白虹橋からバイクで10分足らず走った所に三室戸寺があります。
(画像は平成29年(2017)9月15日と翌年の11月15日参拝時のものを使用しています。)
三室戸寺は山号を明星山と号する本山修験宗の別格本山です。
地名の「三室戸」には、背後の明星山(標高200m)が神が宿る神籬(ひもろぎ)の山、
森の御室(みむろ=貴人の住まい)とされ、
その神聖な山の入口(戸)を意味していると考えられています。
また、第49代・光仁天皇、第65代・花山天皇、第72代・白河天皇と三帝の離宮
となったことから御室が三室になったと伝わります。
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参道入口に架かる橋は「蛇体橋」と呼ばれ、伝承が残されています。
『昔、山城の綺田(かばた)村に、三室戸の観音様を信仰している娘が住んでいました。
ある日、村人がカニを殺そうとしているのを見て、
「魚の干物をあげるから、逃がしてやっておくれ」と頼んで、カニを助けました。
またある日、その娘の父親が畑に行くと、蛇が蛙(かえる)を飲み込もうとしていました。
そこで父親は、「蛙を放してやりなさい。放したら、わしの娘をやるから。」
と蛇に言うと、蛇はすぐに蛙を放し、やぶの中に消えて行きました。
その夜、蛇はりりしい若者に姿を変え、父親のところへやって来て
「約束通り、娘をもらいにきたぞ。」と言いました。
父親は驚き「三日後に、来てくれ」と、言い逃れをして蛇を帰しました。
三日後、若者に姿を変えた蛇が家に来ましたが、娘は戸をしっかり閉めて部屋に閉じこもり、
三室戸の観音様を念じながら、一心に観音経を唱えました。
若者は、ついにしびれを切らし、蛇の姿に戻り、尾で戸を打ち破りましたが、
たくさんの蟹が現れ、蛇を退治しました。
翌日、娘は三室戸寺へお礼参りに、出かけたのですが途中で雨が降りだし、
三室戸寺に着いた頃には、本降りになっていました。
娘が参道の橋を渡り、なにやら気配を感じて振りかえると、
橋の上に蛇が横たわっていました。
蛇は悲しげな目で娘をじっと見つめると、橋の裏側にまわると、ふっと姿を消し、
以後、雨が降る日には蛇の影が現れるようになりました。
いつしか人々は、この橋を「蛇体橋」と呼ぶようになりました。
後日、娘は蛇を供養するため、蛇の姿をした『宇賀神』を奉納したと伝えられています。
橋を渡った所に受付があり、拝観料500円を納めます。
受付を入った左側に新羅大明神が祀られた祠があります。
新羅大明神は、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)が唐からの帰朝の際、
船中に老翁として現れ、「自分は新羅国の明神であるが、
仏法を護持し日本に垂迹すると」教示したと伝わります。
平安時代の貞観年間(859~877)に園城寺(三井寺)を天台別院とした
智証大師円珍が勧請し、本堂の東側に祀られていましたが、
昭和30年(1955)に現在地に遷されました。
少し進んだ右側に広大な三室戸寺庭園がありますが、
現在は季節外なので閉園になっています。
ツツジ20,000本(見頃5月)、シャクナゲ1,000本(見頃4~5月)、
アジサイ10,000株(見頃6月)が植栽されています。
緩い坂道を少し登って行くと昭和47年(1972)に建立された山門があります。
山門をくぐった先、参道の脇に薬師如来の石仏が祀られています。
参道の先は石段になっています。
石段を登った左側に手水舎があり、霊泉・不動水が汲み上げられています。
参道の中央に宇賀神の石像が祀られています。
神名の「宇賀」は、一般的には日本神話に登場し、伏見稲荷大社の主祭神である
宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと考えられています。
「耳を触れば福が来る、髭を撫でると健康長寿、しっぽをさすれば
金運がつく」と記載されています。
宇賀神像の右側に石造りの摩尼(まに)車が奉納されていて、
一回転させると一巻の経を唱えるのと同じ功徳があるとされています。
摩尼車の先に花山荘があり、無料休憩所になっていますが、
土足は禁止されています。
本堂は江戸時代の文化11年(1814)に再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
三室戸寺は奈良時代の宝亀元年(770年)に光仁天皇の勅願により
南都大安寺の僧・行表によって創建されたと伝わります。
創建と本尊に関して、伝承が残されています。
『天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する
金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、
その光の元を尋ねさせた。
犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、
滝壺に身の丈・二丈(6m)ばかりの千手観音像を見た。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、
それが一尺二寸(36.4cm)の二臂(ひ)の観音像に変じたという。』
光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、
当初は御室戸寺と称されました。
平安時代、第50代・桓武天皇は自ら千手観音像を造り、
胎内に二臂の観音像を納めて本尊としました。
この観音像は二臂でありながら「千手観音」と称され、秘仏とされています。
お前立の観音像には飛鳥時代の様式が見られます。
脇侍には釈迦如来像と毘沙門天像が安置され、
ともに国の重要文化財に指定されています。
西国三十三観音霊場は、大和・長谷寺の徳道上人が養老2年(718)に開創し、
西国三十三所巡礼に関する最古の史料によると、
三室戸寺は最終の三十三番目の巡礼地でした。
約270年後、途絶えていた観音霊場は花山法皇によって再興され、
三室戸寺は十番札所と定められました。
三室戸寺は寛正年間(1460~1466)の火災で伽藍を失い、再興されたものの、
天正元年(1573)には織田信長と争った足利義昭に加勢したため焼き討ちされました。
現在の伽藍が再建されたのは江戸時代の後期になってからです。
本堂の左脇には賓頭盧尊者像が安置され、その脇には小さな観音像が祀られています。
本堂の右横に建つ阿弥陀堂は、延享4年(1747)に建立されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
元々ここには親鸞の父・日野有範の墓がありましたが、親鸞の娘・覚信尼が
祖父・有範の墓を整備してその上に阿弥陀三尊を安置する阿弥陀堂を
建てて祖父の菩提を弔いました。
阿弥陀三尊像は霊宝殿に遷されていますが、平安時代の定朝作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
阿弥陀堂の扁額「四十八願寺」は日野有範が隠棲していた寺号と伝わります。
その下には蝉の抜け殻が...
阿弥陀堂の右側に建つ鐘楼は、元禄2年(1689)に建立されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
鐘楼にはかって、「朝鮮の鐘」と呼ばれた梵鐘が吊るされていました。
天正元年(1573)、織田信長と争った足利義昭に加勢したため、伽藍は破壊され梵鐘は
豊臣秀吉の五奉行の一人・増田長盛に持ち去られました。
長盛は梵鐘を破壊し、龍頭だけが切り取られ、床の間の置物としました。
しかし、長盛は病になり、梵鐘破壊の祟りと恐れ、病気平癒の祈願を依頼しました。
そのおかげで病気は完治し、寺に龍頭が戻されました。
鐘も寺に還ったことから、この鐘の龍頭をなでると金(鐘)がかえると
古来より伝えられています。
鐘楼の奥に「浮舟古跡碑」があります。
もとは浮舟社という社でしたが、江戸時代石碑に改められました。
『源氏物語』で「横川の僧都」のモデルとなったのは、恵心院に住した恵心僧都と
考えられていますが、三室戸寺の僧もモデルとされています。
霊宝殿には、浮舟の念持仏であったとされる、浮舟観音が安置されています。
恵心僧都が三室戸寺に滞在したかは不明ですが、三室戸寺から下った
宇治川沿いには「浮舟」の古跡があります。
古跡碑の横に「お願い地蔵」と呼ばれる地蔵尊が祀られています。
一瞬、地蔵?と思える石ですが、よく見ると下の方に6体の地蔵が彫られています。
この地蔵は、一つだけ願いを叶える「お願い地蔵」で、
木札に願い事を一つだけ記して奉納します。
木札は500円です。
鐘楼から東側に進むと元禄17年(1704)に建立された全高16mの三重塔があります。
もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、
明治43年(1910)に当寺が買い取り、参道西方の丘上に移築しましたが、
その後現在地に移されました。
堂内には大日如来像が安置されています。
三重塔の前には小さな庭が築かれています。
三重塔から本堂へ戻ります。
本堂前、向かって右側に牛の石像が祀られていて伝承が残されています。
『昔、宇治の里に富右衛門という百姓が住んでいました。
やっとのことで手に入れた子牛が弱々しいので、毎月の三室戸寺の観音詣でに
子牛を連れて行っては境内の草を食べさせていました。
すると子牛は、口から丸い物を吐き出し、その後元気になって大きく育ちました。
富右衛門はその玉を「牛玉(ごおう)」として大切に保管しました。
大きく育った牛は闘牛に参加し、見事勝利して富右衛門は賞金100貫を手にし、
それを元手に牛の仲買を始め里一番の金持ちになりました。
富右衛門は年老いてから仏門に入り、京の仏師に牛の像を彫らせ、
胎内に「牛玉」を納め、三室戸寺に奉納しました。』
牛の石像の口中には石の玉があり、これを撫でると勝運がつくといわれ、
「宝勝牛」と名付けられています。
牛の腹には小さな覗き窓があり、そこから胎内におさめられた牛の木像が見えます。
宝勝牛の脇に若乃花と貴乃花の手形が奉納されています。
本堂前の左側には「福徳兎」の石像がありますが、三室戸寺のある地域は、
古来より、菟道(うじ)と称され、うさぎと由縁があり、
かっては宇治の中心地でもありました。
三室戸寺では狛犬の代わりにうさぎと牛が本堂を守護しています。
うさぎが抱いている玉の中に卵型の石があり、それが立てば願いが通じると云われています。
本堂の左側に霊宝殿があります。
霊宝殿は、毎月17日しか開館されません。
別途、入館料300円が必要で、入館も時間制で、拝観時間は20分間と定められています。
霊宝殿から奥へと進むと石段があり、それを登った所に十八神社があります。
十八神社は寺の創建以前から祀られていたとされ、
現在は三室戸寺の鎮守社となっています。
現在の社殿は長享元年(1487)に建立されました。
以前は主祭神の大物主命他十八神が祀られていたことから十八神社と呼ばれましたが、
明治元年(1868)に十五社が廃され、主祭神の他熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)、
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が祀られています。
主祭神の大物主は、海を照らし現れた神で、蛇神であり、水神または雷神としての性格を持ち、
稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神とする一方で、祟りなす強力な神ともされています。
熊野久須毘命は天照大神の子で、熊野那智大社の主祭神です。
天手力雄命は、その名に「天の手の力の強い男神」という意味を持ち、
岩戸隠れの際は岩戸の脇に控え、天照大神が岩戸から顔をのぞかせた時、
天照大神を引きずり出して、それにより世界に明るさが戻ったとされています。
放り投げた岩戸の扉は信濃国戸隠山に落ちたという伝説が残され、戸隠神社・奥社の
祭神として祀られています。
戸隠神社は平安時代末頃、修験道の道場として都にまで知られた霊場であり、
天手力雄命は、山岳信仰と深く結びついた神と考えられています。
左側の境内社の詳細は不明です。
境内の西側に鳥居が建っていて、ここが本来の神社の入口です。
本堂まで戻り、石段を下った先、左側に曲がると「与楽苑」と呼ばれる枯山水と
池泉回遊式の庭園が築かれています。
石碑から入って行くと東屋があります。
山手の方に枯山水の庭園が築かれています。
平成29年(2017)9月15日の画像
平成30年(2018)11月15日の画像
下方には池泉回遊式庭園があり、池の周囲を巡ることができます。
平成29年(2017)9月15日の画像
平成30年(2018)11月15日の画像
宇治川太閤堤跡へ向かいます。
続く
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