カテゴリ: 兵庫県

安産子育地蔵尊-1
安産子育地蔵尊-2
書写山ロープウェイの駐車場から鶴林寺の駐車場までバイクで約1時間を要しました。
駐車場から仁王門の方へ歩いて行くと左側に安産子育て地蔵尊が祀られていました。
仁王門
仁王門の前には「新西国三十三箇所・第27番」「聖徳太子霊跡」と刻まれた
石柱が建っていますが、その他にも「西国薬師四十九霊場・第22番」、
「播州薬師霊場・第9番」「関西花の寺二十五霊場・第9番」の札所となっています。


仁王門は、三間一戸の楼門形式で、室町時代に建立され、江戸時代末期に大修理、
改造されたものと推定され、兵庫県の文化財に指定されています。
仁王像-左


仁王像-右


仁王像が制作された年代は不明ですが、歴史を感じさせます。

仁王門を入った所で入山料500円を納めますが、宝物館とセットで800円です。
今回は宝物館の入館を予定していましたが、圓教寺でその時間を費やしてしまいましたので、
宝物館は諦めました。
菩提樹沙羅双樹
門をくぐった正面に本堂があります。
本堂前の左側に菩提樹、右側に沙羅双樹の木が植栽されています。
釈迦入滅の際、周囲に茂っていた沙羅双樹が枯れ、こずえが鶴が飛ぶような姿になったとされ、
鶴林寺の寺号の由来となりました。
沙羅双樹は耐寒性が弱く、日本で育てるには温室が必要なため、
別種のツバキ科のナツツバキが植えられ、「沙羅(シャラ)」と呼ばれています。
鶴林寺もこの木が植えられています。
本堂
現在の本堂は、棟札から室町時代の応永4年(1397)に建立されたことが判明し、
国宝に指定されています。
高句麗の僧・恵便(えべん)は、物部氏ら排仏派の迫害から逃れてこの地に隠棲していました。
崇峻天皇(すしゅんてんのう)2年(589)にこの地を訪れた聖徳太子は、
恵便のために精舎を建立したのが鶴林寺の始まりとされています。
太子建立七大寺の一つとされ、当初は刀田山(とたさん)四天王寺聖霊院と号していました。
養老2年(718)、武蔵国の大目(だいさかん=国司の一役職)・身人部春則(むとべはるのり)が
太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立しました。
9世紀の初め、慈覚大師円仁は、入唐の際に立ち寄り、
薬師如来を刻んで国家の安泰を祈願されました。
天永3年(1112)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に
「鶴林寺」と寺号が改められました。
「鶴林」とは釈迦 涅槃の「沙羅双樹の林」を意味します。
現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有しますが、
鎌倉・室町期には寺坊だけで30以上、寺領25,000石の規模を有しました。
戦国時代、近隣の書写山は戦火に巻き込まれましたが、播磨姫路領主だった
黒田職隆(くろだもとたか)、黒田孝高(くろだ よしたか=通称・官兵衛)親子の説得を受けて
信長派となり、戦に巻き込まれず、当時の建築物が多数現存しています。
しかし、信長・秀吉の弾圧を受け、江戸幕府の厳しい宗教政策のため、衰徴していきました。

本尊は、平安時代作の木造薬師三尊像で、持国天像と多聞天像を脇侍としていますが、
秘仏とされています。
太子堂
本堂の右斜め前方に三重石塔が建ち、その奥に平安時代の天永3年(1112)に建立され、
国宝に指定されている太子堂があります。
兵庫県最古の建物で、天台宗の伽藍配置では、常行堂と対を成す
「法華堂」だったと考えられています。
堂内の東側壁画に聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれていますが、
その壁画は中世から厨子で覆われて秘仏扱いとされ、現在は国の重要文化財に指定されています。

本尊は、釈迦三尊像で、中尊の釈迦如来坐像は像高45.5cm、平安時代後期の作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には、平安時代に描かれた来迎壁、九品来迎図、仏涅槃図が残されていますが、
黒ずんでいて肉眼では図柄が確認できないそうです。
常行堂
本堂の左斜め前方に、平安時代に建立され、
国の重要文化財に指定されている常行堂があります。
元は檜皮葺でしたが、室町時代後期の永禄9年(1566)に瓦屋根に葺き替えられました。
常行堂は、正式には常行三昧堂と云い、本尊である阿弥陀如来像の周囲を、
阿弥陀仏を思いながら念仏を唱えて何十日も歩き続ける厳しい修行が行われていました。
常行堂は、かなり格式のある天台宗寺院にしか存在せず、その遺構として、
鶴林寺の常行堂は、日本最古のものです。
三重塔
常行堂の南側に三重塔があり、兵庫県の文化財に指定されています。
三重塔は室町時代に建立され、江戸時代の文政年間(1818~30)に大修理が行われ、
初層はほとんど新材で補修されました。
相輪は昭和25年(1950)に改鋳されました。
昭和51年(1976)に放火により内部を焼損しましたが、昭和55年(1980)に
解体復元修理が行われました。
心柱は二層目で止まり、初重の四天柱内に須弥壇が築かれ、壇上には本尊として
大日如来坐像が安置されています。
経堂
三重塔の左奥に経堂があり、その左側には鳥居が建っています。
地蔵の碑-1
地蔵の碑-2
経堂の右側に地蔵菩薩が並んで現れて来る図が刻まれた石碑が建っています。
石碑には図の右側に「現在未来夫人衆 吾今慇勤附嘱汝」、
左側に「以大神通方便力 勿令堕在諸悪趣」と、
「地蔵菩薩本願経」から引用されている文が刻字されていますが、
意味は理解できていません。
行者堂
鳥居の先には行者堂があり、国の重要文化財に指定されています。
行者堂は、室町時代の応永13年(1406)に鎮守社の日吉神社として建立されましたが、
明治以降に神変大菩薩(役行者)を祀る行者堂となりました。
前面は春日造り、背面は入母屋造りで、こうした建物では最古級とされています。
毎年3月23日には前庭で護摩供が行われています。
新薬師堂
行者堂の右側に茶屋があり、茶屋を通り過ぎた先に新薬師堂があります。
江戸時代の中期、大坂から鶴林寺へ薬師詣でに訪れた医師・津田三碩は、
本尊の薬師如来が60年に一度しか開帳されない秘仏であったため、
目のあたりに拝むことができませんでした。
三碩は「いつでも拝める薬師様を」と、新薬師堂の建立を発願しました。
延宝7年(1679)に新薬師堂が落慶し、本尊の開眼供養が行われましたが、
三磧はこの日を待たず他界されていました。
安置されている仏像の背面から製作者と発願者である津田三碩の名が書付で
残されてはいますが、江戸時代よりもっと古い仏像ではないか?との疑問も残されています。
薬師如来
堂内には鶴林寺の本尊よりも大きい薬師如来坐像が安置され、
日光・月光両菩薩像が脇侍として安置されています。
十二神将-左
十二神将-右
周囲には十二神将像が安置されています.
摩虎羅像
左奥の摩虎羅(まこら)大将像はウィンクする仏像として有名になりました。
講堂
新薬師堂の右側に講堂があり、研修道場になっています。
特攻隊の碑
講堂の裏側には特攻隊の慰霊碑が建立されています。
この碑はかって、加古川町寺家町の中村家旅館の前に建立されていました。
中村家旅館は、陸軍の指定旅館で加古川教育飛行隊で編成された
特攻隊員が宿泊されたそうです。
聖徳太子像
講堂の先、正面に塔頭の浄心院があり、塀の前には聖徳太子十二歳像が祀られています。
不開の門跡
12歳の聖徳太子は、恵便法師の教えを受けるためにこの地を訪れました。
太子は恵便法師を木の丸殿に招き、仏教の修学に励まれたとされていますが、
木の丸殿の門がここにあったと伝わり、「不開(あかず)の門跡」と呼ばれています。
浄心院
浄心院は境内の西端に在ることから通称「西の寺」と呼ばれています。
かって、木の丸殿があったとされていますが、江戸時代中期に全焼し、
草創よりの歴史は不詳となっています。
地蔵堂-1
地蔵堂-2
浄心院の前に地蔵堂があり、子安地蔵尊が祀られています。
宝生院
浄心院の東側に隣接する宝生院は、古くから鶴林寺塔頭の一つで、古文書では
16世紀初頭には「宝生坊」、17世紀中頃には「玉泉坊室宝生院」と記されていました。
16世紀末、鶴林寺は真言宗に改宗を強いられていましたが、万治3年(1660)に
再び天台宗に戻し、中興した良盛法印が住しました。
江戸時代末期では鶴林寺塔頭八院中の一つでしたが、明治にかけて荒廃し、
一時加古郡高等小学校の教室、職員室にも流用されていました。
その後、豪盛法印によって改修、整備が行われました。
真光院
宝生院の東側に隣接する真光院は、永正12年(1515)の『鶴林寺料田惣目録』に、
二十数ヶ坊のうち「奥の坊」として記録されるのが前身で、
江戸時代以降に鶴林寺八院中「真光院」の名称で記載されるようになりました。
現在は境内の東端にあり、「東の寺」と呼ばれています。
蓮
真光院の前方に放生池がありますが、蓮の葉で覆われています。
きれいな花を咲かせ、葉の上で亀が甲羅干しをしています。
宝物館
池の中には弁財天社があり、池の背後には宝物館があります。
護摩堂
池の前方に室町時代の永禄6年(1563)に建立された護摩堂があり、国の重要文化財に指定されています。
三間四面、本瓦葺の均整のとれた小堂で、外部は和洋、内部は禅宗様の折衷様式となっています。
本尊は不動明王で、堂内の中央には護摩壇があります。
観音堂
護摩堂の西側に観音堂があります。
江戸時代の宝永2年(1705)に、姫路藩主・榊原政邦の寄進により再建されました。
元来、愛太子観音と呼ばれる白鳳時代の聖観音菩薩像が祀られていましたが、
明治の神仏分離令後に浜の宮神社の本地仏であった、
現本尊の聖観音菩薩像が安置されています。
白鳳時代の聖観音菩薩像は、現在は宝物館で保存され、現本尊は秘仏であり、
厨子前に御前立の聖観音菩薩像、須弥壇の右側に善光寺如来像が安置されています。
法華一石一字塔
観音堂の西側に法華一石一字塔があり、右側に加古川観光大使・女子プロゴルファーの
ささきしょうこさんの写真が立てられていました。
江戸時代の明和8年(1771)に建立された供養塔で、法華経の文字を一つの石に
一字づつ書いて千部収め、読誦して回向し三界万霊の菩提を弔ったものです。
マニ車
法華一石一字塔の裏側に回るとマニ車があります。
「ふりきり石」と説明され、「インドの陀羅尼が彫られていて、この石に念じ、
回すことで心にある邪念を振り落とし、新たな自分に生まれ変わる」と解説されています。
また、「願いを叶える効果あり、回すことでより良い未来に自分を向かわせる
功徳がある」とも記載されています。
鐘楼
法華一石一字塔の北西側に、室町時代の応永14年(1407)に建立された鐘楼があり、
梵鐘と共に国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は約千年前の高麗時代に鋳造された朝鮮鐘で、「黄鐘調(おうじきちょう)」と
呼ばれる音色を持つ名鐘とされています。
石風呂-1
鐘楼の南側に宝篋印塔が建っています。
石風呂-2
宝篋印塔の前に石風呂があります。
湯浴みするための浴槽で、長さ128cm、幅67cm、現状で高さ31cmの大きさがあります。
仏足石-1
仏足石-2
境内の南側には仏足石が祀られています。

法華山一乗寺へ向かいます。
続く

鯉のぼり
自宅を5:30に発ち、国道9号線から県道4号線に入って進んだ先で、
左側を流れる矢田川に鯉のぼりが渡されていました。
長楽寺
山側には東大寺・大仏殿に似た建物と、
日本第二位の高さを誇る70mの五重塔が建立されています。
長楽寺は「但馬大仏」とも呼ばれていますが、奈良時代の天平年間(729~749)に
行基がこの地に足を留め、自ら一刀三拝して薬師如来像を刻み、
安置したことが始まりとされています。
天平9年(737)には六坊及び三重塔の七堂伽藍が創建され、八鹿山薬師寺と称しました。
延暦年間には弘法大師も訪れたと伝わる由緒ある古刹です。
天文年間(1532~1555)に洪水災害によって流失し、天文11年(1543)に現在地で再建され、
川会山長楽寺と改められました。
しかし、江戸時代から明治時代までの度重なる火災により、古建築と文化財の大半は焼失しました。
昭和61年(1986)に大阪の相互タクシー株式会社の創業者で「タクシー王」と呼ばれた
故・多田清氏の寄進により、現在の伽藍が着工されることになりました。
大仏殿は高さ40mの重層寄棟造りで、屋根には対の鴟尾(しび)が光り輝いています。
この鴟尾は高さ2.7m、重さが1.1tあり、1.8万枚の金箔が貼られています。
大仏殿の中央には、木造座像としては世界最大の像高15.8mで、
光背と須彌壇と蓮座で総高は25.3mにもなる釈迦如来坐像が安置されています。
中尊の左側には像高15.2mの阿弥陀如来坐像、
右側には像高15.2mの薬師如来坐像が安置されています。
これらの三躯の仏像は中国人仏師延べ2万人余りが、3年の歳月をかけて製作し、
日本に運ばれ大仏殿で組み立てられました。
樟材の寄せ木作りに、金箔132万枚(21.8kg)が使用され、
平成6年(1994)4月に落慶開眼されました。

大仏殿の北側には本堂(薬師堂)があり、薬師瑠璃光如来像が安置されていますが、
7年ごとに10日間だけ開扉される秘仏とされています。
但し、行基が刻んだとされる薬師如来像は焼失したそうです。

大門には像高8.2m、重量9.5tの阿形像と像高8.4m、重量10tの吽形像が安置されています。
大門と大仏殿は、直径42cmの欅の柱と桧で軒、天井が作られた回廊で結ばれ、
その長さは100m近くにも及びます。
開門は午前9時からで、30分以上待たなければならないので
最初の目的地である大乗寺へ向かうことにしました。
山門
大乗寺は山号を亀居山と号する高野山真言宗の寺院で、
西国薬師四十九霊場・第28番札所となっています。
江戸中期の画家・円山応挙やその一門の画家たちの襖絵など、重要文化財に指定されている
165点が残され通称で「応挙寺」と呼ばれています。
駐車場からは石段があり、その上にある山門は兵庫県の文化財に指定されています。
客殿
山門をくぐった正面に客殿があり、県の文化財に指定されています。
大乗寺は天平17年(745)に行基が自ら一刀三拝して聖観世音菩薩像を刻み、
安置したことが始まりとされています。
その後、戦乱を受け寺勢は衰退し、安永年間(1772~1781)になって密蔵法印により再興されました。
円山応挙像
大玄関には円山応挙像が祀られています。
円山応挙は享保18年(1733)に穴太寺がある、穴太村の農家の次男として生まれました。
生い立ちについての詳細はこちらをご覧ください。

水嶋 元(はじめ)氏の著書「円山応挙伝 報恩の画」によると、
密蔵法印は京都東寺に向かう途中、絵師になる志を持ち裸一貫で
京に上ろうとする応挙と出会い、金銭を与え励ましたと記されています。

応挙は明和3年(1766)頃から「応挙」と名乗り始めました。
中国宋末~元初の画家・銭舜挙(せん しゅんきょ)に応ずるという
意味が込められているとされています。
この頃、圓満院の祐常(ゆうじょう)門主や豪商・三井家の援助を受け、
圓満院時代と呼ばれるほど多くの作品を生み出しました。

天明6年(1786)に密蔵法印が亡くなり、翌年、後を継いで再建に乗り出した
密英上人が京都に出かけ、応挙に襖絵製作を依頼しました。
客殿は中央に仏間があり、十一面観音立像が安置され、その周囲の部屋には
四天王が守護するのと同様の意味を持たせた図が描かれて
立体曼荼羅の空間が形成されています。
また、オリジナルの襖絵保護のため、一部が平成15年(2003)5月に竣工した
収蔵庫で保管され、再製画に置き換えられています。
楠の根
客殿前の楠木は樹齢1200年と伝わりますが、根の部分だけ撮って、
木そのものを撮るのを忘れました。
欅の巨木
山門をくぐった左側には欅の巨木が聳えています。
鐘楼
客殿前を左に進み石段を上った左側に鐘楼があります。
薬師堂
鐘楼先の石段を上った所に瑠璃光殿の扁額が掲げられた薬師堂があります。
薬師堂-本尊
瑠璃光殿の本尊・薬師如来坐像は西国薬師四十九霊場・第28番札所本尊でもあり、
県の文化財に指定されています。
鎮守社-1
鎮守社-2
薬師堂と観音堂の間にある石段を上った所に鎮守社があります。
観音堂
薬師堂の右側に観音堂があり、「大悲殿」の扁額が掲げられています。
観音堂には聖観世音菩薩立像、四天王立像が安置され、聖観世音菩薩立像は
国の重要文化財、四天王立像は県の文化財に指定されています。
地蔵堂-1
地蔵堂-2
観音堂の奥に地蔵像があり、水子地蔵尊が祀られています。

客殿の右側にある庫裡から客殿の拝観ができますが、室内の撮影は禁止されています。
拝観料は800円で、ガイドの説明があり、所要時間は約40分です。

山陰海岸国立公園内にあり、国の名称に指定されている岡見公園へ向かいます。
続く

岡見公園-1
大乗寺から北方向へ10分余りバイクで走った所に岡見公園があり、10:45に到着しました。
予定していた遍照寺を飛ばしたので、予定より30分近く早く着きました。
岡見公園-2
岡見公園は、香住海岸から北に突き出た城山半島と呼ばれる岬の先端に位置する公園で、
かっては離島であったと伝わります。
矢田川と香住谷川により運ばれた土砂が、北西の風に運ばれて堆積し、
陸続きになったとされています。
山陰海岸国立公園内にあって、国の名勝に指定されています。
ユリ科のゆうすげの群生地で、7月中旬~8月初めにかけて、
夕陽の染まる頃に直径約15cmの淡黄色(レモンイエロー)の花を咲かせるそうです。
海に沈む夕日の名所として知られ、ゆうすげの群生は香住町の天然記念物に指定されています。
岡見公園-柱状節理
西側にある城山の頂上には「塔の尾城」(1336~1580)がありましたが、今は荒地だそうです。
岩肌には柱状節理が見られます。
今から300万年前から1万年前後、但馬地方一帯では火山活動が活発で、
頻繁に噴火が起こっていました。
但馬海岸は、約160万年万年前に流れた玄武岩や花崗岩の溶岩で構成され、
現在の姿となったと考えられています。
岡見公園-展望台
東側には展望台があり、なぜか大きな石灯籠が据えられ、背後に白石島が望めます。
岡見公園-堤防
南側には堤防が築かれ、港があるようです。
かえる島-1
岡見公園から東方向にバイクで約10分走った所に「かえる島」がありますが、
島全体を見れば亀のように見えます。
かえる島-2
手前の岩を見ればガマガエルのように見え、納得かな~との気分にもなれます。
大引の鼻展望台-陸側
北への遊歩道があり、10分足らず歩くと「大引の鼻展望台」があります。
大引の鼻は香住湾の東端に、北に向かって切立つ長さ約200mの岬で、
安山岩の断層崩壊により形成されたと考えられています。
展望台手前の右側に見える切り立った断崖には洞門も見えます。
大引の鼻展望台
展望台からは、手前に黒島、その奥の小さな島の奥に岡見公園からも見えた白石島が望めます。
牛に似た岩
白石島の先端にある岩は「牛に似た岩」と呼ばれ、岡見公園からは反対側になるので
ここでしか見えません。

「但馬漁火ライン」と呼ばれる県道を経て温泉寺へ向かいますが、
途中の食堂で食べた刺身定食は800円と、以外とリーズナブルで美味でした。
続く

仁王門
12:30に城崎ロープウェイの駐車場に着き、駐車場から北へ進んだ所に江戸時代の
明和年間(1764~1772)に再建された仁王門があります。
画像はありませんが、楼上に掲げられている扁額「末代山」は、能書家として知られる
後西天皇の皇女・理豊女王(りほうじょおう)の筆によるものです。
理豊女王は天和3年(1683)に宝鏡寺に入り、理忠女王のもとで得度して元禄2年(1689)に
宝鏡寺22世門跡となり、寺勢の興隆につとめ宝鏡寺中興の祖ともされています。
仁王像-左
仁王像-右
門の左右に安置されている仁王像は運慶・湛慶作と伝わり、
兵庫県の文化財に指定されています。
十王堂
門をくぐった右側に延宝9年(1681)に建立された十王堂があります。
十王堂-堂内
堂内には中央に閻魔大王と、その両側に閻魔大王を含めて地獄で亡者の審判を行う10尊、
及び蓮華王、祇園王、法界王を加えた13躯の石像が祀られています。
聖天堂
左側の聖天堂には大聖歓喜天が本尊として祀られていますが、
右側に隣接する建物の詳細は不明です。
金毘羅寺
奥に進んだ所に金毘羅寺がありますが、このお堂一つのようです。
金毘羅大権現
金毘羅大権現が本尊として祀られています。
薬師堂
参道の左側に文化年間(1804~1817)に再建された薬師堂があります。
総欅造り、四間四方の宝形造りで四方縁勾欄付の建物で、
国の有形文化財に登録されています。
本尊は薬師如来で、日光・月光の両菩薩を脇侍とし、
その周囲を十二神将等で守護されています。
西国薬師四十九霊場・第29番の札所本尊であり、城崎温泉とその入湯客を守護する
薬師如来として信仰を集めています。
薬師の湯
薬師堂の向かいには、薬師湯の湯飲み場があります。
本堂への石段
本堂へは城崎ロープウェイの中間駅(温泉寺駅)で下車するか、参道の450段の石段を上ります。
石段の右側の紐は本堂へと繋がれ、麓からでも本尊と結ばれることができます。
本堂
薬師堂から約15分登った所に至徳年間(1384~87)に再建された本堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
5間4面で和様・禅宗様・大仏様が折衷された建物で、
本尊として十一面観世音菩薩立像が安置されています。
大和・長谷寺の観音像と同木同作とされ、国の重要文化財に指定されています。
33年毎に開帳される秘仏とされ、平成30年(2018)4月23日から3年間開帳されています。
また、毎年4月23・24日の開山忌(温泉まつり)には特別開帳されます。
本尊を祀る厨子の周囲には、平安時代後期の仏像に共通する特色を持ち、
県の文化財に指定されている四天王像が安置されています。
鐘楼-1
鐘楼-2
本堂の左側の石段を上った所に万治元年(1658)に建立された鐘楼があります。
多宝塔-1
更にその先の石段上の正面には明和4年(1767)に再建された多宝塔があり、
豊岡市の文化財に指定されています。
多宝塔-2
南北朝時代の創建で、その時代の様式を踏襲し、屋根がやや大きめに再建されています。
塔内には金剛界の大日如来坐像が安置されています。
開山堂
多宝塔の右側に開山堂があります。
開山堂-堂内
堂内には開山・道智上人の墓碑が祀られています。
温泉寺は養老4年(720)に城崎温泉を開いた道智上人が、天平10年(738)に
大和・長谷寺と同木同作の十一面観世音菩薩立像を得て、寺を開創したと伝わります。
稽文会(けい もんえ)と弟の稽主勲(けい しゅくん)は長谷寺の観音像を刻み、
もう一躯の観音像を造ろうとしたのですが完成せず、海に投じました。
稽文会が湯治でこの地を訪れ、円山川河口近くの田結庄で漂着しているこの像を見つけました。
仏縁の不思議さを感じた稽文会は、像を完成させ、
道智上人を迎えて温泉寺を開創したと伝わります。
第45代・聖武天皇から城崎温泉の守護寺として、
「末代山温泉寺」の山号と寺号を賜ったとされています。

多宝塔の左側から山頂への登山道が続き、山頂には奥之院がありますが、
今回は時間の都合で見合わせました。
本坊
本堂まで戻り、本堂の先に本坊があります。
本坊・持仏堂には空海作と伝わり、重要文化財に指定されている
千手観音立像が安置されています。
中間駅
本坊前にロープウェイの中間駅がありますが、当日は運休中でした。
本坊前からの展望
駅前からは城崎の温泉街が少しだけ見えます。

下山して温泉で汗を流したい気持ちもありますが、温泉街を走り抜け、玄武洞へ向かいます。
続く

標識
城崎温泉から円山川沿いに上流に向かって走っていたのですが、「玄武洞」の標識が目に留まり、
橋を渡って川の下流へと戻りました。
玄武洞の無料駐車場があり、駐車所の向かいに玄武洞ミュージアムがありますが休館でした。
駐車所から数分登った所に玄武洞があります。
山陰海岸国立公園に含まれ、国の天然記念物に指定されています。
今から300万年から1万年前頃に但馬地域一帯では、
火山活動が活発で盛んに噴火が起こっていました。
玄武洞の付近は約160万年前に流れ出た玄武岩の溶岩で構成され、
火山の形は残されていませんが、円山川をはさんだ対岸の地域まで覆う
火山活動があったと推定されています。
玄武洞
山頂から流れ出たマグマが冷えて固まる時に、規則正しいきれいな割れ目(節理)が作られました。
その後、河川による侵食で玄武岩塊が露出すると、切り出しやすかったことから
盛んに採石が行われるようになりました。
現在の玄武洞は採石跡です。
江戸時代後期の文化4年(1807)に幕府の儒学者・柴野栗山(しばの りつざん)が
ここを訪れ伝説上の動物・玄武の姿に見えることから「玄武洞」と名付けました。
また、明治17年(1884)に岩石の日本名を制定する際、東京大学の地質学者・小藤文次郎は、
玄武洞の名に因んで「玄武岩」と命名しました。
大正15年(1931)には京都大学の松山基範博士が、
玄武洞の石の磁性の方向が今と反対の南を向いていることを発見しました。
この玄武岩が出来たときの地磁気の向きが現在と反対の向きであったと判断し、
かつて地球の磁場が反転したとする説を発表しました。
これはその後広く認められるようになり、現在では260万年前から78万年前までは現在と
反対向きであったことが認められ、「松山逆磁極期」と呼ばれています。
成田山不動尊
玄武洞の右前方に成田山不動尊を祀る祠があります。
青龍洞-1
玄武洞から右側(南)へ進んだ先に青龍洞があります。
青龍洞-2
高さ33m、15mにも及ぶ長い柱状節理が見られ、国の天然記念物に指定されています。
青龍洞-3
下には水が溜まり、その中には石灯籠が立っています。
白虎洞
玄武洞まで戻り、玄武洞から左側(北)へ進んだ所に白虎洞があります。
白虎洞は規模は小さいですが、水平方向に伸びた柱状節理の断面を間近に見ることができます。
一般に柱状節理は、ゆっくりと冷えた所ほど太くなり、白虎洞の柱状節理は垂直方向に
伸びている節理よりも細いことから、この付近では溶岩が速く冷え、周縁部に近かったと判断されます。
南朱雀洞
白虎洞から更に北へ進むと東向きに南朱雀洞があります。
南朱雀洞は、柱状節理の断面を間近に見ることができます。
北朱雀洞
南朱雀洞の先に北向きの北朱雀洞があります。
北朱雀洞は、垂直方向の節理が上部に向かって徐々に水平方向に
変化して行く様子を観察できます。

北朱雀洞から駐車場へと下り、

出石神社へ向かいます。
続く

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