(記事は平成31年(2019)3月27日のものです)
神峯山寺は山号を根本山、院号を寶塔院と号する天台宗の寺院です。
新西国観音霊場・第14番、神仏霊場・第64番及び役行者霊蹟札所となっています。
公共交通ではJR高槻駅北口から「53・原大橋」行バスに乗車し、
「神峯山口」バス停で下車して山門まで徒歩約20分の所にあります。
当日はバイク利用で、安岡寺(あんこうじ)から約10分北へ進み、
坂道を登って行った先に駐車場がありました。
安岡寺は神峯山寺と関連する寺院で、神峯山の南に位置することから山号を
「南山」と号するのではないかと推測されています。
駐車場の東側の下を名神高速道路が通り、参道の下からはトンネルをくぐっています。
駐車場の北側の参道には「勧請掛け」が建っています。
勧請掛けは神峯山を守護する天神地神を勧請祭祀する行事で、
毎年12月25日に行われます。
門柱の横木にしきみを結んだ12本の縄をかけ、縄の高低長短によって、
翌年度の社会情勢や農作物の収穫予想、物価の高低などをを占います。
参道の北側の山の斜面には宝篋印塔や五輪塔が祀られています。
また、神峰山の地主神として金毘羅飯綱大権現社があります。
『神峯山寺秘密縁起』によると、文武天皇元年(697)に役小角(えん の おづの=役行者)が
大和・葛城山(金剛山)で修行をしていた時、北方の山から黄金の光が
発せられているの見て霊感を受け、その方向へと向かいました。
神峯山寺が位置する場所へとたどり着いた役小角は、金毘羅童子に化身した
山の守護神と出会い、霊木を入手するように依頼されました。
役小角が探し出した霊木で金毘羅童子が4躯の毘沙門天を造りあげると、
3躯は鞍馬寺・信貴山・北山(本山寺)へと飛び去りました。
最初に造られた1躯が当地に留まったので「根本山」と号したと伝わります。
参道脇に立つ灯篭は「行者灯篭」と称されています。
渓谷沿いの参道を進んで行くと、山門の手前に「役行者 笈掛石」があります。
笈(おい)とは「行脚僧や修験者などが仏像、仏具、経巻、衣類などを
入れて背負う道具」を意味しています。
仁王門の前には狛犬が“にらみ”を利かせています。
阿形の仁王様は健在ですが、吽形の仁王様は現在、修復のため出張されています。
仁王門をくぐった先にある、一枚岩を刳り抜いた手水鉢。
参道を進んだ左側(西側)にある化城院は平成25年(2013)に落慶された新しい建物で、
護摩道場として使われています。
堂内には中央に不動明王像、その両側には梵天像と帝釈天像が安置されています。
更に参道を進んだ先に本堂への石段があります。
現在の本堂は明和2年(1765)に焼失後、安永6年(1777)に再建されました。
神峯山寺は文武天皇元年(697)に役小角が伽藍を建立して、毘沙門天を祀ったのが
始まりとされ、宝亀5年(774)に第49代・光仁天皇の命を受けた開成(かいじょう)皇子によって
中興され、光仁天皇の勅願所となりました。
平安時代、伝教大師・最澄が比叡山で天台宗を開くと、
神峯山寺も皇室と緊密な天台宗の寺院となりました。
鎌倉時代になると毘沙門天は戦いの神として崇拝され、
楠木正成は殿中刀を奉納したと伝わり、本殿で所蔵されているそうです。
室町幕府三代将軍・足利義満からも帰依を受け、大和国の戦国大名・松永久秀や
豊臣秀吉の側室・淀殿からの寄進もありました。
江戸時代、上方文化が栄えた元禄時代の頃より、神峯山寺は大坂商人から厚い信仰を受け
巡礼地として栄えました。
毘沙門天は七福神の一神であることから商売繁盛を祈願するために商人達が淀川を上り、
三島江から神峯山寺まで歩いて参拝したとの記録が残されています。
信者の一人、豪商の鴻池善右衛門は、三島江から神峯山寺参道にかけて
十数か所に石造の道標を建立しました。
江戸時代に最盛期を迎えた神峯山寺は七堂伽藍に加え、
21の僧坊と1,300石の寺領がありました。
しかし、明和2年(1765)の火災で本堂を焼失後、本堂は再建されましたが、
規模は徐々に縮小され現在の姿となりました。
神峯山寺の本尊は三種の毘沙門天で構成されています。
第一の本尊は毘沙門天で、吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ)を脇侍とする三尊形式で、
本堂内陣中央に安置されています。
吉祥天は毘沙門天の妃または妹とされ、善膩師童子は毘沙門天の息子の一人とされています。
皇室や幕府から国家安泰の神として、この毘沙門天は厚く信仰されてきました。
第二の本尊は兜跋毘沙門天で、武将からは福徳先勝の神として、
商人からは商売繁盛の神として厚く信仰されてきました。
兜跋毘沙門天は、金鎖甲(きんさこう)という鎖を編んで作った鎧を着し、
腕には海老籠手(えびごて)と呼ぶ防具を着け筒状の宝冠を被り、左手に宝塔、
右手に宝棒または戟(げき、ほこ)を持った像様で表されています。
西域兜跋国(現在のトゥルファンとする説が一般的)に毘沙門天が
この姿で現れたという伝説に基づいています。
第三の本尊は双身毘沙門天で、歴代住職の持仏として本堂中内陣の厨子に安置されています。
天台密教における双身毘沙門天の祈願作法は秘法で、
天台本流の作法が正式に伝承されています。
この三種の毘沙門天は秘仏とされ、兜跋毘沙門天のみ11月の「秋の大祭」で開帳されます。
また、本堂には阿弥陀如来坐像と聖観音菩薩立像が安置されています。
木造阿弥陀如来坐像は寄木造り・平安時代後期の作で国の重要文化財に指定されています。
聖観音菩薩立像は2躯安置され、2躯とも一木造り・平安時代中期の作で
国の重要文化財に指定されています。
本坊から本堂への渡廊下をくぐり、その先の石段を上った所に観音堂があります。
観音堂には十一面観音菩薩立像が安置されています。
観音堂の右側には地蔵尊が祀られていますが六地蔵では無く、五躯の地蔵尊です。
地蔵尊の右側に建つ十三重石塔には光仁天皇の分骨が納められています。
画像はありませんが、十三重石塔の右側の山手に五重石塔があり、
開成皇子の埋髪塔とされていますが、通行が禁止されていました。
観音堂の左側から西へ進むと鐘楼への石段がありますが、
石段下の右側に法華観音の石像が祀られています。
石段を上った所に鐘楼があります。
本堂まで戻り、本堂の東側に開山堂への、かなり急な石段があります。
石段の下には護摩壇が組まれています。
開山堂には「神変大菩薩(役行者)」の扁額が掲げられていますが、扉は閉じられています。
役行者が最初に伽藍を建立した場所とされています。
堂内には役行者とその遣いの鬼・藍婆(らんば)、
毘藍婆(びらんば)の像が安置されています。
開山堂から石段を下った東側に釈迦堂があります。
釈迦堂から石段を下って行くと九頭龍のお滝場があり、
滝の上部には九頭龍神堂があります。
役行者が葛城山から見たとされる光は、この滝のしぶきが太陽光に反射して
光輝いたのでは?と推定されています。
滝から下ってきた所に白龍王社があります。
白龍王社の下流にある橋を渡って東側へ進んだ所に塔頭の龍光院があります。
龍光院の庭園
白龍王社から更に下ると水子地蔵が祀られています。
水子地蔵から参道を北へ戻り、その先で西側へと曲がると本坊(宝塔院)があります。
本坊の向かいには塔頭の妙智院があります。
参道へ戻り仁王門の方へ下って行くと東側に塔頭・嶺峯院の納骨堂があります。
本山寺に続く
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