カテゴリ: 大阪府

勧請掛け
(記事は平成31年(2019)3月27日のものです)
神峯山寺は山号を根本山、院号を寶塔院と号する天台宗の寺院です。
新西国観音霊場・第14番、神仏霊場・第64番及び役行者霊蹟札所となっています。
公共交通ではJR高槻駅北口から「53・原大橋」行バスに乗車し、
「神峯山口」バス停で下車して山門まで徒歩約20分の所にあります。
当日はバイク利用で、安岡寺(あんこうじ)から約10分北へ進み、
坂道を登って行った先に駐車場がありました。
安岡寺は神峯山寺と関連する寺院で、神峯山の南に位置することから山号を
「南山」と号するのではないかと推測されています。
駐車場の東側の下を名神高速道路が通り、参道の下からはトンネルをくぐっています。
駐車場の北側の参道には「勧請掛け」が建っています。
勧請掛けは神峯山を守護する天神地神を勧請祭祀する行事で、
毎年12月25日に行われます。
門柱の横木にしきみを結んだ12本の縄をかけ、縄の高低長短によって、
翌年度の社会情勢や農作物の収穫予想、物価の高低などをを占います。
宝篋印塔と五輪塔
参道の北側の山の斜面には宝篋印塔や五輪塔が祀られています。
金毘羅大権現
また、神峰山の地主神として金毘羅飯綱大権現社があります。
『神峯山寺秘密縁起』によると、文武天皇元年(697)に役小角(えん の おづの=役行者)が
大和・葛城山(金剛山)で修行をしていた時、北方の山から黄金の光が
発せられているの見て霊感を受け、その方向へと向かいました。
神峯山寺が位置する場所へとたどり着いた役小角は、金毘羅童子に化身した
山の守護神と出会い、霊木を入手するように依頼されました。
役小角が探し出した霊木で金毘羅童子が4躯の毘沙門天を造りあげると、
3躯は鞍馬寺信貴山北山(本山寺)へと飛び去りました。
最初に造られた1躯が当地に留まったので「根本山」と号したと伝わります。
行者灯篭
参道脇に立つ灯篭は「行者灯篭」と称されています。
笈掛石
渓谷沿いの参道を進んで行くと、山門の手前に「役行者 笈掛石」があります。
笈(おい)とは「行脚僧や修験者などが仏像、仏具、経巻、衣類などを
入れて背負う道具」を意味しています。
仁王門
仁王門の前には狛犬が“にらみ”を利かせています。
仁王像
阿形の仁王様は健在ですが、吽形の仁王様は現在、修復のため出張されています。
手水鉢
仁王門をくぐった先にある、一枚岩を刳り抜いた手水鉢。
化城院
参道を進んだ左側(西側)にある化城院は平成25年(2013)に落慶された新しい建物で、
護摩道場として使われています。
堂内には中央に不動明王像、その両側には梵天像と帝釈天像が安置されています。
本堂への石段
更に参道を進んだ先に本堂への石段があります。
本堂
現在の本堂は明和2年(1765)に焼失後、安永6年(1777)に再建されました。
神峯山寺は文武天皇元年(697)に役小角が伽藍を建立して、毘沙門天を祀ったのが
始まりとされ、宝亀5年(774)に第49代・光仁天皇の命を受けた開成(かいじょう)皇子によって
中興され、光仁天皇の勅願所となりました。
平安時代、伝教大師・最澄が比叡山で天台宗を開くと、
神峯山寺も皇室と緊密な天台宗の寺院となりました。
鎌倉時代になると毘沙門天は戦いの神として崇拝され、
楠木正成は殿中刀を奉納したと伝わり、本殿で所蔵されているそうです。
室町幕府三代将軍・足利義満からも帰依を受け、大和国の戦国大名・松永久秀や
豊臣秀吉の側室・淀殿からの寄進もありました。
江戸時代、上方文化が栄えた元禄時代の頃より、神峯山寺は大坂商人から厚い信仰を受け
巡礼地として栄えました。
毘沙門天は七福神の一神であることから商売繁盛を祈願するために商人達が淀川を上り、
三島江から神峯山寺まで歩いて参拝したとの記録が残されています。
信者の一人、豪商の鴻池善右衛門は、三島江から神峯山寺参道にかけて
十数か所に石造の道標を建立しました。
江戸時代に最盛期を迎えた神峯山寺は七堂伽藍に加え、
21の僧坊と1,300石の寺領がありました。
しかし、明和2年(1765)の火災で本堂を焼失後、本堂は再建されましたが、
規模は徐々に縮小され現在の姿となりました。

神峯山寺の本尊は三種の毘沙門天で構成されています。
第一の本尊は毘沙門天で、吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ)を脇侍とする三尊形式で、
本堂内陣中央に安置されています。
吉祥天は毘沙門天の妃または妹とされ、善膩師童子は毘沙門天の息子の一人とされています。
皇室や幕府から国家安泰の神として、この毘沙門天は厚く信仰されてきました。

第二の本尊は兜跋毘沙門天で、武将からは福徳先勝の神として、
商人からは商売繁盛の神として厚く信仰されてきました。
兜跋毘沙門天は、金鎖甲(きんさこう)という鎖を編んで作った鎧を着し、
腕には海老籠手(えびごて)と呼ぶ防具を着け筒状の宝冠を被り、左手に宝塔、
右手に宝棒または戟(げき、ほこ)を持った像様で表されています。
西域兜跋国(現在のトゥルファンとする説が一般的)に毘沙門天が
この姿で現れたという伝説に基づいています。

第三の本尊は双身毘沙門天で、歴代住職の持仏として本堂中内陣の厨子に安置されています。
天台密教における双身毘沙門天の祈願作法は秘法で、
天台本流の作法が正式に伝承されています。

この三種の毘沙門天は秘仏とされ、兜跋毘沙門天のみ11月の「秋の大祭」で開帳されます。
また、本堂には阿弥陀如来坐像と聖観音菩薩立像が安置されています。
木造阿弥陀如来坐像は寄木造り・平安時代後期の作で国の重要文化財に指定されています。
聖観音菩薩立像は2躯安置され、2躯とも一木造り・平安時代中期の作で
国の重要文化財に指定されています。
観音堂への石段
観音堂
本坊から本堂への渡廊下をくぐり、その先の石段を上った所に観音堂があります。
観音堂には十一面観音菩薩立像が安置されています。
五躯地蔵
観音堂の右側には地蔵尊が祀られていますが六地蔵では無く、五躯の地蔵尊です。
十三重石塔
地蔵尊の右側に建つ十三重石塔には光仁天皇の分骨が納められています。

画像はありませんが、十三重石塔の右側の山手に五重石塔があり、
開成皇子の埋髪塔とされていますが、通行が禁止されていました。
法華観音
観音堂の左側から西へ進むと鐘楼への石段がありますが、
石段下の右側に法華観音の石像が祀られています。
鐘楼への石段
鐘楼
石段を上った所に鐘楼があります。
開山堂への石段
本堂まで戻り、本堂の東側に開山堂への、かなり急な石段があります。
護摩壇
石段の下には護摩壇が組まれています。
開山堂
開山堂には「神変大菩薩(役行者)」の扁額が掲げられていますが、扉は閉じられています。
役行者が最初に伽藍を建立した場所とされています。
堂内には役行者とその遣いの鬼・藍婆(らんば)、
毘藍婆(びらんば)の像が安置されています。
釈迦堂
開山堂から石段を下った東側に釈迦堂があります。
九頭龍滝
釈迦堂から石段を下って行くと九頭龍のお滝場があり、
滝の上部には九頭龍神堂があります。
役行者が葛城山から見たとされる光は、この滝のしぶきが太陽光に反射して
光輝いたのでは?と推定されています。
白龍王社
滝から下ってきた所に白龍王社があります。
龍光院
白龍王社の下流にある橋を渡って東側へ進んだ所に塔頭の龍光院があります。
龍光院-庭園
龍光院の庭園
水子地蔵
白龍王社から更に下ると水子地蔵が祀られています。
本坊
水子地蔵から参道を北へ戻り、その先で西側へと曲がると本坊(宝塔院)があります。
妙智院
本坊の向かいには塔頭の妙智院があります。
納骨堂
参道へ戻り仁王門の方へ下って行くと東側に塔頭・嶺峯院の納骨堂があります。

本山寺に続く

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八丁の地蔵
神峯山寺の第二駐車場から10分ほどバイクで登って行った所に本山寺の駐車場があり、
そこから坂道を約20分歩いた標高約520mの所に本山寺があります。
(記事は平成31年(2019)3月27日のものです)
駐車場を出た所には「八丁」の丁石が立ち、地蔵尊が祀られています。
本山寺もまた江戸時代には商売繁盛を願う大阪商人からの信仰を集め、
西国街道や淀川三十石船の河港であった前島浜から本山寺へと
導く道標が今も参詣路に残されています。
西国街道沿いの別所新町には「本山寺近道『是ヨリ六十丁』」と刻字された丁石が建っています。
現在の府道79号線(伏見楊谷高槻線)をたどったようで、川久保には
二十丁の丁石も残され、現在のように神峯山寺を通らずに
直接本山寺へ向かう古道があったようです。
衣掛けの松の地蔵
参道を登って行くと左側に地蔵尊が祀られています。
衣掛けの松
その少し下方に「行者衣掛けの松」が祀られています。
文武天皇元年(697)に役小角(えん の おづの=役行者)がこの地を訪れ、
松の木に衣を掛けて休憩された場所とされています。
古くから葛城山や大峯山を遥拝する場所で、ここから上の坂は「あづき坂」と呼ばれ、
良恵上人終生念仏の旧跡です。
現櫓塚
地蔵尊から参道を登った先に「現櫓塚」の石碑が建っていますが、
「現」の文字は欠けてしまっています。
平安時代後期の大治元年(1126)の頃、摂津に橘輔元(たちばなのすけもと)という
役人がおり、極めて裕福でしたが七度の火災で家財がすべて失われ、輔元の父、
子と三代にわたって癪(しゃく)の病にかかるという苦しみを受けました。
輔元親子は本山寺の毘沙門天に深く帰依して本山寺を再建し、良忍上人を師と仰いで剃髪し、
輔元は良恵、その子は忍恵と号しました。
現櫓塚は良恵が結んだ草庵の跡で、融通念仏を修したとされています。
忍恵は第十八世住職となりました。
宝篋印塔
更に参道を進んで行くと、参道の中央に「宝篋印塔」と記された石碑が建立されています。
二丁先の祠
二丁の丁石の先にも小さな祠があります。
勧請掛け
ポンポン山への登山道から分かれた所に「勧請掛け」が神峯山寺と同じ意味合いで
建てられています。
「勧請掛け」の前には一丁の丁石が建っています。
五重石塔
「勧請掛け」をくぐって参道を進むと五重石塔が建っています。
鳥居
参道の先で再びポンポン山への登山道と分かれる所がありますが、
その登山道には鳥居が建っています。
三社権現社-1
三社権現社-2
本山寺への参道は緩い下り坂となりますが、その先に三社権現社があります。
中の門-0
更に参道を進むと中の門がありますが、その先も参道が続き、
その先に建物が見えますがトイレでした。
中の門-1
現在の中の門は、本山寺が慶長7年(1603)に豊臣秀頼により再建された際に、
伏見城から移築されたと伝わります。
福塚大明神社-1
中の門をくぐった先に福塚大明神社があります。
福塚大明神社-2
覆屋内の宝篋印塔は大阪府の文化財に指定されています。
護摩堂-裏側
ようやく本山寺の建物(護摩堂)が見えてきました。
左側に中の門の先から見えたトイレがあります。
鐘楼
参道から向きを変え、北への短い石段を上った右側に鐘楼があります。
この鐘を撞いても麓まで音が届かないように思われます。
本堂への石段
正面には本堂への石段があります。
手水舎
石段下の右側に手水舎があります。
開成(かいじょう)皇子が本尊の毘沙門天に供える閼伽水を、信州・諏訪明神に祈願したところ、
本山寺の山頂近くより湧き出した霊泉とされていますが、残念ながら断水中でした。
不動明王像
手水舎の右側に不動明王が祀られ、その左右には水掛地蔵尊と不動尊が祀られています。
伝教大師像
水掛不動尊の右側に伝教大師・最澄の童姿の像が祀られています。
本堂
石段を上った所にある現在の本堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼により再建されました。
本山寺は山号を北山、院号を霊雲院と号する天台宗の寺院で、神峯山寺と
同じように役行者によって開山され、開成皇子により創建されました。
本山寺はかって神峯山寺の奥之院で霊雲院であったとの説もありますが、
本山寺の縁起では別寺とされ、その関係は明確ではありません。
本山寺には室町幕府8代将軍・足利義政が愛用したという
葡萄日月硯(ぶどうにちげつすずり)などや、三好長慶や高山飛騨守・右近父子らが
出した寺領の安堵状などが保存されています。
また、戦国時代には、松永久秀がこの寺で立身出世を祈願し、後に望みがかなったことから
所領の良田を寄進し、これを本山寺毘沙門天御供田と称したという記録が残されています。
しかし、天正10年(1582)の山崎の戦いでは、高山右近の兵火を罹り焼失しました。
その後、慶長8年(1603)に豊臣秀頼により再建され、宝永年間(1705年頃)に
5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院により改修が加えられました。

本尊は平安時代作の毘沙門天立像で、国の重要文化財に指定されています。
また、木造聖観音立像も平安時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
木造不動明王立像は高槻市の文化財に指定されています。
摩尼車
本堂前には摩尼車(まにぐるま)が設置されています。
車には『般若心教』が刻まれ、これを一回転すれば一巻唱えたのと
同じ功徳があるとされています。
開山堂-1
本堂の東側に石段があります。
開山堂-2
石段を上った所に開山堂があります。
本坊
本堂から下った西側に本坊の門があります。
護摩堂-表側
門を入った左側に参道から見た護摩堂があります。

次回は西国三十三所観音霊場の満願寺・谷汲山華厳寺から
滋賀県北部及び湖東地方を巡ります。

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社標
自宅を7:00に出て家原寺へ向かう予定でしたが、交通がスムーズで家原寺の
開門時間9:00よりも早く着きそうなので、予定を変更して住吉大社へ向かいました。
住吉大社は神功皇后の摂政11年(201)の創建と伝わり、
旧官幣大社で現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
全国にある住吉神社の総本社で、神仏霊場の第42番札所となっています。
遣唐使
参道に入った左側に「遣唐使進発之地」の石碑が建立されています。
住吉大社は古くから海上交通の守護神として信仰されてきました。
遣隋使・遣唐使は住吉大社で航海の無事を祈願し、仁徳天皇が開いたとされる
住吉津(すみのえつ)より旅立ったとされ、
円仁は遣唐使船の中に住吉大神を祀ったと伝わります。
航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から
600基以上の石燈籠が奉納され、更に大きさが競われました。
第一鳥居
鳥居をくぐった正面に放生池があり、池には反橋が架かっていますが
渡らずに右に曲がり、西へ進んだ所にある橋を渡ります。
禁裏御祈祷場所
橋の袂には「禁裏御祈祷場所」の石碑が建っています。
この石碑が何時頃建立されたかは不明ですが、南北朝時代に住吉には
第97代/南朝第2代・後村上天皇と跡を継いだ長慶天皇の行宮(あんぐう)がありました。
住吉社神主家である津守氏は、中世期には大覚寺統と強く結びつき、
津守国夏の住吉殿を行宮としました。
約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つとなりましたが、
長慶天皇は正平23年/応安元年(1368)3月に践祚(せんそ)して間もなく
同年12月には吉野へ後退しました。
反橋-横
その橋から反橋を見ました。
神馬像
橋を渡ると神馬像が奉納されています。
龍社
神馬像の北側に末社「龍社(たつしゃ)」があり、
水波野女神 (みづはのめのかみ) が祀られています。
水波野女神は、代表的な水の神で、龍社はもとは御井殿社 (みいどのしゃ) と呼ばれていました。
船玉神社
「龍社」の東側に摂社の「船玉神社」があり、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)と
猿田彦命が祀られています。
天鳥船命は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)とも呼ばれ、
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那岐命(いざなみのみこと)との間に
産まれた神で、鳥の様に空を飛べるとされています。
猿田彦命は、天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を
道案内した国津神で、「船玉神社」は主に海外への渡航の無事を祈る神として信仰されています。
昭和45年(1970)までは第四本宮の社殿前に鎮座し、古くは延喜式にも名前がみえ、
元々の祭神を住吉神の荒魂とする説もあります。
幸福門
「船玉神社」前から参道が斜めに伸び、その先に本宮への「幸福門」があります。
神館への門
「幸福門」方向とは逆、「船玉神社」の東側に神館への門がありますが、
門は閉じられています。
市戎大黒社-1
市戎大黒社
門の南側に「市戎大黒社(いちえびすだいこくしゃ)」があり、
事代主命 (ことしろぬしのみこと=えびす)と
大国主命 (おおくにぬしのみこと=だいこく)が祀られています。
大阪では最古の戎社になります。
稲
「市戎大黒社」の南側に建物には神田で刈り取られた稲が干されています。
神田
南側には「御田」が拡がります。
毎年6月14日に執り行われる「御田植神事」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
社伝によれば、神宮皇后が五穀豊穣を祈るために、長門国から植女を召して
御田を定められたことに始まると伝えられています。
今は、稲刈りも終わり、園児が立てた案山子だけが残されています。
鴨
落穂でも残っているのでしょうか?...神田には鴨がいました。
祈祷所
放生池の東側を南から北へと進みます。
鳥居が建つ「幸禄門」前を通り過ぎると「幸壽門(幸寿門)」があり、
門に続いて祈祷殿があります。
誕生石-1
更に北へ進むと「誕生石」があります。
誕生石-2
源頼朝の寵愛を受けた丹後局 (たんごのつぼね) が出産した場所と伝わり、
その子が成長して薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久となりました。
丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したのですが、北条政子に捕えられ
殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ほんだじろうちかつね)が逃亡を助けました。
住吉にあたりで日が暮れ、雷雨にも遭って視界が遮られましたが、
不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導きました。
誕生石-3
社頭に辿り着いた時、局が産気づき、本田次郎が住吉明神に祈るなか
局は傍らの大石を抱いて男児を出産しました。
これを知った源頼朝は本田次郎を賞し、男児が若君に成長した後、
薩摩・大隅二か国をあてられました。
この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に
垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が生まれました。
参集所
「誕生石」から先へ進むと右側に参集所(社務所)があります。
吉祥殿
参集所から西への参道の北側に吉祥殿があり、結婚式場となっています。
時計塔
車道に出る手前には時計塔があります。
住吉ライオンズクラブがチャーターナイト25周年記念として奉納し、
昭和61年(1986)12月25日に建立されました。
南向き鳥居
時計塔から少し戻ると南向きに鳥居が建っています。
神馬舎
鳥居をくぐって進むと右側に神馬舎があります。
神馬は1月7日の白馬神事(あおうましんじ)まで出張されているそうです。
住吉大社の神馬は代々白馬で、平安時代以降、白河天皇や源頼朝など
によって奉納されてきました。
江戸時代より大阪炭屋仲間の「神馬講」が普段黒い炭を扱う為、
反対の白馬を奉納してきました。
この伝統は今も続いているそうです。
反橋-正面
神馬舎の前にも橋が架かっていますが、その先にある反橋を渡ります。
反橋は高さ4.4mあり、住吉大社を象徴する橋で、鎌倉時代の文献にも記されています。
石造の脚・梁部分は慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼、または
淀殿により寄進されたものと伝わり、木製部分は昭和56年(1981)に造営されました。
かってはこの橋付近までが海でした。
放生池もかっては潟湖(せきこ)だったのかもしれません。
現在の住吉公園は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、
『源氏物語』では明石の君に関連した重要な舞台として描かれています。
また、『一寸法師』では、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参拝して、
一寸法師を授かったとされています。
手水舎-1
手水舎-2
反橋を渡った左側に手水舎があり、兎の像から水が流れ出ています。
神功皇后が住吉の地に住吉大神を祀ったのが
辛卯(かのと う)の年(211)卯月の卯日とされ、兎は住吉大神の神使いとされています。
住吉鳥居
反橋を渡った先に建つ鳥居は、古い様式の四角柱の鳥居であるため、
「角鳥居 (かくとりい)」 とも「住吉鳥居」とも呼ばれています。
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)の筆による
陶製の扁額が掲げられています。

鳥居をくぐった神門には「幸禄門」の扁額が掲げられ、
江戸初期(1615~1661)に建立されたもので、国の登録有形文化財に指定されています。

本宮への門は正面の、神の恵みによる幸運をもたらすとされる「幸禄門」、
右側の幸福を授かるとされる「幸福門」、左側の長寿を授かるとされる「幸壽門」があります。
撫でうさぎ
右側の「幸福門」から入ると翡翠で造られた「撫でうさぎ」の像が祀られています。
「五体を撫でて無病息災を祈る」と記されています。
神井
「撫でうさぎ」の左側に神井があります。
毎年1月1日午前5時に宮司自らが神井の水を汲み上げ、
神前に供える「若水の儀」が執り行われます。
神井の水は「若水の儀」と6月14日の「御田植神事」のみに汲み上げられます。
授与所
左の「幸壽門(幸寿門」から入ると、授与所があります。
矛社
授与所の北側に「矛社(ほこしゃ)」があり、経津主命 (ふつぬしのみこと)が祀られています。
神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、
刀剣の威力を神格化した神とする説があります。
盾社
対面する南側には「盾社」があり、武甕槌命 (たけみかづちのみこと) が祀られています。
神名の「ミカヅチ」は雷(イカヅチ)に接頭語「ミ」をつけた「ミ・イカヅチ」の
縮まったものであり、雷神は剣の神でもあります。
「矛社(ほこしゃ)とともに本宮を守護しています。
第三本宮
「幸禄門」から入ると正面に第三本宮があり、表筒男命(うわつつのおのみこと)が祀られています。
火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んで大火傷を負った
伊邪那美命は黄泉国(よみのくに=死の世界)へと旅立ちました。
伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとしましたが、
果たせず黄泉国の穢れを落とすために禊を行いました。
禊を行った瀬の深いところで底筒男命、瀬の流れの中間で中筒男命、
水面に近い所で表筒男命が生まれたとされています。

本宮には第一から第四の本宮があり、全て文化7年(1810)に造営されたもので、
国宝に指定されています。
「住吉造」と称され、神社本殿としては神明造・大社造・大鳥造と並んで
飛鳥時代まで遡る最古様式の一つに数えられています。

住吉大社は南朝側に組していたため、室町幕府から制圧を受け、
社領も大幅に削減されて現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模に縮小されました。

明応2年(1493)に起きた明応の政変では、神主・津守国則が遊佐氏と
姻戚関係にあったため、上原元秀に撃たれ、社殿が放火されました。

天正4年(1576)には織田信長と大坂本願寺との戦い(石山合戦)に
巻き込まれて社殿の大半を焼失しました。

その後、慶長11年(1606)に豊臣秀頼により本格的な復興が行われましたが、
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しました。
元和4年(1618)に第二代将軍将軍・徳川秀忠の命により再興されました。
第四本宮
第三本宮の右側に第四本宮があり、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと
=神功皇后)が祀られています。

神功皇后は第14代・仲哀天皇の皇后で、天皇が熊襲討伐のため筑紫に赴く際に、
皇后に神懸りがあり、住吉三神より託宣を受けました。
「熊襲の痩せた国を攻めるよりも、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある
新羅を戦わずして得るだろう」という内容でしたが、仲哀天皇はこれには従わず、
熊襲を攻撃しました。
天皇はこの戦いに敗れ、翌年崩御されました。
その後、再び皇后に託宣があり、皇后自らが兵を率いて新羅へ出航し、
戦わずして新羅、高句麗、百済の三韓を従わせたとされています。
皇后は大和への帰還中に麛坂皇子(かごさかのおうじ)と
忍熊皇子(おしくまのおうじ)の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも、
船が進まなくなりました。
務古水門(むこのみなと=兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと、
住吉三神が三神の和魂を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」で
祀るように託宣を下しました。
皇后は、神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになりました。
大津の渟中倉の長峡が、現在の住吉大社の地であり、住吉大社の歴史年表によると、
鎮祭されたのは、神功皇后摂政11年(211)とされています。
第二本宮
第三本宮の東側に第二本宮があり、中筒男命(なかつつのおのみこと) が祀られています。
第三本宮から第一本宮まで東西に一直線上に配されています。
本殿前には全て幣殿が建てられ、屋根上に千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)が乗り、
千木は第四本宮のみ内削ぎとなっています。

住吉大社では式年遷宮が行われてきました。
『興福寺年代記』に見える天平勝宝元年(749)が初見で、以後、
室町時代の永享6年(1434)の第35回までは20年ごとに行われていましたが、
戦国時代に中断されました。
その後、永正14年(1517)に復活されますが、不定期の遷宮となり、
平成23年(2011)には御鎮座1800年記念大祭に合わせ第49回式年遷宮が斎行されました。
第一本宮
第二本宮の東側に第一本宮があり、底筒男命 (そこつつのおのみこと) が祀られています。
住吉大社の祭神は伊邪那岐命が禊を行った際に生まれた神で、
禊祓(みそぎはらい)の神として信仰され、7月30日~8月1日に催される
例祭の住吉祭では祓の意味を込めた神事が斎行されています。
また、平安時代頃からは和歌の神として信仰されるようになりました。
かって、住吉大社の馬場(現在の住吉公園)は、白砂青松の風光明媚の
代表地とされ、「住吉の松」と歌枕で歌われるようになりました。
やがて、住吉明神、玉津嶋明神・柿本人麻呂の3柱は和歌の守護神として
「和歌三神(わかさんじん)」と総称されるようになりました。
神楽殿
本宮境内の北側、「矛社」の東側に神楽殿があり、伝統ある神楽として、
神楽女の行なう神降 (かみおろし) ・倭舞(やまとまい)四段・熊野舞四段・白拍子・
田舞 (やおとめまい) などが伝承されています。
祓所
神楽殿の東側に祓所があります。
子供神輿
祓所の前には七五三の撮影用でしょうか?...子供用の神輿が展示されています。
菊花
祓所の先には菊花が展示されています。
神饌所
祓所向かいの南側には神饌所があります。
侍者社-1
侍者社-2
建物内には末社の侍者社(おもとしゃ)があり、初代神主・田裳見宿禰 (たもみのすくね)と
その妻神・市姫命 (いちひめのみこと)が祀られています。
神に供える前の検視を行い、神と人の仲を執り持つ役目を担ったことから縁結びの神・
夫婦円満の神とされています。
社殿前には、縁結びは侍者人形、夫婦円満には裸雛が祈願され、奉納されています。

第一本宮の左側にある門を出て御文庫へ向かいます。
続く

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文庫
第一本宮の左側にある門を出ると、左側に御文庫があります。
享保8年(1723)に書物を収める目的で、
大坂を中心に京・江戸の書籍商たちによって建立されました。
和書漢籍・洋装本を併せると一万点以上、数万冊が保存されています。
文庫東側の灯篭の覆屋
御文庫の東側に二基の石灯籠が覆屋の中に納められています。
文庫東側の灯篭
石灯籠には、文政9年(1826)の刻字があります。
大神宮
参道の右側に「大神宮」があり、伊勢神宮の遥拝所になっています。
なんくん社‐夫婦楠
「大神宮」の先に「楠珺社(なんくんしゃ)」の夫婦楠が祀られています。
なんくん社‐夫婦楠-2
夫婦楠は樹齢約800年、高さ19.8m、幹回り7.9mあり、大阪市の保存樹に指定されています。
校倉
夫婦楠の後方右側に校倉造りの蔵が二棟並んで建っています。
北高蔵と南高蔵で、いずれも慶長12年(1607)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
手前が北高蔵です。
神苑の森
御文庫まで戻り、その西側を北へ入った御文庫の裏側に古札納所と、
その北側に東側に神苑の森があります。
神宮寺址の碑
神苑の森にはかって神宮寺がありました。
天平宝字2年(758)、薬師如来を本尊とする新羅(しらぎ/しんら)寺が建立され、
その跡を示す石碑が建てられています。
天正4年(1576)の石山合戦の際に、住吉社の社殿と共に新羅寺の仏堂も炎上しました。
しかし、慶長11年(1606)に豊臣秀頼により住吉社と共に本格的な復興が行われ、
本堂・法華三昧堂・常行三昧堂・僧坊・鐘楼などの他、
方形二重の大塔である東塔と西塔が造営されました。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しましたが、
元和4年(1618)に徳川第2代将軍・秀忠により再興されました。
明治の廃仏毀釈や神仏分離令の影響を受けて、
新羅寺は明治6年(1873)に破却され廃寺となりました。
その際、一部の建物は売却され、西塔は阿波国の切幡寺の大塔に、
薬医門は荘厳浄土寺の表門に、回廊の一部は生根神社の香梅殿として現存しています。
土俵
神苑の森沿いに北へ進むと左側に土俵があります。
毎年10月に近畿高等学校招待相撲大会が行われています。
住吉大社では、古くから相撲会(すもうえ)が行われていて、とても強い力士がいました。
誰一人として相手になるものがいませんでしたので、
行司は御神前の「しめ縄」をその力士の腰にまとわせ、このしめ縄の垂れに

手をかけるものがあればこれを勝ちとして相撲をとらせましたが、
やはり誰もこのしめ縄に触れることすらできませんでした。
これが横綱の起源であると伝わっています。
また、住吉大社では、3月の大阪場所の前に横綱の手数入(土俵入)、
横綱による「しめ縄」の奉納が行われています。
種貸社
正面には末社の種貸社があり、倉稲魂命 (うがのみたまのみこと)が祀られています。
かっては「多米神社」と称された古社で、稲種を授かって豊穣が祈られていました。
時代の変遷と共に商売の神、子授けの神として信仰さるようになりましたが、
毎年3月17日の祈年祭に先立ち、五穀の種をお祓いして農業関係者に分かたれる
神種頒賜祭(かんざねはんしさい)では、種貸信仰の原点を見ることができます。
種貸社-2
商売発達を願う「初辰まいり」は、毎月の初辰の日にまず種貸社に参拝し、
ご祈祷した「お種銭(おたねせん)」を授かり、これ

を商売などの元手に加えて、資本充実の祈願をします。
次に楠珺社(なんくんしゃ)→浅澤社(あさざわしゃ)→大歳社と参拝するのが
「初辰まいり」のルートとなっています。
これを4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満願成就となります。
種貸社-おわん
境内には、住吉大明神に祈って誕生した一寸法師の物語に因んで
置かれた「おわん」があります。
種貸人形
子授けの神としても信仰され、種貸人形・御守・絵馬が授与されますが、
毎月の初辰の日に参拝すると一層の御利益があるとされています。
社殿の裏側には、願いが叶った種貸人形が多数奉納されています。
海士子社-鳥居
種貸社の右側に鳥居が建っています。
海士子社
鳥居をくぐって進むと、右側に海士子社(あまごししゃ)、左側に児安社(こやすしゃ)があります。
海士子社は、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が祀られています。

児安社の祭神は、興台産霊神 (こごとむすびのかみ) で、かつては縁結びの神として、
現在は、子供を守る神としても信仰を集めています。
大海神社への門
種貸社の西側を南へ進むと門があります。
志賀神社
門くぐった右側に摂社の志賀神社があり、底津少童命 (そこつわたつみのみこと)、
中津少童命 (なかつわたつみのみこと)、表

津少童命 (うわつわたつみのみこと)の三神が祀られています。
伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、住吉三神と共に生まれた神とされ、
住吉三神が主として航海、港湾守護の神であるのに対し、

少童三神は海の神霊とされています。
大海神社-幣殿
門をくぐった先には摂社の大海神社(だいかいじんじゃ)があり、
豊玉彦命 (とよたまひこのみこと)と豊玉姫命 (とよたまひめのみこと) が祀られています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳にも記載があり、住吉社神主家である
津守氏との関係が深く、住吉大社の摂社では最も社格が高い位置づけにあります。
本殿は、住吉大社本宮本殿と同様の住吉造で、
本殿前に渡殿(わたりでん)、次いで幣殿が建てられています。
住吉大社本宮本殿より古く、江戸時代中期の宝永5年(1708)の造営で、
国の重要文化財に指定されています。

祭神の豊玉彦命は大綿津見神(おおわたつみのかみ)とも表記され、
伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれ、海の主宰神とされています。
豊玉姫命は豊玉彦命の娘で、海幸彦と道具を交換して釣針を亡くした山幸彦は、
豊玉彦命の元を訪れ、豊玉姫命と結ばれ、二神の間に
鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を儲けました。
画像はありませんが、社前に井戸があり、「玉の井」と呼ばれ、
山幸彦が豊玉彦命より授かった潮満珠(しおみつたま)を沈めたところとされています。
大海神社-門
幣殿前の門は江戸時代前期に造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。
門の外側は崖状の地形で、かつては海が広がっていたとされ、「玉出嶋」と呼ばれていました。
神域の杜は「磐手の森」と呼ばれ、萩と藤の名所でした。
星の宮
種貸社まで戻り、その先へ進むと「星の宮」があり
、国常立命 (くにのとこたちのみこと)と竈神 (かまどのかみ) が祀られています。
天地開闢(てんちかいびゃく)の際、世界の最初に、高天原に相次いで三柱の神が生まれ、
続いて二柱の神が生まれました。
その次に生まれたのが国常立命と豊雲野神(とよくもののかみ)の
二柱の神とされていますが、『日本書紀』本文では、国常立尊は最初に現れた神とされています。
竈神は、火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされています。
后土社
「星の宮」から東へ進んだ境内の北東角の奥まった所に「后土社(ごどしゃ)」があり、
土御祖神(つちのみおやのかみ)が祀られています。
后土は土地の神を指し、鬼門を守護しています。
五社殿
「后土社」から参道に戻った右側に「五社殿」があり、住吉の神職七家祖神が祀られています。
招魂社
「五社殿」の右側に「招魂社」があり、諸霊神(もろもろのみたまのかみ)が祀られています。
住吉大社に縁の深い人などを祖霊神として祀っています。
「招魂社」の建物は、江戸時代中期までは住吉大社神宮寺の護摩堂でした。
薄墨社からの並び
「招魂社」の右側には左から「薄墨社」、「斯主社(このぬししゃ)」、「今主社」、「八所社」、
「新宮社」が並んでいます。
薄墨社
「薄墨社」には国基霊神 (くにもとのみたまのかみ)が祀られています。
津守家39代の神主は、和歌の達人でした。
「薄すみに書く玉章(たまずさ)と見ゆるかな霞める空に帰る雁かね」の
和歌より薄墨神主と称えられました。
朝廷に仕え「藤井戸神主」とも号し、芸術に秀で才能高く中興の神主と讃えられ、
建長5年(1253)に奉斎されました。
斯主社
「斯主社(このぬししゃ)」には、国盛霊神が祀られています。
津守家43代神主は、源頼朝と祖父が同じであり、源氏興隆の基を開いたとして、
建仁2年(1202)に奉斎されました。
今主社
「今主社」には、国助霊神が祀られています。
文永・弘安の役(1274・1281=元寇)の際、外敵を撃退させる祈祷を行った
津守家48代神主が、日本をモンゴルから守ったとされ、
正安2年(1300)に奉斎されました。
八所社
「八所社」には素盞鳴尊が祀られています。
新宮社
「新宮社」には伊邪那美命、事解男命(ことさかのおのみこと)、
速玉男命(はやたまのおのみこと)が祀られています。
火傷を負い黄泉国(よみのくに)へと旅立った伊邪那美命を追って伊邪那岐命は
逢いに行きましたが、伊邪那美命は腐敗して蛆にたかられていました。
伊邪那岐命はその姿を見て驚き、離縁すると約束して唾を吐きました。
その時生まれたのが速玉男命であると『日本書紀』には記されていますが、
熊野速玉大社では伊邪那岐命と同一神とされています。
また、伊邪那岐命が黄泉国との関係を断つために祓いを行い、
その際生まれたのが事解男命とされています。

「新宮社」には津守王子(つもりおうじ)社が合祀されています。
津守王子は、熊野古道・九十九王子の6番目の王子で、
かってこの地より南東方向にある現在の墨江小学校に鎮座していました。
津守という名称は、住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり
宮司家でもあった津守氏にちなんだものです。
なんくん社
「新宮社」の南側に「楠珺社(なんくんしゃ)」があり、
宇迦魂命 (うがのみたまのみこと=稲荷大明神)が祀られています。
「初辰まいり」では種貸社に次ぐ2番参りで、「願いの発達」を祈り、
毎月「招福猫(しょうふくねこ)」を授かります。
奇数月は左手を、偶数月には右手を挙げた小猫を毎月集め、48体揃えて
満願成就の証として納め、一回り大きな招福猫と交換してもらい、今後の繁栄を祈願します。
左手挙げが「人招き」、右手挙げが「お金招き」のご利益があるとされています。
48ヶ月間(4年間)続けるということは、「始終発達」(しじゅうはったつ=四十八辰)の
福が授かるとの意味が込められています。
招福猫
社前には多数の招福猫が奉納されています。
なんくん社-大楠
社殿の背後に樹齢千年を超えるとされる楠(くすのき)があり、
江戸時代に人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げ、根元に祠を設け
祀るようになったのが楠珺社の始まりとされています。
貴船社
楠珺社の楠の向かいには「貴船社」があり、高龗神(たかおかみのかみ)が祀られ、
「祈雨の神なり」と説明されています。
立聞社
「貴船社」の右側(西側)に「立聞社」があり、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
天児屋根命は、春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ばれ、
国土安泰・産業(農・商・工)繁栄の神ですが、「禁断の神。酒だち、煙草だち等
 神徳を顕わし給ふ。」と説明されています。
なんくん社への門
「立聞社」の先に門があります。
海龍社-1
門をくぐった左側に「海龍社」があります。
海龍社-2
詳細は不明ですが、岩の御神体が祀られています。
五所御前-拝所
本宮の玉垣側には「五所御前」の拝所があります。
五所御前-1
「五所御前」の石の玉垣の中には杉の木が立ち、住吉大神を最初に祀った聖地とされています。
神宮皇后が住吉大神を祀る地を求めていた時に、白さぎが3羽飛んできて、
この杉の木に止まったのを見て、この地に祀ると決められたと伝わっています。
毎年5月の卯之葉神事では、卯の葉の玉串が捧げられます。
五所御前-2
玉垣内には玉砂利が敷かれ、その中に「五」「大」「力」と書かれた小石があり、
その3個を集めてお守りにすると心願成就のご利益があるとされています。
初穂料300円を授与所に納めると、小石を入れる専用の「五大力守袋」が授与されます。
願い事が叶うまで守袋を持ち、願いが叶えば自宅近くで3個の小石を拾い、
それに自身で「五」「大」「力」と書いて守袋の3個の小石と共に元の場所に返すとされています。
若宮八幡宮
「五所御前」の左側(南側)に摂社の「若宮八幡宮」があり、
誉田別尊(ほんだわけのみこと=第15代・応神天皇)が祀られています。
第四本宮の祭神・神功皇后の御子神となります。
また、武内宿禰 (たけしうちのすくね)が共に祀られ、国家鎮護・厄除開運・安産育児の
神とされています。
本宮への門-南側
「若宮八幡宮」の西前方には本宮への門があります。
陶製灯篭‐覆屋
陶製灯篭
門の脇には覆屋の中に二基の陶製の灯篭が納められています。
石舞台先の門
「若宮八幡宮」の前、南側にも門があります。
石舞台
門を出ると池があり、池に架かる石橋には石舞台があります。
慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼から奉納され、日本三舞台(住吉大社・厳島神社
四天王寺)の一つでもあります。
毎年5月の卯之葉神事では、石舞台で舞楽が演じられます。
神館
池の西側には神館があります。
大正天皇の即位大礼を祈念して建立された建物で、館内中央には玉座があります。
普段は非公開ですが、宴会場として、貸切で使用できるようです。
東楽所
東楽所
石橋の先には南門があり、その両側の建物が楽所です。
西楽所
西楽所
南門
南門は慶長12年(1607)に豊臣秀頼により建立された四脚門で、この門と石舞台、
楽所がセットになって残された舞楽施設として、重要文化財に指定されました。
卯の花苑
南門を出るとバイクを停めた無料駐車場があり、右側に武道館があります。
武道館の向かいには、「卯の花苑」があります。
卯の花は、ユキノシタ科のウツギという落葉低木で、かっては住吉神社の境内にも
群生していたのですが、現在ではそのほとんが失われています。
住吉神社名勝保存会では、築山の土壌を改良して卯の花を育成しています。
住吉大社がこの地に鎮座されたのは神功皇后摂政11年卯の歳、卯の月、卯の日
であったことから、 五月最初の卯の日に、住吉大神に卯の葉の玉串が捧げ、
神威の更新を祈る重要な「卯の葉神事」が営まれます。

「卯の花苑」には後鳥羽院・皇子の光台院親王の歌碑が建立されています。
「すみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな」
「ゆふしで」とは、木綿四手と書き、四手とは、玉串や注連縄(しめなわ)などに
下げる紙のことで古くは木綿(ゆう)を用い、

「ゆふしでの」は、「神」にかかる枕詞として使われています。
卯の花は白く、5月~7月に多くの花を咲かせ、
旧暦の四月を「卯月」と呼ぶのはこの花に由来します。
白波で、白い卯の花が隠されてしまった様に、後鳥羽院のことを
思い起こされて詠まれたのでしょうか?
この歌を詠まれた頃の住吉大社は、太鼓橋あたりまで海でした。
車返しの桜
「卯の花苑」の先に鳥居が建ち、その脇に桜の木が植栽されています。
かって、この付近に明治初年に廃寺となった津守家の菩提寺・慈恩寺がありました。
寺の庭に咲く桜は見事なもので、後醍醐天皇が住吉大社に参拝した際、
この桜の前を通り過ぎてから、再び車を返して桜を愛でた

ことから「車返しの桜」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の地図や名所案内にも記され、住吉の名勝となっていましたが失われ、
平成21年(2009)に大阪市の「未来樹」として京都嵯峨野の紅八重枝垂桜が移植されました。
武道館-鳥居
鳥居をくぐり車道に出ます。
背後の建物が武道館です。
大きな石灯籠
車道を左側(東側)に進むと大きな石灯籠が目に入ります。
浅澤神社-3
浅澤神社-1
石灯籠の手前を右折した所に、住吉神社の境外末社・浅澤神社があります。
かって、この地には清水が湧く広い池があり、「浅沢」と呼ばれ、
奈良の猿沢の池、京都の大沢の池と並ぶ近畿の名勝でした。
浅沢池には、杜若(かきつばた)が美しく咲き乱れ、
万葉集をはじめ多くの歌集にその名が留められています。
奈良時代に編纂された『摂津国風土記』には、「昔、息長帯比売
(おきながたらしひめ=神功皇后)の世に住吉の大神が現れ、
住むべき国を探し求めて天下を巡り、この住吉の地に至った時、
これぞまことに住むべき国なり『真住み吉し、住吉の国』と言い、
神の地と定めた」と記載され、住吉と呼ばれた由縁が残されています。
しかし、昭和になると浅沢の清水も枯れ果て、地元の尽力により、
平成9年(1997)になって、浅沢に新しい水脈が加えられ、杜若が復活されています。
浅澤神社-2
浅澤神社は「初辰まいり」の第3番で市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
芸能上達や女性の守護神とされ、「初辰まいり」では「芸事や美容の願い」に福を授かるとされています。
大歳神社-本殿
浅澤神社から南側の細江川に架かる橋を渡った所に、住吉神社の境外末社・大歳神社があります。
「初辰まいり」で最後に参り、「願いの成就」を祈願します。
祭神は大歳神 (おおとしのかみ)で、稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と
兄弟神であり、五穀収穫の神とされています。
何時の頃からか集金のご利益にも霊験あらたかな神として信仰されるようになり、
小石に「大」と書かれた「大歳守(おおとしまもり)」を集金の
ご利益があるとして授かるようになりました。
おもかる石
大歳神社の右側に「おいとしぼし社」があり、社殿前の「おもかる石」は
願いを占う石として知られています。
先ず社殿で参拝し、次に石を持ち上げ重さを確認して、石に手を添え願掛けを行い、
もう一度持ち上げた際に軽く感じれば願いが叶うといわれています。
石は3個ありますが、1個に絞っても、3個全てを試してみても良いそうです。
おいとぼし社
おいとしぼし社

住吉行宮跡へ向かいます。
続く

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住吉行宮-1
住吉武道館の駐輪場から南方向へバイクで10分足らず走った所に住吉行宮跡があります。
かって、この地には住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり宮司家でもあった
津守氏の邸宅「住吉殿(住之江殿)」がありました。
康平3年(1060)に住吉大社第39代神主・津守国基(つもり の くにもと)は、邸宅内に
住吉大社の神印が納め置かれた建物である正印殿(しょういんでん)を創建しました。
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、津守氏は大覚寺統と強く結びついて活動していました。
正平5年/観応元年10月26日(1350年11月26日)、
室町幕府で内紛が起き戦乱へと発展しました(観応の擾乱=かんのうのじょうらん)。
高 師直(こう の もろなお)が起こしたクーデターにより
足利尊氏の弟・直義(ただよし)が失脚し、京都を脱出して南朝に帰服しました。

一方で尊氏の実子として認知されず、直義の養子となっていた足利直冬は
長門探題に任命され備後国(びんごのくに=現在の広島県の東半分)にいましたが、
その知らせを聞いて兵を集めました。
尊氏は自ら兵を率いて直冬討伐へと、備後国へ出陣しましたがその留守を狙い、
正平6年/観応2年(1351)1月、直義軍は京都に進撃しました。
留守を預かっていた尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)は降伏し、備前の尊氏の下に落ち延びました。
尊氏軍は備後国から引き返しましたが直義軍に敗北し、高 師直一族は直義に仕えていた
上杉能憲(うえすぎ よしのり)に殺害されました。
尊氏は和議を申し入れ同年11月に正平一統が成立して年号が正平6年に統一されました。
翌年、第97代/南朝第2代・後村上天皇は吉野を追われ逃亡していた
賀名生行宮(あのうのあんぐう)から住吉殿内の正印殿を行宮としました。

直義は義詮の補佐として政務に復帰しましたが、尊氏と直義の対立は解消されておらず、
尊氏と義詮は京都を出て近江と播磨で反直義勢の態勢を整え始めました。
それを知った直義は鎌倉へと逃れましたが、戦いに敗れて
正平7年(1352)1月5日に延福寺に幽閉され、2月26日に急死しました。
その機に乗じて南朝側は京都と鎌倉を同時奪還する軍事的進攻を行い、
後村上天皇は同年2月に京都を目指して出立しました。
しかし、京都に入ることが出来ず、5月に捕虜とした北朝の3人の上皇
(光厳・光明・崇光)と廃太子(直仁親王)を連行して賀名生に戻りました。
住吉行宮-2
その後も南朝側は京都の奪取を企てましたが、維持出来ずに撤退しました。
正平9年/文和3年(1354)に4月に南朝の主導的人物であった
北畠親房(きたばたけ ちかふさ)が逝去されると、同年10月に後村上天皇は、
行宮を賀名生から金剛寺へ遷しました。
正平13年/延文3年(1358)に足利尊氏が逝去され、嫡男・義詮(よしあきら)が
第2代将軍となり、本格的な南朝掃討を始めました。
しかし、幕府内に対立が起こり、正平16年/康安元年(1361)に政争から失脚した
管領の細川清氏(ほそかわ きようじ)が離反して南朝へ下りました。
細川清氏は楠木正儀(くすのき まさのり)らと4度目の京都侵攻を行って一時的に占領し、
後村上天皇は住吉行宮へ遷りました。

正平23年/応安元年(1368)、後村上天皇が住吉行宮で崩御され、
長慶天皇が即位しましたが、強硬派だったとみられ和平派の楠木正儀は北朝へ降りました。
同年12月に天皇は吉野へと後退し、正平24年/応安2年(1369)4月に金剛寺へ遷りましたが、
文中2年/応安6年(1373)8月に北朝軍の攻撃を受け、再び吉野へ退きました。
弘和3年/永徳3年(1383)に長慶天皇は弟の後亀山天皇に譲位し、
後亀山天皇は元中9年/明徳3年(1392)に京都へ赴き、後小松天皇に

神器を譲渡して南朝が解消される形で南北朝合一が成されました(明徳の和約)。

明治元年(1868)に明治天皇が住吉大社に行幸の際に立ち寄られ、
昭和14年(1939)3月7日には国の史跡に指定されました。
トドロキ神社-鳥居
住吉行宮跡から南東方向にバイクで約5分走った所に
止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)があります。
創建に関する詳細は不明ですが、延長5年(927)に編纂された
『延喜式神名帳』では小社に列せられ、元は住吉大社の摂社(奥之院)であったとされています。
かって、境内の松林の中に清水が湧く「轟池(とどろきいけ)」と呼ばれる池があり、
轟橋が架けられていました。
それが社名の由来となったと伝わります。
また、稲田姫尊を「止止呂支比売命」と呼んだことが由来となった説もあります。
トドロキ神社-社殿
社殿は住吉造と同じように見えます。
祭神は素戔嗚尊と稲田姫尊で、社頭の由緒書きには
止止呂支比売命も記されています。
『古事記』では素戔嗚尊は、伊邪那岐命が黄泉の国から引き返し、
筑紫の阿波岐原(宮崎市阿波岐原町に比定)で禊を行った際、

天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれたとされています。
素戔嗚尊は我が身の潔白を証明するため、
天照大御神と誓約(うけひ)を行い、高天原へ上りました。
しかし、次々と粗暴を行い、天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れ、
素戔嗚尊は高天原から追放されました。
素戔嗚尊は出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降り、八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた
稲田姫尊(櫛名田比売命=くしなだひめのみこと)と出会いました。
素戔嗚尊は八俣遠呂智を退治し、稲田姫尊を妻として出雲の地に留まったとされています。
八俣遠呂智を退治した際、八俣遠呂智の尾から出てきたのが
草那藝之大刀(くさなぎのたち=草薙剣)で、天照大御神に献上し、

古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなりました。
若松行宮
境内の西側に後鳥羽上皇若松行宮跡があり、すぐ後ろに南海高野線の線路が通っています。
第82代・後鳥羽天皇は元暦(げんりゃく)元年(1184)7月28日に
安徳天皇が退位しないまま即位しました。
寿永2年(1183)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫り、平家は安徳天皇と
三種の神器を奉じて西国に逃れたため、神器なき即位となりました。
文治元年(1185)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、三種の神器の一つ、
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草那藝之大刀)は安徳天皇が携え、海底に沈みました。
後鳥羽天皇は建久9年(1198)1月11日に土御門天皇に譲位し、院政を敷きました。
院政は上皇が隠岐島に配流される承久3年(1221)まで、3代23年間に亘りました。
承久2年(1220)、後鳥羽上皇は熊野詣と称し、当地へ行幸されました。
住吉大社神主・津守経国(つねくに)は境内の松林の中に「若松行宮」を
造営したことから、止止呂支比売命神社は別名で「若松神社」とも呼ばれるようになりました。
上皇は鎌倉幕府に対して強硬的であり、当地に行幸されたのも、
津守家を頼り畿内の勢力を集結させる目的があったのかもしれません。
後鳥羽上皇は翌承久3年(1221)5月14日に、時の執権・北条義時追討の院宣を下し、
承久の乱を起こしましたが、幕府の大軍に敗北し、7月9日に隠岐島に配流され、
延応元年(1239)2月20日に60歳で崩御されました。

家原寺へ向かいます。
続く

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