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楼門-表側
般若寺は奈良街道に面して楼門がありますが、県道754号線に面して
駐車場への入口があり、駐車場の先に拝観受付があります。
開門時間は9:00~17:00ですが、冬季(12~2月)及び夏季(7~8月)は16:00に
閉門されます。
通常の拝観料は500円ですが、6/1~6/30のアジサイ期と
10/1~11/10のコスモス期は700円となります。

般若寺は山号を「法性山」と号する真言律宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第3番、
関西花の寺二十五霊場・第17番、大和北部八十八ヶ所霊場・第15番の札所です。
十三重石塔
受付から入ると6月でしたが、既にコスモスの花が咲き、
通称で「コスモス寺」と呼ばれています。
右側に十三重石宝塔が建っています。
基壇辺12.3mに総高14.2mの石塔が建ち、初重軸の東面に薬師如来、
西面に阿弥陀如来、南面に釈迦如来、北面に弥勒如来の四方仏が刻まれています。

寺伝では、般若寺は飛鳥時代の第34代・舒明天皇(じょめいてんのう)元年(629)に
高句麗の僧・慧灌(えかん:生没年不詳)により創建されたと伝えられ、
平城京へ遷都後の天平7年(735)に第45代・聖武天皇(在位:724~749)が
平城京の鬼門を守るため、塔を建ててその下に大般若経を収め、
それが寺号となったと伝わります。
平安時代(794~1185)には学問寺として千人の学僧が集まり栄えましたが、
治承4年(1180)に平重衡(たいら の しげひら:1157or1158~1158)による
南都焼討により伽藍は灰燼に帰しました。

その後、氏名不詳の者が十三重石塔の建立を志し、初重の大石を積んだところで
亡くなりました。
西大寺の良恵(りょうえ)上人がその事業を引き継ぎ、
石工の伊行末(い ぎょうまつ:?~1260)によって建長5年(1253)頃に
現在の塔が建てられ、国の重要文化財に指定されています。
伊行末は宋から渡来した石工で、南都焼討後の東大寺の復興に尽力されました。
昭和39年(1964)に大修理が施された際、塔内から白鳳時代(645~710)の
金銅阿弥陀仏とその胎内仏が発見されましたが現在は秘仏とされ、
特別公開時にのみ公開されています。
相輪
石造の相輪は建長5年(1253)頃に建てられた初代の相輪で、南北朝時代(1337~1392)か
室町時代(1336~1573)の地震で落下し、
三つに割れたことから裏山に埋められていました。
昭和の初めに現在の県道754号線が般若寺の旧境内を分断する形で
工事が進められ、その時に工事現場から発見されました。
その後も、地震等の落下により、現在の相輪は4代目で、昭和の大修理の際に
新調されました。
2代目は本山の西大寺に現存し、元禄16年(1703)に造られた青銅製の3代目は
別途保管されています。
カンマン石
順路に沿って西へ進むと「カンマン石」があります。
「カンマン」は不動明王を象徴する梵字のことで、
石の上には不動明王像が祀られています。
阿弥陀像
境内には石仏が祀られ、こちらは薬壺が見えますので薬師如来と思われます。
釈迦像
こちらは釈迦如来です。
まかばら石
また、霊石「まかばら石」が祀られています。
いつの頃か境内にあって、「まかばら」は光明真言に由来し、
光明真言を略した「オン・マカバラ・ウン」の呪文を唱え、
石の頂を右回りに3周撫でると、運気が上昇するとの伝承があります。
楼門
西側に表側から見た楼門があります。
鎌倉時代(1185~1333)に奈良街道に面する廻廊の西門として建立された
入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建て門)で、
日本最古の楼門遺構として国宝に指定されています。
護良親王供養塔
北へ進むと「大塔宮護良親王供養塔」があります。
護良親王(もりよししんのう:1308~1335)は第96代・後醍醐天皇の第三皇子
とされ、6歳の頃に梶井門跡(三千院門跡)に入り、
正中2年(1325)には門跡を継承し、門主となりました。
門室を法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたことから、
通称で「大塔宮(おおとうのみや)」と呼ばれていました。
利発聡明な頭脳の持ち主とされ、嘉暦2年(1327)12月から元徳元年(1329)2月までと、
同年12月から元徳2年(1330)4月までの2度に渡り、天台座主となりました。

元弘元年(1331)に後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府の討幕を計画しますが露見し、
護良親王は天皇を笠置山へ逃しました。
しかし、笠置山は幕府軍の攻撃で陥落し、
天皇は捕らえられて隠岐の島へ配流されました。(元弘の乱
護良親王は般若寺へ逃れ、その後吉野に潜伏して還俗し、
「護良親王」と名乗りました。
吉野で挙兵しましたが幕府軍に敗退し、高野山へと落ち延びました。
元弘3年(1333)に後醍醐天皇が隠岐の島を脱出して挙兵すると、
足利尊氏(1305~1358)は幕府に背いて天皇方につき、鎌倉幕府は滅亡しました。
同年、後醍醐天皇は建武の新政を開始しましたが、護良親王と足利尊氏が対立し、
親王は捕えられて鎌倉へ配流され、建武2年(1335)に殺害されました。
鐘楼
鐘楼は元禄7年(1694)に再建されました。
梵鐘は江戸時代(1603~1868)初期のものと推定され、西大寺の奥の院にあったものが
移されたとの伝承があります。
手前にはアジサイが花を咲かせています。
平和の塔
北側に平和の塔があります。
平成元年(1989)に建立され、広島市の爆心地で燃えていた火と
長崎市の被爆瓦で起こした火を合わせた「原爆の火」が灯されています。
本堂
鐘楼の右側に本堂があります。
般若寺は鎌倉時代に良恵上人により復興が開始されると、叡尊上人(1201~1290)の
発願により丈六の文殊菩薩像が造立されたのを機に七堂伽藍の再建が行なわれ、
当地での創建時の寺観に復されました。
しかし、永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、
主要伽藍を焼失し、文殊菩薩像も失われました。
踏み蓮華石
本堂前には文永6年(1267)に叡尊上人が造立した文殊菩薩騎獅像の遺品で、
塑像の獅子が踏んでいた蓮華石が残されています。

般若寺は江戸時代に復興されますが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で荒廃し、
第二次世界大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されるようになりました。
現在の本尊・文殊菩薩騎獅像は、鎌倉時代後期に造立され、
国の重要文化財に指定されています。
般若寺が南朝側にあったことから後醍醐天皇の御願により天皇の護持僧・文観房弘真
(もんかんぼうこうしん:1278~1357)が討幕を祈願して造立し、
元は経蔵で安置されていました。
観良房良慧大徳追慕塔
観良房良慧の供養塔です。
治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで焼失し、衰退した般若寺境内で
「大善巧の人(だいぜんぎょうのひと)」が復興を始めました。
その人物の詳細は不明ですが、東大寺の復興に携わった人物と推定されています。
大善巧の人は、十三重石宝塔の基台と初重の大石を積んだところで絶命されました。
基台と初重の軸部はそれぞれ15tの大石となります。
その後、観良房良慧がその遺志を継ぎ建設現場に居住して完成させました。
施工したのは東大寺の復興で重源上人(1121~1206)が南宋から招いた
伊行末(いぎょうまつ)の石工集団で、石の切り出し、運搬、彫刻、積み上げと
大変な労力と莫大な費用を要したと推測されます。
また、観良房良慧が願主となり、叡尊上人に率いられた西大寺教団により
諸堂の建設と、仏像が造られました。
文永4年(1267)に諸堂が建立され、本尊の開眼供養が営まれました。
本堂前の地蔵
本堂前の手水石船は、寛文7年(1667)に再興された現本堂に寄進されました。
左側の水掛地蔵尊は十数年前に東の山中から発見されたもので、
宝暦4年(1754)に奈良町の町人が先祖供養のために造立されました。
本堂前の石灯籠
右側の石灯籠は「般若寺型」或いは「文殊型」と呼ばれ、
鎌倉時代に花崗岩で造られ、総高は3.14mで、国の重要文化財に指定されています。
竿と笠部分は後補ですが、基台・中台・火袋・宝珠部は当初のもので、
火袋部には鳳凰・獅子・牡丹唐草が浮彫りされています。
藤原頼長供養塔
藤原頼長(1120~1156)は保元元年(1156)に謀反の罪がかけられ、挙兵しましたが
敗北し、重傷を負いながらも興福寺まで逃れ、落命しました。(保元の乱
遺骸は般若寺の南にある般若寺山へ葬られましたが、
現在ではその所在も不明となり、境内に供養塔が建てられています。
観音像
本堂の周囲には西国三十三所観音霊場の各本尊の石仏が祀られています。
元禄16年(1703)に病気平癒のお礼に寄進され、当初は十三重石塔の基壇上に
安置されていましたが、昭和の大修理で本堂の周囲へ遷されました。
力石
般若寺本性房の力石は、元弘元年(1331)の元弘の乱の際に笠置山へ馳せ参じ、
笠置山の山上から怪力をもって幕府軍へ大岩を投げつけ、
後醍醐天皇の軍に加勢しました。
力試しの石は、「もてる女石」が約20kg、「もてる男石」が約30㎏、
「もてない石」は約50㎏です。
石塔部材群
力石の北側には、鎌倉・室町・戦国時代の石塔部材群が並んでいます。
戦国時代、般若寺の南西700mには、永禄3年(1560)に松永久秀(1508~1577)によって
築城が開始された多聞山城がありました。
標高115mでかっては「眉間寺山(びかんじやま)」と呼ばれ、
鎌倉時代には眉間寺があり、付近は墓所でした。
その墓石や仏塔などが多聞山城の石垣等に使用されました。
鎮守社
本堂から北へ進むと右側に鎮守社があり、
伊勢神宮、春日社、八幡宮が祀られています。
平成31年(2019)の参拝時には補強され、かろうじて倒壊を免れているようでした。
鎌倉時代の伽藍図
こちらは、鎌倉時代に復興された文永4年(1267)頃の境内図です。
現在の本堂の地には金堂、その背後には講堂が描かれ、
講堂には銅造薬師如来立像が安置されていました。
銅造薬師如来立像は奈良時代末から平安時代初期の作で、
現在は奈良国立博物館に寄託されています。
講堂の北と東西に僧房が描かれ、東僧坊の東には七重塔が描かれています。
忍性石碑
北へ進み、かって講堂があったと思われる地には忍性菩薩利生塔があります。
忍性菩薩(1217~1303)は叡尊上人の弟子で、早くから文殊菩薩信仰に目覚め、
貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力しました。
文殊信仰は、弱者救済の中心となります。
白鳳阿弥陀如来の碑
西へ進むと「秘仏白鳳阿弥陀如来」の碑が建っています。
昭和39年(1964)に十三重石宝塔の解体修理が行われた際に党内から発見された、
像高28.8cmの小金銅仏です。
宝蔵への門
その先にあるのが宝蔵堂だと思われます。
秘仏白鳳阿弥陀如来が安置され、期間限定で特別公開が行われています。
地蔵堂
更に西へ進むと地蔵堂があります。
笠塔婆
本堂の方へ戻ると東側に2基の笠塔婆があります。
伊行吉(いぎょうきち)が、父・伊行末の一周忌にあたる弘長元年(1261)に、
一基は父の菩提を弔い、もう一基は母の善行のために建立しました。
北塔の総高は476cm、南塔の総高は446cmで、国の重要文化財に指定されています。
笠塔婆-支え金具
その北側の笠塔婆支え金具は、境内の南方に建立されていた笠塔婆が、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で破壊されたため、
明治25年(1892)に現在地へ移し、修理する際に使用されたものです。
フランス製で、エッフェル塔など大型建造物に用いるために新しく開発された
錬鉄製の金具で、唐草文様がデザインされています。
十三重石塔+薬師
十三重石宝塔の初重軸の東面に薬師如来が刻まれていますが、
その前に薬師如来像が安置され、西国薬師四十九霊場の札所本尊とされています。
経蔵
十三重石宝塔の東側に一切経蔵があります。
鎌倉時代に建立され、国の重要文化財に指定されています。
笠置山が陥落し、般若寺へ逃れたは護良親王は、この経蔵にあった
鎌倉時代の大般若経の経箱(唐櫃)に身を隠し、追手からの難を逃れ、
その後吉野へ逃亡しました。
三界万霊碑
経蔵の南側に戦国時代の三界万霊碑があります。
生きとし生けるものが平等に成仏できるようにと願った供養塔で、
戦国時代の合戦での物故者及び般若野(南都総墓)に葬られた
おびただしい数の亡者を弔ったものとされています。

奈良街道を北へ進み、奈良豆比古神社から天明天皇と元正天皇陵へ向かいます。
続く
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鎌倉時代の伽藍図
自宅を午前9:10に出発してバイクで般若寺へ向かい、
1時間余りで般若寺の駐車場に到着しました。
楼門
現在は駐車所に面して北側に拝観受付がありますが、
かって「京街道」と呼ばれた通りに面して楼門が残されています。
般若寺は奈良市の北方、興福寺から「奈良坂」と呼ばれる登り坂を登りきった所にあり、
山号を法性山と号する真言律宗の寺院です。
西国薬師四十九霊場・第3番と関西花の寺二十五霊場・第17番札所であり、
「コスモス寺」とも呼ばれています。
般若寺は治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで焼失し、衰退しました。
鎌倉時代に真言律宗の宗祖で西大寺の僧・叡尊と観良房良慧(かんりょうぼうりょうけい)に
よって七堂伽藍の再建が行われました。
楼門は鎌倉時代の文永4年(1267)に再建されたもので、日本最古の楼門遺構として
国宝に指定されています。
正門として南大門、中大門があり、楼門は廻廊の西門でしたが、南大門、中大門は
戦国時代の兵火で失われました。
十三重石塔
境内に入った右側に総高14.2m、基壇辺12.3mの十三重石宝塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
十三重石宝塔は天平7年(735)に都を奈良へ遷した聖武天皇が、
平城京の鬼門を守るため『大般若経』を塔の基壇に納め卒塔婆を建てたとされ、
寺名の由来にもなりました。
南都焼き討ちの際に失われ、南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)、
伊行吉らにより建長5年(1253)頃に再建されました。
十三重石塔+薬師
薬師像
基壇には東に薬師、南に釈迦、西に阿弥陀、北に弥勒の
顕教四仏(けんぎょうしぶつ)が刻まれています。
また、宝塔の東側に薬師如来坐像が安置され、
西国薬師四十九霊場・第3番の札所本尊になっています。
相輪
宝塔の脇に初代相輪が置かれています。
南北朝か室町時代の大地震で落下し、三つに割れました。
室町時代の再建時に二代目が新造され、初代は裏山に埋められましたが、
昭和時代に国道(現県道)が旧般若寺境内を分断する形で造られた時に、
工事現場から発見されました。
現在の相輪は昭和の大修理の際に、初代を模して造られた四代目で、
二代目は本山・西大寺本坊の庭で保存されています。
三代目は元禄16年(1703)に青銅製で造られ、現在は般若寺で保存されています。
カンマン石
境内に入った正面にはカンマン石があります。
「カンマン」とは不動明王を象徴する種字(梵字)で、石の上には不動明王像が祀られています。
「この石の突起部にお腹や背中を押し当てると健康が増進する」と記されています。
背後には秋の花だと思っていたコスモスが、初夏にもかかわらず咲き誇っています。
阿弥陀像
コスモスの花の中に阿弥陀仏の石像が祀られています。
まかばら石
参道を楼門の方へ進んだ右側に霊石「まかばら石」が祀られています。
「まかばら」は光明真言に由来し、それを略した「オン・マカバラ・ウン」の呪文を唱え、
石の頂を右回りに3周撫でると、運気が上昇するとの伝承があります。
何時の頃からか境内の片隅にあって、大切に守られてきました。
釈迦像
「まかばら石」の左側に釈迦如来の石仏が祀られています。
護良親王供養塔
阿弥陀仏の石像の手前まで戻り、北側へ進んだ所に、大塔宮・護良親王
(おおおとうのみや・もりよししんのう)の供養塔があります。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に
門室を置いたことから「大塔宮」と呼ばれました。
6歳の頃に当時、岡崎大塔宮敷地に本坊があった梶井門跡(後の三千院)に入り、
正中2年(1325)に門跡を継承して門主となり、嘉暦2年(1327)には天台座主に就きました。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である
元弘の乱を起こすと、還俗して参戦しました。
笠置山で挙兵したのですが、幕府軍に攻められて陥落し、後醍醐天皇は捕えられ、
護良親王は般若寺へと逃れました。
幕府方の追手が五百の兵を率いて般若寺を探索したとき、護良親王は経蔵にあった
大般若経の唐櫃に身を潜めて難を逃れたと伝わります。
その後、護良親王は吉野へと逃れましたが、吉野も陥落し高野山へと落ち延びました。
元弘2年/正慶元年(1332)、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、
同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発しました。
隠岐島へ配流されていた後醍醐天皇も島から脱出し、
伯耆国(ほうきのくに)の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました。
足利高氏(尊氏)が幕府へ反旗を翻したこともあり、
六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。
討幕に勝利し、後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、
兵部卿に任じられて上洛し、足利尊氏は鎮守府将軍となりました。
足利尊氏と確執があった護良親王は、尊氏暗殺のための兵を集めましたが、
後醍醐天皇の命を受けた兵により捕えられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られました。
護良親王は元弘の乱に際し、討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことから、
父・後醍醐天皇との関係は良くなかったとされています。
護良親王は鎌倉将軍府に送られ、尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれましたが、
翌建武2年(1335)、諏訪頼重が鎌倉幕府再興のために挙兵し、中先代の乱を起こしました。
関東各地で足利軍が北条軍に敗れ、鎌倉に護良親王を将軍、北条時行を執権とする
鎌倉幕府が再興され建武政権に対抗する存在になることを恐れた足利直義の命により、
二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は殺害されました。
明治維新後、東光寺跡に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造られました。
鐘楼
供養塔の北方向に鐘楼があり、手前にはアジサイが花を咲かせています。
鐘楼は元禄7年(1694)に再建されましたが、工事の際に地中にあった
石室から如意宝珠が見つかったとの記録が残されています。
現在、如意宝珠は失われ、納められていた箱のみが保存されています。
梵鐘は室町時代の延徳3年(1491)に鋳造されたのですが、興福寺に移され、
西大寺奥之院から江戸時代初期に鋳造されたとみられる現在の梵鐘が移されたと伝わります。
平和の塔
鐘楼の北側に平和の塔があります。
被爆直後の広島の町でくすぶっていた火をカイロに移し、20年後に福岡県星野村の
役場前に平和の塔が建てられ火が移されました。
般若寺には国内で3番目に分火され、昭和64年(1989)に建立されました。
核兵器が廃絶されるまで火は灯し続けられるそうです。
天満宮
平和の塔の奥に天満宮と思われる祠があります。
観良房良慧大徳追慕塔
鐘楼から南方向へ進んだ所に般若寺中興願主上人 
観良房良慧大徳(かんりょうぼうりょうけいだいとく)の追慕塔があります。
治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで焼失し、衰退した般若寺境内で
「大善巧の人(だいぜんぎょうのひと)」が復興を始めました。
その人物の詳細は不明ですが、東大寺の復興に携わった人物と推定されています。
大善巧の人は、十三重石宝塔の基台と初重の大石を積んだところで絶命されました。
基台と初重の軸部はそれぞれ15tの大石となります。
その後、観良房良慧がその遺志を継ぎ建設現場に居住して完成させました。
施工したのは東大寺の復興で重源上人が南宋から招いた伊行末(いぎょうまつ)の
石工集団で、石の切り出し、運搬、彫刻、積み上げと大変な労力と莫大な費用を
要したと推測されます。
また、観良房良慧が願主となり、叡尊上人に率いられた西大寺教団により諸堂の建設と、
仏像が造られました。
文永4年(1267)に諸堂が建立され、本尊の開眼供養が営まれました。
本堂前の石灯籠
本堂の手前右側に立つ総高3.14mの石灯籠は鎌倉時代のものですが、
竿と笠部分は後補となります。
古来「般若寺型」または「文殊型」と呼ばれ、火袋部には鳳凰、獅子、牡丹唐草の浮彫があります。
本堂前の地蔵
本堂の手前左側には水掛地蔵尊が祀られています。
奈良町の住人が宝暦4年(1754)に先祖供養のために造立したもので、
十数年前に東の山中から発見されました。
水掛地蔵尊の右側にある手水石船は、寛文7年(1667)に現在の本堂が
再建された際に寄進されたものです。
本堂
本堂(文殊堂)
般若寺は寺伝では、舒明天皇元年(629)高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされ、
天平7年(735)に聖武天皇が伽藍を建立し、
十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したとされています。
学問寺として千人の学僧を集め栄えましたが、治承4年(1180)の平重衡による
南都焼き討ちで焼失し、衰退しました。
鎌倉時代に西大寺の僧・叡尊と観良房良慧によって七堂伽藍の再建が行なわれ、
鎌倉時代後期には後醍醐天皇の御願により倒幕祈願の文殊菩薩(現在本尊)が造像されました。
像胎内には「金輪聖主御願成就」と記されています。
踏み蓮華石
しかし、延徳2年(1490)の火災で叡尊上人が12年を費やして造立した
丈六の文殊菩薩騎獅像が焼失しました。
本堂前には、その踏み蓮華石が祀られています。
その大きさから獅子の足は直径1mはあったと推定されます。
永禄10年(1567)には東大寺大仏殿の戦いで、
松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失しました。
江戸時代に本堂が再建されるなど復興しましたが、明治の廃仏毀釈で甚大な被害を受け、
寺は荒れ果てて無住となり、西大寺の管理下に置かれるようになりました。
第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されましたが、
客殿は実業家・畠山一清によって東京都港区白金台に移築されました。
観音像
本堂の両側及び背後の左側に西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られています。
江戸時代の元禄16年(1703)に山城国相楽郡(現・京都府精華町)の
寺島氏が病気平癒の御礼に寄進されました。
当初は十三重石塔の基壇上に安置されていましたが、
昭和の大修理の際に現在地に遷されました。
力石
本堂の左側に「般若寺本性房の力石」があります。
本性房は怪力を持った般若寺の僧で、元弘元年(1331)の元弘の乱では笠置山に馳せ参じ、
山上から幕府軍へ大石を投げつけたと伝わり、JR笠置駅前にその像が立っています。
6個の石が並べられ、約20㎏の石は「持てる女石」、約30kgの石は「持てる男石」、
約50kgの石は「持てない石」と名付けられています。
石塔部材群
力石の北側には、鎌倉・室町・戦国時代の石塔部材群が並んでいます。
戦国時代、般若寺の南西700mには、永禄3年(1560)に松永久秀によって築城が開始された
多聞山城(現在は奈良市立若草中学校敷地)がありました。
標高115mでかっては「眉間寺山(びかんじやま)」と呼ばれ、鎌倉時代には眉間寺があり、
付近は墓所でした。
城はそれまでには無かった礎石と石垣を使用して、壁には分厚い土壁、瓦葺の屋根の
恒久的な建物を築いて奈良の街の支配と大和全体を睨んだ拠点の先進的な平山城でした。
城内には本丸(詰の丸)に主殿、会所、庫裏の座敷など豪華な建築が建ち並び、
連結した西の丸は通路沿いに重臣の屋敷や、家臣の家が建てられました。
「高矢倉」と呼ばれた四階櫓がありこれが四重の天守で日本初の天守とされ、
塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりとされています。
永禄7年(1564)に城が完成し、その壮麗さはヨーロッパまで名を知らしめたと伝わります。
永禄8年(1565)、それまで連合していた三好三人衆は筒井順慶と連合し、
松永久秀に向けて進軍を開始しました。
永禄10年(1567)4月に三好連合軍は東大寺に布陣し、
大仏殿を要塞化して多聞城に対峙し南都を制圧しようとしました。
これに対し、松永久秀は同年10月10日に東大寺に襲いかかり東大寺大仏殿の戦いとなりました。
この戦いで松永久秀は勝利したのですが、多聞山城から東大寺周辺の屋敷地を破却しつつ
布陣した久秀の兵火により、般若寺の主要伽藍を焼失しました。
永禄10年(1567)9月織田信長は足利義昭を奉じて上洛し義昭を将軍位に就けました。
当初、松永久秀は織田信長に服属したのですが、足利義昭が画策した信長包囲網に加わり、
天正元年(1573)に織田軍に多聞山城を包囲され降伏しました。
天正4年(1576)に織田信長は大和の守護に筒井順慶を任命し、
郡山城以外の城の破却を命じました。
多聞山城の建物は解体されて京都に運ばれ、旧二条城に活用されましたが、
本能寺の変の際に織田信忠と共に焼失しました。
諸石類は筒井城の石垣に、後に郡山城に転用されました。
般若寺に残る石塔部材群は多聞山城跡の住宅地(かっての般若野)から
寺へ奉納されたものと考えられています。
南朝の石碑
本堂の裏側を西へ進んだ所に「南朝御聖蹟 般若寺」と刻字された石碑が建っています。
南北朝時代、般若寺は南朝側に与(くみ)していました。
地蔵堂
参道の北側には地蔵堂があります。
宝蔵への門
本堂の裏側に参道を挟んで門があり、鎌倉時代にはこの奥に講堂があり、
薬師如来が祀られていました。
門の手前に「秘仏 白鳳阿弥陀如来」と刻字された石碑が建っています。
昭和39年(1964)に十三重石宝塔の解体修理が行われた際に党内から発見された、
像高28.8cmの小金銅仏です。
宝蔵
現在の般若寺の境内図にはこの門を入った右側に宝蔵があると記されていますが、
これがその宝蔵でしょうか?
見た目にはここにその秘仏が保管されているかは疑問に思えます。
八不亭
本堂の裏側にお休み処の「八不亭(はっぷてい)」があります。
八不亭の名は『中論』「八不の偈(げ)」、「不生不滅、不常不断、不一不異、
不来不去(ふこ)」に由来しています。
『中論』は日本では八宗の宗祖と崇められているインドの大乗仏教を理論づけた
龍樹(りゅうじゅ)の著作です。
龍樹の『中論』『十二門論』、その弟子・提婆(だいば)の『百論』を合わせた「三論」を、
中国・隋代に嘉祥大師吉蔵(549年~623年)が『三論宗』として大成させました。
般若寺を開基した高句麗の僧・慧灌(えかん)は、吉蔵から三論を学び、
日本に初めて『三論宗』を伝えました。
鎮守社
本堂裏の参道を東に突き当たった所に桃山時代の鎮守社があり、
伊勢・春日・八幡の三社が合祀されています。
真言律宗では、伊勢は金胎両部の大日如来の垂迹神、春日は法相の垂迹神、
八幡は仏教の守護神とされています。
忍性石碑
鎮守社前を北へ進んだ先に「忍性菩薩利生塔」があります。
忍性(にんしょう)は鎌倉時代の建保5年7月16日(1217年8月19日)に
現在の奈良県磯城郡三宅町で生まれました。
貞永元年(1232)に死の床にあった母の懇願により、大和国・額安寺(かくあんじ)に
入って出家し官僧となり、天福元年(1233)には東大寺戒壇院にて受戒しました。
延応元年(1239)に叡尊が主導していた西大寺の再建に勧進聖として加わり、
叡尊に惹かれて再度叡尊の下で受戒してその弟子となりました。
寛元元年(1243)、般若寺の北東に北山十八間戸を創設し、
ハンセン病などの重病者を保護・救済しました。
北山十八間戸は永禄10年(1567)の東大寺大仏殿の戦いで焼失し、
寛文年間(1661~1672)に奈良市川上町454の現在地に移りました。
全長約38m・幅約4mの東西に長い棟割長屋で、内部は18室に区切られ、
東西に仏間があります。
大正10年(1921)3月3日に国の史跡に指定されました。
寛元2年(1244)には亡母13回忌追善供養として文殊供養と非人に施粥を行いました。
また、般若寺に丈六の文殊菩薩像を安置しました。
その後、建長4年(1252)には本格的な布教活動のために関東へ赴き、
弘長元年(1261)に鎌倉に拠点を置くと、文永4年(1267)に極楽寺を開山しました。
永仁2年(1294)に四天王寺別当に任命され、悲田院・敬田院を再興し
石の鳥居を築造しました。
嘉元元年(1303)、極楽寺において87歳で亡くなり、
嘉暦3年(1328)に後醍醐天皇より忍性菩薩の尊号を勅許されました。
笠塔婆
忍性菩薩利生塔から南へ進み、本堂の右側(東側)に鎌倉時代の笠塔婆二基があり
、国の重要文化財に指定されています。
右側の南塔の総高4.46m、左側の北塔の総高4.76mあり、
笠塔婆形式の石塔では日本最古の作例とされています。
弘長元年(1261)7月に石工・伊行吉(いぎょうきち)が父・伊行末の一周忌に当り
その追善と現存の悲母の供養のために建立しました。
当初は寺の南方にあった般若野五三昧(南都総墓)の入口、京街道に面して建っていましたが、
明治の廃仏毀釈で破壊され、明治25年(1892)に般若寺境内に移設・再建されました。
室町時代の頃には平重衡の墓とみられ、能の謡曲「笠卒塔婆」の題材となりました。
笠塔婆-支え金具
笠塔婆の左側にある笠塔婆の支え金具は、明治25年(1892)の再建時に使用されたもので、
1889年にパリ万博のエッフェル塔用の鋼材して開発された錬鉄製で、フランスで製作されました。
昭和33年(1958)の再修理の際に取り外されました。
藤原頼長供養塔
笠塔婆の南側に藤原頼長の供養塔があります。
藤原頼長は保安元年(1120)5月に藤原北家、
摂政関白太政大臣・藤原忠実の三男として誕生しました。
頼長は少年時代に父親の言葉を聞かなかったため落馬し、この頃から学業に励むようになり、
その後、「日本一の大学生(学者)、和漢の才に富む」と言われるほど
その学識の高さを賞賛されました。
頼長の日記『台記』は当代随一の学識者による同時代の記録であり、
院政期の歴史を研究するうえでの貴重な基礎資料となっています。
但し、文学には疎く、和歌や漢詩も得意ではなかったとされています。
自他共に厳しく苛烈な性格で、「悪左府」と呼ばれましたが、この「悪」も現代でいう
「悪い」という意味ではなく、むしろ性質・能力・行動などが型破りであることを畏怖した表現です。
出世を重ねて要職を歴任し、保延2年(1136)には内大臣、久安5年(1149)には左大臣に進みました。
天治2年(1125)に頼長は後継者に恵まれなかった兄・忠通の養子となりましたが、
康治2年(1143)に忠通に嫡男・藤原基実が生まれると、忠通と頼長は対立するようになり、
頼長を推す忠実と忠通も対立しました。
忠実は一家の後継を意味する宝物・朱器台盤を、忠通から奪取して頼長に与え、
これにより頼長は氏長者(藤原一門の長)・内覧(天皇の奏聞・宣下に先立って
朝廷の重要文書に目を通し、天皇に報告・補佐する役職)となりました。
執政として儒学を重視し、政治の刷新や粛正を厳格に推し進め、会議に遅刻した
公卿の屋敷を燃やしたり破壊させたり、反対派を暗殺するなど、他の貴族や寺社との
反発や対立を多く生み、その苛烈振りに鳥羽法皇とも対立するようになりました。
久寿2年(1155)7月23日に近衛天皇が崩御すると、頼長と忠実が呪詛したからだと噂が広がり、
頼長は謹慎、内覧は停止されました。
この間に皇位継承は、頼長と対立していた美福門院や信西の策動で
守仁親王(後の二条天皇)の中継ぎとして雅仁親王(後の後白河天皇)が即位しました。
保元元年(1156)に鳥羽法皇が崩御すると、その直後に頼長に謀反の疑いがかけられ、
財産が没収されました。
この事態に頼長は崇徳上皇を擁して挙兵を決断し、源為義・為朝父子や
平忠正(平氏の棟梁平清盛の叔父)を味方につけましたが、
その戦力は摂関家の私兵集団に限定され、甚だ弱小で劣勢は明白でした。
後白河天皇も藤原氏・源氏・平氏の味方を集め、源義朝と平清盛が崇徳院側の本拠地に
夜襲を仕掛け、一晩のうちに崇徳院側は総崩れとなり、
頼長は敗走中に矢に当たり、重傷を負いました。
最後の頼みの綱であった奈良の忠実の元へ向かうが、面会を拒まれ、失意の内に力尽きました。
遺骸は般若野に埋葬されましたが、信西の命によって暴かれ、
検視されるという恥辱を受ける羽目となりました。
保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われましたが、
安元3年(1177)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が都で連発し、
朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐れるようになりました。
同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を
「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈されました。
経蔵
藤原頼長の供養塔の南側に経蔵があります。
鎌倉時代に再建されましたが、解体修理の結果、当初は床の無い全面開放の
建物であったことが判明し、何に使われていたかは不明です。
鎌倉時代末期に経蔵に改造され、国の重要文化財に指定されています。
元弘の乱の際は、護良親王は経蔵にあった大般若経の唐櫃に身を潜めて難を逃れたと伝わります。
本尊として室町時代作の十一面観音像が安置されていますが、旧超昇寺の脇仏でした。
三界万霊碑
経蔵の南側に戦国時代の三界万霊碑があります。
生きとし生けるものが平等に成仏できるようにと願った供養塔で、
戦国時代の合戦での物故者及び般若野(南都総墓)に葬られた
おびただしい数の亡者を弔ったものとされています。

笠置寺へ向かいます。
続く

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