1649)に四天王寺の大工により建立された金堂(薬師堂)があり、
茨木市の文化財に指定されています。
内陣須弥壇の宮殿型厨子内に鎌倉~南北朝時代の作とされる像高55.5cmの
薬師如来像が安置されています。
脇侍には、江戸時代の作とされる日光・月光の菩薩像が安置され、厨子の左右には、
江戸時代作の十二神将が薬師三尊を守護しています。
水天社
本堂の右前には水天社があります。
瓦窯跡説明板
本堂の右側に室町時代のものとみられる瓦窯跡(がようあと)があり、
茨木市の文化財に指定されています。
実際に発見された場所より西北西に約15m移され、窪地の上をガラスで覆われていて、
反射により内部の撮影は困難です。
大師堂
瓦窯跡の右側に大師堂があります。
大師堂は御影堂とも呼ばれ、真言宗の宗祖・弘法大師が祀られています。
寛政10年(1798)頃に描かれた『摂津名所図会』には、境内の西側に記されていましたが、
明治7年(1874)の境内絵図には描かれていませんでした。
現在の大師堂は、昭和47年(1972)に再建されました。
堂内中央には正保4年(1647)に寄進された弘法大師御影像が安置されています。
正面右側に弥勒菩薩坐像、左側に愛染明王坐像・不動明王立像が安置されています。
納経所
大師堂の右側、山門の手前左側に納経所があります。
総持寺は西国三十三所観音霊場・第22番、神仏霊場・第63番などの札所となっています。
平成5~6年にかけて、納経所を建設する前に行われた事前調査で瓦窯跡や
室町時代の鋳造遺構などが発見されました。

次回は京都府木津川市の浄瑠璃寺、岩船寺を巡ります。

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