カテゴリ:兵庫県 > 北播磨地域(西脇市・加東市・加西市・三木市周辺)

山門
播州清水寺への入口にはゲートがあり、そこで入山料500円を納め、山坂道を登ります。
平成29年(2017)の訪問時はバス利用でしたが、運賃に入山料が上乗せされました。
道路は整備され、バイクは快調に標高約542mの山頂にある清水寺の駐車場まで走ってくれました。
仁王門は、昭和40年(1965)の台風で全壊し、
昭和55年(1980)末に旧登山道から場所を変えて新築されました。
平成4年(1992)11月に丹塗りの塗装が施されました。
登山道路が開通する以前は、麓から旧登山道を40分くらいかけて登ったそうです。
清水寺は山号を御嶽山と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場・第25番、
神仏霊場・第78番などの札所となっています。
京都の清水寺と区別するため、播州清水寺と呼ばれています。
仁王像-左仁王像-右
仁王像は、大正10年(1921)に岡倉天心に従事した奈良の仏師・菅原大三郎氏によって
制作され、昭和53年(1978)に大三郎氏の次男・菅原安男氏によって修復されました。
茶所
山門をくぐると参道は左へとカーブして緩い登り坂になり、途中に茶屋があります。
手水舎
参道を進むと手前に手水舎、放生池の向こうに大講堂が見えてきます。
薬師堂
手水舎の手前に昭和59年(1984)11月3日に再建された薬師堂があります。
薬師堂は、平安時代末期に池之禅尼によって創建されました。
池之禅尼は、平清盛の義母で、平治の乱で捕らえられた源頼朝の助命を嘆願し、
成長した頼朝によって平家は滅ぼされましたが、

そのきっかけを作った人物かもしれません。
十二神将-2十二神将-3十二神将-4十二神将-1
十二神将-A-1
十二神将-A-2
十二神将-B
周囲の壁面には干支を割り当てした十二神将が掲げられています。
作者は、平城京遷都1300年記念事業の公式マスコット「せんとくん」の作者でもある
籔内佐斗司氏です。
放生池の南
右に放生池を見て、正面の大講堂へ向かいます。
大講堂-1
大講堂-2
大講堂は、神亀2年(725)に聖武天皇の勅願により行基が建立した、
清水寺の二つの本堂の一つです。
現在の建物は、大正2年(1913)の山火事で焼失し、大正6年(1917)に再建され、
国の有形文化財に登録されています。
本尊は大正時代作の千手観音菩薩坐像で、西国三十三所観音霊場・第25番の
札所本尊でもあります。
脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像が安置されています。
大講堂には納経所もあります。
本坊-門
大講堂前を通り過ぎて石段を下った右側に、本坊への門があり、
門の前から登山道が麓まで続いているようですが、試してはいません。
本坊-1
現在の本坊は大正6年(1917)に、山上の杉材を使用して再建されました。
本坊-2
予約すれば昼食等で利用できるそうです。
客殿は国の有形文化財に登録されていますので、外から見ることができるかもしれません。
本坊-大講堂への石段
本坊前の石段を上ると大講堂の裏側に出ます。
石窟
大講堂の裏側には石窟があり、その前に石仏が祀られています。
根本中堂への石段
根本中堂への80段の石段を上ります。
地蔵堂
石段の途中に昭和57年(1982)に再建された地蔵堂があります。
かって、この地には後白河法皇が創建した常行堂がありましたが、
昭和12年(1937)にその跡地に地蔵堂が創建されました。
地蔵堂-本尊
堂内中央に地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵堂-堂内左
地蔵堂-堂内右
周囲には地蔵菩薩の石像が多数祀られています。
地蔵堂裏
地蔵堂の裏側にも地蔵菩薩の石像が多数祀られています。
鐘楼
地蔵堂から少し石段を上った左側に鐘楼があります。
鐘楼も大正2年に焼失し、大正9年(1920)に再建されました。
梵鐘
梵鐘も同年に鋳造され、「開運の鐘」と称されています。
根本中堂
石段を上った所にもう一つの本堂・根本中堂があります。
清水寺は、約1800年前にインドから渡来した法道仙人によって開山されました。
法道仙人は、第12代・景行天皇の御代(71~130年)、中国から朝鮮半島を経て
御嶽山(みたけさん)に住し、国家鎮護と豊作を祈願したと伝わります。
推古天皇35年(627)に推古天皇の勅願により、
根本中堂が建立されたのが清水寺の創始とされています。
この地は、元々水に乏しかったのですが、法道仙人の祈祷により霊泉が湧き出たと伝わり、
清水寺の名の由来となりました。
大正12年(1913)に焼失し、大正6年(1916)に山上のヒノキ材を使用して再建され、
国の有形文化財に登録されています。

本尊は十一面観世音菩薩で、法道仙人が一刀三礼して自ら刻んだと伝わりますが、
年代的には矛盾があります。
加東市の文化財に指定され、三十年に一度開帳の秘仏とされています。
平成29年(2017)の11月1日~30日まで開帳されましたので、次回は28年後でしょうか?
大正2年(1913)の焼失時、本尊は自ら退避したと伝わります。
御前立は昭和58年(1983)の作で、東京芸術大学の名誉教授であった菅原安男氏によるものです。
本尊の脇侍として、毘沙門天像と吉祥天女像が安置され、
共に加東市の文化財に指定されています。
ダキニテン
吒枳尼天尊(だきにてんそん)は、空海によって、日本に持ち込まれました。
白い霊狐(れいこ)に乗った天女の姿として描かれ、
稲荷神(御饌津神=みけつかみ)と同一視されています。
十三重石塔
十三重石塔
観音像
聖観世音菩薩像
法華塔
法華塔には経文を一石に一字記したものが納められています。
おかげの井戸への道標
根本中堂から左の方に進むと、寺号由来の「おかげの井戸」があります。
おかげの井戸-1
法道仙人の祈祷により湧き出た霊泉で、滾浄水(こんじょうすい)と名付けられています。
おかげの井戸-2
駒札には「この井戸を覗き込んで、自分の顔を写したら、寿命が三年延びる」と記されています。
宝篋印塔
根本中道の裏側付近に宝篋印塔が建っています。
この塔は、昭和9年(1934)に神戸巡礼会の発願で、般若心経の写経を3333巻納め、
護摩堂の跡地に建立されました。
多宝塔跡-1
宝篋印塔の先の高台に多宝塔(大塔)の跡地があります。
多宝塔跡-2
多宝塔は、保元2年(1157)に祇園女御(ぎおんのにょうご)によって建立され、
本尊の五智如来が安置されていました。
祇園女御は、妹の子である平清盛を猶子にしたとされ、清盛が兵衛府(ひょうえふ)に
任官されたのも、祇園女御の後押しがあったからと伝わります。
多宝塔は、明治40年(1907)に焼失し、大正12年(1923)に再建されたのですが、
昭和40年(1965)の台風で大破しました。
現在、再建が計画されているそうですが、二年前と現状に変化が見られません。
月見亭
多宝塔跡から東へと下って行くと駐車場の方へ戻れますが、
木立の中を南へと下ると月見亭があります。
夏の終わりに営まれる「二十六夜待」の大法要で、
旧暦七月二十六日の遅い月の出を待つ最適の場所とされています。
和久井
月見亭から下った所にも井戸があり「和久井」と称されています。
切腹石-1
切腹石-2
和久井の先に赤松氏範(うじのり)の切腹石があります。
赤松氏範は無双大力の勇士で、南朝に味方しましたが、
元中3年/至徳3年(1386)に幕命を受けた細川頼元や山名氏らの追討を受け、

子息ら一族郎党100余名と共に清水寺で自害しました。
清水寺に氏範らの墓があります。
るり渓-石碑
帰途、スマホのナビは交通量や信号が少ない快適なルートを選定し、
それに従って走っていると「るり渓」の標識が目に入り、
Uターンしてそちらに向かいました。
るり渓は南丹市園部町の南西部、標高500mの高原にあり、京都府の自然公園で、
京都の自然200選に選定されています。
園部川が高原の斜面を侵食してできた長さ4kmの渓谷で、主要部は名勝に指定されています。
るり渓-藤
藤の花が咲いていました。
るり渓-名瀑
上流には名瀑があります。
更に上流には通天湖もあるそうですが、休憩がてらに立ち寄っただけなので、
次の機会に譲ることにしました。

次回は書写山圓教寺から伽耶院を巡ります。

道標
鶴林寺から北上して法華山一乗寺へ向かうと「直 法華山道」と刻字された石標が立っていました。
西の山門
しばらく進むと道路脇に門のような建物があり、傍らには地蔵菩薩でしょうか?
石像も祀られています。
西の山門-石碑
「西国26番 法華山」とまで読み取れる石標も立っていますが、
寺からは約550mも離れています。
かっては、ここに法華山一乗寺への山道を登る参道があったと思われます。
粟嶋堂-1
寺の入口の前を通り過ぎて東側にある駐車場に入りました。
バイクも有料で「環境整備協力費」との名目で130円を納めました。
駐車場の奥に粟嶋堂があります。
粟嶋堂は、元は法華山一乗寺の塔頭・隣聖院の境内にあったのですが、
県道の工事により昭和30年に現在地に移転・新築されました。
粟嶋堂-2
堂内には歓喜天、十一面観世音菩薩、不動明王、粟嶋天尊、毘沙門天、吉祥天、
弁財天の七躯の仏像が安置されています。
多数の地蔵像-2
多数の地蔵像-1
粟嶋堂の両側と右側後方とに3つの建物があり、其々に水子供養の
地蔵尊が多数奉納されています。
甲子天尊
粟嶋堂の左後方には、約150年前から受け継がれる秘仏・甲子天尊を祀る祠があります。
石仏と人形塚
左側には薬師如来や阿弥陀如来の石仏が祀られ、人形塚などがあります。
石造笠塔婆-1
西へ進むと境内への入口があり、正面に正和5年(1316)の年号が刻まれ、
兵庫県の文化財に指定されている石造笠塔婆が立っています。
石造笠塔婆-2
総高は2.9mあり、塔婆の位置が本堂から一町の距離にあることが示されています。
石段
受付で入山料500円を納めて境内に入ると、正面に石段が待ち構えています。
常行堂
石段を上った所に常行堂(阿弥陀堂)があります。
聖武天皇の勅願により創建されたと伝わりますが、
室町時代の嘉吉元年(1441)に発生した嘉吉の乱で焼失しました。
播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(あかまつ みつすけ)は、
室町幕府第6代将軍・足利義教を暗殺したのですが、
幕府方討伐軍に領国の播磨で敗れて討たれました。
常行堂は天文2年(1533)に再建されましたが、その後再び焼失しました。
現在の建物は明治元年(1868年)に着工され、同10年に上棟しました。
平成4年(1992)に屋根の葺き替え工事と内外陣が荘厳され、
不断念仏・止観道場として使用されています。
三重塔
常行堂から石段を上ると、左側に承安元年(1171)に建立された三重塔があり、
国宝に指定されています。
初層から三層に向かって小さくなるように造られていて、
三層の幅は初層の半分にまで減少しているそうです。
塔の総高は約21.8mですが、相輪の高さが約7mあり、総高の3分の1を占めています。
昭和16年~18年(1941~1943)に行われた解体修理の際、
この相輪の根元に据えられている伏鉢(ふくはち)から承安元年(1171年)の銘が発見され、
建てられた年代が判明しました。
本尊として五智如来像が安置されています。
経堂
三重塔の向かいには法輪堂と呼ばれる経堂があります。
堂内には輪蔵が設けられていて、誰でもこれを回せばこの輪蔵に納められた経典を
読誦したのと同じ効果があるとされています。
宝暦12年(1762)に建立され、転輪蔵を創始した傅大士(ふだいし)と
その二子像が安置されています。
平成10年(1998)に屋根の葺き替え工事が行われました。
壁の白さから塗り替えも行われたように思えます。
本堂への石段
法輪堂前の石段の先にようやく本堂が見えてきます。
三重塔はこの石段の途中から撮影しました。
鐘楼
石段を上った正面に本堂があり、本堂を廻り込むように右側へ進むと鐘楼があります。
江戸時代の寛永5年(1628)に本多忠政により再建されたもので、
兵庫県の文化財に指定されています。
本堂
本堂-扁額
本堂には「大悲閣」と記された扁額が掲げられています。
平安時代の永延2年(988)、花山法皇が御幸された際に金堂を大悲閣と命名され、
西国第26番札所と定められました。

法華山一乗寺は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である
法道仙人によって開基されたと伝わります。
紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に
八葉蓮華(8枚の花弁をもつハスの花)の形をした霊山を見出したので、
そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したとされています。
しかし、創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されています。
笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の
三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と考えられています。
現在は古法華自然公園として整備されています。

仙人が孝徳天皇の病気を直したことから、天皇の勅によって本堂が建立されました。
白雉元年(650)に行幸があり、落慶法要を修せられ、
一乗寺の勅額を賜って鎮護国家の道場となりました。
平安時代末期の承安元年(1171)には、現存する三重塔が建立されていますので、
その年までには現在地において伽藍が整備されていたと考えられています。
正確な移転時期や何故移転したかは不明です。
梵鐘
本堂は北側から上がり、東側の回廊を廻って南側から入ります。
東側の回廊からは鐘楼と同時期に鋳造されたと考えられている梵鐘が見えます。
梵鐘には「諸行無常 是正滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」との鐘銘があるそうですが、
「是正滅法」のみ読み取ることができます。
本堂-2
初代の本堂は、飛鳥時代の白雉元年(650)に孝徳天皇の勅願によって創建されました。
二代目は、鎌倉時代から室町時代へ移行する建武の新政の建武2年(1335)、
後醍醐天皇の勅願によって再建され、大講堂と呼ばれました。
三代目は、戦国時代の大永3年(1523)、兵火による焼失後、
永禄5年(1562)に赤松義裕により再建されました。
四代目の現在の本堂は寛永年(1628)に姫路藩主・本多忠政により再建されました。
本堂は平成10年(1998)の台風で大きな被害を受け、
平成11年~20年に災害復旧工事に続いて本堂の半解体修理が行われました。
本堂の内陣には三間の大厨子を置き、中央の間に本尊・聖観音立像(重要文化財)、
左右の間には不動明王と毘沙門天像が安置されていますが、いずれも秘仏です。
厨子外の左右には二十八部衆と風神・雷神像が安置されています。
法華山一乗寺は、西国第26番札所の他に播磨西国三十三箇所33番、
神仏霊場巡拝の道 第77番の札所になっています。
不気味な面
本堂には不気味な面が掲げられています。
行者堂
本堂前を西に進んだ正面に行者堂があります。
平安時代に仁明天皇(にんみょうてんのう)の御願により創建されました。
現在の建物は江戸時代の寛文年間(1661~1673)に再建され、
平成11年(1999)に解体修理が行われました。
堂内には役行者と前鬼後鬼の木像が安置されています。
妙見堂
行者堂前の山側には手前に妙見堂、奥に弁天堂があります。
共に室町時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
妙見堂は三社殿のように見えます。
護法堂
本堂の北側にある山の中腹に護法堂があります。
鎌倉時代に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
仏法守護の毘沙門天が祀られています。
開山堂
護法堂から下り、その山裾を北へ約200m登った所に開山堂があります。
開山堂には法道仙人が祀られ、現在の建物は江戸時代の寛文7年(1667)に建立され、
平成10年(1998)に解体修理が行われました。
賽の河原への参道
開山堂はフェンスで囲まれ、平成29年(2017)に訪れた時は施錠されていました、
本日は開錠されていましたので更に上へと登ります。
賽の河原-1
賽の河原-2
「賽の河原」と呼ばれ、大きな岩の陰に小石が積まれています。
三十三観音像
下りは本堂横では無く、東側の斜面を下って行くと、
参道脇に三十三所の各本尊が祀られています。
弁財天社
更に下ると放生池があり、池の中に弁財天社があります。
見子大神-鳥居
池の南側に鳥居が建っています。
見子大神-参道
鳥居をくぐり、参道を進みます。
見子大神-社殿
見子大神-社殿-2
進んだ先に見子大神を祀る社殿がありますが、詳細は不明です。
太子堂
池の先には太子堂がありますが、建物は新しく造り替えられていました。
東門
一乗寺の駐車場を出て東へ進んだ車道脇に東門があります。

伽耶院へ向かいます。
続く

mp仁王門
法華山一乗寺から東方向へバイクで約1時間走った所に伽耶院があるのですが、
その手前の車道脇に仁王門があります。
現在の建物は大正時代に再建されたものですが、花頭窓は以前の門から引き継がれています。

仁王像-左仁王像-右
左右に安置されている仁王像は行基菩薩作とされていますが、
天正6年~天正8年(1578~1580)の羽柴秀吉による三木城攻めの際に
頭部と脚部が焼失したと伝わります。
神戸層群-1
門から更に車道を進んだ右側に駐車場があり、その奥の川向こうに「神戸層群」と呼ばれる、
断層が露出した珍しい場所があります。
神戸層群-2
神戸層群の地層は約3700万年前から3100万年前のものとされ、かって現在の神戸市須磨区、
北区あたりから三田周辺にまで及んだ「古神戸湖」と名づけられている
巨大な湖底で形成されたと考えられています。
この付近で発生した大地震により、「柱状節理」と呼ばれる神戸層群の特異な露岩が露出しています。
山門
駐車場から車道を渡って山門をくぐります。
伽耶院(がやいん)は兵庫県三木市にあり、山号を大谷山と号する本山修験宗の寺院で、
新西国霊場・第26番札所となっています。
納経所
正面に寺務所があり、納経所にもなっています。
人形-1
寺務所の東を山側へと登ると水子供養を祀る場所があります。
人形-2
供養の人形や風車が置かれ、霊山のような雰囲気を漂わせています。
行者堂
東側に 寛永8年(1631)に土佐城主・山内忠義の寄進により建立された行者堂があり、
三木市の文化財に指定されています。
堂内には役行者像が祀られています。
護摩壇
行者堂の石段下には護摩壇が組まれています。
毎年10月の体育の日には、近畿地方では最大の規模を誇る採燈大護摩供が行われます。
経塚
護摩壇の前には経塚があります。
開山堂
護摩壇から東へ進むと明暦2年(1656)に丹後峰山城主・京極高供の正室の寄進により
建立された開山堂があります。
堂内には天女や仏に花を捧げる迦陵頻伽(かりょうびんが)の壁画が残され、
開山・法道仙人が祀られています。
寺伝では孝徳天皇の勅願寺として、大化元年(645)に法道仙人が開基したとされています。
当初は「大谿寺(だいけいじ)」と称していましたが、延宝9年(1681)に後西上皇の勅により
仏陀伽耶に因む寺号「伽耶院」と改められました。
平安時代中期には隆盛を極め、数十の堂宇と百三十余の坊舎を持つ大寺院で、
花山法皇の行幸があったとの記録も残されています。
天正6年~天正8年(1578~1580)の三木城攻めでは、別所長治方の陣が敷かれたことにより、
羽柴秀吉軍の攻撃を受けて焼失しました。
また、慶長14年(1609)には失火によって全山を焼失し、
現存する堂塔はそれ以降の諸国大名の寄進によるものです。
中世以降、聖護院末の修験寺院として勢力をもち、江戸時代には天台系山伏を統率する
四院家(いんげ)のひとつとして修験界に威をふるいました。
金堂
開山堂から更に東へ進むと、金堂があります。
慶長15年(1610)の再建と伝わり、国の重要文化財に指定されています。
内陣と外陣を格子戸と欄間で分けた典型的密教寺院建築で、重要文化財に指定されている
平安時代末期作の毘沙門天像が安置されています。
三坂社
金堂の右横に鎮守社である三坂社があり、三坂大明神が祀られています。
金堂と同時代の再建と伝わり、国の重要文化財に指定されています。
多宝塔
三坂社の右斜め前方に多宝塔があります。
正保5年(1648)に豊前小倉藩主・源忠真(小笠原忠真)の寄進の寄進により建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
初層は方形で並行垂木、二層は円形で扇垂木となっています。
失われていた相輪は昭和60年(1985)に復元されています。
塔内には本尊として弥勒菩薩像が安置されています。
臼稲荷社-1
多宝塔の南側に臼稲荷社があります。
臼稲荷社-2
かって、この地域では田に水を溜めるため、水の出口に古い石臼を使っていました。
ある干害の年、狐が白衣の老人の姿に化けて、村中の石臼をすべて取り除き、
水を均等に配分しました。
これを恥じた村人がここに石臼を奉納したと伝わります。
二天門
金堂から南側へ進んだ所に二天門があります。
慶安4年(1651)に建立されたもので、三木市の文化財に指定されています。
屋根及び軒回りは後世の修理の際に改修されています。
二天像-左二天像-右
向かって左側に多聞天、右側に持国天の二天像が安置されていますが、
いずれも門と同じ年代の造立とされています。
柱の彫刻
二天門への石段の脇に立つは石柱には彫刻が施されています。
門を出ると車道となり、駐車場まで戻ります。

次回は兵庫県香美町香住にある大乗寺から温泉寺を巡ります。

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